茂る竹の葉の隙間から見える空は、分厚い雲で覆われている。
 花柳家は零水山(れいすいさん)という山の中腹にある。山を下り、しばらく歩くと街道沿いに並ぶ宿場町に出た。呉服屋、白粉屋、古着屋、煮売り屋、湯屋などさまざまな店が立ち並ぶ。
「あの、桔梗さん。どうしたんですか、急に街に行きたいだなんて」
 手を引かれて歩きながら睡蓮が訊ねると、桔梗は立ち止まり、ようやく手を離した。
「すみません」
「あ、いえ怒っているわけでは」
 ないのですけど、と小さな声で返すと、桔梗はどこか恥ずかしそうに苦笑した。
「なにか、睡蓮さまに恩返しができないかと思って。はしゃぎ過ぎましたね」
「恩返し……ですか?」
「はい。今まで俺、睡蓮さまにはお世話になりっぱなしでしたから」
「恩返しなんてとんでもないですよ。むしろ、お世話になっていたのは私の方です」
 桔梗が微笑む。
「そんなことありません。もともとなにもできなかった俺に洗濯の仕方や掃除の仕方、料理まで教えてくれたではないですか」
「……そういえばそうでした。でも、今では私よりもずっと上手ですけどね」
 家事のことを言っていたのか、と睡蓮はようやく合点がいった。
 たしかに、桔梗はやってきた頃、家事がなにもできなかった。そのため睡蓮が一からすべて教えたのだ。その際、睡蓮もひとに教えるということは初めてでいろいろと失敗も多かったが、なんだかんだ楽しかった。
 桔梗は筋が良く、あっという間に手際よく家事をこなすようになったので、すっかり忘れていた。
「睡蓮さま、あそこ入りましょう」
 歩きながら話していると、桔梗がとある店を指をさした。桔梗の指し示す先にあったのは、呉服屋だった。
「呉服屋さんですか」
 新しい着物でも買うのかな、と桔梗を見る。
 桔梗の今日の装いは、藍色の市松のお召に青碧色の羽織り。新緑の季節にぴったりだ。
 いつも思っていたが、桔梗は普段からとても洒落た着物を着ている。
 一方で、睡蓮はじぶんの格好を見た。季節を問わず着られる薄紅色の麻の葉の小紋に、無地の茶色袴。臙脂色の羽織りと合わせても、かなり地味な着物だ。
 若い娘ならもっと派手なものを着るものだが、仕方がなかった。
 睡蓮に与えられるのは、いつも母親や妹が着なくなったお下がりの着物だ。流行などとっくに廃れたもの。睡蓮はそれを、丁寧にじぶん用に仕立て直して使っている。
 今までは特に気にしてこなかったが、街へ来ると同年代のお洒落な若者があちこちで視界に入って、じぶんの格好が変なのではないかと思ってしまう。特に、桔梗がとなりにいるときは。
 ――というか、私がこんな高級店に入ってもいいのかな。
 古着屋には入ったことはあるが、呉服屋に入るのは初めてだ。慣れていない睡蓮は躊躇ってしまう。
「睡蓮さま、行きましょう」
「あ、う、はい……」
 迷いなく店に入っていく桔梗のあとを、睡蓮はおずおずとついていった。
 店内に入ると、まず目に入ったのは衣桁にかけられた鮮やかな振袖だった。
 真っ赤な布地に、大きな桃色の牡丹の花がこれでもかと咲いている。
「わ、わぁ……」
 頬を薄紅に染め、目を輝かせる睡蓮を見て、桔梗は仮面の下で微笑んだ。無論、睡蓮はそのことに気付きはしない。
「すごいきれい」
「これは京友禅ですね。睡蓮さまは色白ですから、この紅色はとても似合いそうです」
 さらりとした桔梗の褒め言葉にもそうだが、それよりも睡蓮は京友禅という言葉にどきりとした。
 京友禅の振袖など、睡蓮にとっては一生縁がない高級着物だ。
「これ、気に入りましたか?」
 桔梗が聞くと、睡蓮は桔梗を見てぶんぶんと勢いよく首を振った。
「とんでもないです!」
 あまりにも必死な顔に、桔梗は思わずぷっと笑った。
「今後の参考に合わせてみるだけでも……」
「いいですいいです! そもそも私、古着以外着たことないので……こんな高級なもの、緊張してしまってとても着られません」
「うーん……似合うと思うのになぁ」
桔梗はブツブツ言いながら、他の反物を見た。
「あ、これはどうでしょう?」
 桔梗が持ってきたのは、銀青色の金魚が泳ぐ美しい反物だった。
「わ……きれい」
 珍しい柄に、睡蓮は嘆息する。が、あまりのきらびやかさに慌てて我に返り、
「私はいいですよ。それより、桔梗さんの着物を見ましょう」
「俺はべつに今ある着物で十分ですよ。今日はもともと、睡蓮さまに新しい着物をと思って……」
「わわ、私、家柄はともかく、個人で自由になるお金なんて持ってないですから」
 龍桜院家との契約時にもらったお金は多少あるが、それは桔梗への給金として使っているから、じぶんのために使うわけにはいかない。
「もちろん、俺が出しますよ。俺が差し上げたいのです」
「え!? だだ、ダメですよ、そんなの」
 主人が使用人にものをもらうなど、あってはならない。逆はあってもだ。
 名家の長女が物乞いのようなことをしてははしたないと、睡蓮は幼い頃から両親にそう教育を受けていた。たとえそんな教育を受けておらずとも、これはさすがにダメだと分かる。
 しかし、桔梗はまるで気にしていなかった。
「うん、やっぱり涼やかでこれからの季節にぴったりです。これにしましょう」
「えっ!?」
「すみません。これ、彼女に合わせていただけますか」
「かしこまりました」
 桔梗は戸惑う睡蓮をスルーして、どんどん店側と話をつけていく。
 計測を終え、困った顔をして試着室から出てきた睡蓮を見て、桔梗は小さく笑った。
「そんな顔しないでください。これは俺のわがままですから」
「でも……」
 桔梗が購入しようとしているあの着物は、試着室で店員に値段を聞いたら、睡蓮の目が飛び出るほどに高価なものだった。睡蓮の持ち金ではとても手が届かないものだ。
「着飾った睡蓮さまを俺が見たいんです。これを着て、どこか出かけましょう。そうだ、花火大会とか。夏祭りもいいですね」
 桔梗はどこか楽しそうな声音で言う。
「……睡蓮さま。それが俺のご褒美なんです。ダメですか?」
 そう言われてしまっては、睡蓮はもうなにも言えない。
「では、こちらお仕立て致しますね」
「あぁ、あと帯もいくつかほしいんですが」
「かしこまりました」
 店の人間に言われるまま、さらにいくつかの反物を合わせられた睡蓮。
 すべてが終わった頃には、睡蓮はへとへとになっていた。
「仕立て上がるのが楽しみだな。できたらまたふたりで取りに来ましょう」
 楽しげな桔梗をちらりと見て、睡蓮は小さく口を開いた。
「……あの」
「はい?」
「……あの、桔梗さんは何者なんですか?」
「何者って……なんですか、急に」
「……だって、こんな高級なお店……平然と入ってしまうし……しかも、ご贔屓さまみたいだし」
 あんな高級な呉服屋は、花柳の人間ですらあまり出入りできない。それなのに。
 じっと見つめると、桔梗は「あぁ」と納得したように呟いた。
「店主とちょっとした顔見知りなんですよ」
「店主さまと?」
 それは、いったい。ますます気になってしまう。
 と、そのとき。
「――あ、雨?」
 困惑していると、ふたりの頬を冷たい雫が濡らした。桔梗が空を見上げる。
「雨ですね……」
 ぽつぽつとしていた雨は次第に勢いを強め、ふたりを濡らす。勢いで出てきてしまったから、睡蓮も桔梗も、今は番傘を持っていない。
「とりあえず、どこかで雨宿りしましょうか」
 言いながら、桔梗がこれ以上濡れないようにと睡蓮の頭に羽織を被せる。
「あ、私はじぶんの羽織りで……」
「いいから。それより早く行きましょう」
「あっ……」
 睡蓮は桔梗に連れられるまま、すぐ近くにあった喫茶店の軒下に入る。
 ティーカップの形をした看板には、異国の文字が書かれていた。
 ――なんて書いてあるんだろう……。
 首を傾げて見上げていると、桔梗がそっと睡蓮の肩を抱いた。
「ほら、濡れる前に入って」
「あ、はい」
 からん、と軽やかな鈴の音とともに、睡蓮は店内に足を踏み入れる。
 喫茶店の店内は少し薄暗く、レコードプレーヤーからはほのかな音量のクラシックが流れている。
 店に入ってすぐ、睡蓮は足を止めた。店内の客たちはみんな見慣れぬ格好をしている。
 胸元がざっくり空いた不思議な柄の着物だった。腰がきゅっとしていて、腰から下がふわりと、まるで大福のようにふくらんでいる。さらにひらひらした布があちこちに付いていて、まるで魚の鰭のよう、と睡蓮は思った。
 今はあのような着物が主流なのだろうか。そういえば、街でも数人あのような格好の若者を見かけた。
 佇んだまままじまじと観察していると、となりで桔梗が苦笑した。
「あれは北の都の者たちでしょう。北はああいった着物を好んで着るんですよ」
「そうなんですね……初めて見るお着物です」
「南や西のひとたちもまた、あれとは違う変わったものを好んで着ているみたいですよ」
「そうなんですか?」
「南は壺装束という着物が主流ですね。西はたしか、チャイナドレスという身体のラインが出る衣装だったような気が。まぁ、それぞれの土地を守る現人神が好んで着ているものを、街のひとたちも着るみたいですね。いつだって、お洒落の最先端は現人神のようです」
「なるほど。桔梗さん、各地のことにすごく詳しいんですね……」
「実は以前、各地を旅したことがあるので」
「えっ! それは……」
 気になって振り向くと、桔梗はにこりと笑って話を変えた。
「さて、いつまでも立っていると邪魔になります。睡蓮さま、あの席にしましょう」
「あ……はい」
 ふたりは窓際の席に座ると、渡されたメニューを見た。
「睡蓮さま、珈琲は飲めますか?」
「こー……ひぃ、とは?」
 聞きなれない単語に睡蓮は首を傾げた。桔梗が優しく説明する。
「異国の飲み物なんですが、最近こちらにも流通するようになりまして。香りが素晴らしく良くて、とても美味しいんですよ」
「へぇ。じゃあ私、それを飲んでみたいです」と睡蓮が答えると、桔梗はカウンターの奥にいたマスターを呼んだ。
「珈琲をふたつ。それから、チョコレートを」
「かしこまりました」
 ほどなくして珈琲とチョコレートが運ばれてくると、睡蓮はまずチョコレートに大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「これが食べ物? まるで宝石のようです!」
 睡蓮の目の前には、濃い赤色をした、宝石のような小石。チョコレート、というそうだ。
「珈琲によく合う甘いお菓子なんですよ」
 桔梗は言いながら、一緒に運ばれてきたティーカップを睡蓮の目の前へと滑らせる。その瞬間、ふわりと香ばしい香りが鼻に抜けた。
「こーひぃも、すごく良い香りがします」
「でしょう? きっと、飲んだらもっと驚きますよ。ささ、どうぞ、飲んでみてください」
 睡蓮が頷き、すすっと珈琲をすする。
「…………」
 そして、なんとも言えない顔をした。そんな睡蓮を見て、桔梗は肩を揺らして小さく笑った。
「苦いでしょう?」
 まるで用意しておいたような口ぶりだった。睡蓮は頷く。
「……えと、香りは、とても好きなんですけど……」
 睡蓮は口の中の苦味を誤魔化そうと、必死に瞬きを繰り返した。
「睡蓮さま、こちらを飲んでみてください」
 なんとも言えない顔のままの睡蓮に、桔梗はじぶんの珈琲を差し出した。
「え……なにか違うのですか?」
 身構えつつティーカップを受け取った睡蓮は、中身を見て驚いた。
「えっ! 色がぜんぜん違います!」
 桔梗の珈琲は、優しい薄茶色をしていた。
「味も違いますよ」
「…………」
 たしかに、見た目は少し優しい色になっているが。舌に残るあの味がまだ忘れられない。
「もう一度だけでいいですから、騙されたと思って飲んでみてください。きっとびっくりしますよ」
 桔梗に言われ、睡蓮はおそるおそる珈琲に口をつけた。
「!」
 とろりとした優しい甘さが口に広がり、睡蓮は弾かれたように顔を上げ、桔梗を見た。
「甘いです!」
「でしょう?」
「桔梗さん。どうして同じ珈琲なのに、こんなに色と味が変わるのですか?」
 弾んだ返事を返す睡蓮に、桔梗は言う。
「砂糖とミルクを入れたんですよ」
「砂糖とミルク……なるほど……私、こんな不思議な飲み物は初めてです」
「気に入りましたか?」
「はい!」
 無邪気に笑う睡蓮を、桔梗は眩しいものを見るように仮面の下の目を細めた。
「それにしても、桔梗さんはとても物知りですね」
「とんでもない。俺は、なにも知らなかった」
 ふと、桔梗の顔が曇る。
「……桔梗さん?」
「俺は、あなたのことをなにひとつ知らなかった。……いや、違うな。知ろうともしてなかったんだ。人間はみんな、権力や地位にばかり固執するものだと……ただ気に入られようとしているだけだと、勝手に決めつけて……」
 いつもと違う桔梗の寂しげな声に、睡蓮は首を傾げる。
「桔梗さんが私を知らないのは当然です。私たちはまだ出会ったばかりなんですから。私だって、桔梗さんのことをまだぜんぜん知りません。だけど今日は、ずいぶんと桔梗さんのことを知れた気がします」
 睡蓮がにこっと人懐っこく笑う。その笑みに、桔梗は静かに息を呑んだ。
「……そう、ですね」
 そのまま、桔梗は黙り込んだ。
 急にふたりを包む音楽の音が大きくなったような気がした。
「……睡蓮さまは俺のこと、どう思ってますか」
「え?」
 突然の問いかけに、睡蓮は戸惑う。
「……桔梗さんは、とても優しい方だと思います」
「……そうですか」
 桔梗の声のトーンが、少し下がったような気がした。
 なにか気に障るようなことを言っただろうか、と睡蓮はひやりとする。
「……あの、桔梗さん。すみません、私……」
 謝ろうとすると、桔梗は睡蓮の声に被せるように言った。
「例えばの話ですけど。もし俺が、これからもっとあなたのことを知っていきたいと言ったら、これからもっと俺を知ってほしいと言ったら、許してくれますか」
「え……」
 睡蓮は今度こそ動揺した。
 桔梗は仮面に手をかけ、言葉を続ける。
「睡蓮さま、実はあなたにずっと隠していたことが……」
「すみません」
 今度は睡蓮が桔梗の言葉を遮った。
「……すみません」
 睡蓮だって桔梗のことをもっと知りたいけれど、それはできないのだ。
 なぜなら、睡蓮に未来はないから。

 沈黙が落ちた。
 しばらくして、桔梗が口を開いた。
「……睡蓮さまにとって、龍桜院楪はどんなひとでしたか」
「……楪さま、ですか?」
 睡蓮はしばらく黙り込んでから、
「……楪さまは、妹が生まれてから居場所を失っていた私を初めて必要としてくれたひとです。それだけじゃなくて……初恋のひとでもありました。私は楪さまに、とても感謝しています」
「居場所って……でも、それはただのあちらの都合でしょう」
「……だとしても、嬉しかったから。これから先も、楪さまが元気でいてくれれば、私はそれだけでじゅうぶんなんです」
「…………」
 曇りのない眼差しの睡蓮に、桔梗はそれ以上なにも言えなくなった。