太陽がだんだん沈んでくる、昼間よりもほんの少しだけ涼しく感じる放課後。帰宅の準備をし、昇降口へ向かった。

 「まなみん、また明日ね」

 「愛海ちゃんまたね」

 「花菜ちゃん、遥香ちゃんじゃあね」

 二人と別れ、帰り道を一人寂しく歩いていた。母が亡くなってから、人に “またね” と言ったことが無かった。
 だって、いつ人生が終わるか分からないから。明日が来る保証はできないから。またねと口に出すことが怖くなった。

 「あっ、水坂!」

 パッと後ろを振り向くと、夏谷くんがスクールバッグを肩にかけて、私の方に向かってきていた。たまたま帰る時間が同じだったらしい。
 ――夏谷くんに会えて嬉しい。

 「今帰り? 水坂って部活やってないの?」

 「うん、帰りだよ。部活入ってないんだ」

 「そうなんだ、じゃあせっかくだし一緒に帰んねぇ?」

 夏谷くんの言葉に、私はこくんと頷いた。また頭にまで鼓動が伝わるくらいにドキドキしている。夏谷くんと一緒だと、いつも胸が高鳴る。この気持ちは何なのだろうか。
 それにしても、異性と一緒に帰るなんて久しぶりだ。――小学生ぶりくらいかな。緊張で頭が爆発してしまいそうだ。

 「今朝は本当にありがとうな。水坂がいなかったら危なかった」

 「ううん、全然。こちらこそ、お節介だったかなって。ごめんね」

 「いや水坂に助けてもらえなかったら今の俺はいないかもだし。謝らないで」

 ああだめだ、嬉しさで口元がにやけてしまう。夏谷くんはどうしてこんなに笑顔が素敵なのだろう。きっと誠実で素直で、悩みなんて抱えてないんだろうな……。
 ――羨ましいなぁ。
 そう思うとズキッ、と胸が傷んだ。いや、誰しも悩みはあるよね。ただ特別私は誰にも頼れないし、大切な人を亡くしてずっと引き摺っているだけ。悩みをすぐ解決できる人が羨ましいな、と思う。

 「……水坂はさ、死にたいって思ったことある?」

 「えっ?」

 唐突に暗い話題を振られて、思わずまぬけな声を出してしまった。“死にたい” 。そんなの何度もあるに決まっている。
 お母さんが亡くなったときからずっと、生きている意味がないと思っている。大切な人がいない世の中、私なんかが生きて何があるのだろうか。私が死んでも悲しむ人はいない。お父さんも私と二人の生活に不満があったから再婚した訳だし。
 振り返ってみれば、私は毎日 “死にたい” と思っているのかもしれない。

 「ない、かな。だって、今幸せだから……っ」

 それでも私は、笑顔でいなければならないから。周りに心配をかけてはいけないから。どんどん自分の感情が分からなくなる。
 ――何でこんな風になっちゃったんだろう。

 「……夏谷くんは、あるの?」

 「俺は――死にたいというか、消えたいかな。俺の存在を消してほしい」

 予想外の言葉に、反応せずにはいられなかった。消えたいって、どういう感情なんだろう。私の存在が消えたら……お父さんも友里香さんも沙耶香ちゃんも幸せになれるのかな。
 夏谷くんも何か暗い過去があったのだろうか。

 「……んじゃ、俺はこっちだから。急に暗い話してごめん。じゃあな、水坂」

 「ううん、全然大丈夫だよ。じゃあね、夏谷くん」

 大丈夫と言ったけれど、確かに暗い話は苦手だ。お母さんの記憶が鮮明に蘇るから。でも大丈夫、としか言いようがないから。
 ――そういえば、夏谷くん “またね” って言わなかった。私と同じ不安を抱えていたりするのかな。
  いつか夏谷くんの心の奥底に抱えている想いを知ることができたらいいな、と思う。私はまた、帰り道を一人寂しく歩いた。


 「ただいま」

 「あらおかえり、愛海ちゃん」

 「愛海お姉ちゃんおかえりなさい!」

 私がゆっくりと靴を脱いでいると、沙耶香ちゃんが私のところへ駆け寄ってくれた。可愛い、とは思うけれど。
 ――妹なんて、いなくて良かったのに。
 またお腹から猛烈な吐き気が込み上げてくる。こんな最低なことばかり考える自分が嫌いだ。私はいつも笑顔でいなければならないのに、こんな事を考えてしまうなんて……。自分がとてつもなく嫌いになる。
 玄関に飾ってあるお母さんの写真を見ると、不思議なことに吐き気がどんどん治まる。ただいま、と心の中で呟いた。

 「お父さんは少し遅くなるみたい。先食べちゃいましょう」

 「愛海お姉ちゃん、今日カレーなんだって! 沙耶香、カレー大好き」

 お父さんと二人暮らししているときは、私が料理をして、一人で時間を決めて食べていた。今は高校から帰ってきてすぐ食事だ。気持ちが悪くなるけれど、私はまた無理して笑顔を作る。

 「そうなんだ、私もカレー好きだよ」

 友里香さんと沙耶香ちゃんの笑顔は、心からの笑顔だ。私もこんな風に笑えているのだろうか、と心配になる。

 「いただきます」

 声を揃えて挨拶をした。私はカレーライスをスプーンですくって、ゆっくりと口元に運ぶ。すると一つだけ違和感があった。いつもと、違う味だったから。

 「……甘、口?」

 「あっ、言い忘れてた。愛海ちゃんは甘口じゃないよね。沙耶香が甘口しか食べれないから全部甘口なの。お口に合わなかったかしら」

 残念そうに友里香さんは首を傾げた。
 ――私が、友里香さんを悲しませてる。心配をかけないように、私はいつもと同じように偽りの笑顔を作った。
 ……本当はいつも中辛だったから、甘口なんて食べたくない。

 「……いえ、全然大丈夫です、凄く美味しい。友里香さん、ありがとうございます」

 「本当に? 良かった、おかわりもしてね」

 友里香さんはホッ、と安心していた。私も心の何処かで安心すると同時に、気持ち悪さが増してくる。どうして私が我慢しなければならないのだろうか。この作り笑いはいつまで続ければいけないのかな。
 ――私の存在がなくなればいいのに。
 今私が思っていることは、夏谷くんと同じだった。私の存在が消えれば、家族は幸せだし、私も我慢しなくて済む。これが夏谷くんが言っていた “消えたい” ということだろう。

 「……ご馳走様でした」

 「愛海お姉ちゃんおかわりしないの?」

 「うん、今日お腹いっぱいで。あ、でも友里香さんのカレー美味しかったです。ちょっと自分の部屋で休んでます」

 そんな嘘を吐いて私は駆け足で階段を登り、二階にある自分の部屋に足を踏み入れた。
 四月に父が再婚してから、三ヶ月。丁度高校生になったときからだ。私は、きっとこの生活をやめたいと思っている。父と二人で、満足だったから。私のお母さんは空の上にいるお母さんで、妹もいない。
 ――その生活に戻ればいいのに。そんな叶うはずもない願いを心の中で唱えて、そのまま眠りについてしまった。



 チリリリリ……目覚ましの音が耳に鳴り響いて、私はベッドから体を起こす。何も考えずに、ただいつもと同じ生活をする。カーテンを開けて窓辺の景色を見ると、明るい青空に入道雲が広がっている。世界はこんなに広いんだなぁ……と思う。

 まだ六時だというのに、朝早くからランニングをしている若い女性、サッカーの練習をしている中学生くらいの男性、散歩をしている高齢者の方が目に入る。
 ――すごいなぁ……私はあんな風に何も出来ない。
 その人達の瞳は、見るからにきらきらと輝いた目をしていた。私は今、何も熱中していることがない。私もこんな風に輝ける日が来るのだろうか。

 「……おはようございます」

 「愛海ちゃんおはよう! ごめんね、今朝ご飯作り途中なの」

 制服に着替えて顔を洗い、リビングの椅子へ腰掛ける。友里香さんは料理をしていて、沙耶香ちゃんはまだ寝ているみたいだった。
 今までだったら一人で過ごせていたのに。静かで有意義な朝が戻ってほしい。そう思ってしまうほど、自分が醜い人間だということを思い知らされる。

 「はい、今日は目玉焼きよ」

 友里香さんはそう言って、食卓に目玉焼きトーストを出してくれた。途端に、心がチクッと傷んだ。……お母さんのことを、思い出してしまったから。


 『愛海、お父さん、黄身いる?』

 『お母さん、黄身苦手なのー?』

 『そうだぞ、お母さんは子供みたいに好き嫌いが激しいからなあ』

 『ふふっ、そう、お母さん黄身苦手なの。愛海は黄身も白身も好き?』

 『うんっ、目玉焼き大好き。お母さんの作る目玉焼きが一番なんだ――』


 小学生の頃の思い出が、頭から離れなかった。お母さんは黄身が苦手で、いつも目玉焼きを食べるときは私やお父さんが黄身を食べていた。私はほとんど好き嫌いなかったから。
 今となってはお父さんは夜勤だから、殆ど会うことがない。最近は画面越しでしか、会話した記憶がない。

 ――……っ、だめだ、涙が出てきちゃう。
 耐えなきゃ、耐えなきゃ、耐えなきゃ。その言葉を脳内に繰り返して、何とか泣くのを我慢する。

 「い、ただき、ます」

 口元が震えて上手く言葉を発せなかった。そのまま目玉焼きを食べても、味が分からなかった。ただただ、お母さんのあの目玉焼きが食べたい――。そう思うだけだった。

 「行ってきます」

 「行ってらっしゃい、気をつけてね」

 私は玄関を出る前に、写真のお母さんに向かって一言心の中で唱える。
 ――お母さん、行ってきます。
 私は笑顔を作れてるかな。お母さんが望んだ、 “どんな時でも笑顔でいる” 雪白愛海。いや、いまは水坂というべきだろうか。

 「わっ、水坂」

 「……夏谷、くん」

 昨日彼と出会った横断歩道で、また挨拶を交わした。今日も夏谷くんはきらきらと輝いて見える。
 ――みんなすごいなぁ。私なんて何も出来ないのに。
 自分のいまの苗字で呼ばれることは苦痛だったが、夏谷くんには呼ばれる度に嬉しいと思ってしまう。この気持ちは何なのだろうか。

 「水坂とはよく会うな。つっても、昨日出会ったばかりだけど」

 「……そうだよね」

 夏谷くんにつられて、私も無邪気な笑顔を作る。演じる。
 それしか私には出来ることがないから。

 「あっ、そういえば水坂ってスマホ持ってる?」

 「え? う、うん、持ってるけど……」

 「良かった、じゃあ連絡先交換しねえ?」

 ……思考が止まるかと思った。まだ仲良くなったばかりの異性に連絡先を聞かれるなんて思いもしなかったから。私は「いいよ」と答えて急いでスマートフォンを取り出す。
 ――嬉しい。
 連絡先のところに、『夏谷 麗太』という名前が追加された。私は嬉しくて今にも舞い上がってしまいそうだ。

 「ありがと、水坂。じゃあ一緒に――」

 「おーい麗太、おはよー」

 夏谷くんが何か言いかけた途端に、男子生徒数人が夏谷くんのところへ駆け寄ってくる。顔は見たことがある程度だが、名前までは知らなかった。きっと三組の夏谷くんのお友達だろう。

 「……お前らおはよー。じゃあ改めてよろしくな、水坂」

 「う、うん、夏谷くんじゃあね」

 「おい麗太、彼女はいいのかー?」

 「ば、ばか、ちげーし、友達だから」

 夏谷くんと連絡先を交換できたからか、今までにないくらい胸がドキドキして、心がぎゅーっと締め付けられる感覚がある。――これは、何の気持ちなの……?
                 

 「ええっ、恋ってどんな気持ちか!?」

 「ちょ、ちょっと花菜ちゃん、しーっ」

 私は無理矢理、花菜ちゃんの口を手で防ぐ。花菜ちゃんと遥香ちゃんに、 “恋” というのはどういう気持ちなのかを聞いてみた。
 私は “好き” になった人が今まで一人もいないから。経験豊富な二人に聞けば何かヒントがあるかな、と思った。
 ――別に夏谷くんのことを好き、って決めた訳じゃないもの。
 そう、自分に何度も言い聞かせた。

 「うーん、ついその人のことを目で追ってしまったり、夜にまた早く会いたいって思ったり、別れるのが寂しくなったり。私はそういうときかな」

 遥香ちゃんは顔を赤くしながら、笑顔で答えてくれた。この笑顔も作りものじゃない、本当の笑顔だろう。やはりみんな輝いていてすごいなあ、と感心する。

 「もしかしてまなみん、好きな人いるの?」

 「ええっ……と」

 花菜ちゃんに唐突に聞かれ、答えに迷う。思い返せば夏谷くんと話す度にドキドキするし、胸が締め付けられる感覚があったり、別れるとき寂しいって思ってしまったり。先程の遥香ちゃんの言葉に当てはまってる。
 ――私って、夏谷くんのこと……。

 「……好き、かも」

 「誰、誰?」

 「私達の知ってる人?」

 二人がいっぺんに質問してくるので、私は何と答えようか戸惑っていた。まだ自分の気持ちに気づけたばかりだし、簡単に夏谷くんのことを言ったいいのか分からなかったから。

 「もしかして、転校生の夏谷じゃない?」

 「私も同じこと思ってた、夏谷くんかなって」

 見事二人に言い当てられて、驚いた。私は今、どんな顔をしているのだろう。上手く笑顔を作れてる、のかな……?
 ――それにしてもすごい、どうして私の好きな人が分かるんだろう。

 「やっぱり!? 当たりーっ」

 「ちょ、ちょっと待って、私まだ頷いてないよ。何で分かるの?」

 私が慌てて質問すると、今度は二人が目を丸くした。私、何か気に触る質問してしまっただろうか……。二人が嫌な思いをして仲が悪くなってしまわないか心配になる。

 「……愛海ちゃん、気づいてないの?」

 「まなみん、今顔真っ赤だよ」

 「……えっ?」

 私は急いで手鏡を取り出して、自分の顔を見る。すると確かに、耳まで赤くなっているのが分かった。今まで自分のこういう表情を見たことがなかったから、驚いた。
 ――これ、誰なの……本当に、私……?
 信じられなかった。自分がこういう顔をしていたなんて。いつも “笑顔” の私を演じているのに、これだといつもの私ではないから。お母さんの想いに答えなくちゃいけないのに……っ。

 
 わたし、恋を知ってもいいのだろうか……?

 夏谷くんに恋をしてもいいの……?