「あれ、水坂じゃん! 今帰り?」
「……夏谷くん……!」
私はコクコクと首を縦に振った。今日もたまたま夏谷くんと帰宅する時間が被り、話しかけられた。好きだと自覚してから、夏谷くんのことをつい目で追ってしまうし、すごく意識してしまう。
それにいつにも増して、夏谷くんのことが更にかっこよく輝いて見える。もちろん夏谷くんは元々かっこいいし、女子達からもちやほやされる程人気。でもそれよりも、私は夏谷くんのことを好き、なんだと思う。
「びっくりさせちまった? ごめんな」
「えっ、と、全然大丈夫だよ! 夏谷くんも今帰りっ?」
声が上擦ってしまう。しょんぼりと悲しんでいる夏谷くんを見て、私はまたドキドキしている。夏谷くんのこんな一面を知れてとても嬉しい。
――私また、別人のような顔をしているのだろうか。笑顔を、作らないと、笑顔を。
「……今、帰り。もう暗いから水坂の家まで送ってくよ」
「え、でも悪いよ……夏谷くんだって暗いし危ないじゃん」
「……馬鹿」
馬鹿。そう言われたのは初めてだ。私は勉強も学校も家庭の生活も、人生も。何もかも完璧にできるよう、頑張ってきた。だから“馬鹿”と言われるのは心が痛い。
――夏谷くん、私のこと馬鹿って思ってるのかな。
「私って馬鹿なのかな」
「え、ごめん、そういう意味じゃなくて――」
「……やっぱりもう遅いし迷惑かけちゃうから、一人で帰るね。気遣いありがとう、夏谷くんじゃあね」
頑張って笑顔を作って、いつもの横断歩道で夏谷くんに別れを告げる。涙を見せないように、駆け足で家に帰った。
――さっき夏谷くんが言いかけていたこと、何だったんだろう。
“そういう意味じゃない”って言ってた。けれど私が馬鹿なのは変わらない。
いつもヘラヘラ作り笑いをして、人に嫌われないように自分を隠して。馬鹿なのは私が一番分かっている。でも……。
好きな人にそう言われるのは、ものすごく悲しかった。
「ただいま」
「おかえりなさい、愛海ちゃん」
「愛海お姉ちゃんおかえり!」
どうしてだろう。いつにも増して頭がふわふわしているし、吐き気が治まらない。とりあえずいつもの日課だから、写真のお母さんに「ただいま」と心の中で呟く。
けれど、やはりまだ吐き気は治まらなかった。どんどん気持ち悪さが込み上げてくるばかりで、その場に立っているのですらきつかった。
――なんで? 夏谷くんとのことが、原因なの?
「愛海ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「あ……ちょっと、体調が悪くて。すぐ治ると思うので、少しだけ部屋で寝てきます」
私は無理して笑顔を作った。流石に今日は、これが作り笑いだって分かってしまうだろうか。きっとお母さんだったら分かるんだろうな……。
『愛海、顔色悪いよどうしたの?』
『笑いたくないときは無理して笑わなくていいんだよ』
『今日嫌なことあったの? お母さんに聞かせて』
私が学校で嫌なことがあったとき、いつもお母さんが悩みを聞いてくれた。逆に楽しいことがあったとき、お母さんも楽しそうに聞いてくれた。愛海が笑顔でいるとお母さんも笑顔になる、そう言っていた。
『愛海、ずっと笑顔でいてね。約束だよ』
お母さんの死期が訪れたとき。最期、お母さんは私の手を握りながら放った言葉がフラッシュバックする。
その言葉が脳内に強くインプットされる。私はお母さんとの約束を守らなければいけない。だからずっと笑顔で生きる。たとえ、作り笑いだとしても。
――八月八日は、お母さんの命日。去年まではお父さんと一緒にお墓へ行っていたが、今年はとうなるのだろうか。友里香さんや沙耶香ちゃんと四人で行くことになる……?
想像をしただけで吐き気が増した。それだったら一人で行く方が全然いい。お母さんも、新しい家族で行くよりも私とお父さんが来たほうが嬉しいよね……?
どうしてお母さんが選ばれてしまったのだろう。どうしてお母さんが死ななければならなかったのだろう。ずっとずっとそう考えてしまった。私はベッドに横たわりながら、悲しみに暮れていた。
――あれ、今何時だっけ。
部屋にある時計を見ると、もう午後の7時だった。どうやら私は、二時間くらい寝てしまっていたらしい。手鏡を見ると目が充血して腫れていて、別人のようだった。
――また私、別人みたい……。笑顔、えがお、エガオ……。
笑顔という言葉が嫌いになりそうなくらい、何度も脳内に再生した。もう何度繰り返しただろう。どうしてみんな、笑顔でいられるのだろう。私の本当の笑顔って、どんな笑顔なんだろう。
「愛海ちゃん、お部屋に入ってもいいかな?」
そんなことを考えていると、ドアの外から友里香さんの声が聞こえた。私は強く目を擦り、なるべく泣いたのがバレないように「大丈夫です」と明るく返事をした。
「ありがとう、体調はどう? 大丈夫?」
「……大丈夫、です。ありがとうございます」
人から “大丈夫?” と聞かれたら “大丈夫” としか答えようがない。大丈夫じゃないって答えたら、 “心配してほしいただのかまってちゃん” と思われるから。それが怖くて、自分の気持ちに嘘を吐くしかなかった。
「それなら良かった。丁度さっきね、お父さんが帰ってきたの。これから晩ご飯なんだけど、食べれそう?」
「……お父さん、が」
よりによってこんなに落ち込んでいる日にお父さんと顔を合わせなければいけない。前までだったらお父さんと話すのが唯一の楽しみだったのに、今は家にいるのがこんなに苦痛だなんて、中学生の私には想像できなかった。
――気持ち悪さは治まったし、食べるしかないよね。
「大丈夫、です。今日のご飯は何ですか?」
「無理はしないでね。今日は和風なんだけどね、お魚焼いたの。あとはお野菜、味噌汁とか」
「そうなんですね、私和風大好きです」
そんな他愛もない会話をする、幸せそうな親子。を、演じる。何も不審に思われないように、ただただ笑顔を作って、明るく話すだけ。そんなの簡単だ。
簡単だと思うのは、私がこれに慣れてしまっているからなのかもしれないけれど。
「おお愛海、会うのは久しぶりだな」
「……お父さん久しぶり。そうだね、毎日連絡取ってたけどね」
「はは、そうだな」
お父さんは変わっていなかった。仕事のスーツを着て、いつもPCで仕事をしながらご飯を食べる。以前と同じだった。お父さんは不動産会社に務めていて、部長。とても偉い……らしい。
――お父さん、全然会ってなかったから、私のこと嫌ってないかな。
私の昔からこうやって考えすぎてしまう癖をどうにか直せたらいいな、と思う。そうそう直ることはないと思うけれど。
「愛海お姉ちゃん、もう体調は大丈夫なの?」
「……沙耶香ちゃんありがとう、大丈夫だよ。ちょっと学校の疲れが出ちゃったのかな」
沙耶香ちゃんは今、小学校の一年生。私は幼い子供があまり好きではない。何であんなに騒いで楽しんでいるのかが分からないし。
――小さい子は、無邪気でいいよね。私みたいな未来が待っている子は少ないんだろうなぁ。
子供相手に嫉妬してしまう私が嫌になる。だめだめ、笑顔を保たないと。呪文のような言葉を脳内に繰り返して、私はまた作り笑いをする。
「愛海お姉ちゃん、ご飯美味しいね!」
「うん、美味しいね。友里香さんって、料理上手ですよね」
「ありがとう、小さい頃からお料理してたんだ。愛海ちゃんも得意そうだけど」
「……そんなこと、ないです」
お母さんは料理が趣味で、とても得意だった。カレーライス、ロールキャベツ、肉じゃが……。私はお母さんから料理を教わったから、少しだけできる。でも料理をすればするほど、お母さんの味を思い出してしまう。
中学生の頃はお父さんが夜遅くまで帰ってこなかったから、ずっと一人で料理をしていた。その度にお母さんとは違う味だったのがとても悔いだった。
――友里香さんの料理美味しいけど、お母さんの味が恋しくなっちゃう。
「……ご馳走様、でした」
「愛海、おかわりしないのか? 友里香の料理すごい美味いし」
胸の奥がズキン、と傷んだ。お父さんはもうお母さんの味を忘れてしまったのだろうか。友里香さんの料理が美味しいというのはあながち間違っていないけれど、やはり寂しくなってしまう。
「うん、私少食だからさ。友里香さん、ご馳走様でした」
「愛海お姉ちゃん、沙耶香も食べ終わったから一緒に塗り絵しよう!」
沙耶香ちゃんが私に言った。塗り絵、なんていつぶりだろうか。私の記憶では幼稚園ぶり、くらい。丁度、沙耶香ちゃんの年齢のときだろう。本当は自分の部屋で一人で休みたい、と思っていた。
でも私はまた笑顔を作った。だって断ったらお姉ちゃんじゃなくなってしまう。お父さんや友里香さんに嫌われてしまうかもしれない、から。
「愛海ちゃん、無理しなくていいのよ。宿題とかあるし、大変でしょう」
「愛海はお姉ちゃんなんだから、沙耶香と一緒に遊んであげられるだろう?」
――ほら、やっぱりそう言う。
大人は同じ子供に対して、どうして区別つけるのだろう。 “年上だから” とか “年下だから” なんて言葉、差別と同じだ。だから私は年下の兄妹なんて欲しくなかったのに。
沙耶香ちゃんのことは大切なのに、私のことは大切じゃないみたい。……憂鬱な気分になるが、私はまたいつも通り笑顔を作った。
「うん、もちろん。沙耶香ちゃん、一緒にやろうか」
「愛海お姉ちゃんのお部屋でやる!」
正直、私の部屋を家族や他人には見られたくなかった。プライベートスペースに入る人の心理が全く分からない。変な物は持っていないし、怪しい物もない。けれど自分の部屋なのに、他の人が足を踏み入れるのが少しだけ嫌だった。
……でもお姉ちゃんなんだから、仕方がない。仕方がない、仕方がない。言葉を脳内に繰り返した。
「愛海お姉ちゃん、塗り絵しよう! 見て見て、お花がいっぱいあるの」
「本当だ、お花可愛いね」
「クレヨンどうぞ!」
「……ありがとう」
無邪気な天使のような笑顔。私もこんな風な笑顔を、何も考えずにできたらいいのにな。小さい子って、余計なことは考えずにただただ好きなことができるよね。また戻りたいな……と思う。
――面倒くさいな。課題もあるのに。
面倒くさいとは思うけれど、我慢することに慣れたからか、悲しみや怒りは全然出てこない。仕方ないことだって操られているように。
「あれれ、愛海お姉ちゃんのそれ、何か光ってるよ」
「……それ?」
沙耶香ちゃんが指差した方向を見ると、私のスマートフォンが光っていた。誰かから着信がかかってきている。本当は沙耶香ちゃんを優先しないといけないのだろう。
けれど私は、着信してきた人の名前を見て、すぐさまスマートフォンを手に持った。
「ごめん沙耶香ちゃん、電話かかってきちゃって。ちょっと出るね」
そう言いながら私は着信のボタンを押して、電話に出た。
――どうして、かけてきたのかな。私、冷たい態度取っちゃったのに。
「……もしもし、夏谷くん」
『水坂、急に電話しちゃってごめん。出て良かった』
夏谷くんから電話が来るなんて、信じられなかった。嬉しさと緊張で手が震えてしまう。夏谷くんの優しい声が耳に響いて安らぐ。
「ううん、夜ご飯終わったし大丈夫だよ。どうしたの?」
『……帰りはあんなこと言っちゃってごめん』
予想外の言葉を言われ、私は戸惑った。だって謝るのは私の方だし、夏谷くんは何も悪くないから。
――何で、そんなに私に優しくするの? どうして……。
「……私こそ、ごめんなさい。冷たい態度取っちゃったかな、って思って」
『馬鹿って俺が言ったからだよな?』
「……違う、よ。ちょっと体調悪くて、早く帰りたかったんだ」
そうやって嘘を吐く。今までだってそういう嘘を吐いてきたのだから、簡単だ。けれど何故か、夏谷くんに嘘を吐くと胸が傷む。
夏谷くんには嘘を吐きたくないのに、吐かなければいけないから。そうじゃないと、嫌われてしまうかもしれないから。
――恋って凄いな、本当に惑わされる。
『俺、馬鹿ってそのままの意味で言ったんじゃないんだ。水坂が、鈍感だから』
「鈍感? 何が?」
『……人に対しての行為、だよ。あんなに優しくされたら、照れるに決まってるだろ』
……人に対しての、行為?
私は何が何だかさっぱり分からなかった。きっと先日夏谷くんを助けたことや、今日の帰り道、気を遣ったことだろうか。でもそれは普通だと私は思った。みんながみんな当たり前に優しくするものだと。
――ていうか、照れるって……?
「え、で、でも、困った人がいたら助けるのは当然のことじゃない? 私は、絶対助けちゃうんだけど……」
『それが優しいんだよ。人を助けるのは当たり前じゃないから。本当に、水坂は凄いやつだよ』
ははっ、といつもの夏谷くんの笑い声が聞こえる。何だか電話していると、耳元で言われている気がしてしまう。私は頬が緩んでしまった。
「ありがとう。夏谷くんも、凄いよ」
『……俺は、何もないよ。本当に、何も』
突然、夏谷くんの声のトーンが下がって、暗い声になった。夏谷くんもやはり、何か辛い過去を抱えているのかもしれない、そう思った。
けれど私みたいに考えすぎにはならないのだろう。私は何か小さな事があったとしても不安になるし、「どうしよう」と考えてしまうから。
――夏谷くんみたいに、悩みもすぐ解決できたらいいのに。私は深く考えすぎちゃうのがだめなんだ。
マイナス思考になってしまう自分が本当に嫌になる。
『……じゃあそろそろ課題やらなきゃだから』
「あっ、そうだよね、わざわざ電話ありがとうね。本当にごめんね」
『俺が悪いって言ってんだろ。じゃあな、水坂』
「うん、おやすみなさい、夏谷くん。じゃあね」
いつものように、お互い “またね” とは言わずに電話を切った。私はスマートフォンを胸で抱きしめ、ほっと一息ついた。電話だとはいえ、やはり好きな人と会話をするのは楽しい。それと同時に、また早く声を聞きたいと思ってしまう。
――今さっき話してたばかりなのに、夏谷麗太くんが恋しくなってしまうなんて。これが恋、ってことなんだろうな。
「愛海お姉ちゃん、お電話終わったの?」
私が数分電話している傍で、沙耶香ちゃんは何も言わず、静かに一人で塗り絵をしていた。やはり沙耶香ちゃんも可愛くて偉い子なんだな、と改めて思う。
「うん、終わったよ。沙耶香ちゃん待っててくれてありがとうね」
「愛海お姉ちゃんのそんなお顔、初めて見た! 可愛いね」
沙耶香ちゃんが私の顔をじっと見つめながらそう言った。私はまた急いで手鏡を取り出して、自分が今どんな顔をしているのか確かめた。
――花菜ちゃんや遥香ちゃんに好きな人が夏谷くんってバレたときも、この表情してた。
私はまた顔が真っ赤になっていて、いつもの笑顔の私ではなかった。まるで別人のように。……これが恋、なのだろうか。
「……沙耶香ちゃん、私の今の顔、可愛いって思ってくれてるの?」
「うんっ、愛海お姉ちゃんのお顔、可愛い」
――それなら、いいよね。
たまには笑顔じゃない、こんな自分の一面を知れるのもいい機会だな、と思った。
今までは “笑顔” で頭の中がいっぱいで、そんなこと思いもしなかったのに。恋は人を変えるって本当なんだなぁ、と思った。
「……夏谷くん……!」
私はコクコクと首を縦に振った。今日もたまたま夏谷くんと帰宅する時間が被り、話しかけられた。好きだと自覚してから、夏谷くんのことをつい目で追ってしまうし、すごく意識してしまう。
それにいつにも増して、夏谷くんのことが更にかっこよく輝いて見える。もちろん夏谷くんは元々かっこいいし、女子達からもちやほやされる程人気。でもそれよりも、私は夏谷くんのことを好き、なんだと思う。
「びっくりさせちまった? ごめんな」
「えっ、と、全然大丈夫だよ! 夏谷くんも今帰りっ?」
声が上擦ってしまう。しょんぼりと悲しんでいる夏谷くんを見て、私はまたドキドキしている。夏谷くんのこんな一面を知れてとても嬉しい。
――私また、別人のような顔をしているのだろうか。笑顔を、作らないと、笑顔を。
「……今、帰り。もう暗いから水坂の家まで送ってくよ」
「え、でも悪いよ……夏谷くんだって暗いし危ないじゃん」
「……馬鹿」
馬鹿。そう言われたのは初めてだ。私は勉強も学校も家庭の生活も、人生も。何もかも完璧にできるよう、頑張ってきた。だから“馬鹿”と言われるのは心が痛い。
――夏谷くん、私のこと馬鹿って思ってるのかな。
「私って馬鹿なのかな」
「え、ごめん、そういう意味じゃなくて――」
「……やっぱりもう遅いし迷惑かけちゃうから、一人で帰るね。気遣いありがとう、夏谷くんじゃあね」
頑張って笑顔を作って、いつもの横断歩道で夏谷くんに別れを告げる。涙を見せないように、駆け足で家に帰った。
――さっき夏谷くんが言いかけていたこと、何だったんだろう。
“そういう意味じゃない”って言ってた。けれど私が馬鹿なのは変わらない。
いつもヘラヘラ作り笑いをして、人に嫌われないように自分を隠して。馬鹿なのは私が一番分かっている。でも……。
好きな人にそう言われるのは、ものすごく悲しかった。
「ただいま」
「おかえりなさい、愛海ちゃん」
「愛海お姉ちゃんおかえり!」
どうしてだろう。いつにも増して頭がふわふわしているし、吐き気が治まらない。とりあえずいつもの日課だから、写真のお母さんに「ただいま」と心の中で呟く。
けれど、やはりまだ吐き気は治まらなかった。どんどん気持ち悪さが込み上げてくるばかりで、その場に立っているのですらきつかった。
――なんで? 夏谷くんとのことが、原因なの?
「愛海ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「あ……ちょっと、体調が悪くて。すぐ治ると思うので、少しだけ部屋で寝てきます」
私は無理して笑顔を作った。流石に今日は、これが作り笑いだって分かってしまうだろうか。きっとお母さんだったら分かるんだろうな……。
『愛海、顔色悪いよどうしたの?』
『笑いたくないときは無理して笑わなくていいんだよ』
『今日嫌なことあったの? お母さんに聞かせて』
私が学校で嫌なことがあったとき、いつもお母さんが悩みを聞いてくれた。逆に楽しいことがあったとき、お母さんも楽しそうに聞いてくれた。愛海が笑顔でいるとお母さんも笑顔になる、そう言っていた。
『愛海、ずっと笑顔でいてね。約束だよ』
お母さんの死期が訪れたとき。最期、お母さんは私の手を握りながら放った言葉がフラッシュバックする。
その言葉が脳内に強くインプットされる。私はお母さんとの約束を守らなければいけない。だからずっと笑顔で生きる。たとえ、作り笑いだとしても。
――八月八日は、お母さんの命日。去年まではお父さんと一緒にお墓へ行っていたが、今年はとうなるのだろうか。友里香さんや沙耶香ちゃんと四人で行くことになる……?
想像をしただけで吐き気が増した。それだったら一人で行く方が全然いい。お母さんも、新しい家族で行くよりも私とお父さんが来たほうが嬉しいよね……?
どうしてお母さんが選ばれてしまったのだろう。どうしてお母さんが死ななければならなかったのだろう。ずっとずっとそう考えてしまった。私はベッドに横たわりながら、悲しみに暮れていた。
――あれ、今何時だっけ。
部屋にある時計を見ると、もう午後の7時だった。どうやら私は、二時間くらい寝てしまっていたらしい。手鏡を見ると目が充血して腫れていて、別人のようだった。
――また私、別人みたい……。笑顔、えがお、エガオ……。
笑顔という言葉が嫌いになりそうなくらい、何度も脳内に再生した。もう何度繰り返しただろう。どうしてみんな、笑顔でいられるのだろう。私の本当の笑顔って、どんな笑顔なんだろう。
「愛海ちゃん、お部屋に入ってもいいかな?」
そんなことを考えていると、ドアの外から友里香さんの声が聞こえた。私は強く目を擦り、なるべく泣いたのがバレないように「大丈夫です」と明るく返事をした。
「ありがとう、体調はどう? 大丈夫?」
「……大丈夫、です。ありがとうございます」
人から “大丈夫?” と聞かれたら “大丈夫” としか答えようがない。大丈夫じゃないって答えたら、 “心配してほしいただのかまってちゃん” と思われるから。それが怖くて、自分の気持ちに嘘を吐くしかなかった。
「それなら良かった。丁度さっきね、お父さんが帰ってきたの。これから晩ご飯なんだけど、食べれそう?」
「……お父さん、が」
よりによってこんなに落ち込んでいる日にお父さんと顔を合わせなければいけない。前までだったらお父さんと話すのが唯一の楽しみだったのに、今は家にいるのがこんなに苦痛だなんて、中学生の私には想像できなかった。
――気持ち悪さは治まったし、食べるしかないよね。
「大丈夫、です。今日のご飯は何ですか?」
「無理はしないでね。今日は和風なんだけどね、お魚焼いたの。あとはお野菜、味噌汁とか」
「そうなんですね、私和風大好きです」
そんな他愛もない会話をする、幸せそうな親子。を、演じる。何も不審に思われないように、ただただ笑顔を作って、明るく話すだけ。そんなの簡単だ。
簡単だと思うのは、私がこれに慣れてしまっているからなのかもしれないけれど。
「おお愛海、会うのは久しぶりだな」
「……お父さん久しぶり。そうだね、毎日連絡取ってたけどね」
「はは、そうだな」
お父さんは変わっていなかった。仕事のスーツを着て、いつもPCで仕事をしながらご飯を食べる。以前と同じだった。お父さんは不動産会社に務めていて、部長。とても偉い……らしい。
――お父さん、全然会ってなかったから、私のこと嫌ってないかな。
私の昔からこうやって考えすぎてしまう癖をどうにか直せたらいいな、と思う。そうそう直ることはないと思うけれど。
「愛海お姉ちゃん、もう体調は大丈夫なの?」
「……沙耶香ちゃんありがとう、大丈夫だよ。ちょっと学校の疲れが出ちゃったのかな」
沙耶香ちゃんは今、小学校の一年生。私は幼い子供があまり好きではない。何であんなに騒いで楽しんでいるのかが分からないし。
――小さい子は、無邪気でいいよね。私みたいな未来が待っている子は少ないんだろうなぁ。
子供相手に嫉妬してしまう私が嫌になる。だめだめ、笑顔を保たないと。呪文のような言葉を脳内に繰り返して、私はまた作り笑いをする。
「愛海お姉ちゃん、ご飯美味しいね!」
「うん、美味しいね。友里香さんって、料理上手ですよね」
「ありがとう、小さい頃からお料理してたんだ。愛海ちゃんも得意そうだけど」
「……そんなこと、ないです」
お母さんは料理が趣味で、とても得意だった。カレーライス、ロールキャベツ、肉じゃが……。私はお母さんから料理を教わったから、少しだけできる。でも料理をすればするほど、お母さんの味を思い出してしまう。
中学生の頃はお父さんが夜遅くまで帰ってこなかったから、ずっと一人で料理をしていた。その度にお母さんとは違う味だったのがとても悔いだった。
――友里香さんの料理美味しいけど、お母さんの味が恋しくなっちゃう。
「……ご馳走様、でした」
「愛海、おかわりしないのか? 友里香の料理すごい美味いし」
胸の奥がズキン、と傷んだ。お父さんはもうお母さんの味を忘れてしまったのだろうか。友里香さんの料理が美味しいというのはあながち間違っていないけれど、やはり寂しくなってしまう。
「うん、私少食だからさ。友里香さん、ご馳走様でした」
「愛海お姉ちゃん、沙耶香も食べ終わったから一緒に塗り絵しよう!」
沙耶香ちゃんが私に言った。塗り絵、なんていつぶりだろうか。私の記憶では幼稚園ぶり、くらい。丁度、沙耶香ちゃんの年齢のときだろう。本当は自分の部屋で一人で休みたい、と思っていた。
でも私はまた笑顔を作った。だって断ったらお姉ちゃんじゃなくなってしまう。お父さんや友里香さんに嫌われてしまうかもしれない、から。
「愛海ちゃん、無理しなくていいのよ。宿題とかあるし、大変でしょう」
「愛海はお姉ちゃんなんだから、沙耶香と一緒に遊んであげられるだろう?」
――ほら、やっぱりそう言う。
大人は同じ子供に対して、どうして区別つけるのだろう。 “年上だから” とか “年下だから” なんて言葉、差別と同じだ。だから私は年下の兄妹なんて欲しくなかったのに。
沙耶香ちゃんのことは大切なのに、私のことは大切じゃないみたい。……憂鬱な気分になるが、私はまたいつも通り笑顔を作った。
「うん、もちろん。沙耶香ちゃん、一緒にやろうか」
「愛海お姉ちゃんのお部屋でやる!」
正直、私の部屋を家族や他人には見られたくなかった。プライベートスペースに入る人の心理が全く分からない。変な物は持っていないし、怪しい物もない。けれど自分の部屋なのに、他の人が足を踏み入れるのが少しだけ嫌だった。
……でもお姉ちゃんなんだから、仕方がない。仕方がない、仕方がない。言葉を脳内に繰り返した。
「愛海お姉ちゃん、塗り絵しよう! 見て見て、お花がいっぱいあるの」
「本当だ、お花可愛いね」
「クレヨンどうぞ!」
「……ありがとう」
無邪気な天使のような笑顔。私もこんな風な笑顔を、何も考えずにできたらいいのにな。小さい子って、余計なことは考えずにただただ好きなことができるよね。また戻りたいな……と思う。
――面倒くさいな。課題もあるのに。
面倒くさいとは思うけれど、我慢することに慣れたからか、悲しみや怒りは全然出てこない。仕方ないことだって操られているように。
「あれれ、愛海お姉ちゃんのそれ、何か光ってるよ」
「……それ?」
沙耶香ちゃんが指差した方向を見ると、私のスマートフォンが光っていた。誰かから着信がかかってきている。本当は沙耶香ちゃんを優先しないといけないのだろう。
けれど私は、着信してきた人の名前を見て、すぐさまスマートフォンを手に持った。
「ごめん沙耶香ちゃん、電話かかってきちゃって。ちょっと出るね」
そう言いながら私は着信のボタンを押して、電話に出た。
――どうして、かけてきたのかな。私、冷たい態度取っちゃったのに。
「……もしもし、夏谷くん」
『水坂、急に電話しちゃってごめん。出て良かった』
夏谷くんから電話が来るなんて、信じられなかった。嬉しさと緊張で手が震えてしまう。夏谷くんの優しい声が耳に響いて安らぐ。
「ううん、夜ご飯終わったし大丈夫だよ。どうしたの?」
『……帰りはあんなこと言っちゃってごめん』
予想外の言葉を言われ、私は戸惑った。だって謝るのは私の方だし、夏谷くんは何も悪くないから。
――何で、そんなに私に優しくするの? どうして……。
「……私こそ、ごめんなさい。冷たい態度取っちゃったかな、って思って」
『馬鹿って俺が言ったからだよな?』
「……違う、よ。ちょっと体調悪くて、早く帰りたかったんだ」
そうやって嘘を吐く。今までだってそういう嘘を吐いてきたのだから、簡単だ。けれど何故か、夏谷くんに嘘を吐くと胸が傷む。
夏谷くんには嘘を吐きたくないのに、吐かなければいけないから。そうじゃないと、嫌われてしまうかもしれないから。
――恋って凄いな、本当に惑わされる。
『俺、馬鹿ってそのままの意味で言ったんじゃないんだ。水坂が、鈍感だから』
「鈍感? 何が?」
『……人に対しての行為、だよ。あんなに優しくされたら、照れるに決まってるだろ』
……人に対しての、行為?
私は何が何だかさっぱり分からなかった。きっと先日夏谷くんを助けたことや、今日の帰り道、気を遣ったことだろうか。でもそれは普通だと私は思った。みんながみんな当たり前に優しくするものだと。
――ていうか、照れるって……?
「え、で、でも、困った人がいたら助けるのは当然のことじゃない? 私は、絶対助けちゃうんだけど……」
『それが優しいんだよ。人を助けるのは当たり前じゃないから。本当に、水坂は凄いやつだよ』
ははっ、といつもの夏谷くんの笑い声が聞こえる。何だか電話していると、耳元で言われている気がしてしまう。私は頬が緩んでしまった。
「ありがとう。夏谷くんも、凄いよ」
『……俺は、何もないよ。本当に、何も』
突然、夏谷くんの声のトーンが下がって、暗い声になった。夏谷くんもやはり、何か辛い過去を抱えているのかもしれない、そう思った。
けれど私みたいに考えすぎにはならないのだろう。私は何か小さな事があったとしても不安になるし、「どうしよう」と考えてしまうから。
――夏谷くんみたいに、悩みもすぐ解決できたらいいのに。私は深く考えすぎちゃうのがだめなんだ。
マイナス思考になってしまう自分が本当に嫌になる。
『……じゃあそろそろ課題やらなきゃだから』
「あっ、そうだよね、わざわざ電話ありがとうね。本当にごめんね」
『俺が悪いって言ってんだろ。じゃあな、水坂』
「うん、おやすみなさい、夏谷くん。じゃあね」
いつものように、お互い “またね” とは言わずに電話を切った。私はスマートフォンを胸で抱きしめ、ほっと一息ついた。電話だとはいえ、やはり好きな人と会話をするのは楽しい。それと同時に、また早く声を聞きたいと思ってしまう。
――今さっき話してたばかりなのに、夏谷麗太くんが恋しくなってしまうなんて。これが恋、ってことなんだろうな。
「愛海お姉ちゃん、お電話終わったの?」
私が数分電話している傍で、沙耶香ちゃんは何も言わず、静かに一人で塗り絵をしていた。やはり沙耶香ちゃんも可愛くて偉い子なんだな、と改めて思う。
「うん、終わったよ。沙耶香ちゃん待っててくれてありがとうね」
「愛海お姉ちゃんのそんなお顔、初めて見た! 可愛いね」
沙耶香ちゃんが私の顔をじっと見つめながらそう言った。私はまた急いで手鏡を取り出して、自分が今どんな顔をしているのか確かめた。
――花菜ちゃんや遥香ちゃんに好きな人が夏谷くんってバレたときも、この表情してた。
私はまた顔が真っ赤になっていて、いつもの笑顔の私ではなかった。まるで別人のように。……これが恋、なのだろうか。
「……沙耶香ちゃん、私の今の顔、可愛いって思ってくれてるの?」
「うんっ、愛海お姉ちゃんのお顔、可愛い」
――それなら、いいよね。
たまには笑顔じゃない、こんな自分の一面を知れるのもいい機会だな、と思った。
今までは “笑顔” で頭の中がいっぱいで、そんなこと思いもしなかったのに。恋は人を変えるって本当なんだなぁ、と思った。