構内に茂る木の葉が徐々に色褪せ、1枚、また1枚と風にさらわれていくのを、講義室の窓からぼんやりと眺めていた。
10月になった途端、気温は大して下がっていないのに肌に感じる風は冷たいものに変わって、朝や夜は少し寒いくらいだ。半袖から長袖にすっかり衣替えして、目に映る景色も少しずつさみしいものに変わっていく。季節の境目の時期はなんとなく物憂げで、わけもなく気だるくて、心の根底にある義務感だけで、かろうじて体を動かしている。最近のわたしは、そんな感じ。
長い長い夏休みが明け、後期の講義が始まった。金曜日、2限目。「日本古典購読基礎論」は、石清水八幡宮の効果もあってか、前期より受講する学生が増えた気がする。それは間崎教授がお目当てか、それとも簡単に単位をもらえるからなのか。1番窓際、後ろから3列目。4月からずっと変わらない定位置で、わたしはノートを広げていた。
コツコツと上品な音を響かせて、前方の扉から、ひとりの男性が姿を現した。前回会った時より少し髪が短くなっている。その外見と滲み出る聡明さが、この古びた講義室ではなんだか浮いていた。前から思っていたけれどこの人は、この大学では異質な存在。他のどの教授とも違う。外見だけではなくて、まとっている空気かしら。波一つない海のような、音のないコンサートホールのような、そんなふしぎな雰囲気を持っている。
「ずいぶん、久しぶりな気がしますね」
そうやって外面だけは穏やかで、上品な笑みをたたえて。わたしも最初はその外見と穏やかな物腰にずいぶんと騙されたものだ。わたしの方なんて見向きもしない。これは付き合う中で分かったことなのだけれど、この人は講義中どこも見ていない。学生の表情にちっとも興味を示さない。教室に漂う埃を追うかのようにぼんやりと空気を眺め、そして手元にある教材を暇つぶしのように読んでいる。
だけどこの日は、その分厚い教材を開くことなく、こんなことを言ったのだ。
「この講義は、みなさんの将来に役立ちません」
指導者にはあるまじき発言に、教室がざわめいた。友人同士で顔を見合わせたり、首を傾げたりしている。わたしは大して驚きもせず、いつものようにじっとその顔を見つめている。
「文学というものは、就職活動に役立つわけでもないし、なければないで困ることは何もない。物語というものは、世の中の役に立つようにはできていないのです」
そうなのです。この人、どこか冷めているのです。穏やかとか優しいとか、他の学生は言うけれど。誰に対しても平等なのは、誰に対しても興味がないからなのです。この人の興味はいつだって、文学や、歴史や、写真にあるのです。
「ですが、人の心を動かすものは、いつだって芸術なのです。言葉や、物語や、写真や、風景や歴史。役に立たないものこそが心を揺るがし、人生に影響を与えるのです。だからこそあなたたちは、単位を取ることにこだわるのではなく、大学の外に飛び出し、いろいろな場所を巡りなさい。せっかく歴史深い土地にいるのだから、ノートを開くより、歴史ある場所を巡り、過去の人々の思いを感じなさい。それがきっと、あなたの将来を大きく変えるでしょう」
川の流れのようにさらりと、けれど、岩を穿つ滝のように強い教授の言葉に、誰もが息を潜めて耳を傾けた。それは今までの、よくも悪くも「優等生」な内容とは違う、心からの言葉に感じられた。
教授は机に置いたばかりの教材を手に持ち、にこりと微笑んだ。
「ということで、本日の講義は以上。私は今からチェルキオに行ってきます」
わっと教室全体が沸いた。学生たちは意気揚々と立ち上がって、談笑しながら教室から出ていった。教授はのんびりと学生に紛れて去っていく。わたしはため息を一つついて、教授の背中を追いかけた。
外に出ると、南キャンパスの門前あたりに教授が立っていた。後ろを振り返り、声を出さずにわたしを呼ぶ。わたしが来ることを当然のように思っているのだから、まったく、たちが悪い。
「……あんなことを言って。講義の準備をしていなかっただけでしょう」
「よく気づいたね」
いたずらを見破られた子供のように、教授が口の端を上げた。本当に、ずるい人。
「チェルキオって?」
「すぐそこにあるパン屋のことだよ。豆腐のメロンパンがおいしくてね。今日は絶対店内で食べようと決めていたんだ」
長い足がコンクリートを踏んで動き出す。まだ他では講義が行われているというのに。
「君も行くでしょう、琴子さん。『宿題』の答えを聞かないと」
しかたないなぁ、と、肩をすくめ、わたしは教授の隣を歩き始めた。
キャンパスにいる大勢の学生を置き去りに、わたしたちは外へ飛び出そうとしている。こんなにも空が青いのに、教室に閉じこもることなんてできないの。
この夏休みに訪れた場所。おさめた写真。感じた思い。
ああ、話したいことが、たくさんあるわ。
10月になった途端、気温は大して下がっていないのに肌に感じる風は冷たいものに変わって、朝や夜は少し寒いくらいだ。半袖から長袖にすっかり衣替えして、目に映る景色も少しずつさみしいものに変わっていく。季節の境目の時期はなんとなく物憂げで、わけもなく気だるくて、心の根底にある義務感だけで、かろうじて体を動かしている。最近のわたしは、そんな感じ。
長い長い夏休みが明け、後期の講義が始まった。金曜日、2限目。「日本古典購読基礎論」は、石清水八幡宮の効果もあってか、前期より受講する学生が増えた気がする。それは間崎教授がお目当てか、それとも簡単に単位をもらえるからなのか。1番窓際、後ろから3列目。4月からずっと変わらない定位置で、わたしはノートを広げていた。
コツコツと上品な音を響かせて、前方の扉から、ひとりの男性が姿を現した。前回会った時より少し髪が短くなっている。その外見と滲み出る聡明さが、この古びた講義室ではなんだか浮いていた。前から思っていたけれどこの人は、この大学では異質な存在。他のどの教授とも違う。外見だけではなくて、まとっている空気かしら。波一つない海のような、音のないコンサートホールのような、そんなふしぎな雰囲気を持っている。
「ずいぶん、久しぶりな気がしますね」
そうやって外面だけは穏やかで、上品な笑みをたたえて。わたしも最初はその外見と穏やかな物腰にずいぶんと騙されたものだ。わたしの方なんて見向きもしない。これは付き合う中で分かったことなのだけれど、この人は講義中どこも見ていない。学生の表情にちっとも興味を示さない。教室に漂う埃を追うかのようにぼんやりと空気を眺め、そして手元にある教材を暇つぶしのように読んでいる。
だけどこの日は、その分厚い教材を開くことなく、こんなことを言ったのだ。
「この講義は、みなさんの将来に役立ちません」
指導者にはあるまじき発言に、教室がざわめいた。友人同士で顔を見合わせたり、首を傾げたりしている。わたしは大して驚きもせず、いつものようにじっとその顔を見つめている。
「文学というものは、就職活動に役立つわけでもないし、なければないで困ることは何もない。物語というものは、世の中の役に立つようにはできていないのです」
そうなのです。この人、どこか冷めているのです。穏やかとか優しいとか、他の学生は言うけれど。誰に対しても平等なのは、誰に対しても興味がないからなのです。この人の興味はいつだって、文学や、歴史や、写真にあるのです。
「ですが、人の心を動かすものは、いつだって芸術なのです。言葉や、物語や、写真や、風景や歴史。役に立たないものこそが心を揺るがし、人生に影響を与えるのです。だからこそあなたたちは、単位を取ることにこだわるのではなく、大学の外に飛び出し、いろいろな場所を巡りなさい。せっかく歴史深い土地にいるのだから、ノートを開くより、歴史ある場所を巡り、過去の人々の思いを感じなさい。それがきっと、あなたの将来を大きく変えるでしょう」
川の流れのようにさらりと、けれど、岩を穿つ滝のように強い教授の言葉に、誰もが息を潜めて耳を傾けた。それは今までの、よくも悪くも「優等生」な内容とは違う、心からの言葉に感じられた。
教授は机に置いたばかりの教材を手に持ち、にこりと微笑んだ。
「ということで、本日の講義は以上。私は今からチェルキオに行ってきます」
わっと教室全体が沸いた。学生たちは意気揚々と立ち上がって、談笑しながら教室から出ていった。教授はのんびりと学生に紛れて去っていく。わたしはため息を一つついて、教授の背中を追いかけた。
外に出ると、南キャンパスの門前あたりに教授が立っていた。後ろを振り返り、声を出さずにわたしを呼ぶ。わたしが来ることを当然のように思っているのだから、まったく、たちが悪い。
「……あんなことを言って。講義の準備をしていなかっただけでしょう」
「よく気づいたね」
いたずらを見破られた子供のように、教授が口の端を上げた。本当に、ずるい人。
「チェルキオって?」
「すぐそこにあるパン屋のことだよ。豆腐のメロンパンがおいしくてね。今日は絶対店内で食べようと決めていたんだ」
長い足がコンクリートを踏んで動き出す。まだ他では講義が行われているというのに。
「君も行くでしょう、琴子さん。『宿題』の答えを聞かないと」
しかたないなぁ、と、肩をすくめ、わたしは教授の隣を歩き始めた。
キャンパスにいる大勢の学生を置き去りに、わたしたちは外へ飛び出そうとしている。こんなにも空が青いのに、教室に閉じこもることなんてできないの。
この夏休みに訪れた場所。おさめた写真。感じた思い。
ああ、話したいことが、たくさんあるわ。