柔らかな煌めきの真珠を抱いた貝も、色鮮やかな珊瑚礁も、踊るように揺蕩う魚たちも、みんなが生き生きとした輝きを放つ、美しい海。

 深く青い世界は今日も心地よく凪いで、いつも通りの時間が流れていくはずだった。

「ん……?」
「コーデリア、どうかしたの?」
「向こうの方、何かが落ちてきたみたい……大きな飛沫の音がした」
「へえ、相変わらず耳が良いのね。私は気付かなかったわ」
「ふふっ、陸が何か落とし物をしたのかも。わたし、ちょっと見てくる!」
「コーデリアは相変わらず陸に夢中なのね……船には気を付けるのよ」
「はぁい! またねネリッサ」

 やれやれと呆れたようにするネリッサに手を振って、わたしは音のした方へと急いで泳ぐ。
 陸からは、よく物が落ちてくる。それらは大抵、何に使うかわからないつまらないゴミとして処理されてしまうけれど、わたしにとっては宝物だった。
 キラキラしたものはアクセサリーに出来たし、大きなものは秘密基地にだってなる。
 海とは違う、陸の暮らし。不思議なものがたくさんある陸に、わたしはいつか行ってみたかった。

 そんな子供の夢みたいな憧れを、親友のネリッサだけは笑わずにいてくれる。優しく寛容な彼女に感謝しつつ、わたしは音のした辺りへとやって来た。

 海の森と呼ばれる薄暗い場所、魔女の家が近いこの辺りには、普段誰も近付かない。辺りを見渡して、わたしは不意に、まだ音がすることに気付いた。

「あれは……人間?」

 音の出所は、人間のようだった。先程の重たい音の正体だ。
 たまに人間は落ちてくるけれど、それは大抵動かない。けれどその人間はまだ生きているようで、苦しそうにもがいていた。

「やだ、大変……!」

 人間は海では生きられない。エラ呼吸が出来ないのだと聞いたことがある。
 急いで近付く頃には、空気が足りなくなったのか人間は動くことをやめてしまった。
 静かに沈む身体をわたしは慌てて捕まえて、陸の方まで無我夢中で引っ張り上げた。

「……ちょっと、大丈夫? 大丈夫じゃない!?」

 足がないわたしは、陸を移動できない。近くの入り江に何とかその人間を放り投げて、海に浸かったまま揺さぶり声をかけた。

「ねえ、返事してよ……ねえってば!」

 反応のない様子に不安になるあまり、わたしは思わず、尾鰭で思い切り人間を叩いた。

「ぐ……っ!?」
「あ、起きた」
「げほ……っ、痛……ってぇなぁ、何するん、だ……?」

 衝撃で飲み込んだ海水が吐き出され、噎せ込みながら目を覚ました人間は、飛び起きるようにしてわたしを見る。

「は、人魚……?」
「コーデリア」
「え」
「わたし、コーデリア。人間、あなたは?」
「……えっと、湊人……」
「ミナト!」

 人魚に会うのははじめてなのか、わたしを見て夢でも見ているみたいに呆然とするミナト。
 誰も居ない月夜の砂浜、穏やかな波の音と、海の匂いがする陸の空気。これが、わたしとミナトの出会いだった。


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「ふうん、つまり『ヨメイセンコク』っていうのをされて、ミナトは海に身を投げたの?」
「ああ……死ぬまでのカウントダウンなんて、知りたくなかった。迫り来る死を悲観して怯えて過ごすよりは、自分で死ぬタイミングも場所も選びたかった……なのに、お伽噺でしか聞いたことないような『人魚』に助けられるとか……想像つかないだろ」

 少し落ち着いたミナトは、それでも砂浜から離れることなく、海辺を揺蕩うわたしとお話してくれた。
 海の中も美しいけれど、この夜空というのもとても綺麗だ。
 キラキラした月と星が照らす白い浜辺と、自ら命を絶とうとした人間の男の子。非日常の気配に、不謹慎にもわたしは少しわくわくしていた。

「でも、いつ死ぬかわかるなんて、人間ってすごいんだね。海の生き物は大抵急に死んじゃうんだよ。貝やお魚さんたちはでっかい船に捕まって居なくなっちゃったりするし」
「あー……漁……」
「わたしもね、前にあの網に引っ掛かりそうになったことあるよ。びっくりした」
「……気をつけてくれ、人魚が漁の網に引っ掛かったら世間が騒然とする……」
「ふふっ、ミナト、自分が死んじゃいたいくらいなのに、わたしの心配してくれるんだね」

 わたしが笑うと、ミナトは面食らったようにしてから、顔をしかめる。
 どうやら未遂に終わった自殺を再びしようとする気力はないようで、彼はややあって溜め息を吐いた。

「ねえねえ、そのヨメイって、あとどれくらいなの?」
「……三ヶ月」
「サンカゲツ?」
「あー……月があと九十回昇るくらい?」
「えっ、ならその九十回見ないと勿体無いよ! だってほら、こんなに綺麗だし!」
「……」

 わたしが空を指差すと、ミナトもつられたように顔を上げる。まだ濡れた髪から伝う雫が彼の頬を伝って、泣いているように見えた。
 人間は悲しかったりすると、涙という水を流す。それは海水に似てしょっぱいのだと、陸に詳しいおばあちゃんに聞いたことがあった。

「……ねえ、ミナト」
「ん?」

 海水を吐き出すのにたくさん咳き込んだから、ミナトの声はまだ少し掠れている。こんな苦しい思いをしてまで自ら死を選ぶなんて、どんな気持ちだったのだろう。
 死は静寂だ。喜びも悲しみもない、暗闇の底。そんなところに、こうしてまだ生きている彼を置いてきぼりにしたくなかった。

「死に場所には、この海を選んだんだよね?」
「……ああ」
「なら残りの時間、毎日ここでお話ししようよ」
「は……?」
「ここなら海を感じられるし、人間は滅多に来ないの。わたしの秘密の入り江だよ」
「いや、でも僕は……」
「海に飛び込むの、苦しかったでしょ? またやるのは嫌だろうし……それなら最後まで、陸の空気と仲良くしよ?」
「空気と仲良くって、なんだそれ……。……まあ、やることもないし、いいけど」
「やったぁ!」

 わたしの必死の説得が通じたのか、ミナトは困ったように笑って頷く。
 これでミナトは苦しまずに済むし、わたしは人間の世界の話を聞くことが出来る。人間の言葉で言う一石二鳥というやつだ。
 わたしは嬉しくなって、水面で尾鰭を揺らし飛沫を上げた。

「あっ、そうだ。人間の約束って、どうやるの?」
「え、あー……指切りとか?」
「指を、切る? 噛みちぎる?」
「物騒でしかない……」

 溜め息を吐いたミナトは、絶対噛むなよと言いながら波打ち際まで片手を伸ばして、小指を立てる。
 わたしが首を傾げると、小指同士を絡めるのだと教えてくれた。
 そっと触れた小指は温かくて、彼がまだ生きているのだと安堵する。

「これが、指切り。嘘ついたら針千本飲ます、っていうのが一般的」
「そうなんだ、なら次はハリセンボン連れてくるね!」
「いや、それじゃない……いらない……」

 ゆるゆると絡めた小指を揺らしてから、呪文を唱えて解放する。これで約束は完了らしい。人間の文化を早速知れたわたしは、上機嫌で離れた小指を眺めた。

「それじゃあ、約束。ミナトは最後の瞬間まで、わたしとお話ししてね!」
「……ああ、約束」

 約束を交わしてから、ふとミナトには最後の時間を共に過ごしたい友達や家族は居ないのかと気になった。
 けれどまだ、残りの時間はたくさんあるのだ。少しずつ彼のことを知れたら良いなと、わたしはこの終わりの決まった日々の始まりに、小さく願った。


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