息切れしながら、私は大好きな人を見つけるためにどんどん道を駆けて行く。元々スポーツは苦手で最近走っていなかったから、足がもたついて思うように前に出ない。

 それに制服姿の女子高校生が走っているからか、道行く人の視線がチクチク刺さるようで痛い。前までの私だったらきっと恥ずかしさでいっぱいで、こんな注目を浴びるようなことはできなかった。

 きっとこれは、私のことを大切に想ってくれている何人もの人が、私を変えてくれたんだろう。

 私は一人の後ろ姿が目に入った。大勢の人がいても、見つけられる。まるで磁石と磁石が引き合うように。

 「麗太くん!!」

 私達が出会ったあの横断歩道に、私の大好きな人がいた。その人のことを、後ろ姿を一目見て分かった。ビー玉のような透き通る目、さらさらした前髪。私が初めて、恋を知った人だから。

 「……なんで、水坂がここにいるの?」

 「麗太くんに会いに来たんだ、ここにいるかなって思って。お願い麗太くん、話を聞いてほしいの」

 「……名前呼び、やめよう。もう恋人じゃないんだから」

 麗太くんの冷たい言葉と視線が、私の心にズキン、と響く。思わず後退りしてしまうけれど、私はちゃんと麗太くんと向き合うって決めたから。絶対に逃げてやるもんか、と強く思う。

 一歩後ろに下がった片足を、もう一度前に出した。

 「……嫌だ。私のなかで麗太くんは麗太くんだから」

 「水坂って、そんな頑固な奴だったっけ」

 「麗太くんが、私を変えたんだよ。私、麗太くんを救いに来たの!!」

 私が大声で怒鳴ると、周囲の人達が私をちらっと見た。麗太くんも目を丸くし、唖然としている。

 「俺は何もしてないし、俺の過去と水坂は関係ないだろ。今更、無理だって分かってるから」

 「……麗太くんの本音を聞かせてほしいだけなの」

 「本音ってなに? だからこの前言ったよな、俺と関わると不幸になる。だから水坂とは別れたい、これが本当の言葉」

 麗太くんは額の汗を手で拭いながら、そう言った。その言葉は嘘を吐いている。私は直感でそれが分かった。

 「嘘吐いてるでしょ、麗太くん」

 「……え?」

 「初めて会ったときもそうだった。大丈夫って言いながら額の汗を手で拭ってたよね。水族館のときに私のことをからかって、“嘘” って言ったときも。単純に暑いから汗を拭ってるだけかと思ってた。けど、本当は麗太くんが嘘を吐くときの癖だよね?」

 麗太くんは額に当てている手をすぐに下ろして、顔を伏せてしまった。見事に言い当てられた、と言っているように。

 「お願い麗太くん、本音を聞かせて。私は麗太くんに救われた。だから今度は、私が麗太くんを救いたいの」

 「……言ったら、俺が俺じゃなくなるかもしれない。水坂が、不幸になるかもしれない」

 「いいよ、一緒に不幸になろうよ。私は麗太くんの傍にいるから」

 数分間沈黙が続き、やがて麗太くんはゆっくりと口を開いた。

 「……咲奈の事故は、俺のせいなんだ。咲奈と二人で横断歩道を渡っているとき、信号無視の車が突っ込んできた。俺が轢かれそうになったんだけど、咲奈が俺を突き飛ばして助けてくれた」

 それのせいで咲奈は帰らぬ人になった、と麗太くんは小さく呟いた。私はただただ何も言えずに、麗太くんの目を見つめていた。

 「一年後、両親もその横断歩道で信号無視のトラックに轢かれて亡くなった。俺は横断歩道に花を添えながら、失望していた」

 その気持ちが痛いほどよく伝わってくる。お母さんのお墓に花束を添えるとき、私は辛いという感情じゃ表せなかった。お母さんがいないこの世界が、信じられなかったから。

 「そのあと姉ちゃんもうつ病になって。最近ようやく、外に出られるようになってきたんだ。当時高校生だったのに、全然学校にも行ってなかった。それで姉ちゃんは高校を退学した」

 美桜さんの過去にも驚きが隠せなかった。美桜さんと初めて会った日、麗太くんが言っていた言葉が脳内に駆け巡る。

 『三個上の姉貴がいるんだけどさ。後輩が欲しいって言ってたから、水坂が来たら喜ぶかなって』

 後輩が欲しいというのは、おそらく高校には行っていなくて年下の関わりがなかったからだろう。そういう意味だったんだ、と納得する。

 「それなのに俺だけ水坂と付き合って、幸せになってる。きっと咲奈にそっくりだから水坂を選んだんだ……俺は最低、だよ」

 そんなことない、って思っていても喉に詰まって思えように声が出なかった。麗太くんの芯のある強くて切ない声を初めて聞いたから。

 「だから、俺は水坂に別れを告げた。俺と関わると不幸になるから。こんな最低な奴より、水坂には相応しい男が現れると思って」

 「……私はきっとこの先何があっても、麗太くんのことが好きだよ」

 そう言いながら私はペンギンのキーホルダーをポケットから取り出し、ぎゅっと強く握りしめた。このキーホルダーがあれば、何でもできる気がする。

 「麗太くんが咲奈さんのことを忘れなくてもいいし、私が不幸になってもいい。私のことを少しでも好きでいてくれるなら。麗太くんと、もう一度付き合いたいの」

 「俺は、水坂のこと好きじゃなくて――」

 「じゃあ前の麗太くんは、私のどこを好きになってくれたの?」

 麗太くんはハッ、としながら俯いた。前々から疑問に思っていた。私には何も取り柄がないのに、麗太くんは好きだと言ってくれたことに。あの言葉は、本物だったはずだから。

 「……出会った日に助けてくれたところ、人一倍優しいところ、笑うと可愛いところ、一番は、俺と全然違うところ」

 今度は私がびっくりして顔を上げる。そんなに褒めてくれるとは思わなかったから、頬が赤くなってしまう。

 (私と麗太くんが全然違うって、どういう意味だろう)

 「水坂は、行動しようと思えば行動できるだろ。俺が少し背中を押せば家族に本音を言えてたし。でも俺は変わらないんだ。もう自分を変えることはできない。咲奈が亡くなったあの日から、俺は笑顔を忘れてしまった」

 麗太くんの美しい顔に、一粒の涙がきらりと輝いた。麗太くんが見せる涙は、たくさんの悲しくて切ない過去が詰まっていて。見ているこっちが貰い泣きしてしまった。

 「……出会った日に私が麗太くんのことを保健室に連れて行ったときさ、笑顔でじゃあねって言ってくれたよね。すごくかっこいいなって思った。太陽みたいな眩しい笑顔だったから」

 私が保健室から出るときに『水坂じゃあな』と言ってくれたこと。今でもフラッシュバックする。あのときの麗太くんの笑顔は、とても眩しかったから。

 「私にまた、あの麗太くんの太陽のような笑顔を見せてほしいの」

 「だから言っただろ、俺はその笑顔が分からない――」

 「私が思い出させる!! 私が変われたのは麗太くんがいてくれたから。今度は私が麗太くんを変える番だと思う。麗太くんと出会えたのは奇跡だから」

 これは神様が与えてくれた奇跡だと、私はそう思っていた。以前までは神様なんて信じていなかった。いや、神様なんて馬鹿馬鹿しいとまで思っていた。前の私は、いま私が神様を敬っているなんて想像できなかっただろう。

 お母さんが亡くなってからずっと、地獄のような暗闇を歩いている気がしていた。お母さんがいないこの世界を生きている意味が分からなくなっていった。

 それにお母さんとの約束を守ろうと必死で、ずっと偽りの笑顔を作っていた。だけど、七月のあの日あの場所で、奇跡が起きたんだ。麗太くんは分からないと思うけど、私すごく変わったんだよ。あの頃の私には想像できなかったくらい、変われたんだよ。

 全部、あなたが私を変えてくれたんだよ――。

 「私もね、友里香さんにお母さんの幻影を見ること何度かあった。もしお母さんが生きていたらこんな風な生活していただろうな……って、寂しくなった」

 友里香さんが料理をしているとき、私の悩みを聞いてくれたとき、朝「おはよう」って言ってくれたとき。お母さんの姿と重ねてしまうことがあった。

 私のなかでお母さんはお母さんしかいないはずなのに。

 「私も友里香さんにお母さんの代替を振ってるのかもしれない。麗太くんが思ってるよりも、私最低な人間なんだよ」

 「……水坂は、最低なんかじゃないだろ」

 「ううん、最低だよ。だって完璧な人なんてこの世に存在しないんだから」

 ただ私と麗太くんは、今が特別不幸なだけ。この先はきっと幸せな未来が待ち望んでいるんだよ。

 「でも俺は大切な人ばかり失ってきた。俺は死神、なんだよ」

 「それは、麗太くんが人を大切に思っているからだよ。だから失うのが怖いんだよ」

 私も麗太くんも、また不幸になるのが怖い。また大切な人を失うのが怖い。

 ――けれどそれは、人を大切に思っている証拠なんだ。

 私は深呼吸をして、口を開いた。

 「……逃げようよ、麗太くん。こんな残酷で悲しい運命から。一緒に幸せになろうよ」

 「俺は、逃げてもいいの?」

 「うん、逃げていいんだよ。一緒に逃げようよ」

 「……でも俺といると水坂が不幸になるだけだ。水坂が辛くなっちゃうかもしれない。……それでも、いいの?」

 「うん、それでもいい。全然いい。私が麗太くんと一緒にいたいだけなの。もう離れ離れになるのはいや……!」

 そう言った瞬間、麗太くんが私の背中に手を回し、抱き寄せてくれた。

 爽やかな麗太くんの香りがふわっと匂う。

 「……ごめん、愛海。俺、どうしていいか分からなかったんだ。愛海のことは好きなはずなのに、どうしても咲奈と重ねてしまう自分に嫌気が差していたから」

 「私こそ、だよ。麗太くんと別れてから、何もできない前の私に戻っちゃったの。ずっと偽りの笑顔を作っていた。麗太くんにいつも支えられてたのに私は麗太くんの過去に気づいてあげられなかった……本当にごめんなさい」

 私も麗太くんの背中に手を回して、服をぎゅっと強く握る。また麗太くんが何処か遠くへ行ってしまいそうで、怖かったから。

 「愛海ってやっぱり、細い体だよな。強く抱きしめたら折れちゃいそう」

 「折れてもいいよ。だからもっとぎゅって抱きしめてほしい。また麗太くんがどこかに行っちゃいそうで、こわい」

 「……愛海は、やっぱり泣き虫だよな。俺はもうどこにも行かないよ。愛海を一人にさせちゃだめだろ」

 涙が溢れて止まらない。昨日の私を思うと、悲しくて、虚しくて、孤独を感じていて。それがいまは好きな人に抱きしめられて幸せだ。

 「……愛海のことが好き、大好き。心の底からそう思ってる。こんな俺だけど、また付き合ってください」

 「――私も麗太くんのことが大好きだよ」

 その瞬間、私の唇と麗太くんの唇が触れ合った――ような気がした。

 夕暮れに照らされながら私達はずっと泣きじゃくって、本物の笑顔で微笑み合っていた。キーホルダーの怒っているペンギンの顔が、一瞬だけ笑顔になったのは気のせいだろうか。