烏なんて生き物は、どこにでもいる特別珍しくもない鳥。
烏が鳴こうと鳴くまいと、生きている人間にとってはどうでもいいこと。
でも、この羅切村では少し事情が違う。
「ひぃぃぃ」
「誰か! 誰かっ!」
烏が鳴いた日暮れには、必ず遺体が見つかる。
「鳥屋越様、どうかお助けください」
「鳥屋越様、どうかお恵みを」
羅切村にとって烏という生き物は、死を告げる鳥。
羅切村にとって烏という生き物は、死を招く鳥。
「日花、頼む」
「はい、旦那様」
でも、羅切村で見つかる遺体は、羅切村に住んでいる人ではない。
羅切村に住む人たちは、誰一人欠けてはいない。
もちろん寿命や病で亡くなる人はいるけれど、羅切村に住む人間が殺人事件に巻き込まれたことは一度もない。
「なあ、鳥屋越様の嫁、怪しくないか」
「ああ、それは思ってた。怪しい妖術か何かで、烏を操っているんじゃないだろうか」
誰が殺したのだろうね。
誰が、これらの遺体を羅切村へと運んでいるのだろうね。
「傑様! 今すぐにでも、あの娘と縁を切るのです!」
「あの娘こそが、災いをもたらす者だという噂で持ち切りですぞ」
私の旦那様は、私に指1本触れてはくださらなかった。
触れるどころの話ではなく、そもそも言葉すら交わしてもくださらない。
祝言なんてものがあったかどうかも覚えていない。
それだけ、私には旦那様と時を共にした記憶がない。
「日花」
私が初めて旦那様に名を呼んでもらえた、その日。
「離婚してほしい」
私は旦那様から、離婚を告げられた。
「……承知いたしました、旦那さ……」
どうして私たちが祝言を迎えることになったのか。
それは、私が烏の呪いから、羅切村の人々を守る力を持つ娘と言われていたから。
「申し訳ございません」
その力を、鳥屋越の家は欲した。
「今まで良くしていただき、ありがとうございました。傑様」
ただ、それだけのことがきっかけで、私と傑様は夫婦となった。
「今日は、日花里の成長を祝うために駆けつけてくださり、誠にありがとうございます」
私は烏の脅威から民を守る。
その対価として、鵜生川の家には多額の金が送られた。
両親と妹の欲を高めるには十分すぎるほどの潤沢な金は、私が戻ってきた鵜生川の家を穢していった。
「っ」
鳥屋越の家を追い出されて金にならなくなった日花は、用なし。
未来にたくさんの希望を持つ日花里は、今も多くの人たちに愛されている。
鳥屋越傑様から離婚を告げられた私は実家へと戻ってきたはずなのに、金にならない私を家族は家族として認めてくれなかった。
「おめでとう、日花里」
流行り病に侵されることなく育つことができた|日花里を祝うのは当然のこと。
両親のとても誇らしげな顔を見るのは、私が鳥屋越の家に嫁ぐとき以来だった。
両親は二度と、私を誇らしげに思ってくれることはない。
鳥屋越の家を追い出された私は、両親にとっていらない存在なのだと気づかされる。
「ん……」
その日の夜、夢を見た。
旦那様と、美味しく食事を口にするという夢。
旦那様と、他愛もない話をしながら笑い合うという夢。
誰からも祝福され、祝言を迎え、私は旦那様と手を繋いで外を出歩くという夢。
理想が詰め込まれている夢を見て、私はまだ鳥屋越の家に未練があるのかと自分を惨めに思った。
「その娘に、加護の力があると伺った」
両親が広めた噂は、両親の願い通り金を呼び込む種となった。
私は両親が仕組んだ通り、鳥屋越傑様の元へと嫁ぐという縁を結んだ。
あの日、心臓が止まったような気がしたのは気のせいでもなかった。
「日花様、お腹は空いていらっしゃいませんか?」
「あの、傑様は……」
「きちんと食べて、多くの人を救いましょう」
あ、人の心は、こうやって死んでいくんだと思った。
私に食べ物を恵むために、民は我慢を強いられる。
私を生かすために、民が犠牲になる。
烏の脅威から守ってやるのだから、妻を生かすための供物を捧げろ。
それが、鳥屋越のやり方だと知っていく。
「あの、みなさんの食事は……」
「うっ、うぅ、おなか、すいた……」
私を生かすために、子どもたちは泣いた。
「日花様が、満足いくまで食べていただくこと。それが、私たちの喜びです」
周囲に助けを求めれば良かった?
それができたのなら。
助けてくださいって懇願することを許される環境だったら。
私は、目の前で泣き崩れる子どもを救ってあげられたのかもしれない。
(私に加護の力なんてないと、旦那様に嘘を吐けば……)
でも、私には、離婚を企てるような才はなかった。
民を救うための案は浮かんでも、それを実行するだけの行動力と協力者が私にはなかった。
(食べ物を私ではなく、子どもたちのために恵んでほしい……)
明日、食べる物に困らない。
明日、住む場所に困らない。
明日、着る服に困らない。
これが、どれだけありがたいことか。
(望んでいるのは、ただそれだけのことなのに……)
両親の言うことには、頷けばいい。
逆らわない、文句を言わない、両親の言うことは絶対。
(その願いを叶えることすらできないなんて……)
鳥屋越の言うことに従って、鳥屋越の言うことに賛同すればいいだけ。
それだけで、衣食住が保障される。
なんて簡単。
それだけで私は、ここで息を吸うことを許される。
ここで呼吸することを許されて、ここで生きていくことができる。
「日花様、どうか私たちの命をお救いください」
「日花様、どうか加護のお恵みを」
「日花様」
「日花様……」
「日花様…………」
明日の生活に困る日々なんて、もう与えてはいけない。
明日の生活を悩む日々なんて、もう与えてはいけない。
生きていくことに不安を抱えて、怯えて生きていく日々を、未来を担う子どもたちに与えてはいけない。
「私が、烏の手先……?」
「よくよく考えてみれば、烏の脅威から人々を守る力というところから疑ってかかるべきだった」
私に食べ物を与えても与えなくても、明日という日を無事に迎えられるように。
日が昇って、目が覚めて、家族に挨拶するという平穏を与えることができるように。
「金欲しさに、烏と結託した」
「そんな……」
「そういうからくりだったのだろう?」
改めて、そんな覚悟が生まれた瞬間。
私は夢の世界から戻ってくることができた。
改めて、そんな覚悟が生まれた瞬間。
私は夢の世界から戻ってくることができた。
「いらっしゃいませ……ひっ」
離婚された元妻は、鳥屋越の恩恵を受けることができない身。
家族の輪の外に追いやられている私は今日も人々を烏の脅威から守るために街を出歩くけれど、その足取りは重たい。
すれ違う人たちはみんな、私を鳥屋越様に傷をつけられたという目で見てくる。
「あの子が、人殺しの……」
「おまえに生きる資格はないんだよ!」
小石を投げつけられる。
身体を纏う布地が石の脅威から私を守ってくれるけれど、素肌を晒しているところに石が当たると身体に傷がつく。
本当の意味で傷物になっていく私は、今日も自分の力を行使するために街を歩く。
(今日も、一人でも多くの命を救わないと……)
鳥屋越様との離婚は、私に不幸をもたらしただけではなかった。
世の中にとっては、私と鳥屋越様との離婚は救いとなった。
「烏の子よ……気味が悪い……」
「あの娘がいなくなれば、羅切村は平和になるというのに……」
鳥屋越様の妻に食べ物を恵むという生活から、人々は脱却することができた。
鳥屋越の妻がいなくなれば、ほんの少しでも人々に食べ物を行き渡らせることができる。
食べきれずに廃棄されるだけだった食材たちを少しでも、明日を生きるために口にすることができる。
離婚を告げられることで、世はわずかな希望を手に入れた。
(今日は、子どもの数が多い地域を回って……)
私が烏と結託したという事実を突きつけられようと、私に羅切村を支配する呪いから身を守る力は失われていない。