約束の日が来た。
いつものように、桔梗には街へ出ると言って家を出た。
桔梗宛の手紙は、机の上に置いてきた。いずれ気付いてもらえるように。
いなくなる理由は書かず、これまでの感謝と、もうこの花柳家には帰らないことを書いた。龍桜院家との契約時にもらったお金を、給金として残して。
空に浮かぶ雲はずいぶん低く、近く感じた。
睡蓮は一歩一歩と歩を進め、薫との約束の場所、花柳の家よりもずっと上の山頂を目指す。
零水山の頂上付近は、見渡す限り銀杏の黄色で染まっている。
銀杏の葉の鮮やかな絨毯を進んでいくと、ほどなくして視界が開けた小高い丘に出た。
その場で眼下の宿場町をぼんやりと眺めていると、ふと風がざわっと強く吹き、睡蓮の長い髪を弄んで抜けていった。
その、刹那。
「待たせたな」
声がして、睡蓮は静かに振り向いた。
振り向いた先に立っていたのは、天女のように美しい容姿をした男。
睡蓮が契約を結んだ相手――白蓮路薫だった。
「どうした? 浮かない顔だな。死ぬのが恐ろしくなったか」
睡蓮の暗い顔を見て、薫はどこか楽しげに目を細めた。
「……そんなことは」
「なら、なんだ? 龍桜院と会えなくなるのが悲しいか?」
問われた睡蓮は、そうとも違う、と、困惑する。
そもそも睡蓮は、楪とは一度も顔を合わせたことがないのだから。
薫の言うとおり、楪とこの先二度と会うことは叶わないということはもちろん悲しい。だが、それよりも睡蓮の心に影を落としていたのは、桔梗の存在だった。
――私、いつの間にこんなに桔梗さんのことを……。
いけない、と睡蓮は目を閉じ、静かに深呼吸をした。
すべての感情を、心の奥深くにしまい込んでから、ゆっくりと目を開ける。
再び目を開けたとき、睡蓮の眼差しに迷いはなくなっていた。
「白蓮路さま。最後にひとついいですか」
「なんだ?」
「今まで、ありがとうございました」
「ん?」
これから殺そうとしている相手に突然礼を言われた薫は、怪訝な顔をして睡蓮を見た。
「本音を言うと私……楪さまと結婚してる間、本当はちょっと寂しかったんです。……でも、そんなときあなたがやってきて、私は楪さまを守るためにこの契約をしました。魂と引き換えでしたけど、私、白蓮路さまと話すの好きでした。私に楪さまを助けさせてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「白蓮路さま、あとのことはお願いします」
白蓮路はじっと睡蓮を見つめ、口を開く。
「……わたしは」
しかし、続く言葉を発する前に、ふたりの周囲に一陣の風が吹き荒れた。
突然の突風に、睡蓮は思わず目を強く瞑る。
「睡蓮!」
すべてを覆い隠すような強い風の隙間から、ふと聞きなれた声が聞こえた気がして睡蓮は顔を上げた。
目の前を、銀色の羽衣が舞ったように見えた。なんだろう、と睡蓮は何度も目を瞬かせる。
「え……?」
羽衣の正体は、髪だった。
睡蓮の目の前に、美しい銀髪の男性がいた。
「睡蓮さま。よかった、無事でしたか」
男性はなぜかホッとしたような顔をして、睡蓮の名前を呼ぶ。が、睡蓮は知らない男性だ。
だれだろう、と考えて、ふと声に聞き覚えがあることに気付いた。
この声は……。
「もしかして……桔梗、さん?」
「……あぁ、この顔を見せたのは初めてだったか」
驚く睡蓮を見て、仮面を外していることを思い出したのか、桔梗は顔に手を持っていく。
再び睡蓮を見て、桔梗はいつもしているように胸に手を添えて頭を下げた。
「桔梗ですよ、睡蓮さま」
初めて見る桔梗の圧倒的な容姿に呆然とする睡蓮を、桔梗は優しく抱き寄せた。
「あ……あの、桔梗さん? 私、今とても大切な用事があって……」
「大切な用事? 妖狐との密会がですか? 夫としては、それはちょっといただけないんですが」
「……夫?」
どういう意味? と、睡蓮は、困惑して桔梗を見る。桔梗は言う。
「俺の本当の名は、龍桜院楪と言います。正真正銘、あなたの夫ですよ」
「え……?」
睡蓮は目を見開き、桔梗を見た。
「桔梗さんが……楪さま……?」
突然の告白に呆然とする睡蓮に、楪はゆったりとした口調で言う。
「ずっと黙っていてすみません。実はずっと、桔梗として睡蓮さまのことを探らせてもらっていたんです」
「探るって、なにを……」
「離縁したいと言われたとき、睡蓮さまがなにか企んでいるのではないかと疑ったんです」
「企む?」
睡蓮はきょとんとした顔をした。楪はバツが悪そうに睡蓮から目を逸らす。
「俺は今まで、ひとを一切信用しませんでした。失礼な話ですが、花嫁であるあなたのことも、初めから信用していなかった。あなたからの手紙は一度も読んだことがなかったし、差し入れもすべて桃李からのものだと思っていました。たぶん、あなたからの差し入れだと言われたら俺は迷わず処分しただろうから、桃李はあえて伝えなかったのだと思います」
「……そうでしたか」
睡蓮はかすかに微笑んだ。
毎月楪へ送っていた手紙。返事が来ないことは仕方ないと思っていた。けれど、読んでもいなかった、と言われたのはさすがにショックだった。
楪は俯いてしまった睡蓮の顔へ手を伸ばすが、触れる直前でやめた。
「……離縁したあと、桃李からあなたの手紙を渡されました。桃李はあなたのことをとても信頼していて、俺にあなたを連れ戻しに行けとうるさく言いました。でも、俺はあなたの手紙を読んでもなお信用しきれなくて、桔梗と名を偽って探りにきました」
「…………そうでしたか」
本音を言えば、涙が出そうになるくらいに悲しかった。睡蓮なりに、楪のことはまっすぐ思ってきたつもりだったから。
でも、同時に……。
睡蓮の脳裏に、ひとりの青年の顔が浮かぶ。
じぶんの知らないところで、桃李は睡蓮のために動いてくれていた。睡蓮はそのことがどうしようもなく嬉しかった。
「……あなたと過ごして、なにもかも俺が間違っていたことに気付きました。あなたが権力目当てなんかではなかったこと、あなたが心から俺のことを想ってくれていたこと……それから、俺を守るために離縁を選んでくれたことも」
睡蓮が驚いて顔を上げる。
「……私が白蓮路さまと交わした契約のことまで知っていたのですか?」
「あなたの妖気が日に日に弱っていくから、桃李に調べさせたんです。……とにかく、間に合ってよかった。まだ、あいつに最後の魂は奪われていないのですよね?」
優しい声に、睡蓮はぎこちなく頷く。
「……はい、まだ……」
「よかった」
楪は睡蓮に向き合うと、その頬を優しく撫でた。睡蓮は楪を見上げる。その頬はほんのり薄紅色に染まっていた。
「睡蓮さま。今さらだけど、これまであなたにしてきた仕打ちを謝らせてください。本当にごめんなさい」
「仕打ちだなんてそんな……」
睡蓮はぶんぶんと首を横に振る。
「楪さまは、初めから私に契約結婚であることを打ち明けてくださっていましたし、手紙だって私の自己満足です。それに、お家柄やお力のことで今までご苦労なさってきたでしょうから……周りを疑ってしまうのは仕方のないことですよ」
楪は困ったように微笑んだ。
「あなたは本当に優しいひとですね。……でも、そうだとしても、俺があなたにひどいことしたのはたしかです。しかも俺はひどいことをしている自覚すらありませんでした。この考え方は、生まれ持って俺の心に染み付いていました。女のことは利用するつもりで、側近には裏切られる覚悟で、常に裏を読むようになっていました。……でも、あなたは違った。あなたは心から優しいひとでした。なにも持たず、なにもできず、素性すらも知れない桔梗という男を優しく迎え入れてくれた」
「お、大袈裟ですよ。私の方こそ、桔梗さんにはたくさんの愛をもらいました。……その、死にたくないって、思うくらいに」
楪は苦しげな表情で睡蓮を見つめた。
「……すみません。こんなこと……いえ、あの、こんなこと言うつもりはなくて……」
口走った言葉に今さら動揺する睡蓮を、楪は堪らず抱き寄せた。
「あなたは、もう……」
「え……あ、あの、楪……さま」
突然抱き締められ、睡蓮はあわあわと慌てふためく。
「……どれだけ俺を虜にするつもりですか」
楪の言葉に、睡蓮はぽかんとした。
しばらくぽかんとしてから、我に返った睡蓮は楪を見上げる。
「あのっ……そ、それはっ」
そのときだった。
楪が羽織の袖で睡蓮の口を塞いだ。
「むっ!?」
「口を閉じて。この妖気を吸っちゃいけない」
楪がひそやかな声で言う。ふたりの周囲を、怪しげな紫色の煙が満たしていた。薫だ。
足元を見れば、鮮やかな黄色だった銀杏の葉が、濃い茶色に変色していた。
「妖狐の毒です」
――妖狐?
睡蓮は口を袖で覆ったまま、眉を寄せた。
楪は睡蓮を挟んで向かい側にいる薫を睨みつけている。
「あの……白蓮路さまは、なぜ……」
「あいつは白蓮路じゃありません」
「え?」
「白蓮路に化けた妖狐。あなたを騙し、魂を奪おうとした邪悪なあやかしです」
目を見開き、驚く睡蓮の前に、白い狐の姿をした化け物が現れる。
「私は……妖狐に騙されていたの?」
「現人神は魂を犠牲にだれかを救うなんてことはぜったいにしません。この取引自体、有り得ないことです」
「フン。今さら気付いたところでもう遅い」
妖狐の低い咆哮混じりの声が轟いた。
彼の体から発せられる妖気は、さらに周囲を死の色に染め上げていく。
睡蓮は困惑した。
神の力を持つとはいえ、こんな恐ろしい力がひとびとや土地を守るとは思えないからだ。
「そんな……白蓮路さまじゃないなんて」
睡蓮が呟いたその直後。
睡蓮を目掛けて、紫色の炎が飛んできた。楪が睡蓮を抱きかかえ、素早く後方に飛ぶ。しかし、炎は消えることなく、軌道を変え、睡蓮をどこまでも追いかけてくる。楪は睡蓮を抱いたまま、炎から逃げ続けた。楪の腕の中で、睡蓮は訊ねる。
「では、私が魂を差し出しても楪さまは助からないの……?」
不安げな眼差しで楪を見上げる睡蓮に、楪は優しく微笑む。
「それは大丈夫ですよ。そもそも俺が死ぬという話自体、奴の嘘ですから」
え、と睡蓮の口から戸惑いの声が漏れる。
「では……楪さまは死なないのですか?」
「死にませんよ」
「そ、そっか……よかった……」
息をつく睡蓮に、楪が苦笑する。
「わたしの炎を前に、無駄話とは」
妖狐の瞳が紫色に光る。
「死ねっ!」
再び、今度はいくつもの炎が睡蓮たちを襲い来る。
「チッ!」
楪は逃げる。が、次第に追い込まれていく。
炎がとうとう睡蓮と楪に追いつく直前、ふたりのあいだを、影が横切った。
じゃきんと刃物同士が擦れ合うような音がして、睡蓮は振り向く。
楪も足を止め、睡蓮を抱いたまま振り返った。
「遅くなりました」
そこにいたのは、両手に刀を構えた侍然とした男性。
額には、大きなひとつの角。赤い瞳は鋭く、少し開いた口からは鋭い犬歯が覗いている。
ただ目が合っただけで、息すらできなくなってしまいそうなほどの迫力。
「ご無事でしたか、楪さま、睡蓮さま」
あやかしは睡蓮と楪を見て、ひそやかな声で言う。
目が合い、睡蓮はあれ、と思った。
その面立ちと声にどこか見覚えがあったのだ。鋭いけれど、どこか優しげな目元。凛としていながらも、柔らかな声。
睡蓮はこのあやかしを知っている。
「もしかして、桃李さん……?」
睡蓮が訊ねると、そのあやかしは両手の刀を下ろし、優雅な所作で会釈した。
「ご無沙汰しております、睡蓮さま」
「桃李さん……嘘、本当に? 本当に、桃李さん?」
凛としたその立ち姿は、まるで別人だ。
「あやかしの姿で会うのは初めてでしたね。驚かせてしまい、申し訳ありません」
睡蓮はぶんぶんと首を振る。
「会えて嬉しいです……!」
心がパッと、太陽に包まれたような安心感を覚えた。
「桃李、助かった」
楪が桃李に声をかける。
「お怪我はございませんでしたか、楪さま」
「あぁ」
桃李は楪へ素早く駆け寄ると、その場に跪いた。
「さて」と、楪が妖狐へ冷淡な眼差しを向ける。
「妖狐。今までは大目に見ていたが、今回ばかりは許しはしない」
楪が凄む。しかし妖狐は楪の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「フン。わたしはただ、この娘との契約を遂行しただけだ。お前に文句を言われる筋合いはない」
「一方にしか利益がない取引を契約とは言わない」
「今さら喚いたところで無駄だ。娘の魂のうち、八つはもうわたしの中にある。残りひとつをもらったら、その娘は消える」
「……どんな卑怯な手を使って彼女を騙したのかは知らないが、この契約は破棄させてもらう。お前が奪った彼女の魂、今ここで大人しく返せばこの話は不問にしてやるが?」
「それはできないな」
桔梗の眉間に皺が寄る。
「おまえ、いったいなにが目的なんだ? なぜ彼女を狙う」
「決まってるだろ。復讐だ」
「復讐だと?」
妖狐の体が、激しい紫色の炎に包まれていく。
「お前に封印されたときから、わたしはずっとお前の一族を陥れることだけを考えてきたというのに!」
大きな咆哮が空に抜ける。
「お前が悪事ばかり働くから封印しただけだ。逆恨みされても困る。それより妖狐、お前、どうやって俺の封印を解いた?」
「フッ……解いたんじゃない。勝手に解けたのだ」
「勝手に解けただと?」
「あぁ。岩が割れたんだよ。お前の力が弱ったのか、それとも俺の力が強くなったのかは知らんがな。おかげでわたしはもう完全に自由だ」
そう言って、妖狐はにやりと口角を上げ、怪しげに笑った。
「お前に復讐をと思っていたとき、結婚したと聞いてな。わたしが身動き取れずにいたあいだに、お前だけ幸せになりやがって……。だから花嫁を見つけ出し、三ヶ月後にお前が死ぬと吹き込んでやった。そうして、囁いた。お前を生かすには、じぶんの魂を差し出すしかないと。そうしたらその娘はあっさり魂を差し出したよ。可哀想に。お前の大切な花嫁は、お前のせいで死ぬんだ。お前自身が愛しい花嫁を殺すんだよ」
妖狐の声は、楪の胸に深く、低く、重く落ちた。楪がなにも言い返せず黙り込んでいると、
「違います」
と、凛とした睡蓮の声が響いた。楪と桃李が振り向く。
「私があなたと契約したのは私の意思です。楪さまは関係ありません」
「……睡蓮さま」
「ですから、楪さまが心を痛める必要なんてひとつもないのです」
楪が苦しげな表情で睡蓮を見る。
「なぜ、あなたは顔も知らない男のためにそこまで……」
「……それは」
睡蓮は一瞬言葉につまる。
楪の言葉が頭の中をぐるぐる巡る。
なぜ、楪の身代わりになったのか。
考えるまでもない。
好きだったからだ。楪のことが。
睡蓮にとって、楪はすべてだった。
でも、そんなことはとても言えない。今のじぶんたちは夫婦ではないから。
黙り込んでしまった睡蓮に、楪は困った顔をする。
「……顔を上げて。そんな顔をしないでください、睡蓮さま。すべてが終わったら、ちゃんと話しましょう」
楪は妖狐へ目を向けた。
「……今はまず、奴に奪われたあなたの魂を取り返さなければ」
楪は睡蓮を背後に隠すと、氷のように冷たい眼差しを妖狐に向けた。
妖狐は口の端を上げ、不気味に笑う。綺麗な顔が不気味に歪み、びりびりと口が裂けていくようだった。
妖狐はこれまでよりさらに強い妖気を放ち始める。木々が枯れ、花は散り、色が消えていく。
「娘はわたしのものだ。この娘を奪って、これからはわたしがお前の代わりに東の土地のトップに立つ」
静かな咆哮。けれど、その低く深い声はどこまでも染み込み、臓器を直接揺さぶるようだった。
しかし、威勢を示す妖狐を前にしても、楪は怯まない。
楪は懐に手を入れると、煙管を取り出した。火をつけながら、ちらりと挑発的な視線を妖狐に向ける。
「大人しく魂を返せば、ペットとして可愛がってやらないこともないのに、残念だな」
妖狐の眉間がひくりと動いた。
「貴様……」
妖狐は鼻の頭に皺を寄せ、恐ろしい形相で楪を睨んでいる。
凄まじい目力に、睡蓮は肩を竦めた。一方で楪は、呑気に煙管を蒸かしている。
ふぅっと息を吐くたび、楪の唇から零れた銀青色の煙がみるみる灰色だった周囲を塗り替えていく。
「すごい……」
枯れていた草花が、見る間に元の色に戻っていく。どうやら、楪が吐く息の力のようだった。
一面に漂っていた死の気配は消え、代わりにみずみずしい植物たちの気配でいっぱいになる。
「ほら。もう花は息を吹き返したぞ。大した自信だったようだが、口ほどにもなかったな」
妖狐が唸る。
「小僧が生意気を語るなぁっ!!」
妖狐が飛び上がると同時に、楪は睡蓮を強く抱き寄せた。
「睡蓮さま、少しだけ我慢してくださいね」
「わっ……」
楪と身体が再び密着する。小さく震えている睡蓮に気付いたのか、楪は睡蓮に口を寄せ、優しく言った。
「大丈夫だから」
楪のたったひとことで不思議と恐怖は消え、震えが止まる。
「はい」
睡蓮は頷き、じっと楪に張り付く。
「目眩しのつもりか? こんなもの、千里眼を持つわたしにはなんの意味もないぞ!」
地鳴りのような咆哮が、凄まじい勢いでふたりの元へ向かってくる。
桃李が刀を構えた。
視界は不明瞭だが、妖狐が地を蹴る音がものすごい勢いで近づいてくる。
まずい、と思ったときにはもうすぐ目の前で妖狐が大きな口を開け、睡蓮たちに襲いかかっていた。
その刹那。
ピン、と強い光が一瞬、睡蓮たちの周囲を包んだ。
「ギャンッ!」
悲鳴が聞こえた。おそるおそる目を開けると、睡蓮の目の前に小さな小狐がいた。綺麗な毛並みの、ほんの猫ほどの小狐だ。
「えっ?」
思わず可愛い、と呟く睡蓮。
ぺたっと地面に張り付いていた小狐は、むくっと起き上がると、
「貴様、よくも! わたしの力を返せ!!」
と、叫んだ。声が異様に高く、やかましいだけでさっきまでの迫力はまるでない。
「なにがわたしの力、だ。ひとを喰らわなければ妖狐の姿すら維持できないくせに」
「黙れこのやろー!!」
小狐は小さく唸りながら再び楪に飛びかかってくる。楪はそれをハエでも叩き落とすようにぺっと弾くと、冷ややかに言った。
「さて。覚悟はできているよな?」
楪の瞳が淡く発光し――耳をつんざくほどの大きな爆発音が響いた。
「ギャァァア!!」
小狐が悲鳴を上げる。
突然の爆発音と小狐の悲鳴に、睡蓮は反射的に強く目を瞑る。
空から降った落雷が、妖狐を直撃したのだった。
ほどなくして音が止み、周囲に静けさが戻ると、睡蓮はようやく目を開けた。
目の前にあるのは、焼け焦げた地面とぼろ雑巾のようになった小狐だった。小狐は力尽きたのか、地面に伏せたまま荒い息をしていた。
「くそっ……貴様のような人間ごときにわたしが屈するなんて……くそっ、くそっ!」
喚く小狐に楪はゆっくりと歩み寄り、低い声で言う。
「もう一度言う。死にたくなければ、今すぐ睡蓮に魂を返せ」
小狐は楪を見上げ、鼻で笑った。
「断る」
楪はやれやれとため息をついた。
「……そうか。なら力ずくで返してもらう」
楪の瞳が青白く光る。
大地が唸り、なにもなかった地面に旋風が巻き起こる。旋風の中心から水が吹き出し、その水は束となって容赦なく小狐を覆っていった。
「なっ……なんだこれは!」
怯んだ小狐に、楪はゆっくりと近付き、煙管の煙を吹きかけた。
その刹那。
パキッと音がした。
見ると、小狐が氷漬けになっている。楪の吐息が引き金となり、小狐を覆っていた水の粒子が凝結したのだ。
氷漬けにされぴくりともしない小狐に、睡蓮はだんだん不安を募らせた。
もしかして、楪はこの小狐を殺してしまうつもりなのだろうかと。
「あ、あの楪さま……彼はどうなってしまうのですか? もしかして……」
「大丈夫、あなたの魂と不必要な力を奪ったら、術は解きますよ」
睡蓮の言いたいことを察した楪は、優しく微笑んだ。小狐へ手を翳し、手のひらをくるりと翻し、見えない糸でも引くように手を自身の胸へと引き寄せた。
小狐の胸辺りから、すうっとなにか白いものが揺らめきながら現れた。
目を凝らして見ると、それは花だった。
薄紅色をしたきれいな椿だ。現れた椿は、まるで花自身に意思でもあるかのように、まっすぐ睡蓮のもとへとやってきた。
睡蓮は椿をそっと両手で包む。花はそのまま胸へと吸い込まれていった。花が消えた瞬間、睡蓮はじぶんの身体がふわりと軽くなるのを感じた。
「なんだか……身体が軽くなったような」
睡蓮の言葉に、楪がほっとしたように笑う。
「よかった。無事、ちゃんと魂が戻ったようですね」
「……あの、楪さま」
睡蓮は氷漬けにされた小狐から楪へ目を向け、目で訴える。
「……俺の花嫁を騙し、魂を喰らおうとした罪は重い。本来なら再び溶岩に閉じ込めたいところなのだが……」
睡蓮の顔を見て、楪は苦笑する。
「……それは望んでいないようですね」
「私……どうしても嫌いになれないんです。彼は、私が孤独だったとき、たったひとりそばにいてくれました。もちろんそれは、私を欺くための演技だったのかもしれません。でも……楽しかったから」
複雑な顔をする楪の向こうで、氷漬けにされたままの小狐の瞳がきらりと光る。
また術を使うのかと楪は身構えた。……が、そうではなかった。小狐は涙を流していた。
楪はわずかに目をみはる。
「……あなたは、すごいな。千年を生きる妖狐の心まで奪ってしまうなんて」
楪はやれやれと肩を竦めて、小狐の身動きを封じていた氷に息を吹きかけた。たちまち、氷は銀青色の煙と化して溶けていく。
術を解かれた小狐はその場にごろりと崩れ落ちた。
「力は奪いました。もう悪さはできないでしょう。彼女に感謝するんだな」
楪は後半、小狐に向けて言った。
睡蓮が小狐に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
小狐は肩で息をしながら「あぁ」と漏らす。
「……お前は正真正銘の馬鹿だな。わたしはお前を殺そうとしたんだぞ。それなのに……助けるなんて」
小狐はときおり苦しげに息を吐きながら言った。
「ふふ……ですね。でも私、まだ死んでませんし」
控えめに微笑んだ睡蓮から小狐は目を逸らし、ぽつりと言った。
「……変な娘だ」
小狐はそう吐き捨てると後方に飛び上がり、ふたりから距離を取った。
「とにかく、魂は返したからな!」
「……はい」
「さっさと失せろ」
楪が冷ややかに言う。
「フン。言われなくとも」
小狐の憎々しげな視線に、睡蓮は少し寂しさを覚えた。小狐が立ち去るのを見守っていると、不意に小狐が振り返った。
「おい、娘」
睡蓮は顔を上げ、首を傾げて小狐を見た。
「お前も共に来るか」
「えっ!?」
小狐の言葉に睡蓮は驚き、瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「お前も分かっているだろう。その男は、ひともあやかしも、身内ですら信用しない。そんな男といても幸せにはなれないだろう。だが、わたしは違う。わたしはお前を気に入った」
すかさず楪が睡蓮の前に立つ。
「おい。どさくさに紛れてなにひとの花嫁を口説いている?」
「お前らはもう離縁しているだろうが。お前に責められるいわれはない」
「それは……」
ぴしゃりと言い返され、楪は言葉につまる。苦い顔をする楪と小狐を交互に見比べ、睡蓮は俯いた。
「そうですね……私は、楪さまとはもう他人なのでした」
悲しいけれど。
呟いた睡蓮と楪の間を、風が吹き抜けていく。
風は地面に落ちた銀杏の葉を巻き上げ、睡蓮の視界を鮮やかな黄色に染め上げた。
「娘、わたしと共に行こう。土地に縛られず、自由に生きるのだ。わたしと、ふたりで」
小狐は再び睡蓮に近付き、誘う。
「…………」
睡蓮は少しの間を空けてから、小狐を見てはっきりと告げる。
「……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません」
「……なぜだ?」
「私には、どうしても忘れられないひとがいるんです」
そう言って、睡蓮は楪を見た。
「私は……もう死ぬと思っていました。だからぜんぶ、諦めてたんですけど……でも」
生きられると分かった今、睡蓮の中の楪への思いはさらに大きくなっていた。
生きることが許されるのならば、もう少し楪を想っていたい。
桔梗が楪だと知った今、さらにその思いは強くなっていった。
「……フン。つまらん」
小狐は興味は失せたとばかりに睡蓮に背を向けた。
「あっ……待って!」
再び歩き出そうとする小狐の背中に、睡蓮は呼びかける。
呼び止められた小狐は一瞬動きを止め、振り返らないまま答えた。
「なんだ?」
「……あなたの、本当の名前はなんて言うの?」
「…………幽雪だ」
幽雪はわずかに顔を睡蓮の方へ向け、言った。
「幽雪さん。ひとりぼっちだった私の話し相手になってくれてありがとう」
幽雪の耳がぴくりと動く。
「幽雪さん。あなたは――私の友達よ。あなたがそう思っていなくても、私はずっとそう思っています。……お元気で」
幽雪はなにも答えない。ただ、前を向く直前、頷くようにひとつだけ瞬きをした。
そして――幽雪はその場に仄かな煙を残し、消えた。