「鳥屋越様がおっしゃったことは本当です」
自分だけが特別になったら、村の人たちの視線すべてが日花様に注がれることに日花様は気づいた。
「私は烏と結託して、鳥屋越……羅切村全体に復讐することを目論んでいます」
自分の子どもよりも、鳥屋越の妻を大切にしなければいけない。
自分の体よりも、鳥屋越の妻を大切にしなければいけない。
鳥屋越の妻の加護を受けるためなら、自分を優遇してもらうためなら、人々はどんな手段も厭わなくなることを日花様は知っていた。
「私を捨てた鳥屋越も、羅切村も、どうなっても構いません」
安宿の造りでは、あちらこちらから日差しが漏れ出る。
閉め切っているはずの部屋に光が入り込んでくるのを邪魔に思ってしまうのに、その光が彼女を美しく着飾る材料となるのなら受け入れたい。そんな単純な思考へと変わっていく。
「まるで、私が有能だと言わんばかりの言葉を向けるのはやめてください」
俯きがちだった日花様の視線が上を向き始める。
日花様の決意が簡単には揺るがないことが伝わってくるからこそ、その決意を崩すための言葉を模索しなければいけない。
「復讐することで、日花様になんの得が発生するのですか」
彼女の凛とした瞳に恋焦がれたけれど、改めて真っすぐ見つめられると逃げ腰になってしまう。
「自身の心を満たすためです」
でも、自分の弱さを露呈する事態になったからといって、日花様の瞳から逃げたくはなかった。
「私を見捨てた人たちが苦しむところを見たい。ただ、それだけのことです」
ずっと日花様に想いを寄せていたということを肯定するために、俺は日花様の眼差しをしっかりと受け止めて軽く微笑んで見せた。
「ご飯を食べることすらも躊躇っていた日花様が、ですか?」
日花様の傍にいる時間が圧倒的に長すぎて、日花様を見る目が特別に贔屓染みているのかもしれない。
「高価なお召し物が用意されたときに、それすらも躊躇っていた日花様が……ですか」
日花様が戸惑っているのが見て分かる。
見て分かるからこそ、日花様を不安にさせないように日花様のことを常に意識し続けたい。
「私は、瀬南さんと一緒に食事をしたことはありません」
「食事相手になった記憶はありませんが、話し相手になった記憶は残っています」
「そんなに多くの言葉数を交わしたことは……」
「どれだけの時間、日花様と共にいたと思っているんですか」
鳥屋越の妻として生きていくために、ただただ視線を真っすぐ前へと向けてきた日花様。
俺が向けていた視線にも、周囲が向けていた視線にも、気づきにくくするために。
鋭い視線が向けられていたことを肌身に感じてはいても、気づかぬふりをして生きていくために、日花様は前だけを向き続けてきた。
「俺は、日花様を守るために日々を生きてきたんですよ」
それが、彼女を独りにするきっかけに繋がってしまった。
「俺が好きだと想う日花様を、どうか否定しないでください」
日花様は離婚されたあとも、人々を救うことをやめなかった。
「買い被りすぎです。私は烏の子だから……」
「日花様が加護を授け続けてくれたから、俺は日花様を見つけることができました」
「私は、この村に呪いを……」
「救い続けてくれて、ありがとうございます」
独りぼっちの日花様は、誰にも見つからないところで人々を救い続けてくれた。
人々は保泉のご令嬢の力だと騒いで、保泉の力を授かることを幸運だと喜んだ。
「俺は、気づいていました。日花様の力だと」
その陰で、独りの日花様が加護を授けてきたとも知らずに。
「どうしたら、償うことができますか」
日花様にとっての俺は、ただの護衛役でしかない。
ただ、傍にいるだけの男だったかもしれない。
「どうしたら、俺の信頼を受け入れてもらえますか」
いざとなって、信頼を得なきゃいけない場面で、どんな言葉を紡いだらいいのか分からなくなる。
「私は……」
部屋の扉に鍵がかけられていないことに気づいた日花様は、閉じられた空間から抜け出すことを選んだ。
「日花様っ……!」
声が聞こえる。
私を引き留めるための声が。
「っ」
だから、逃げる。
(私は……)
最後は幸福で終わるような、そんな幸せ溢れる物語の始まりを望んでいたのかもしれない。
(独りで生きていかなければいけない……)
姫になることを願ってはいけなかったのに。
一般庶民が姫君のような扱いを受けることを願ってしまったから。
「日花様っ!」
奇跡が起きてしまった。
「離してくださ……」
「離したら、ここで日花様の物語が終わります」
手を掴まれる。
今度は、少しだけ痛いと感じた。
「っ、だって……だって、だって……!」
私が夢を叶えようとすると、私の『もの』はすべて民衆から徴収した『もの』になってしまう。
「私はもう、民衆から奪わないと決めたんです!」
住むところも、着るものも、食べるものも、全部が私の元へと届けられてしまう。
「みなさんには、生きてほしいから……っ!」
だから、私は夢を叶えることを諦めた。
姫になって、旦那様と幸せに包まれた日々を送るという夢を諦めた。
「やっと聞かせてくれましたね」
「え……」
「嘘のない、日花様の気持ち」
抑え込むことのできない涙が零れ落ちると、その涙を隠すように空から恵みの雨が降り出す。
「風邪引くので、屋根のあるところに……」
「瀬南さん……」
傘を持たない人々は足を急がせ、次から次へと街から姿を消していく。
街に残されたのは、私と瀬南さんだけのような錯覚が生まれる。
でも、私の選択次第では、錯覚が現実へと変わっていくと私は知っている。
「私は、もう平気です」
雨が降っていることを利用して、林の中で涙の跡を誤魔化していく。
こんな子ども染みた私を見たら、呆れた瀬南さんは手を離してくれると信じたい。
「だから、鳥屋越様のところに帰ってくださ……」
物語は、いつも私が想定しない方向へと導かれていく。
「瀬南さっ……!」
手は、離されることがなかった。
体ごと瀬南さんに引き寄せられて、私は瀬南さんの腕の中へと招かれる。
「こんなところを見られたら、瀬南さんに迷惑が……」
「俺が」
びしょ濡れの衣類に触れてほしくない。
互いに濡れているから、関係ないと言わないで。
このまま瀬南さんに抱き締められたら、身体が瀬南の熱を覚えてしまう。
「日花様の護衛役になります」
空から降り注ぐ雨が、周囲の騒音をかき消してくれる。
それだけ激しい雨に包まれているはずなのに、瀬南さんの声だけは聴覚が鮮明に拾い上げてくれる。
「嫌……です……私は、鳥屋越の家に戻らないって決めたんです……」
瀬南さんの声だけを聞くことを許されたような、そんな幸福感に浸りたい。
このまま瀬南さんの声を聞くことを、ずっとずっと許されていたい。
「私はもう、何も奪いたくないから……」
私が抵抗を示すと、更に強い力で抱き締められる。
瀬南さんの熱を、更に深く身体が感じ取ってしまう。
「奪うのではなく、授けることを決めたのですよね」
瀬南さんの言葉が、優しく聴覚を溶かしていく。
「それを続ける。ただ、それだけのことです」
これは瀬南から、私に向けられた言葉じゃない。
「鳥屋越様の元に戻らなくてもいいんですよ」
「そんなこと……」
「日花様は、日花様の生きたいように生きてください」
面倒な私をなだめるように、瀬南さんは優しい優しい声を私に届けてくれる。
「もう、隠れて力を使う必要はないんですよ」
言葉ひとつも碌に紡ぐことのできない私のために、瀬南さんは優しい言葉を贈ってくれる。
「日花様が傷つかない世界を、一緒に作りましょう」
人から抱き締められると、こんなにも相手の熱を感じることができるのだと心が温かくなる。
「俺が、日花様の傍にいます」
「おねえちゃん……?」
「もう大丈夫ですよ」
明日、どこに住もうか。どこで暮らそうか。どこで生きていけばいいんだろう。
そんな不安を抱えながら生きている人たちがいると知った。
貧富の差というものを、鳥屋越の妻になって初めて目の当たりにした。
「日花様……なんとお礼を申したら……」
「いえ、お礼を言うのは私の方です」
私が加護の力を持っていることが理由で、すべてを取り上げられた民衆。
私に食べ物を持って行かないと、私を着飾る物を持って行かないと、烏の呪いを受けて殺されてしまう。
人々は、自分を優先してもらうために動いた。
「私の力を信じてくれて、ありがとうございます」
いっそ死ぬことができたら楽だったのかもしれないけど、街中で幼い子どもが私に向かって食材を差し出してくれたことがあった。
「日花様が烏と手を組んでいるなんて、始めから考えていませんでしたから」
食べ物を恵んでくれる人のために、生きなければいけない。
食べ物を恵んでくれる人のために、力を貸したい。
そんな使命感のためだけに、毎日を必死に生きてきた。
「その、日花様が烏と手を組んでいるという噂を聞いたことは……」
「いえ、ここらでは、日花様の悪い噂など、まったくですよ」
昨日、食材を恵んでくれた子どもが、今日を生きることができている。
民衆からすべてを奪った責任を取るという使命感は、人々が今日も生きているという事実に支えてもらってきた。
「ありがとうございました」
「おねえちゃん、おにいちゃん、またねっ」
そういう毎日を繰り返していくと、期待というものが生まれる。
明日死ぬかもしれないって言う恐怖が、明日も生きられるかもしれないっている希望や期待に変わる感覚に、民衆は縋った。
「鳥屋越様の目が届かない地域では、日花様を崇拝する方々ばかりですね」
鳥屋越様から離婚を告げられたあとは、密やかに加護の力を授けてきた。
けれど、顔を晒して力を提供することで、私を傷物扱いしていた人たちは極めて少数だということに気づかされた。
「華族の方が、鳥屋越の花嫁の座を狙ってのことではないでしょうか」
「日花様を没落させるのが、手っ取り早いですからね」
瀬南さんに伝えたいこと、瀬南さんに言いたかったことがたくさんあった。
頭の中でいろいろ考えて、考えをまとめてはみるものの、それらは上手く言葉になってくれない。
瀬南さんの傍にいられる時間が長く続くと思うと、そこに甘えてしまっているのかもしれない。
(ゆっくりで、大丈夫)
私たちの時間が続いていく。
離れ離れになった関係が修復され、これからの日々を彼と生きることができると思うだけで、私は安心感と幸福感に包まれていく。
(でも)
時間は、無限ではない。
流れる時間は有限だからこそ、言葉を交わし合うことを諦めてはいけないと心に誓う。
「日花様の護衛役を務めると宣言した割に、何も情報を得られずに申し訳ございません」
「瀬南さんは、私にとても良くしてくださっていますよ」
「男としては、格好つけたいものなのですよ」
鳥屋越から捨てられ、鵜生川の姓を捨て、私は瀬南さんと呪いから身を守るための力を授ける旅に出た。
でも、それは瀬南さんという協力者一人で成り立つ旅ではないということは感じている。
「その、格好つけたいという気持ち。いつかは取り払ってくれますか」
瀬南さんにも協力者がいるからこそ、私は今日も命を繋いでもらっている。
私が烏と共謀しているかもしれないという疑惑を晴らす決定的な何かがないからこそ、瀬南さんを始めとする私を支持くださっている人たちの信頼で今が成り立っているということくらい理解できている。
「せめて、せめて、瀬南さんの力に……」
「繋いでもいいですか」
何があっても、私は瀬南さんの手を離すことはない。
瀬南さんに拒絶されたとしても、私が瀬南さんの手を拒絶することはない。
そんな信念があるからこそ、触れた彼の手を握り返す。
「日花様の手、冷たすぎませんか」
「すみません、これが通常なもので……」
「では」
指と指が、絡み合う。
深く繋がれた手から伝わる彼の熱を、ずっと覚えていたいと思う。
「恥ずかしくはないですか」
瀬南さんの問いかけに、首を縦に振って肯定を示す。
自分の声を発することができなくなっているあたり、私が抱えている羞恥は瀬南さんにはお見通しかもしれないけれど。
「この手を、ずっと繋いでいられるように」
繋いだ手に、力を込められる。
痛みなんてものは微塵も感じられなくて、そこある優しさと彼の熱は私の恋心を沸き立たせてくれる。
「努めていきますから、どうか傍で、隣で、見守っていてください」
夫婦というかたちでなくても、私たちの関係には愛があると思った。
想いを寄せる方と、美味しく食事を口にするという夢。
想いを寄せる方と、他愛もない話をしながら笑い合うという夢。
手を繋いで、外を出歩くという夢。
それらの夢を叶えてくれる人が傍にいることの幸福に噛み締めながら、私は瀬南さんに自分の熱を伝えた。
「私も、瀬南さんを幸せにするために生きたいです」
「泣かないでください、日花様」
そんなに優しくされたら。
「守ります、今度こそ」
私は、私という人間は、明日を始めたいと思ってしまう。
未来を、覗いてみたいと思ってしまう。
明日も生きたいと、求めてしまう。望んでしまう。