「吉田山の山頂に、『茂庵』という喫茶店があります」

そんな教授の言葉を思い出したのは、ゴールデンウィークに入って3日目の朝だった。ぱちっと目が覚めて、真っ白な天井を見た時、なぜかその言葉がふっと脳裏に響いたのだ。どうしていきなりそんなことを思い出したのかは分からない。別に教授と親しいわけでもないし、講義の夢を見ていたわけでもない。時計を見るともう昼の12時を過ぎていて、人は一度スイッチが切れるといつまでも寝ていられる生き物なんだな、と、ぞっとした。わたしはのろのろと布団から這い出て、顔を洗うため洗面所へと向かった。

間崎教授はわたしの通う大学の教授で、金曜二限目の講義「日本古典講読基礎論」を担当している。大学教授の中ではかなり若く、30代半ばとかそのくらいなんじゃないか、って勝手に思っている。身長も高くて、容姿も俳優みたいに整っているので、新入生の間ではちょっとした噂になっていた。

わたしはというと、まぁ確かに話題になるのもむりはないかなぁ、とは思ったけれど、それ以上興味を示すこともなく、あくまで真面目に教授の講義を受けていた。伊勢物語の主人公は在原業平がモデルとされていて、原文は残っていなくて、うんたらかんたら。まだ始まったばかりの講義はそんなに難しい内容でもないし、高校時代と違ってあてられることもないから、まわりの学生の中には居眠りなんかしちゃってる人もいる。教授はそんな学生の方なんて見向きもせず、与えられた職務を全うするかのように、ただ伊勢物語の解説をするだけだ。表情は穏やかなんだけど、雑談をするどころか誰とも目を合わせようとしないから、人というものに興味がないのかもしれない、なんて思っていた。

だけど、この間は違った。講義の終わりに、いきなり教授はこう言ったのだ。

「吉田山の山頂に、『茂庵』という喫茶店があります。新緑に囲まれた空間で、アイスコーヒーを飲むのがすきなんです」

吉田山とは、大学のすぐ近くにある山のことだ。何でそんなことを言うんだろう、と、わたしは少なからず驚いた。というのも、教授が講義に関係のない話をしたのはこれが初めてだったからだ。「みなさんもぜひ行ってみてください」とか、「おすすめですよ」なんて言葉はつけ足さなかった。ひとりごとみたいな口ぶりだった。教授はそれだけ言うと、終わりも告げずに講義室から出ていった。

めずらしいことだったから、印象に残っていたのかもしれない。とにかく、今日の目覚めはそんな感じだった。ヨシダヤマ、モアン、アイスコーヒー。その三つの単語が、呪文のように脳みその中でぐるぐると回っている。新緑に囲まれた空間って、どんな感じだろう。わたし、どっちかと言えば紅茶派なんだけど、アイスティーもおいしいんだろうか。そんなどうでもいいことを考えながらオーブントースターで食パンを焼き、コップに牛乳をたぷたぷと注いでいく。テレビをつけようとしたら、リモコンがどこにも見当たらなかった。部屋の隅にはまだ段ボールが積んであるし、床には講義で使う参考書やら脱ぎ捨てた服やらが散乱している。さすがにこれは18歳女子の部屋としてはだめなんじゃなかろうか。食パンのカスをぼろぼろと太ももの上にこぼしながら、わたしはちょっとした危機感を抱いた。まずい。このままではかなりまずい。3日連続高校時代のジャージを着ているし、まったく外の光を浴びていないし。18歳のゴールデンウィークを、こんな怠惰に過ごしていいのか。いや、いいはずがない。

今日こそは外に出よう、わたしという女が干からびる前に。そう決意して、わたしは食パンの切れ端を口の中に放り込んだ。
 




 わたしが京都に引っ越してきたのは、一ヶ月とちょっと前のことになる。将来なりたい職業とか、絶対に学びたいことなんてないけれど、昔から歴史はすきだったし、日本文化のたくさん詰まった場所で暮らしてみたいなぁ、という単純なあこがれだけで、京都の大学に進学を決めた。受験勉強はつらかったけれど、合格した時の喜びは一入で、ひとり暮らしの部屋を決めたり、新しい家具を選んだりする時だって、大変そうな母を尻目にへらへらと笑っていたものだった。大学に入ったらまず何をしよう。せっかく京都に来たんだから、鴨川沿いを優雅に散歩したり、春の特別拝観に行ってみるのもいい。きっと、桜がきれいなんだろう。たくさん写真を撮るために、愛用の一眼レフも持っていこう。……そう思っていたはずなのに、現実はうまくいかなかった。

実家から荷物を運んだだけで、どうして生活環境が整ったと思ってしまったのか。調味料やティッシュ、その他細々とした日用品を買い揃えなければいけないのには骨が折れた。百円ショップに行こうにも場所が分からない。ゴミを出そうにもいつ出していいのか分からない。毎回の食事も自分で用意しなければいけないし、朝だって誰も起こしてはくれない。その上、大学生活だって初めてのことだらけだ。履修登録をするためにいろいろな講義に顔を出したり、サークルの新入生歓迎会に強引に連れていかれたりと、朝から晩まで落ち着く暇がなかった。その結果、部屋の掃除はままならず、気づけば桜も散っている始末だ。その上、散々見学しておいてサークルは入らずじまいだし。忙しさは生活すべてをしっちゃかめっちゃかにしていくから、いやだ。

目まぐるしく一ヶ月が過ぎてしまったので、待ちに待った大型連休がやってきても、今までの疲れがどっと出たのか、着替えもせずに寝てばかりの日々だった。なので、ジャージからちゃんとした服に着替えて外に出ると、眩しすぎる太陽光に吸血鬼さながらに怯えてしまった。ついこの間あたたかくなってきたと思っていたのに、いつのまにかこんなに気温も上がっていたのか。本当に、意識していないと季節はどんどん過ぎてしまう。

大学のキャンパスに自転車を停めたわたしは、教授の言う「茂庵」を目指し、吉田山を登っていった。大学の正門からすぐのところにあるその山には、吉田神社もあるからだろうか、お年寄りから若者まで多くの人が歩いていた。わたしだって来ようと思えばすぐに来ることができたはずなのに、忙しさに追われて、その一歩が踏み出せなかったのだ。

吉田山には背の高い木々が生い茂っていて、みずみずしい空気と土のにおいがした。直射日光だと暑いけど日陰だと気温もちょうどよくて、マイナスイオンみたいなものをびしばしと感じる。おとぎ話みたいに鳥がちゅんちゅんとさえずる声や、春風に揺れる木々の音が絶えず鼓膜を揺らしてきて、思わず大きく深呼吸した。

こんな風にゆっくり歩くの、いつ以来だろう。去年は受験勉強で忙しかったし、引っ越してからも全然心に余裕がなくて、散歩すらできていなかった。自分が思っているよりもずっと、わたしはこういう時間を求めていたのかもしれない……なんて余裕ぶって歩いていたのもつかの間。10分も歩いた頃には息も絶え絶えになり、両足ががくがくと震え出した。勾配はゆるやかなのだけれど、運動不足のわたしには少々キツいものがある。かろうじて道があるとはいえ、これはもう完全に登山だ。こんなところに喫茶店なんてあるんだろうか、もしかしてわたし、からかわれただけなんじゃないか、とか考えているうちに、ようやく目の前にそれらしき看板が見えてきた。今のわたしには砂漠に現れたオアシスみたいに見える。わたしは重たくなった足を引きずりながら、看板に向かって歩いていった。

木々の中に、木造2階建ての建物が立っていた。「茂庵」と書かれたのれんが、ぱたぱたと風に揺れている。本当に、あった。ホームページも確認してきたし、あるのは分かっていたんだけど、実際に目にするとやっぱり驚いた。だって、ここ、本当に山の中なんだもん。他に建物もないし、あたりまえだけど車だって走っていないし。山を登り始めた時にはあれだけたくさん人がいたのに、ここまで来ると人影一つない。だけど2階の窓にはオレンジ色の明かりが灯っているから、確かに営業中らしい。わたしはおそるおそる店の扉を開けた。

そこには赤い座布団が敷かれた椅子がいくつかあるだけで、人の姿は見えなかった。どうやら1階は待合室のようだ。2階からは楽しげな笑い声が聞こえてきて、この上には何があるんだろう、どんな空間なんだろう、と、久しぶりに胸が高鳴った。靴箱に靴を入れて、わたしはゆっくりと階段を上っていった。

「いらっしゃいませ」

2階に着くと、すぐに店員に声をかけられた。人がいっぱいの店内を見渡して、彼女は困ったように眉を下げた。

「申し訳ありませんが、ただいま満席でして……相席でもよろしいですか」

「あっ、はい」

思わずうなずいてしまった。いくら休日とはいえ、こんな山奥にある喫茶店が満席なことに驚いた。茂庵って、そんなに有名なんだろうか。

店内にはカウンター席、ソファー席、それにテーブル席があった。カウンター席からは京都市中が一望できるようで、とっても眺めがいい。だけどわたしが案内されたのは、山に面した四人がけのテーブル席だった。

なんだ、ちょっぴり残念。そう思った矢先、先客の男性が、読んでいる本から顔を上げた。

あっ。わたしは慌てて漏れそうになった声を飲み込んだ。

そこにいたのは、間崎教授だった。見間違いかと思ったけれど、こんなところで「伊勢物語解釈論」なんてお堅い本を開いている人は、教授くらいしか思いつかない。その猫みたいなくせっ毛も、知的な眼鏡も、全部見覚えがある。相席って、よりによって、何でこの人と? 気まずい、気まずすぎる。だけど、教授はそんなわたしの心中など気にも留めないように、ちらっとわたしを一瞥して――それから、何事もなかったように再び本に視線を戻した。

そうか、そりゃそうだよね。わたしはひとり納得して、教授の反対側に腰かけた。わたしは教授を知っているけれど、教授がわたしを認識しているとは限らない。講義室は広いし、他にも受け持っている講義はあるだろうし、一学生であるわたしの顔なんて、覚えているわけがないのだ。安心したような、だけどなんだかちょっぴり残念な、変な感じ。ここはわたしも、挨拶などせずに他人としてやり過ごそう。そう気持ちを切り替えて、アイスティーを注文した。

教授は一体いつからここにいたんだろう。テーブルの上に置かれているアイスコーヒーは、教授が過ごした時間を知らせるように、半分くらい減っていた。

「新緑に囲まれた空間で、アイスコーヒーを飲むのがすきなんです」

目の前のこの人に言われた言葉を、また思い出した。古い友人のように、声が、反響した。

その言葉通り、青々とした新緑が、店全体を覆うように窓から顔を出していた。ここが2階だからなのかもしれない。席に着いているのに揺りかごに揺られているような、心地よい浮遊感に包まれている。さっきまで車や自転車が走るような場所にいたのに。たった15分ほど山を登っただけで、別世界に来てしまったみたいだ。足の疲れも気づいたらもう感じなくなっている。運ばれてきたアイスティーが、わたしの喉を優しく潤していった。

他の席からは、楽しげな笑い声が溢れていた。みんな、この店の特別な雰囲気を楽しんでいるようだった。わたしだけ、わたしと教授だけが、凪いだ海のように静かに、ただ向かい合っている。当然だ。だって別に、友だちじゃないし、会話をするつもりもないし。確かに教授と学生、という関係性はあるけれど、きっと教授はわたしの顔すら知らないだろう。ひとりとひとりが向かい合って座っている、そう、ただそれだけだ。

ぼんやりと外を眺めていたら、遠い山に何かが見えた。よくよく目を凝らしてみると、それは「大」という文字だった。京都で「大」といえば、あれしかない。五山の送り火で燃え上がる大文字山だ。こんなところにあるなんて、全然知らなかった。

わたしは思わず笑みを漏らした。カウンター席じゃなくて残念、なんて思った自分がばかだった。この席に案内されていなければ、大文字山がこんなところにあるなんて知らないままだっただろう。教授に言われなければ気づかなかった。大学のすぐ近くに、こんなに素敵な喫茶店があるなんて。

ふと見ると、本を読んでいたはずの教授も、同じように大文字山を眺めていた。他の席にいる人たちのように、言葉を交わすことなんてない。笑い合うこともない。それでもきっと、同じ気持ちを共有しているのだ。教授のことなんて全然知らないけれど、なぜだろう、そう強く感じた。

心地よい沈黙が、春の光のように優しくわたしたちを包んでいる。ああ、いつまでもこうしていたいなぁ。勉強も家事も人付き合いも忘れて、ぼんやりとしていたいなぁ、なんて、子供のようなことを思った。





どのくらい時間が経ったのだろう。

うとうとしていたわたしは、ガタン、という音ではっと目を覚ました。気がつくと、目の前にあったアイスコーヒーはすでにからっぽになっていて、教授がレジで会計をしているところだった。わたしの方なんて見向きもせずに、さっさと階段を降りていく。

教授の姿が消えると、自然と口から大きな息が漏れた。なんだか、変に緊張してしまった。こんなに気を張る必要なんてなかったのに。わたしは名もなき「学生A」で、教授にとっては、たまたま相席になっただけの存在なのだ。それにまさか、自分の一言に動かされてここまでやってきた人間がいるなんて、夢にも思わないだろう。携帯電話に表示された時刻を見ると、もうここに来て一時間も経過していた。こんなにのどかな空間にいたら、ついつい時の流れを忘れてしまう。残りのアイスティーを喉に流し込んで立ち上がると、さっきまであったはずの伝票がない。あれ、どこかに落としたっけ。それとも、最初からなかったっけ。きょろきょろしながらレジへ近づくと、店員がふしぎそうに首を傾げた。

「お代はもういただきましたよ」

「えっ? そんなはず……」

ない、と言いかけて、はっとした。慌てて振り向いたけれど、もうその人の姿はどこにもなかった。

何も言わなかったくせに。目すら、合わせなかったくせに。一体どういうつもりなんだろう。そう考えて、ああ、と気づいた。

他人と思っていたのは、わたしの方だったのか。