ダボッとしたピンク色のパーカーを着て、薄めの長ズボンを履く。季節の分かれ目の春や秋に着る洋服は何を着たらいいのだろうか、といつも悩んでしまう。

 「友里香さん、おはようございますっ」

 「愛海ちゃんおはよう、あらもう出かけるの?」

 「はい、ちょっと用事があって。行ってきます」

 友里香さんに挨拶をし、白色の雪結晶が描かれたスニーカーを急いで履く。

 (お母さん、大好きな人のところへ行ってくるね)


 三日前の出来事だった。学校が終わった放課後、いつもの横断歩道まで麗太くんと帰っていたとき。

 「あのさ、今度の日曜、俺の家来ない?」

 「へっ!? い、家……?」

 「ああ、姉ちゃんが来ないかって」

 もちろん行きたいとは思うけれど、女子高校生が異性の家に行っていいのだろうか。健全なお付き合いと言えるのかな、と考えて断ろうとした。

 けれど美桜さんがいるなら行ってみようかなと思い、私は食い気味に頷いた。

 「うん、行こうかな」

 「良かった、きっと姉ちゃん喜ぶよ」

 美桜さんのあの美しくて儚げな笑顔が脳裏に浮かぶ。また会いたいと思っていたから嬉しかった。


 とはいえ初めての好きな人の家となると、緊張で頭がいっぱいだ。どういう話をしよう……こんな格好で良かったのかな……と不安になる。これがまさに恋、って感じだ。

 麗太くんとお墓参りで会ったときに、『両親とか』と言っていたからきっとご両親は亡くなっているのだろう。付き合ってからも、家庭の事情は聞けずにいた。

 「よっ、愛海」

 「ひゃっ!? れ、麗太くん」
 
 「ははっ、驚きすぎ」

 待ち合わせの横断歩道の前で待っていると、後ろから麗太くんが声を掛けてきた。昨日会っていなかっただけなのに、会えたのがとても嬉しく感じる。

 「じゃあ行こっか」

 麗太くんが歩き出したので、私も後ろから後を追うように歩く。何だか水族館デートのときを思い出す。あの頃はこんなふうに付き合えると思っていなかったなぁ、と懐かしく思った。

 「何で愛海後ろ歩いてんの?」

 「え、何か恥ずかしくて」

 「……隣、来いよ」

 麗太くんの手と私の手が触れ合う。それだけでもドキッとするのに、麗太くんが私の手を強く握ってくれたから余計にドキドキする。恋人繋ぎというものだろうか。

 「姉ちゃん、ただいま」

 「んー、麗太おかえり……って、愛海ちゃん!?」

 「お、お邪魔します。美桜さんがいるって聞いたので、あの、ご迷惑でしたら、すぐ帰るんですけど……」

 「あははっ、そんな緊張しないでよ。全然いいんだけど、麗太変なことしたら承知しないからね」

 「分かってるって、何もしねーよ。愛海に変に思われるからやめてほしいんだけど」

 二人の楽しそうなやり取りを見て、こっちまで心が豊かになる。麗太くんと美桜さんは本当に仲の良い姉弟なんだろうな、と思う。

 (私も、沙耶香ちゃんとこんな風になれたらいいな)

 「じゃあリビングに来て、愛海ちゃん。こいつの部屋だと何するかわからないからさ。麗太、何か飲み物持ってきて」

 「……ったく、使い勝手荒いな、姉ちゃんは。愛海、ゆっくりしていって」

 「あ、ありがとう、麗太くん」 

 美桜さんに招かれるがままに、リビングにあるソファへと腰を掛ける。麗太くんの家は二階建てで、水玉模様の壁がかわいらしい。やはり好きな人の家となると緊張でバクバクだ。

 「愛海ちゃん、麗太と付き合ったんだって? 夏休みのあの日、麗太すごい喜んで帰ってきてね、私までびっくりしたの」

 “夏休みのあの日” というのは、水族館デートの日だろう。あの日は夢みたいだった。今でも信じられなくて胸がドキドキして、頭まで鼓動が伝わる。

 (麗太くん、美桜さんに報告したんだ。ちょっと恥ずかしいなあ)

 「きっと麗太、愛海ちゃんの大人しいけど芯のある強さと明るさに惹かれたんだろうね」

 「……そうなんですかね。ありがとう、ございます」

 麗太くんが私のどこを好きになったのかが分からない。私には、何もないから。美桜さんは芯のある強さと明るさ、と言ってくれたけど自分ではピンと来ない。

 そんなことを考えながら部屋を見渡すと、棚の上にある写真が飾ってあった。中学生くらいの男の子と女の子が写っている。

 「あの、この写真って、誰なんですか?」

 「ああ、咲奈(さな)ちゃんだよ。あれ、もしかして麗太から聞かされてない?」

 美桜さんが目をぱちぱちさせる。私は首を横に振った。咲奈さんという人物のことは分からないし、麗太くんから何も聞かされていないから。

 「麗太には三年前、咲奈ちゃんっていう彼女が――」

 「……姉ちゃん、何勝手に話してんの。その話はするなって言ったじゃん」

 麗太くんが飲み物を持ってきてくれた。けれどいつもとは違う、悲しさと怒りが漂っている表情をしていた。

 『麗太には三年前、咲奈ちゃんっていう彼女が』

 先ほど美桜さんが言っていた言葉の意味は何なのだろうか。話についていけない。
 
 「……ごめん、麗太。分かった、ちょっと買い出し行ってくる」

 私は何が何だか分からないまま、ただ座っているだけだった。美桜さんは買い出しに行ってしまって、麗太くんと私は二人きりで緊張してしまう。

 いや、それよりも麗太くんのとても真剣な黒い瞳に吸い込まれて、何も言葉を発せない。今から聞く事実が怖い。

 「……愛海、言ってなくて本当にごめん。さっき姉ちゃんが言ってた通り、俺には三年前の中一のとき、彼女がいた。渡辺 咲奈(わたなべ さな)っていう、幼馴染」

 胸がドクン、と重くなったのが分かる。私たぶん、その咲奈さんに嫉妬してるんだ。麗太くんの前の彼女さん、だから。

 「咲奈は人見知りで大人しいけど、人一倍優しくて笑顔が素敵な子だった。でもある日、事故に遭って死んだ。まだ付き合って半年だったのに」

 私はただただ信じられず、そして何も言えず、唖然としていた。

 「俺は無気力になった。咲奈がいない生活がこんなにも寂しいと思ってなかったから。……そして中ニの頃に、両親が事故で死んだんだ」

 え、と思わず言葉が口から漏れてしまった。咲奈さんが亡くなってからすぐに、麗太くんの両親が事故で亡くなっていただなんて。

 ハッ、と今更気がつく。お墓参りのときに『両親とかの墓参り』と麗太くんが言っていたことに。“とか” の意味は、咲奈さんだったんだ。

 「俺のせいだ、と思った。俺が大切にしている人ばかりが消えていくから。俺は死神なんだよ。俺と関わる人は、みんな不幸になる」

 「で、でも、美桜さんは無事でしょう?」

 「……姉ちゃんは、精神的に病んでしまった。大学も落ちて、両親も死んで、うつ病になったんだ」

 なんとか麗太くんをなだめようと言った言葉があざとなってしまった。美桜さんがうつ病、だなんて信じられない。あの素敵な心の持ち主の、美桜さんが。

 「俺、愛海のこと好きなんだ。でも咲奈の代替に振っている気がして、自分が怖い。咲奈が死んだから愛海、ってこともねーよな、って……」

 「ち、違うよ、麗太くん。私だって麗太くんのこと本気で好きなの、大好きなの」

 恥ずかしいという気持ちよりも、麗太くんの悲しさを訴えている瞳が気になってしょうがなかった。初めて見せる涙だったから。

 「……愛海、本当に俺のことが好き?」

 「う、うん、もちろん。麗太くんのことが好き」

 「――じゃあ俺と、別れてくれ」

 頭の中が真っ白になった。何も考えたくない。

 『じゃあ俺と、別れてくれ』。麗太くんが言ったその言葉が、脳裏から離れない。いつもの優しい麗太くんの声じゃない、別人のようだ。

 冷たくて儚い、麗太くんの視線が私をずっと見ている。

 「愛海のこと、傷つけたくない。俺と関わると、不幸になる、から」

 「……そんなの関係ないよ。それに不幸になってもいい。私は麗太くんのことが好きで、麗太くんも私のことが好き。それじゃあ、だめなの……?」

 声が震えて、上手く言葉を発せない。麗太くんの冷たい視線が、とても痛かった。

 少しだけ沈黙が続いて、麗太くんは口を開いた。

 「愛海のこと、大切にできなくてごめん。――別れよう」

 私の初恋は、二ヶ月も経たずに終わってしまった。


 麗太くんの家を出て、一人で一歩ずつ道を歩く。足が重くて、前に出ない。まだ先程の麗太くんの言葉が頭から離れない。

 『愛海のこと、大切にできなくてごめん。――別れよう』

 あの言葉は正真正銘、麗太くんの本音だった。私に咲奈さんの代替を振っている、と言っていたし。私は麗太くんにとってそんな軽い存在だったんだ……。そう思うと、涙が止まらなかった。

 (ここ、本当に帰り道だっけ)

 いつもと同じ帰り道のはずなのに、何だか長くてずっと続いているような感じがした。


 「ただいま」

 「おかえりなさい、愛海ちゃん。遅かったけど大丈夫?」

 「……うん、全然大丈夫です。心配かけてごめんなさい」

 また私は、偽りの笑顔を作っている。麗太くんがいたからせっかく本当の気持ちを言えるようになったのに、これじゃあまるで振り出しに戻ったようだ。

 (……お母さん、ただいま)

 お母さんの写真に問いかけながら、私は心のなかで気がつく。


 ――恋を失ってから私はまた、何もできない、一歩踏み出すのが怖い前の自分に戻ってしまった。


 「友里香さん、ちょっとだけ部屋で休んできます」

 「うん、分かった。体調悪いなら無理しないでね」

 最近分かってきた友里香さんの優しさが、今となっては苦痛だ。私は麗太くんがいなかったら何もできないし、こんなに弱いだなんて思いもしなかった。

 こんなことになるのなら、浮かれて麗太くんの家になんか行かなければ良かった。そしたらこんなに傷つくことはなかったかもしれないのに。

 生きていれば、どうしても失うものは必ずある。その失ったものが、私が一番大好きな人だっただけ。

 また麗太くんと恋人に戻りたい――。そんな叶いもしない願い事を心のなかで唱えながら、私はペンギンのキーホルダーをぎゅっと握りしめていた。