ピピピピピ……と鳴るアラームを止めて、ゆっくり体を起こした。アラームの音を変えてから、少しだけ眠気が飛んでいく気がする。

 昨日は最悪な一日だった。雨のせいか全部投げ出したくなるようなことを考えていたし、自分がどれだけ人に迷惑をかけているかがよく分かった。

 (そういえば、昨日は昼から何も食べてないや)

 昨日の昼ご飯も食べていないし、夜ご飯はもちろん食べていない。友里香さんや沙耶香ちゃんに本音を言ってから部屋に閉じこもったままだったから。 

 「お、愛海か、おはよう」

 「……お父さん、何でいるの」

 一階へ降りると、いつもは夜勤でいないはずのお父さんがリビングの椅子に座り、新聞を読んでいた。

 せっかくお父さんとも本音で話せるようになったのに、また笑顔を作る前の自分に戻ってしまった。これも全部、麗太くんと別れたことが原因だろう。

 「……愛海、何かあったのか? 顔色が悪いぞ」

 お父さんに見事に勘付かれてしまい、私は体をビクッとさせる。自分の手や足が小刻みに震えているのが分かる。

 けれど昨日の出来事は話さなかった。正直に話したら、またお父さんに責められるかもしれない。それが恐怖だから。

 「ううん、何も、ないよ。お父さん心配してくれてありがとう」

 以前のように、笑顔を作る――。けれど不思議なことに、偽りの笑顔を忘れてしまった。私ってどうやって笑っていたっけ。どんなことを考えていたっけ。そんな風に思ってしまう。

 (私いま、笑顔を作れているのかな)

 「そうか、ならいいんだが。とにかく今日は学校休みなさい」

 「え?」

 「顔色が悪すぎる。体調が悪くないにしても、愛海は頑張りすぎてしまうところがあるからな。学校の方には俺が連絡を入れておく、今日休みだから」

 私は止めようとしたが、お父さんはスマートフォンを取り出して、学校へと連絡してしまった。

 体調が悪いわけではない、ただただ麗太くんとのことで気分が沈んでしまっているだけ。私はどれだけお父さんに心配をかければ気が済むのだろう。

 (お父さんにも分かるくらい、そんなに顔色悪いの……?)

 「……ありがとう、お父さん。部屋で休んでるね」

 休みの連絡を入れてしまったのなら休むしかない。私は仕方なく二階へと続く階段を登っていった。
 
 「……っ」

 胸が苦しくなり、手で抑える。先程よりも荒く、強い呼吸をする。息を吸ってもちゃんと吸えた心地がしない。これまでにはないくらい、心臓が苦しかった。

 結局私は、何も成長できていないんだ。少しは変われたと思っていたけれど、何も変われていなかった。そんな気がしていたのは、麗太くんがいつも傍にいてくれたから。麗太くんが駆けつけてくれたからだ。

 「愛海ちゃん、大丈夫? お父さんから体調が悪くて学校休んだって聞いたから」

 ドアの向こうから沙耶香さんの声がして、私はぱっと振り向く。けれど今は誰とも話したくない気分だった。特に友里香さんや沙耶香ちゃんとは。昨日私が本音を言ってから一言も話していないから。

 「……大丈夫です」

 「本当に? なら良いんだけど……後でお粥とか作って持ってくるね。ゆっくり休んでてね」

 明らかに大丈夫じゃないのに、大丈夫と答えた。沙耶香さんにまで心配をかけてはいけない、と心の奥底で思う。

 (もう苦しい。消えてしまいたい。どうして私だけがこんなに辛くならなければいけないの……?)

 机の引き出しのなかにあったカッターナイフを手に取って、手首に近づける。あとはナイフの部分を出して、当てるだけなのに。

 それができなかった。自分の手がガクガクと震え上がっているのが分かる。私はカッターナイフをもう一度机の引き出しへしまった。

 「どう、して……っ」

 今までも自分を殺すことはできていた。偽りの笑顔を保って、周りにいい顔をしまくる自分を作っていたから。けれど自分自身は殺せない。心はいくらでも殺せるけれど、体は殺すことができなかった――。

 「何で……死にたいはず、なのに」

 そうだ、私は死にたいと思っている。消えてしまいたいって確かに思っているはずなのに。それに死んだらきっと、お母さんとまた会えるはずなのに。死ぬのが怖い、生きるのも怖い。

 「私は……結局、どうしたいんだろう……っ」
 
 また涙をポロリとこぼしながら私はベッドに横たわり、深い眠りについた。


 「あっ! はるるん、まなみんが起きたよ」

 「良かったぁ。愛海ちゃん、体調はどう? 大丈夫?」

 花菜ちゃんと遥香ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。そんなことより、どうして二人が私の部屋にいるのだろうか。

 「……何で、二人がここに?」

 自分の声とは思えないほど、枯れきっていた。目頭を触ると少しだけ濡れている。きっと涙を流してそのまま寝てしまったのだろう。

 「お見舞いに来たの、愛海ちゃん学校お休みしてたから」

 「まなみんが休むなんて珍しいじゃん? あ、さっきお母さんがお粥作ってくれたらしいよ。無理しないでって」

 「……ありがとう」

 そう言って私は笑みを作った。昨日二人に麗太くんと付き合ったことを報告したばかりなのに、別れてしまった。

 (二人とも、あんなに喜んでくれてたのにな)

 麗太くんと別れたことを素直に言えない自分が嫌で嫌でたまらなくなる。

 「で、愛海ちゃん。どうしたの? 何かあったんだよね?」

 「……何も、ないよ。ただ体調悪かっただけ。ごめんね、心配かけて」

 そう言うと、花菜ちゃんが私の頬をぎゅっと強くつねった。何が何だか分からなくて頭が混乱している。

 「いまのまなみん、前に戻ってるみたい。そうやってヘラヘラ笑って誤魔化してさ。あたし達がどれだけ心配してるか分からないの?」

 「ちょ、ちょっと花菜ちゃん、それは言いすぎだよ」

 「だってそうじゃん! あたしもはるるんも本当に心配してるんだよ。まなみんは分かってなさすぎ!!」

 花菜ちゃんの顔から怒りが伝わってくる。私は勢いよくベッドから飛び起きた。

 「……なんで。なんで、花菜ちゃんにそんなこと言われなきゃいけないの? 私の苦しみは、辛さは、私にしか分からないのに。分かったように言わないで!!」

 だって、だって――私は息をするのも忘れるまま言葉を続けた。

 「花菜ちゃんはいいよね、大切に思ってくれる家族がいてさ。お母さんがいない私の気持ちなんか分かりっこないよ……かわいそうだと思って言ってるの!?」

 「そうは言ってないじゃん! ただどうしてまなみんは自分の気持ちを隠そうとするの? 偽善者ぶってるんだよ、まなみんの馬鹿!!」

 「私の気持ちなんか、何も知らないくせに。偽善者なのはそっちじゃん!! 花菜ちゃんなんて……っ」

 大嫌い。そう言いかけた途端、はっとした。いま、勢いに任せて花菜ちゃんにたくさん酷いことを言ってしまった。いつも笑顔の水坂愛海はどこへ行ってしまったのだろうか。

 私はまた、大粒の涙がどんどんと溢れ出てくる。

 「愛海ちゃん、出会ったときにお母さんの話してくれたよね。仲良くなってまだ一ヶ月くらいだったからそりゃあ驚いたよ。けどそれと同時に打ち明けてくれて嬉しいと思ったの」

 「……あたしも。まなみんは確かに大人しいから何かあったんだろうなって思ってたけどね。それで最近、夏谷のことあたし達に打ち明けてくれたと思ったら、また嘘吐いてるんだもん。バレバレだよ、親友なんだから」

 二人の言葉に、私はあの日の思い出が鮮明に蘇る。

 『私が中一の頃に本当のお母さんが亡くなっちゃって。四月からお父さんが再婚したんだけどね。でも本当に苦しくて』

 『そっか……愛海ちゃん思い出すの辛いだろうに、話してくれてありがとう』

 『まなみん、大丈夫だよ。いまはあたし達がいるからさ!』

 二人は同情して泣いてくれた。私のために涙を流してくれた。もちろん嬉しかったけれど私が人を悲しませてるって思って、それからは苦しくても笑顔でいるようになったんだ。

 「ごめんなさい。私、私……っ」

 うっ、うっ……と嗚咽を漏らしながら、私は正直に麗太くんと別れたことを二人に伝えた。麗太くんの彼女だった咲奈さんのことも、別れた理由も全て。

 二人なら、受け止めてくれると思ったから。

 「……ごめん、勢い余って酷いこと言った。まなみんなりにあたし達のこと考えてくれたんだよね。本当にごめん」

 「ううん、私こそごめんね。二人が親友だと思ってくれているのを知れて嬉しかった、ありがとう」

 お互いに和解すると、遥香ちゃんは涙を流して見守ってくれていた。私、やっぱり馬鹿だ。こんなにも素敵な親友がいるのに嘘ばかり吐いて。

 「愛海ちゃん、辛かったよね。話してくれてありがとうね」

 「それにしても夏谷酷すぎる。あたしぶっ飛ばしてくるっ」

 「ちょ、ちょっと花菜ちゃん落ち着いて」

 私がそう言ってもお構いなしに、花菜ちゃんの周りに怒りのオーラが漂っていた。けれど私のために怒ってくれているのが分かるから、それ以上は何も言えなかった。

 「でもさ、きっと夏谷くんも愛海ちゃんを傷つけたくなかったんだよ。大切な人ばかり失ったから、今度は愛海ちゃんを失うのが怖いんだと思う」

 遥香ちゃんの言葉に、私は何も言えなくなった。麗太くんは私のことを失うのが怖いから、いっそ自分から離れていったのかもしれない、と思う。私もそうだから。

 不器用なりの麗太くんの優しさが伝わってくる。

 「……まあ、夏谷もさ。まなみんのこと大好きなんだと思うよ」

 「でもあたし達のほうがまなみんのこと大好きだからね」と花菜ちゃんは頬を膨らましてそう言った。

 「愛海ちゃん、大丈夫だよ。私達がいるから」

 「そうそう、まなみん。あたし達が傍にいる!」

 もう前の私じゃないんだ。何もできない水坂愛海じゃない。そう二人が教えてくれた。

 「ありがとう、花菜ちゃん、遥香ちゃん。私、決心した」

 一人じゃない。隣に親友がいてくれるから。

 私ならきっと、いや絶対にできる――。