髪を一つに結んで私服に着がえ、スマートフォンをポケットへ入れる。準備をしているとコンコン、とドアを叩く音が聞こえ、私はぱっと振り向いた。

 「愛海ちゃんごめんね、ちょっとお邪魔してもいいかな?」

 「はい、大丈夫です」

 花菜ちゃんと遥香ちゃんが帰ってから数分後、友里香さんが私の部屋にスポーツドリンクを持ってきてくれた。

 「愛海ちゃん、もう体調は大丈夫なの?」

 「はい、回復してきました。あの、今から少しだけ出かけてきてもいいですか?」

 「……えっ、いいけど、出かけるってどこへ?」

 友里香さんが目をぱちぱちさせながら私にそう問いかける。もう人に嘘を吐きたくはない。私は麗太くんのことを素直に話そうと思い、素早く口を開ける。

 「友里香さん、私、好きな人がいるんです」

 「……うん、何となく分かってた。ゆっくりでいいから、話してくれたら嬉しいな」

 「……それで、夏休みにお出かけしようって誘われて、二人で水族館に行って。帰り道、告白されたんです。もちろん付き合うことにしたんですけど、実感が全然湧いてなかった」

 友里香さんは驚くこともなく、私の話を聞いてくれている。私が麗太くんとデートした日の朝、勘付いていたのだろう。何とか誤魔化したつもりだったが、やはり気がついていた。

 「でもその彼は三年前、幼馴染の彼女がいたけど亡くなっちゃったみたいで。この前の始業式の日に、振られちゃって……。私に彼女の幻影を見るから悪いと思っていたみたいで」

 うん、うんと頷いてくれている。友里香さんは優しくて暖かい、けれどどこか悲しい()で私のことを見つめていた。

 「麗太くんが私のことを少しでも好いてくれるなら私はそれでいいのに、だめだ、って……すごく辛くなっちゃって」

 いつの間にか私の頬に涙が伝った。どんどん涙が込み上げてくる。辛い、って感情を口に出すともっと辛くなってしまうから。

 「話してくれてありがとう、愛海ちゃん。私も高校時代に付き合っていた彼がいたんだけど、その人は突然病気で亡くなってしまったの」

 「……えっ」

 「二年間も付き合っていたのに、何も言ってくれなくてね。いつもは “またな” って言ってくれる彼が、最期は “じゃあな” って言ってた。後々後悔したよ、何で気がつかなかったんだろう、って」

 友里香さんの涙を流している姿を見て、私は息を呑んだ。友里香さんの涙には、過去の残酷な経験が溢れ出ている。そんな悲しい過去があったなんて私は思いもしなかった。

 友里香さんは前の旦那さんと離婚したけれど、今は私のお父さんがいる。だから幸せな人生で羨ましいとまで思っていた。

 「最後に会ったときの顔が今でも頭から離れなくってね。いつもキリッとしてて凛々しい顔だったんだけど、あの日は本当に逃げ出したくなるような顔をしてた。死ぬのが怖い、っていう感じの表情、かな」

 逃げ出したくなるような顔、という言葉に私はハッ、とした。麗太くんにもその言葉そっくりな表情をすることが何度もあったから。

 麗太くんが転校してきた日の帰り道に『消えたい』と言っていたとき、お墓参りで会ったとき、別れを告げられたとき――。すべて何かを隠しているような、逃げ出したいと思っている表情をしていた。

 (私、麗太くんのこと気づいてあげられていなかったんだ)

 「本当に後悔してる。私を変えてくれたのは彼なのに、私は彼を変えられなかった。私に勇気を与えてくれたのは、彼だったの」

 「勇気を、与えてくれた……」

 呟きながら頭の中で麗太くんとの思い出が駆け巡る。“いつも笑顔でいないと” と考えていた私が、麗太くんと出会ってから変わった。

 辛いときは辛い、悲しいときは悲しい、嬉しいときは嬉しい、楽しいときは楽しい。自分の本音を少しだけ言えるようになった。

 私に勇気を与えてくれたのは、いつもいつも麗太くんだった――。

 「さっき麗太くん、って言ってたかな? たぶんあの日の夜、私に指摘してくれた子だよね。もう少し愛海さんの気持ちを聞いてあげてもいいんじゃないですか、って」

 あの日というのは、麗太くんとのデートの日、初めて家族に本音を言った日のことだろう。

 『あの、部外者の俺が言うのもあれなんですけど。もう少し、愛海さんの気持ちを聞いてあげてもいいんじゃないですか? お母さん、なら』

 今でも、麗太くんが言ってくれた言葉を鮮明に覚えている。だって、本当に嬉しかったから。麗太くんが傍にいてくれたから、私は本当の気持ちを家族に言えた。

 ――私、こんなにも麗太くんに支えられていたんだ。

 「愛海ちゃんが思ってるよりも、二人の絆は深いんじゃないかな。別れようって言われた日も、麗太くんは本音を言わなかったんじゃないかなって私は思うよ」

 「……どうして、どうして友里香さんが分かるんですか。麗太くんのこと。友里香さんは何も知らない、のに」

 八つ当たりしてはいけないと分かっていても、思わず抵抗してしまった。それに対しても友里香さんは驚くこともなく、落ち着いた表情をしていた。

 「最期に会った日の彼、ずっと浮かない顔していたの。本当は私に病気のことを言いたかったんだと思う。けれど私を悲しませたくなかったっていう一心で、彼は旅立ってしまった」

 友里香さんの言葉は一つ一つが強くて、切なくて。芯のある声が、私の心のなかに響いた。

 (……私、麗太くんとちゃんと向き合ってない)

 麗太くんのことを何も知らないのは、私の方なのだろう。

 「愛海ちゃんが私に本音をぶつけたとき、私嬉しかったんだよ。そりゃあ愛海ちゃんはいつも笑顔でいたから、多少はびっくりしたけど。それでも本当の気持ちを言ってくれて嬉しいって思った」

 「……私、たくさん酷いこと言ったのに嬉しいって思ってくれていたんですか」

 「もちろん。だって親子喧嘩なんてあるあるじゃない。沙耶香はまだ小さいし、喧嘩なんてしたことなかった。それに私、親とはあまり話していなかったし。だから愛海ちゃんが初めてだったんだよ、親子喧嘩」

 そうやって友里香さんはにっこりと笑った。優しくて天使のような微笑み。その言葉を聞くと、私のことを大切に思ってくれていることが分かる。

 (友里香さん、私のこと大事に思ってくれていたんだ。私何も知らなかった……っ)

 「愛海ちゃんがしようとしてること、何となく分かる。きっとその麗太くんのところへ行くのよね?」

 私は友里香さんの目を見ながら首を縦に振った。

 「……愛海ちゃん、本当に変わったね」

 「え?」

 「ううん、何でもない。愛海ちゃんなら絶対に大丈夫だよ。私が彼にできなかったことを、ちゃんとしてほしい。私みたいに後悔してほしくないから」

 花菜ちゃんや遥香ちゃんみたいに、友里香さんが私の背中を優しく押してくれた。

 「――はい。必ず、麗太くんを助けてみせます」

 麗太くんが私を変えてくれたから。

 私も、麗太くんの暗闇を照らす――。

 「お父さん、ちょっと外に出てくるねっ! すぐに戻るから!」

 お父さんが椅子からガタッと立ち上がったけれど、何も目に入らなかった。私はただただ玄関へと駆けて行く。

 「え、お、おい愛海! まだ体調が良くないだろう、どこに行くんだ!」

 「大好きな人を、救ってくる!」

 私はきっと一人じゃない。大人数ではないかもしれないけれど、私のことを好いてくれる人はいる。私のことを応援してくれている。一歩踏み出す勇気を与えてくれている。

 もう迷わない。

 麗太くんが私から離れていっても、私は絶対に離れない。

 麗太くんの暗闇を、私が照らしてあげたい。

 出会ったときの本物の笑顔を見せてほしい。

 この出会いは、きっと意味があるものだから。

 今度は、私が麗太くんを救う番なんだ――。

 白色の雪結晶が描かれたスニーカーを履いて、この残酷な世界の外へと走り出した。