いつの間にか居眠りをしていたらしい。

 図書館の窓から差し込む秋の穏やかな日差しが陰って僕は目を覚ました。

「ねえ、もしかして、小説書いてるの?」

 横から声をかけられ、僕は慌てて書きかけのメモを手で覆った。

「隠さなくたっていいじゃん。読ませてよ」

 夢……じゃないよね。

 それが僕と彼女との出会いだった。


   ◇

 自分の名前で困ったこと、みんなあるよね。

 僕の名前は『犬上義彦』だけど、やっぱり、『犬飼ってるの?』とか、『犬が好きなの?』とか聞かれがちでさ。

 だけど、名字って、そういう名前の家に生まれただけとしか言いようがないわけで、実際は犬が好きでも犬を飼ってるわけでもないから、ガッカリされて終わるんだよね。

 と、大げさなことを言ってるわりに、実際には数えるほどしか言われたことはないんだけどね。

 単純な話、僕は非モテボッチ陰キャ男子だからだ。

 小中の頃は、みんなで集まってゲームやサッカーをする時に、『おまえも来いよ』なんて一度も誘われたことがない。

 と言っても、べつにいじめられていたわけではない。

 ボールを投げれば後ろへ飛ぶし、どんな歌でも蛍の光に聞こえると言われ、猫の絵を描けば『キリン?』と首をかしげられる僕にできるのは勉強だけだった。

 主要科目の成績は良かったから、パラメータを全振りしたスペシャルスキルを手に入れたプレイヤーとして小中を過ごしてきたし、そんな努力のおかげで僕は地域一番の進学校に合格できたのだ。

 この高校に来る連中は目的がはっきりしていて、部活に情熱を注ぐ文武両道の生徒や、軽音部なんかで青春を謳歌する連中、そして僕のような孤高のガリ勉ボッチもそれぞれ棲み分けができている。

 いい意味で放置してもらえるからけっこう居心地はいい。

 昼休みは学校の図書館が僕の居場所だ。

 図書室ではなく、図書館。

 僕の通っている高校は江戸時代の藩校が母体で、その時代の和書がたくさん残されていて、それらがまとめて県の重要文化財に指定されている。

 痛みやすい貴重な書物を収蔵するために、そこら辺の自治体のものよりも立派な図書館が敷地内にあるのだ。

 三階建ての一階が一般見学者も入れる展示室で、二階が学校図書室、三階がセミナー室といってパーティションで仕切られた自習席がたくさん用意されている。

 進学校ではガリ勉はむしろほめられるステイタスだ。

 受験勉強に取り組む先輩たちに紛れてしまえば、一人でも決して浮くことはないから、僕みたいなボッチには天国みたいなところだ。

 いちいち自分に卑屈な言い訳をしなくていいところが気に入って、帰宅部自主練として、いつの間にか放課後も入り浸るようになってしまった。

 どこか目標にしている大学があるのかと言われれば、べつにないけど、だからといって勉強することは無駄にはならないだろうし、理系文系問わず、受験対策は早めにしておいた方が有利に決まっている。

 どこにでも陽キャはいて、誰がかわいいとか、体つきがどうのとか、女子の噂話で盛り上がるものだけど、そんなクラスの連中を横目に、僕はずっとこのまま一人でいればいいと思っていた。

 高一のあの日、放課後の図書館で君と出会うまでは。


   ◇

 僕は小説を書くつもりなんてなかった。

 本や漫画を読んだり、アニメや映画を見るのが好きで、自分でも空想する癖があったから、そんな単なる思いつきをノートの端にメモしていただけで、ようするに、ザビエルやペリーの顔に落書きするのと同じようなちょっとした遊びにすぎなかったのだ。

 小説どころか、そもそも小学校の頃は遠足の思い出を作文に書くのが一番苦手だったし、中学の時は読書感想文が嫌いだった。

 ほとんどあらすじを書き写して――しかも、読まずに文庫本のカバーとか解説のところに書かれているのを書き写していたし――最後に一言、『主人公のように頑張ろうと思いました』なんて心にもないことを書き足し、原稿用紙のマス目をなんとか埋めて提出していたくらいだ。

 高校には同好会があって漫画を描いている生徒がいることは知っている。

 いわゆるオタクだけど、流行のアニメキャラを使った漫画――薄いとか謙遜してるけど本まで作っているらしい――を描いて、一軍女子からもキャーキャー喜ばれているやつもいる。

 ただ、そういう連中は元々絵がうまいのだ。

 だから、自分が思いついたアイディアを漫画の形に仕上げることができるんだろう。

 僕はまったく絵が描けないし、それどころか文章力だってない。

 だから、小説を書くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、メモ書きを見られてしまったのは誤算だった。

「ねえ、小説書いてるの?」

「いや、ち、違うんだ」

 それは別のクラスの女子だった。

 彼女は小柄で、前髪も、後ろもまっすぐに切りそろえたボブヘアだ。

 座敷童になりそうな髪型だけど、窓の光に一本一本がウィンドチャイムの音が聞こえてきそうなほどきらめいて、細身の彼女にはとても似合っていた。

 廊下ですれ違ったことがあるだけで、名前も知らないし、もちろん話したこともない。

 ただ、よくうちのクラスの男子連中が、『俺らの学年にすげえかわいい女子いるよな』と、噂しているのは知っていた。

 普通だったら、僕みたいな非モテボッチ陰キャ男子とは絶対に接点などない並行世界の女子だったのだ。

「ふんふん、『下駄箱に入っていたラブレターで呼び出されて体育館裏へ行ったらクラスで一番人気のある女子が来て衝撃の展開』か。へえ、それで、この先どうなるの?」

 いや、それ、ただの思春期男子の願望なんですけど。

 こんな都合のいい話、本気で小説にするやつなんているわけないじゃん。

 よっぽどおめでたい妄想男子だよ。

 こんなのコンテストに応募したら、一次選考すら通らないで落ちるに決まってる。

 彼女は机に手をついて僕の顔をのぞき込む。

「この下駄箱のラブレターの相手って、誰なの?」

「いや、モデルなんていないから」

「ホントに?」と、彼女が僕の顔をのぞき込む。

 そう言ったつもりだけど、声が詰まってしまう。

「でもほら、登場人物の様子とか、ちゃんと書いておかないと読者に伝わらないじゃん」

 貴重なご意見ありがとうございますなんだけど、そんなこと言われても困る。

 だから、そもそも僕は小説なんて書くつもりないんだってば。

 荷物をまとめて、いや、捨ててでもいいから逃げ出したい。

「じゃあさ、私を参考にしたらいいんじゃない?」

 はあ?

「ねえ、ほら、私ってどんな感じ?」と、彼女が顔を寄せてくる。

 そ、そんなこと言われても……。

 目がかわいくて、髪がきれいで……かわいくてきれいだ。

 女子と見つめ合うなんて無理なのに近すぎて視線の逃げ場所がないし、なんかいい匂いまでしてきて頭に血が上って、元々ない語彙力が辞書をゴリラに引きちぎられたみたいに吹き飛んでいく。

 だめだ、頭が真っ白だ。

 ――逃げなきゃ。

「だ、だから、そういうんじゃないから」

 苦し紛れのセリフを絞り出し、僕は彼女から奪い返したノートを閉じた。

「本当は誰かをモデルにしてたんじゃないの?」

「違うってば」と、思わず声が荒くなっておさえた。「ただの空想なんだよ。小説とかドラマの最後に、『この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません』って出てくるだろ」

「あんなの、お薬のパッケージに『用法用量を守って正しくお使いください』って書いてあるのと同じでしょ。常識的に分からない人なんていないんじゃない?」

「いや、区別できてないのは君なんだけど」

「あ、そうだったっけ。あはは。じゃあ、書いておかないとね」

 無邪気に笑う彼女に、僕も思わず吹き出してしまった。

 ジェットコースターみたいに振り回されて目が回りそうだ。

 と、少し離れた席から咳払いが聞こえた。

 焦って声が大きくなりすぎていたらしい。

 パーティションに隠れた先輩たちの視線がはっきりと分かる。

「ここじゃないところで話そうよ」と、彼女が耳元でささやく。

 だから、なんで話す前提なの?

 最初から真空だったみたいに、彼女は空気なんか読まない。

 ぐいぐいと迫る彼女の圧に窒息しそうで僕は自習室から逃げ出した。

 なのに、森の熊さんみたいに彼女が後からついてくる。

 ただ、どうも歩く姿が変だった。

 小柄で華奢なのに、太った人みたいに体を揺するような歩き方だ。

 左右で違う靴を履いてきてしまった人みたいにも見える。

 それでも彼女は一生懸命僕を追いかけてくる。

 図書館と校舎をつなぐ渡り廊下まで来たところで、僕は根負けして立ち止まった。

 逃げた僕の態度を責めることなく彼女がわびる。

「ごめんね、図書館に居づらくさせちゃって」

 後ろめたさに、さすがの僕も胸が痛む。

「いや、べつに、気にしなくていいよ。こちらこそ、先に出てきちゃってごめん」

『逃げた』という言い方を避けた僕は卑怯者だけど、それでも精一杯だった。

 そこからは二人並んで昇降口へ向かって歩いた。

 女子と二人で話しながら歩くなんて初めてのことだったから、つながれてるわけでもないのに、二人三脚の練習をしてるみたいにぎこちなかった。

 と、段差もないのに、彼女がつまずいて前によろけた。

 ――危ない。

 僕はとっさに手を伸ばして、彼女の肩を支えようとした。

 踏みとどまったから触れ合うことはなかったけど、急に距離が縮まって全身の血が沸騰する。

 なんだかラブコメのお約束みたいな展開に彼女がクスリと笑う。

「優しいんだね」

 ――そんなことないよ。

 僕は人との間に壁を作って生きてきたんだから。

 昇降口まで来たところで、彼女が下駄箱を指さした。

「犬上くんは一組でしょ。私三組だから、靴履き替えたら待っててね」

 ――え?

「なんで僕の名前知ってるの?」

 僕らの高校には名札がないし、ジャージやスポーツバッグなどにも名前の刺繍は入っていない。

 ま、まさか、僕のこと……前から気になってたとか?

 おいおい、これこそ思春期男子の妄想みたいな話じゃないかよ。

 そんな夢みたいな話あるわけないだろ。

 だって、イケメンでも、スポーツマンでも、陽キャでも、お笑い系でもなんでもないただのモブ系地味男子なんだぞ。

 もしかして、超能力か何かか?

 ――それとも。

 運命で最初から決まっていたとか?

「だって、ここに名前書いてあるじゃん」と、僕が図書館からずっと手にしていたノートを指さす。

 あ、ああ、なんだ……。

 ノートの裏にクラスと名前が書いてあるのを見ただけだったのか。

 だよな、と脱力してしまった。

 どうも、小説の話なんかしてるから、なんでもラブコメ的展開と結びつけてしまうんだろうか。

 靴を履き替えて先に外に出たところで、いったん落ち着こうと、大きく息を吸ってみた。

「ねえ、犬上くんってさ、もしかして猫好き?」

 ――え、あ?

 変なタイミングで話しかけられてむせてしまった。

 ころころ話が変わってついていくのが大変だ。

「いや、べつに、なんで?」

「犬って感じじゃないから」

 なんだそりゃ。

 まあ、べつに顔が犬っぽいとかもないけどね。

「ていうかさ、名前のせいでみんなから犬の話ばかりされてうんざりしてるかなって思ったから」

 お心づかいはありがたいけど、そんなに話しかけられること自体ないのが情けない。

 ――君に話しかけられたことが僕にとっては奇跡なんだからね。

「どっちかって言うと、犬よりハシビロコウに似てるかも」

 何それ?

「じっとしてて動かない鳥だよ。知らない?」

 僕はスマホを取り出して、その場で検索してみた。

「そんなに似てる?」

「うん」

 僕らはしばらくの間ハシビロコウのように無言で画面を見つめていた。

 穴の開いた風船みたいにまるで話が膨らまない。

 気まずさを抱えたまま、どちらからともなく校門へ向かって歩き出す。

「ま、べつに私だってお城に住んでるわけじゃないからね」

 どういうこと?

「私、城之内茉里乃って言うの」

 思いがけず自己紹介してもらって、彼女の名前を知ることになった。

「なんだったらシンデレラって呼んでくれてもいいけど」

「お城に住んでるわけじゃないのに?」

 彼女はウフフと口元を押さえながら笑った。

「いい返しだね」

 そうかな。

 運動部のかけ声やら遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏を背中に校門を出ると、黄色く色づいた銀杏並木の歩道を歩く。

 女子と下校するなんて生まれて初めてで、緊張で膝が震えるし、誰かに見られてないかとか余計なことばかり気になってしまう。

「私ね、前から犬上くんのこと気になっててさ」

 彼女の言葉が外国語のように聞こえた。

「名前を知ったのはさっきだけど、犬上くんっていつも図書館にいたでしょ。受験生でもないのに、一年生のうちからあそこにいるのって目立つじゃない」

 ボッチだからとは言わないでおいた。

 少し余裕が出てきたせいか、『前から気になっててさ』という言葉がようやくはっきりとした形になって、ついニヤけてしまう。

 さっき思ってた妄想が現実だったなんて、逆にびっくりだった。

 これって、夢パートじゃないよね。

 ほっぺたをつねりたくなるのを我慢して僕は鼻に浮いた汗を指でぬぐった。

「勉強してる姿を見て、なんとなく、私と同類なんじゃないかって思ってたんだ」

 共通点なんてないでしょ。

 接点だってなかったはずなのに。

「たとえば?」

「スポーツ苦手でしょ」

 ああ、否定的な面か。

「そうだね。音痴だし、絵も下手だね」

「私も運動できなくて、できることが勉強だけだったのよ。だからこの学校に来たの」

 勉強しかできないなんていうと嫌味みたいに受け取られがちだけど、僕みたいなガリ勉男子からすれば、たとえばサッカーが得意だっていう人は爽やか青年みたいに見られるのって、そっちの方がずるいと思うんだよね。

 そういう理屈なら、たしかに僕と彼女は同類なのかも知れなかった。

「でもさ、犬上くんだって、一つくらいなら得意なスポーツあるんじゃない?」

「たしかに、一位とか代表選手に選ばれるってレベルじゃないけど、人並みよりかはできるのは二つあるね」

「すごいじゃん、二つもあるなんて。私なんか一つもないもん」

 いやいや、そんなたいした内容じゃないから。

「デデン!」と、彼女はいきなり立ち止まって人差し指を立てた。「では、ここで、犬上義彦クイズ!」

 はあ?

 何それ?

「犬上くんの得意なスポーツは何でしょうか」

「え、僕が自分で答えるの?」

 彼女はきょとんとした表情で首をかしげた。

「私が答えるんだよ」

 ――え、あ、ん?

 自分で出題して自分で回答。

 セルフサービス式のクイズなんて聞いたことないよ。

 しかも、正解を知ってるのは僕って、どういうシステムなんだろ。

 再び歩きながら彼女がいきなり手を差し出した。

「じゃあ、ヒントください」

「ヒントって、どんな?」

「ねえ、それは球技ですか?」

「違います。球技は全部苦手だね。ボール投げたら後ろに飛んでいくし、サッカーなんか、いつも空振りで、『犬上、スルーばっかしてんなよ』とか怒られてたから、僕の存在をスルーしてくれればいいのにっていつも思ってた」

「球技じゃないってことは、なんだろ。鉄棒とかも苦手そうだし……」

 華麗に僕の話をスルーして考え込んでいる。

 スルーしてくれればいいのにって、そりゃあ言ったけどさ。

 少しは相手にしてください。

「あ、分かった。マラソンでしょ」

「正解。持久走だね」

「やっぱり道具を使わないから?」

「うん。あと、瞬発力はないんだけど、長距離走なら、持久力勝負でしょ。苦しくても我慢して走ればゴールできるじゃん」

「苦しくても我慢する人のこと、なんて言うんだっけ?」

「マゾとかMとかっていうやつ?」

 まじめに答えたものの、女子とそういう話をするのは照れくさくて、顔が熱くなる。

 なのに、彼女は全然気にしていないようだった。

「うん、そうそう。犬上くんはマゾなんだね」

 いや、あの、勝手に決めつけないでよ。

 べつに、そんな性癖ないんだけどな。

 痛いの嫌いだし。

「うーん。で、あと一つは何だろ」

 また僕をスルーして答えを考えている。

 でも、こんなに真剣に僕のことを考えてくれる人は初めてだ。

「全然思いつかないよ。くやしい」

 と、大通りの終点にあるロータリーまで来てしまった。

 僕らの高校の最寄り駅は向かい合って二つある。

「犬上くんって、あっち?」と、私鉄の駅を指す。

「うん。城之内さんはJR?」

 残念そうに彼女がうなずく。

「時間切れかあ。じゃあ、今日はここまでだね」

「さっきの答えだけど……」

「ダメ!」と、彼女が手のひらを僕に突き出す。「明日までに考えてくるから、言わないで」

 意外と頑固な面もあるらしい。

「ああ、もう、答えが気になってしょうがないけど、頑張って考えるからね。また放課後、図書館で会おうね」

 バイバイと手を振って彼女は去っていった。

 一人残された僕は歩道に散らばる落ち葉に向かってため息をついた。

 僕も気になってしょうがないよ。

 ――君のことが。


   ◇

 翌日、教室移動中に廊下ですれ違ったとき、彼女が小さく手を振ってくれていることに気づいたけど、とっさに返せなかった。

 気を悪くしたんじゃないかと気になってその後の授業はまるで身が入らなかった。

 かといって、こちらから別のクラスまでわざわざ謝りに行くわけにもいかず、放課後までずっとモヤモヤした気持ちを抱えながら図書館へ向かった。

 自習室へ入ろうとしたら、入り口に城之内さんが立っていた。

「やっほー」

 昼間のことは気にしていないのか、陽気に手を振ってくれたのがとてもありがたかった。

 僕もちょっとだけ手を挙げて胸の前で振った。

「答え思いついたの?」

「えっ、何の?」

 あまりの天然っぷりに緊張が一気にほぐれたのも、むしろありがたかった。

「昨日のクイズ」

「あ、ああ」と本当に忘れていたという顔を隠そうともしない。「えっと、なんだっけ」

 ひどいなあ、もう。

 僕は昨日からずっと君のことが気になって気になって寝不足になるくらい寝付けなかったのに。

「スポーツが苦手な僕でもできるもの二つ。持久走とあと一つ」

「あ、そうだったね」と、視線を斜め上に向けながら笑ってごまかしている。「んーとね、スキー?」

「あ、おしい。スケート」

「なんで正解言うのよ」と、頬を膨らませる。「私が降参したみたいじゃん」

 とっくに興味を失ってたくせに、クイズの勝敗にはこだわりがあるらしい。

 僕には君の考えていることはさっぱり分からないや。

「でもすごいね、私スケートやったことないな」

「いちおう滑れるっていう程度だよ。フィギュアスケートみたいな技は全然できないからね」

「あれって、止まる時どうするの?」

「足をハの字型にして、くるっと回転すると止まるよ」

「想像できないや」

 廊下の床は少し滑るからやって見せようとしたけど、上履きだとやっぱりうまくいかない。

 へんに腰をひねって格好悪いダンスみたいになってしまう。

 城之内さんも僕と一緒に変なダンスを始めて笑っている。

「ねえ、こう? どう?」

 勉強に来た先輩たちが邪魔そうな目で僕らを見ていくので、スケート教室は中止になった。

 わきへどけた彼女が階段の下を指した。

「でも、おもしろかった。ねえ、ちょっとさ、図書室の方へ行かない?」

 三階の自習室にはレファレンス系の資料が置いてあるけど、小説などの本は二階の図書室にある。

 僕らは階段を下りて図書室に入った。

「犬上くんは読書する方?」

「あんまり小説は読まないかな。推理小説くらいだね」

 城之内さんは自分の好みを教えずに、小説コーナーの方へ歩いて行く。

 ここの高校の図書室はほこりをかぶった文学全集みたいな古い本がいっぱいあって、棚の間を歩くとカビ臭い匂いがまとわりつく。

 ちょっと息を止めながら歩いていると、北側の窓際の棚に真新しい背表紙が並ぶ文庫本コーナーで彼女が立ち止まった。

 ライト文芸と呼ばれる中高生向けの小説らしい。

「じょ……城之内さんは、どんな本読むの?」

 さりげなく言ったつもりだけど、名前を呼ぶのは初めてで、ものすごく緊張した。

「ん、私?」

 そんな僕の動揺にはまったく気づいていない様子で彼女は背表紙の文字を追っている。

「よくね、余命物を読むよ」

「ヨメイモノ?」

「ほら、病気とかであと半年しか生きられないとかそういう話」

「へえ、そういうのが好きなんだ」

「余命物ってね、私たちみたいに偶然出会った男女が、期間限定でお試しでつきあうっていうのが定番なの」

 そんな都合のいい出会いあるかよって思ったけど、おまえだろと、自分で自分にツッコミを入れてしまった。

 自習室と違って、図書室にはほとんど人の気配がない。

 ささやき声でも、彼女の声は良く聞こえた。

「犬上くんも余命物を書いてみたら」

「恋愛したこともないのに、恋愛小説なんて書けないよ」

 なんて言ってるくせに、図書室の隅でささやきあっていると、なんだか二人だけの内緒話をしているみたいで顔が熱くなる。

「自分で言ってたじゃん。『この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません』って。妄想を書くんでしょ」

 それはそれで、思春期男子の都合良すぎる願望をさらけ出すようで恥ずかしい。

「でもさあ」と、彼女が一歩後ろに飛び退く。「現実の恋愛はそんなにいいものではないのかもね」

「え、なんで?」

 思わず声が大きくなって、彼女が口の前に人差し指を立てる。

 ――ごめん。

 図書室で会話してるって忘れてた。

「片思いで終わったり、つきあっても別れたり」

「ああ、そうか」

「妄想だったら、自分の思い通りになるでしょ」

 そういうものか。

 じゃあ、この恋にもいつか終わりが来るんだろうか。

 そもそも、これが恋なのかどうかすら分からないけどね。

「だから、私たちもつきあってみない?」

 ん?

 え?

『だから』のつながりがおかしい気がして、また僕はとっさに返事ができなかった。

 相変わらず彼女は自分のペースで話を進める。

「でさ、この恋を小説にすればいいんじゃない?」

 やっぱり、つきあうって言ってるんだよね。

 それは悪くない提案だった。

 僕と彼女の接点。

 あり得なかった二つの世界の交錯。

 ――その時が初めてだった。

 僕が本気で小説を書こうと思ったのは。

 小説を書くために恋をする。

 恋をするために小説を書く。

 小説も恋も、どちらもするつもりじゃなかったのに、いつのまにかそういう流れの中に巻き込まれていた。

 ならば、身を任せてしまえばいい。

 そうでもしないと、非モテボッチ陰キャ男子に恋なんて一生無理なんだから。

 僕の書いた小説を彼女に読んでもらうところを想像するだけで頭がぼうっとしてくる。

 感想なんかもらえたら、どれほどこっちが感動するんだろうか。

 読者が待ってる物語を書く。

 想像しただけで、もう、なんだか、いてもたってもいられなくなってきた。

 妄想の物語の中では、僕はイケメンで、彼女と夢のような恋をするんだ。

 どんなセリフを言うんだろう。

『俺に惚れるなよ。火傷するぜ』

 いやいやいや。

 何言ってんだよ。

 さすがにそれはないだろ。

「ちょっと」

 ――ん?

 だいぶ調子に乗りすぎていたらしい。

「なによ、もう妄想してるの?」と、彼女が眉を寄せて僕をにらんでいた。

「あ、いや、ごめん」

「順番って大事でしょ。まずはちゃんと返事を聞かせてくれないと。つきあうの? 小説書くんでしょ」

 選択肢なんてない。

「はい、すみません」と、僕は彼女と正面から向き合って頭を下げた。「よろしくお願いします」

「じゃ、約束ね」と、彼女が右手の小指を立てた。

 指切りってやつだ。

 いざとなると、なんだか照れくさいし、女子の手に触れるなんて、地獄に落ちるんじゃないだろうか。

 非モテボッチ陰キャ男子の妄想は極端に揺れ動きがちだ。

「ほら」と、彼女が僕の鼻の穴に突っ込みそうなほど小指を突き出す。「約束する時は指切りをするんでしょ。この恋はもう始まってるの」

 覚悟を決めろ、勇者ヨシヒコよ。

「分かったよ。やりますよ」

 僕は恐る恐る彼女の小指に自分の指を絡めた。

「じゃあ、別れる時は針千本をおまけして針一本でいいよ」と、彼女が手を揺らす。

 通販でも見かけないほどのディスカウントだ。

「でも、よく考えたら、一本だって痛いよね」

「うん、だけど、千本買ってくるのももったいないし」

 どうやらその程度のカレシらしい。

 じゃあ、僕は代わりに棘のついた薔薇を千本贈ろうかな。

 ――なんてね。

 指切りを終えて彼女が微笑む。

「じゃあ、さっそく、小説向きのクサいセリフ言ってみてよ」

 え、あ……。

 今心の中で思っていた妄想を見透かされたみたいで鼻血が噴き出しそうなほど頭に血が上る。

「そんな無茶だよ」

「いいから。ここで決め台詞をどうぞ」と、手を差し出す。

「だから、いきなり無理だってば」

「ほらほら、よく考えて」と、いたずらっ子のような目でたたみかけてくる。

 いや、あの、急にそんなこと言われたって、頭の中が猛吹雪で遭難しそうなんですけど。

 さっきの『俺に惚れるなよ。火傷するぜ』とか、『千本の薔薇』とか、言葉は浮かぶんだけど、顎が震えて声にならない。

 言えないよ。

 そんな恥ずかしいセリフ言えるわけないって。

 彼女は鞄からノートを取り出すと、筒のように丸めてポンポンと僕の肩をたたいた。

「あー、キミね、全然ダメだね」

 鬼の演出家かよ。

 ベレー帽でもかぶせてやりたい。

「それ、昭和の漫画家だから」

 ――なんで分かる?

「犬上くんはね、すぐ顔に出るのよ」

 だからって、そこまで分かるものかな。

「君の考えてることなんかお見通しだよ」

 彼女は両手の親指と人差し指を直角にして四角い枠を構えると、そこから向きを変えて図書館の窓に広がる青空をのぞきこんだ。

「うーん、なんかいい構図ないかな」

 それ、画家がやるやつだろ。

 小説関係ないじゃん。

「芸術家っぽいポーズでしょ」

 ――だから、なんで分かる?

 もう何が何だか分からない。

「ねえ」と、彼女がいきなり振り向く。「恋って、最高の芸術だよね」

 それは君とだから……だろ。

 あの時、そう言えなかったことを、僕は後悔することになる。


   ◇

 その日、彼女が借り出したのは『余命物』だった。

 カバーに書かれたあらすじによれば、だんだん色素が薄くなって透明になる病気にかかったヒロインが淡雪に溶け込んで消えてしまう物語だ。

 図書室を出て渡り廊下を歩きながら彼女がつぶやいた。

「私もこうだったらいいのにな」

 え?

「雪みたいに消えてしまえばいいのに」

 なんで?

「泣ける小説のヒロインみたいにきれいに死にたいな」

 どうして?

 僕らまだ高校生なのに、死ぬ話に憧れるの?

 そもそもそんなきれいな病気なんてないんだし。

 正直なところ、僕は小説を読んで泣きたいという気持ちが理解できなかった。

 冒険にわくわくしたり、探偵気取りで推理小説の謎に挑んで見事などんでん返しに驚嘆したり、小説というのは楽しみのために読むものだと思っていたからだ。

「最後は病気が治った方がいいんじゃないの?」

「あのね」と、呆れ顔が返ってくる。「地球温暖化で彼女は雪にならずにすみましたなんてお話、誰が読むのよ。そんなのハッピーエンドでもなんでもないよ」

 喧嘩をするつもりはなかったからそれ以上は反論しなかったけど、やっぱり納得したわけではなかった。

 現実だってつらくて悲しいことばかりなのに、わざわざフィクションで上塗りすることはないんじゃないだろうか。

 ――フィクション……か。

『この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係がありません』

 だよな。

 哀しさや切なさをフィクションの世界に閉じ込めてしまえるからこそ、小説を読むのか。

 現実の世界でだまされたり裏切られたら立ち直れないくらい落ち込むけど、推理小説のラストでだまされれば爽快な娯楽になる。

 だけど、それはべつに矛盾などしていない。

 泣ける小説を読んだからといって、自分が死ぬわけじゃないんだもんな。

 むしろ、自分じゃないからこそ、安心して泣けるんだろう。

 傾いた心のバランスを元に戻すのにも役立つのかもしれない。

 でも、だとしたら。

 彼女はなぜバランスを取ろうとしているんだろう。

 昇降口で靴を履き替え外に出る。

 並んで歩く城之内さんがうつむきながらかすかに鼻歌を歌っている。

 何の曲なのかは分からないけど、考え事をしているようだった。

「ねえ、あのさ」と、遠慮がちに僕を見る。「私を犬上くんの小説のモデルにしてよ。でさ、ヒロインが死んじゃえば泣けるんじゃない?」

 僕にそんなの書けるわけないじゃないか。

 ――君が死ぬ小説なんて。

「なんでそんな……」

「だってさ、小説の中でなら、死んでも永遠に生き続けることができるじゃない」

「フィクションだからね」と、僕は頬を引き上げて笑顔を作った。

「そう、フィクションだから」と、彼女も微笑む。

 でも、その笑顔は一瞬で消えた。

「ごめんね」

 ――え?

「ハッピーエンドじゃなくて」

「べつにあやまることないよ」

 そもそも書けるかどうかすら分からないんだから。

 銀杏の黄色い葉が散らばる歩道を、彼女は葉っぱをよけながら歩いている。

 密集して落ちているところでは爪先立ちになったりして、子供みたいだ。

 どんな結末が待ち受けているのかも気になるけど、僕にとっては、今のこの二人だけの時間があるだけで満足だった。

「ねえ、交換日記形式にしない?」

「え?」

「日記っていうかさ、犬上くんが小説を書いて、私はそれの感想を書くの」

「そんなにすぐには書けないよ」

「アイディアのメモとかでもいいからさ。例えばそれに私が続きの話を考えてもいいし」

「ノートのやりとりは放課後の図書館で?」

「恋愛小説っぽくて良くない?」

 キラキラした目で見つめられると断れない。

「だけど、続けられる自信がないな」

「べつに毎日じゃなくていいんじゃない」

 まるで僕の心を見透かしたかのように彼女が先に予防線を張る。

「どうせさ、長くて一年、早ければ半年、もしかしたら三ヶ月かもしれないし」

「やるなら、さすがに一つの作品が完結するまでは続けたいな」

「じゃあ、決まりね」と、彼女はさっきメガホンの代わりに丸めていたノートを僕に押しつけた。「このノート、使ってね。国語で半分使ってあるから、万一、誰かに見られてもオリジナル小説だなんて気づかれないよ、たぶん」

 え!?

 準備万端?

 僕はようやく罠に誘い込まれていたことに気づいて苦笑してしまった。

 チョロい非モテ男子なんだな、僕は。

 駅前のロータリーで彼女と別れてからも、僕は小説のことを考えていた。

 僕に書けるんだろうか。

 君に喜んでもらえるような最高の小説なんて。

 家に着いて、さっそくこれまでの妄想メモを集めてみたけど、書き始める前に壁に当たってしまった。

 アイディアのメモを集めてみても、それは穴だらけのパズルの断片であって、決してストーリーにはならないのだ。

 悩むだけ悩んだものの、結局一文字も書けなかった。

 やっぱり無理なんじゃないかな。

 早くも僕はリタイアしそうだった。

 だけど、僕らに残された時間はほんのわずかしかなかった。

 現実はフィクションを越えて大きく動き出していたのだった。


   ◇

 秋も深まって街はクリスマスの飾りに浮かれ始めた頃、城之内さんが学校を一週間休んだ。

 彼女はスマホを持っていなくて、最初の数日、僕は図書館で待ちぼうけを食う日々を過ごしていた。

 二、三日くらいなら風邪かと思うけど、一週間丸々となると心配だ。

 だけど、彼女は別のクラスだから、欠席の原因なんて分かるわけがなかった。

 僕にできることは小説を書くことだった。

 書かなくちゃ。

 少しでもいい。

 早く小説を書かなくちゃ。

 書けないなんて弱音を吐いている場合じゃない。

 今度会った時に読んでもらえるように、喜んでもらうために。

 僕は彼女に出会った時からの出来事をそのまま文字に置き換えて物語をつづっていった。

 残念ながら、その小説は自分でも面白いとは思えなかった。

 文章はつたないし、小学生の頃嫌いだった遠足の作文から全然進歩していなかった。

 だけど、なりふり構っている場合ではなかった。

 週明け月曜日、帰りのホームルームが終わったときに、担任の先生が女子生徒を呼び止めた。

「おーい、佐々木」

「はい、何ですか」

「佐々木は三組の城之内と同じ中学出身なんだろ。家は近いのか?」

「はい、歩いて三分くらいのところですよ。私、行ったことあります」

「ああ、そうなのか」と、ノートが入る大きさの茶封筒を差し出す。「じゃあ、申し訳ないんだが、この書類を家に届けてやってくれないか。このまま家の人に渡してもらえればいいから」

「いいですよ。今日の帰りに寄ってきます」

「よろしくな」と、先生が教室を出ていく。

 僕は迷わず立ち上がっていた。

 まだ出会いの場面しか書いてないけど、交換日記なんだから臆することはないんだ。

「佐々木さん」

「ん、何?」

「これ、城之内さんから借りてた国語のノートなんだ。悪いけど、一緒に持っていってくれるかな」

「うん、いいよ。茉里乃ちゃん、早く退院できるといいね」

 ――え?

 退院?

「入院……してるの?」

「あれ、知らなかった?」と、佐々木さんが首をかしげる。「中学の時からよく入院してたんだよ」

「あ、そうなんだ」

「じゃあ、渡しておくね」

「うん、ありがとう」と、僕は動揺を悟られないように声を張ってお礼を言った。

 それから僕はすぐに図書館へ向かった。

 自分のノートに小説を書くために。

 ハッピーエンドを彼女に届けるために。

 僕は必死に文字を書き連ねていった。

 そして、期末試験が終わり、もうすぐ冬休みに入る頃、彼女からの返事が来た。

 僕の下駄箱にラブレターが入っていたのだ。