彼女が空から降ってきた。
 
 深夜二時。僕、相模原常陸(さがみはらひたち)は習慣となる徘徊をしていた。母が特異な病気で亡くなった日から何か心に引っ掛かるものがあれば目的地を定めず深夜の街中に足を進めた。
 僕はよく自分の人生についてよく考える。しかしそれは志高く将来何になりたいとか、どうすれば人生を豊かに過ごせるなどの崇高なものではない。決まって考えるのは自分が生きている理由と生まれた意味だ。それは哲学的なものでも生物学なものでもない。
 ただ、自分の人生が楽しくないことに違和感を覚えていた。
 外から見ると人生を楽しく過ごしている普通の男子高校生に見えたかもしれない。だが実際には対極で、空虚な心を宿したまま何となく日々を過ごしていた。その違和感の正体と払拭方法を探し出すために徘徊して思考を巡らす。夜風に当たりながら体を動かすと一時的にだが解決するので僕はこれを習慣としていた。
 今日は満月が綺麗で自分の影が道路に綺麗に写っていた。広大な月の光に比べて自分の悩みなどちっぽけな存在に過ぎないのかと思慮を巡らせていた時、急遽視界が暗くなる感覚を覚えた。僕はこの正体を突き止めるために上を向いた。その瞬間……。
 女子高生が空から落ちてきた。
 この影の正体はこの人の体なのだと察する。彼女の頭と僕の体は見事に接触し、僕がクッションになったため彼女は大きな怪我をせずに済んだ。代わりに僕は腰を打ったが、致命傷にはならずに済んだ。
 落ちてきたのは何かの事故なのだろうと察した。しかし、不思議な点があった。なぜかわからないが彼女は靴を履いておらず、あたりを見回したが飛び散った靴などなかった。
 彼女は一度こちらを振り返り、何も言わずにその場を去った。 
 彼女が落ちてきた近くには「遺書」と達筆で書かれた便箋が落ちていた。

『拝啓、皆様へ
 私はもう限界です。
 この世の全てが嫌いになりました。
 社会に必要とされておらずお荷物な私に生きる価値なんてない…。
 さようなら世界』
 
 僕は彼女が飛び降り自殺を図ったのだと察した。
 そして、僕は遺書を持ち帰った。

 ホームルーム後の掃除も終わり、学校の賑やかさが校舎からグラウンドに移ろうとしている放課後、僕は職員室を訪れようとしていた。教室のある北舎から職員室のある南舎に向かうため、剥き出した鉄骨が大きく錆びた二階の渡り廊下を歩いた。渡り廊下から見える柳の木の葉は長く垂れ、時より吹く強い春風によって大きく揺れている。途中、運動部の服を着た生徒何人かとすれ違った。服装から判断するに野球部のようだ。帽子の鍔を後ろに向け、うっすらと土色に染まった白いユニホームが高校生活の一辺であることを間接的に伝えてくる。部活動に所属しておらず、クラスの空気である僕にとって、彼らは百八十度反対の世界線を邁進している対極的な存在だ。しかし、羨ましいとは思わない。
 南舎二階にある職員室に着いた。木製のドアで空間を隔てている職員室。ドアの木目は激しく縦に割れており、せめてもの修復として素人が浅知恵で塗ったと思われる漆の状態が不甲斐なさだけを増している。県の公立自称進学校だけあってお金のなさをこのような古さと雑さから毎度渋々実感する。ドアには昭和を漂わせるフォントで書かれた身だしなみに関する注意書きが雑に貼ってある。紙と、それをドアに貼るためのセロテープはかなり日焼けをしており、学校の歴史を長く見守ってきた堂々たる風格を醸し出していた。僕は扉をノックして、建付けの悪い戸をなるべく音が立たたないように引く。レールとドアの摩擦から発生する金属音が鼓膜に劈く。まだ六月の上旬だというのに、自己主張の強いエアコンの冷気が職員室中を満たしており、廊下との温湿差に鳥肌が立ってしまう。室内の机は資料や本などで乱雑しており、固定電話の着信音が騒がしく空気を揺らしていた。放課後ということもあり、一日の業務にひと段落ついた教師たちは安堵の表情を浮かべながらコーヒーを嗜んでいた。
 僕が放課後の貴重な時間を割いてまで来た理由はただ一つだ。
 なるべく迷惑のかからない声量で言う。
「文学部顧問の安藤(あんどう)先生はいらっしゃいますか?」
 僕が扉の近くで名前を呼ぶと、彼は職員室奥のデスクからこちらを見ていた。忙しさをアピールするためだろうか、教壇に立っているときはつけてない眼鏡をかけ、採点に使っていると思われる赤色のボールペンを右手に挟んでいた。僕は彼のもとに向かう。三十歳くらいの男の英語教師で面倒臭そうな顔をしながらこちらを見上げてきた。机上に広がる小テストの答案と付箋がびっちりとついた紙辞書が机の表面を隠していた。付箋アンチの僕は付箋で厚みを増した彼の紙辞書をみただけで侮蔑の念を抱いてしまう。彼はかけていた眼鏡をはずし、足を組んだ状態のまま僕に正面を向ける。
「えっと……君は……」
 この教師絶対に名前覚えてないな……。
 僕のクラスの英語を週5で受け持っており、面識があるにも関わらず、名前を思い出せないでいることが表情を介してひしひしと伝わってきた。僕は半ば呆れ、半ば納得した気持ちを内包しながら、自分の名前を彼に伝えるのではなく、空気に向かって吐き捨てるように言う。
「二年二組の相模原です」
 彼は僕の名前を聞いても、出かかっていた記憶を思い出したような表情など全く見せず、問題の解説を見ても納得できない受験生のような感情を浮かべていた。つまり、僕が誰なのかをわかっていないのだ。
「そうそう相模原。で、なんの用だ?」
 僕は早くこの場から離れかったので単刀直入に要件を言う。
「安藤先生が顧問を務めていいらっしゃる文学部に入部したいんですけど……」
「文学部に!? なんで今更?」
 自分の情報を与えるのが嫌いなので言いたくないがこの際は仕方がない。
「集中して小説を書く環境が欲しいからです。僕の家は電車の音で騒がしいですから」
 それ以外に理由はない。小説を書いているといっても出版をしたいとは思っていない。ただ、有り余る時間を潰すための手段が執筆なだけだ。
「なるほど! そういうことか」
 本当に納得しているかは定かではないが、彼は机の引き出しの最下部の奥から入部届を引っ張ってきた。皺が複数、不規則に入った紙からこの男の雑さと文学部の不人気がうかがえた。
 僕は目的を果たしたため、さっさと離れようとすると、彼が話し始めた。足を止める。
「相模原。入部するのはいいがもう一人部員がいるから仲良くしてやれよ」
 もう一人部員がいるのか……。
 大きな誤算だった。文学部は部員が少なく廃部寸前だというのは噂で耳にしたことがあった。てっきり僕は誰も部員がいないと勝手な解釈を施していた。
 もし相手と馬が合わなければすぐ辞めよう。
 彼は机に向かい、採点をしながら僕に相手の名前を吐いた。
「その部員というのがお前と同じクラスの一ノ瀬来夏(いちのせらいか)だよ。中学一年生で大手出版社の新人賞を受賞した……」
 そういうと彼は一拍おいた。
「事前に警告しておくが、あいつには過干渉にならないほうがいいぞ」
 『いちのせらいか』……。聞いたことのある名前だな。
 顔と名前の発音が一致せず脳裏に引っかかる。そして僕は彼の最後の言葉に疑問を浮かべた。先ほど仲良くしてやれと言われたことと正反対で矛盾しているからだ。人に全く興味のない僕だが不可思議なことに脳がその理由を聞けと命令している。
「なぜですか?」
 彼は言葉を濁すように言った。まるで近くにいる他の先生に聞こえないように……。
「一ノ瀬の新人賞受賞作品には盗作の疑いがかかっている。なんといっても有名作家の内容と瓜二つだからそうだ。そのせいで一ノ瀬はネットで叩かれまくって、一時は所属中学校までマスコミが押し寄せたぐらいこの出来事は問題となった。高校生となった今でもその爪痕が色濃く残ったままで、クラスでも孤立しているらしいぞ。まあ、社交的でない性格も一因だと思うが……」
 盗作……。
「そうなんですか……」
 言葉とは裏腹に納得した気持ちにはなれなかった。
 なんだかにやりきれないなあ……。
「教師として言ってはいけないとわかっているが敢えて言わせてもらうと……」
 そういうと彼は僕の耳元で小さく囁いた。
「一ノ瀬と同じ目に遭いたくなかったらあいつに過干渉……いや関わらないほうがいい。これは教員としてではなく、人生の先輩としての忠告だ。一度つけられた評価は簡単には変わらない……それが学校という場所だ」
 声質から教師としてではなく人生の先輩として言っている言葉なのだと感じ取れた。
「はぁ」
 僕は消化しきれない気持ちを抑え、ため息を半分交えながら答えた。
 学校がそういう場所だというのは重々わかっていた。他人からの評価や人間関係が全ての世界線で、変に目立てば目立ちたがり屋だと影で罵られ、人気のある異性からの交際を断れば同性からの嫉妬を買い、挙句の果てには根拠のない噂を流され、「たらし」などと侮蔑される始末……まるでこれから生きていく社会を圧縮したような空間だ。そういう世界だと理解しているからこそ、みな平穏な学校生活を維持するために極力空気を読み、目立たないように努力する。僕はそんな空間に心底嫌気がさしていた。
 彼の「盗作」という言葉に引っ掛かりながらも、その日は直帰した。


 その翌日、僕は入部届を出して、文学部の二人目の部員となった。
 担任の惚気話のせいでホームルームの時間が長引いたため、相対的に掃除の時間が押した。他クラスの生徒たちは掃除を終えて部活の道具や大きなカバンを抱えて昇降口に向かっていた。それに対して僕たちのクラスは掃除の全工程の半分も終えていなかった。僕は文学部の活動に行く前に、親友の二川啓(ふたがわけい)に彼女について尋ねた。啓は唯一無二の友達だ。掃除中だったが僕たちは担当区域をすでに終わらせていたので、特に気にすることなく喋る。
「なぁ啓。一ノ瀬さんについて何か知っていることあるか?」
 僕の発言を聞いた啓はきょとんとした顔をしていた。目を二回パチパチさせた後、数秒の時差が淀む。
「一ノ瀬って、クラスメイトの一ノ瀬来夏のことか?」
「昨日、文学部の入部届を顧問に貰いに行ったときに部員がいることを告げられて、その部員がクラスメイトの一ノ瀬さんなんだ」
 僕の発言を聞いた啓はきょとんとした顔をしていた。
「他人に興味のない常陸が……なんかあったのか?」
 啓は何かを期待している顔をしていた。
「いや、一応どんな人か知りたくて。啓が想像しているようなことは考えてないよ」
「なんだー。つまんねぇの」
 僕が発言の旨を告げると啓は箒を掃除ロッカーにしまい、廊下の壁にもたれながら彼女のことを話し始めた。
「基本的には一人で読書をしていて、クラスの隅っこにいるようなおとなしい奴だよ。成績優秀、容姿端麗だから完璧というあだ名が付いているくらいだ。クラスメイトと話しているところをみたことはないな。それに一ノ瀬には黒い噂が漂っている……」
 啓は首を少し下に傾けながら話した。僕は昨日から胸につかえている自分のモヤモヤを言語化する。
「それは盗作疑惑のことか?」
「そうだ」
 啓は静かにうなずいた。
「そのほかにもいろんな男を自室に連れ込んでやりこんでいるとか。男教師を誘惑してテストの問題を教えてもらっているとか。根拠のない黒い噂が後を絶たない。まぁ俺は悪意のある女子が勝手に流した噂と踏んでいるけどね。一ノ瀬は成績優秀、容姿端麗。影では一ノ瀬を狙っている男もいるみたいだから何かと同性から恨まれるだろう」
 信頼のある啓の発言を聞くに彼女は悪い人ではなさそうだ。直感的にそう感じた。
 少なからず部活中は同じ空間にいることとなる彼女が善人であることに心の底から安心している自分がいた。
「常陸も気を付けたほうがいいぞ。一ノ瀬と仲良くしていると知られるとクラス内で孤立するから」
 彼と同じことを啓は忠告してきた。
「根暗な僕と話せる友達は啓ぐらいしかいないから孤立しても今とかわらないよ」
 僕の発言に啓は苦笑した。
 僕もわかっていた……学校という一度学内からつけられた評価が簡単に変わることがない空間を……。それだけならまだいい。孤立した人間はクラスの中心核の人間からのいじめの対象となり根も葉もない噂が瞬く間に広がる。それを週刊誌のスクープ同様に信じてさらに悪質なものに改ざんし、広める者もいれば、嘘だとわかっていながらも自分の平穏な学校生活や人間関係を保つために信じたくもない噂を信じ、自分の心を押し殺している者もいる。僕だけじゃなく、みながそれを知っているからこそ、評価が悪くクラスの空気である彼女や僕と接しないことなどわかりきっていた。
「それと……」
 啓は言葉を濁しながら言葉を言う。
「一ノ瀬は前向性健忘症を患っているらしい。命に別条のない病気らしいが病弱というワードが気に入らない女子がそれすらを妬みの材料にしているらしい。学年全体が知っている話なのに人に興味がない常陸はその様子じゃ知ってなさそう」
「啓のいう通り、僕は一ノ瀬さん病気の件も知らないし、人にも興味がないからね」
 啓は話を転換する。
「そういえば、今日からだろ部活」
「そうだけど」
 僕たちが話しこんでいると掃除の終了を告げる担任の声が聞こえた。啓は野球の道具が入ったカバンを肩にかけ、廊下を小走りで走っていった。
 僕は静かに教室に戻り、自分のリュックを持って文学部の部室に向かった。楽しみという感情は全くなく、誰にも干渉されずに小説を書ける空間を求めて歩いている節があった。
 文学部の部室は北舎と南舎から外れた通称廃校舎と言われている所に静かに息をひそめている。現在、廃校舎は物置同然として使用されており、文学部以外の部室は当然ない。
 僕はグラウンドや体育館から響く運動部のかけ声を聞きながら、廃校舎に向かった。廃校舎に行くまでの道は掃除が行き届いておらず、周りの雑草が腰の丈まで生えていた。入り口には辛うじて電気が灯っていたが、情けない光量だった。
 建付けの悪い木製の引き戸を力を込めて開けた。錆びているためか耳障りな金属音を発した。初めて入った廃校舎は想像以上に廃れていて、過去のどんよりとした空気が淀んでおり、まるでここの空間軸だけが止まっているようだった。弱い風が、古く頼りない窓をカタカタと揺らしていた。ここまであからさまな古さの建物に、冷静に入っていける自分に動揺していた。恐怖や高揚などなかった。入学当初に関係者以外は入るなと担任から釘を刺された廃校舎にこんな形で入るなんて思ってもみなかった。
 木でできた廊下を奥に進んでいく。お化け屋敷のように床がきしみ、不穏な音が不気味なほどにこだまする。外と隔離されたような空間に緊張を覚えた。
 文学部のプレートがかかった部屋があった。本当にここであっているのかと疑うほど静かさだった。あまりの静かさに自分の吐息、心臓の音がいつもより深く長く聞こえる。まだ彼女(一ノ瀬来夏)がいないだけなのかと推理を立て、とりあえず部室の扉を開けた。南の窓から差し込む太陽の温かな光が一人の人間の影を作っていたのを確認できた。僕の気配に気付いたのか、長い黒髪を揺らしながら僕の方に正面を向けて振り向いた。僕は姿を確認することができた。
 そこには上半身下着一枚の女子の姿があった。無論、下半身は制服を着ていた。ハッとした感情を目に灯していた。彼女は僕を見るに廃校舎を震わすほどの叫び声を発した。
「キャー!!!!!」
 やってしまった……。
 女子に免疫のない僕でもこの状況に危機感を感じ、扉をすぐに閉めた。相当まずいことをしてしまったと自分の行動を反省した。廊下に締め出されて、体重を壁に預けて彼女からの入室許可を待っている間、室内からは大きな物音が終始聞こえてきた。
 二分後、僕は入室許可をもらい、少しだけ次の言動に困っていると、彼女は顔を赤らませながらこちらを見つめていた。そして、恥ずかしそうに言った。
「君が新入部員?」
 これが彼女の声か……。
 透明感の隠しきれない美声だった。高校生ではなく大学生のような大人っぽさが声色から漏れていた。
 僕は彼女を観察する。
 どこか見覚えのある顔だな。
「そうだけど……何か」
 僕は素っ気ない返事をする。
 僕が新入部員だとわかると彼女は手招きをして僕を部室へといざなった。
 左右に本棚が並び、棚にはぎっしりと文庫本が並んでいた。純文学をはじめ、推理小説、恋愛小説、ライトノベルなど幅広いジャンルの本が部室を作っていた。しかし、大量の本があるということ以外は素っ気なく、昭和を漂わせる食卓サイズの机が中央にあり、脚が錆びた頼りない椅子がポツンと少しあるだけだった。机上にはノートパソコンが空間の異端児として存在していた。本当に部活をするためだけに整備されている部屋だ。
 僕が部室内を観察していると一番奥の椅子に座っている彼女が他人口調で口を開いた。
「えーと相模原君だっけ? 私の名前は……って君はこの前の」
 彼女からの思いがけない発言から僕は既視感の答えを見つけた。
「君は空から降ってきた女子高生?」
 この見た目は絶対にあの時の女性だ。きっとそうだ。
 心臓を突かれた表情を彼女はした。どうやらあっているらしい。
「その話は後でいいからとりあえず、そこに座って」
 啓に聞いた通り、彼女はきれいだった。「きれい」というありふれた言葉で表すのは失礼に値するくらい美しかった。透き通った大きな瞳、つやのある黒髪ロング、そしてなによりも、白い肌が彼女の圧倒的な美のオーラを決定付けていた。めったに他人の容姿を評価しない僕だが、これは訳が違った。
 僕が彼女の容姿を観察していると、彼女はさっきの話を振ってきた。
「えーさっきの……覗きの件だけど、あれは不慮の事故として見逃してあげるから、もう二度と覗きなんてしたらダメだぞ」
 彼女は僕を指差しながら少し恥ずかしそうにそう言った。
 この人は相当な勘違いをしているようだから突っ込んだ方が良さそうだ。
「僕はライトノベルの主人公みたいなラッキーすけべな展開は一切期待していないことをここできちんと言っておくよ」
「…………………」
 僕の話を聞いた彼女は目をきょとんさせていた。そして次の瞬間、彼女は腹から声を出して笑った。
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 なんで品もなく大笑いしているんだ。
 僕は彼女の笑点を一ピコメートルも理解できなかった。なぜこの人は大笑いしているのだろう。
「君は僕の発言の何がそんなに面白いのか理解不能だよ」
「いや、笑った! 久しぶりに大笑いしたよ。君って面白いね」
「そうかなぁ、僕はこれが正常だけど。君の笑点がヘリウムの沸点くらい異常に低いだけじゃない」
 彼女は二回、目を大きくパチパチさせた。
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 そういうと彼女は再び笑い出した。やはり理解不能だった。そして、僕はこの瞬間ある疑問が脳に浮かんできた。啓が言っていた「一人で読書をしていて、クラスの隅っこにいるようなおとなしい奴」という言葉だ。今接した限り彼女がクラスの隅にいるような……世間の言葉を借りるなら陰キャという部類に所属しているとは到底思えなかった。
 僕を含めクラスメイト達は彼女に対して大きな勘違いをしているのかもしれないと思い始めた。他人には興味のない僕だが、信憑性のない噂で他人の評価を決定するのは嫌だし、自分の欲求がままに他人を陥れる人間だけは絶対に許せなかった。
「そうだ自己紹介しようよ」
 彼女は何を思いついたのか、僕の気もしらないまま、声を弾ませた。
「嫌だよ。僕は自分という存在が嫌いなんだ」
 自分というなんの魅力のない人間が嫌いな僕は自己紹介を正面から拒んだ。しかし彼女は僕に断るという選択肢なしの爆弾を投げてきた。
「もし断ったら、君が覗き間の変態さんだって新聞部にリークするよ」
 めんどくさいな……。
「今どき新聞部にリークするなんて、君は昭和からタイムスリップしてきた人間としか思えない。普通はSNSで拡散するでしょ」
「私は古典的なリーク好きかな。朝学校に来たら『文学部で淫乱! 二人きりの密室で何が……』っていうタイトルで記事が配られていて、一躍全校生徒から好奇の目で見られるの」
「君は偏向報道を芸当とするネット記事みたいな切り抜き方するね。カットマンの称号が似合うよ」
「卓球やったことはないですーー。あと、私は女なのでカットウーマンで」
 僕の皮肉に彼女は楽しそうに答える。
「で、どうするの?」
 断りたいが、断れない……。
 変な噂を掻き立てられるのは許容範囲だが、それが原因で平穏な学校での読書時間が失われるのは避けたかった。
「わかったよ……」
 もしかすると自己紹介をし、彼女について知りたかった自分がいるのかもしれない。
「じゃまず私からね。私の名前は一ノ瀬来夏。来夏は来るに夏って字ね。身長は百六十三センチメートル。体重は秘密。趣味は旅行と読書で、英検一級を持っているのが自慢かな。それから……」
 彼女は三分以上しゃべり続けた。彼女の口は休憩という言葉を知らない。その間はほぼノンストップだった。
 不思議だった。いや不可思議だった。僕と彼女にはどこか隠れた共通点があるような気がした。
「次、君の番ね!」
 君の番!、という言葉を聞いて僕は心の中で溜め息をもらす。自分の中身を他人に開示することにメリットを感じることができなかったので素直に否定する。
「いやだよ」
「いいじゃん減るもんじゃないし」
「君と会話することにより、僕の貴重な時間とエネルギーが失われる」
「うわー、物理的な方できたか」
 毒舌を強めに吐いたつもりだがなぜかケラケラ笑っている。
 彼女は僕の反抗がなかったかのように追求を始める。
 僕は話題を転換する。
「で、君はなんであの日空から落ちてきたの?」
 あえて遺書……そして自殺というワードには触れない。
「自殺したかったの。これでも悩み多き乙女なので」
 こんなに単刀直入に答えるなんて予想外だ。
 センシティブな内容なため慎重に言葉を選ぶと思って構えていたが杞憂に過ぎなかった。
「自分の自殺未遂をそこまで淡々と語るのはどうかと思うけど、今の君からは自殺したい人間だとは想像もできない」
「まあ、女子は隠すの上手いからね」
 決して自殺の具体的理由に彼女は言及しなかった。聞くのも野暮だと思ったので深追いはしなかった。しかし、僕はあるものを彼女の前に差し出した。
「君があの日落とした遺書だよ。あのまま名前入り遺書を置いておくと何かとめんどくさいことになるだろうから一応僕が回収しておいた。物騒だから返しておくよ」
「常陸君が持っててよ。私が持ってるとまた死にたいと思っちゃうかもしれないでしょ。それとも私に自殺して欲しいの?」
 そんなわけない。誰かの死を願うと思うほど僕は残酷な人間ではない。
 彼女は陰湿な雰囲気を誤魔化すために笑顔を宿した……取り繕った笑顔だ。これ以上この話題を刺激してはいけないと本能が思ったのだろうか……僕は彼女に促されるまま遺書を鞄に戻した。
 こんな僕なんかが持って本当にいいのだろうか……。
 彼女はノートパソコンを立ち上げた。校則で禁止されているはずのノートパソコンをなんの抵抗もなく彼女は操作し始めた。芸術のようなタイピング音が室内を満たす。鼻歌を立てながらパソコンを打つ姿に僕はどこか共感する部分があった。
「君はどんな小説を書いてるの?」
 僕は小説を書いている彼女に静かに問いかけた。
 同じ小説を書く人間として、小説を書く時間は楽しい。自分の頭の中でストーリーやキャラクター達を思い浮かべて動かす。完成した時の達成感は同士でしか理解できないものだ。僕とは違い本当の本を出版している同級生、いや小説家が目の前にいる。僕は小説を書く一人の人間として、いやそれ以上に本を愛する読者として純粋に彼女の作品に興味があった。
 しかし、五分以上待っても反応がなかった。
 もしかして僕の声が聞こえてないのか?
「ごめん、なんか話しかけた? 集中してて……」
 僕は驚いた。活発、桜花爛漫な彼女からは想像できない集中力だったからだ。きっと彼女は自分の創作の世界にのめり込んでいたのだろう。僕は心の中で驚きを隠しながらも同じ言葉を繰り返す。
「君はどんな小説を書いてるの?」
「専ら恋愛小説だよ! てか、私の出版されてる作品読んだことないの?」
 僕は恋愛小説に一ピコメートルも興味がない。
「ないよ」
「なら私の小説を読んで感想聞かせて! せっかく小説を書いているっていう共通点があるんだからさ!」
 彼女は鞄から乱雑にUSBを取り出して、僕に渡した。この状況で断りにくい僕は仕方なく受け取った。
 きっと駄作だろう……。たとえ読み始めたとしてもすぐあきるし目だけ通そう。
「恋愛小説に興味なんてないから、いつ読み終わるかわからないよ。それに君の期待するような感想は言えないかもしれなということだけここで明言しておくよ」
 僕は心中をストレートに伝えた。
「死ぬまでには感想聞かせてね」
 さっきと同じ取り繕った笑顔だな……。
 『死ぬ』という不穏なワードを彼女は笑顔で発した。僕はそれを流した。



 帰宅後、いつも通りの生活をした。勉強、食事、執筆、入浴というルーティンをする。入浴後、バスタオルで頭をふいていると勉強机上にあるUSBがふと右目の視界に入ってきた。そういえば……彼女が感想を聞かせてとか言っていたな。そんなことを思い出しながらUSBを持ち上げた。
 彼女の小説を読もうか迷った。僕は入浴後のルーティンとして読書を嗜む習慣がある。読みかけの推理小説があるが、同い年ですでに出版を果たしている同級生の小説という点で少なからず興味があった。迷った挙句、結局彼女の小説に手を付けた。



 ふと時計を見ると時刻は深夜の二時を指していた。町は完全に眠っており、僅かな風の音でも繊細に鼓膜を震わせた。秒針が刻む静かな音だけが室内の空気を震わせていた。僕は四時間もの間、ノンストップで彼女の小説を読んでいたという事実に時計の針を見て気が付いた。
 面白かったし感動した……しかしなんだろうこの単純化できない不思議な気持ちは……。
 恋愛小説という初めて読むジャンルに驚きを感じる一方、同級生である彼女に執筆力で劣っている自分の力に引け目と悔しさを感じた。彼女の小説は絶対に面白くないと高をくくっていた自分を殴りたいぐらいに彼女の小説は魅力で溢れかえっていた。読者を物語の世界に誘う独特な表現、はっとさせる伏線の数々、唯一無二のストーリー、キャラクター構成など、中学生が書いたと思えないくらいの作品だった。
 僕は深夜にも関わらず、彼女の作品の評価をインターネットで模索した。読者は彼女の小説からどんな感想を抱いたのか、多角的な視点でとらえたかった。
 僕がスマートフォンで題名を打つと信じられない文字が走った。僕は目を見開く。検索予想欄には「盗作」「パクリ」「引退」といった文字が表示されていたのだ。この瞬間、あの教師や啓のいっていた盗作疑惑と繋がった。
 僕は何事かと思い、すぐさま検索に走った。トップに出てきたサイトやTwitterを覗くと彼女の小説に対するきつい酷評が並べてあった。息を呑まざるを得なかった。並んでいる文字を脳に取り込む度に呼吸が辛くなった。
 これを、まだ精神的に未熟で耐性のない中学生の彼女はどう受け止めたんだ……。



『一ノ瀬来夏のデビュー作は完全なるパクリwwwww。中学生というブランドを使って金儲けしたいだけのゴミ作家www』
『有名作家である美作大作(みまさかだいさく)の新作のストーリーをそっくりパクるとは中学生のくせに度胸あるな(ほめてない)』
『これを世に送り出した出版社も悪い』
『パクるならもっと上手にパクれよ』
『親の教育失敗の最高傑作wwwww』

 ただただ熾烈だった。
 美作大作は超有名作家だ。出版すれば軽く十万部は売れるほどの知名度と実力を持ち、何度か芥川賞や本屋大賞の候補作になるほどの作家だった。超有名作家の作品を堂々パクリ、出版したとなると大勢いるファンが黙っているわけがない。当然のように怒りの矛先は彼女に向けられた。正義という大義名分を利用して詳しい事情を知らない人間もSNSを通じて叩いた。
 本当に彼女は盗作したのか?
 僕は彼女が盗作するような人間とは全く思えなかった。なぜかはわからないが、直感的にそう感じた。
 それから寝る間を惜しんで、彼女の盗作疑惑について情報の海であるインターネットから探し出した。まるで餌を求める空腹状態の野生動物のように情報に食らついた。
 気が付くと窓から朝日が差し込んでいた。スマホに充電器をさして、少しだけ仮眠をした。



 朝のホームルームが始まるまで、啓に彼女の盗作疑惑について聞くことにした。やたらとクラスメイトの情報に詳しい啓なら僕が知っていること以上のことを知っているかもしれない。
 僕は眠い目をこすりながら啓の席に近づく。
「どうした常陸、目の下にクマなんかつけて」
「夜通し調べ事してて……気が付いたら朝日が昇ってたんだよ」
「健康第一主義の常陸が徹夜するなんて。どんなこと調べてたんだ? とうとうエロに興味持ち始めたか」
「僕は未来永劫エロの道には進まないと思うよ」
「確かに、常陸はそういうこと興味なさそうだな……で、何を調べてたんだ?」
「昨日一ノ瀬さんの作品を読んでネットで評価を調べようとしたら、盗作疑惑がネットで騒がれてたから、徹夜してその事を調べてたんだよ」
「なるほどね」
 僕の発言を聞くなり、啓は難しそうな表情を宿らせた。やはり僕の予想通り、この件について啓は僕よりも詳しいはずだ。
「なあ啓。この件について啓が知っていることを教えてくれないか」
「一ノ瀬来夏の盗作疑惑が浮上したのは一ノ瀬がデビュー作を出版してから間もない頃だ。一ノ瀬がデビュー作を出版したのは中学二年生の秋。所属していた中学校の全校集会で取り上げられたり、地元新聞やネットの記事にもなるほど話題性があった。本は予想以上に売れた。しかし、その反面有名作家が出版していた作品と大きく似ていると炎上し始めた。その炎上はやがてネットニュースにも大きく取り上げられ、SNSで拡散され、一ノ瀬が所属していた中学校に週刊誌の記者が来たり、一ノ瀬の友人らしき子に取材を強引に迫ったっていう噂があるくらいだった。最終的にデビュー作は販売停止、そして異例の自主回収が始まり、一ノ瀬はこの事件を機にクラス内で孤立したらしい。高校になっても同中の輩がこの噂を会話の材料としたせいで一ノ瀬は今も孤立状態なんだ」
 ネットの情報以上のものが得られた僕。
 この言語化できない感情は一体なんなんだ……。
 複雑な気持ちにならざるを得なかった。
 そんな僕を見兼ねた啓は話を転換する。
「そういえば、昨日の初部活どうだった?」
「どうって。一ノ瀬さんが着替えているのを覗いてしまったぐらいだよ」
 啓はなぜだか嬉しそうにニヤリとした。
「意図して?」
「断固として違うよ。本当にたまたま偶然。必然の対義語」
「ラッキーすけべっていうやつか」
「僕に変なあだ名付けないでくれる」
 僕たちがいつも通りの他愛のない話をしていると、教室の後ろのドアから彼女が入ってきた。彼女は誰とも挨拶することなく自分の席に向かった。彼女の席でたむろっていた女子集団は彼女の顔を見るに表情をゆがませたのち、磁石の同極のように離れていった。
 そして、彼女は僕と同じく一日中クラスの空気を演じた。誰からも話しかけらない。誰にも話しかけようとしない。授業では教師に当てられた場合のみしか発言しない。昼食は当然のように教室外で一人で済ます。ホームルームが終わった後は身を潜めるようにして教室から存在を消す。まるで自分という人間を教室という空間から自主的に消したがっているようだった。
 放課後、昨日のように文学部の活動に参加するため僕は廃校舎に向かった。
 昨日の過ちを繰り返さないようにノックをし、彼女からの反応を確認したのちに、扉を開ける。
 部室内の彼女は教室内とは正反対で、楽しそうな表情を浮かべていた。
「そういえば、昨日渡した私の小説読んでくれた?」
 彼女の言葉に盗作の二文字が引っかかる。しかし僕はそれを表情に出さない。
 僕は近くの椅子に腰を預ける。彼女の目を見ずに答える。
「読んだよ」
 彼女は自分の小説を読んでくれたのがよほど嬉しかったのか、声を弾ませる。
「で、で……どうだった! 感想聞かせて!」
「近い」
 彼女は身をこちらに寄せてくる。思わず心の声が漏れてしまう。そんな彼女の行動に僕は一歩引き下がる。
 まだ自分の中でも言語化しきれてないこの不思議な感情をどう伝えればいいんだ。
「おもしろい作品だったよ。同じ年齢の子が書いているとは思えないほどの力量や工夫を作品から強く感じたよ。あと、なんだろうな……」
 昨日の深夜、彼女の小説を読み終えた瞬間から僕は感情の違和感を覚えていた。彼女の作品はもちろんいい作品だ。しかし、読後に幸福感が訪れなかった。僕は登場人物たちの未来を想像する趣味がある。彼女の作品は、物語が終わったしまったという虚無感で溢れ、この先の登場人物たちの未来を僕の脳内で勝手に想像することを本能が拒否していた。
 僕は読後に感じた違和感を言語化する。
「君の作品からは虚しさを感じたんだ」
「妙にバカにしてる?」
「決してそんなことはない。なんというのだろうか……君の小説からは幸せを感じることができなかった。読後にはただただ、もう続きを読むことはできないという虚しさだけが強く残った」
「それ本当?」
 彼女は裸足の魚が飛び上がったようだった。
「僕は嘘は言わない人だよ」
「それ作者として一番嬉しいセリフだよ。面白かった、感動した、よりも虚しさが残ってこの続きが読めないのが悲しいっていう感想が最上級の褒め言葉だよ」
 満開の桜のように笑った。
「まじ! 嬉しすぎて軽く死ねるわ」
 感想を聞くに彼女は照れを全開にして、温めすぎてとろけたスライスチーズのような顔をした。
「もっと、もっと褒めて!」
 彼女はどうやら褒められたいらしい。僕は彼女の要望に忠実に従うはずもなく、聞きたかった話に移す。
「君の作品について一つ聞きたいことがあるんだけど……」
 そう言った瞬間、彼女は表情を途端に暗くした。これから僕が言う話題について察したんだろう。僕が昨日読んだ彼女のデビュー作……。
「君の作品の……その……盗作疑惑についてなんだけど……」
「それ以上言わないで」
 言葉を濁しかけた僕の発言を彼女は強く阻止した。彼女の表情は、今までの言動からは全く図れないほど動物的だった。そして何かの悪夢を見ているかのように頭を押さえて、文章では表せないような苦しむ声を発した。自分の長い髪を無理やり引き抜くような行為をして、苦しみだした。

 そして、彼女は……倒れた。



 時刻は二十三時を回っていた。いつもの僕なら自宅でくつろぎながら推理小説を嗜んでいるが、今日はそれどころではなかった。彼女が部室で倒れた後、何度呼び掛けても彼女からの返答はなかった。僕は慌てて校則で禁止されているスマートフォンを鞄から取り出し、救急車を急派した。そして、近くをたまたま通りかかった教師に彼女が倒れたことを説明したため、慌てた様子で養護教諭が来た。そこからは教師や救急隊員に状況説明をするのに大変だった。なので彼女の容態はわからない。そして、教師から解放されたのが今さっきだ。流石の僕でも、こんな時間まで教師たちを付き合わせてしまったことに申し訳なさが募る。昇降口は時間が時間がため閉まっていたので、僕は正面玄関に向かう。夜の学校には特有の気味悪さがあり、その空気が不安を掻き立てる。満月は薄い雲に隠されており、光だけが淡く散っていた。僕は自転車を押して家に帰った。
 今日は何も考えることができない。



 翌日、彼女は学校に来なかった。昨日のことを考えると当たり前だが、無事の証として彼女の登校をひそかに願っている自分がいた。彼女が一時入院したという旨が先生の口からクラスメイトに伝えられたが、興味を示したものは僕を除き誰一人としていなかった。クラスメイトから空気として扱われている人間は心配の対象にもならない。それが学校という場所だ。
 きっと僕だったとしても同じ状況だっただろうな。
 放課後、文学部の顧問に呼び出され、彼女の見舞いを促された。本当は面倒臭いので行きたくなかったが、流石に……という思いを胸に仕方なく病院に足を運ぶことにした。
 市内の中心にある、真新しそうな病院の受付で彼女の病室番号を確認する。受付で名前を伝える際、漢字表記を思い出せないでいたが、なんとか思い出せた。
 病院独特の匂いが劈く院内をやや早足で歩き、病室に向かう。病室の表札には『一ノ瀬来夏様』と筆記体で記されていた。僕はノックをして病室に入る。消毒液の匂いが廊下より微かに強く漂う室内を進む。彼女のベッドは四人部屋の右奥にある。空間を仕切っているカーテンを開けるとノートパソコンのキーを勢いよく叩いている彼女の姿があった。彼女は僕を見るに、ハッとした明るい表情を浮かべ、執筆していた手を止めた。予想に反し、部室内でしか見せない明るい笑顔を灯らせていた。その表情に安心した僕は肩が軽くなった気がした。
 どうやら元気そうだ。
「常陸君わざわざ来てくれたんだ」
 声質もいつも通り。
「昨日の一件は僕の責任だから……一応、謝りたくて」
 決して他意はない。
「全然いいよ。気にしないで。倒れたのは私の責任だから」
 僕は彼女の言葉選びに違和感を覚える。
「倒れたのは私の責任って……」
 僕の発言が核心をついたのか彼女は顔を背ける。
「君……病気の件でなにか隠してない?」
 僕は頭に浮かんだ言葉をそのまま並べる。
 少しの間を置いた後、彼女はゆっくりと話し始めた。
「なんか常陸君には隠せる気がしないな」
 そういうと力が抜けたのか、彼女は体をベッドに預けた。次に体を僕のほうに傾けて、まるで今日学校であったことを親に話すように淡々と語りはじめた。
「実は私大病を患ってるんだ……それも治療が確立していない七色病で余命一年三ヶ月弱なんだよね。名前通り来年の夏を迎えてから死ぬなんてこれもなんかの運命なんかな!」
 彼女は自分のことなのに笑って誤魔化した。
 まさかよりにもよって七色病か。聞いたのは久しぶりだな。
 その名の通り血液が七色に染まるのが七色病だ。菫、黄、緑、藍、青、橙、赤の順に染まっていき、赤色に染まった数か月後には突如真紅となった血液が心臓の血管を塞いで死んでしまう。染まるといっても完全にその色に染まるのではなく、絵の具と一緒で赤色の血液に該当の色が少し色味つくだけだ。治療法は確立されておらず、世界でも症例が少なく、不治の病として知られていた。この病気にはさらに恐ろしいことがある。血液の状態、色などから何月の何日の何時に死ぬかが正確に分かるのだ。死期はわかるのに治療法が確立されていないなんてなんとも不穏な病気だ。
 甘く見ていた。前向性健忘症を患っていると思っていた彼女が高校生の内に一生を終える病気にかかっていたなんて……。
「じゃあ、学年全体に流れている前向性健忘症の噂は?」
 きっと彼女の容姿を恨んだ誰かが流した捏造だろう。
「そんな噂あったね。あれはまっぴらな嘘。誰が流したのか知らないけどね……」
 やっぱり……。
「君の今の血液の色は何色なの?」
「この前採血した時は藍色だったよ」
 七色病に関して人並み以上の知識を持っている僕は血色液の色から死期を推測する。
 来年の夏、七月下旬あたりにこの世から消えるのか……。
 しかし、僕は彼女の余命宣告を全く悲しいとは思わなかった。
「ちなみに誰が君の本当の病気を知ってるの?」
 興味本意で聞く。
「家族だけかな」
 僕はさらに話を踏み込み、禁忌を犯してしまう。
「君の盗作疑惑の件だけど、僕を信頼して教えてくれない」
 ダメだとわかっていた。わかっていたがこの件の真相を彼女の口から確かめない限り僕は……。
「やっぱり不可思議だな。話して間もないのに、常陸君になら何でも話せそうだよ」
 彼女はベッドから立ち上がり、レースカーテンをめくった。窓から差し込んだ優しい夕日が彼女の影を創る。彼女は窓の外を眺めながらゆっくりと語り始めた。
「結論から言うと私は盗作をされた側なの」
「まさか、君がこの前自殺未遂した理由って……」
 彼女は分かりやすく俯いた。
「snsの誹謗中傷に耐えきれなくなって」
 彼女は絞れ切ったように声を出した。それっきり黙り込んだ。
「ごめん……それ以上は言えなくて……」
 僕は待った。彼女がこの疑惑について自分の口から真実を告げるのを願った。しかし、彼女は一切黙り込んだままだった。彼女は視線を送った。いや、正しく言えば僕が彼女からの視線を感じ取った。
 これ以上の追求はいけないな。
「ごめん。僕が悪かったよ。これ以上は追求しないよ」
「なら、責任とってよ」
 いきなり彼女は何を言い出すんだ。
 彼女はベッドから大きく身を乗り出した。そして、小悪魔のように微笑んだ。
「わかったよ。どう取ればいいの」
「なら……」
 不敵に笑みを浮かべた。
「私とデートしてよ。絶賛行きたいところがあるんだけどさ、一人で行くのは心寂しくて……」
「自分から言ってなんだけど流石にそれは嫌だよ」
「へー断るんだ。断るなら君が覗き魔だって言いふらすよ」
「言いふらすような友達いないでしょ」
「確かにね」
 僕はため息を漏らす。
「わかったよ。君のデート相手になってあげる」
 僕たちは大きな契約を交わしたサラリーマンのように握手した。
「早速だけど、来週の日曜日、私の用事に付き合ってよ。映画見て、本屋に行くの。彼氏彼女って関係にしてあげよっか?」
「僕たちはあくまでクラスメイト兼部員の関係。これを恋人とみなすのなら、全世界のロマンチックな恋をしている男女に土下座したほうがいいよ」
「アッハハハハハハハハ。確かにね」
 彼女は腹を抱えながら笑った。
 本音は貴重な休日を奪われるのが嫌だったが、断ると変な噂を流されてしまうので渋々頭を縦に振ることにした。
 彼女と関わるとろくなことがなさそうだ。

 彼女が死ぬまであと一年三ヶ月……。
 最後に彼女と言葉を交わした日から一週間がたった日曜日に僕は彼女と出かける約束をしていた。
 四月に景色を彩っていた桜は完全に散り、五月には裸となり道路を殺風景へと追いやっていた並木たちは新緑の葉を茂らせていた。夏に向けて上昇していく気温は僕の外出気分をぐっと下げる。
 自転車をおもいっ切り漕ぐと玉の大きさ程の汗が額に走る。
 僕は駅近くの商店街を颯爽と走り抜け約束の十五分前に駅前の広場に着いた。彼女と出かけることには乗り気ではなかったが、人として遅れまいと時間だけは厳守するよう日々心がけている。
 僕が住んでいる大垣市は、岐阜県の南西部にあり、県庁所在地の岐阜市に続いて人口が多い都市であり、水が名産品になっている。駅前の広場には名産品である水を使った噴水が立ち並び、人々の憩いの場となっている。夏はこの光景を見るだけで気持ちが多少は涼しくなる。
 彼女が来るまでの間、近くのベンチに腰をおろし、推理小説を嗜む。
 昔から使い続けているしおりを胸ポケットに収める。
「常陸君!」
 聞いた事のある声がしたので振り返ると、荷物がたくさん入っているであろう大きな鞄を背負っている彼女が手を振っている。明らかに宿泊を前提とした旅人にしか見えない。
 今日の目的地は山に変更されたのか。
「君はなんでそんなに荷物が多いの?」
 単刀直入に聞く。彼女は得意そうに答える。
「常陸君が少なすぎるんだよ」
 僕は小説と財布とスマートフォンしか持ってきてない。軽率すぎるとは全く思わず、日帰りなのだからこれだけ持っていけば問題はないと確信していたので、それ以外は全く持ってきていない。
「僕が少ないんじゃなくて君が異常に多いんだよ。何持ってきたの?」
「もう、レディーに対して鞄の中身見せてアピールをしなくても、見せてあげるよ」
 そう言うと彼女は鞄の中身を雑にベンチの上に展開した。
 その中身はというと恐ろしく、ベンチの上には目覚まし時計やマンガが十冊ほどあり、さらにはノートや筆箱などが入っていた。学内で完璧と謳われている彼女の欠点に対して悪寒が走る。
「とてもレディーを名乗る女子高生とは思えない中身だけど……この世界の全女子高生に、『私のせいで片付けができないと思われてごめんなさい』って謝った方がいいよ」
「アッハハハハハハ! やっぱり常陸君って面白いね」
 やはり彼女の笑点は理解できない。
「とりあれず使わないものはコインロッカーに入れるよ」
 僕はいらない荷物を峻別する。公共の場で場違いな作業するのは周りから好奇の目で見られるのを避けられなかった。彼女は鼻歌を奏でる。
 極楽とんぼもいいところだ。僕の配慮も知らず。
「目覚まし時計は流石にいるよね?」
「流石って言葉の意味わかってる? 一回辞書を引いたほうがいいと思うよ。なんなら今度紙の広辞苑貸してあげる。よくそれで小説家してるよね」
 少しばかりの皮肉を込める。もちろん僕の方が日本語力に優れるとは思っていない。
「それ褒めてるの?」
「断固として褒めてない。皮肉をこめた僕の言葉をよくも肯定的に捉えられるね。是非とも君のお花畑な脳をのぞかせてほしいよ」
「乙女の着替え姿を覗いておいたくせに、私の内部すら凌辱しようとするなんて」
「君はいつからラブコメのメインヒロインになったつもりなのか知らないが、僕は下心を持って君を性的な目で見たことなんてないよ」
「うわー、そこまでストレートに女子として否定されると流石に傷つく」
 言葉では僕の発言を悲観的に受け取っているが、満面の笑みを浮かべながらケラケラ笑っている。そんな彼女の態度を僕は気にしない。
「やっぱり君の頭おかしいね。とりあえず目覚まし時計はいらないね」
「絶対いるよ。だって今から乗る列車での乗り過ごしを防ぐための必儒品じゃん」
「スマートフォンのアラーム機能を使えばいいでしょ」
「あー。なるほど」
 それから十分ほど太陽が照りつけるもとでコインロッカーに何を入れるか話し合った。できるだけ目立ちたくない僕は可能な限り人目を避けられるベンチを選んだが、道ゆく人は視線をこちらに寄せていた。
 彼女といると本当にろくなことがない。
 たくさんの余分な物をコインロッカーに収監し、電車に乗る為に改札を通り抜けてホームに入った。
 列車が来るまでの間、爽やかな風が吹き抜けるプラットホームで彼女と雑談をした。
「常陸君さぁ、旅行が好きって言ってたけど、どんな旅行が好きなの?」
「鉄道旅行」
「え! 本当に! 実は私も鉄道を使った旅行が大好きなんだ。常陸君は何の列車が好きなの?」
「僕は285系、サンライズエクスプレスが一番好きかな」
「え! そうなの! 実は私も285系が一番好き」
 彼女が素から驚いている事は僕でも分かった。僕も正直、好きな列車までも同じことにはびっくりしている。小説を書いているということ以外、彼女との接点が全くないと思っていた僕は彼女の意外な事を知れて少し嬉しかった。
 卑屈な僕とは違い、本当の中身は完璧とは程遠いごく普通の人間味あふれる高校生である彼女はきっと……きっと、あの件さえなければ今とは違った高校生活をしているんだろうなと感じる。
「初恋したことある?」
「何、唐突に」
 本当に唐突過ぎて口から変な声が漏れかけたが必至にこらえる。
 他愛のない話の中に僕の嫌いな恋愛をねじこんでくるとは……。
「なんで君になんか教えなきゃいけないんだよ。あと僕は恋愛が嫌いなんだ」
「恋愛は素晴らしいよ。恋する前と後じゃまるで住む世界が変わって見えるから。大恋愛したことがないから常陸君はそう言えるんだよ……恋愛しないとあっという間に死んじゃうよ」
「余命が少ない君が言うといい意味で説得力が違うよ」
「あ、私の恋バナ聞きたい?」
「どうせ君の性格的に僕が聞かないと解放してくれないんでしょ……」
「流石常陸君! 私のことよくわかってるじゃん」
「私の大恋愛はネットの人だった……。中学一年生の時にスマホに勉強のアプリを入れたの。そこに私が書いた小説を自己満から投稿して、その人がコメントしてくれたのが私と元彼との恋愛の始まりだったの。元彼は他県に住んでいる同い年で、私は遠距離で学生だからそんなに簡単にはあえなった。そこからTwitterのDMで他愛のない話をするようになって、LINEも交換して一年半の年月を経て付き合うことになったけど、結局お互いが信用できなくなって数週間で別れたんだけど、私は未練が残って、長い時間諦めきれなかった。こんなに好きになった人初めてで本気で自分と向き合った……」
 内容に反して彼女はどこか正々とした態度に見えた。そして、少しばかりの嘘を感じた。
「それは君の自論にすぎないよ。でも、世の中には現実の寂しさをネット上で埋めようとする人もいるからな……」
「ほんと常陸君は頭が固いな。次は君のを教えてよ!」
「……」
 数秒の沈黙の後、風によって崩れた髪型を直してから答える。
「僕の初恋は小学二年生の時」
「どんな子なの?」
 彼女は顔を近寄らせ、輝く眼光を僕に向けてきた。恋愛小説を専門に書いているのだから、当然と言えば当然だ。
 彼女は素で恋愛が好きなんだな。ここで嘘をついてはいけないな。
 正直に話そうと心の中で静かに決意する。僕は彼女の顔は決して見ない。
「これを初恋というのかはわからないけど……一言で言うならば可愛い子かなぁ。結局その子とは一度きりしかあってないか君に言われるまで忘れていたよ」
 これを恋と定義していいのかはわからない。
「常陸君にも『恋』が目芽えたことがあるんだね。意外だったなぁ~」
 恋愛成分を補完できた彼女はなぜだか嬉しそうに呟いた。
「今思い返せば僕の初恋は桜とそっくりな感じがするよ……」
「それってどういう意味?」
 彼女は発言の解釈を求めてきた。
「桜はさ……短い期間しか咲かずにいつの間にか散る。桜の開花予報は報道されているのに散った事は人の目にも留まらずに虚しく消えていく。僕の初恋も桜のように心の中に咲いて、桜のように静かに散っていたから同じだなと思っただけ」
「それは違うよ! 常陸君!」
 彼女は強い口調で否定してきた。彼女を見るとさっきほどまでの笑顔が消え、百八十度反対の真面目な顔に様変わりしていた。彼女の瞳はまるで何かを主張している。
「違うって何が? 初恋の事?」
 僕は純粋な気持ちで尋ねた。
「常陸君知ってる? 桜は花びらが散った後も静かに生き続けているんだよ。花びらが散った後、次の春に向けて静かに生命を宿してるの。桜は春にしか輝かないけど、一瞬咲き誇るために何百日もかけて努力しているの。暑い日も、風が強い日も、寒い日も熱い樹液を流しながら強くたくましく生きているの。常陸君の初恋は終わりじゃなくて、次の芽生える恋まで努力してほしいと私は思っているの。いつ努力が報われるかは分からないけどその一瞬のために頑張ってほしいと私は思っているの」
 不思議と彼女の言葉は僕の鼓膜を刺激して、脳内で何度も反復された。
 彼女は不思議ではなく不可思議だった。
 僕は心の中に卑屈なコメントをしまった。



「……君。……陸君。……常陸君ってば」
 爽やかな風が耳をくすぶる。時計を見る限り僕は十分ほどホームのベンチで寝ていたらしい。彼女からの呼びかけに脳よりも先に体が反応して起きた。
「常陸君。列車が発車しちゃうよ」
 彼女は手を振りながら、急ぐよう手招きをしてきた。
 寝起きだから視界が歪むな……。
 鼻を刺激するディーゼルエンジンのにおいがプラットホームに充満していた。鉄道マニアの僕にとっては嬉しかった。僕は彼女に追いつき、彼女は僕に歩調を合わせながら列車の最後尾から乗り込んだ。僕は近くのつり革に手を掛けながら本を開く。
 今日は日曜日のため、混雑率も高く、小さな子供連れやカップルなどが車内を彩っていた。今、僕たちがカップルに見られているのではないかと思うだけで絶句した。
 混雑しているにも関わらず、堂々と優先席に座っている数人の男たちが声量なんか気にせずに話をしている。近くには杖をついている老人や妊婦の方が迷惑そうな顔で彼らを覗いていた。
 僕の中に注意するという志は全くなく、静かに本を読もうと決意する。
 こういう面倒ことには関わらないのが得策だ。
 しかし、彼女は違った。
 列車が轟音を立てて駅を出発して数分経った後、隣に立っていた彼女が優先席に座っている男たちの前に立って睨みつける。
 僕は背筋に悪寒を感じた。きっとこの後取る彼女の行動について立てた仮説があまりにも衝撃すぎたからだ。
「おい、姉ちゃん! 俺たちに何か用か?」
 低く、怖い威嚇するような声で男の一人は彼女を睨みつける。彼女は大きく息を吸う。僕は横目で見て見ぬふりを貫く。
「ここ優先席なんですけど、近くにいる方に譲ってあげたらどうですか? あと優先席付近では会話は控えめにして、携帯電話はマナーモドーにするのが常識なんじゃないんですか!」
「そんなのは常識で決まりじゃないよ、姉ちゃん。総理大臣が法律で定めたっていうのなら退いてやってもいいんだぜ。さあ、どうよ」
 男たちは屁理屈を並べ、退く気配を微塵も見せなかった。僕は彼女と関係者じゃないふりを装う。
「言っときますが、これはマナーや常識の問題です。ちなみに、衆議院か参議院のどちらかに提出された法律案は、通常、数十人の国会議員から成る委員会で審査された後、議員全員で構成される本会議で議決され、もう一方の議員に送られ、衆議院で可決後、衆議院で否決された法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数によって再び可決されると、法律になるのですよ! 公民の勉強しましたか……それとあなたたち不正乗車してますよね」
 男は挙動不審になる。「不正乗車」の一言が周りからの視線を集める。
「は! してねえし!」
 男たちの様子を見るに彼女の言ったことは真実らしい。なぜ彼女は分かたんだ?
「あなたたちが小人運賃で乗っているところを私は確認していました!」
「な! なんで分かったんだ」
 男たちは図星だったのか動揺を隠せてなかった。彼女は説明する。
「小人運賃で改札機を通ったら鳥の鳴き声のような音を発するんです。あなたたちが通った時に音が鳴ったのは私の耳がはっきりと覚えています。これでも白を切るつもりですか? 何なら今すぐに切符を確認してもいいんですよ! 車掌さんを呼んできましょうか?」
「ちっ、面倒くさい姉ちゃんだぜ。口が駄目なら拳で勝負するしかねなぁ」
 リーダー格の男一人が席を立ち、戦闘モード―にはいった。拳から鳴る関節の音は戦いのBGMにぴったりだった。
 周りからは男の行動を批判する声が左右の耳から入ってきた。
「どうぞ、かかってきなさい」
 当の彼女は余裕の表情で男を見ていた。彼女の態度に不満を持ったのか、男は助走をつけ、彼女の顔に向かって拳を突き出す。周りからはその瞬間、悲鳴が聞こえてくる。
 男の悲鳴が車内中に響きわたり、一時はエンジン音が車内を満たすくらい静かになった。彼女が男の股間に思いきりキックしたせいで悲鳴をあげたのだ。男は床にたおれ、蹴られた部分を必死でおさえていた。
「こりゃ痛いぞ」「大丈夫か」などの男たちに対する言葉が多数とんできた。
 僕は彼女が襲われそうになった時よりも今の状況に動揺している。
「降りるぞ」
 男の一味がそう言い、彼らは次の停車駅で下車していった。彼らの名誉のために言っておくと、彼らは一万円札を置いていった。口止め料なのか?
 車内では拍手が沸き起こった。ディーゼル音の轟音をかき消す拍手が彼女に対して無数におくられてきた。
「はい、席どうぞ」
 彼女は老人と妊婦の方に席に譲って、僕の隣に戻ってきた。一仕事終えた彼女の表情は安堵と正義が混在していた。
「すげぇぞあの姉ちゃん」「女なのに勇ましいなぁ」「かっこいい」などの彼女をほめる言葉が車内を一時的に賑わした。
「どう、すごかったでしょう。実は私、小学校の時に空手習ってたんだ」
 彼女は不敵に笑みを浮かべ、流れる車窓を楽しんでいる。彼女という人間の不可思議さを言動から改めて感じた。
 彼女の性格や気の強さは僕とは百八十度違って正反対だ。彼女は誰に対してでも手を差しのべれて、先ほどのように正義を貫ける優しい人間。
 僕が彼女だったら手は差し伸べない。



 流れる景色が住宅地から田園へと変化していった。
 列車に身を委ねて、ゆられる事三十分。目的の駅に到着した。
 標高が比較的高く、田舎っぽいことから空気が澄んでいるように感じ、自然と僕の肺を満たしてくれる。
 柔らかな春の日差しがふりそそぐ駅のプラットホームを、歩調を合わせて歩く。列車はレールのつぎ目を静かにぬけ、赤い光を残しながら北の果てへと姿を消していった。
 少し標高が高いというとこもあり肌をなびかせる風が心地よく、遅咲きの桜もまだ残っていた。
 改札の無い駅を出て、ショッピングセンターまでの数百メートルの道のりを歩く。向かっている途中、彼女は回ったり、一人でこの町のレポートをしていた。
 彼女は恥ずかしいという言葉を知らないのか? 
「君って不可思議だよね」
 彼女に対して前からおもっていた感想を投げかける。彼女は立ち止まり、僕を見て話す。
「何が?」
「教室の時と違って意外に元気がいいし、それに……さっきの車内での事。自分よりもあきらかに強い人に向かって何であんなに勇気をもった行動ができるのかが不思議だよ。僕だったら逆立ちしてもできない」
 目を二回パチパチとさせ、彼女は真剣さを表情に表しゆっくりと答え始める。
「元気がいいのは私の本心なの! 暗いと話は弾まないし、雰囲気も悪くなるから楽しくないでしょ! まあ、学校での私は百八十度反対だけど……。どうせクラスメイトに本心で喋ったところで盗作疑惑のせいでみんな嫌悪感を示すだけだし」
 濁すように最後の言葉を放った。
 彼女の最後の言葉に言及すべきではないな。
 彼女は人として素晴らしい。喋りはじめてから数ヶ月しか経ってないが、そんなことわかっていた。僕とは価値観が合わないが、一般的な女子高生なら合う気がする。しかし、彼女の同性から嫉妬を買うほどの圧倒的な容姿と盗作疑惑という疑念が、クラスメイトとの間に決して修復することのできない大きな歪みを作ってしまった。僕とは違い、きっと彼女も自分の本心のままにクラスメイトと話したいんだろう。
 勝手な憶測が脳裏を占めてしまう。
「じゃぁ、もう一つの質問に答えるね」
「……」
「……」
 二人の間に沈黙の時間が流れる。
「私は困っていたり傷ついたりしている人を見ると心が痛む。小学四年生の時に自分が似たような状況に陥ったことがあるの。私はクラスのいじめっ子に当時いじめられていた。ある日、公園でそのいじめっ子たちが私を殴ってきた。あっちが一方的に攻撃してきたのを見て、たまたま近くを通りかかった女性が助けてくれたの。そのときの心の温かさとカッコよさは今でも心に焼き付いている。だから、その人の言動を見て決意したの。困っている人がいたら自分を犠牲にしてでも全力で手を差し伸べるって。そりゃあ、自分よりも強くて大きい人に立ち向かうのは身震いするほど怖いよ。でも、その怖さよりも助けたいという気持ちのほうが勝っているから立ちむかえると思うの。そして、私が勇気を持って言動できる一番の理由。それは助けを求めている人にとって助けてもらう以上に幸せなことはないと思うの。自分がこの幸せを肌で経験しているし、経験してもらって助け合いの輪がさらに広がってほしい。そう私は願っている」
 僕は今言われた言葉に心を打たれると同時に、自分という一人の人間の情けなさや未熟さを垣間見た。
 僕は未熟さという一つの壁を痛感した。ただ、本しか読んでなく、自分しか見ていない視界の狭さに引け目を感じた。
『彼女に変えられた気がした。彼女のおかげで考え方が変わった気がした』
 今までの僕なら他人と比較をし、自分が引け目をとっているとは思わなかったし、この話を自分事ととらえず、右から左に流していた。
 僕は彼女のことを非常識な人間としかとらえてなかった。しかし、彼女の中からあふれ出す他人への思いやりは彼女自身が肌で学んだからこそ生まれたのだ。彼女の考え方を取り入れれば卑屈な自分を卒業でき、少しはましな人間になれるのかもしれない。そう感じた。そして、彼女の本当をクラスメイトにも知ってもらいたいとも思った。
 再び沈黙の時間が流れ、二人の間には少し重い空気が佇む。しかし、この空気は意味のある重さを内包していた。
「ごめんね。こんな重い話して」
 彼女の笑顔と透き通った声が停滞した空気を揺らした。
 それから歩き、目的地に到着した。
 見上げた空は先ほどよりも青かった。自分の何かが動き始めた気がした。



 ショッピングモール内は所狭しというぐらいに人がいた。上の階から見下ろせば人は豆のように小さい。外の澄んだ空気とは一転、あたかも換気をしていないような淀んだ空気が人の合間をぬって林立する。この空気に嫌気をさしたのか彼女はマスクを取り出すが、すぐにしまった。
 彼女は近くの人のことなど全く気にせずに僕に全力で話しかける。
 やっぱり彼女のは非常識だな。
「まず映画を見よっか!」
「僕も見るの?」
「yes! はいチケット!」
 用意周到とはまさにこのことである。僕が「はい」と返事をする前に彼女は財布からチケットを取り出していたのだから。くしゃくしゃになったチケットから彼女の生活態度がうかがえる。きっと部屋も汚いのだろうと推測する。不本意だが、財布の中にカードがたくさん入っているのを見て、自分とは正反対の財布だとうすうす思った。なぜなら僕は彼女の十分の一程度しか入っていないからだ。僕たちはしばしの休憩を取るため近くのベンチに腰かける。
「すごいカードの量だね」
「女子の財布覗くなんてエッチだね」
 僕は呆れて返す言葉が見つからない。それを見かねたのか、彼女は笑いながら訂正した。
「ごめんって常陸君。これでもカードは少ない方だよ」
「それで少ない方とかやっぱり君は不可思議な人間だよ」
「じゃぁさ、常陸君の財布の中も見せてよ。私の見せたんだしさ」
「嫌だよ。なんでさりげなく僕の財布の中身チェックをしようとしてるんだよ」
「つまり、私に中身は見せてくれないと」
「そうだよ」
「へー。見せてくれないと君が私の財布を覗いたセクハラとしてクラスのみんなに報告しちゃうよ」
「財布を覗いたぐらいでセクハラになるなら、日本の警察はさぞ忙しいだろうね」
 変な噂が流れるのは別に構わなかったが、噂が流されることによって学校内での有意義な読書の時間が失われるのだけは避けたかったので、僕は二つ折りの財布をしかたなく彼女に渡す。彼女は満足そうな表情を浮かべる。
 財布の中身を思い出す。たしか中には現金、ICカード、ポイントカードが二枚と図書カードがあったはず……。
 見られてはいけない物はないかと過去を探る。記憶という名のピースを頭の中でつなぎ合わせる。しかし、ピースは一つなく、パズルはまだ完成していない。
 何か忘れている物はないか?
 脳をフル回転させる。
「何? この写真?」
 彼女の「写真」という単語で最後のピースを思い出した。
 そう、財布の中には大事な写真が入っていた。写真には十二歳の、僕と同い年ぐらいの女の子が写っている。
 これを見た彼女はどんな表情をしているのだろうか?
 恐る恐る彼女の表情を確認すると、言語で表せないような顔をしていた。彼女は悪さをする子供のような声を発す。
「へぇ~こんな子がタイプなんだ……相模原常陸さん。写真について説明願います」
 これはもう逃げられないな。
 正直に白状しようと僕は昔の記憶を鮮明に思い出す。恥ずかしいと思いながらも胸を張って堂々と語ろうと心に決める。
「その写真の子は僕が十二歳の時に出会った女の子。大垣駅のプラットホームで話した、初恋の女の子だよ」
「え?」
 彼女は驚いた表情を浮かべる。僕は出会いを語る。
「十二歳の時だった。僕はサンライズ出雲に乗って旅行をしていたんだ。その時の記憶は今でも鮮明に覚えている。夜中の二時ごろ、僕は眠れなくてラウンジで車窓をただただ眺めていた。そしたら、この子が僕に話しかけてくれた。明るくてひたすら一人でしゃべってばかりの活発な子……まさしく君みたいだったよ。僕たちは近くの椅子に座って話し込んだ。流れていく時間は車窓と同じくらい速かったよ。で、最後に写真を撮ろうっていう話になって、撮った写真がこれ。次の日も会おうとして車内を探したけど見つけることはできなかった。その時は会えないことに対して何も思わなかったけど、日が進むにつれて会いたいという気持ちは大きくなったよ。今でも死ぬ前にもう一度会って、この目で確かめてみたいと思っているよ」
 僕はすべてを話し終えると吐息を漏らした。
 この話を聞いて彼女はどんな表情をしているの? まさか嘲笑したりしてないよね?
 僕は不安を抱きながら視線を彼女に移す。
 しかし、彼女は僕の予想とは全く違う表情を浮かべていた。
 彼女は何故か知らないけど泣いていた。瞳や頬が赤く染まっていて、映画のクライマックスシーンのように大粒の涙が流れ落ちていた。
「何で君は泣いているの?」
「常陸君にしては感動する話を語ってくれたから感動しちゃって……その恋はもっと自信を持った方がいいよ。恋愛脳の私が保障する」
 泣いた軌跡を隠しきれていない証拠が声にも混じっていた。少し乾いた彼女の声から違和感をおぼえる。
 彼女は話を戻す。
「今でもその子が好きなの?」
 一番聞かれたくない質問をしてきたな……。隠すべきかはっきり話すべきか……。
「もう何年も会ってないから、もし話しかけても僕のことを見たら不審者がられるだろうし、最近になってケジメがつき始めたかな」
 僕は回答を誤魔化した。
 彼女はまた泣き始めた。無言でひたすら目から出た雫が光り輝きながら下へと垂れていた。
 どうしたの? そんな質問をしようか迷ったが結局しなかった。
「ごめんね。ちょっと感動しちゃった。捻くれ者で恋愛に興味がなさそうな常陸君に好きな人がいるとはね」
「捻くれ者で悪かったね」
「それにしても常陸君が十年越しの恋かぁ~。今の話、フィクションの小説かと思ったよ」
「僕は公開処刑されている気分だったよ」
「そんな恥ずかしい話じゃないんだよ。もっと胸を張れるような話じゃん」
「僕は二度とこの話を話したくないと思ったよ」
「ちょっと話変わるけどさ……常陸君は彼女を作りたい?」
 本当に彼女はすぐに話を転換するな。
「何、急に」
「いいから答えて!」
「彼女を作ろうとしても作れないのが僕の現状だよ」
「もし私が君の彼女になりたいって言ったらどうする?」
 二人だけの時間が僕らを包む。
 彼女の目は真剣だった。
 彼女は本気で言っているだろうか……れとも死ぬまでにやりたいことの一つだろうか……。
 僕は正しい状況が読めないまま答える。
「嫌だよ。僕はもっと常識的で静かな人がいいよ」
「うるさいのは否定しない。自分で言うのはなんだけど常識的な人間だとは思うよ!」
「公共施設で大声出す人は常識的な人ではないよ」
「ひどいな。私の今まで培ってきた初心な乙女心に傷がついたよ」
 自画自賛。今の彼女にはそんな言葉を添えたかった。
「友達は? 友達は作りたくないの?」
「失礼だけど僕は立派な友達が一人いるよ……」
 友達をたくさん作るとデメリットの方が圧倒的に多い。意味のない遊びに付き合ったり、どうでもいい話に相槌をうたなければならないから面倒くさい事が増える。
 友達なんて一人いれば十分……。
「っていうか君は友達いないでしょ」
「ハッハハハ! 確かにね」
「常陸君にとって友達を作るメリットってなんかある?」
 彼女は面接のような質問を連発してくる。
 メリット? そんな事を考えたことすらなかった。もしかしたら僕は物事を悪い方向に考える癖があるのかもしれない。
「メリットなんて特に思い浮かばないよ」
「私はたくさんのメリットがあると思うよ。知りたい?」
「結構だよ。メリットがあるのに彼氏を作ろうとしない君は不可思議で仕方がないよ。それに友達がいない君に自論を展開されても説得力ゼロだよ」
「じゃあそんな常陸君に宿題です。君は私が死ぬまでにたくさんの友達を作ってください。この宿題を提出するときっと人生が楽しくなるよ」
 本当に彼女は突発的だな……。
「わかったよ。君が死ぬまでに提出するよ」
 何故か知らないが僕は宿題の提出を彼女と約束した。根拠のない約束だった。
 彼女が死ぬまでか……。



 映画は思いのほか面白かった。初めて見る恋愛映画に違和感を覚えつつも、映画の世界に素直に引き込まれている自分もいた。
 あの後、僕たちはポップコーンと飲み物をそれぞれ購入した。ちなみに僕は塩味のポップコーンとコーラ、彼女はキャラメル味のポップコーンとオレンジジュースだった。
 ほんとに僕たちは方向性が合わない正反対だな。
 塩味も食べたいという彼女のわがままを交換という方法で解決した。僕は彼女のポップコーンを食べてはいない。
「『解けない恋の方程式』面白かったでしょ」
 映画館特有の暗く見通しの悪い通路を歩いている時、唐突に彼女がつぶやいた。僕は素直に答える。
「面白かったよ。普通に」
「でしょ。勉強の天才が恋愛においては平均点以下で、それを恋の方程式に見たてて書かれているのが面白かったよね」
 弾んだ口調で彼女は言った。暗い通路を抜け、明るい通路に出る。天井からの輝く照明がまぶしく、瞳孔の大きさが反射で変わっていると考えてしまう。
「君は他に死ぬまでにやりたいことはないの?」
 人混みをかき分けて歩く中、僕が彼女に質問する。彼女は指で数えながら折る。
「渋谷のスクランブル交差点に行ってみたいな!」
「え!?」
 意外な返答に腹の底から本音が出た。オシャレをしたいとかウエディングドレスを着たいなどの、もっと女子らしい回答を期待していた。僕が反応に困っていると、空気をかえるためだろうか彼女が口を開く。
「意外だった?」
 図星だ。
「何で行きたいと思ってのかなって考えていただけ」
 僕は嘘をつく。
「毎朝ニュースで見る渋谷の交差点に憧れを抱いたから!」
「君はやっぱり不可思議だね」
「他にも一日中山手線を乗り続けていたい!」
「何周すると思っているの」
「分からないけど楽しそうじゃん! 早朝から深夜まで乗り続けるの! 東京の地獄の通勤ラッシュも体験できて一石二鳥じゃない!」
 彼女の話は長く続いた。彼女の死ぬまでやりたい事の多さに少しばかり驚いた。
『彼女には時間がない』そう悟った。
 そして、僕は病気に対して少しばかりの怒りを覚えた。
 なんで彼女が病に侵されなければならないのだ。きっと彼女は病気を知る前までは普通に青春をエンジョイして、恋もし、結婚をもして温かく幸せな家庭を築くという未来予想図を描いていただろう。しかし、それを阻むかのように病が彼女の体を蝕んでいった。彼女は今、自分の未来に怯えていただろう。そりゃそうだ。ただの高校生が余命がいくばくもしない大病にかかっていると宣告されたら怖くなるだろう。僕でも怖くなる。
 当たり前だ。病気がかかるまで見えていた明るい未来、希望が病気という大きくどうしようもできない壁によって閉ざされてしまったのだから……。
 彼女の病気のことが分かっているのに何も手を差し伸べられない自分の情けなさを痛感した。
 映画館を出た僕たちは再び歩く。
「常陸君! お昼食べよう」
「うん」
 彼女の元気な声とは正反対のあっけない声で返事をする。さっきの思考がまだ残ったままだろうからか。
 彼女のために何ができるのか。残りの時間をどう過ごしたらいい。いや、そもそもまだ生き残る手段が一つはあるかもしれない……。
 彼女を助けたい気持ちが文章という形で脳内を暴れる。しかし、実際に叶わないことが判明して虚しくなる。
 多分医学を学んで研究者として治療法を確立するしかないんだろうな……。
「常陸君はラーメンとうどん、どっちが好き」
 透き通るような彼女の声が空気に溶け込む。僕は静かに返す。僕の思いも知らずに……。
「ラーメンかな」
「了解。ちなみに私はうどん」
「やっぱり方向性が合わないね」
「ちなみにホットかアイスどっちにする」
「喫茶店のコーヒーの注文じゃないんだからさ。少なくとも僕はラーメンのアイスは冷やし中華しか知らない」
 彼女は笑った。そして軽く敬礼をした。
「元気ないけど大丈夫?」
 彼女がいきなり聞いてきた。
 どう答えていいのか僕は迷った。正直に今考えていた事を告げるべきか、平常心を装い、いつも通りに答えるべきか……。
「実は話があるんだ」
 僕は彼女の肩を軽く触り真剣な顔で瞳を見る。
 彼女は顔を真っ赤にして、挙動不審さを出す。彼女の行動を見て自分の行動に反省点があると自覚する。
 彼女は高い声を出す。
「きゃー!? まさか愛の告白。常陸君が私に恋愛感情を抱いているなんて! あ、でももっとロマンチックなシュチュエーションがいいから綺麗な夜景が拝める高層ビルのレストランがいいな」
 まさか妄想でここまでとは……。
 僕は呆れて声も出なかった。しかしこれも彼女らしさがでていたので良いとも感じた。
「高校生の乏しい財力に高級ディナーを求めないでくれる。僕はプロポーズの時の食事が牛丼屋の並盛りを割引券付きで払っても許容してくれる女性ならいいが、君は無理そうだね」
「嘘です嘘です! 私はコンビニの割引肉まんを寒空の中で食べるというシチュエーションでもいいくらい器の広い女です!」
「君の思っているほど僕はロマンチストじゃないよ。とにかく僕にとっては大事な話なんだ」 
 コント的な会話から本題に話を戻す。
 そう言葉を強く発し、白熱灯が灯る天井の下の机の一角でさっそうと言う。
「君は生きたいの?」
 自分のイメージやプライドを丸裸にして聞く。僕の心に不純物はない。
 どんな答えだって受け答える準備はできていたが彼女は僕の予想を大きく上回った。その言葉は自然と僕の鼓膜を突き破り、脳内で共鳴する。
「常陸君は私に生きてほしいの?」
「人として生きてほしいよ。君の死を願うほど僕は残酷な人間じゃないよ」
「そう。私も常陸君と同じかな」
 彼女は笑顔で告げる。しかし、彼女の笑顔はいつも見せる満開の桜のようなものではなく、作り笑いだった。
 彼女は小さく息を吸って言う。彼女が真剣な話をするという事は何となく分かってしまった。こういう時の彼女はいつも真面目で笑いは一切なかった。
「ねぇ常陸君……」
 僕は応える。
「私たちはどんな関係って聞かれたら常陸君はどう答える」
 関係……。
 その言葉に大きな壁を感じた。これから言う意見によって関係性が大きく変わる。そう確信した。彼女と僕のこれからの分岐点になるこの瞬間、友達と答えるか、仲良しと答えるか、それとも……。
 言葉が頭を駆け巡り右往左往状態だった。もし、友達と答えてしまったら、さっき出された宿題がすぐに終わり、彼女の死が間近に来ると思い怖かった。でも心に嘘をつきたくなかった……。
 この心の底から湧き上がてくるどうしようもない感情をどう処理すればいいか全くわからなかった。
「(病気を知っている)クラスメイト兼部員……かな」
 心に罪悪感を残した。でも彼女はいつも通り笑顔を浮かべ、意見を正面から受け止めた。
「そうなんだ。ありがとう」
 彼女は再び作り笑いを浮かべた。
「……うん……」
 僕は素っ気ない返事をする。
 自分の判断は間違っていたのだろうか?
 自分の意見に自信を持てないまま刻一刻と時だけ流れていった。
 その後、僕たちは本屋に行ったりしながら時間をつぶした。その最中の会話はこれまであった二人の間の壁がなくなったように感じ、何でも話せるようになっていた。彼女の家族の話や鉄道の話、恋バナとかいうやつは彼女が一方的にしゃべっていた。
 本当に彼女は自由奔放だな……。
 


 夕日が西の山にかくれる寸前に僕たちは大垣駅前にて解散した。
 疲労困憊という程ではなかったが、一人で出掛けた時よりも圧倒的に疲れがにじみ出た。 
 きっとこれは彼女という僕とは正反対な性格の人間と時間を共にしたからだ。
「じゃあね常陸君! また今度」
 体言止めの彼女に対して僕は一言だけ返す。
「じゃあ」
 手を少しだけ上げ、僕たちは分かれた。その瞬間彼女は僕の背中に向かって叫んだ。相変わらずの声の大きさに僕は普通だったが、周りの人は動揺していた。
 僕はその言葉を耳ではなく背中で吸収し、脳に伝わる。
「今までありがとうね常陸君」
 笑顔でそう言い、彼女はコインロッカーに預けた大量の荷物を鞄に敷き詰めて遠くに走っていった。
 僕は彼女の背中が消えるまで見続けた。



 その夜、疲れて汗がべたつき気持ち悪いという理由で早めに風呂に浸かった。風呂あがりの余韻に浸り、帽子のようにバスタオルをかぶっているとスマホから音が鳴った。スマホの画面には無論、彼女の名前が表示されていた。
 僕は二階のベランダに立つ。
『今日一日、私のわがままに付き合ってくれてありがとう』
 月光がまぶしく、ベランダに映る影を背景に夜風を楽しむ。
 彼女からの返信を音で確認する。
『写真送るね。命令! この写真保存しなさい!』
 写真とは今日撮った僕たち二人が映っているものだ。
『保存したよ』
 彼女に促されるままに文章と共に送られてきた写真を私物化する。
『前から思っていたんだけどさ、なんで常陸君は私のことを「君」って呼ぶの?』
『特に理由はないよ』
『命令。これからは私のことを「来夏」と呼びなさい』
 命令か……心の底からめんどくさいな……。
 一段レベルが上がり、何故か知らないが呼び捨てで呼ぶように命令された。言いたくないので断る。
『嫌だ』
『呼ばなければこの写真をクラスLINEで回しちゃうよ』
『回したところで君の肩身がさらに狭くなるだけだよ』
『確かにね笑笑』
 この写真とはさっきの保存した写真だった。別にクラスで底辺の僕と彼女の写真を拡散されることによって危害が加わることは少ないけれど、学内での大切な読書の時間が真実を問い詰めるという形で失うのは避けたかった。なので、僕は彼女の要求にあっけなく従う。
『分かったよ。呼び捨てで呼ぶよ』
『早速練習しようよ。よ・ん・で』
 直接対面していないのにものすごい圧を感じた。
 何で今言わないといけないか。今実行することに疑問はあったが抵抗は思いのほか無かった。名前の漢字を思い出しながら「来る」の文字を変換し、「夏」を加える。
『来夏』
 これから呼び捨てで呼ぶと考えると悪寒が背筋を走った。
 まさか人生初の女性の呼び捨て相手があの彼女とは……。
 ため息をもらす。そして、彼女はその十分後にある一文を送ってきた。
『今までありがとうね常陸君』
 僕は月の光を頼りに何度も文を確認する。月光がスポットライトのようにスマホにあたり言葉を際立たせている。これが今日の最後のメールだった。僕は肌寒さを感じ、自室へと戻る。ベッドに身を預けているとつい彼女のことを考えてしまう。

 なぜ彼女は別れ際に『今までありがとう』と言うんだろうか?

 彼女が死ぬまであと一年一ヶ月……。

彼女と出かけた次の日は月曜日だったため学校があった。
 雨のせいで僕の心は家を出て五分も経たないうちに憂鬱な気持ちで満たされた。
 レインコートを着て自転車を走らせる。雨風を切り裂いて走る風景は晴れの日では体感できない感覚が芽生え、新鮮さが体を包み込む。
 僕が日々学生として勉強に勤しんでいる高校は市内の中心部にある。駅から近く利便性が高いのと、自称文武両道の名門という半詐欺的詐称を市外に売っているため、市外から通っている生徒は珍しくなかった。この学校にはスポーツも勉強も平均以上という生徒が大半だった。僕はというとその大半から除外されていると自覚しているし、周りからの評価は聞くまでもなかった。その理由は僕が文化部に所属しているという理由で片付いた。年齢=文化部歴であったので、人生のハッピーセットとして陰キャという名がついてきた。
 僕は友達という存在を一人しかもっていないし、生きる上での必需品ではなかったのでたくさん作らない努力をあえてしてきた。その結果が今の僕だ。よく「友達はたくさんいた方が賑やかで楽しい生活になる」とかいう根拠もない発言をする人がいるけれど僕は真っ向から否定したかった。無駄な雑談に時間を割いたり、見たくない映画を見たりと、友達を作る=お金と時間を溝に捨てている、と言っても過言ではなかった。確かに、自分とやりたいことが百パーセント一緒の思考を持った人間なら少なからず友達になる価値はあるだろう。しかし、現実にそんな人間はいない。多少の不利益が生じても友達は作るという大多数の意見の方がもしかしたら正しいかもしれない。それでも僕は自分の時間を削る道具にしかならい友達はいらない。そう断言する。
 敷地内では自転車に乗ってはいけないというルールになっているので、手で押しながら駐輪場へと向かう。雨の日は錆付いた穴から雨水が垂れることは日常茶飯事なので、穴の開いていない所に止めるのが恒例行事となっていた。
 いつものようにわいわいお祭り騒ぎのような雑談が周りから聞こえてくる。友達が一人しかいない僕にとって、彼らにとってのあいさつ代わりである話に参加する必要はなかった。視界に入る人が歩くとともに後ろに流れていくのを感じながら校舎に入る。雨のため床は少し濡れており、傘たての中には無造作に傘が敷き詰められていた。
 階段を上る。
 僕はあいさつを交わさずに教室に入る。
 僕が教室に入った途端、クラスメイト達の声量がジェット機からお通夜時へと状態変化した。疑問を抱きながら歩くがクラスメイト達が目で僕を追ってきた。僕は平常心を保ちながら自分の席に座る。持ち物に不備がないか確認している時、目の前に一人の男が現れた。僕はそれを暗くなった視界によって把握する。
「相模原君、日曜日何してたの?」
 学校で名前を呼ばれたのが久しぶりだったので驚く。
 低いが優しい声。それが彼の第一印象だった。名前すら覚えていないこの人に戸惑いを見せてしまう。
「君、誰?」
 単刀直入に名前を知らないことを知らせる。
「いやだな~この僕を知らないわけないじゃん」
 四字熟語でこの人を表すなら自画自賛がお似合いだ。
「本当に、誰?」
 本当に面倒くさかった。話すことに免疫のない僕にとってこの状況を素早く脱出することが今日の一番の課題だと確信する。
「一応、僕の自己紹介をしよう。耳の穴をかっぽじって聞いていろよ」
 さっきとは違う高らかで軽い声で話し始めた。あまりの声の差にびっくりしたが下手な相槌を打つという無理難題の挑戦を強いられたため気がそっちに動転する。脳が彼の言葉なんて記憶するなと命令をしてきたので従う。
「僕の名前は西川優(にしかわゆう)。生徒会長で野球部のキャプテン。そこらの底辺よりはイケメンで、お金持ちで、成績と地位はとても優秀な漢です。特技は三桁×三桁が暗算で出来るという事で~す。ちなみにペットとして家の水槽でカエルを飼っています。よろしくね、相模原常陸君」
 カエルを飼っているという核心にはあえてコメントせず、素っ気ない返事をする。彼は僕の態度に不満があったのか眉間にしわをよせる。僕は早く去れという意見を込めて本を開ける。
「じゃ本題に入ろうか相模原」
 突然発した威嚇するような声と呼び捨て。あまりの大差に心臓がびくりとなる。本を読もうと試みたが彼の言葉が僕の行動を阻む。さすがの僕でも危機感を感じたので彼を刺激しないようにゆっくりと本を閉じる。
「お前、日曜日何していた」
 とうとう呼び捨てを超えて僕は代名詞扱いされた。もちろん彼女と一緒に出掛けていたことは拷問されたって言うつもりはない。しかし、わざわざ聞いているのだから日曜日の件を知っているのかもしれない。僕は身を守るため一応嘘をつく。
「家に居た……」
「嘘をつくな!」
 さっきよりもすべてがヒートアップした彼。机を叩きながら僕に真実を求める眼差しをつきつけてきた。クラスメイト達が一瞬注目する。が、被害者が僕で加害者が彼という事に納得度したのか何もなかったかのような振る舞いをする。これがさっき彼の発した「地位」という名の人間の評価だった。
「ネタは上がっているんだよ。早く吐け!」
 本当の事を言った方が読書の時間を確保できる。
 僕はそれだけを願い吐き捨てるように言う。
「日曜日は出かけてたよ」
「誰とだよ」
「一ノ……」
「やっぱりかよ」
 彼は僕が彼女のフルネームを言い終わる前に声を漏らした。クラス内でも孤立している彼女のことを話すなど何かあるのだろうか。
 彼は人を殺しそうな目で僕を見る。
「お前、来夏に何した」
 再度机を叩き、鋭い目つきと呼吸で僕の良心を煽る。
「別に。君の思っているようなやましい事なんてしてないよ」
「やましい事はって。二人で一緒にいたのかよ」
 彼は僕の意見に欠点を見つけては質問する。早く終わらすために事実を述べたつもりが墓穴を掘ってしまったようだ。
「一緒にいったといっても映画を鑑賞しただけだよ」
「来夏はなんで俺を選ばないんだ……」
 最後の文は小声だったが僕は拾うことができた。わざと僕の耳に入るように言ったのかもしれない。彼は軽く舌打ちをした。その時、事の張本人である彼女が教室に入ってきた。彼女も僕と同様にあいさつなど交わさず、自分の席に直行する。
 彼は彼女の席に行き、挨拶を交わすが彼女は会釈程度しかしなかった。



 翌日には同じクラスの女子である斉藤舞(さいとうまい)から彼女との関係についてしつこく聞かれた。
 僕は斉藤に呼び出せれて校舎裏を訪ねた。
「あんた、来夏とどういう関係なの?」
「ただのクラスメイトだよ……」
 人望がない彼女にも大切にしてくれる友人がいるとは思わなかった。
「まさか来夏に恋愛感情抱いてないでしょうね」
「抱いてなんかいないよ」
「どっちでもいいけど二度と来夏に関わらないでよね。来夏に変なことしたら私相模原を殺すから」
「……私、来夏の事好きだから……」
 彼女のことが好きなのはきっと友達としてだろう。斉藤は警告を吐き捨てて僕から離れていった。
 彼女と関わるとろくなことがないと改めて思った。





「夏は夜」
 清少納言が書いた枕草子。夏の冒頭文は大半の人が知っているだろう。この文に込めた作者の思いは「夏の夜は蛍などが飛び交っていて良い」という風に世間では言われているが本人ではないので実際のことはわからない。
 枕草子の授業を行ったのは中学二年生の秋。健全ではない思春期真っただ中な男子は変な方向のジャンルへと繋げた。
「夏は夜とかエロいよな」
「夜の営みがこの時からあったのかよ」
 今になって思えば男子が女子から嫌われている理由がわかるかもしれない。
 僕はというと夏は大嫌いだ。通常の学生は夏休みという長期休暇や男子に至っては水着という意味不明な目的から好きという奴もいた。
 べっとりと服にしめつく肌や滝のように流れ出る汗にうんざりしていた。そして、とうとう今年も夏という季節が巡りに巡ってきてしまった。
「常陸君って夏好き?」
「え!?」
 心の中が分かるエスパーかと思い、裏声が出てしまった。
 僕と彼女は今部室にいる。
「常陸君聞いてる?」
「ごめん聞いてなかった。もう一回お願い」
 彼女は机上に顔をつけながら話す。
「だ・か・ら、夏は好き?」
「嫌いだね」
「何で?」
「夏は怖いから……でも、長期休暇を得られる夏休みは好きだよ。僕は単に『夏』っていう単語が嫌いなんだ」
「常陸君に限って肝試しが怖いなんて」
「変な解釈をしないでくれる。あと、どっちかっていうと肝試しは好きだよ。夏が怖い理由が明確にあるんだ」
 心に閉ざしたままだった気持ちを吐き出す。他人に話すのは初めてだけど彼女なら嘲笑もせずに聞いてくれるだろう。
「実は僕の母はいないんだ。僕が中学二年生の夏に死んだ」
「何が原因で亡くなったの?」
「死因は七色病」
 死因を強調するために体言止めにしてしまう。
「嘘」
 彼女は青ざめた顔をしていた。いつもの冷静さと明るさが消えていた。そりゃそうだ。自分と同じ病気で亡くなった人の話を聞いて驚かない人なんていない。それでも彼女なら受け止めてくれると思い口を開いた。
「僕の母は突然死んだ。当時、幼かった僕はそう思い込んでいた。病気で死んだという真実を全く知らず、最近薬をよく飲み、病院に通っている程度の甘い認識だった。母の死後、父から全容を聞かされた時は流石に驚いたよ。何で教えてくれなかったの?言ってくれればもっとお母さんと遊べたのにと、父に対して思うがままに意見をぶつけたよ。でも今になって思うと父の言動も納得がいく。それっきり父とは最低限の話しかせず、十年近くたった今でも互いに背をむけあいながら生きてるよ。家で会話をしなくなったのが引き金となったのか、僕は本来の自分を見失った。さすがにやばいと焦り、自分の新しい型を作るよう心掛けた。そして出会たのが読書という趣味だった。本を読むことにより新しい価値観が生まれ、何か自分の人生を良い方向へと修正できる材料が見つかるかもしれないと期待を抱いているがいまだに見つからない。以上のことから僕は夏が嫌いだ。母が突然死んだみたいに、予告なしに災難が襲ってきそうな夏が怖いから嫌いなんだ。正直君の病名を聞いた時は驚いたよ。まさか身近に母と同じ病気を患っているクラスメイトがいるんだなんて。前世で現世でも罪を犯していない君が何でこんな目にあうのかって……一日一日を大切に生き、心から楽しく過ごしている君が早死しちゃうんなんて可哀そうだなと今でも思っているよ」
 彼女との間に沈黙の時間が走る。
「話してくれてありがとう。常陸君のお母さんが私と同じ病気で亡くなったと聞いたときは私も驚いたよ。でもね、私は夏が好きだよ。まあ自分の名前にも入っているし。夏の魅力に気が付いていない常陸君は本当にもったいないよ。私は夏が好きだけど来年は夏を迎えられることができるかすら分からない。って、名前と矛盾しているけどね」
 ほほえみを交わして彼女は言う。何か吹っ切れたような顔だった。
「とりあえず私の当面の目標は二つ。一つ目は来年の夏を迎えること。二つ目は常陸君に夏を好きになってもらうこと」
「僕の夏嫌いは未来永劫変わらないよ」
「絶対に好きにさせてやる」
「やっぱり君とは方向性が合わないね」
「それは私も思った」

 僕は家に帰った後、線香をあげた。今日は母の命日だからだ。煙たい空気が肺を満たす。仏壇には父と姉のものだと思われる線香が煙を上げていた。母の遺影を見ていたらふと彼女の言葉が頭をよぎった。
 僕は考えてしまう。
『僕は夏が好きになれるのだろうか』





 とある日の朝、僕は決意のこめた手でスマホを握った。七月はこの時間でも外は薄暗く小鳥のさえずりは聞こえてこなかった。部屋の勉強机の読書灯をつける。光量は最小限に保った。部屋の明るさが視力を得れる程度なので何かいけないことをしている虚無感に襲われた。スマホのロックを解除すると僕は一ミリの迷いなくTwitterを開く。そしてDMを送る……。
 その相手とは小説家の美作大作だった。
 すぐに既読が付いた。僕は何気ない気持ちで返信が来る前に電源を切って、再び眠りについた。
 美作大作にDMを送ったその日の午後、僕は半日ぶりにスマホを開く、案の定返信の嵐がたまっていた。

『作家、一ノ瀬来夏の盗作疑惑の件について伺いたいことがあります。単刀直入に申しますと、あなたが盗作されたのではなく、あなたが盗作したのですよね。こちらには決定的な証拠があります。無視や事実と曲げたことを私に言ったら、証拠と共に世間に公開しますよ』

 美作は焦った様子を必死に隠しながらも、弁解の返信を送ってきた。
『何かの間違いではないですか? 私は被害者ですし……』
 全く肯定する様子がなかったので僕はとある写真を送る。既読がついて数瞬、美作は何かを悟ったのか、急に態度を変えだした。
『お前! その写真どこで手に入れた』
 美作が焦るは当然だろう。その写真とは彼女と美作の小説に関するやり取りが鮮明な状態で映っていたからだ。僕がこの前彼女の隙をついてスマホを開き、盗撮した。
 僕ははらわたをえぐる一言を丁寧に添える。
『世間に公開してもよいという認識でいいですね』
『ちょっと待ってください! 一度会って話しましょう』
 そして僕は後日、彼と会うことになった。彼が僕の住んでいる大垣までご足労し、駅近くの喫茶店で待ち合わせた。僕は少しばかりのワクワク感に襲われた。それはきっと大物作家に会えることでも、彼女の無実を証明することができるかもしれないという高揚感ではなく、人間的に自分が成長するかもしれないと期待していたからだ。
 僕が集合予定の10分前に喫茶店に行くと、すでに彼が待っていた。有名作家のため顔は割れていた。僕は近づく。
「君が相模原君か」
 まさかとは思っていたが本物の美作大作だった。仙人のような長い髭を生やしたオーラに飲み込まれそうになった。本来の目的を忘れかけていたが、ふと我に返り、僕は美作の隣の席に座る。初対面特有の沈黙などなく、彼は口を開いた。
「君と一ノ瀬君とはどういう関係なんだい?」
 驚くほど冷静な声で彼は質問を投げかけた。いくつもの修羅場をくぐってきて、今回はその一回に過ぎないというオーラを強く感じた。
 僕は平静を装う。
「ただのクラスメイトです」
 驚くほど反応はなかった。
「それで、例の件なんだけれども……お金ならいくらでも払うから世間だけには公開しないでくれ」
 彼は大きく頭を下げ、重みのある札束を戸惑いなく机の上に置いた。
 文豪だと思っていた彼へのイメージはとっくに崩壊していた。自分の名誉のためならすぐに現金を出すあたり、世間の汚い大人と全く変わらなかった。尊敬の意を抱いていた自分を激しく叱責する。
「本当にそれで済むと思ってるんですか」
「……」
 僕は冷静だった。
「まずはなんで今回のことが起きたのか説明してください。話はそこからです」
 彼は反省の意など全くなく、淡々と説明をする。
「単純に一ノ瀬の作品を真似ると売れると確信したからだよ。次の新作に俺は困っていた。世間からは天才小説家なんていう名前をつけられたから、この新作だけはどうしても失敗できなかった。新作の案に悩んでいたときにとある小説投稿サイトで、あの作品に出会ったんだよ。少し読んだだけで俺はビビって来たんだ。これなら売れる。俺の執筆力を組み合わせると最高傑作になると。そこからは早い。著者情報に書いてあったTwitterのアカウントに校閲という虚偽の目的でDMを送ったら、すぐに一ノ瀬は飛びついてきたよ。そしてあいつの作品の完全なるデータをもらい俺は晴れて出版したよ。テレビニュースになったときは驚いたよ。まさかテレビに取り上げられるほどに事が大きくなるとは思ってもいなかった。しかし、メディアは圧倒的知名度と人気を誇る俺をかばった。一ノ瀬がTwitterでした主張なんてなかったかのように……。世間をメディアの偏った情報に洗脳され俺が被害者だと思っている。俺への世間からの評価は高くなるは、小説は売れて金は儲かるはと最高の結果になったぜ」
 僕が聞いていることすら忘れているような口調で美作は堂々と話した。正味、ここまでのクズ人間とは思っていなかった。呆れを超えて反吐が出る。
 この人と話したら時間に失礼だ。僕は「わかりました。僕の独断で世間に公開するかは決めます」と言った。もちろん美作は僕を引き留めたが、僕は彼の手を振り払って喫茶店を去った。
 人情として皺ひとつない千円札を机に置いていった。
 僕は少し晴れた気持ちになった。

 彼女が死ぬまであと一年……。 


 私の名前は一ノ瀬来夏。
 どこにでもいる中学一年生と言いたいところだが、多分違う。趣味で書いていた小説が大手出版社の新人賞を受賞して出版され、印税で稼いでいるという点では特異な存在かもしれない。有名作家になれたらいいなとなんとなく思っていたので、出版は自分にとっていいスタートダッシュになると思った。しかし、夢はすぐに打ち砕かれた。自分の作家人生は好調な滑り出しだと思っていたが、盗作疑惑という形で私の社会的地位は失墜した。もちろん私は盗作などしていない。ここで嘘をつくメリットがないので理解はしてもらえると思うが……。実をいうと私は盗作された側なのだ……。私と美作先生はTwitterのDMを通じてやり取りをしていたのだ。私が小説投稿サイトに投稿した小説を美作先生からアドバイスをもらうという形でやりとりしていたのだ。私にやましい気持ちなんてなかった。新人賞をまだ受賞してないこの時期はただただ、自分の実力が向上していく過程が面白かった。そして、先生からアドバイスをもらい推敲した作品は見事に新人賞を受賞した。純粋に嬉しかった。印税や賞金が貰えることよりも自分の小説が出版という形で多くの人に読まれるのが嬉しかった。美作先生も吉報を嬉しがっていた。家族や友人に報告すると盛大にお祝いしてくれた。クラスメイトからは表紙裏にサインを求められ、全校集会の前で表彰された。学校や市の図書館、地元の書店では特設コーナーが設置された。これから順風満帆な作家人生が送れる。
 
 そう確信できた時間は短かった。始まりはとあるツイートだった。



『美作大作の新作、先月発売された新人作家・一ノ瀬来夏のデビュー作と酷似してない!?』



 このツイートから生まれた盗作疑惑は瞬く間にSNS上で広がり、多くの憶測が生まれた。私は日常的にTwitterを使わないので疑惑を植え付けられていると知った時には遅かった。噂とは怖いもので本人が知らないうちに偽造をなされて取り返しのつかない状態になっていた。



『中学生の新人作家のくせに大物小説家の内容パクるとかある意味尊敬wwwww』
『どうせコイツだけじゃなくて、親とか友人もヤバいやつでしょwwwww』
『こいつの個人情報特定した』



 私を擁護する声などなく、社会的に信用の厚い美作先生のオリジナルだと確信する声が大多数だった。とりあえず、担当の編集者に対応策を相談した。炎上に戸惑っている中学生の私に、さらなる炎上への燃料投下を防ぐためにツイートを控えることと、美作先生への事実確認を指示された。しかし、それ以降先生へのメッセージに既読はつかなかった。私は騙され、アイデアを奪われたのだと察した。同時に、大人気作家の先生から盗まれるほどの作品を描けたと自分を守った。私は証拠のDMを公開して、自分の無実を証明しようと試みた。だが、出版社に公開を控えるよう言われ、確実に自分の無実を証明できるものではなかったので、公開しなかった。
 その後、私のデビュー作は異例の回収が行われた。これ以上の爪痕を残さないための懸命な策だったと思う。出版社にとって真実がどうかはどうでも良かった。より多くの利益が出る美作先生の擁護を試みた出版社は、私の主張など聞き入れずに声明文を発表した。あくまで社会的中立と美作先生の擁護を間接的に含意した内容だった。これが最終的な引き金となって、世間からの疑惑は確信へと変わった。
 中学生・新人作家・パクリ・美作大作というワードに金の匂いを感じた週刊誌は私の元に事実確認を含めた取材を求めてきた。それは週刊誌が出版社を経由して小説家・一ノ瀬来夏に取材を申し込んだものではなく、女子中学生・一ノ瀬来夏を標的にしたものだった。自宅や学校に記者が押し付け、気が付かぬ間に私のありとあらゆる個人情報がネット上に拡散されていた。しかし、世間はそれを容認しており、さらなる燃料の投下による、炎上を期待していた。私の顔写真がネットに出回ると批判の矛先は盗作ではなく容姿になった。唯一コンプレックであった目尻下のほくろを集中的に批判された。アダルトサイトに男性の性的欲求を満たすために加工された画像が転載されるなど事態は無茶苦茶だった。もう取り返しのつかないところまで進んでしまったと自覚せざるを得なかった。世間からの嫌がらせは私の周りの人間にも及んだ。取材の対象や批判は家族や友達まで広がった。クラス内には根も歯もない噂で満ちて、私の楽しかった学生生活はあっという間に破壊された。当然迷惑をかけた友達とはこれ以上迷惑をかけないためにも距離を取らざるを得なかった。ある日には自宅に殺害予告が届いた。流石にこれには警察が介入した。
 そして、耐えきれなくなった私はアカウントを消して社会的な消息を絶った。
 家族にはもちろん私の無実を説明した。母と妹は無実を信じてくれた。しかし、世間体を大きく意識する父は最後まで私を信じてくれなかった。一番信頼をおいていた父が信じてくれないのが何よりも悲しく、一方的に叱責された時は心の中なかの何かが崩れる音がした。
 この一件を通して涙はでず、ただ心にぽっかりと穴が空いた。
 私は何度か自殺を決意した。楽に死ねる方法を調べた。いのちの電話に電話しても何も変わらないだろうと思った。私はついに自殺を試みた。初めは鉄道に飛び込もうと思った。しかし、巨大な鉄の塊に惹かれる恐怖が体に走り、気づいたら警笛が鳴った列車が目の前を通過していた。首吊り自殺もしてみたが結局失敗した。
 元気な自分を取り繕いながら生きていくのが余計に辛かった。
 空虚な日々が流れ、この事件の関心は沈静化した。
 



 私が大病にかかっていると知ったのは中学三年生の時だった。
 寒さが本格的に到来する季節に、私は熱があったため小さな診療所を受診した。
 自分でもただの風邪だと勝手に思っていて、早く受験勉強しないといけないとやばい、という危機感をもっていたのは今でも覚えている。しかし心配しなければいけなかったのは勉強ではなく体の方だった。
 私の採血結果を見た医者は厳しい表情を浮かべ「すぐに大学病院で診てもらいなさい」と強く言った。その言葉を信じるに自分はただの風邪ではないと心の奥底で確信した。
 私は医者が紹介してくれた県内有数の大学病院をその日じゅうに受診した。採血をすぐに行った。私の血液は菫色を含んだ色になっていた。それを見た看護師は目の色を変えて、白衣が似合う白髪の医師を三人連れてきた。私は大病に犯されているのを悟った。
 そこからは経験したこともない検査を数時間にわたって行った。白くてまずい液体を飲んだり、えむあーるあいとかいう検査もした。
 検査が終わった後、病院内の食堂でオムライスを食べた。テレビ取材を受けた料理という事もあり、舌がとろけるほどの絶品だった。
 母が会計を済ませ、検査結果を聞くために二人で診察室前の椅子に腰かけた。大病院なのに近くの白熱灯は消えていた。節電なんかと疑ったが業者が来て、直していった。
「お母さん、私大丈夫だよね?」
 不安を心に感じた私は母に同意を求める。医学において浅学の母に聞くのは不正解だが私は一番の正解だと確信していた。
「大丈夫。絶対大丈夫だから。お母さんが保証するよ」
 私の頭を撫でながら母はそう言った。ほんとに母は頼もしかった。
 昼のドラマが近くのテレビから大音量で流れていた。人々の視線はみんなテレビに釘づけだった。流れている映像は葬式の場面だった。大勢の人が遺影に手を合わせて泣いていた。遺影の女の子は私と同い年ぐらいだった。どんな加工アプリで撮った写真よりも不思議と美しく見えた。きっと人生を濃縮した笑顔だからだろう。
『私はいつ死ぬのかな』
 明日かな、明後日かな、一年後かな、百年後かな……。
 私の脳はすでに「死」が連想していた。
「一ノ瀬さん。一ノ瀬来夏さん。診察室へどうぞ」
 肉付きの良いおばちゃん看護士が声高らかに私の名を呼ぶ。
「来夏行くよ」
 母の言葉で我に返る。少し薄暗い病院の廊下をかみしめながら歩く。さっき悪いことを想像したせいか、診察室への道のりが天国への道のりに感じた。進むごとに命が削られ、自分の首を歩くことで絞めているように感じた。
 恐る恐る部屋に入ると二つのことに驚愕した。
 一つ目は診察室の立派さだ。大病院ということもあり診察室は私の部屋よりかなり大きかった。それに西側に構える大きな窓は吹雪いている雪を見るのに最高だった。廊下とは対照的な明るすぎる光が私の瞳孔を小さくする。
 二つ目は人の数に驚いた。二人ぐらいしかいないと考えていた私の思考は甘かった。中には「カウンセラー」の名札をかけている人もいた。それがまた不安を募らせる。
 カウンセラー? なんだろう? まさか……。
 このカタカナが病気という言葉とミックスしてしまったせいで正しい考えがまとまらず、悪い方向へと流れてしまう。
「一ノ瀬さん、落ち着いて聞いてください」
 座高よりも圧倒的に長い背もたれに座る薄毛の先生の声は低かった。その声が私の心の不安をさらに煽り、悪魔のささやきへと化す。先生は大きく息を吸う。その口から出る言葉は予想はしていたが衝撃的だった。
 人数やカウンセラーという文字などから大病に侵されているという予想はついていた。だからそんなに大したダメージは受けなかった。でもいざ考えてみると中学三年生の私にとってその事実を告げられることはあまりにも重く、どう脳内で処理をすればいいのかと戸惑いが走った。
 明るい未来、将来が一瞬にしてすべて閉ざされた。私の人生は変な方向へと傾いてしまう。確信を余儀なくされた。
「来夏さんは七色病です」
 人生の足枷として「七色病」がのしかかる。
 室内の空気が一瞬、氷つく。母がその空気を少し溶かす。
 氷ついた空気の中、母が願いを込めた言葉を発する。
「先生、もちろん病気は治るんですね」
 母が上体を大きく倒し先生に問い詰める。よくドラマで聞く「先生、治るんですよね」というセリフは実際に聞くとあまりにも痛々しく重い映像と音声だった。前にドラマを見てけなしていた自分を殴りたい気分だった。先生は「落ち着いてください」と冷静に言い、母を椅子に座らせるように促す。
 先生は七色病の説明を始めた。聞いたこともない病名だった。
「七色病は治療法が確立されていません。残念ながら今のところ治ることはありません……。今の血液の状態から推定される寿命はおそらく三年後の七月三十日でしょう」
「そんな」
 不治の病に余命宣告。
 母は崩れ落ちた。私の心も涙腺も崩れかけていた。
 血液の状態から死期を割り出すことができるのに、具体的な日時を言われた私は心臓を掴まれた感覚を覚える。
 三年後ってことは高校三年生か……。
 似合っていない眼鏡をかけた先生は冷静沈着な対応を見せる。
「これが来夏さんから採れた血液です。」
 確かに私の血液は菫色に染まっていた。
 自分の血液なのに自分の血液だと認識したくない自分がいた。
「残念ですが、延命治療も確立されてません」
 確実な死を断言されたのか、母は言葉を失った。さっきの威勢のいい姿は跡形もなく、ハンカチでひたすら目を覆っていた。心が痛む。
 ふと外を見たとき外の吹雪は激しさをましていた。木も雪に覆われていて一寸先が見えないような状態だった。一寸先は闇という言葉が似合うような状況に私は置かれていた。
『今の私と同じじゃん』
 私は悟った。雪、木、吹雪、医者、自分、すべてが虚しい。
 先生は時を見計らい、次のステップを喋り始めた。私は現状を受け入れようと努力しているが母は涙を垂らしており、聞く耳を持っていなかった。
 いつもだったらこんな姿に情けなさを感じるところだが今は微塵も思わない。
「今後の方針について私の方から説明します。まず二週間入院してもらって詳しい検査を行います。そして……」
 十分ぐらいだっただろうか。曖昧な時間間隔は病気のせいだった。先生からの説明はまるで葬儀の話を進めている家族のようだった。
 一人になりたかった。耳、目、鼻、舌、皮膚がすべての情報を遮断しろと命令していた。
「ありがとうございました」
 定番の別れ言葉を診察室に吐き捨て、猫背で去る。
 母は私が尋ねても大仏のように一言も喋らなかった。
「死ぬまでに何をしようかな」
 天井を仰ぎ、小声で叫んだ。自然と涙が流れてきた。



 それからはいつも通りの日々を過ごした。受験、卒業式……。
 高校のスタートは遅れたけど、無事第一志望校に合格した。
 生活に何一つ不自由はなかった。外出制限や食事制限はなかったので自分や家族との時間が減ることはなかった。医学に感謝する日々が私の中で続いた。
 しかし、病気は確実に悪化していった。それを裏付ける証拠として薬を飲む量は二桁へと突入し、病気は確実に体を蝕んでいった。
 家族からの態度も大きく変わった。母は妹よりも私の意見を押し通すようになり、私の希望は極力通してくれた。妹も協力姿勢を取ってくれた。
 父は転職した。単身赴任のため私と過ごすと時間が減るという理由で地元の中小企業に転職した。家計が心配になる。私のせいで家族を悪い状況に巻き込んでしまった。そう思うと涙が溢れてくる。
 周りからの対応、薬の量、通院をする回数を見れば一目瞭然だった。
『私病人なんだ』
 自分の立ち位置を再認識した。
 もう私は普通の高校生として生きることができない。「病人」という業を死ぬまで持ち続け、病気のことをひたすら隠し、心の底から笑うことなく誰からも愛されることなく、そして死ぬんだ。
 ふと思い出が頭を駆け回った。家族と旅行に行ったこと。楽しかった鉄道旅行。血を吐く思いで勤しんだ勉強。苦しみながらも前進を感じれた執筆。すべてが結果的には良い思い出だった。でも、当たり前だが人は死んだら記憶を失う。良かった事も悪かった事も楽しかった事も悲しい事も苦しい事も愛しい事もすべて水の泡のように記憶を失う。人一人が死んでも何事もなかったように社会は回り、何事もなかったかのように人は喜怒哀楽をする。
 …人間は残酷な生き物だな…。
 独り言が空気に溶け込む。
 私は死ぬまでに何がしたいんだろうか?
 自問自答をしてしまう。
 せめて死ぬまでに楽しい事、やり残したことをしたいな。うん、よし、これで決定。あっけなく決まったがこれが私の死ぬまでにやりたいとことだ。
『やり残した事をして、悔いなく死ぬ』
 あれ……私って死ぬのが怖くないんだっけ。何で「死」を快く受け入れているの? そっか、私死んでもいいと思っているんだ。
 いろいろなものが壊れた。自我、自信、涙腺。この頃の私は自分に都合の悪い出来事をすべて「病気」という名の盾を使って、正当化していた。情けない。



 時は前と変わらぬ速さで流れた。もちろん地球の自転速度が速くなったわけではなく感覚の問題だ。でも、心の時計はまだ止まったままだった。時計を強制的に動かすためになんだってやった。大好きな旅行にたくさん出かけたり、本もたくさん読破した。しかし、私の予想に反して心の時計は息を止めているかのように微動たりしなかった。
 なんとか受かった高校での生活も、中学での盗作疑惑があり、決して充実したものとは言い切れなかった。友達はできなかった。家族以外の誰にも病気のことを告げることはなく月日だけが川の上流のように勢いよく流れた。
「生きる意味って何?」「何で私生きているんだろう」「何で人は生きるの?」などの生きる目的を考える日々が、月日の経過と共に積み重なっていった。だんだんと考え方が変わり生きる意味を探し始めることが主体の生活へと変貌を遂げた。
 この問題の模範解答が探せないまま時と病が風化し、高校二年生になっていた。この時私の血液は藍色に染まっており、これは一年4ヶ月後に死ぬことを意味していた。
 この時から夜眠るのがとても怖かった。もう目を覚ますことがないのかもしれない。恐怖と戦いながら羊を数えた。逆に朝目覚めた時は不思議だった。いつもの自室が目に映ると安心する。さらに自分の体を触り幽霊じゃないと分かりもう一安心する。血液ではなく心臓にとても悪かった。



 とある深夜に私は自殺を決意した。投機的に思いついたのではなく、盗撮疑惑をかけられ、そして、余命いくばくの病を患っていると判明した時からずっと自分の中で決断が揺らいでいたからだ。もう自分の人生などとっくに崩壊しているし、これ以上無駄に生きたら汚名の傷が深くなる。私は近所の市民会館を最期の場所に選んだ。
 五階建てだから死ぬには十分な高さだ。
 本当は確実に死ぬために電車に飛び込もうと思ったけど、両親への賠償金を考え、諦めた。
 深夜二時に家を出る。もう家には戻らないと考えるとやけに玄関が広く感じた。玄関を置けた瞬間、ひんやりとした空気が顔の筋肉を強張らせた。道中の街灯の光から漏れる音がいつも以上に大きい。赤信号はまるで私の生きる時間を少しでも延ばそうとしているみたいに長く感じた。
 私は鍵が壊れている窓から館内に侵入する。防犯のために灯されている電気の光を頼りに階段を上る。自分が刻む足音が痛いほど脳内に響いた。
 五階のベランダに出る。
 靴を脱いで綺麗に揃え、ベランダの柵に登る。
 私の鼓動は最高潮に達した。
 ポケットに入れていた遺書が風で下に落下する。
 本当は靴の隣に添えようと考えていたが、警察の捜索の結果見つかるのならこのままでいいと思った。
 過敏になった触覚は少しの風も大きな感覚に変えた。
 いざ下を見ると自分の足が震えているのがわかった。きっとこれから自分の取る行動に本能が逆らっている証拠なのだろう。すぐに死ねないなんて人間はなんとも上手に生物として機能しているんだろうと感心した。
 体重を前に預ける。確実に死ねるように頭を下に向けた。体がふわっとする感覚が走る。まるでジェットコースターに乗っているかのように自分の体が軽くなるのを感じた。死を決意し、目を瞑った瞬間走馬灯が走る。
 圧縮された記憶が脳内を駆け巡った。自分の人生なんて苦の連続だったけど、これでようやく人生という土俵から降りることができ、楽になれる。
 しかし、神様は私に最期さえも与えなかった。
 何か柔らかい物に当たった感覚があった。もしかしてもう天国に行けたのかと安心して目を開けたら、そこには一人の男の子がいた。瞳には見慣れた大垣の景色が映った。どうやら私はこの男の子と衝突し、自殺に失敗したらしい。自殺に失敗した私は突如怖くなった。私は裸足のまま家に帰った。
自分への情けなさから涙が止まらず、涙を枕に預けた。帰路に残した涙を拭い取りたかった。
 あの日を境に自殺したい欲は忽然と消えた。



 私が彼(相模原常陸君)と再会したのは春風が強く、まだ遅咲きの桜が町を彩っていた季節だった。
 放課後、いつも通りに部活に行こうとしていた時、普段話さない顧問から呼び出された。私は廃部を危惧した。
「一ノ瀬。今日新しい子が文学部に来るからよろしくな」
「え!? なんで文学部なんかに」
「なんでも集中して小説を書く環境が欲しいとか」
「誰なんですか?」
「確かお前と同じクラスの……えーと、なっていったかな………そう、相模原だ」
 相模原……確か、下の名前は常陸だっけ。私と同じで友達いなくて、いつもクラスの隅で推理小説を読んでるな。そんな彼が文学部に……。
「ということで、仲良くしてやれよ」
「はい。わかりました」
 部室の扉を開けた彼はあの日衝突した相手だった。あまりの驚きに私は動揺を隠せなかった。
 彼は私の自殺について言及したが私は濁した。自分の汚い過去について話したくなかった。せめて彼だけとは普通の関係を築きたかった。
 私が倒れたのを機に彼になら過去を打ち明けてもいいと直感的に思い、話した。ただ、私は過去の事実を説明するだけで、自分の感情を話すことはなかった。


 桜の面影もなくなり、お花見から花火へと季節の風物詩が変わる途中の今。私は浮足立って駅に向かっていた。自転車の籠に大きなカバンをのせ、並木を抜ける。
 今日は常陸君と出かける予定だ。断じてデートではないと、言い聞かせて玄関を飛び出した。
 集合場所の噴水の前に行くと常陸君がすでに待っていた。彼は小説を読んでいた。彼は荷物が極端に少なかった。財布と本という謎のラインラップをしていた。出かけるときの荷物は最小限でいいというけれどそれは流石に少なすぎないかとツッコミをいれたら、私の荷物の量に目をつけ指摘された。どうやら私は彼とは対照的な性格をしているようだ。
 私の余分な荷物と判断された目覚まし時計や漫画数冊はコインロッカーへと収監された。
 映画、本、食事。彼と一緒に過ごす時間は格別で急流のように瞬く間に過ぎていった。
 互いの財布の中身を見せ合おうという話になった。私が一方的に押し付けたのだが。
 常陸君の財布の中には一枚の写真が入っていて、幼い女の子と幼い男の子が写っていた。男の子は常陸君、じゃあ女の子は誰? 私の恋愛脳が正常に作動してまった。彼はこの女の子が初恋の相手だと言い、一方的な片思いだと認めた。
 寝台特急の夜の車窓を背景に写る女の子にはとても見覚えがあった。昔、母に勧められてやったショートカット、つけたい欲求のまま付けた大きすぎる時計。写真に写ってる女の子は私だった。間違いではないかと疑ったがその推理は見事外れた。私も同じ写真を財布に入れているからだ。私もこの時の記憶は鮮明に覚えている。なぜなら私もこの男の子が初恋の相手だったからだ。やっと会えた初恋の相手に。涙腺が壊れ、涙が出てきてしまった。彼の前で涙を見せてしまったのも「感動した」と上手くごまかすことができた。
 私は写真の女の子の正体が目の前にいる一ノ瀬来夏と言うか迷った。でも、告げるのはやめようと涙ながらに決意した。
 余命一年の病弱でうるさい病人とこれからの未来が満ち溢れているクラスメイトが恋人の関係まで発展することがないと思ったからだ。もし、彼氏、彼女になったとしても最期を恋人として迎えるのはあまりにも悲しく私としても避けたかった。よく二時間ドラマでは死ぬとわかっていても恋人として最期を迎える展開はあるけれど、いざ、現実でやるとするとあまりにも切なく感じるものだ。
 最期まで言わないと誓った。守れるかどうか心配だけど……
 帰り際には行きの時よりも打ち解けていた。恋愛の話をしたからなのか抵抗が少なくなっていた。やっぱり常陸君は不思議。
 駅前で別れるときには夕日が山にかくれる寸前だった。一日が非常に早く感じる。彼のおかげで病気前の自分が再び味わえた。
「今までありがとう」
 彼の背中に向かって叫んだ。今日、最後の言葉で今日という価値あった日を締めくくった。
 常陸君と解散し後の私の心は一瞬,閑散とした。
 私は生きたいと心から思うようになっていた。いや、きっと彼に変えられたのだろう。この前まで「死」に対してまるで恐怖を抱かなった私がこの時、「死」という人間のゴール地点に恐怖を覚え始めた。
 それと同時に私は思った。
『生きたい』と。
 何でこんな事考えるようになったんだろう。人間はたった一日でたった一つの出会い、経験でこんなにも変わる単純な生き物だと実感した。好きな人が行く学校に行きたいように……
 自転車は独特の金属音を奏で始めた。私は外灯も灯らない夜道をたった一つのライトを頼りに駆け抜けた。



 その夜、珍しく常陸君から連絡がきた。なんで初めてのやり取りなのに、珍しいかって? それは彼の性格上、人と関わるのが嫌いだからだ。ましてや異性であり、私を大きく拒絶していたから尚更驚いた。
『ありがとう』
 一文だけ。一文節だけ。一単語だけ……それも定番の「ありがとう」だったけど、彼にしては上出来だった。むしろLINEしてくれただけで感謝しないと。
 にやけながら文を読む私。ベットでコロコロ回転しながら余韻に浸る間も無く返信内容を考えた。
 よし、まずは写真を送ろう。
 今日撮った写真を二、三枚貼り付けた。私が半強制的に撮ったので彼の表情はとてもぎこちない。私は誰も見ていないのに控えめに笑ってしまった。
 それから私は呼び捨てで呼ぶように命令した。そんな写真がクラス中で広まってほしくなかったのか、常陸君はあっさりとLINE上で私の名前を呼んだ。実際に口から出るかは分からないけど、記録に残っただけ十分だった。
 十分ほど悩んだ末、今日最後の文を送信した。悩んだというよりは言葉を引き立たせるための時間稼ぎをしたという表現の方が適切かもしれない。
『今までありがとう』
 一階から夕食を知らせる母の声が聞こえてきた。スマホを置いて部屋の電気を消した。LINEをする前に使っていたパソコンがつけっぱなしという事実に気が付き慌ててデータの保存をし、電源を落とした。来る気配がなかったのか母がもう一度私の名前を呼ぶ。
 階段を下りながら私はついさっきのことを考えてしまった。
『今までありがとう』
 私はどういう意思で送信し、彼はどう受け取ったのだろうか。

 私が死ぬまであと一年一ヶ月……。 
 夏休みとはとても素晴らしく気分が良いものだ。学校という面倒くさい場所にわざわざ暑い中通わなくてもいいし、勉強を新たにしなくていいので足枷が減り、エアコンの効いた快適な自室で読書に勤しむことができる。
 夏休み中は活動がない文学部なので、夏休み中にグラウンドで仲間と汗や声を出しながら勝利に向かってひたむきに努力するなんていう青春ドラマ的な展開を経験することなく、自らの手で青春を切り捨てているのが僕だ。
 そんな僕だからこそ夏休みの存在意義は人一倍分かっているつもりだ。僕は興味本位で夏休みの存在理由を調べた。インターネットには「教師が生徒の学力向上を図るため、会議などを重ねる期間」とだいぶ盛って記されていた。インターネットの情報を鵜吞みにしてはいけない。新学期、授業体制や教え方は何も変わっておらず本当に生徒の学力向上を図るための会議をしているか怪しくなった。先生たちもきっと長期休暇を活用してバカンスでも楽しんでいるに違いない。そして僕もこの超長期休暇を余すことなく毎年旅行をしている。少なくとも十日間以上の長旅は行うし、去年に至っては丸ごと使い鉄道で最長往復切符をしたものだ。
 今年は父からの命令で二泊三日に制限された。僕の言動に不満があるのか財力的な問題があるのかは知らないが僕は従った。
 今年は山陰に行きたいな……。
 例年よりも廃れた気持ちで時刻表や観光マップを眺めているとスマートフォンが勢いよく震えた。画面には一ノ瀬来夏の文字が映っている。
「おっはよー! 常陸君元気してた?」
 相変わらず彼女はうるさい声だな。
 第一声で鼓膜が自分の破れたかと思った。彼女は声を電話で弾ませる。
「君の声が聞きたくて、この私から電話をかけてあげちゃいました」
「僕の声が聞きたいと言っているけど、正確には僕の声ではないよ。電話は何億という選択肢の中から一番近い声を相手に伝えているんだよ」
 僕の豆知識に対して彼女はむくれた声を弾ませる。
「もう、常陸君は相変わらず面倒くさいんだから」
「声を弾ませながら面倒くさいって言うと矛盾しているようにしか聞こえないよ」
「確かにね」
 彼女は電話越しで笑い声を弾ませた。
「じゃあ本題に入ります」
「今までの夫婦漫才は副題だったのかよ」
 彼女は一拍置いた。
 もしここで電話を切っていれば僕の夏休みは崩壊しなかったのにと後悔した。
「常陸君って暇? っていうかどうせ暇でしょ」
「暇だけど、人に対してどうせ暇でしょって聞くのは失礼だよ。人として」
「まあ細かい事は気にせずに。明日一緒に出かけよう」
「は?」
 僕の思考は停止する。彼女と出会ってからしばらく経ち、彼女が人の意を汲まずに発言をする人間だとだんだんわかってきた。そのため彼女と話すときは謎の心構えをしている。そんな僕でも先ほどの彼女の発言には引っかかる。
「いいから来てね」
 僕の気の持ちようなども知らずに彼女は発言を続ける。
「ごめん、明日はかわいい彼女とデートの約束が入っているから行けないんだ。君なんかよりおしとやかで可愛い子だよ」
 僕は棒読みで言う。もちろん僕にガールフレンドなどいない。
「嘘だね。私とおなじで友達のいない君に彼女ができるなんて百万年早いよ」
「失礼だけど僕には君と違って友達がいるから」
「えー! 常陸君に友達がいるの? てっきりボッチの権化と……」
「君は意図せずとも人の核心を突くね。そんなんだから友達ができないんだよ」
「ハッハハハそうかもね」
 彼女は電話越しで笑った。
「というわけで明日の朝五時に大垣駅前に集合ね」
「世界標準時なら納得できるけど、日本標準時で朝五時は早すぎるよ。それに接続詞の使い方間違っているよ。小論文なら容赦無く減点だよ」
「日本標準時に決まってるでしょ。地理の時差計算する問題じゃないんだから」
「そもそも僕は行くなんて……」
 戸惑い、断りの文章を言いかけたときには不通音が鳴り響いていた。
 ため息をつきながらでベッドに身を預けると再度スマートフォンが鳴った。
 あの自由奔放な彼女の事だ……いやな予感がする……。
 予感は見事に的中した。
 冷静に出来事を自室の椅子に座りながら整理していた時に僕のスマホが通知を音で知らせてきた。無論彼女からのLINEだった。そして嫌な予感は再度起こった。
『明日は午前五時集合。午前と午後は間違えないでね。持ち物は下着と服があれば十分かな。お金は私が出すから安心して』
 不安を僕は隠せなかった。
 朝五時、下着、服。そんなキーワードを上手く関連づけて一つの仮説を生み出した。
 もしかして彼女と一泊するのか?

『持ち物が下着ってどういうこと?』
『一泊しないよね?』
『どこに行くつもりなの?』

 疑問をひたすらLINEに張り付ける。しかし、学校では見せない威勢の良い返事はなかった。どういうつもりなのだろうか。彼女の思考回路を分析してみたが考えは全く定まらなかった。部屋内の空気と共に思考が淀んだのでベランダに出て肺を新鮮な空気で満たす。
 彼女と出会ってからもう三ヶ月が経ったのか……。
 特殊な出会いから始まった僕と彼女の関係。静かに高校生活を送る青春生活をよしとしていたが明るく天真爛漫な彼女と日々を過ごすようになって、自分の青春が何か輝かしいものに動き出してるような気がした。
 そして、ふと空を見上げた。今日は半月。日を重ねるごとに形が削られていく月。まるで人間の命を間近で見ているようだ。新月から満月に戻る月のように僕は彼女の病気が快方に向かうことをひそかに祈った。
 不安を抱えながらも僕はベッドに入った。カーテンから微かに差し込む月光で視力を得て、目覚ましを朝四時にセットした。
 こんな青春ももしかしたら悪くないかもな。



 日はまだ完全に出ておらず、町や家は眠っていた。僕は目覚まし時計を反射のようなスピードで止めて朝支度を始めた。妙に昼間より響く息ずかい、呼吸が孤独をせき立ててるようで怖かった。
「いってきます」
 誰も起きていない家、父親に対して囁いた。僕は出かけてくるとだけ伝言を残して家を発った。具体的な目的地は知る由もないので記入できなかった。
 駅までの道のりを自転車でとばしていると東の空がオレンジ色に染まってきた。寝台特急サンライズ号の車体カラーが連想される。
 夏と言っても朝は少し肌寒い。朝焼けの透明な空気を切り裂きながら緊張感のない道をひたむきに突き進む。駅の駐輪場はなんとか開いていたが高校生が朝の五時近くに停めるので補導されるかと心配したが僕の杞憂に過ぎなかった。
 集合の十分前に着いた。当然僕以外誰もおらず、大垣名物の噴水の涼やかな水勢だけが響いた。
「おはよう」
 僕が安堵の息を吞もうしたら彼女の声が後ろからした。昨日の自由奔放、自己中心的なLINEのお詫びか控えめな元気だった。僕は昨日の核心についてはあえて触れない。
「じゃあ、行こうか」
「行くってどこに?」
「改札に行くよ」
「僕は五分後の目的地を尋ねているんじゃなくて最終的な目的地を聞いてるの」
「destinationってこと!?」
「ここは島国日本国だから日本語で喋ってくれる」
 彼女は僕のツッコミに笑みを浮かべた。
「まあ、行き先は改札に入る前のお楽しみ」
 昼間なら賑わいを見せている静かな駅前を二人で歩く。からすの鳴き声が妙に大きく聞こえた。
 もしこの様子を同級生に見られたら恋人だと思われるのか……。
「この切符を裏向きで入れてください」
 促されるままに切符を突っ込む。独特の機械音が誰もいないコンコースにこだまする。手慣れた手つきで切符を取り、表面を見ると衝撃の文字が光っていた。
「出雲市!」
 出雲市は島根県にある大きな駅。あまりの遠さに公共施設という事も忘れて大きな声をもらしてしまう。
 水色の背景は金色の文字を美しくしている。「大垣→出雲市」と書かれていた乗車券。彼女は満足そうな顔をわざとらしく僕に向ける。
「君はどういうつもりなの? 出雲大社で修行させたいの」
「それいいね。常陸君の坊主見てみたい」
「君の欲求を聞いてるんじゃなくて、説明を求めているの」
「まあまあ、難しい事は気にせずに」
「これは旅行という名の拷問だよ」
 彼女は僕の手を掴み、ホームに繋がる階段を下りる。猪突猛進。彼女にはそんな言葉が似合った。僕の事情は全く気にせずに走る。
 僕は彼女のスピードに合わせながら足を回す。
 僕は再度、腹を括る。
 ホーム上にある僅かな砂利が照り付ける朝日によって輝いていた。西の方からは今から乗ると思われる列車のヘッドライトが光っていた。
 列車のドアが開くと同時に彼女が乗り込む。僕も磁石のように吸い寄せられた。近くのボックスシートに腰をかける。僕は話を続けた。
「で、君はどういうつもりなの」
 彼女は観光雑誌を読んでいた。表紙には「山陰」と明記されていた。
「普通に常陸君と旅行好きとして出かけたいだけだよ」
「異性同士が一泊するなんて健全な高校生のすることじゃないよ。あ、君は僕と違って健全ではないか」
「地味に病気のこといじったでしょ。相変わらず常陸君は真面目だな。そんなんじゃせっかくの楽しい夏休みが崩壊するよ」
「初日から君の自由奔放さによって跡形もなく崩壊したよ」
「つまり私の思い出で常陸君の思い出は埋め尽くされたと」
「君のポジテイブ全開な想像力にため息が止まらないよ」
 口ではこんなことを言っている僕だが正直に申すと楽しみだった。旅行に行けるということもそうだが、彼女と共に時間を過ごすことに苦痛を感じてはいなかったらだ。
 が、謎のプライドが邪魔して嘘をつく。
「今日の夜はきっと楽しいことになるよ」
「夜になんかあるの?」
「それは秘密。大丈夫。常陸君がお望みのエッチのことではないよ。常陸君が私とエッチしたいならしちゃう? ちなみに無断で襲ってきたらクラスメイト達の標的にしちゃうからね」
「僕は紳士だから、そこら辺の男子高校生と同類にしないでくれる」
「分かってるよ。君にそんな勇気や度胸がない事もね」
 始発にも関わらず途中駅で多くの人が乗ってきたため、車内の人口密度は思いの外高かった。乗りなれた区間なので景色を見る必要はなく、寝ようと試みたが彼女が会話という凶器を使って僕の安眠を阻んできた。僕の大切な睡眠はことごとく奪われた。
 僕たちは中部地方最大の駅である名古屋駅で降りた。流石の名古屋でも朝となると閑散していた。いつもは淀んでいる灰色の空気が朝の日差しで綺麗に浄化されている。
 二人でホームを並走する。
「きしめん食べよう」
 唐突に彼女が言う。名古屋駅はホームにきしめん屋がある。低価格でおいしいきしめんを長期旅行の後に食べると地元に帰って気がする。しかし、朝早いために今はやっていない。
「こんな朝早くにきしめん屋はやっていないよ」
「そっかー」
 彼女は笑って返した。彼女はリュックの紐を握りながら早歩きで階段をおりる。
 まるで遠足にはしゃぐ小学生みたいだな。
 階段の踊り場的な中腹ポイントまで行った所で一人の男が声をかけてきた。僕に対して発してきたであろう邪気を払った声は聞き覚えがあった。僕に悪寒と面倒くささが走る。
「来夏と相模原が何でここに?」
 彼女に対しての質問のため、彼の声は優しかった。ちなみに彼とはカエルを飼っている特異なクラスメイト、西川優だった。彼は青ざめた顔に疑問を隠せていなかった。
「何でって、私が常陸君と旅行をしているから。西川君は何でいるの?」
「俺は野球で東京に遠征に行かないといけないから。それより旅行って、その荷物の量的に泊まりなのか?」
 彼は声を高くして、早いペースで話す。他の人の足音と重ねって不協和音に聞こえる。
 嘘でもいいから彼を刺激するような回答は控えてくれ……。
「それは内緒」
 その言葉を聞いた瞬間、彼は顔を下に向けて静かに声を吐き捨てる。
 嫌な予感しかしない。
 三人全員が言葉を選んでいたのであろう沈黙の時間が過ぎていく。そんな現状を打破したのは彼だった。
「来夏、相模原君と二人きりにしてくれない」
「でも西川君……」
 否定の姿勢を見せる彼女を彼は表情という武器で否定する。彼はまさに役者だった。
「いいから頼む」
「……分かった」
「私は弁当買ってくるから新幹線の中央改札前で待ってて」
 彼女は後ろを何度も確認しながら僕を心配する。彼女の残像が消えてから彼は持ち前の演技力を発揮した。
「相模原そこの椅子に座って話そうか」
「……」
 無言の返答をする。彼から話を切り出すと踏んでいたが一向にその気配を見せなかった。
「君はこんな朝早くからどこに行くの」
 僕はさっき彼が話していた内容を繰り返してしまう。自分でも認めるほど動揺している。
 彼はというと僕の質問に対して吐息を漏らす。僕の声がよっぽど嫌いなのかペットボトルのフタを切るという行為で見せる。
「さっきも話したが俺はこれから野球の用事があって東京に行く……」
 僕の予想に反して彼は誠実な対応をはじめは見せてくれた。このはじめというキーワードが大切で、未来も同じような態度をとってくれるとは限らない。ここでいう未来とは四秒後を指す。
「切符を見せろ」
 彼は僕の右手に秘めていた切符を奪い取った。朝日で光る金色の字。僕は彼が納得するまで静かに息を潜める。
「お前今から出雲に行くんだ。出雲ってあれだろ、山陰にある出雲大社で有名なある所だよな。それも来夏と一緒に……」
 彼はペットボトルを握り潰した。駅構内に響く乾いた音は彼の握力の強さを間接的に証明していた。
「本当はこの切符を握り潰してやりたいけど、来夏が知ったら悲しむからそれは出来ない」
 彼は淡々と自分の気持ちを偽りのない心を語る。無論、彼の心だ。
「おい、ささみ。俺が前に言ったことを覚えているよな」
 ささみ。そのあだ名を呼ばれたのは久しぶりだった。相模原→さがみ→ささみという過程を経て僕のあだ名は完成した。ささみはチキンの一種。僕をチキンみたいな決断力に欠けた底辺人間と見下したいのは嫌々伝わってきた。もしかすると名付け親は彼なのかもしれない。
 僕は彼の今までの発言の意図と文脈から彼の秘めている気持ちを探る。
 もしかしたら彼は彼女に対して恋愛感情を抱いているのかもしれない。僕にはない彼女を考慮した言動を彼は重んじているからだ。僕は解釈を施す。そんな僕の想像にしか過ぎなかった彼の疑問は確信へと変わる。
「もう一度言う。来夏に二度と近づくな。二度とだ! もし来夏の身に何かあったら俺はお前をただじゃ済まさない!」
 これが彼の精一杯の愛情表現何だろう。僕は恋心を養ったことがないので彼の気持ちは正確には分からないが、彼の言動は大切な人を守りたいという人間の本能から由来しているごく自然な行為なのは理解できた。
 彼は僕の頬を思いっきり叩き強く押し殴った。拳が強かったため僕の体重は後ろへと流れされた。線路に落下しそうな勢いだったが黄色い点字ブロックが僕の安全を確保してくれた。その後、すぐに警笛が聞こえた。ホームに倒れっぱなしの僕に向かって警告したことはすぐに分かった。僕は慌ててその場を立ち去ろうとする。その直後に貨物列車が入線してきた。もし僕が線路に落ちていたら冗談抜きに死んでいたのかもしれない。彼に対する怒りではなく点字ブロックへの感謝の方が大きかった。なんせ僕の命を救ってくれ、彼に前科を付けずに済んだのだから。
 僕は彼がこの場にいないことを目で確かめてから階段に向かう。駅員が駆け寄ってきて「大丈夫ですか」と聞かれたので、「大丈夫です」と返す。これ以上ここに居たらさっきのことを深読みされそうなので僕は駅員に一礼を交わして、早足で彼女の元へと急ぐ。
 僕は彼が使ったであろう階段とは違う階段を使った。そのおかげで色々と遠回りだったが自分の庭のように使っている名古屋駅を迷うことはなかった。僕は新幹線中央改札を目指す。
 目的地に着く直前、彼女が手を降っているのを確認できた。
「常陸君、こっち~」
 僕が先に目に付いたのは彼女の声の大きさ、ではなく、手に提げられていた大量のビニール袋だった。その中身が駅弁なのを独特な形から察する。
「半分持つよ」
「常陸君が言うなら、お言葉に甘えて持ってもらおうかな」
 彼女が差し出したビニール袋を受け取る。中身は予想通り、駅弁が入っていた。
 駅弁代だけで何円したんだ? さっきの切符といい彼女はお金持ちの家の娘なのか?
 すごい量の駅弁だったので彼女のお金の使い方に疑問が浮かぶ。
 バイトをしているのか? いや、僕の高校はバイト禁止だし……。もしかしたら大富豪系一家なのか? 不治の病だから彼女にお金を自由に使わせているのだろうか。
 考察している最中、彼女が小説家だったことを思い出した。印税なんだろうなと憶測を立てる。
 僕の意識が現実に戻っていた時、手に変な感覚があった。この大きさ。この手触り。慣れて浸しんだ物体は見なくても分かったが、その物体に記されていた内容は僕の予想をはるかに凌駕していた。僕は声を上げる。
「グリーン車! 岡山駅まで!」
 金色の文字で書かれていた文字には確かに明記されていた。
『名古屋→岡山 グリーン車』
 僕は彼女の求めている表情は見せずに真顔でやり過ごす。
「高校生が朝早くに岡山駅までグリーン車で行くとか頭おかしいんじゃないの? 有名な精神科を紹介しようか」
 僕は冗談を交えながら話を彼女にふる。
「そのセリフ前にも聞いたからつまんない。余命一年の高校生がグリーン車に乗ったら悪いの?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
 僕は呆れた顔で彼女を見る。大きな荷物をかかえながら新幹線改札に入る光景はまさに旅のスタートにふさわしかった。電光掲示板を見上げながらホームに進む。在来線とは異なる高さに設置されたホーム。特別感を漂わせるホームドア。すべて新幹線に乗った者にだけ与えられる特権だ。
 彼女は堂々とグリーン車の列に並ぶ。いいスーツを着たサラリーマンたちに紛れこむことに僕は引け目を感じが、彼女はお構いなしだった。
 僕は近くの椅子に腰かける。僕を呼ぶ彼女の声が何度か聞こえてきたが常識のない高校生と思われたくなかったので無視した。
 本を読んでいると新幹線の接近を知らせる放送が鳴ったので僕は立つ。
 名古屋駅を始発とする下りの新幹線が朝の静寂な空気をさり気なく切り裂いて入線してきた。太陽光が真っ白なフォルムに反射する。
 ホームには新幹線の空調設備の音が響いた。ドアが開くと同時に四葉のマークを右手に眺めながら車内に入る。彼女は「一番!」と言って進んだ。
 この号車には僕たち以外乗っておらず、高級感を贅沢にすることとなった。
「なんでわざわざ始発列車に乗るの?」
 これは「朝五時」と言われた時からの疑問だった。別に朝九時に出発したって余裕で間に合う。いくら彼女でも始発列車を選択したのは理由があるはずだ。
「出雲に早く行きたいから」
「どうせあっちで一泊するならこんな時間じゃなくてもいいでしょ」
「残念ながら出雲には一泊しません」
「という事は今日は日帰り? 日帰り出雲なんて前代未聞だよ」
「残念ながらそれも違うな。まぁ、正解はお楽しみで」
 彼女はクイズを出す司会者みたいな口調で話した。僕は解答が導き出せなかったので心の中で諦める。
 彼女の助言により、僕たちは朝ご飯を食べることとなった。彼女は荷棚に上げていた駅弁の入ったビニール袋の中から駅弁を取り出す。僕は彼女から渡された駅弁を受け取る。
 僕たちはテーブルの上に駅弁を広げる。
「そう言えば何で君はそんなにお金持ちなの? 高校生作家ってそんなにかせげるの?」
 大きなビニール袋を見るとそんな疑問が浮かんできた。他人に金銭に関する話を聞くのは失礼だと感じていたが、どうしても答えを確かめたかった。
「確かに今度映画化するから稼げるかもしれないけど、常陸君が想像する以上にお金はもってないよ。私なんてまだまだだし……それに……」
 彼女はそういうと表情を曇らせた。僕の頭の中には『盗作』の二文字が浮かんだ。
「どうせもうすぐ私は死ぬんだからお金持っててもしょうがないでしょ」
 彼女は作り笑いを浮かべた。
「私は寝るから岡山に着いたら起こしてね」
 本当に寝たのかは定かではなかったがいつもの元気さをまるで感じない寝顔だった。僕は「何でグリーン車に乗ったのに寝るの?」と突っ込みたかったが、気持ちよさそうに席を堪能している彼女に話しかける気力は湧き上がってこなかった。
 小説家だったことは素直に驚いた。いつもは雑なところもあるが、他人を考慮する精神が小説家・一ノ瀬来夏を育み、読者に感動を与える物語を世に送り出しているのだと勝手な想像をする。そのため、声には出せない感情が心に響いた。
 僕は立ち上がりデッキに向かう。列車はトラス構造が美しい橋を高速で駆け抜けている。空には雲一つなく、太陽の光がドアの窓から挨拶をしていた。
 この時、はっと思った。
『僕は彼女という存在からいろいろな物をもらった』と。
 ただただ過ごすだけの何もない日常を染め輝かせてくれたのは考えるまでもなく彼女だった。今にして思えばこの瞬間から彼女に対する評価、オモイが変わったのかもしれない。
 僕は今までの自分を大きく恨んだ。恨む根拠は不確かだった。もしかしたら僕は自分に対して引け目を感じていたのかもしれない。
 結局僕は流れる景色を眺めているだけだった。

 最高時速三百キロメートルエイチに揺られること一時間二十分。僕たちは山陽地方の大都市の一つである岡山で下車した。
 新幹線は本当に速い。車で行けば三倍以上の時間を要すると考えると人類はとんでもないアルミの塊を作ってしまったと渋々実感する。
 僕は岡山駅到着の車内放送が鳴ると彼女を起こすため席に戻った。彼女は想像していたよりも寝ていて、これはもう爆睡と呼んでもいいのかもしれない。僕が起こそうと試みたときも「お母さん、今は夏休みだからまだいいでしょ」と寝ぼけていた。確かに夏休みだけどね……。
 この発言から彼女の私生活態度が安易に想像できる。起こしたのが僕だと気付いた彼女は「今のは絶対に忘れて」と前言撤回を求めた。もちろん僕は保存する。そしてスマートフォンで護身用に彼女の寝顔を撮ったことは言わない。
 僕たちは都会に近づく景色に乗り越しの危機感を抱きながら身支度を整える。
 ドアチャイムが鳴り、音を立ててドアが開くと新鮮な空気が流れてきた。地元とは違う空気、まるでワープしたみたいだ。
「岡山に初上陸!」
 彼女はジャンプをして降り立った。僕も地面をかみしめながら歩く。
「ホームに降り立ったぐらいで上陸とは言わないでしょ」
「まぁ固いことは言わずに気軽に楽しもうよ」
 僕たちは人の流れをかき分けながら階段を下りる。新幹線の扉が閉まる音が少しだけ聞こえてくる。
 岡山での観光はせずにそのまま目的地の出雲へと足を運んだ。出雲に向かう特急もなぜかグリーン車だった。
 特急列車の中でもハイテンションな彼女についていくだけで精一杯だった。
「朝早いのに何で君は元気なの? 僕はあくびが絶えないよ」
「君が静かすぎるの。私みたいにうきうきしないと損だよ。人生楽しまなきゃ後悔!」
「グリーン車で寝ているブルジョワさんに言われても説得力ゼロだよ。安らぐはずの移動が神経をつかったせいで疲れたよ」
 出雲市行きの特急列車は山間部を勢いよく貫いた。車窓は都会の景観から緑と清らかな川へと変わる。途中、カーブのせいで肩が触れ合ったことがあったが僕は気にしない。僕とは正反対に彼女は結構動揺し、顔を赤くしていた。
 大垣駅を発って六時間、出雲市駅に着いた。速さと壮大な風景が楽しかったため、時間の長さは割と感じなかった。僕たちは記念に切符をもらい、北側の駅舎を望んだ。北側の駅舎は出雲大社をイメージしている。
「出雲は小二の夏休み以来だな」
 唐突に彼女は呟き、目を輝かせる。僕も出雲を訪れるのは久しぶりだった。久しぶりといっても毎年訪れているので彼女ほどの感動の渦には巻きこまれなかった。
「岡山には下りたことないのに出雲に行ったことはあるんだ」
 彼女の会話の文脈から一つの矛盾を見つける。基本的に出雲に列車で行く場合は今日のように新幹線と特急列車を使うのが一般的だ。飛行機で行くのなら話は別だが鉄道好きの彼女にとっては前者が最良策であろう。ちなみに僕は前者だ。
「小学二年生の時に往復サンライズで行ったから岡山には下りなかったわけ。降りようと思ったけど睡魔には勝てなかった」
 サンライズ出雲は東京出雲市間を走るので、新幹線とは違い岡山で降りずに出雲に来たのにも納得がいった。
 彼女は頭を掻きながら笑顔で言う。僕は彼女の意見に納得する。
 続いて彼女は提案をしてきた。一般の人から見れば特に違和感もない内容。しかし、車内での彼女の食生活を見ていた僕にとってそれは目を疑う内容だった。
「常陸君は出雲そばと割子そばのどっちがいい?」
「女子に聞くのは失礼だけど、君の胃袋はブラックホールなの」
「それを女子に聞くの禁止! 本当に常陸君は乙心を分かってないんだから」
 改札の前にある「出雲そば」という暖簾がかかっている蕎麦屋さんに入った。近くのボックス席に座る。天ぷらそばを頼んだが食べきれるかが心配だった。
「食事制限はないの?」
 僕は頭に浮かんだ疑問を素直に彼女に投げかける。
「病気が判明した時は食事制限があったよ。そのせいでストレスがたまった時期もあったよ。でも今は医学の進歩のおかげで一定の言葉を吞み、通院を二週間に一回行けば全く問題ないよ」
 彼女は何事もなくさらっと言う。もう一つ彼女に聞きたかった事を聞く。
「君はなんで僕と旅行に行きたいと思ったの?」
「常陸君は何で旅行に誘われたと思う?」
 一番嫌な返しで返された。自分に興味がない僕にとってそれは死語を意味していた。特に深く意味を考える事も無く「分からない」と答えた。
 彼女は「秘密」と言った。僕の彼女への興味はこの食事中だけ続いた。
「早く食べて、行こうよ。時間は無限じゃなくて有限なんだからさ」
「君が食べるのが早いんだよ」
 僕は彼女のスピードに対抗するかのように蕎麦を口にかきこんだ。
「常陸君早く!」
「うん」
 最後の一口が胃に落ちる。水を流し込み、のれんをくぐった。
 食事終了後、僕たちは観光客らしい行動をとった。一応、観光客だが周りから見れば田舎から出てきた恋人に見えたのかもしれないが、僕は(病気を知っている)クラスメイトを貫く。
 駅の北側の大きな交差点が青に変わると彼女は僕の手をひいて走り出した。彼女の足は思いのほか速かったので、僕は足並みを揃えるのに必死だった。
 彼女は出雲のパンフレットを見ると急停車した。どうやら方向を間違えたらいい。彼女は駅の方向に逆戻りをした。僕は彼女に続き、一畑電鉄の出雲市駅へと足を運んだ。
 駅構内の券売機で買った切符で改札を抜ける。
 電車が来るまでの途中、彼女は僕の恋について、特に初恋についてしつこく聞いてきた。初恋をしたことがある僕が言うのもなんだが、恋というのは私生活を乱し、堅実さを失う愚かな行為だ。
 彼女は僕の解釈を聞くなり「真面目過ぎ」と笑った。
 列車に乗ること二十分。出雲名物の出雲大社に着いた。
 参道を歩いていると、腕組みをしている男女が点在していた。
「私たちってカップルに見られているのかな」
「多分周りの雰囲気から考えると高校生のリア充がいちゃついているって思われているんじゃない」
「常陸君は私と付き合っていると思われて嫌じゃないの?」
「実際付き合っていないから僕は全く気にしないし嫌じゃないよ。君と出かけるのは案外楽しいから……」
 彼女は大きな松の木の下で立ち止まった。彼女の顔が陰でよく見えなかったので表情を確認することができなかった。
 彼女の発言に思わず耳を疑う。
「もし、もしもだよ……私が君に付き合いたい言ったらどうする?」
 時が止まり、二人だけの時間が流れる。僕の瞳には彼女という存在以外が全て白黒に見えた。これは決して病気でない。さらに付け足すと恋の病でもない。
 混乱していると僕の脳裏に一つの文がよぎった。
 これも彼女の死ぬまでにやりたい事の一つなのではないかと。冗談で言っているのか、はたまた本気で伝えたのかは一ナノメートルも分からなかった。僕はこれを念頭におき、彼女に対して解釈を始める。
「付き合うわけないだろ。第一、本心で言ってるの? 僕は死ぬまでにやりたい事の一つかと思ったよ」
「そうだよね。これも死ぬまでにやりたい事一つ。ごねんね、真剣な空気になっちゃって」
 彼女は一人で大しめ縄に向かって走りだした。かすかに彼女の目が光ったのを確認できた。気のせいかもしれない、いや、気のせいだ。気のせいに違いない。僕は自分を正当化した。


 おみくじを引いた僕は思わず内容に絶句する。
「大凶。最悪だよ。これは君と出会ったせいだね。君と出会ってから僕の平穏な日常は壊れていったよ」
「私は大吉。これは常陸君と出会ったからだね」
 彼女は笑顔でこちらを覗いてくるが僕は反応しない。
 僕たちの周りには恋人同士の関係と思える人達が点在していた。
「恋愛の所にはなんてかいてある?」
「あなたの恋は積極的にアタックしないと実らない」
 僕は投げ捨てるように言う。
「アッハハハハハハ! まさにその通りで常陸君の言動と一致してるじゃん。友達や彼女を作りたかったら自分からアクションを起こさないと実らないよ」
「君が言うと説得力が落ちて、発言の劣化が進むよ」
「私のこと説得力がないってバカにしているけど彼氏いたことあるんだよ。どんな人か知りたい?」
「心の底から知りたくないね」
「そんな常陸君には特別に教えてあげます」
「僕は一言も知りたいとは口にしてないよ」
 彼女は僕の意思に反して口を開き始める。
「ヒントを教えるから分かったら答えてね。ヒントその一、君よりイケメン。ヒントその二、君より運動ができる。ヒントその三、君より顔が広い。ヒント四、クラスメイト」
「何で僕と比較するのかは分からないけど。僕と正反対でいい人間なのは分かったよ」
「真面目に考えてよ。こういう時だけ正論で反発するだから」
「僕はいつも正論しか言わないよ」
「じゃあ最後のヒントね。……常陸君の方が優しいかな……」
 他人から優しいという評価をもらったのは嬉しかった。しかし、心の感情を表に表すことはなかった。
「君のヒントは大雑把で選択肢が広すぎるせいで、僕の脳では予想すらできないよ。そもそもクラスメイトの名前すら把握してないから棄権で」
「前から思ってけど君は自己評価が低すぎるよ。いいところもたくさんあるんだからもっと積極的な姿勢に変えないと友達なんてできず、私との約束を守れないよ。もし私との約束を守らなかったら君の血液を全部いただくからね」
 約束して以来、初めて思い出した約束。それは宿題の名が付いた彼女が死ぬまでに僕が友達をたくさん作らなければいけないという無理難題だった。そもそも僕にはたくさんの友達が必要と語る一般学生の思考がいまだに理解できない。自分の時間を削ってまで一緒にいる存在が友達と呼んでいいかは不明だった。なので、僕には友達の必要意義や存在価値を提出者の彼女に確かめる必要性が生じた。
「君にとっての友達とは何なの?」
 簡単で実は難しい質問。僕がもしも彼女の立場だったらそんな印象を受ける。日々の時間を過ごすことが多い存在だが、友達が少ない僕にとってはよくわからなかった。
「そうだねー。しいて言うなら、友達とは自分にないものや欠点を補ってくれる存在かな。完璧な人間なんて存在しない。勉強を必死で教えてくれる友達がいるからテストでいい結果が出せて『ありがとう』と言える。一緒に食事をする友達がいるから『おいしい』と言える。自分が落ち込んでいる時に励ましてくれる友達がいるから立ち直れる。そして、何より友達がいることで明るくなれる。時に友達の理不尽や悲しみを共有しないといけないかもしれない、でもそれは友達を大切にしている証拠なの。苦しいときほど親のように寄り添ってくれるのが本当の友達。容姿やお金が目的で近寄ってくる人もいるけど、それは表面状の友達に過ぎない。いわいる条約みたいなものね。紙に印鑑と署名をしただけだから大した根拠もなく信用し、簡単に裏切られてその存在が黒歴史や過去のものとなる。私も経験しているからこれだけは言える。友達とは相手を信頼し、自分を良い方向へと導いてくれる存在。私はそう定義付けている。自分の良い所だけを認めてくれるだけの友達なんて友達なんかじゃない。悪い事や良い事などを正当に評価してくれるのが友達なの。それが発展していくと親友、恋人になるの。今の話を聞いて分かったと思うけど、友達とは互いの知らない間に友達という関係に発展していく。だから常陸君には友達は友達でも本当の友達をたくさん作ってほしいな」
 彼女の言葉は僕の脳内に焼き付いた。
 友達。何気なく学生たちが使っているこの言葉の本質、重みを感じた。彼女の話を再生していると僕の思考の欠点を見つけた。物事を見る時、僕はいつも一定の方向しかおらず多角的な視点を持てていなかった。
 確かにそうだった。友達や恋人をバカにした時も失うものしか考えておらず本質を見過ごしていた。友達を作るとこによって貴重な時間を失うデメリットがある。しかし、大きなメリットがあることを今発見した。それは今話すと長くなるので心の中にとどめておこう。
「って、友達がいない私が言っても説得力に欠けるか。今の発言は撤回で」
 彼女は先ほどの自分の発言を濁すように笑った。
 そして、僕は彼女にもう一つ聞きたいことがあった。彼女の回答によって今後の自分の人生に大きな変化が生じると確信した。
「恋人と友達の境界線は何?」
 彼女が何気なく僕との日常会話で話題に出す恋についてだった。僕は恋愛コンサルタントにお金を払って相談しているような感覚に見舞われた。彼女は笑うことなく僕のつぶやきに耳を傾けてくれた。
「私はね常陸君。心を隠すことなく接する関係までに発達したら自然と恋人になると思うの。人には必ず弱い部分がある。でも、人はそれを見せるのが怖い。嫌われたらどうしようという一心で必死に隠そうとするの。吐露できる相手がいる、受け止めてくれる相手がいる、自分の弱い所も含めてありのままの自分を認めてくれる関係。それが恋人関係かな」
 彼女は柔らかく微笑んだ。
「君の言葉を深く刻みこんでおくよ」
 僕は彼女の話を否定したり、嘲笑したり、バカにすることはなかった。
「私が死ぬまでに友達を見せてよね。絶対に……。君には私にはできなかった友達を作ってほしいからさ……」
 ふと僕は心配をした。それは今の彼女の話と彼女の現状からだった。
 彼女の余命は短い。だから、時間がない。こうして彼女と日常的に話している間彼女が不治の病を抱える高校生ということを忘れてしまう。彼女は僕とは違い、死の道を何倍もの速度で歩んでいるんだ。彼女がふと呟いた「時間は有限」の意味がようやく分かった。
「約束する」
 根拠は全くなかったがここで嘘をつくことは模範回答だと思った。
 僕たちは互いの小指を絡め合った。神さまには「どうか彼女が長生きできますように」とお願いをし、彼女には約束を誓った。
 彼女は何を祈ったのだろうか?



 僕はガイドと化した彼女に従い、散策をした。夕方に訪れたら夕日で美しい宍道湖に昼に訪れ、そばを食べ、パンを食べ、出雲市駅に戻った後、彼女だけがまたそばを食した。
「いくらなんでも食べすぎじゃない。そんなにたくさん食べると太……」
「太……」とまで言いかけた所で彼女は僕の口を箸で抑える。言いかけた「太る」というワードが女子に対して反感を買う材料だというのを僕は知らない。
「はい常陸君そこまで。女子に太るとか言うと核爆弾を落とされるよ。本当にデリカシーがないんだから」
「僕に女子の気持ちを察するなんてアラビア語の通訳より難しいよ」
「アッハハハハハ! アラビア語と比較するなんて常陸君はやっぱり面白いね」
 彼女は笑いのツボに入ったのかしばらく右手に箸を持ちながらお腹を抱えていた。僕には面白さが一ピコメートルも理解できなった。
「君は、本は本でも恋愛小説を読んで恋の勉強をしなさい。今度イチ押しの本貸してあげるから」
 彼女は僕に恋愛本を勧めてきた。確かに前回読んだ彼女の恋愛小説に少しばかりの面白さは感じたがそれでも自らの意思で読みたいとは思わない。
「結構だよ。恋愛なんて興味ないから」
 僕が説明をしている途中で彼女は駅構内のコンビニへ向かっていた。人の話は最後まで聞けよと思いながら彼女の後を追った。僕も彼女に続くように店内に入る。中にはスーツケースを持った家族客や大きな一眼レフを抱えた鉄道マニアであふれていた。彼女はというとコンビニで商品を選別していた。また何か食べるのか……呆れ半分、心配半分の気持ちに見舞われた僕は黙って彼女の買い物を見守る。
 彼女の見守りにも飽きた頃、僕はコンコースの待合室でスーツケースを携えていた旅行者たちと共にテレビを見ていた。テレビからは同級生間での殺人事件があったという普通の人から見たら心痛ましいニュースが流れていた。僕は他人の人生なんかどうでもよかったので無感情で画面を見ていた。
 時間が進むにつれ待合室内の人口密度が大きくなっていた。
 僕は勝手な予想を立てる。
 窓から見える電光掲示板には日本で唯一の寝台特急の案内が赤文字で記されていた。僕は利用者をうらやましがる。
 彼女がすたすたと僕の元に接近してきた。手には恒例の買い物袋が提げられていた。
「ずっと気になってきたんだけど、今日はどこで一晩を明かすつもりなの? まさか……地獄の夜行バスで帰るつもりじゃないよね?」
「ふっふっふっふ」
 彼女気味の悪い声を発した。彼女といたから僕には理解できた。彼女は何か企んでいる。きっと僕が驚愕するような。
 僕は彼女の作戦には乗らないぞと固く口をしめる。
「これが今日のホテルです」
 彼女はハイテンションのまま長方形の紙を取り出した。彼女はそれをわざと裏向きで見せたが僕はその正体をあっさり見抜けた。切符だった。それも寝台特急『サンライズ出雲』の……。
「サンライズ出雲に乗って東京に向かいます。実は切符が一枚しか取れなかったから同じ部屋だよ」
 高校生の男女が同じ部屋で夜を明かすというのに彼女はどこか乗り気だった。僕はというともしそれが現実として訪れるなら絶句しかなかった。
「冗談じゃない。君と同じ部屋で過ごし、一人部屋を二人で利用したというバカげた理由で裁判所に行きたくないよ」
「はっは、冗談だよ、冗談。ちゃんと常陸君の部屋も用意してあるから安心して。常陸君は何でも本気にするんだから。そんなんじゃ若い女の子に騙されちゃうよ」
「すでに君という若い女の子に騙されたせいで僕は今ここにいる。教訓として女子高生を簡単に信じるのを辞めるよ」
「他の女の子を信じないのは常陸君の勝手だけど、せめて私は信じてよ」
「教訓を間接的に提示した張本人だから説得力を微塵も感じない。言ってることは詐欺師と同じだよ」
 笑いながら彼女が僕の発言を受け取るとともにもう一枚の切符を出した。僕はほっと安堵の息を吞む。
「出発まで時間があるんだし、買い物にでもいきますか」
 また買うのと突っ込みたかったが「乙女心を分かっていない」と指摘されるのは明白だったので無言でやり通す。
 僕たちは駅構内のコンビニで買い物を済ませる。彼女は値札なんて気にせずに飲み物やお菓子を詰め込む。カゴ二つ分の合計金額は五千円近かった。
「この袋持つよ」
 支払いが終わり、レジ台の上に乗った買い物袋を僕は持った。運動を捨てている僕にとってこれは腕に堪える。
 レジで支払いをしている彼女は「Thank you」と申した。
「やっと乙女心を掴んできたね」
「お金をすべて君に払ってもらっているせめてもの感謝だよ。僕に恋愛工学を教え込まないでくれる」
 僕は濁して返す。
 僕たちはそのまま改札に向かった。電光掲示版付近に威風堂々とした佇まいで君臨している。
 アナログ時計。蛍光色の短針、長針が刻一刻と出発時刻に迫っていた。駅員さん乗車券を見せると耳を疑う発言をされた。
「カップルで寝台列車に乗るのかい?」
 出雲市→東京の切符を見せただけなのに駅員はすべてを理解していた。流石ベテラン、と全てを肯定したかったが一つだけ否定する。
「決してカップルではありません。(病気を知っている)ただクラスメイトです」
 僕の発言に疑問を浮かべる駅員。彼女は口を膨らませていた。どうやら拗ねているらしい。
 彼女が一向に怒ったままなので僕が先の目的地への第一歩を歩みだすと、彼女は「待って」と言いながら追いかけてきた。僕たちは途中から足並みをそろえる。

 高架のホームに充満する毒性のない煙の臭い。西の空はかすかにフラミンゴ色を帯び、夜に入る体制をとっていた。
 電光掲示板にはすべてを下等扱いするかのような「寝台特急」の文字。一心乱れぬ乗車の列が僕の高揚感に拍車をかける。
 出発の四分前、列車の接近放送と共に入線してきた列車は鋭いブレーキ音を立てて停車する。赤とクリーム色の車体は他の列車をはねのけるかのような佇まいをしていた。 
 僕が乗り込もうとすると彼女は僕の手を引っ張り先頭部分に向かった。彼女は何故か外国人に写真を撮るよう頼む。
「Could you take our a picture?」
 シャッター音が二回ほど響くと、今度は相手の写真を彼女は撮る。 
 すべてのやり取りを英語で対応する姿に少しばかりの感動と憧れを寄せた。
 別れの挨拶を外国人に述べると、彼女は初めて乗った子供のように目をあちこちに移動させていた。僕は指定された号車に一人で向かう。車内は狭いため他客と道を譲り合うなんて日常茶飯事だ。
「よくこんな高い部屋、シングルデラックスを抑えれたね」
 サンライズの中で一番値段が高い部屋がこのシングルデラックスだ。僕みたいない一般高校生は乗れないような代物だが、一般高校生ではない彼女なら納得ができた。
「乗るなら高級車がいいし、最期かもしれないからね。死ぬまでに乗ってみたかったんだよね」
 他の号車とは違う少しばかりリッチな廊下を歩いていたら目的の部屋を見つけたため、狭い階段を上る。一人になれる開放感を求めてドアを開けかけたとき、向かいの部屋から彼女の戸惑いの声が鼓膜を震わせた。僕はベッドの上に荷物を放り投げ、回れ右をする。向かいの部屋、彼女の部屋には近くの蛍光灯で作られた影が一つではなく二つあった。
「常陸君、重大事件がおきちゃったよ」
 彼女は声を震わせる。彼女の隙間から影の正体を求めて僕は目を皿にする。そこには僕と同じくらいの身長を携えていた女性の姿があった。この部屋にいる全員の困った表情が浮き彫りとなっている。僕は小さな脳みそと鉄道知識を紐付けて、謎を解き明かすよう試みる。
「二重発券じゃない」
 知らないうちに出発していた列車のポイントを括る音が彼女の答えを引き立てていた。僕は心の中で彼女に共感する。
 二重発券とは同じ席の切符が二枚発行される現象を指す。当たり前だが同じ区間で同じ席を販売することはできない。しかし、機械の同時刻発券などによって極まれに起こるのだ。今回はこの現象が起きていた。
 僕はこの中の代表として車掌に説明しに走った。
 車掌は納得よりも謝罪の意を示した。「こっちのミスです」と頭を下げ続けた。謝るのはいいけれど、この問題は根本的にどう解決するのだろうか。不安だけが心に積もる。もしかしたら……。
 僕は最悪の事態まで想定する。
「他の席は空いていないんですか?」
「申し上げにくいのですが、今回は全区間満席でして」
 車掌は再び帽子を取って深く頭を下げる。はげた脳天があらわになる。
 重い空気が充満する。
 この空気をどう処理すればいいのだろうか? 僕は頭をひねった。
「僕の席を君に譲るよ。僕はラウンジにでもいるよ」
「えー!」
 意外にも僕がこの空気をぶち破った。
 三人が阿吽の呼吸で口を開く。ここでの君とは彼女を指す。
 僕はいたって真顔だったが彼らの顔は正反対だ。
「お客様を一晩中ラウンジで過ごさせるというわけには……」
「そうよ。安眠できないわ」
 少しきつめの表情を女性はあらわにする。
 最高の打開策だと思っていたのは僕だけだった。
 万事急須の状態が近い中、僕が脳内の情報網を繕っていると、待っていたかのようなタイミングで彼女が発言してきた。今日ばかりは反論精神を失う。
「私たち一緒に寝ます! いや違う ……その……一緒の部屋で大丈夫です」
 視線が集まった先は彼女ではなく僕だった。何故かって? それはいたって単純だ。彼女が僕を指差しているからだ。
「いや、しかし、お二人は……」
 彼女は僕の腕を無理やり組んできた。僕の体温が上昇する。
「恋人です。現在進行形で」
「そうですか、ならそういうことでお願いします」
 そういうことってどういうこと!
「恋人なら大丈夫よね」
 恋人じゃないし、大丈夫じゃないよ!
 この二人に大嘘をついて、問題は解決したのか? 一応、表面上では解決したが、この後についての課題が僕の頭を埋め尽くす。
 車掌は切符代とアメニティを両者に渡し、逃げるようにこの場を去る。
 女性はほっと胸をなでおろしていた。
「良い夜を」
 女性は僕たちが恋人と完全に勘違いしたままドアを閉めた。僕たちは(病気を知っている)クラスメイトに過ぎないという事実を伝えようとするが、彼女が僕の服を引っ張り部屋に入れられた。
「一緒のベッドだね」
 彼女は嬉しそうな表情で僕を見るが、僕は彼女と正反対の気持ちでいた。
「ばかじゃないの。僕は少し汚いけどカーペットで寝るよ。同じベッドで寝るのは普通に嫌だし、黒歴史として僕の心に一生残るからね」
 列車は並走する外灯を勢いよく抜けていた。
 僕は状況を理解しようと必死になる。
 今、この部屋には男子である僕と女子である彼女がいる。密室に高校生の男女が二人。ラブコメだったらいい展開かもしれないが、僕は嫌な予感が起こる気がした。そう、いやな予感が……それは今日に限ったことではない。
 僕は悪くない……全ては発券ミスのせい……彼女は僕の動揺に全く気をつかわず、爆弾発言をしてきた。僕は動揺を彼女に煽られないように声でおおう。
「一緒にシャワー浴びようよ」
 僕の真っ白で健全な思考回路は彼女の発言によって狂いかけていた。
「君は毎度、毎度爆弾発言するけど、女子としての威厳はないの。一応自称乙女でしょ」
「冗談、冗談。常陸君は何でも本気にするから面白いな。じゃあ私は本当にシャワーに行ってきます。覗いたらだめ。まあ、覗きたくても覗けないけど。あと私のカバンの中に下着が入っているから覗いたらだめだよ」
 彼女の発言には常にといいほど余計な一言が加わっていた。
「君はジョークで言っているのかそれとも本気で言っているの?」
 彼女は僕の質問にも答えずに廊下に出ていったしまった。
 列車はさらにスピードをあげ、左手に宍道湖を眺めながら薄いオレンジ色に染まった景色を貫く。
 僕は室内にある椅子に身を預け、カバンの中から読みかけの推理小説を取り出す。
 読んでいる途中に先ほどの車掌が検札に来た。もう一度、申し訳なさそうに頭を下げる。薄い頭が室内灯を反射する。こんな頭を見せつけられるとこちらに非があったのかと思ってしまう。
 少し恐縮した態度で新しい椅子を受け取った。
 何故、椅子を渡したのかはこの時までは全くわからなかったが、断る理由もなかったので僕は躊躇なくいただく。
 今読んでいる本はこの列車が舞台に描かれていた殺人事件の物語であった。事件の内容は恋人を取られた嫉妬から殺すという典型的なパターンであった。あれだけ恋愛小説を読まないと豪語していたのにも関わらず、僕は恋愛が混じったこの物語にのめりこんでいた。自分で言うのは何だが矛盾していた。どっちが正しいのかと聞かれると恋愛小説は絶対に読まないという解答の方が近い気がした。
 自問自答していると勢いよくドアが開いた。顔を見なくてもわかるもう一人の住人だ。あいにくドア付近に座っていたおり、内開きドアという事を把握していなかったため、ベッドに倒れこむ形となってしまった。それも最悪の形で……。
 話の話題をベッドから何に変えようかと考える。もしベッドの話題を深堀しでもされたら逃げ道がなくなると確信しているからだ。
「風呂ずいぶん長かったね」
「そう? 実はさっきシャワーの順番待ちの時にイケメンな男性からナンパされたの『今夜一緒に話さない?』って聞かれたんだけど、彼氏がいるって断った」
「まさか、その彼氏は僕という事になってるの?」
「すっご! 何でわかるの?」
「君の性格と今までの言動から推理したんだよ」
「流石。だてに推理小説を読み込んでいるだけあるね」
 とりあえずベッドの件という火種に触れなかった事に安心する。今日一日走りまわったせいで汗が服と皮膚にくっついていたため、僕もシャワーを浴びことにした。
 髪の毛一本も残さずに乾かした状態で僕は部屋に戻った。机の上には先ほど買った商品が所狭しと置いてあった。お菓子やジュースが多く、どれだけ食べれば気が済むのだと突っ込みたくなった。
 列車は美しい水面が輝く宍道湖をとっくに過ぎており、中国山地を縦に貫いていた。部屋の電気を消せば満点の星空が情景を彩っている。
「常陸君ゲームしようよ」
 外の景色に心を奪われていると彼女が僕の余韻を奪ってきた。僕は嫌な予感を心に覚えながら彼女に体を向ける。
「あいにく僕は電子機器には興味なくて」
「そっちのゲームじゃなくて……」
 僕は理解した。彼女が今からしようとしているのは娯楽のゲームではない。通常、ゲームは疲れた心身を癒したりストレス発散のために行う。しかし、僕が今から突入しようとしているのはストレスをため、疲労蓄積を促進するものだと確信する。
「ゲームっていっても単純。互いに質問をし合いっこする。ただし、質問を拒否したら命令に従わなければならない。OK?」
「OKじゃないけどやるよ。どうせやらないと終点まで寝かせてくれないんでしょ。君のことだから」
「乗り気だね。どうせ断ると思ったから、さっきのベッドに倒れこんで私を誘惑しようとしていた写真をクラス内にばらまこうと思ったのに。真夏の密室で風呂上がりの美人女子高生を誘惑してっていうタイトルで」
「毎度ながら君はネットニュースみたいな切り取りをするよね。僕は君とは違って清廉潔白で紳士だから」
「えーひどい。私こそ淑女の権化みたいなもんでしょ」
 彼女は近くにあったポテトチップスの袋を勢いよく開けた。乾いた開封音が僕たちの間に走る。次いで炭酸飲料を勢いよくコップに注いだ。こぼれるギリギリまで入れるあたり彼女の性格が大きくでている。
「早速始めよう。まずは私からね……私の体重を当てて」
「それ質問じゃないじゃん」
「君が私にどれくらい興味があるか図りたかったの」
「nキログラム。nは60以上の自然数で」
「ぶっぶー。もっと真面目に答えてよ。数学の問題じゃないんだからさ。それに地味に体重重いって思ってるでしょ」
「君の体重なんて興味ないよ。恋人じゃあるまいし」
「今は恋人じゃん」
 彼女は楽しそうに恋人という言葉を口にする。
「それは部屋を譲るための口実で、僕は一瞬たりとも君を性愛の対象として認識してないよ」
 彼女は紙コップに飲み物を入れイッキ飲みをした。風呂上がりのオッサンがビールを飲みほした後の声を彼女も出す。
「質問ね。常陸君は好きな人いる? 現在進行形で」
「いない」
「君の好きな作家は? もちろん自分以外で」
「え! そんなんでいいの? 下着くらいは見せる覚悟だったのに」
「毎度ながら、僕の品位を下げる発言をしないでくれる」
「ごめん、ごめん。私の好きな作家は那須川翠石。独特な考え方が面白い」
「常陸君の好きな女性像は?」
「僕は人を見た目で判断しないよ」
「そういんじゃなくて、私みたいな美人好きだとか巨乳が好きだとか……ちなみに私はDだから」
「Dって何?」
「胸のサイズ」
「毎度ながら紳士である僕に性の教育をするのはやめてくれる」
「男子なら喜んでくれると思ったのに……つまんないの……で、君の好きな見た目は?」
 彼女は胸の話からいきなり転換してきた。僕は溜息を発言に混ぜながら答える。
「しいて言うなら静かで落ち着いた人がいいかな……君とは百八十度反対の……」
「それ私の前で言う! ちょっとショック」
「君の好きな場所は?」
「常陸君の横」
「……」
「常陸君はロングヘアー派? それともショートヘアー派?」
「どっちかっていうとショートヘアー派かな」
「君が目指したい理想の女性像は?」
「巨乳で落ち着いている人!」
「……」
「常陸君は初恋の人が今でも好き?」
「よく分からない。でも自分の気持ちに嘘だけは絶対につきたくない」
 何分ほど口を開けていただろうか。僕の喉は砂漠と化していた。喋ると喉が渇く事実を久しぶりに体感した。僕たちは最後の質問に入る。
「夜も遅いし最後ね」
 時刻は零時近くを指していた。列車は兵庫県を上っている最中だった。沿線の光はまだ起床していたが車内の大半は寝静まっていた。
「自殺しようと思ったことはないの?」
 一人ベッドで寝転がり、目をつぶっていたので寝たかと思ったが、彼女は淡々と語り始める。
 それはまるで事前に回答を考えていたかのように淡々と言った。
「病気って言われてから数週間は毎日思ったよ。親は私に対して過剰に神経質になるから余計にね。始めは知り合いに言おうと思ったけど、親みたいな態度を取られたら血液じゃなくて、私の心が先に死んじゃうと思ったからやめたの。こんなことを考えていたら自殺したいなんて馬鹿しい気持ちはなくなった。今は君と楽しい日々が過ごせているから自殺しようとは全く思わない」
「君は死ぬのが怖くないの?」
「初めは怖かったよ。もう目をあける事がないんだろうか。もう人の体温を感じる事ができないんじゃないか。そんな恐怖と戦う毎日だったの。でも人の死についての小説を書いている内に私の死はもしかしたら誰かのスタートラインを作れるんじゃないか思ってさ」
「スタートライン?」
「大半の人は病気になったら病気で死ぬ事を人生のゴール地点にしてると思うの。でももし私と同じ病気で苦しむ人がいて、私の死から病気の治療法が確立されるなら喜んで死を受け入れるよ。私は思い残す事は有るにはあるけど、私以上に人生を謳歌したい病気の人はたくさんいると思うの。だから私はそんな人たちに新たな羽ばたくためのスタートラインを提供するお手伝いができるのなら喜んで死を受け入れる。泣いても喚いても私の病気は治らない。だから今、私ができる精一杯を私はやるんだ。私の人生のゴールが他の人のスタートラインと繋がってほしいな」
「君はお人よしすぎるよ」
 彼女は体を重そうに引きずってベッドの上に再度寝転がる。両手を翼のように広げ、目を閉じている姿は美しい姿はとても大病を患っているとは到底思えなかった。そんな彼女の姿を一瞬見ると、まるでアイコンタクトしたかのように反応するがすぐ閉じる。
「……」
「……」
 彼女は少しの間を置いた後口を開く。僕と彼女は背中を合わせる。決してお互いは見ない。
「じゃあ、私の質問ね」
 ゆっくりと頷く。僕は背中で彼女の言葉を吸収する。
「もし……もし、私が『生きたい』。『生きて』常陸君と楽しい事をもっとしたいって言ったら君はどうするの」
 僕の時計は戻り、彼女が普通の女子高校生ではないことを再認識した。
 そうだ、彼女は病気なんだ。
 同時に僕は思う……。何で彼女が病気になったんだと……。
 彼女はこれから、卒業、大学、仕事、結婚……死と順調な人生を歩む計画だったと思う。しかし、そんな順風満帆の未来計画も大病という壁によって終わりを告げられたのであろう。もしかしたら、病気が人生の足枷として生きる意義を失ってしまったかもしれない。前世でも現世でも罪を犯しておらず、僕とは違ってただただ毎日を誠実に生きてきた彼女がなんで……。
 自分の中で、答えという答えを見つけることはできなかった。もし、僕の真実の答えを見つけてしまったら彼女を苦しめてしまう。僕の脳内では悪い未来だけが連鎖していく。
 僕は一言だけ彼女に返す。
「……ごめん……分からない……」
 静寂が走ることを覚悟していたが、彼女は僕の解答を滞りなく返す。
「常陸君もベッドで休みなさい」
 いつもなら反論していた僕だが、体が僕を自然とベッドに運んだ。彼女とは背を向け合った状態で一枚の布団を共有した。彼女の呼吸、心拍が背中を通して伝わってきたが、僕はそれどころじゃなかった。先ほどの彼女の質問を自然と考えてしまう自分がいた。
 目をつぶって寝ようと試みるが僕は眠ることができなかった。駅を通過するたびに目を彩る光が美しかった。



 翌日、目が覚める。翌日と言っても朝の二時近く。結局僕はその後、眠ってしまったらしい。普通なら時計の時刻を半開きの目で確認して再び眠りにつくのだが、響き渡る音が僕を起床へと追いやった。
 僕は重い体に鞭を打って音源を探る。
「常陸君起こしちゃった?」
 視界がぼやけて彼女の姿をはっきりと認識することができない。
 彼女は椅子に座りパソコンを打っていた。昨日の終わり方がああだったので僕は彼女と目が合わせずらかったが彼女は全く気にしていなかった。僕は平常心を装う。
「こんな早くから何してるの?」
「寝られなかったから小説を書いてたの。君と一緒でドキドキしたから」
 彼女は片手を椅子の背に回す。
「毎度ながら、僕の品位を下げる言動は慎んでくれない」
 テーブルの上には最新機種のノートパソコンがあった。彼女のタイピングは一定のリズムを刻む。近くに寄って見てみるとものすごい勢いで手が動いており、画面には次々と変換される文字たちが規則正しく整列していた。
「何の話を書いてるの?」
 画面の文字だけでは到底判断できないので疑問を投げかける。僕の予想は恋愛小説だ。
「遺作を書いてるの。遺作の名前は『君は僕を染め輝かす』。私のような不治の病に侵された少女が恋をする話なの」
 遺作という言葉が彼女の死を結び付けてしまう。彼女はもうすぐ死んでしまうのか。
 予想は的中していた。私のようなという何気ない発言に引っかかった。まさか僕の事を書いているのか? と考えるがそれをかき消すかのように彼女が口を開く。
「今、半分ぐらい書いたとこなの……死ぬまでに書き切れるかな」
 ふと、彼女の手が止まる。何かを思い出したかのように立ち上がる。机の横に無造作におかれている菓子とペットボトルを持って廊下に向かう。
「常陸君ロビー行こうよ。今の時間は誰もいないからさ……」
 僕は眠りたいという欲求に逆らい彼女の後に続く。
「うん。分かった」
 僕は短い言葉で返した。
 僕は乱れた服装を整え、部屋には常夜灯だけを残す。小さな階段を下る。
 ロビーに向かう途中、大きな窓を眺めながら歩くとそこには見慣れた光景が広がっていた。時刻的にも地元、大垣付近を走行しているということを念頭に置きながら景色にひたる。
 彼女が夜中にも関わらず僕を促すための迷惑な音量の声を発したていたが、注意する気力に睡眠不足は勝らなかった。
 体が慣れてきたのか目的地であるロビーに到着するころにはだるさや疲労は過去のものへと変貌していた。
 彼女の言った通りに周りには誰もおらず閑散としていた。ただひたすらに鳴り響くモーター音が僕たちの会話を疎遠した。
「常陸君は小学二年生の時のこの時間くらいに初恋の女の子と出会ったんだよね」
「そうだけど……」
 少し暗い表情の彼女。その表情を町の明かりがスポットライトとして照らす。
「何か思い出せない?」
 彼女は何かを期待していた。僕はあたりを見回す。
 響き渡るモーター音。薄暗い光が灯るロビー。不気味な音を奏でる自販……僕は何も思い出せなかった。
 彼女は初恋の記憶を僕に求めているのだろうか?僕は曖昧な返事で初恋のことは隠す。僕は素直じゃない。
「別に何も……」
 会話は硬直した。駅中の蛍光灯が僕たちの髪を光らせる。
 僕たちは列車が左右に大きく揺れたため、僕が彼女に対して壁ドンをする形となってしまった。僕も彼女も決して離れようとはしなかった。
「実は私、君に言わなければいけないことがあるの……」
「え!」
 突然、彼女の透き通った声が鼓膜をゆすったので、僕は動揺を口で表現してしまった。彼女は大きく息を吸う。
「私と常陸君は……」
 この後の文は、モーターの音とすれ違った貨物列車の通過音によって僕には届かなかった。
 僕は迷った。内容をもう一度聞くかどうか……。
 しかし、僕は内に秘めた。聞きたいという希望を意志として表に出すことはなかった。きっと彼女も届いてなかったのを分かっているのだろう。もし聞いたらこれからの彼女との関係という名の歯車が大きく狂ってしまう予感がして怖かった。
「ごめんね、こんな夜に呼び出して……」
 彼女は僕に背中を向けて一人で部屋へと戻った。彼女の瞳には涙が確認できた。瞳から滴る涙は一粒だったが大きく美しかった。
 僕が何か彼女の機嫌を損ねる行為をしてしまったのかと原因を究明する。結果、さっきの聞き逃しなんじゃないかと推測するが、正解かは不明だった。今になって聞けばよかったと後悔する自分もいた。
 僕は息を殺しながら部屋に戻った。彼女とは背中合わせでの形となり、一夜を明かした。



 僕は彼女よりも早く起きた。昨日から開けっ放しのブラインドからは美しい朝日が確認できた。僕は歯を磨いたりするために洗面所へと向かう。部屋の中にもあったのだが広い空間と車内散策を求めてあえて出る。朝早くということもあり、人口密度は低かった。
 部屋に戻ると彼女は着替えをしていた。彼女は下着しか着ていない無防備な格好をしていた。「変態」と言われて部屋の前で待機させられた。その後、僕はしつこく「常陸君のせいでお嫁に行けない」と言われたため、僕は冗談で「僕がもらってあげるよ」と言った。彼女は意外と本気にしていたらしく、顔を赤色に染めていた。
 七時八分に定刻通りに列車は東京駅に滑り込んだ。その日は彼女の希望で特異な観光をした。
 渋谷のスクランブル交差点に行ったり、山手線で時間をつぶしたりと東京タワーや浅草寺を訪れるなどの一般人が行うような観光は一切行わなかった。
 今朝のことが引き金になったのか、朝は会話という会話は交わさなかったが、時が経つにつれて互いの本心を吐き出しながら話をした。帰りの新幹線の中では思い出話に花を咲かせた。
 そして、今回の観光中に二つの事件に遭遇した。
 一つ目は迷子になったことだ。彼女の先を行く行動で、はぐれてしまったが、携帯を駆使してなんとか合流することができた。僕はこの時、現代文明の発達のありがたさを思い知った。
 二つ目はというと……思い出したくもない……。
 寝台列車が定刻通りに東京駅に着き、彼女が通勤客の苦労も考えずに「楽しかった」といったのが原因だった。通勤客の一部はこちらに目を合わせ、彼女は平謝りをした。その中に彼がいた。
 彼とはクラスメイトであり、僕を線路に突き落とそうとした人物。西川優だった。彼は鋭い目つきでこちらを見てきたが、すぐに去っていった。もちろん能天気な彼女は気が付いていない。
「あ~楽しかった」
 車内販売で買ったアイスを平らげながら彼女は呟いた。色々なことがあったが素直に楽しかったので僕は同情する。
「うん。僕も楽しかったよ。君についてきて正解だったかな」
 僕たちは名古屋で新幹線を下りた後、彼女の要望で特急列車のグリーン車で帰ることとなった。大垣で下車し、駅前の広場で解散となった。
「今までありがとう」
 彼女の言葉に反応するとことなく、無言で背中を見た。



 とある夏休み終盤の夜、彼女から着信があった。この日は半袖で過ごすには少し肌寒い夜風が吹いていた。眩し過ぎる満月の光は庭の木々たちさえもはっきり確認できるほど明るかった。そんな僕は自宅のベランダで満月のクレーターを数えていた。
 彼女からの電話を親からの電話のようにぞんざいに扱う。
「ねぇ、常陸君。運命の人って二人いるらしいよ」
 彼女は映画のラストシーンのようなくさいセリフを言った。
「一人は失恋の辛さを教えてくれる人、もう一人は不変の愛を教えてくれる人」
 僕は彼女の発言の意図が理解できなかった。
「このセリフは私のお気に入りの少女漫画のセリフなんだよね。私の場合前者は経験済みだから、死ぬまでに後者を教えてくれる人現れないかなって! 病弱な乙女の願いなのです!」
「生憎だけど、恋愛の相談を僕にするだけ電話料金の無駄だと思うよ」
 彼女は僕の合理的な発言に笑った。
 会話が途切れた。僕は意識を月にむける。
「常陸君、今日は満月だね。見てる?」
 彼女が天体に興味があるとは意外だった。
 僕の行動を間近で見てるような問いかけだった。
「ちょうどクレーターの数を数えてたところだよ」
「何その変な趣味!」
 彼女は電話越しに笑い声を弾ませた。
 38万キロ離れた月を同じ地球上で見てると思うととても近いことのように感じた。
「月がきれいだね」
 僕は賛成する。
「確かにきれいだな。僕たちが生まれる前からきっときれいだったんだろうな。これからもずっと見ていたい気分だよ」
 心の中に浮かんだ月への感想を僕は並べた。
 気がつくと電話は切れていた。
 挨拶もせずに切るなんて、なんとも失礼なやつだ。
 僕は読みかけの推理小説の続きを読むことにした。



 新学期が始まり担任からは衝撃の事実が告げられた。その一言で僕は彼女のぎこちなさの正体を知った。
「一ノ瀬来夏さんは入院しました」
 この時の彼女の血液はすでに青を含んだ色になっていた。これは七月三十日まであと十ヶ月を切っていることを意味していた。

 彼女が死ぬまであと十ヶ月……。
新学期初日の放課後、僕は雨が降っているにも関わらず彼女が入院している病院に足を運んだ。僕は学校の帰り道の途中に病院があるということを口実に行った。
 どこの病院に入院しているかは彼女からの希望でクラスメイトたちに伝えられることはなかったが、僕は彼女の本当の病気を伝えたくないという意思を知っていたため納得していた。きっと伝えたとしても彼女を心配して来院するクラスメイトなどいないだろう。病院名は覚えていたため困ることはなかった。
 新学期早々に担任から彼女の入院を知らせた際に動揺しているクラスメイトは僕の知る限り一人としていなかった。話を真剣に聞く様子もなくただただ時間が経過を願っているように見えた。これが彼女の演じ続けたクラスの空気という役割の結果だろう。空気である彼女になんて興味がない。突如として彼女が死んでもクラスメイトは誰も悲しまない。泣かない。僕はそう感じた。
 僕は病院の受け付けで彼女の名前を言って、病室を確認する。
 彼女の名前を言う際、下の名前を忘れてしまったが記憶を辿って思い出す。
 部屋の番号を書いた紙をもらい、エレベーターと地図を駆使しながら病室へと向かう。
 病室の入り口付近のプレートには「一ノ瀬来夏様」と大ぶりの筆で明記されていた。僕はドアに手をかけ、走りによって乱れた息を整える。
 鼓動が早い。彼女に会えることに緊張しているからではない。きっとこれは走りによって乱れた心臓のせいだろう。いやきっとそうだ。
 何を話そうか? どんな顔をすればよいのか? 学校の話はしない方がいい? 
 小さな脳をフル回転させ、最良策を探し出す。
 大きく息を吸って再度呼吸を整える。ドアを右にスライドさせようとしたとき、中から話し声が聞こえてきたので一旦力を抜く。
 僕は声の正体を探ろうとドアに耳をあてて盗聴する。本来なら決してしてはならない行為だが、興味本位という言い方が正しいだろうか……興味本位で耳を傾け、全神経を聴力にそそぐ。
「来夏! 俺と付き合てくれ!」
 病室中に響き渡っている声は水紋のように空気を揺らし、ドア越しの僕にも鮮明に伝わる。聞こえてきた力強く活力のある僕とは正反対の声の持ち主は顔を見なくても分かった。
 病室に沈黙の時間が数瞬だけ流れる。
「西川君、ごめんね。私はあなたとは付き合えない」
 何故だろうか、僕はホッとした気持ちで満ちる。いつも通りの明るい彼女の声を聞くことができたからだろうか……いや、違う。僕は自分の心の内を認めなくなかった。
「何で理由は?」
 彼は彼女に問い詰めた。この疑問の答えは僕も知りたかった。
 女子の恋愛観はわからなかったが、イケメン、秀才、運動神経抜群と三拍子そろった彼の何がダメなのか……。
「実は私、好きな人がいるの……」
 彼女は声量を縮めて話した。
「誰? もしかして……か?」
 彼の発言は近くを通った子供たちの高らかな声によってかき消された。僕は知りたくない良心よりも知りたい本心が勝っていた。もう認めざるを得ない……僕は彼女のことが……。
「あなたの言った通り、私は彼のことが好き。自己を見つめて私の日常に色を与えてくれる彼が好き。まぁ私に全然興味を持ってくれないけどね」
 彼女の声は弾んでいた。表情が確認できない分を想像力で補う。
「返事を聞けただけで俺は嬉しいよ」
 彼は心なしの言葉を残した。彼の足音がだんだん大きくなり最高潮に達した時に、すでにドアは開いていた。彼は少し困惑した表情を見せるものの、持ち前の冷静さを発揮して動揺することなくドアを優しく閉める。
「相模原、ちょっと来い」
 病室内の彼女に配慮したのか、彼は控えめに話す。
 殺されるのを覚悟に彼に促されるまま自動販売機コーナーに向かう。自動販売機から少しか弱く放たれるLEDが僕たちの影を作る。近くのキッズコーナーには入院着を着た幼い子供が積み木をしていた。僕の心とは反対に朗らかな光景だった。
 僕と彼はどちらともお茶を購入する。彼と会話したくないため敢えてお釣りが出るように千円札をいれ、ゆっくりとお釣りを取る。僕たちは年季の入ったベンチに臀部を付ける。
 ペットボトルのカッチという音を合図に、彼が膝に肘を当てながら話し始める。
「さっきの話どこから聞いてた?」
 さっきの話とは病室での事だろうか? 
 正直、告白の場面は聞いてなかったと言うつもりだったが、良心がそれを拒み、本当のことを言う。ここでの嘘はご法度だ。
「……告白の所から……」
 「忘れろ!」とか「誰にも言うじゃないねえよ」などの命令が彼から下ると覚悟していたが、その選は大きく外れた。
 彼は静かに空気を震わせる。
「実は来夏に告白する前に衝撃のことを俺は知ってしまった。そのことを俺以外に知っている人はいるかって来夏に聞いたんだ……。そしたら家族以外の名前で……相模原……お前の名前が来夏の口から出てきたんだよ」
「そのことって何?」
 大体は予想がついていた。家族以外で僕だけが知っている衝撃の事実。そのほかの解答を模索するが見つからなかった。見つかるわけなかった。
「来夏が七色病ってことだ」
 「大正解」と彼女なら高らかな声で言うだろう。でも、彼女の死期が近づいてきていることを知らせるこの言葉を正解しても、とてもじゃないがいい気分にはなれなかった。
 何故彼は彼女の病気について知っているのだ? 
 そんな疑問が頭の中をよぎった。もちろん彼女が自発的に言うはずない。
「俺が病室に入る前に医者と来夏が話しているのを聞いてしまったんだよ。『来夏さん、延命治療を頑張ってきましたが、あなたは来年の夏を迎えられないかもしれません』って。俺は真実か冗談か確かめたいという一心から病室に入ってしまったんだよ。それから来夏は話してくれたよ。病気だってこと、学年全体に流れている前向性健忘は嘘だってこと、そして……余命が少ないこと……『家族以外で病気の事を知っているのは常陸君だけ』って。その時、何で相模原なんだよって思ったよ」
 彼は僕に対する怒りからかペットボトルを握りつぶした。ペットボトルは乾いた音を立て、原型をとどめていなかった。
 自分の心臓を掴まれているようで痛い……。
「何で俺じゃなくてお前が知っているんだよって一瞬恨んだよ。でも来夏は自分が病気の事実を勝手に押し付けたことや、自分の独断で彼を巻き込んでしまったって泣きながらお前に謝っていたよ『常陸君、ごめん』って。俺はその悔しさや怒りのあまりに告白してしまったんだけどあっけなくふられちゃたんだよ」
 彼はすべて語り終えた表情を浮かべ、天井を仰ぐ。僕は何もコメントせず、ただただ情けなく下を向いている。
「ふられた俺は思った。俺が逆立ちして努力しても来夏は喜んでくれない。俺が来夏のそばにいるよりも、お前がそばにいた方が彼女は笑って余生を生きることができる」
 彼の声には涙が混じっていた。
 きっと彼は本心からこの言葉を言っているんだ。きっと自分の彼女への想いが叶わなかったのが悔しくてそれを隠すのに精一杯で、でも彼女の本当の幸せのために彼女の言葉を代弁しているんだ。
 そして、彼は僕の肩を掴む。肩から感じた痛みは彼なりのエールにかんじた。
 彼は頭と膝を床にこすりつける。世間ではこれを土下座というらしい。
 周りを通る人達が不信がって見ていたが、今はそれどころではない。
 彼は土下座をしながら、僕に頼みごとをする。他人の額をこすりつけた姿を見るのはあまりいい気がしなかった。
「今までのことは本当に悪かった。どうか、来夏のために、一ノ瀬来夏のために……相模原常陸が一ノ瀬来夏のそばにいてあげてください」
 どう答えればいいんだ。「はい」や「分かりました」などは違う気がする……。
 僕は無言で首を振った。それが果たして縦に振ったのか横に振ったのかは自分でもわからなかった。そして僕は彼の発言で自分の認めたくない彼女への気持ちを認識した。
 ……人間関係に興味がなかった僕がこんな気持ちを抱くなんて……。
 彼に「ありがとう」、そう一言だけ言った。
 余計な言葉は不要な気だ。
 彼女の病室に向かう途中、さっきまで廊下を照らしていた蛍光灯は息をひそめるかのように消えていた。
 彼の話の影響だろうか。ドアに手をかけた瞬間、心拍数が速まる。
 そっと自分の心臓、そして血管に手を当てる。血液が正常に流れているかは不明だったが、心臓は一定のリズムを刻んでいた。
 僕はドアを開ける。そこにはカーテンによって一応個人の空間が確保されていた。どこに彼女がいるかは目では確認できなかったが、キーボードを勢いよくはじく音が音源となる場所に向かう。
 静かにカーテンを開ける。
「常陸君来てくれたんだ。君がわざわざ自分の時間を割いてまで来るなんて、なんか変な物でも食べた?」
 彼女はいつもの冗談を交わす。僕はルーティンである彼女の話に付き合う。 
「僕は自分の意志できたんだよ。それと僕の今日の昼食はクロワッサンとサンドイッチだよ」
「クロワッサンとサンドイッチなんて常陸君にしてはおしゃれな昼食取ってるじゃん」
「僕は健全な日本男児だけど、米よりも小麦派なんだ。そういう君の昼食は?」
「病院食。味が薄くて食べた気がしないよ。私の肉は焼肉とキンキンに冷えたビールを欲しているというのに」
「君は昭和のおっさんなのかな。それに未成年だからビールの味なんて知らないでしょ」
「その言い方だと常陸君は飲んだことあるみたいだけど」
「断固として飲んでないよ。この歳で豚箱いきだなんてごめんだよ」
 彼女はノートパソコンを閉じる。
「また、小説書いてたの?」
「基本的に病院で出来ることって限られてるじゃん。私はあと何日こうやって元気に小説を書けるかわからないから、やれることはやれるうちに全部やっておこうと思って……もしかしたら小説の登場人物みたいに何の前触れもなくパタンと死ぬかもしれないからさ」
「縁起の悪いこと言うのはやめてもらえる。そういうのはだいたいフラグになるんだからさ」
「その辺は安心して。私は来年の五月下旬までは生きれるから」
 僕は辺りを見回す。彼女の体には点滴や医療機械の管が何本も突き刺さていた。
 時間は有限。人が都合よく時間の価値を表すのに用いる言葉の本質を本当意味で理解する。
「ちょっとお腹が痛くて病院に行ったら入院しなければいけないことになっちゃって……いや~こんな大事になるなんて思わなかったよ」
 彼女はいつも通りの元気を貫いているが、その表情はぎこちなかった。辞書によっている言葉を借りるなら作り笑いだった。
 辺りにそびえたつ医療機器の数々は彼女の病の重さを表していた。
 点滴の雫の音が静かに、深く、透明に響く。
 僕は彼女に嘘をつく。
「よかったよ……元気そうで……君は元気と小説しか取り柄がないからね」
「もうー、褒められているのに褒められた気がしない」
 少し機嫌を損ねたのか、彼女は頬を膨らます。
 僕が空気を繕っているとそこへ看護師が入ってきた。三十代くらいの中肉中背の女性看護師だった。左胸には「橋本」と書かれた年季の入ったプレートが光を反射していた。
「一ノ瀬さん、今日は彼氏が来てくれたのかしら」
 彼女の顔はさっきよりも濃い赤色に染まっていた。僕は彼女と恋人関係でないので言われてもなんとも思わない。しかし、彼女は過剰な反応を見せる。
「彼氏じゃないです……ただの……」
 自分の気持ちに嘘はつきたくない……。だけど……。
「(病気を知っている)クラスメイトです」
 彼女は早口かつ簡潔に僕の紹介をする。「彼氏じゃない」にはかなりの熱がこもっていた。橋本さんはというと納得のいかない表情を浮かべながら、医療機器を操作している。
「彼氏じゃないんだ。蛇足だけど一ノ瀬さんはいつも君の話をしているよ」
「ちょっと、橋本さん。その話は絶対にしないでって約束したじゃん」
 彼女の方に目を向けると、反発し合う磁石ように彼女は目を背けた。僕の態度が気に食わなかったのか、彼女は枕を投げる。僕はぎりぎりで受け止め、身を守る。
 それから橋本さんは思い出したかのように彼女に言った。
「大事な検査があるから遅れたらダメだよ。また迎えに来るからそれまでなら彼氏といちゃいちゃしててもいいよ」
「だから彼氏じゃないって」
 橋本さんは病室を後にする。
 僕は外の明るさと時計を確認する。腰を浮かし帰る準備をしていると、彼女が阻むかのように僕の左手を掴む。
 手から感じる彼女の脈はとても速く、呼吸も早い気がした。彼女は呼吸の合間を縫って
「待って」
 とささやく。
 表情、荒い息使いから何か重要なことが起こると確信する。
「どうしたの?」
 僕の方から口を開く。彼女は左手を掴んだままだった
「実はね。私……」
 僕は立たずをのむ。
「常陸君のことが……」
 この後の文を風が邪魔した。目の前は風によって大きく揺れたカーテンが横切る。時折、カーテンの隙間から覗える彼女の表情はいつもと違う気がした。
「それと私、常陸君に隠していたことがあるの……」
 鼓動が高まる。彼女の脈もまた上昇しているのが伝わってきた。
「私ね、病状が……」
「一ノ瀬さん検査に行くよ」
 橋本さんの彼女を呼ぶ声が脳に伝わり、とっさに振り返ってしまう。僕は彼女に聞こうと試みるが、彼女を検査に促す橋本さんの声に負けてしまった。
 僕は「彼女はこれから検査がある」という口実のもと、病室を後にする。
 廊下を歩きながら左手をふと見つめる。右手とは異なる量の汗が走っていた。
 帰り際、僕は彼女が入院している階のナースステーションに立ち寄る。彼女がさっき言いかけていた「病状が……」の続き。その真相が確かめられるかもしれないという謎の期待感を胸に聞く。
「一ノ瀬来夏さんの病状について教えてくれませんか?」
「申し訳ございませんが、一ノ瀬さんとはどういったご関係ですか?」
「関係ですか……」
 関係。 
「ただの(病気をしっている)クラスメイトです」
 自分の回答になぜだかスッキリしない……。
「申し訳ございませんが、ご家族の方以外はお伝えできない義務となっているので」
「分かりました」
 看護師は一度頭を下げた。何も非がないのに下げた頭を見るのはあまり気持ちが良いものではなかった。
 個人情報管理のために言わないのは当然の選択だと思う。もし、恋人関係を装ったら教えてもらえるかもしれないと卑劣な考えを持つ自分がいた。
 病院の外に出ると来た時とは比べ物にならないくらい外はオレンジ色に染まっていた。
 僕は夕日に向かってゆっくりと自転車をこいだ。



 翌日、窓から差し込む光が僕を起床へと誘う。
 初秋ということもあり、エアコンをつけてない部屋は朝日によって蒸しあがっていた。
 いつも通りに歯を磨き、いつも通りに朝食をとり、いつも通りに母の仏壇に線香をあげて家を出る。「いってきます」は言わない。
 通学の途中で昨日のことを考えてしまう。
 僕と彼女はどんな関係なんだ?
 今までの僕だったら人間関係なんて興味すらなかった。他人のことを考えてしまう自分が不思議だった。
 昨日の彼女や西川の残像が鮮明によみがえる。
 今日も病室に行こう。そして昨日の事を聞こう。
 一日の目標を掲げ、僕は自転車のペダルに力を入れて学校を目指した。
 希望を持って学校に行ったのはいつぶりだろうか……。

 教室に入ると同時にクラスメイトである男子が僕と彼女の関係について聞いてきた。
「同じ文学部みたいだけど、相模原って一ノ瀬の彼氏なの?」
 空気を演じている僕たち二人の関係でさえ興味があるとは、やはり一般高校生というのは恋愛に飢えているらしい。
 僕は心底面倒くさかったので否定し続けたが、学習をしない動物のようにしつこく聞いてきた。
 そんな僕の困った状況を助けてくれたのは彼だった。
「相模原が困ってるだろ! 少しは相模原の気持ちも考えろよな」
「優、お前は知りたく……」
「もう一回言う、これ以上この話に干渉するな」
 彼の顔に恐怖を感じたのかクラスメイトは立ち去って行った。
 僕は彼にお礼の言葉を素直に言う。
「助けてくれてありがと……」
「勘違いするなよ。俺はお前のためじゃなくて、来夏の名誉を守るために行動したんだからな」
 空気の彼女でも僕と付き合っているというレッテルを貼られるのを彼は避けたいらしい。
 僕は素直にお礼を告げる。
「それでも、ありがとう……その……」
 僕は心に秘めたお願いを彼に伝える。
「……困ったら相談してもいいかな……」
「もちろんだ。困ったことがあったらいつでも俺に相談してくれ」
 彼はクールに去っていった。



 放課後、僕は一直線に彼女の元へと向かった。
 まだ日は長く、昼と変わらないぐらいの明るさが影を作った。
 僕は風を感じながら考える。
 今日は何を話そうか? 差し入れは何がいい?
 この時の僕の脳内には通学時に考えた「昨日の事を聞く」という発想は消えていた。
 独特の消毒液が香る病院の廊下を早足で歩く。
 僕は病室の前で止まる。今までは何とも思わなかったのに、いざ病室に入ろうとすると鼓動が高まる。
 白状する。彼女のことをただの(病気を知っている)クラスメイトではなく、僕は……。
 緊張していたからか、僕はノックもせずにドアを勢いよくスライドさせる。
 廊下とは異なる良い臭いが鼻を刺激した。
 僕はこれまた許可をとらずに彼女のプライベート空間の仕切りとなっているカーテンを開ける。僕は彼女の方を見ずに悠々と喋り始める。この時の僕は今、目の前でどんな光景が繰り広げられているかを知る由もなかった。
「きゃ!」
 彼女の声が室内、いや廊下までも響き渡った。何かあったのかと思いながらも視点を壁から彼女に移す。
 そこには、赤くなった彼女の顔と上半身裸の色白い背中が広がっていた。さらにその背中をタオルでふいている橋本さんの姿も確認できた。
 僕はこういう経験が乏しいため状況をすぐに理解できなかった。
「変態!!!!!!!!!!」
 先ほどとは正反対の彼女の怒号が室内を満たす。目元には彼女が投げたであろう枕が視界を暗くした。僕は自分の過ちをようやく知る。
 (上半身裸で背中を見せている女子高校生)×(背中をふいている女性看護師+男が許可なしに覗く)=『僕はすぐさま退室』という見事な式が頭の中で完成した。僕は式の解を確認し、自分の取るべき行動を実施する。その行動とは退室だ。
 僕は廊下のベンチで自分が犯してしまった「のぞき」という罪について猛省する。
 五分後、タオルと洗面器を持った橋本さんが笑って出てきた。
 僕は思わず頭を下げる。
「彼氏君、さっきは災難だったね。男からするとラッキースケベな状況かな」
「僕は決してラブコメの主人公的な展開は求めてませんって」
 橋本さんの冷やかしに僕は冗談と言う武器で戦う。
「君が来てくれて本当によかったよ」
「え!」
 思わず動揺してしまう。
 橋本さんの声からもさっきの冷やかしの延長線ではなく、真面目なのもだというのがひしひしと伝わってきた。
 僕たちの視線はドアの正面の壁に飾られている絵に向けられた。絵の少女は泣いていた。
「実は一ノ瀬さん、最近元気がなかったんだよね。彼女が入院した時から私が担当してきたんだけど、昔の彼女は元気がなかったの。でも、君の話をしている最近は本当に楽しそう。まるで病気が治ったみたいな顔をしているから私は嬉しい。でも、彼女には時間がないの。悔しいけど、私や彼女の親じゃダメなんだ。そんな彼女を幸せに出来るのは地球上で君だけ。彼女は君を求めてる。病気になっても普段と何も変わりなく日常を与えてくれる君を。君は自分に何ができるか真剣に考えて。きっと彼女はどんな君でも受け入れてくれるから」
 僕は返す言葉を模索したが見つからなかった。形だけでもいいので否定したり、焦ったりしろと心が叫んでいたが、体が拒否していた。
 彼女との思い出が頭をかけ巡る。文学部で偶然出会ったこと、映画を見たこと、朝早く集まったこと、新幹線に乗ったこと、観光地を巡ったこと、夜景をサンライズ出雲から眺めたこと。
 そして、彼女が……『生きたい、生きて楽しいことをしたい』と言ったこと……。
 僕は我に返り、現実に戻る。
 気が付けば橋本さんは僕に対して呆れた顔をしていた。しかし、その顔は僕が彼女への過ちに気が付いたことに納得した顔だった。
「君は本当に鈍感だね」
 橋本さんは微笑みを交わした。
 僕はノックをして病室に入る。先ほどの猛省を生かし、カーテンの前でもう一度入室の許可をもらう。
 彼女は片耳だけイヤホンをして、パソコンを使っていた。会話をさっきの不祥事からそらそうと試みるが、彼女が先に話す。
「もー、さっきのは本当に恥ずかしかったんだから……もうお嫁にいけない」
「君はきっと素敵なフィアンセが将来見つかると思うから安心してもいいと思うよ」
「それって、遠回しに常陸君が結婚してくれるってこと?」
「君の耳には変な変換器でも付いているの。僕は君くらいうるさくても綺麗な人だから、拾ってくれる男が全世界に一人はいると思うよって慰めてあげてたのに」
「その一人が常陸君では?」
「はいはい。そういうことにしといていいよ」
 彼女はウソ泣きを演じる。それから、彼女は身を布団で隠す。何に対して悲しんでいるのかわからないが僕は謝辞する。
「ごめん」
 彼女に言うと「冗談だって~」といい、彼女は笑った。
 彼女の笑顔を見て安心すると同時に、橋本さんの言葉がよぎる。「君しかいないんだと」と。
「話戻すけどさっき死ぬかと思ったよ」
 彼女は布団から顔を出し、僕と目を合わせる。
「え! 何で?」
「君が私の裸を覗いたことだよ。血液じゃなくて心臓が止まって死ぬかと思ったよ」
「僕はわざというか、狙って入っていないということを理解してほしいな」
 彼女は外を見つめる。木は淡い紅色だった。少し弱めの夕日が彼女を照らす。僕はそんな彼女をみる。
 彼女は大きく息を吸って吐く。
「常陸君は私のことをどう思っている?」
 突然だった。
「それってどういう意味で?」
 単純な疑問だった。人としてなのか、クラスメイトとしてなのか、それとも……。
「そうだね……」
 彼女は近くのテーブルに指でリズムを刻む。
「じゃあ、女の子として私のことをどう思う?」
 目が自然と合う。そんな彼女の瞳はいつも以上に透き通っていた。
 僕は迷っていた。正直に自分の信念を貫くべきか、余生少ない彼女のために嘘をつくべきかどうかを……。
 嘘をつきたくない自分も、誤魔化したい自分もいた。ここでの僕の発言がこれからの関係を大きく左右してしまう、そんなことは頭で考えなくてもわかっていた。わかっていたからこそ迷った。
 ……決めた……。
 僕は腹を括る。
 彼女は決して僕の内に秘めた思いを知らない。
「君のことはいいと思っているよ……人としても……」
 ゆっくりと呼吸を挟む。
「……女の子としても……」
 彼女は手で顔を覆って、髪を左右に勢いよくふる。
「自分から聞いといてあれだけど顔から火が出るほど恥ずかしいよ」
 彼女の顔は言葉通り赤かった。僕はこの時、彼女に熱があるとは全く知らなかった。
「さっき常陸君さぁ~私のことを女の子としていいって言ってくれたけどさ……」
 彼女は一拍おく。次の発言を彼女がした瞬間、僕の心臓は大きく跳ね上がり掴まれた感覚に陥った。
「それって私のことが好きって意味?」
 前の僕なら、彼女の意見を聞いて「前言撤回」と風発していたであろう。
 しかし、不思議とそんな感情は湧かなかった。信念を貫いた意見だったからだろうか、嘘をついていないからだったのか、それは自分にも分からないし、このさい分からなくてもいい。
 僕は真剣に考えた。異性から「好きなの?」と聞かれたことはあまり重要視していなかった。
 なぜらな、僕の心の中では次に言う意見を試行錯誤することで頭が一杯だからだ。僕は確信する。この時間が僕たちの関係、未来を決定する分岐点になると……。
「僕は多分、君のことが女の子として……その……好意を抱いているんだと思う……」
 僕は本心のまま口を開く。決して後悔をしないようにありのままに伝えた。恥ずかしさは全くなかった。彼女は笑わずに朗らかな笑みを交わす。
「好きになった理由は単純だと思う。君は自分の長所や短所を認め、他人が楽しんでいるときは一緒に楽しみ、悲しんでいるときは一緒に悲しめる。どんな相手だろうと信念を曲げることなく、優しく手を差し伸べることができる。そんな君の言動が憧れから好きに変わった。ちょっと、非常識で恥ずかしい言動をしている時もあるけど、その裏には他人を喜ばせたい気持ちや元気を分け与えたい心があったんじゃないかな。百八十度反対な君を好きになるなんてありえないはずだった。でも、君はどんな人でも……僕のような根暗で協調性の欠片もなく、イケメンでもない人にでも嫌な顔一つせずに接してくれる。そんな君に僕は真率に惚れたんだ……君の良さや弱さは世界で僕が一番知っているつもりだ!……だからと言っては何だが僕と……相模原常陸と付き合ってくれませんか!」
 彼女の表情を確認する。
 僕はびっくりした表情を予想していたのだが違った。彼女は大きな瞳から大粒の涙を流していた。
「ありがとう。私も常陸君が好き……実はずっと君を探していたんだよ」
「ずっと? それっていつから?」
「それは秘密。私が常陸君を好きなのは墓場まで持っていくつもりだった。好きな気持ちを隠して君と接しようと思ったんだけど、そんなことしたら私の心は張り裂けちゃうよ」
「それっていい意味で?」
 僕は笑って問いかけた。彼女は笑顔でこたえる。
「もちろん。すごくいい意味で」
 僕たちは笑った。人目を気にせずに笑った。心の底から彼女と笑ったのは何日ぶりだろうか?
「常陸君、新しい薬が欲しいの。お願いしてもいい?」
 僕は彼女の発言の意味を探らずに行動に移す。
「じゃあ、看護師さんに頼んでくるよ……」
 僕がナースステーションに行こうと足を動かし始めた時、彼女は僕の腕を掴んできた。
「待って」
 彼女の顔はさっきよりも赤く、少しばかりの息切れもあった。
「その……欲しい薬は君なの……」
「え!」
 すると、彼女は手招きをした。僕は彼女に近寄った状態になった。この時の僕は千変万化する情報の整理に脳を使っており、彼女の意見の意図を探るどころではなかった。
彼女は大きく腕を広げる。
 そして、次の瞬間、彼女は僕に抱きついた。彼女の体が障害となり光を失う。僕は困惑したが、熱い体温を顔から感じ、その行為を理解する。
「これはハグだよ。今の私にとって何よりも効く薬。これも死ぬまでにやりたい事の一つ、『好きな人とハグをする』だよ」
 僕は何も抵抗をしなかった。
 一分ぐらいたっただろうか。僕は彼女の腕から解放された。僕たちは恥ずかしながらも目を合わせる。人生で初めて経験した『ハグ』という行為がこんなにも気持ちよく、終わると恥ずかしいなんて思わなかった。
 最高に幸せだった。好きな人と体を寄せ合い、体温を分け合えることがこんなにも嬉しさに満ち溢れるだなんて……彼女に恋してよかった。
「常陸君からも……って……きゃー!!」
 僕は彼女から求められる前に自分からハグをした。見よう見まねの行為はどこか不格好でぎこちなかったが、そんなのはどうでもよかった。
 僕は数分経ってから腕を放す。五感のすべてが彼女に持っていかれた気がした。
 彼女の顔はとても赤かった。
「まさか常陸君からしてくれるなんて」
 彼女は顔に両手を当てながら左右に揺れる。それから枕を抱えたりしながら恥ずかしさを体現していた。僕はそんな彼女を無言で見つめた。
 それから、彼女は我に返ったかのように姿勢を正す。彼女の顔が赤いままなのが気になった。
「実はね……常陸君に言わなければいけないことがあるの」
 僕はごくりと一回のみ、下を向いていた視線の狙いを透き通った彼女の瞳にあわせようとする。
 しかし、彼女の姿はベッド上になかった。目を見開く。
 僕の脳には「死」の文字が浮かび、母が死んだことが脳裏を占めた。僕は必死に彼女を探した。
 彼女はどこにいるんだ……まさかこんな形の別れとかないよね。
 とある日になんの前触れもなく母を亡くした僕は突然死に対して異常なまでの恐怖心を抱いていた。彼女には約束された余命があと十ヶ月ある。その事実に慢心していた僕は彼女との日々を大切にできていないことに気がついた。
 もし今日彼女が死んだら僕はきっと立ち直れない……ようやくお互いの気持ちを知れたというのに……。
 彼女は床に倒れていた。とても苦しそうに心臓を抑え、「助けて……常陸君……お願い」と掠れた声で言っていた。言葉の合間から漏れる荒い呼吸はまるで彼女の体が生死の瀬戸際で病気と戦っているようだった。
 僕は壁にあるナースコールを勢いよく押す。焦りと不安から何回も強く押し続ける。
 頼む。頼むからここで死なないで。僕はもっと君に生きてほしい……。
 僕は助けが来るまでの間に自分に出来ることはないかと冷静に考える。保健体育の授業で習った人工呼吸、心肺蘇生、AEDなどが使えないかと戸惑っていたら、大きな声で橋本さんが駆けつけてきた。
「どうしたの、大丈夫!」
 橋本さんは彼女に問いかける。しかし、呼吸音はするものの言葉による反応はない。その光景が僕の脳に彼女の死んだ姿を映し出してしまう。大雨の中、葬式上で彼女の遺影と共に添えられている花。冷たくなった彼女の遺体が入った棺桶。線香の匂い、お経と共に響く一定の音程を刻む木魚の音、葬式独特の空気感までもが僕の脳を占めてしまう。。
 挙動不審な僕に橋本さんは「邪魔だから病室の外に出てなさい!」ときつい口調で言った。反抗しようとしたが、自分の無力さに従いざるをえなかった。
 僕は重い足を引きずりながら、外の椅子に腰かけた。ただただ空虚だった。
 彼女の病室にはたくさんの看護師や医師、見た事も無い医療機器が次々と運ばれていく。
中からは彼女の容態や伝える看護師の声や、機械の操作を促す男性医師の大きな声が聞こえてきた。
 その言葉が僕の不安をより一層煽り、彼女の不穏な死へと結びつけてしまう。
 ただ僕は両手で顔を覆って待っていた
 もっと彼女と他愛のない話がしたい……もっと彼女の笑顔が見たい……もっと彼女を抱きしめたい……もっと「好き」と伝えたい……。
 後悔を含んだ赤裸々な願望が広がっていく。こんなにも過去の自分の言動を悔やんだ日ない。
 僕は面会時間ぎりぎりまで待ち続けたが、その日に彼女に会うことはできなかった。
 日は暮れていて、灰色の空からポツポツと雨が降っていた。
 コンビニで傘を買うかどうか迷ったが、結局買わなかった。
 雨を防ぐ道具は何も使わず、放心した心で外灯も照らない道をずぶ濡れの状態で歩く。
 雨雲の隙間から漏れてくる月光はぎこちなかった。



 翌日、僕は再び病院に向かう道を歩く。
 大雨が紅葉を地面に散らせていて、僕はそれを時々踏んでしまう。風が雨を共に連れてきて、体温を奪っていく。
 傘を差しながら歩く道は悪の道と化していた。道中僕はひたすら彼女に会いたいと思った。
 昨日まであった病室の入り口の『一ノ瀬来夏様』という札は姿を消していた。他にも辺りを模索したが彼女の存在を証拠付けるものは確認できなかった。
 僕は挙動不審の態度を隠すことができないままナースステーションで彼女の存在を確かめる。
「一ノ瀬来夏の病室はどこですか?」
「一ノ瀬さんなら個室に移動しました。一番西の部屋です」
 とりあえず彼女が生きていることに安堵の息を漏らす。
 そかし個室という単語が引っかかる。
 彼女の病状は悪化したのか?
「その! 一ノ瀬さんの病状ってそんなに悪いんですか!」
 僕は廊下に響き渡る大きな声を思わず出してしまう。
 僕の声量に周りの人たちは一瞬目を丸くする。
 静かな廊下にベランダに当たった雨音が規則的に鼓膜を震わせる。
「大変申し訳ございませんがそのような事は個人情報に関わることなのでご家族様以外にお伝えすることができない決まりになっているんです。失礼ですが一ノ瀬来夏さんとはどのようなご関系ですか?」
「彼……クラスメイトです」
 そもそも僕たちは恋人関係なのか? 
 好きという気持ちを伝え、彼女も好きと言ってくれたが、付き合いを承諾してもらった訳ではない。この状況において嘘をついてでも恋人関係を装った方がよいのかもしれない。しかし、『クラスメイト』と言ったことに対する後悔は不思議と湧いてこなかった。
 僕は『現実を知るのが怖かった』のだと思う。もし、彼女の病状の悪化が著しく、前みたいに心から笑うのを病気という悪魔が邪魔するのを垣間見たくなかったからだ。
 僕はナースステーションの看護師に一礼を交わし、個室に向かう。
 僕は貼ってあった紙を見て言葉を失った。それが事実ではないことを祈るかのように二度見をしてしまう。
「面会謝絶」
 その四字熟語だけでどこか彼女と疎遠されたようだった。
 独房のような個室のドアに触れることなく僕は帰った。



 今日も学校帰りに病室を訪れた。昨日とは違って青い空に太陽が輝いていた。
「面会謝絶」
 この言葉が天気のように変わればいいと考えていたがそんなことはなかった。
 ドアを破って強行突破しようと卑劣なことを考えていたが潔く帰路についた。
 その日の夜、僕は月光で視力をえて、スマホを操作していた。
『個室に移ったけど大丈夫?』
『大丈夫だよね』
『何か返信して』
『まだ死なないよね』
『絶対死ぬなよ』
『死んじゃダメ』
『また行くから』
『いつまでも僕は君を待っているから』
……………………………………………………………………………………………………………。
 独り言のようなLINEを僕は日付が変わるまで送り続けた。
 彼女からの返信を、本を読みながら待つ自分もいた。
 月はいつの間にか雲に隠されていた。それを自分の心と照らし合わせてしまう。
 その日はひたすら空を眺め、スマートフォンを握っていた。
 しかし、彼女からの返信がその日に届くとこはなかった。既読は遠かった。
 


 翌日も「面会謝絶」の言葉は変わらなかった。窓から差し込んだ優しい日光がドアの紙に当たり彼女の様態の悪さを強調しているように感じた。
 自分がどの行動をとればいいか分からなかった。この時の僕は心が割れそうだった。
 ドアを蹴破って入ろうか? ノックをして堂々と入室するか? ドア越しに話しかけようか? 
 心の中は東方西走状態だった。
 僕はこの瞬間に初めて自覚した。心の中から本心が雄叫びを上げていた。それは以前の卑屈で他人に興味のない僕なら絶対に抱くことのない感情だ。
 彼女に会えないのがこんなにも寂しく……そして……辛い。
 心が萎縮するように痛かった。この気持ちにどう名前を付ければいいのか僕にはわからない。
 だって初めての感情だから。
「一ノ瀬さんの彼氏君。ちょっといい」
 諦めをつけて、帰ろうと服装を整えていた時、聞きなれた声が鼓膜をくすぶった。『彼氏』というワードには驚いたが僕は瞬速で振り返る。
 そこには困った顔をした橋本さんがカルテを抱えて立っていた。
 僕は橋本さんに促されるまま近くのベンチに座る。
 自動販売機から音を立てて飲み物が落ちてきた。橋本さんはカフェオレを僕に奢ってくれた。
 チカチカと頼りのない光が自動販売機から放出される。
 僕たちは無言だった。
 橋本さんが開けた缶の音が会話の開始音となった。
「君、一ノ瀬さんの彼氏なんだって」
「えっ……えっと……」
「そんなに困った顔をしなくてもいいよ」
 橋本さんは天井を仰ぐ。僕は飲み物を片手に抱え、床に焦点を絞る。
「病状、結構悪いんだ」
 独り言のように橋本さんが呟いた言葉を僕は聞き逃さなかった。誰の病状が悪いのかは言わなかったが、彼女だというのは言うまでのない。
 声には悲しさや苦しさが混じっていた。
「君が思っているよりも彼女の容態は悪い。前よりかなり悪化しているんだ」
 「悪」という言葉を反復した。まるでそれを僕に認知させるかのようにゆっくりと言葉を選んでいた。
 僕は橋本さんの言葉を取り込むことが怖く、心の中で否定を繰り返した。
「そんな……何かの間違いじゃないんですか。だって、彼女はあんなにも元気なんですよ。いつも口角を上げて美しく笑い、男みたいにたくさん食べ、体格の違う男性にも臆することなく、持ち前の正義感を発揮して弱い人を守るんです……」
 僕は彼女を褒めた。何故褒めたかは正確には分からないが多分、自分を取り繕うためだ。
 正解か不正解か自問自答をしていると橋本さんがきつめの口調で口を開いた。
「あのね! いくら医学が発達しても、治せない病気は存在するの!」
「そんな、何かまで方法が……」
 僕の突発的な発言をかき消すかのように橋本さんは机を叩いた。その音は水紋が広がるかのように規則正しく空気に振動を与える。近くを通っていた患者や医師がこちらを注目するが注意はしなかった。きっと今の状況を理解したのだと推測する。
「私だって、私だって治せるなら治したいよ! でも、もう治らない。これが現実なの! どんなにあがいても変わらないの! よく『患者は見切りをつけろ』とかいうけど、私は断固として否定する。患者に見切りをつけるなんて間違いだ! これだけ言い切れる。私たち医療従事者からすると患者は数多くいる内の一つだけど、患者からすれば医者は最後の頼み綱なんだ。私はそんな患者の気持ちを尊重してあげたい。自らその綱を切るほど残酷な事はないと思うんだ」
「でも、一ノ瀬さんは他の患者とは違った。自分の病気はすべて受け入れ、死を待っている。たいした人だよ。十代でこんなに冷静でいられる人は見たことない」
 違うと否定したかった。彼女は冷静じゃなくて、きっと心の中ではもがき苦しんでるんだって……。
「一ノ瀬さんにとって最後の頼み綱は医者でも私でも友達でも彼女の親でもない……君なんだ。君しかいないんだ。世界で唯一彼女を救えるのは君しかいないんだ」
「僕なんかですか?」
「君なんかじゃない。君しかいないだ」
 どこか熱意のこもった発言に僕は自分の役割を自覚する。
 いつも自分に対するポジティブな意見は受け入れずに、戯れ言だと思い聞き流していた。
 でも、今は受け入れなければいけないと自覚していた。いくら自分が根暗で内気な人間だとしても、今度は勇気を持って彼女を支えなければならない。
 今日、僕は自分の価値を認めてもらえた気がした。



 季節は巡り、十一月を迎えた。冬を予告するための十一月、僕はそう呼んでいる。
 だけど、今年は彼女のおかげ……いや彼女のせいで違った。
 今日の朝一でメールが届いていた。朝一と言うのはここでは午前四時を指す。
『今日は面会OKだって。学校終わったら来てね。絶対に来てね。ぴーえす、お土産もよろしくね、私の彼氏さん』
 自分勝手で自己中心的な内容のメールだったけど、彼女らしさが浮き彫りになっていたので安心した。
 まだ朝日も出ていないような闇の中、僕の肌はスマートフォンの光によって照らされている。
『君は何のお土産がほしいの?』
 返事はすぐに返ってきた。
『プリン』
『分かった。必ず持っていく』
 僕は電源を切った。スマートフォンを右手に持ちながら、闇夜の中にも関わらずプリンを買うためにコンビニに足を運んだ。

 少しうきうきしている自分がいた。きっと彼女に会えるからだ。
 放課後の晴天の空の下、僕は自転車をとばして高校から直接病院に向かった。
 急いだせいで玉のような汗が額を輝かせる。
 手にコンビニ袋とその中にプリンを抱えながら、個室に移った病室に向かう。
 毎日のように病院を訪れ、「面会謝絶」という言葉にも慣れてしまったが、今日はその言葉は貼っていなかった。僕は安堵の息を吞む。
 病室の前で一度立ち止まり、胸に手を当てる。脈が速いのが明らかに分かった。
 緊張しているからだろうか? 
 自分でも分からない症状に取りつかれた。決して僕は病気ではない。
 僕は自分を創り、ノックをしてドアを勢いよく開ける。
「ようこそ、常陸君」
 広い部屋に小さなベッド、物が少ない殺風景な様子はどこか彼女らしくなかった。
 雲一つない青空は病室の窓からも確認できた。
 僕は彼女の元気な一声を聞いて心の底から安心した。
「そこの椅子に座って」
 僕は彼女に促されるまま、ベッド近くの椅子に移動する。彼女は重そうに体を起こし、回れ右をした。そのとき久しぶりに彼女の顔を面と向かって見た。
「冷蔵庫にあった賞味期限切れの粗品だよ」
 冗談を言ってプリンの入ったレジ袋を彼女に差し出す。
「それ、地球上で最も嬉しくない物の渡し方」
 彼女はそう言いながらも僕の手に提げられているレジ袋を雑に受け取る。
 コンビニ袋独特のレジ袋音が二人の空間を予告なく満たす。
「わぁ~プリンだ。何で私がプリン好きなの知ってるの」
「よく言うよ。君が僕にお土産を朝の四時に要求したくせに」
「朝四時にラインを送ってもすぐに返してくれるなんて、私ってやっぱり常陸君に愛されているんだね」
「別に。たまたま起きていただけだよ……君のことだからすぐに返さないとネチネチ言ってくると思って」
「流石の私でも朝四時に返さないくらいでネチネチ言わないよ。私の器は常陸君とは違って東京ドーム並みに大きいから」
「君の器はプランクトンぐらいの極小サイズだよ」
 僕たちの他愛のない話は長く続いた。周りから見れば本当にどうでもいい話を交わしているように見えるかもしれないが、僕はこんなどうでもいい話が心地いい。
 時を忘れて話し込んでいることを僕は時計の針を見て実感した。
 酉の刻をさす五時のチャイムが近く学校から流れたのを確認し、僕は帰ろうと立ち上がる。彼女は僕の腕を強く掴む。
「明日も来てよね」
 彼女は期待と不安を声に宿らせる。僕は無言で縦に顔をふった。
 もちろんと返事をしようと思ったが僕たちの間にもう余分な言葉などいらない。それだけでいい。
「今までありがとう」
 毎回の決まり文句のように言うこの言葉に対して僕は何の不信も抱かなかった。
 「ありがとう」は「さようなら」より何千倍もましな気がする。
 「さようなら」は帰るときに何気なく言う別れの挨拶だが、僕はもう会えない気がするので絶対にいわない。大嫌いだ。
 母に最期に交わした言葉。それは「ありがとう」などの感謝の言葉ではなく、最悪の「さようなら」だった。その言葉は本当の意味での別れの言葉と化した。
 それから僕は毎日病室に足を運んだ。雨の日も風の日も強風の日も、彼女の笑顔を脳裏に浮かべながら自転車を走らせた。あの日以降、「面会謝絶」の文字を見ることはなかったが、僕はもしかしたら会えないかもしれないという恐怖に駆られていた。
 しかし、時間が過ぎていくと共に確実に彼女の体を病気が蝕んでいた。
 毎日行った僕だからこそ分かることがあるのかしれない。彼女のイメージであった笑顔も、絵のグラデーションのように段階的に悪くなっていった。これはまだ僕の思い込みかもしれない。そう心に言い聞かせた挙句、見てしまったのは何十粒もの薬を辛そうな顔をして飲んでいる姿や、苦しそうにリハビリをこなす姿であった。さらに追い打ちをかけるかのように彼女の体に刺さる見知らぬ管が日に日に増えていった。周りの機械は赤い文字を放ち、リズムよく音を刻む心電図音がかえって僕の心をしめつけた。
 でも彼女は毎日精一杯の笑みを浮かべていた。いや、浮かべてくれた。僕でも見抜けた作り笑いは彼女の病気の重症化を知らせる材料となってしまった。
 もう時間がない……後悔のない日々をすごさなきゃいけない……。
 僕たちの時間は時を重ねるにつれ、砂時計のように静かに少なくなっていく。
 季節は巡りに巡り、春風がまだ少し肌寒い三月の下旬になっていた。

 彼女が死ぬまであと四ヶ月……。
 今日は寒い。三月の下旬のくせして、肌を温めてくれる太陽は分厚い雲に覆われ、時々肌をくすぐる春風が寒さを体に残す。
 僕はある目的地に行くために自転車をこいでいた。その目的地に行く理由がこれから消費するエネルギー量よりも圧倒的に勝っているので重い体に鞭を打って、今ここにいる。
 景色は心地よく流れていくものの、僕の心は全く心地よくない。さらに、信号での途中停車を余儀なくされると心の中はまるで大雨のような憂鬱な気持ちであふれてしまう。
 彼女が死ぬといわれている『夏』まで時間がない。僕はその事実にただ単に焦っていた。
 この時間を分かりやすく変換するなら四か月、百二十日……やはり数詞は焦りを加速させる引き金となってしまう。
 彼女に何がしてあげられる? どんなことが正解なんだ? 
 頭の中で木の枝のように分かれていくたくさんの選択肢の中から答えが定まらない。砂時計のように減っていく彼女の寿命……。
 こんな気持ちを空気中に放出するために、僕は自転車の速度を上げた。
 僕が今、向かっている目的地は無論彼女関係だ。もっと詳しく説明するとしたら「彼女の所に行く」という表現が適切なのかもしれない。
 先週の日曜日、彼女からLINEが来た。無論、僕がこれから彼女のもとへ行くこととなった提案、いや、命令だった。そんな彼女からの命令は日常茶飯事だったので面倒くささと抵抗する意志は全く湧き上がってこなかった。
『来週の日曜日に私の家に来てね。どうせ、一人で本でも読んで暇でしょ。絶対来てよね。来ないと、明日死んじゃうよ(笑)』
 上から目線の文章。僕は彼女のようなだらだらとした文章は書かず、一言で返す。
『分かった』
 送ってから気が付いた。本当はもっと長々としたメールがよかったのかもしれない。彼女との連絡を保つためにも質問をしたり、当日の日程を彼女のように嫌味ったらしく聞くなど……。
 でも僕にそんな資格はない。なぜなら僕たちは『恋人』ではなく、ただの『(病気を知っている)クラスメイト』に変化したからだ。今、僕がここで長々としたメールを送ると自分に変な期待感を持たせてしまうので、あえて抑えていた。
 僕と彼女が『恋人』から『(病気を知っている)クラスメイト』に変貌を遂げたのは二月の上旬だった……。



 静かに雪が地面に吸い付けられていた二月の上旬。習慣化した彼女のお見舞いに出かけている時であった。
 肩についた雪を払いながら病院まで歩く。外の雪の影響でいつも以上に室内は暗かった。
 僕はベッド上にいる彼女に近づいた。僕は彼女の顔色の悪さに驚いた。まるで死の瀬戸際を経験したかのような顔だった。ひどい表現だがそれが最適だった。僕はあえてその話題にはふれずに話そうと試みたが、彼女が先に口を開いた。その内容に僕は自分の耳を疑った。
「私たち別れよう」
「……え!……」
 一瞬彼女も言っていることが理解できずに、裏声が出てしまった。僕がさっき耳にしたのは彼女の声で彼女が言ったことなのか? 僕は自分の耳が間違っていることを信じた。それを確かめるために僕は聞く。
「別れるってこと?」
 僕は冷静ではいられなかった。もし、真実なら自分と彼女の間に何か壁ができてしまう。一度実った関係が崩れるともう元のように関わることなんてできない。恋愛経験のない僕だが、そんなことはわかっていた。『恋人』だから出来たことも「別れる」という一言ですべてを失う予感がして気が気ではなかった。
 でも、僕が予想していた最悪は現実において形として訪れた。
「うん。そうだよ。私と常陸君はもう『恋人』としてやっていけない……」
「嘘だよね?」
 僕は期待していた。ドッキリなのか彼女なりのからかいなのかというのを……。
 しかし、今回において嘘、偽りはなかった。
「本当だよ……常陸君の……君のすべてが嫌いになったの……」
 嫌いになった。その一言だけが反復する。
「君は僕と話せなくなって辛いと思わないの?」
 自分が自分でないような発言をした。ネットの言葉を借りるのならメンヘラなのかもしれない。彼女とこれから話せないとなると僕は辛い。ただただそう感じて彼女に自分の気持ちをのせて質問をぶつけた。
「私は辛くないから大丈夫だよ。もう常陸君にはうんざりだったからさ……」
 過去を思い返す。僕は自己中心的で友達もいなくて、いつも他人と背中をあわせて過ごして大バカ者だ。彼女みたいな美しく、常に元気をくれる存在と僕は初めから釣り合わなかったんだ。そして、僕は彼女に対して杜撰な関わり方をしてしまった。彼女からのチャンス無視し続けてしまった。
 彼女を語る資格すら僕にはない。しかし、僕の口からは言葉が出てきてしまった。普段声を張らない僕が出した発言に自分自身が一番驚いた。
「君はなんでそんなこと言うの!」
 彼女は手を添えていた布団をクシャとつかんで下を向き、大きな声を響かせる。
「もう私を苦しめないで……」
 彼女の目からは大粒の涙が滴れ落ちていた。彼女は震える声で言った。
「常陸君が……君が原因でこれ以上私を不幸にしないで……お願いです……これが一ノ瀬来夏からのサイゴのお願いです……」
 僕は今になって自分の言動、過去を猛省する。
 僕は調子に乗っていた。こんな生半可な気持ちが混在する僕が彼女の横にいる資格なんてないんだ。
 僕は彼女と自分を比較し、自分の低さを知る。
「しばらく来なくていいから……」
「……」
 自分を否定し、彼女を肯定しきった今なら、彼女からの言葉はすべて社長からの命令に聞こえた。僕は言葉を出さずに静かに首を縦にふる。
 もう僕がここにいる資格はない。
 ドアに手をかける。握った部分はやけに冷たく感じた。それを不思議と納得した。
 最期にどうしても彼女に聞いたい事があったので彼女に聞く。
「君と僕の関係って何?」
「ただの『(病気を知っている)クラスメイト』……それ以上でもそれ以下でもないよ……」
 彼女は僕の顔を見ない。まるで初めて彼女に会った時に僕がとった態度みたいだ。
 僕はやけに重く感じたドアをゆっくりとしめる。ベッドで目を閉じ、顔辺りが光っている彼女がとても遠い存在に見えた。
 もう会わない。
 自分の中で勝手な規制をかけた。
 そう僕は失恋したのだ。小説や漫画で描かれている失恋がこんなにも痛く、悲しく心をえぐられるものだとは想像もしていなかった。彼女のことを考えてはいけない、いけない、いけないのだが……。頭でわかっていても自分の心は正直だ。ふと目を閉じると彼女の顔が浮かんだ。いつも僕に無茶苦茶な発言をして、少し非常識な所があって、いつも笑顔が絶えない美しい彼女の顔が……。言語化できない脱力感、虚しさ、後悔、胸の苦しさの波が押し寄せてきた。僕の理性や理想像はとっくに本性に負けていた。
 僕は帰りにコンビニに寄ってプリンを買った。一個や二個じゃない。あるだけのプリンをかごに敷き詰めてレジに持って行った。結局、お金が足りずに五個しか買えなかった。
 帰路につく途中、新幹線の高架下で一人ベンチに腰かけて買っただけのプリンを、時間をかけて消費した。
 自然と目は彼女の病室に向いていた。視力二・〇ある僕でも病室の様子を確認することは出来なかったが、光が灯っていることが唯一確認できた。
 最新型の新幹線が通った。その事実が鉄道マニアの僕は分かった。いつもだったら興奮して答え合わせに行くのだが今日だけはそんな気分ではなかった。
 僕は静寂に包まれた夜の道を歩く。パソコン内のデータをゴミ箱に入れるかのように脳内に残る彼女との思い出に蓋をする。完全削除したわけではない、蓋をしただけだ。
 帰り道がいつもと違うルートだと気が付いたのは家についてからだった。
 ただいまは言わずに家に着く。手は洗わず、うがいもせずに自室にこもる。照明なんてつけずただただ自分の感情の赴くままに体重をベッドにあずけた。失恋ソングを聞き、コメント欄の他人の失恋話から同情を探し出している自分がいた。声を出さずにそっと涙を流した。コメント欄にあった「毎日めっちゃ辛いはずなのに、それでも平気な顔して学校行ったり、出勤したりしているだけで偉い」という言葉になぜか心が持っていかれた。
 2回トイレで吐いた。1回目は昼食の消化不良の物が出たが、2回目は胃液だけだった。どこか喉の細胞をえぐる胃液の苦さに僕は自分の感情を確認する。

 完全に哭恋だ。



 僕は自分をある意味称えた。有言実行。そんな優等生に似合う言葉が今の僕にはふさわしいと自画自賛した。
 あの日を境に僕は一度も彼女の病室を訪れていない。それどころか病院の半径百メートルにすら足を踏み入れていなかった。病院の近くを通るときは自分に言い訳をして、通るのを避けていた。彼女の病室は一切見ていない。僕は意外と固い決意に驚いていた。
 時間が過ぎていくのがいつもより遅いように感じた。僕の生活スタイルは彼女に会う以前のものに戻っていた。
 朝起きて、学校に一人で登校し、部活をせずに帰宅し、本を読み、程々勉強をこなし、風呂に入って、小説を嗜み寝る。こんな規則正しく、何の変哲もない生活が川の水のように流れていった。
 そんな僕の何の変哲もない生活は終わりを告げた。
 彼女の顔を最後に見てから一か月が過ぎようとしていたある日だった。その日は大雨が地面を叩いていた。
 非通知の番号からかかってきた電話。それが終わりを告げる原因だ。電話の相手の声を耳にするまで僕は不信感しか抱いていなかった。おそるおそる通話ボタンに触れた。僕が「もしもし」という前にその相手が声を発してきた。
「君が相模原常陸君?」
 自分の名前を名乗らない女性に対して不思議さを覚えながらも名前を尋ねた。女性からの返事が来るまでの数瞬、思考回路をフル回転させ、相手の名前を知ろうと試みたが、それを遮るように女性が先に名乗る。
「一ノ瀬来夏さんの担当看護師の橋本(はしもと)です」
 「橋本」という固有名詞よりも「一ノ瀬来夏」という名を言ったこと、それに看護師というワードに鼓動が高まる。僕は彼女の死の報告を予感する。僕は平常心を大切にするよう自分に問いかけた。
 僕はどんな言葉でも受け止められる体制を取っていた。
「何かようですか?」
「一ノ瀬来夏さんに関する件です」
 彼女の名前でさらに鼓動が高まる。心の中ではっと息を吞む。
 嫌な予感がした。『彼女が死んだ』という報告を電話越しでされる気がして怖かった。
 死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。死。
 この文字だけが頭を埋め尽くす。葬式はどうしようか?どんな顔をすればいい?
 悪循環は留まること知らなったが、僕の心配は戯れ言にしか過ぎなかった。
「何で君は一ノ瀬さんの見舞いに来ないの?」
「……」
 僕の中で沈黙がゆっくりと走る。そして、二人の間に電話越しだが停滞した前線のような空気がどっしりと満ちていた。僕はひたむきに考える。理由ではなく言い訳だ。
「彼女に二度と来るなと言われました」
「……」
 橋本さんからの返事はなく、僕は独り言のようにしゃべり続ける。
「先日、僕はいつも通りに彼女の見舞いに行きました。その日の顔色はとても悪く、死が本当に近づいてきていると感じました」
 ありのままの状況を告げる。その日何があったのか、どんな発言があったのか、まるでDVDに録画しているかのように覚えていた。
「そして、突然彼女から言われました。『別れてほしい。君のすべてが嫌いになってもう来てほしくない』と……」
 何故か知らないが僕の涙腺からは一粒の大きな涙が垂れ落ちた。何に泣いているのだろうか?
 僕は橋本さんには伝わらないよう、声は出さずにゆっくりと涙を床に落とす。
「君は本当に分かっていない」
 橋本さんの口調は本当に強かった。僕は翻す。
「分かっていないって、何をですか?」
「本当に一ノ瀬さんから『もう来ないで』と言われたの?」
「はっきり言われたのは今でも頭から離れません」
「やっぱり君は分かっていない。彼女の言葉を自分のいいように変換しているのにまだ気が付かないの……実は私、君が最後に一ノ瀬さんに会いに行ったとき聞き耳を立ててたの……ごめんなさい……確かに君は一ノ瀬さんから『嫌い』『別れよう』という言葉は浴びていた。そこまでの君の記憶は合っている。問題はそこからなのよ」
「そこから?」
 何か僕が間違いを犯したのか?それとも僕が変な解釈をしているのか……。
 変な期待が高まっていく。
「君はさっき一ノ瀬さんから『もう来ないで』と言ったと言っていたんだね」
「そうですが、それが何か」
「実は一ノ瀬さんは『もう来ないで』とは言っていないのよ」
「え! じゃあ、彼女は『会いに来て』と言っていたんですか?」
「それも違う」
「……ではやはり、彼女は僕に対して『会いに来ないで』と言っていたんですね」
 僕は大きなため息をもらす。安心と悲しみの両方に襲われた。
「それも違う。鈍感の君のためにも答えを教えてあげよう。確かに君に対して一ノ瀬さんは『来ないで』とは言った。でも彼女は『しばらく来ないで』と言ったんだ。この『しばらく』というのが重要なんだ」
 僕は思い出した。抜けていたジグソーパズルに彼女の言葉という最後のピースをあてはめる。
 すべてを完全に蘇らせることができた。
『しばらく来ないで』
 その文には彼女の会いに来て欲しいというメッセージが隠れていたのだ。
 僕は彼女からのメッセージに気が付くと同時に自分のとんでもない過ちを知り我に返る。
「僕は彼女に対してなんてことを……」
「ようやく気が付いたんだね、相模原常陸君。彼女はこれ以上君に迷惑をかけたくなかったから本心でもないことを言ったんだよ。君は一ノ瀬さんが最後に残した『会いたい』という合図をどう受け取るか。それは君の言動次第だからね」
「今すぐ彼女に会いに行きます!」
「了解。特別に職員玄関を開けておいてあげる。三十分、三十分以内に病院に来なさい。時間内までに来なかったら容赦なく締め出しちゃうからね」
「はい」
 家の狭い廊下に僕の声がこだまする。何事かと、父がせんべいをくわえながら見ているのがかすかに視界に入ったが僕はそれどころではなかった。僕はスマホを耳にあてながら玄関を飛び出した。
「君が思っているよりも一ノ瀬さんの寿命は少ない。彼女の余命の七月三十日まで時間がない。一瞬を大切にしないと君は永遠に後悔する。君の宿命は彼女に愛を注ぎ込み、共に生きること。それ以外は必要ない。一回一回の言動をもっと考えなさい!」
 橋本さんの言葉は外の大雨にでも流されない程、深く心にしみついた。
 僕は大雨にも関わらず、傘やカッパなどの邪魔物は一切身に着けなかった。
 走った。ただひたすらに走った。三十分という制限時間が迫っているからではなく、砂時計のように落ちていく彼女との時間を一秒でも多く過ごしたかったからだ。
 肺が焼けるように熱い。日頃の運動不足のつけがここかという大事な所でまわってきた。
 雨を切り裂く、風を切り裂く。僕は必死で足を回す。
 この時の僕は彼女のこと以外考えていなかった。ただ純粋な水に彼女という明色の絵の具を加えたような色に僕は染まった。いや、彼女が僕を染め輝かせた。
 雲の間から差し込む月光が雨を光らせた。
 僕はただ、彼女に引かれるように病院を目指した。



 僕が市民病院の職員玄関に入った時、橋本さんは静かに待っていた。二十三時四十分を、蛍光色を帯びた二本の針が指していた。十分オーバーだったが橋本さんは快く僕を中に入れてくれた。
 複雑な廊下、階段を壊れかけた白熱灯と窓から差し込む月光をたよりにひたむきに走る。
 漂う病院特有の消毒液の臭い。時折耳に入る少量の心電図音。大ぶりの筆で書かれた「一ノ瀬来夏様」という文字。すべてが一か月振ぶりだった。
 僕は呼吸を整える。走ってきたために上がった鼓動がドアという一つの壁を前にさらに高まる。
 僕は平常心ではいられなかった。
 僕は静かにドアをスライドさせる。
 空気は緊張しており、僕は天井から弱く光る常夜灯を光源にして彼女のベッドに近づく。
 彼女は起きていた。彼女は外を眺めていた。先ほどまで降っていた大雨は完全にやんでおり、空を覆っていた分厚い雲は東の空に消えていた。
 窓から差し込む月光が彼女の存在を確かなものにしていた。
 僕と彼女は目が合う。僕は急に目があい驚いたのだが、彼女はまるで驚いていなかった。それはまるで僕を待っていたかのようだった。
 夜だからだろうか。彼女の顔からはいつもの元気が完全に静寂していた。
「常陸君何で来たの……」
 一か月ぶりに聞いた透き通った美声。僕はいつもと変わらない声に心の中で感嘆の声をもらしてしまう。
「来たかったから……」
 僕は噓偽りのない純粋な意見を言う。
「しばらく来ないでって言ったじゃん」
 彼女は反論するがこれを本心で言っていないことは分かっていた。
 最後に僕に残した『会いに来てほしい』というメッセージに気付いて欲しい。
 僕は彼女の内に秘めた思いを察する。
「だから、しばらく来なかったんだよ」
 僕は彼女の指示通り、しばらく(一か月)会うのはひかえた。彼女が残した『会いに来てほしい』というメッセージに気付くのに一か月もかかってしまった。
 彼女の表現は少しだけ明るくなっていた。
 すかさず僕は彼女に抱き着いた、それを彼女は快く受け止めてくれた。
 今度は彼女から抱き着いてきた。彼女の髪からはシャンプーの甘い匂いがした。
 僕は彼女に聞く。
「なんで君はあんなこと言ったの?」
 きっと彼女のことだから理由があるはずだ。
「常陸君に辛い思いをさせたくなかったから……」
 言葉を振り絞ったような声だった。
「私はあと半年もせずに死ぬ。恋人のまま常陸君と別れたら君に余計な未練や辛さを残してしまう。君と出会えたサイゴの感謝の意として別れることを選択した……」
 声色に震えが混じっていた。きっと死に対する怖さと嘘を隠しているのだろう。本当に彼女は嘘をつくのが下手だ。僕はその嘘の正体に見当がついていた。
「君は生きたいの?」
「今は運命を受け入れているから、特にそんなことは思わないかな……」
 やっぱり彼女は嘘をついている。
「君の本当の気持ちを教えて」
「……」
 彼女はしばらく沈黙を貫いた。彼女の意思で話し始めるのを待った。誘導尋問のように言葉を引き出すのは間違いな気がした。
「私だって……」
 彼女は堰を切った。
「私だって! 本当は死にたくなんてない! 生きたい! 青春したい! なんで私だけ早く死ななきゃいけないの! なんで私だけこんなに苦しまなきゃいけないの……体のことなんて気にせずに、いっぱい青春して、大学生になって、自由を手に入れて、大人になって、大好きな人と結婚して……なのに……」
 取り憑かれていた何かから逃れたように彼女は感情を吐露した。 
 きっと苦しいのは病気による辛さだけではないだろう。人間関係、世間から向けられている盗作に関する冷酷な視線。
「ねえ、教えてよ常陸君。なんで私だけこんなに悩んで苦しんで葛藤して死にたいって思わなきゃいけないの……。世の中不公平すぎだよ……」
 彼女の本心は決して強くなかった。彼女の明るさの裏にある他人には見せなかった負の感情。それを引き出せた僕は少しホッとした。
「僕は君じゃないから同情も共感もできない。ただこれだけは言える。僕は君が君でよかったよ」
 僕は自分の気持ちを率直に伝えた。下手な前置きや言い回しは小説家である彼女に見抜かれる気がしたからだ。
 彼女は黙った。かなり長い時間黙った。永遠よりも長い時間が過ぎたように感じた。
 突然彼女が僕の胸に飛び込んできた。これを世間ではハグと言うらしい。
「常陸君のせいで私生きたくてしょうがない」
 水分の抜けた声で彼女は言った。そして本物の笑顔を咲かせた。
「やっぱり私はダメ人間だな。常陸君と目があって、ハグしただけでコロっと意思が変わるんだもん」
 声から完全に震えが消えた。
 彼女の表現は以前のように明るくなっていて、それはまるで輝くダイアモンドみたいだった。
「私が常陸君のことが嫌いなのは変わらないから」
 彼女は多分また嘘をついた。
「それでもいいよ。僕が君に抱く感情は未来永劫変わらないから」
「そうだ、常陸君。今日来てくれたお礼にご褒美のキスいる?」
「いやまだいいよ」
「分かった。常陸君の唇を奪うまで私は死んでも死にきらないからね」
 窓から差し込む月光が僕らを照らした。僕たちは病室の片隅でしばらくハグをした。
 この時の彼女の血液は橙色を含んでいた。
 もう残された時間が少ないことを僕は強く察した……。




 これが先月に起こった出来事だ。この一か月間僕は「恋人」ではなく「(病気を知っている)クラスメイト」として彼女と関わった。恋心は隠して接した。
 今の僕たちの関係はと聞かれると難しい。表面状は「(病気を知っている)クラスメイト」だけど、恋人の時以上に濃い時間を過ごせている気がする。むしろ恋人じゃなくて良かったのかもしれない。互いに萎縮することなく互いの本心を吐き出し、吸収してくれる今の関係が最良策だ。恋人や友達という辞書に載っている言葉で言い表すことのできないのが今の関係。
 僕はこれでいいと思った。
 目的地に着いた。目の前には大きな建物が立っていた。その建物の表札には「一ノ瀬」と筆記体で掘られていた。
 そう、僕は今、彼女の家の前にいる。決して彼女の家を興味本位で見に来たストーカーではない。
 昨日、彼女から『私の家に来なさい』と命令を受けたのだ。果たしてどんな目的で僕を呼んだかは不確かだったが、僕はあえて核心には触れずに「分かった」と返信した。
 僕は呼び鈴を鳴らす。数秒後、彼女の母親らしき人の声がモニター越しに聞こえてきた。
 僕は彼女の母親の指示のまま、玄関に向かう。
 門から玄関までは見た目よりも長く、美しい花たちが僕に挨拶をしているようだった。
 洋風の大きな家を近くで見るとかなりの迫力を感じた。つい、自分の家と比べてしまう。
 僕は萎縮しながら家の中に入る。玄関には大きな水槽が広がり、中にはウーパールーパーが気持ちよさそうに泳いでいた。
「君はしっかりとしているね。来夏とは大違い」
 僕の靴を指差しながら彼女の母親は褒めてくれた。ここからも彼女の生活がうかがえた。
「さあ、上がって」
 僕は彼女の母親に続く。まるで迷路のような長い廊下をかきわけた先にたどりついたのはリビングだった。
 やけに広く感じる天井。天井の光を反射している床。僕は彼女の家が比較的高所得なのではないかと予測する。
 リビングには彼女の父親であろう人物が新聞を広げていた。父親は僕と一切目を合わせようとしない。
 彼女はというとパソコンのキーを勢いよく叩いていた。
「お邪魔します」
 僕は一礼を交わす。彼女の母親は返してくれたが父親は動かない。彼女はというと僕が重んじた礼儀を消しゴムで消すかのように声を出した。
「やっほー常陸君」
 病人とは思えないような表情を彼女は浮かべる。
 僕が次取るべき行動に不安を見せると彼女の母親が台所から助言をしてきた。
「来夏の部屋で遊んでこれば?」
 彼女の母親に感謝の意をこめようと見た時、笑みを浮かべていた。
 僕は推測する。彼女の母親も彼女と同じく恋愛脳なんだと……。
 どうやら彼女の遺伝子は母親の遺伝子が優性になってしまったらしい。
 部屋の主である彼女は異性である僕の入室に否定の言葉をもらした。
「部屋だけは絶対にダメ」
 僕の進路を阻むかのように彼女の部屋に続くであろう道を彼女はふさいできた。
 女性に対して免疫のない僕は女子高校生が男性を部屋に入れる行為の重大さを知る由もなかった。
 彼女の母親は僕の求めている「彼女が部屋に入らせたくない理由」を何の抵抗もなく明かしてくれた。
「今日は散らかってないんだから入っても問題ないよね、来夏」
「ちょっとお母さんそれは……」
 彼女の顔は真っ赤に染まる。
「この子ったらいつもは下着や服は出しっぱなしなのよ。昨日も私が部屋を覗いたらパンツやブラジャーが散乱していたのよ。今日は君が来るから朝から掃除をしていたのよ」
「それだけは絶対に言わないって約束したじゃん」
「約束なんかした?」
「『絶対に言わないでよ』って三回約束したよね」
「三回言ったから言ってほしいのかなって……」
「芸能人じゃないんだからさぁ」
 彼女と母親の漫才は続いた。この会話において僕はただの傍聴人でしかなかった。
 彼女の母親と彼女の言葉が飛び交う中、彼女の後ろから影が近づいてきた。
「うるさいなぁー私、昼寝中なんですけど」
 あくびをかわし、髪をかき分けながら会話を中断してくれた救世主が現れた。救世主は彼女の妹であり、その名は一ノ瀬心白(いちのせこはく)というらしい。
 妹さんの会話の対象が彼女に定まっていたが、その対象は僕に移り変わった。
「この人誰?」
「えっとーこの人は……」
 彼女が解答に困っていると妹さんは難問クイズに正解した人のような寛大な声を出した。
「分かった! いつも姉ちゃんが楽しそうに喋っている彼氏さんだ」
「だから彼氏じゃないっていつも言ってるでしょ」
「彼氏じゃないの~。つまんないな……ねぇ、君知ってる? 姉ちゃんってね、いつも君のこと楽しそうに話しているんだよ」
「心白、そのことは秘密してねって言ったじゃん」
 どうやら僕が来るに際して一ノ瀬家では家族会議が行われたらしい。僕は妹さんに対して僕に関する質問をする。
「お姉さんはいつも僕のことを話しているの?」
 彼女の妹は姉への配慮は微塵の見せずに答える。
「そうだよ。いつも君の事話してる。夕食のときなんてご飯も食べずにひたすら口を開いているよ。前なんか一時間ずっと君の良さを語ってたよ」
「……」
 彼女は火山が爆発したかのように真っ赤だった。やりすぎすぎたか……
「常陸君、やっぱり私の部屋に行こう!」
 彼女は僕の同意も聞かずに僕の手を引き、部屋へと誘った。どうやらここにこれ以上いたら彼女は恥ずかしくて死んでしまうらしい。
 長い階段を上り、一番奥にある部屋が彼女の部屋だった。中には本棚がたくさん連なっており、暖色系が多いことから女子高校生らしい部屋だというのがうかがえた。
 僕は彼女の指示に忠実に従い、座布団に座る。
 それから僕たちはテレビゲームをしたり、本の魅力について語りあった。彼女は恋愛小説が好きで僕は推理小説が好きなため話がかみ合わなかったが互いの意見を尊重し合った。
「そういえば、僕はなんで呼ばれたの?」
 推理小説を左手に持ちながら、脳に浮かんだ言葉を並べる。
 彼女は耳だけを傾けて答える。
「常陸君と喋りたかったから」
「それ真面目に言ってるの?」
「嘘ではないけど本当の目的は二つあるの……実はお母さんが君と食事をしたいって言いだしたの。毎日私のお見舞いに来てくれる人がいるって言ったら、お母さんが一緒に食事したいって言いだしちゃってね。男の子だって言ったら妹もお母さんもびっくりしてたよ。それから今日までお騒ぎ。君の好きな食べ物も聞かれたりして」
「なんか迷惑かけてごめん」
 僕は自分に非がないと分かりながらも謝った。
「別に迷惑じゃなんかないよ……むしろ嬉しい」
「え! 今なんて?」
「だから、常陸君が来てくれて嬉しいって言ったの。同じことを二回も言わせないでよね……
 私だって女の子なんだから恥ずかしいよ」
 彼女は一瞬こちらに体を向けたが僕が目を合わせようとしたら勢いよく体を戻した。
 近くの学校から午後五時を知らせるチャイムが聞こえてきた。
 西の空はオレンジ色に染まっており、南側の窓からはベランダに置いてある植物の長い影が部屋に伸びていた。



 チャイムが鳴ってから一時間経った午後六時。彼女の母親の夕食を知らせる声が一階から聞こえてきた。僕たちは区切りをつけ、部屋を消灯し、彼女を先頭に階段を下りた。階段の中腹辺りから僕の好物であるハヤシライスの匂いが鼻をくすぐった。リビングに入室すると、そこには様々な食べ物が机に所せましと並んでいた。
 僕たちは座る。
 妹さんも数秒経った後、空腹の声をもらしながらやってきた。こういうところは本当に彼女と瓜二つだ。
 彼女の父親はいまだに新聞を読んでいた。まだなのかまたなのかは不確かだったがいつまで新聞を読んでいるんだ、と内心で突っ込みを入れる。
 彼女の声を皮切に「いただきます」の声が食卓を包む。
 机の上にはハヤシライス、唐揚げ、シーザーサラダ、ミネストローネなど、数多くの品があった。これらはすべて僕の好物だ。きっと彼女が今までの僕の会話や言動を繰り返し伝えたんだろうと考えると思わず笑みが浮かんだ。
「君とやっぱり来夏お姉ちゃんの恋人?」
「違う」
 僕と彼女は息をそろえて否定した。全く同じタイミングなことに笑ってしまった。
「じゃあ二人は友達?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
 彼女は否定し、僕に視線を送った。これは僕が解決しろという合図なのだと理解する。
 僕たちの関係は「病気を知っているクラスメイト」なのだがこの場で言うのは空気を壊すので慎重に考える。
 僕は考え、探した。辞書を引く受験生のように今ある頭の中の語彙の中から最良を見つけ出す……。
 これだ。
「僕たちの関係は決して恋人でも、友達でも、クラスメイトという表現も違う気がします。僕たちは恋人や友達とか型に当てはまらない特別な関係だと思います。はっきりした関係、距離感がないからこそ僕は今こうやって楽しく過ごせています。もし、僕たちにはっきりとした関係があったらそれに縛られて互いの本心を吐き出せなかったと思います。互いをより信頼できる今の関係がベストだと確信しています。僕はそれを彼女から学びました」
 そう、僕は彼女から学んだのだ。僕たちは今がベストなんだと。
 恋人になった時は互いの核心に(彼女だったら病気に)触れないように気を使っていた。そのせいで互いの言いたい本当のことを吐き出せずに心に秘めたままだった。もし、今も恋人場ったら今以上に楽しく過ごせていないと思う。先程も言ったように僕たちの関係は言葉で表すことのできない今が一番いいんだ。互いを肯定し、時には否定でき、助言を交わせる。だから僕は決してこれ以上求めない。
 それから和やかな雰囲気のまま食事は終了した。途中、彼女の黒歴史に家族が触れたが……。
 何故か知らないが彼女のアルバム鑑賞会が開かれることとなった。彼女は多少否定の姿を見せていたが、妹が高級アイスで釣って強引に賛成へと持っていった。
「この時の来夏可愛いでしょ」
「えーっと……」
 僕は反応に困っていた。
 確かに写真内の彼女は可愛かった。幼稚園時代だろうか。手でおにぎりを持ちながら動物の檻を背景にピースしていた。もし、ここで僕が「可愛い」と反応すると「ロリコン」という顰蹙を買われてしまう。だからといって「可愛くない」と言うと我が娘に自信をもっているであろう母親に失礼と感じた。
 僕が脳内で言葉を選んでいると母親は次々と見せてきた。いつのまにかアルバム鑑賞会は幕を閉じ、母親と妹が一方的に彼女の歴史を語り、僕が受けとめるという形になっていた。
 次々と出てきた写真はまるでスライドショーみたいで様々な年、季節のものがあった。中には裸の写真もあった。裸といっても今現在のものではなかった。もちろん、中学生や小学生の時のものでもない。赤ちゃんの時だ。彼女に言ったら怒られるかもしれないが顔は猿みたいだった。沐浴に浸かる彼女の全裸がフルカラーで写っていた。
 今現在の彼女はそれを全力で阻止した。母親が「来夏の裸よ」と言った瞬間、彼女は獲物を捕らえる肉食動物みたいに写真を奪おうとした。しかし、時すでに遅しだった。彼女の全裸の写真は僕の脳裏に焼き付いてしまったのだ。その後、彼女が奪い取り「忘れて」と頬を赤らめながら風発してきたので僕は恐れながらも「うん」と首を縦に振った。
 彼女はその場から離れる口実として「お風呂に入ってきます」と逃げながら言った。彼女は余計な一言して「覗いてもいいからね」と言った。もちろん僕は覗く、わけがない。紳士だから。
 母親と妹は「覗いてこれば!一世に一代のチャンスよ」と僕の良心を煽ってきた。
 僕は紳士だし、刑務所に収監されたくないので覗かない。もし、覗いても刑法に引っかからないとしても絶対に覗かない。僕は紳士だから。
 数分後、僕が疲れからか溜ため息を漏らすと、彼女の母親が耳を疑う発言をしてきた。
「君はどこで寝るの?」
「はい!」
 思わずため口になってしまう。
 自分の家の自分の部屋の自分のベッドという解答を吐き出しそうになったが僕はこらえる。
 もしかして、僕は彼女の家で一夜を明かすことになっているのか?
 彼女からは「食事」という比較的安全な出来事しかしないと告げられた。よく考えてみろ、彼女のことだ僕をだましてまで泊まらせようとしたのかもしれない。何故僕をだましかってがわかるかって、それは夏休みに僕を出雲へと誘ったからだ。
「もしかして僕は一ノ瀬家で一夜明かすことになっているのですか?」
「違うの? 来夏が言ってたから張り切って準備したよ」
 やっぱり彼女か!
 僕は予想が当たった余韻に浸っている余裕なんてなかった。
 帰ろうか?いや帰ったら準備をしてくれた母親に失礼だしな……。
 僕が一人危機感を抱いていると母親は追い打ち、いや爆弾をなげてきた。
「来夏の部屋で寝るんでしょ?」
 思わず口に含んでいたお茶を戻しそうになった。乱れた呼吸を席によって整え、自分を立て直す。
「流石にそれは……」
 泊まるのはよしとして一緒の部屋で寝るのは無理。よし、断ろう!
 僕が否定的な姿勢を見せる前から母親は行動していた。
「来夏に一緒でいいって言われたからもう準備しちゃた」
 間に合わなかった……もっと早い段階から断りの言葉をいれていれば一緒の部屋で寝ることは阻止できただろう。
 僕は今日明日と彼女と一緒の部屋いや、同じ空間で夜を越す。『恋人』ならいいけれど、そんな関係ではない僕たちが同室で過ごすのは死を表す。彼女はどう思っているのか知らないけど……
「他の部屋で寝るというのは可能ですか?」
 僕は声を小さくして最後の希望を質問に託す。しかし、彼女の母親は否定した。恋愛の彼女の親だからきっとこの状況を意図的に用意したに違いない。僕は交渉を諦めて心の中で落胆した。
 彼女が勢いよくドアを開けた。
 濡れている彼女の髪から僕は思った。どうやら彼女は本当に風呂に入ったんだと。
「常陸君、お風呂どうぞ」
 時計を確認すると二十一時を指していた。僕はいい時間だと思い彼女の言葉に甘えた。
 ドアを開ける途中、妹が「お姉ちゃんの残り湯を堪能してれば」とにやけながら言ってきた。もちろん僕はそんな意志の基彼女の言葉に甘えたわけだはない。あくまで汚れを落とすためだ。
「来夏。また下着がなくなったんだけど知らないわよね」
「また!やっぱり盗られたんじゃない」
 彼女と彼女の母親の会話がつい耳に入ってきてしまった。他人事なので気にせずにお風呂場に向かう。
 赤の他人の家の風呂を使うのは初めてで脱衣場で服を脱ぐ瞬間は緊張した。
 浴槽に続くドアを開けると甘いシャンプーの匂いが充満していた。
 十五分ほど風呂に入り、髪の毛一本も濡らしていない状態で今日、明日と世話になる寝床に向かった。
 彼女の部屋に入って僕は焦った。ベッドが一つしかなく布団もないという事実に……。
 模索するが僕の体を一夜守ってくれる物体は一つのベッド以外存在しなかった。
 まさかとおもいながらも僕は念のため確認をとる。
「僕は君のベッドで寝るの?」
「そうみたい。まぁいいじゃん。経験済みなんだし」
 君の辞書には抵抗という二文字がないのかと呆れ半分に思う。
 僕は考えた。なんでないんだろうと。
 そこで思いついた一つの答えを導きだした。
 恋愛脳である母親がしかけたんだと……。
「一応聞くけどなんで僕の布団はないの?」
 机に向かってパソコンを打っている彼女に聞く。彼女は「編集完了」と声を出しながら回転椅子を回した。
「常陸君が風呂に入っているころに事件は起きたんだ」
 彼女は刑事のような流暢な口調で話す。
「もともとは布団があったんだけど、お母さんが水をこぼしちゃって使用不能になったの。そして現在に至り、君はラッキーなことに美女であり乙女な私と同じ布団で一夜を過ごすことになったの」
 やっぱり母親の仕業だったのか。よくしてもらった母親に対する僕の呆れを彼女に告げるのは失礼だと思い、とどめる。
 僕はすぐに寝ようとしたが彼女が「恋バナ」らしきものを勝手にしゃべり始めたので僕はそれに付き合う羽目になった。
 時刻が二十三時を超えたところでお開きとなった。
 僕は歯磨きをするのを忘れたため洗面所に足を運んだ。
 歯磨きを終え、「おやすみなさい」を言うために電気がともっているリビングに向かった。
 ドアを開けると新聞を読んでいる父親がいた。
 何時間読んでいるのか聞きたかったが僕は目的を果たすのに集中する。
「本日はありがとうございました。お先に休ませていただきます。おやすみなさい」
 僕の声に対して彼女の父親からの反応があった。
「ちょっと待て」
 初めて父親の聞く声は想像以上よりも低く、威圧感があった。
 彼女の父親の視線は僕ではなく新聞の文字だった。
「お前は来夏のことをどう想っている?」
「……」
 僕は返す言葉が見つからなかった。
 そもそも僕が彼女の病気を知っていることを父親は知っているのだろうか?
 それによってなんと答えればいいかが変わる。
「病気のことは知っているのか?」
「……はい……」
 病気。
 その単語が僕の心を絞めつける。
 僕は忘れていた。彼女が難病である七色病にかかっており、余命がいくばくしないということに。
「知っているのか。なら話は早い。お前は『病気の来夏』が好きなのか?」
「分かりません。もしかしたら好きな自分もいるのかもしれません。彼女は優しく他人おもいの優しい人です。でも、僕と彼女は天と地がひっくり返っても釣り合いませんし、本当はそばにいる資格すらないんです」
「資格? 何言ってるんだ。大事なのはお前がどうしたいかだ。そばにいたいのか、いたくないのか、どっちなんだ?」
「どっちかと言うと……」
「どっちかじゃねぇ!俺はそばにいたいのか、いたくないのかの二択で聞いているんだよ。曖昧な答えなんて必要ない!」
 僕は自分の思いを強く言う。
「そばにいたいです」
「良かった……安心したぜ……実はよ、来夏は病気にかかってから元気がなかったんだよ。元気を取り戻してもらおうと色々なことをしたが全部空振りだった。もしかしたら神経質になったのかもしれないな……でも、そんなあいつは去年の四月を境に元気を取り戻した。その日からだよ。あいつがゲラゲラ笑いながらお前のことを話すようになったのは……父親として大事な娘に男が近寄るのは許せなかったがそれ以上にあいつの笑った姿を見られるのが嬉しかった。だから、今日、俺もお前に会いたかったんだよ。あいつの心を動かしてくれたお前に。お前はどうやって来夏の心を動かしたんだ?」
「僕は特別なことなんてしていません。普通に接しただけですから……」
「多分それだな」
「え!」
「さっきも言ったように俺ら家族は来夏のことを病人だからという理由で神経質に関わってしまった。でも、お前はさっき言ったようにあいつを病人ではなく、一人の人間として普通の態度で関わった。そんな普通の姿があいつの心動かしたんじゃないか。本当の自分を隠さず何を言っても普通に受け止めてくれるお前の言動があったからこそあいつは病気のことや小説家だということを隠さなかったんじゃないかな。あいつを一人の人間として関わってくれたことに父親として感謝してるよ」
「感謝しなければいけないのは僕の方です。彼女は正反対で底辺な僕に嫌な顔せず関わってくれたのですから……」
「君は自分のことをどう思っている?」
「根暗なダメ人間ですかね」
「お前と話して分かったがお前とあいつは正反対なんだ。こんな正反対のお前をあいつは求めていたんじゃないかな。完璧な人間なんて存在しない。人は誰しも補いながら生きている。お前にある自己を正しく評価し、自分の悪いところを素直に吐き出せる心。あいつはそんなお前の心を習い、お前という人間が自分色にしか染まり輝いていなかったから『接したい』と思ったんじゃないかな。お前も同じだ。お前には無く、あいつにはある姿、志。それを自分に吸収して、自分を変えたいと思ったからお前はあいつの横を歩いたんじゃないかな。互いの欠点を補えあえるお前たちは最高のパートナーだよ」
 僕は嬉しかった。彼女の父親から認められた気がしたからだ。「パートナー」という言葉には若干引け目を感じたがそんなことはどうでもよかった。
 僕は話し終わったと見計らい、リビングを離れようとする。
 すると、父親は最後に一つ聞いてきた。
「お前の名前は?」
「相模原です。相模原常陸です」
「かっこいい名前じゃないか」
 そう言うと彼女の父親は顔を僕に向けてきた。
 彼女の父親の瞳は彼女とそっくりで美しかった。
 僕はもう一度挨拶を済ませ部屋に戻った。部屋に戻ると部屋は完全な暗闇になっていた。僕の気配に気付いたのか彼女は背中を僕に向けたまま口を開く。
「常陸君もベッドで一緒に寝てよね」
 僕は返事をせずにベッドに滑り込む。彼女の体温が背中越しで伝わってくる。
 僕は今日、彼女に伝えようと思っていたことを口にする。
「君の盗作疑惑の件だけどさ……」
「……」
 今彼女がどのような表情をしているかはわからなかった。もしかしたら僕の発言を聞いて怒るかもしれない。感心するかもしれない。驚くかもしれない。僕は彼女がどんなことを言っても、止めても、関係を切られても次のことを言うと決めていた。
「君が無実だと公にしようと思っているんだ。君に言うまで僕なりにたくさん迷った。世間に公開することによって少なからず君にも迷惑がかかる。それでも僕は一ノ瀬来夏という作家の作品の真実を伝えたいんだ。だめかな……」
「それが常陸君の考えなのね」
「そうだよ」
「私は常陸君に任せるよ」
 僕と彼女はさらに背中を合わせる。
「おやすみ」
「おやすみ」
 僕たちに余計な言葉は不用だった。
 僕は彼女が寝たのを見計らって、近くの郵便ポストに向かうために彼女の家を出る。彼女には言っていない。
 大手週刊誌に彼女の盗作疑惑の真実を証拠と共に送った。こんなに早く世間に公開しようとしていることを彼女は知らない。果たして僕が望んだ世間に公開されるという形がとられるかはわからない。それでも今まで自分が積み重ねた時間は全く無駄ではないと感じていた。
 僕は彼女が寝ているのを願いながら、彼女の家に戻った。



 背中に触られている感覚が走る。僕は原因を探ろうとするが暗いため何も分からなかった。
 視界に光が入る。あまりの光量の多さに光源から離れてしまう。
 数秒経って瞳孔が整ったため、周りの様子を確認することができた。
 自分の部屋の光景ではないため、一瞬焦ったが昨日の出来事を思い出し、状況を理解する。
 光源の近くには彼女が立っており、懐中電灯を携えていた。
 近くの時計を見ると午前二時を指していた。
「常陸君。外に出かけよう」
「君は馬鹿なの。今は午前二時だよ。いったい何しに行くの?」
「秘密」
 僕は彼女に促されるまま外に出かけるために着替えた。
 他の家族にはばれないよう僕たちは忍び足で廊下を歩いた。
 途中、窓から外を仰ぐと雪が降っていた。雪が月光によって光っていた。そのためか、寒かった。
 僕たちは裏口から外に出た。
 町は完全に寝静まっており、降りしきる雪だけが静かに着地していた。
「季節外れの雪なんてラッキー。神様は病弱な乙女にプレゼントを与えてくれるんだね」
「こんな時間なのにテンション高すぎ。で、今からどこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみ。きっと感動しちゃうよ」
 吐く息は白く、寒さ和らげるために手を繋ぎ体温を分け合った。
「そういえば常陸君。昨日の採血の結果私の血液は赤色でした!」
 事の重大さを忘れるかのような言い方を彼女は言うが僕はこの発言が何を意味しているかを理解していた。
 血液が赤色に染まったと言うことはいよいよ彼女の死期が迫っていると言うことだ。彼女がもうすぐ死ぬという現実から今まで目を逸らしていたが、いよいよそれも無視できないところまで来てしまった。
 まだやり残したこと、彼女とやりたいことがたくさんあった。僕の頭の中にはどうすれば後悔せずに彼女の最期を見送れるかという選択が巡っていた。
「そんな深刻な顔しないで常陸君。私が死ぬまでまだちょうど四ヶ月もあるんだから」
 彼女は作り笑いを浮かべて僕を見てきた。きっと不安を誤魔化す彼女なりの強がりだろう。
 歩くこと十五分。彼女の言う目的地に着いた。
 そこには大垣名物の水門川と橋が架かっており、周りとは違う光景が広がっていた。その光景の正体を求めて僕は歩く。
 そこには驚くべき光景が広がっていた。水門川沿いの並木にたくさんのライトアップがされていた。言うまでもなく美しく、光る並木道と川はまさに壮大だった。
「常陸君きれいじゃない。去年に見つけてからずっと来たかったんだよね」
「そんな大切な日に僕なんかが同乗してもいいの?」
「いいに決まってるじゃん。私は自分の意志で君といるの」
 僕たちは近くに架かる橋まで歩く。
 橋から見下ろす水面は思った以上に美しく、昼間元気に泳いでいる鯉は姿を消していた。
 降っている雪は水面に落ちると共に静かに水に溶け込んでいく。
 時刻が二時近くだけあって僕たち以外の姿は確認できなかった。
 まるで二人だけの時間、世界に包み込まれているようだった。
「問題です。私はなぜ常陸君を昨日呼んだと思う?」
 彼女は水面を見ながら僕に聞いてきた。僕たちは直接目を合わせていなかったが水面に映る顔で互いの表情は確認できた。
「君の家族が僕と食事をしたかったから」
 僕は彼女の言葉をそのまま借りる。
「まぁ~それもあったけど本当の目的は別」
「別ってことはこれから何かするの?」
「そう、これから常陸君に大事な話があるの」
 僕はごくりと息を呑む。
 雪は橋に垂直に落ちており、僕たちだけの場を作る。
「常陸君は覚えているか分からないけど、旅行時の時に『僕の初恋はサンライズ出雲で出会った女の子』って言ってたよね。それは間違いない?」
「間違いない」
 僕は断言した。
 小学二年生の深夜にサンライズ出雲のロビーで出会った初恋の女の子を忘れるはずはなく今でも記録と記憶に鮮明に残っていた。
「もし今、その女の子に会えるって言ったら常陸君はどう思う?」
「とても嬉しい。ぜひ会いたい」
「じゃあ会おうか」
 彼女はそういうと橋の中央に歩き出した。
 彼女と僕は正面に向き合っている形となった。
 少し時をおき、彼女は口を開いた。
 その言葉に僕は衝撃を覚えた。
 彼女の発言内容と自分の鈍感さに驚いた。
「私」
「え!」
「だから私」
「何が」
「常陸君の初恋相手」
「本当?」
「本当だよ。一ノ瀬来夏は相模原常陸の初恋相手です」
 彼女はポケットから写真を取り出した。
 その写真に写っている光景は確かめるまでもなく僕が持っている写真と同じ画角の物だった。
 彼女は涙を流しながら膝をつく。
「やっと……やっと常陸君伝えらえた」
「やっとってことは君は何度も伝えようとしていたの?」
「何回もしたよ。でも常陸君は全然気付いてくれないから私のことなんか完全に忘れているかと思ったよ」
 彼女は雪が降る中、柔らかな声で僕の心臓を溶かした。
「無理もないよ。十年越しの恋だもん……あの頃と違って君も僕も大きくなったから」
 僕は雪の上で膝をつけている彼女と視線を合わせる。
「変わったってそんなに変わった?」
「鈍感な僕でも分かるくらい美しくなったよ」
 僕たちは涙ながらにも笑った。
 夜、雪が降り、橋の上で二人きりというロマンティックな展開だが、僕はそれ以上を求めない。これで十分幸せだからだ。
 それからというものの僕たちは特に何の進展もないまま帰ることとなった。
「常陸君帰ろっか。帰ったら暖かいココアでも飲んで話しましょう。夜は長いんだから」
「そうだね」
 僕は彼女に同意をし、歩き始めた。余計な言葉は必要なかった。これからも彼女が死ぬ僅かな時間だが幸せな時間が続いていく……そう思っていた。

「常陸君危ない!」
 彼女の叫び声が鼓膜を突き刺す。彼女の方へ振り向いた途端、光を失った。僕はバランスを崩し倒れてしまった。一瞬、何が起こっているのか分からなかったが光を得ることによってその状況はすぐに分かった。
 雪に染まる赤い液体。それを人間の血と判別するには彼女の姿を見るほかなかった。なんとなくだか鉄の匂いがした。熱い胃液が暴れている感覚に襲われた。
 彼女の腹には刃物が刺さっており、にじみ出る血が雪を虚しく赤色に染めていた。
 何で彼女がこんなことに……。
 僕は辺りを見回す。僕から少し離れた所にクラスメイトの斉藤舞が体を震わせて立っていた。斉藤は驚いた顔で血で染まり果てる彼女の弱った姿を見ていた。動揺が斉藤の瞳の奥まではっきりと現れていた。
「来夏を助けなきゃ……」
 斉藤は小声で呟くと彼女に近づいた。そして、彼女に刺さった刃物に触ろうとした瞬間、僕は自然と叫んでいた。
「刃物を抜くな!」
 斉藤が彼女の腹に刺さった刃物を抜きそうになっていたので僕は声でやめるよう叫ぶ。が、僕の声が届くのは遅く、斉藤は刃物を抜いてしまった。刃物を抜いたことにより出血は加速していた。鮮血が白い雪を無惨にも溶かしていった。彼女は吐血もした。斉藤は「何で」と声を漏らしながら雪の彼方へ姿を消していった。
 僕は出血点を抑えて止血を試みるが、助からないことは医学の知識が乏しい僕でも分かった。
「もう止血しなくていい。私は死ぬ」
 ぐったりと倒れこんだ彼女はか弱い声を出した。そしてか細い目で僕を見ていた。
「しゃべるな!」
 彼女がしゃべることで彼女を苦しめてしまう。僕は必至で彼女にしゃべるのを控えるように指示を出すが彼女はきかず、細くなった目で精一杯の笑顔をみせた。
 僕は必死に彼女の腹から出る大量の血を止めるために出血点を抑え込んだ。
 止血をしなければ……早く止まってくれ……。
 僕の期待も虚しく、流れていく血は雪を赤色に染め上げ、僕たちの周りを侵食していった。
 僕は確信した。確信したくなかったが確信せざるをえない光景を見てしまったからだ。心の中で唱えた。諦めていない自分に聞こえないように……。
 もうダメだ……彼女はもうすぐで死ぬ……。
 僕は一瞬だけ止血を止め、分厚い雪雲に覆われている空を見上げた。
 内心ではそう思っていたものの僕は止血を諦めることはなかった。ここで諦めてしまったら きっと後悔する。彼女という素敵な存在と一分一秒でも長くいられるために僕は止血に勤しんだ。
 一瞬、彼女の顔が僕の瞳を占めた。そこにあったのはいつものように笑っている彼女ではなく、辛く、苦しさで早く死にたそうな顔だった。作り笑いすら浮かべていなかった。
 彼女は無言だったが、まるで「早く死なせてくれ」と語っているようだった。
「常陸君。もういいよ。私を楽に逝かせて」
 さっきのことがあったからであろうか。僕は彼女の声が幻聴にしか聞こえなかった。しかし、彼女は本当に楽に逝かせてほしそうな声、顔をしていた。僕は手を止める。吐く息が白い。外はとても寒いのに、僕の血はものすごい勢いで体中をめぐっており、体温が上昇していた。
 彼女は僕の血まみれの手をそっと、優しく、か弱く、包み込むように握った。
 もうすぐ彼女は死ぬ。彼女は最期に話すことを望んでいる。僕は察し、彼女にもう文句を言わなかった。
 僕は彼女の血で染まった手で冷えた彼女の手を優しく包み込む。
「私は常陸君と出会えて幸せだったよ」
「何死ぬみたいなこと言ってるんだよ」
「死ぬよ。私も君もみんな。ただその時間が早いか遅いかだけ……」
 彼女から流れ出る血は僕たちの周りをさらに埋め尽くしていった。
 僕は確信する。もう時間がない……。
「私は幸せ者だよ。常陸君を好きになれて」
 か弱い彼女の声が僕の鼓膜を震わせる。
 彼女の声は僕の中で「死」を連想させる。
 僕は彼女を抱きしめ彼女の唇を奪った。初めてのキスはレモンの味などではなく鉄の味だった。
「キスはしないんじゃなかったっけ」
「僕は自分の意志でしたんだよ。君は嫌だった?」
「嫌じゃないよ。常陸君とのキスはめいどの土産として天国に持っていくよ」
 彼女は目をつぶった。
 いよいよ最期の瞬間がやってきてしまう。僕は精一杯彼女を抱きしめた。
 彼女は全身のエネルギーを絞り、僕の耳元でささやいた。
 僕は最期の一言だと確信する。
 彼女と目は合わせずに音だけで繋がる。
「常陸君……大好きだよ……愛してる……」
 僕の涙腺はとっくに秩序を失っていた。
「……今までありがとう……」
 彼女は力尽きた。僕が手の力を抜くと赤い雪が彼女の体を優しく包み込んだ。
 僕は甘えていた。一ノ瀬来夏に『夏』が『来』ると甘えていた。自分に余裕を作ってしまったんだ。
 後悔だけが頭を埋め尽くす。
 僕は彼女の手首にそっと触れる。彼女の脈は全く確認できなかった。
 彼女から無惨に流れ出る真紅ではない人間味を帯びた赤い血はわずかだが、七色病の彼女にまだ余命があることを示していた。
「来夏!」
 僕は雪空に向かって彼女の名前を呼んだ。
 天国にいるであろう彼女に自分の思いや『想い』が伝わるように……。
 彼女は僕に色々な事を教えてくれた。対して僕はどうだろうか? あいまいな返事を繰り返し、彼女に対して感謝を伝えることすらできなかった。
 僕は今になって後悔だけが心に積もる。彼女の死体を見れば見るほど僕はその事実に涙をこぼしてしまう。
 そう。彼女は死んでしまったのだ……。

 二〇XX年三月三十日午前二時二十六分。

 一ノ瀬来夏は僕を染め輝かせ……そして……

 
 
 死んだ。