今日は寒い。三月の下旬のくせして、肌を温めてくれる太陽は分厚い雲に覆われ、時々肌をくすぐる春風が寒さを体に残す。
 僕はある目的地に行くために自転車をこいでいた。その目的地に行く理由がこれから消費するエネルギー量よりも圧倒的に勝っているので重い体に鞭を打って、今ここにいる。
 景色は心地よく流れていくものの、僕の心は全く心地よくない。さらに、信号での途中停車を余儀なくされると心の中はまるで大雨のような憂鬱な気持ちであふれてしまう。
 彼女が死ぬといわれている『夏』まで時間がない。僕はその事実にただ単に焦っていた。
 この時間を分かりやすく変換するなら四か月、百二十日……やはり数詞は焦りを加速させる引き金となってしまう。
 彼女に何がしてあげられる? どんなことが正解なんだ? 
 頭の中で木の枝のように分かれていくたくさんの選択肢の中から答えが定まらない。砂時計のように減っていく彼女の寿命……。
 こんな気持ちを空気中に放出するために、僕は自転車の速度を上げた。
 僕が今、向かっている目的地は無論彼女関係だ。もっと詳しく説明するとしたら「彼女の所に行く」という表現が適切なのかもしれない。
 先週の日曜日、彼女からLINEが来た。無論、僕がこれから彼女のもとへ行くこととなった提案、いや、命令だった。そんな彼女からの命令は日常茶飯事だったので面倒くささと抵抗する意志は全く湧き上がってこなかった。
『来週の日曜日に私の家に来てね。どうせ、一人で本でも読んで暇でしょ。絶対来てよね。来ないと、明日死んじゃうよ(笑)』
 上から目線の文章。僕は彼女のようなだらだらとした文章は書かず、一言で返す。
『分かった』
 送ってから気が付いた。本当はもっと長々としたメールがよかったのかもしれない。彼女との連絡を保つためにも質問をしたり、当日の日程を彼女のように嫌味ったらしく聞くなど……。
 でも僕にそんな資格はない。なぜなら僕たちは『恋人』ではなく、ただの『(病気を知っている)クラスメイト』に変化したからだ。今、僕がここで長々としたメールを送ると自分に変な期待感を持たせてしまうので、あえて抑えていた。
 僕と彼女が『恋人』から『(病気を知っている)クラスメイト』に変貌を遂げたのは二月の上旬だった……。



 静かに雪が地面に吸い付けられていた二月の上旬。習慣化した彼女のお見舞いに出かけている時であった。
 肩についた雪を払いながら病院まで歩く。外の雪の影響でいつも以上に室内は暗かった。
 僕はベッド上にいる彼女に近づいた。僕は彼女の顔色の悪さに驚いた。まるで死の瀬戸際を経験したかのような顔だった。ひどい表現だがそれが最適だった。僕はあえてその話題にはふれずに話そうと試みたが、彼女が先に口を開いた。その内容に僕は自分の耳を疑った。
「私たち別れよう」
「……え!……」
 一瞬彼女も言っていることが理解できずに、裏声が出てしまった。僕がさっき耳にしたのは彼女の声で彼女が言ったことなのか? 僕は自分の耳が間違っていることを信じた。それを確かめるために僕は聞く。
「別れるってこと?」
 僕は冷静ではいられなかった。もし、真実なら自分と彼女の間に何か壁ができてしまう。一度実った関係が崩れるともう元のように関わることなんてできない。恋愛経験のない僕だが、そんなことはわかっていた。『恋人』だから出来たことも「別れる」という一言ですべてを失う予感がして気が気ではなかった。
 でも、僕が予想していた最悪は現実において形として訪れた。
「うん。そうだよ。私と常陸君はもう『恋人』としてやっていけない……」
「嘘だよね?」
 僕は期待していた。ドッキリなのか彼女なりのからかいなのかというのを……。
 しかし、今回において嘘、偽りはなかった。
「本当だよ……常陸君の……君のすべてが嫌いになったの……」
 嫌いになった。その一言だけが反復する。
「君は僕と話せなくなって辛いと思わないの?」
 自分が自分でないような発言をした。ネットの言葉を借りるのならメンヘラなのかもしれない。彼女とこれから話せないとなると僕は辛い。ただただそう感じて彼女に自分の気持ちをのせて質問をぶつけた。
「私は辛くないから大丈夫だよ。もう常陸君にはうんざりだったからさ……」
 過去を思い返す。僕は自己中心的で友達もいなくて、いつも他人と背中をあわせて過ごして大バカ者だ。彼女みたいな美しく、常に元気をくれる存在と僕は初めから釣り合わなかったんだ。そして、僕は彼女に対して杜撰な関わり方をしてしまった。彼女からのチャンス無視し続けてしまった。
 彼女を語る資格すら僕にはない。しかし、僕の口からは言葉が出てきてしまった。普段声を張らない僕が出した発言に自分自身が一番驚いた。
「君はなんでそんなこと言うの!」
 彼女は手を添えていた布団をクシャとつかんで下を向き、大きな声を響かせる。
「もう私を苦しめないで……」
 彼女の目からは大粒の涙が滴れ落ちていた。彼女は震える声で言った。
「常陸君が……君が原因でこれ以上私を不幸にしないで……お願いです……これが一ノ瀬来夏からのサイゴのお願いです……」
 僕は今になって自分の言動、過去を猛省する。
 僕は調子に乗っていた。こんな生半可な気持ちが混在する僕が彼女の横にいる資格なんてないんだ。
 僕は彼女と自分を比較し、自分の低さを知る。
「しばらく来なくていいから……」
「……」
 自分を否定し、彼女を肯定しきった今なら、彼女からの言葉はすべて社長からの命令に聞こえた。僕は言葉を出さずに静かに首を縦にふる。
 もう僕がここにいる資格はない。
 ドアに手をかける。握った部分はやけに冷たく感じた。それを不思議と納得した。
 最期にどうしても彼女に聞いたい事があったので彼女に聞く。
「君と僕の関係って何?」
「ただの『(病気を知っている)クラスメイト』……それ以上でもそれ以下でもないよ……」
 彼女は僕の顔を見ない。まるで初めて彼女に会った時に僕がとった態度みたいだ。
 僕はやけに重く感じたドアをゆっくりとしめる。ベッドで目を閉じ、顔辺りが光っている彼女がとても遠い存在に見えた。
 もう会わない。
 自分の中で勝手な規制をかけた。
 そう僕は失恋したのだ。小説や漫画で描かれている失恋がこんなにも痛く、悲しく心をえぐられるものだとは想像もしていなかった。彼女のことを考えてはいけない、いけない、いけないのだが……。頭でわかっていても自分の心は正直だ。ふと目を閉じると彼女の顔が浮かんだ。いつも僕に無茶苦茶な発言をして、少し非常識な所があって、いつも笑顔が絶えない美しい彼女の顔が……。言語化できない脱力感、虚しさ、後悔、胸の苦しさの波が押し寄せてきた。僕の理性や理想像はとっくに本性に負けていた。
 僕は帰りにコンビニに寄ってプリンを買った。一個や二個じゃない。あるだけのプリンをかごに敷き詰めてレジに持って行った。結局、お金が足りずに五個しか買えなかった。
 帰路につく途中、新幹線の高架下で一人ベンチに腰かけて買っただけのプリンを、時間をかけて消費した。
 自然と目は彼女の病室に向いていた。視力二・〇ある僕でも病室の様子を確認することは出来なかったが、光が灯っていることが唯一確認できた。
 最新型の新幹線が通った。その事実が鉄道マニアの僕は分かった。いつもだったら興奮して答え合わせに行くのだが今日だけはそんな気分ではなかった。
 僕は静寂に包まれた夜の道を歩く。パソコン内のデータをゴミ箱に入れるかのように脳内に残る彼女との思い出に蓋をする。完全削除したわけではない、蓋をしただけだ。
 帰り道がいつもと違うルートだと気が付いたのは家についてからだった。
 ただいまは言わずに家に着く。手は洗わず、うがいもせずに自室にこもる。照明なんてつけずただただ自分の感情の赴くままに体重をベッドにあずけた。失恋ソングを聞き、コメント欄の他人の失恋話から同情を探し出している自分がいた。声を出さずにそっと涙を流した。コメント欄にあった「毎日めっちゃ辛いはずなのに、それでも平気な顔して学校行ったり、出勤したりしているだけで偉い」という言葉になぜか心が持っていかれた。
 2回トイレで吐いた。1回目は昼食の消化不良の物が出たが、2回目は胃液だけだった。どこか喉の細胞をえぐる胃液の苦さに僕は自分の感情を確認する。

 完全に哭恋だ。



 僕は自分をある意味称えた。有言実行。そんな優等生に似合う言葉が今の僕にはふさわしいと自画自賛した。
 あの日を境に僕は一度も彼女の病室を訪れていない。それどころか病院の半径百メートルにすら足を踏み入れていなかった。病院の近くを通るときは自分に言い訳をして、通るのを避けていた。彼女の病室は一切見ていない。僕は意外と固い決意に驚いていた。
 時間が過ぎていくのがいつもより遅いように感じた。僕の生活スタイルは彼女に会う以前のものに戻っていた。
 朝起きて、学校に一人で登校し、部活をせずに帰宅し、本を読み、程々勉強をこなし、風呂に入って、小説を嗜み寝る。こんな規則正しく、何の変哲もない生活が川の水のように流れていった。
 そんな僕の何の変哲もない生活は終わりを告げた。
 彼女の顔を最後に見てから一か月が過ぎようとしていたある日だった。その日は大雨が地面を叩いていた。
 非通知の番号からかかってきた電話。それが終わりを告げる原因だ。電話の相手の声を耳にするまで僕は不信感しか抱いていなかった。おそるおそる通話ボタンに触れた。僕が「もしもし」という前にその相手が声を発してきた。
「君が相模原常陸君?」
 自分の名前を名乗らない女性に対して不思議さを覚えながらも名前を尋ねた。女性からの返事が来るまでの数瞬、思考回路をフル回転させ、相手の名前を知ろうと試みたが、それを遮るように女性が先に名乗る。
「一ノ瀬来夏さんの担当看護師の橋本(はしもと)です」
 「橋本」という固有名詞よりも「一ノ瀬来夏」という名を言ったこと、それに看護師というワードに鼓動が高まる。僕は彼女の死の報告を予感する。僕は平常心を大切にするよう自分に問いかけた。
 僕はどんな言葉でも受け止められる体制を取っていた。
「何かようですか?」
「一ノ瀬来夏さんに関する件です」
 彼女の名前でさらに鼓動が高まる。心の中ではっと息を吞む。
 嫌な予感がした。『彼女が死んだ』という報告を電話越しでされる気がして怖かった。
 死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。
 この文字だけが頭を埋め尽くす。葬式はどうしようか?どんな顔をすればいい?
 悪循環は留まること知らなったが、僕の心配は戯れ言にしか過ぎなかった。
「何で君は一ノ瀬さんの見舞いに来ないの?」
「……」
 僕の中で沈黙がゆっくりと走る。そして、二人の間に電話越しだが停滞した前線のような空気がどっしりと満ちていた。僕はひたむきに考える。理由ではなく言い訳だ。
「彼女に二度と来るなと言われました」
「……」
 橋本さんからの返事はなく、僕は独り言のようにしゃべり続ける。
「先日、僕はいつも通りに彼女の見舞いに行きました。その日の顔色はとても悪く、死が本当に近づいてきていると感じました」
 ありのままの状況を告げる。その日何があったのか、どんな発言があったのか、まるでDVDに録画しているかのように覚えていた。
「そして、突然彼女から言われました。『別れてほしい。君のすべてが嫌いになってもう来てほしくない』と……」
 何故か知らないが僕の涙腺からは一粒の大きな涙が垂れ落ちた。何に泣いているのだろうか?
 僕は橋本さんには伝わらないよう、声は出さずにゆっくりと涙を床に落とす。
「君は本当に分かっていない」
 橋本さんの口調は本当に強かった。僕は翻す。
「分かっていないって、何をですか?」
「本当に一ノ瀬さんから『もう来ないで』と言われたの?」
「はっきり言われたのは今でも頭から離れません」
「やっぱり君は分かっていない。彼女の言葉を自分のいいように変換しているのにまだ気が付かないの……実は私、君が最後に一ノ瀬さんに会いに行ったとき聞き耳を立ててたの……ごめんなさい……確かに君は一ノ瀬さんから『嫌い』『別れよう』という言葉は浴びていた。そこまでの君の記憶は合っている。問題はそこからなのよ」
「そこから?」
 何か僕が間違いを犯したのか?それとも僕が変な解釈をしているのか……。
 変な期待が高まっていく。
「君はさっき一ノ瀬さんから『もう来ないで』と言ったと言っていたんだね」
「そうですが、それが何か」
「実は一ノ瀬さんは『もう来ないで』とは言っていないのよ」
「え! じゃあ、彼女は『会いに来て』と言っていたんですか?」
「それも違う」
「……ではやはり、彼女は僕に対して『会いに来ないで』と言っていたんですね」
 僕は大きなため息をもらす。安心と悲しみの両方に襲われた。
「それも違う。鈍感の君のためにも答えを教えてあげよう。確かに君に対して一ノ瀬さんは『来ないで』とは言った。でも彼女は『しばらく来ないで』と言ったんだ。この『しばらく』というのが重要なんだ」
 僕は思い出した。抜けていたジグソーパズルに彼女の言葉という最後のピースをあてはめる。
 すべてを完全に蘇らせることができた。
『しばらく来ないで』
 その文には彼女の会いに来て欲しいというメッセージが隠れていたのだ。
 僕は彼女からのメッセージに気が付くと同時に自分のとんでもない過ちを知り我に返る。
「僕は彼女に対してなんてことを……」
「ようやく気が付いたんだね、相模原常陸君。彼女はこれ以上君に迷惑をかけたくなかったから本心でもないことを言ったんだよ。君は一ノ瀬さんが最後に残した『会いたい』という合図をどう受け取るか。それは君の言動次第だからね」
「今すぐ彼女に会いに行きます!」
「了解。特別に職員玄関を開けておいてあげる。三十分、三十分以内に病院に来なさい。時間内までに来なかったら容赦なく締め出しちゃうからね」
「はい」
 家の狭い廊下に僕の声がこだまする。何事かと、父がせんべいをくわえながら見ているのがかすかに視界に入ったが僕はそれどころではなかった。僕はスマホを耳にあてながら玄関を飛び出した。
「君が思っているよりも一ノ瀬さんの寿命は少ない。彼女の余命の七月三十日まで時間がない。一瞬を大切にしないと君は永遠に後悔する。君の宿命は彼女に愛を注ぎ込み、共に生きること。それ以外は必要ない。一回一回の言動をもっと考えなさい!」
 橋本さんの言葉は外の大雨にでも流されない程、深く心にしみついた。
 僕は大雨にも関わらず、傘やカッパなどの邪魔物は一切身に着けなかった。
 走った。ただひたすらに走った。三十分という制限時間が迫っているからではなく、砂時計のように落ちていく彼女との時間を一秒でも多く過ごしたかったからだ。
 肺が焼けるように熱い。日頃の運動不足のつけがここかという大事な所でまわってきた。
 雨を切り裂く、風を切り裂く。僕は必死で足を回す。
 この時の僕は彼女のこと以外考えていなかった。ただ純粋な水に彼女という明色の絵の具を加えたような色に僕は染まった。いや、彼女が僕を染め輝かせた。
 雲の間から差し込む月光が雨を光らせた。
 僕はただ、彼女に引かれるように病院を目指した。



 僕が市民病院の職員玄関に入った時、橋本さんは静かに待っていた。二十三時四十分を、蛍光色を帯びた二本の針が指していた。十分オーバーだったが橋本さんは快く僕を中に入れてくれた。
 複雑な廊下、階段を壊れかけた白熱灯と窓から差し込む月光をたよりにひたむきに走る。
 漂う病院特有の消毒液の臭い。時折耳に入る少量の心電図音。大ぶりの筆で書かれた「一ノ瀬来夏様」という文字。すべてが一か月振ぶりだった。
 僕は呼吸を整える。走ってきたために上がった鼓動がドアという一つの壁を前にさらに高まる。
 僕は平常心ではいられなかった。
 僕は静かにドアをスライドさせる。
 空気は緊張しており、僕は天井から弱く光る常夜灯を光源にして彼女のベッドに近づく。
 彼女は起きていた。彼女は外を眺めていた。先ほどまで降っていた大雨は完全にやんでおり、空を覆っていた分厚い雲は東の空に消えていた。
 窓から差し込む月光が彼女の存在を確かなものにしていた。
 僕と彼女は目が合う。僕は急に目があい驚いたのだが、彼女はまるで驚いていなかった。それはまるで僕を待っていたかのようだった。
 夜だからだろうか。彼女の顔からはいつもの元気が完全に静寂していた。
「常陸君何で来たの……」
 一か月ぶりに聞いた透き通った美声。僕はいつもと変わらない声に心の中で感嘆の声をもらしてしまう。
「来たかったから……」
 僕は噓偽りのない純粋な意見を言う。
「しばらく来ないでって言ったじゃん」
 彼女は反論するがこれを本心で言っていないことは分かっていた。
 最後に僕に残した『会いに来てほしい』というメッセージに気付いて欲しい。
 僕は彼女の内に秘めた思いを察する。
「だから、しばらく来なかったんだよ」
 僕は彼女の指示通り、しばらく(一か月)会うのはひかえた。彼女が残した『会いに来てほしい』というメッセージに気付くのに一か月もかかってしまった。
 彼女の表現は少しだけ明るくなっていた。
 すかさず僕は彼女に抱き着いた、それを彼女は快く受け止めてくれた。
 今度は彼女から抱き着いてきた。彼女の髪からはシャンプーの甘い匂いがした。
 僕は彼女に聞く。
「なんで君はあんなこと言ったの?」
 きっと彼女のことだから理由があるはずだ。
「常陸君に辛い思いをさせたくなかったから……」
 言葉を振り絞ったような声だった。
「私はあと半年もせずに死ぬ。恋人のまま常陸君と別れたら君に余計な未練や辛さを残してしまう。君と出会えたサイゴの感謝の意として別れることを選択した……」
 声色に震えが混じっていた。きっと死に対する怖さと嘘を隠しているのだろう。本当に彼女は嘘をつくのが下手だ。僕はその嘘の正体に見当がついていた。
「君は生きたいの?」
「今は運命を受け入れているから、特にそんなことは思わないかな……」
 やっぱり彼女は嘘をついている。
「君の本当の気持ちを教えて」
「……」
 彼女はしばらく沈黙を貫いた。彼女の意思で話し始めるのを待った。誘導尋問のように言葉を引き出すのは間違いな気がした。
「私だって……」
 彼女は堰を切った。
「私だって! 本当は死にたくなんてない! 生きたい! 青春したい! なんで私だけ早く死ななきゃいけないの! なんで私だけこんなに苦しまなきゃいけないの……体のことなんて気にせずに、いっぱい青春して、大学生になって、自由を手に入れて、大人になって、大好きな人と結婚して……なのに……」
 取り憑かれていた何かから逃れたように彼女は感情を吐露した。 
 きっと苦しいのは病気による辛さだけではないだろう。人間関係、世間から向けられている盗作に関する冷酷な視線。
「ねえ、教えてよ常陸君。なんで私だけこんなに悩んで苦しんで葛藤して死にたいって思わなきゃいけないの……。世の中不公平すぎだよ……」
 彼女の本心は決して強くなかった。彼女の明るさの裏にある他人には見せなかった負の感情。それを引き出せた僕は少しホッとした。
「僕は君じゃないから同情も共感もできない。ただこれだけは言える。僕は君が君でよかったよ」
 僕は自分の気持ちを率直に伝えた。下手な前置きや言い回しは小説家である彼女に見抜かれる気がしたからだ。
 彼女は黙った。かなり長い時間黙った。永遠よりも長い時間が過ぎたように感じた。
 突然彼女が僕の胸に飛び込んできた。これを世間ではハグと言うらしい。
「常陸君のせいで私生きたくてしょうがない」
 水分の抜けた声で彼女は言った。そして本物の笑顔を咲かせた。
「やっぱり私はダメ人間だな。常陸君と目があって、ハグしただけでコロっと意思が変わるんだもん」
 声から完全に震えが消えた。
 彼女の表現は以前のように明るくなっていて、それはまるで輝くダイアモンドみたいだった。
「私が常陸君のことが嫌いなのは変わらないから」
 彼女は多分また嘘をついた。
「それでもいいよ。僕が君に抱く感情は未来永劫変わらないから」
「そうだ、常陸君。今日来てくれたお礼にご褒美のキスいる?」
「いやまだいいよ」
「分かった。常陸君の唇を奪うまで私は死んでも死にきらないからね」
 窓から差し込む月光が僕らを照らした。僕たちは病室の片隅でしばらくハグをした。
 この時の彼女の血液は橙色を含んでいた。
 もう残された時間が少ないことを僕は強く察した……。




 これが先月に起こった出来事だ。この一か月間僕は「恋人」ではなく「(病気を知っている)クラスメイト」として彼女と関わった。恋心は隠して接した。
 今の僕たちの関係はと聞かれると難しい。表面状は「(病気を知っている)クラスメイト」だけど、恋人の時以上に濃い時間を過ごせている気がする。むしろ恋人じゃなくて良かったのかもしれない。互いに萎縮することなく互いの本心を吐き出し、吸収してくれる今の関係が最良策だ。恋人や友達という辞書に載っている言葉で言い表すことのできないのが今の関係。
 僕はこれでいいと思った。
 目的地に着いた。目の前には大きな建物が立っていた。その建物の表札には「一ノ瀬」と筆記体で掘られていた。
 そう、僕は今、彼女の家の前にいる。決して彼女の家を興味本位で見に来たストーカーではない。
 昨日、彼女から『私の家に来なさい』と命令を受けたのだ。果たしてどんな目的で僕を呼んだかは不確かだったが、僕はあえて核心には触れずに「分かった」と返信した。
 僕は呼び鈴を鳴らす。数秒後、彼女の母親らしき人の声がモニター越しに聞こえてきた。
 僕は彼女の母親の指示のまま、玄関に向かう。
 門から玄関までは見た目よりも長く、美しい花たちが僕に挨拶をしているようだった。
 洋風の大きな家を近くで見るとかなりの迫力を感じた。つい、自分の家と比べてしまう。
 僕は萎縮しながら家の中に入る。玄関には大きな水槽が広がり、中にはウーパールーパーが気持ちよさそうに泳いでいた。
「君はしっかりとしているね。来夏とは大違い」
 僕の靴を指差しながら彼女の母親は褒めてくれた。ここからも彼女の生活がうかがえた。
「さあ、上がって」
 僕は彼女の母親に続く。まるで迷路のような長い廊下をかきわけた先にたどりついたのはリビングだった。
 やけに広く感じる天井。天井の光を反射している床。僕は彼女の家が比較的高所得なのではないかと予測する。
 リビングには彼女の父親であろう人物が新聞を広げていた。父親は僕と一切目を合わせようとしない。
 彼女はというとパソコンのキーを勢いよく叩いていた。
「お邪魔します」
 僕は一礼を交わす。彼女の母親は返してくれたが父親は動かない。彼女はというと僕が重んじた礼儀を消しゴムで消すかのように声を出した。
「やっほー常陸君」
 病人とは思えないような表情を彼女は浮かべる。
 僕が次取るべき行動に不安を見せると彼女の母親が台所から助言をしてきた。
「来夏の部屋で遊んでこれば?」
 彼女の母親に感謝の意をこめようと見た時、笑みを浮かべていた。
 僕は推測する。彼女の母親も彼女と同じく恋愛脳なんだと……。
 どうやら彼女の遺伝子は母親の遺伝子が優性になってしまったらしい。
 部屋の主である彼女は異性である僕の入室に否定の言葉をもらした。
「部屋だけは絶対にダメ」
 僕の進路を阻むかのように彼女の部屋に続くであろう道を彼女はふさいできた。
 女性に対して免疫のない僕は女子高校生が男性を部屋に入れる行為の重大さを知る由もなかった。
 彼女の母親は僕の求めている「彼女が部屋に入らせたくない理由」を何の抵抗もなく明かしてくれた。
「今日は散らかってないんだから入っても問題ないよね、来夏」
「ちょっとお母さんそれは……」
 彼女の顔は真っ赤に染まる。
「この子ったらいつもは下着や服は出しっぱなしなのよ。昨日も私が部屋を覗いたらパンツやブラジャーが散乱していたのよ。今日は君が来るから朝から掃除をしていたのよ」
「それだけは絶対に言わないって約束したじゃん」
「約束なんかした?」
「『絶対に言わないでよ』って三回約束したよね」
「三回言ったから言ってほしいのかなって……」
「芸能人じゃないんだからさぁ」
 彼女と母親の漫才は続いた。この会話において僕はただの傍聴人でしかなかった。
 彼女の母親と彼女の言葉が飛び交う中、彼女の後ろから影が近づいてきた。
「うるさいなぁー私、昼寝中なんですけど」
 あくびをかわし、髪をかき分けながら会話を中断してくれた救世主が現れた。救世主は彼女の妹であり、その名は一ノ瀬心白(いちのせこはく)というらしい。
 妹さんの会話の対象が彼女に定まっていたが、その対象は僕に移り変わった。
「この人誰?」
「えっとーこの人は……」
 彼女が解答に困っていると妹さんは難問クイズに正解した人のような寛大な声を出した。
「分かった! いつも姉ちゃんが楽しそうに喋っている彼氏さんだ」
「だから彼氏じゃないっていつも言ってるでしょ」
「彼氏じゃないの~。つまんないな……ねぇ、君知ってる? 姉ちゃんってね、いつも君のこと楽しそうに話しているんだよ」
「心白、そのことは秘密してねって言ったじゃん」
 どうやら僕が来るに際して一ノ瀬家では家族会議が行われたらしい。僕は妹さんに対して僕に関する質問をする。
「お姉さんはいつも僕のことを話しているの?」
 彼女の妹は姉への配慮は微塵の見せずに答える。
「そうだよ。いつも君の事話してる。夕食のときなんてご飯も食べずにひたすら口を開いているよ。前なんか一時間ずっと君の良さを語ってたよ」
「……」
 彼女は火山が爆発したかのように真っ赤だった。やりすぎすぎたか……
「常陸君、やっぱり私の部屋に行こう!」
 彼女は僕の同意も聞かずに僕の手を引き、部屋へと誘った。どうやらここにこれ以上いたら彼女は恥ずかしくて死んでしまうらしい。
 長い階段を上り、一番奥にある部屋が彼女の部屋だった。中には本棚がたくさん連なっており、暖色系が多いことから女子高校生らしい部屋だというのがうかがえた。
 僕は彼女の指示に忠実に従い、座布団に座る。
 それから僕たちはテレビゲームをしたり、本の魅力について語りあった。彼女は恋愛小説が好きで僕は推理小説が好きなため話がかみ合わなかったが互いの意見を尊重し合った。
「そういえば、僕はなんで呼ばれたの?」
 推理小説を左手に持ちながら、脳に浮かんだ言葉を並べる。
 彼女は耳だけを傾けて答える。
「常陸君と喋りたかったから」
「それ真面目に言ってるの?」
「嘘ではないけど本当の目的は二つあるの……実はお母さんが君と食事をしたいって言いだしたの。毎日私のお見舞いに来てくれる人がいるって言ったら、お母さんが一緒に食事したいって言いだしちゃってね。男の子だって言ったら妹もお母さんもびっくりしてたよ。それから今日までお騒ぎ。君の好きな食べ物も聞かれたりして」
「なんか迷惑かけてごめん」
 僕は自分に非がないと分かりながらも謝った。
「別に迷惑じゃなんかないよ……むしろ嬉しい」
「え! 今なんて?」
「だから、常陸君が来てくれて嬉しいって言ったの。同じことを二回も言わせないでよね……
 私だって女の子なんだから恥ずかしいよ」
 彼女は一瞬こちらに体を向けたが僕が目を合わせようとしたら勢いよく体を戻した。
 近くの学校から午後五時を知らせるチャイムが聞こえてきた。
 西の空はオレンジ色に染まっており、南側の窓からはベランダに置いてある植物の長い影が部屋に伸びていた。



 チャイムが鳴ってから一時間経った午後六時。彼女の母親の夕食を知らせる声が一階から聞こえてきた。僕たちは区切りをつけ、部屋を消灯し、彼女を先頭に階段を下りた。階段の中腹辺りから僕の好物であるハヤシライスの匂いが鼻をくすぐった。リビングに入室すると、そこには様々な食べ物が机に所せましと並んでいた。
 僕たちは座る。
 妹さんも数秒経った後、空腹の声をもらしながらやってきた。こういうところは本当に彼女と瓜二つだ。
 彼女の父親はいまだに新聞を読んでいた。まだなのかまたなのかは不確かだったがいつまで新聞を読んでいるんだ、と内心で突っ込みを入れる。
 彼女の声を皮切に「いただきます」の声が食卓を包む。
 机の上にはハヤシライス、唐揚げ、シーザーサラダ、ミネストローネなど、数多くの品があった。これらはすべて僕の好物だ。きっと彼女が今までの僕の会話や言動を繰り返し伝えたんだろうと考えると思わず笑みが浮かんだ。
「君とやっぱり来夏お姉ちゃんの恋人?」
「違う」
 僕と彼女は息をそろえて否定した。全く同じタイミングなことに笑ってしまった。
「じゃあ二人は友達?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
 彼女は否定し、僕に視線を送った。これは僕が解決しろという合図なのだと理解する。
 僕たちの関係は「病気を知っているクラスメイト」なのだがこの場で言うのは空気を壊すので慎重に考える。
 僕は考え、探した。辞書を引く受験生のように今ある頭の中の語彙の中から最良を見つけ出す……。
 これだ。
「僕たちの関係は決して恋人でも、友達でも、クラスメイトという表現も違う気がします。僕たちは恋人や友達とか型に当てはまらない特別な関係だと思います。はっきりした関係、距離感がないからこそ僕は今こうやって楽しく過ごせています。もし、僕たちにはっきりとした関係があったらそれに縛られて互いの本心を吐き出せなかったと思います。互いをより信頼できる今の関係がベストだと確信しています。僕はそれを彼女から学びました」
 そう、僕は彼女から学んだのだ。僕たちは今がベストなんだと。
 恋人になった時は互いの核心に(彼女だったら病気に)触れないように気を使っていた。そのせいで互いの言いたい本当のことを吐き出せずに心に秘めたままだった。もし、今も恋人場ったら今以上に楽しく過ごせていないと思う。先程も言ったように僕たちの関係は言葉で表すことのできない今が一番いいんだ。互いを肯定し、時には否定でき、助言を交わせる。だから僕は決してこれ以上求めない。
 それから和やかな雰囲気のまま食事は終了した。途中、彼女の黒歴史に家族が触れたが……。
 何故か知らないが彼女のアルバム鑑賞会が開かれることとなった。彼女は多少否定の姿を見せていたが、妹が高級アイスで釣って強引に賛成へと持っていった。
「この時の来夏可愛いでしょ」
「えーっと……」
 僕は反応に困っていた。
 確かに写真内の彼女は可愛かった。幼稚園時代だろうか。手でおにぎりを持ちながら動物の檻を背景にピースしていた。もし、ここで僕が「可愛い」と反応すると「ロリコン」という顰蹙を買われてしまう。だからといって「可愛くない」と言うと我が娘に自信をもっているであろう母親に失礼と感じた。
 僕が脳内で言葉を選んでいると母親は次々と見せてきた。いつのまにかアルバム鑑賞会は幕を閉じ、母親と妹が一方的に彼女の歴史を語り、僕が受けとめるという形になっていた。
 次々と出てきた写真はまるでスライドショーみたいで様々な年、季節のものがあった。中には裸の写真もあった。裸といっても今現在のものではなかった。もちろん、中学生や小学生の時のものでもない。赤ちゃんの時だ。彼女に言ったら怒られるかもしれないが顔は猿みたいだった。沐浴に浸かる彼女の全裸がフルカラーで写っていた。
 今現在の彼女はそれを全力で阻止した。母親が「来夏の裸よ」と言った瞬間、彼女は獲物を捕らえる肉食動物みたいに写真を奪おうとした。しかし、時すでに遅しだった。彼女の全裸の写真は僕の脳裏に焼き付いてしまったのだ。その後、彼女が奪い取り「忘れて」と頬を赤らめながら風発してきたので僕は恐れながらも「うん」と首を縦に振った。
 彼女はその場から離れる口実として「お風呂に入ってきます」と逃げながら言った。彼女は余計な一言して「覗いてもいいからね」と言った。もちろん僕は覗く、わけがない。紳士だから。
 母親と妹は「覗いてこれば!一世に一代のチャンスよ」と僕の良心を煽ってきた。
 僕は紳士だし、刑務所に収監されたくないので覗かない。もし、覗いても刑法に引っかからないとしても絶対に覗かない。僕は紳士だから。
 数分後、僕が疲れからか溜ため息を漏らすと、彼女の母親が耳を疑う発言をしてきた。
「君はどこで寝るの?」
「はい!」
 思わずため口になってしまう。
 自分の家の自分の部屋の自分のベッドという解答を吐き出しそうになったが僕はこらえる。
 もしかして、僕は彼女の家で一夜を明かすことになっているのか?
 彼女からは「食事」という比較的安全な出来事しかしないと告げられた。よく考えてみろ、彼女のことだ僕をだましてまで泊まらせようとしたのかもしれない。何故僕をだましかってがわかるかって、それは夏休みに僕を出雲へと誘ったからだ。
「もしかして僕は一ノ瀬家で一夜明かすことになっているのですか?」
「違うの? 来夏が言ってたから張り切って準備したよ」
 やっぱり彼女か!
 僕は予想が当たった余韻に浸っている余裕なんてなかった。
 帰ろうか?いや帰ったら準備をしてくれた母親に失礼だしな……。
 僕が一人危機感を抱いていると母親は追い打ち、いや爆弾をなげてきた。
「来夏の部屋で寝るんでしょ?」
 思わず口に含んでいたお茶を戻しそうになった。乱れた呼吸を席によって整え、自分を立て直す。
「流石にそれは……」
 泊まるのはよしとして一緒の部屋で寝るのは無理。よし、断ろう!
 僕が否定的な姿勢を見せる前から母親は行動していた。
「来夏に一緒でいいって言われたからもう準備しちゃた」
 間に合わなかった……もっと早い段階から断りの言葉をいれていれば一緒の部屋で寝ることは阻止できただろう。
 僕は今日明日と彼女と一緒の部屋いや、同じ空間で夜を越す。『恋人』ならいいけれど、そんな関係ではない僕たちが同室で過ごすのは死を表す。彼女はどう思っているのか知らないけど……
「他の部屋で寝るというのは可能ですか?」
 僕は声を小さくして最後の希望を質問に託す。しかし、彼女の母親は否定した。恋愛の彼女の親だからきっとこの状況を意図的に用意したに違いない。僕は交渉を諦めて心の中で落胆した。
 彼女が勢いよくドアを開けた。
 濡れている彼女の髪から僕は思った。どうやら彼女は本当に風呂に入ったんだと。
「常陸君、お風呂どうぞ」
 時計を確認すると二十一時を指していた。僕はいい時間だと思い彼女の言葉に甘えた。
 ドアを開ける途中、妹が「お姉ちゃんの残り湯を堪能してれば」とにやけながら言ってきた。もちろん僕はそんな意志の基彼女の言葉に甘えたわけだはない。あくまで汚れを落とすためだ。
「来夏。また下着がなくなったんだけど知らないわよね」
「また!やっぱり盗られたんじゃない」
 彼女と彼女の母親の会話がつい耳に入ってきてしまった。他人事なので気にせずにお風呂場に向かう。
 赤の他人の家の風呂を使うのは初めてで脱衣場で服を脱ぐ瞬間は緊張した。
 浴槽に続くドアを開けると甘いシャンプーの匂いが充満していた。
 十五分ほど風呂に入り、髪の毛一本も濡らしていない状態で今日、明日と世話になる寝床に向かった。
 彼女の部屋に入って僕は焦った。ベッドが一つしかなく布団もないという事実に……。
 模索するが僕の体を一夜守ってくれる物体は一つのベッド以外存在しなかった。
 まさかとおもいながらも僕は念のため確認をとる。
「僕は君のベッドで寝るの?」
「そうみたい。まぁいいじゃん。経験済みなんだし」
 君の辞書には抵抗という二文字がないのかと呆れ半分に思う。
 僕は考えた。なんでないんだろうと。
 そこで思いついた一つの答えを導きだした。
 恋愛脳である母親がしかけたんだと……。
「一応聞くけどなんで僕の布団はないの?」
 机に向かってパソコンを打っている彼女に聞く。彼女は「編集完了」と声を出しながら回転椅子を回した。
「常陸君が風呂に入っているころに事件は起きたんだ」
 彼女は刑事のような流暢な口調で話す。
「もともとは布団があったんだけど、お母さんが水をこぼしちゃって使用不能になったの。そして現在に至り、君はラッキーなことに美女であり乙女な私と同じ布団で一夜を過ごすことになったの」
 やっぱり母親の仕業だったのか。よくしてもらった母親に対する僕の呆れを彼女に告げるのは失礼だと思い、とどめる。
 僕はすぐに寝ようとしたが彼女が「恋バナ」らしきものを勝手にしゃべり始めたので僕はそれに付き合う羽目になった。
 時刻が二十三時を超えたところでお開きとなった。
 僕は歯磨きをするのを忘れたため洗面所に足を運んだ。
 歯磨きを終え、「おやすみなさい」を言うために電気がともっているリビングに向かった。
 ドアを開けると新聞を読んでいる父親がいた。
 何時間読んでいるのか聞きたかったが僕は目的を果たすのに集中する。
「本日はありがとうございました。お先に休ませていただきます。おやすみなさい」
 僕の声に対して彼女の父親からの反応があった。
「ちょっと待て」
 初めて父親の聞く声は想像以上よりも低く、威圧感があった。
 彼女の父親の視線は僕ではなく新聞の文字だった。
「お前は来夏のことをどう想っている?」
「……」
 僕は返す言葉が見つからなかった。
 そもそも僕が彼女の病気を知っていることを父親は知っているのだろうか?
 それによってなんと答えればいいかが変わる。
「病気のことは知っているのか?」
「……はい……」
 病気。
 その単語が僕の心を絞めつける。
 僕は忘れていた。彼女が難病である七色病にかかっており、余命がいくばくしないということに。
「知っているのか。なら話は早い。お前は『病気の来夏』が好きなのか?」
「分かりません。もしかしたら好きな自分もいるのかもしれません。彼女は優しく他人おもいの優しい人です。でも、僕と彼女は天と地がひっくり返っても釣り合いませんし、本当はそばにいる資格すらないんです」
「資格? 何言ってるんだ。大事なのはお前がどうしたいかだ。そばにいたいのか、いたくないのか、どっちなんだ?」
「どっちかと言うと……」
「どっちかじゃねぇ!俺はそばにいたいのか、いたくないのかの二択で聞いているんだよ。曖昧な答えなんて必要ない!」
 僕は自分の思いを強く言う。
「そばにいたいです」
「良かった……安心したぜ……実はよ、来夏は病気にかかってから元気がなかったんだよ。元気を取り戻してもらおうと色々なことをしたが全部空振りだった。もしかしたら神経質になったのかもしれないな……でも、そんなあいつは去年の四月を境に元気を取り戻した。その日からだよ。あいつがゲラゲラ笑いながらお前のことを話すようになったのは……父親として大事な娘に男が近寄るのは許せなかったがそれ以上にあいつの笑った姿を見られるのが嬉しかった。だから、今日、俺もお前に会いたかったんだよ。あいつの心を動かしてくれたお前に。お前はどうやって来夏の心を動かしたんだ?」
「僕は特別なことなんてしていません。普通に接しただけですから……」
「多分それだな」
「え!」
「さっきも言ったように俺ら家族は来夏のことを病人だからという理由で神経質に関わってしまった。でも、お前はさっき言ったようにあいつを病人ではなく、一人の人間として普通の態度で関わった。そんな普通の姿があいつの心動かしたんじゃないか。本当の自分を隠さず何を言っても普通に受け止めてくれるお前の言動があったからこそあいつは病気のことや小説家だということを隠さなかったんじゃないかな。あいつを一人の人間として関わってくれたことに父親として感謝してるよ」
「感謝しなければいけないのは僕の方です。彼女は正反対で底辺な僕に嫌な顔せず関わってくれたのですから……」
「君は自分のことをどう思っている?」
「根暗なダメ人間ですかね」
「お前と話して分かったがお前とあいつは正反対なんだ。こんな正反対のお前をあいつは求めていたんじゃないかな。完璧な人間なんて存在しない。人は誰しも補いながら生きている。お前にある自己を正しく評価し、自分の悪いところを素直に吐き出せる心。あいつはそんなお前の心を習い、お前という人間が自分色にしか染まり輝いていなかったから『接したい』と思ったんじゃないかな。お前も同じだ。お前には無く、あいつにはある姿、志。それを自分に吸収して、自分を変えたいと思ったからお前はあいつの横を歩いたんじゃないかな。互いの欠点を補えあえるお前たちは最高のパートナーだよ」
 僕は嬉しかった。彼女の父親から認められた気がしたからだ。「パートナー」という言葉には若干引け目を感じたがそんなことはどうでもよかった。
 僕は話し終わったと見計らい、リビングを離れようとする。
 すると、父親は最後に一つ聞いてきた。
「お前の名前は?」
「相模原です。相模原常陸です」
「かっこいい名前じゃないか」
 そう言うと彼女の父親は顔を僕に向けてきた。
 彼女の父親の瞳は彼女とそっくりで美しかった。
 僕はもう一度挨拶を済ませ部屋に戻った。部屋に戻ると部屋は完全な暗闇になっていた。僕の気配に気付いたのか彼女は背中を僕に向けたまま口を開く。
「常陸君もベッドで一緒に寝てよね」
 僕は返事をせずにベッドに滑り込む。彼女の体温が背中越しで伝わってくる。
 僕は今日、彼女に伝えようと思っていたことを口にする。
「君の盗作疑惑の件だけどさ……」
「……」
 今彼女がどのような表情をしているかはわからなかった。もしかしたら僕の発言を聞いて怒るかもしれない。感心するかもしれない。驚くかもしれない。僕は彼女がどんなことを言っても、止めても、関係を切られても次のことを言うと決めていた。
「君が無実だと公にしようと思っているんだ。君に言うまで僕なりにたくさん迷った。世間に公開することによって少なからず君にも迷惑がかかる。それでも僕は一ノ瀬来夏という作家の作品の真実を伝えたいんだ。だめかな……」
「それが常陸君の考えなのね」
「そうだよ」
「私は常陸君に任せるよ」
 僕と彼女はさらに背中を合わせる。
「おやすみ」
「おやすみ」
 僕たちに余計な言葉は不用だった。
 僕は彼女が寝たのを見計らって、近くの郵便ポストに向かうために彼女の家を出る。彼女には言っていない。
 大手週刊誌に彼女の盗作疑惑の真実を証拠と共に送った。こんなに早く世間に公開しようとしていることを彼女は知らない。果たして僕が望んだ世間に公開されるという形がとられるかはわからない。それでも今まで自分が積み重ねた時間は全く無駄ではないと感じていた。
 僕は彼女が寝ているのを願いながら、彼女の家に戻った。



 背中に触られている感覚が走る。僕は原因を探ろうとするが暗いため何も分からなかった。
 視界に光が入る。あまりの光量の多さに光源から離れてしまう。
 数秒経って瞳孔が整ったため、周りの様子を確認することができた。
 自分の部屋の光景ではないため、一瞬焦ったが昨日の出来事を思い出し、状況を理解する。
 光源の近くには彼女が立っており、懐中電灯を携えていた。
 近くの時計を見ると午前二時を指していた。
「常陸君。外に出かけよう」
「君は馬鹿なの。今は午前二時だよ。いったい何しに行くの?」
「秘密」
 僕は彼女に促されるまま外に出かけるために着替えた。
 他の家族にはばれないよう僕たちは忍び足で廊下を歩いた。
 途中、窓から外を仰ぐと雪が降っていた。雪が月光によって光っていた。そのためか、寒かった。
 僕たちは裏口から外に出た。
 町は完全に寝静まっており、降りしきる雪だけが静かに着地していた。
「季節外れの雪なんてラッキー。神様は病弱な乙女にプレゼントを与えてくれるんだね」
「こんな時間なのにテンション高すぎ。で、今からどこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみ。きっと感動しちゃうよ」
 吐く息は白く、寒さ和らげるために手を繋ぎ体温を分け合った。
「そういえば常陸君。昨日の採血の結果私の血液は赤色でした!」
 事の重大さを忘れるかのような言い方を彼女は言うが僕はこの発言が何を意味しているかを理解していた。
 血液が赤色に染まったと言うことはいよいよ彼女の死期が迫っていると言うことだ。彼女がもうすぐ死ぬという現実から今まで目を逸らしていたが、いよいよそれも無視できないところまで来てしまった。
 まだやり残したこと、彼女とやりたいことがたくさんあった。僕の頭の中にはどうすれば後悔せずに彼女の最期を見送れるかという選択が巡っていた。
「そんな深刻な顔しないで常陸君。私が死ぬまでまだちょうど四ヶ月もあるんだから」
 彼女は作り笑いを浮かべて僕を見てきた。きっと不安を誤魔化す彼女なりの強がりだろう。
 歩くこと十五分。彼女の言う目的地に着いた。
 そこには大垣名物の水門川と橋が架かっており、周りとは違う光景が広がっていた。その光景の正体を求めて僕は歩く。
 そこには驚くべき光景が広がっていた。水門川沿いの並木にたくさんのライトアップがされていた。言うまでもなく美しく、光る並木道と川はまさに壮大だった。
「常陸君きれいじゃない。去年に見つけてからずっと来たかったんだよね」
「そんな大切な日に僕なんかが同乗してもいいの?」
「いいに決まってるじゃん。私は自分の意志で君といるの」
 僕たちは近くに架かる橋まで歩く。
 橋から見下ろす水面は思った以上に美しく、昼間元気に泳いでいる鯉は姿を消していた。
 降っている雪は水面に落ちると共に静かに水に溶け込んでいく。
 時刻が二時近くだけあって僕たち以外の姿は確認できなかった。
 まるで二人だけの時間、世界に包み込まれているようだった。
「問題です。私はなぜ常陸君を昨日呼んだと思う?」
 彼女は水面を見ながら僕に聞いてきた。僕たちは直接目を合わせていなかったが水面に映る顔で互いの表情は確認できた。
「君の家族が僕と食事をしたかったから」
 僕は彼女の言葉をそのまま借りる。
「まぁ~それもあったけど本当の目的は別」
「別ってことはこれから何かするの?」
「そう、これから常陸君に大事な話があるの」
 僕はごくりと息を呑む。
 雪は橋に垂直に落ちており、僕たちだけの場を作る。
「常陸君は覚えているか分からないけど、旅行時の時に『僕の初恋はサンライズ出雲で出会った女の子』って言ってたよね。それは間違いない?」
「間違いない」
 僕は断言した。
 小学二年生の深夜にサンライズ出雲のロビーで出会った初恋の女の子を忘れるはずはなく今でも記録と記憶に鮮明に残っていた。
「もし今、その女の子に会えるって言ったら常陸君はどう思う?」
「とても嬉しい。ぜひ会いたい」
「じゃあ会おうか」
 彼女はそういうと橋の中央に歩き出した。
 彼女と僕は正面に向き合っている形となった。
 少し時をおき、彼女は口を開いた。
 その言葉に僕は衝撃を覚えた。
 彼女の発言内容と自分の鈍感さに驚いた。
「私」
「え!」
「だから私」
「何が」
「常陸君の初恋相手」
「本当?」
「本当だよ。一ノ瀬来夏は相模原常陸の初恋相手です」
 彼女はポケットから写真を取り出した。
 その写真に写っている光景は確かめるまでもなく僕が持っている写真と同じ画角の物だった。
 彼女は涙を流しながら膝をつく。
「やっと……やっと常陸君伝えらえた」
「やっとってことは君は何度も伝えようとしていたの?」
「何回もしたよ。でも常陸君は全然気付いてくれないから私のことなんか完全に忘れているかと思ったよ」
 彼女は雪が降る中、柔らかな声で僕の心臓を溶かした。
「無理もないよ。十年越しの恋だもん……あの頃と違って君も僕も大きくなったから」
 僕は雪の上で膝をつけている彼女と視線を合わせる。
「変わったってそんなに変わった?」
「鈍感な僕でも分かるくらい美しくなったよ」
 僕たちは涙ながらにも笑った。
 夜、雪が降り、橋の上で二人きりというロマンティックな展開だが、僕はそれ以上を求めない。これで十分幸せだからだ。
 それからというものの僕たちは特に何の進展もないまま帰ることとなった。
「常陸君帰ろっか。帰ったら暖かいココアでも飲んで話しましょう。夜は長いんだから」
「そうだね」
 僕は彼女に同意をし、歩き始めた。余計な言葉は必要なかった。これからも彼女が死ぬ僅かな時間だが幸せな時間が続いていく……そう思っていた。

「常陸君危ない!」
 彼女の叫び声が鼓膜を突き刺す。彼女の方へ振り向いた途端、光を失った。僕はバランスを崩し倒れてしまった。一瞬、何が起こっているのか分からなかったが光を得ることによってその状況はすぐに分かった。
 雪に染まる赤い液体。それを人間の血と判別するには彼女の姿を見るほかなかった。なんとなくだか鉄の匂いがした。熱い胃液が暴れている感覚に襲われた。
 彼女の腹には刃物が刺さっており、にじみ出る血が雪を虚しく赤色に染めていた。
 何で彼女がこんなことに……。
 僕は辺りを見回す。僕から少し離れた所にクラスメイトの斉藤舞が体を震わせて立っていた。斉藤は驚いた顔で血で染まり果てる彼女の弱った姿を見ていた。動揺が斉藤の瞳の奥まではっきりと現れていた。
「来夏を助けなきゃ……」
 斉藤は小声で呟くと彼女に近づいた。そして、彼女に刺さった刃物に触ろうとした瞬間、僕は自然と叫んでいた。
「刃物を抜くな!」
 斉藤が彼女の腹に刺さった刃物を抜きそうになっていたので僕は声でやめるよう叫ぶ。が、僕の声が届くのは遅く、斉藤は刃物を抜いてしまった。刃物を抜いたことにより出血は加速していた。鮮血が白い雪を無惨にも溶かしていった。彼女は吐血もした。斉藤は「何で」と声を漏らしながら雪の彼方へ姿を消していった。
 僕は出血点を抑えて止血を試みるが、助からないことは医学の知識が乏しい僕でも分かった。
「もう止血しなくていい。私は死ぬ」
 ぐったりと倒れこんだ彼女はか弱い声を出した。そしてか細い目で僕を見ていた。
「しゃべるな!」
 彼女がしゃべることで彼女を苦しめてしまう。僕は必至で彼女にしゃべるのを控えるように指示を出すが彼女はきかず、細くなった目で精一杯の笑顔をみせた。
 僕は必死に彼女の腹から出る大量の血を止めるために出血点を抑え込んだ。
 止血をしなければ……早く止まってくれ……。
 僕の期待も虚しく、流れていく血は雪を赤色に染め上げ、僕たちの周りを侵食していった。
 僕は確信した。確信したくなかったが確信せざるをえない光景を見てしまったからだ。心の中で唱えた。諦めていない自分に聞こえないように……。
 もうダメだ……彼女はもうすぐで死ぬ……。
 僕は一瞬だけ止血を止め、分厚い雪雲に覆われている空を見上げた。
 内心ではそう思っていたものの僕は止血を諦めることはなかった。ここで諦めてしまったら きっと後悔する。彼女という素敵な存在と一分一秒でも長くいられるために僕は止血に勤しんだ。
 一瞬、彼女の顔が僕の瞳を占めた。そこにあったのはいつものように笑っている彼女ではなく、辛く、苦しさで早く死にたそうな顔だった。作り笑いすら浮かべていなかった。
 彼女は無言だったが、まるで「早く死なせてくれ」と語っているようだった。
「常陸君。もういいよ。私を楽に逝かせて」
 さっきのことがあったからであろうか。僕は彼女の声が幻聴にしか聞こえなかった。しかし、彼女は本当に楽に逝かせてほしそうな声、顔をしていた。僕は手を止める。吐く息が白い。外はとても寒いのに、僕の血はものすごい勢いで体中をめぐっており、体温が上昇していた。
 彼女は僕の血まみれの手をそっと、優しく、か弱く、包み込むように握った。
 もうすぐ彼女は死ぬ。彼女は最期に話すことを望んでいる。僕は察し、彼女にもう文句を言わなかった。
 僕は彼女の血で染まった手で冷えた彼女の手を優しく包み込む。
「私は常陸君と出会えて幸せだったよ」
「何死ぬみたいなこと言ってるんだよ」
「死ぬよ。私も君もみんな。ただその時間が早いか遅いかだけ……」
 彼女から流れ出る血は僕たちの周りをさらに埋め尽くしていった。
 僕は確信する。もう時間がない……。
「私は幸せ者だよ。常陸君を好きになれて」
 か弱い彼女の声が僕の鼓膜を震わせる。
 彼女の声は僕の中で「死」を連想させる。
 僕は彼女を抱きしめ彼女の唇を奪った。初めてのキスはレモンの味などではなく鉄の味だった。
「キスはしないんじゃなかったっけ」
「僕は自分の意志でしたんだよ。君は嫌だった?」
「嫌じゃないよ。常陸君とのキスはめいどの土産として天国に持っていくよ」
 彼女は目をつぶった。
 いよいよ最期の瞬間がやってきてしまう。僕は精一杯彼女を抱きしめた。
 彼女は全身のエネルギーを絞り、僕の耳元でささやいた。
 僕は最期の一言だと確信する。
 彼女と目は合わせずに音だけで繋がる。
「常陸君……大好きだよ……愛してる……」
 僕の涙腺はとっくに秩序を失っていた。
「……今までありがとう……」
 彼女は力尽きた。僕が手の力を抜くと赤い雪が彼女の体を優しく包み込んだ。
 僕は甘えていた。一ノ瀬来夏に『夏』が『来』ると甘えていた。自分に余裕を作ってしまったんだ。
 後悔だけが頭を埋め尽くす。
 僕は彼女の手首にそっと触れる。彼女の脈は全く確認できなかった。
 彼女から無惨に流れ出る真紅ではない人間味を帯びた赤い血はわずかだが、七色病の彼女にまだ余命があることを示していた。
「来夏!」
 僕は雪空に向かって彼女の名前を呼んだ。
 天国にいるであろう彼女に自分の思いや『想い』が伝わるように……。
 彼女は僕に色々な事を教えてくれた。対して僕はどうだろうか? あいまいな返事を繰り返し、彼女に対して感謝を伝えることすらできなかった。
 僕は今になって後悔だけが心に積もる。彼女の死体を見れば見るほど僕はその事実に涙をこぼしてしまう。
 そう。彼女は死んでしまったのだ……。

 二〇XX年三月三十日午前二時二十六分。

 一ノ瀬来夏は僕を染め輝かせ……そして……

 
 
 死んだ。