最後に彼女と言葉を交わした日から一週間がたった日曜日。僕は彼女の小説のモデルという名目で出かける約束をしていた。
 四月のころに景色を彩っていた桜は完全に散り、五月に裸となり道路を殺風景へと追いやっていた並木たちは新緑の葉を茂らせていた。真夏に向けて、上昇していく気温は、僕の外出気分をぐっと下げていく。
 自転車をおもいっ切り漕ぐと玉の大きさ程の汗が額に走った。
 僕は駅までの道のりの中にある商店街を颯爽と走り抜け集合時間の十五分前に駅前の広場に着いた。彼女と出かけることに乗り気ではなかったが、人として遅れまいと時間だけは厳守するよう日々心がけている。
 僕が住んでいる大垣市は、岐阜県の南西部にあり、県庁所在地の岐阜市に続いて人口が多い都市であり、水が名産品になっている。駅前の広場には名産品である水を使った噴水が立ち並び、人々の憩いの場となっている。夏はこの光景を見るだけで気持ちが多少は涼しくなる。
 彼女が来るまでの間、近くのベンチに腰をおろし、推理小説を読む。昔から使い続けているしおりを胸ポケットに収める。
「常陸君」
 聞いた事のある声がしたので振り返ると、荷物がたくさん入っているであろう大きな鞄を背負っている彼女がいた。明らかに宿泊を前提とした旅人にしか見えなかった。一瞬、登山に行くことなり、目的地を変更したのかと自分の記憶を疑った。
「君はなんでそんなに荷物が多いの?」
 僕は単刀直入に聞く。彼女は得意そうに答える。
「常陸君が少なすぎるんだよ」
 僕は小説と財布とスマートフォンしか持ってきてない。軽率すぎるとは全く思わず、日帰りなのだからこれだけ持っていけば問題はないと確信していたので、それ以外は全く持ってきていない。
「僕が少ないんじゃなくて君が異常に多いんだよ。何持ってきたの?」
「もう、レディーに対して鞄の中を見せてアピールをしなくても、鞄の中身ぐらい見せてあげるよ」
 そう言うと彼女は鞄の中身を雑にベンチの上に出した。
その中身というと恐ろしく、広げられたベンチの上には目覚まし時計やマンガが十冊ほどあり、さらにはノートや筆箱などが入っていた。これらが鞄の中に所狭しと入っているのを想像するだけで悪寒が走る。
「とてもレディーを名乗る女子高生とは思えない中身だけど……」
「アッハハハハハハ! やっぱり常陸君って面白いね」
 彼女としばらく時間をともにしているがやはり彼女の笑点は理解できない。
「とりあれず使わないものはコインロッカーに入れるよ」
 僕はいらない荷物を峻別する。公共の場でこのようなものを広げながら作業するのは周りから好奇の目で見られるのを避けられなかった。そんな僕の配慮も知らず、彼女は鼻歌を歌う。極楽とんぼもいいところだ。
「目覚まし時計は流石にいるよね?」
 この人は何を言っているのだ 本気で突っ込もうかと思うほどの珍発言を彼女はした。夫婦漫才に発展しそうなのでツッコミは控える。
「君、流石って言葉の意味わかってる? 一回辞書を引いたほうがいいと思うよ。なんなら今度紙の広辞苑貸してあげるし。よくそれで小説家してるよね」
 少しばかりの皮肉を込めた。もちろん僕の方が日本語力に優れるとは思っていない。
「それ褒めてるの?」
「断固として褒めてない」
 彼女は僕の発言を楽観的に受け取る。
「やっぱり君の頭おかしいね。とりあえず目覚まし時計はいらないね」
「絶対いるよ。だって今から乗る列車での乗り過ごしを防ぐための必儒品じゃん」
「スマートフォンのアラーム機能を使えばいいんじゃない?」
「あー。なるほど」
 それから十分ほど太陽が照りつけるもとでコインロッカーに何を入れるか話し合った。できるだけ目立ちたくない僕は可能な限り人目を避けられるベンチを選んだが、それでも好奇な目線を避けることはできなかった。彼女といるとろくなことがない。
 たくさんの余分な物をコインロッカーに収監し、電車に乗る為に改札を通り抜けてホームに入った。
 列車が来るまでの間、爽やかな風が吹き抜けるプラットホームで彼女との雑談を交わした。
「常陸君さぁ、旅行が好きって言ってたけど、どんな旅行が好きなの?」
「鉄道旅行」
「え! 本当に! 実は私も鉄道を使った旅行が大好きなんだ。常陸君は何の列車が好きなの?」
「僕は285系、サンライズエクスプレスが一番好きかな」
「え! そうなの! 実は私も285系が一番好き」
 彼女が素から驚いている事は僕でも分かった。僕も正直、好きな列車までも同じことにはびっくりしている。小説を書いているということ以外、彼女との接点が全くないと思っていた僕は彼女の意外な事を知れて少し嬉しかったのかもしれない。
「常陸君はサンライズには何回乗った?」
「十回ぐらい。小学一年生から毎年夏休みに乗っている」
「一番好きな新幹線は?」
「秋田新幹線のE6系」
 鉄道マニアにしかわからない単語を連発する。
「私は東海道新幹線のN700Sが一番かな。夜を貫いて走る白い矢って感じがしてロマンティックじゃない。それから、それから……」
 彼女との時間は矢のように過ぎていった。鉄道の話が出来たのはもちろん嬉しかったけど、彼女の事が知れ、共通の話題を発見できたのが不思議と嬉しかった。不可思議な気持ちが心に走る。
 卑屈な僕とは違い、本当の中身はごく普通の高校生である彼女はきっと……きっと、あの件さえなければ今とは違った高校生活をしているんだろうなと感じる。
「初恋したことある?」
「何、唐突に」
 本当に唐突過ぎて口から変な声がもれかけたが必至にこらえる。
 他愛のない話の中に僕の嫌いな恋愛をねじこんできた。
「なんで君に教えなきゃいけないの。あと僕は恋愛が嫌いなんだ」
「恋愛は素晴らしいよ。恋する前と後じゃまるで住む世界が変わって見えるから。大恋愛したことがないから常陸君はそう言えるんだよ……。あ、私の恋バナ聞きたい?」
「どうせ君の性格的に僕が聞かないと解放してくれないんでしょ……」
「流石常陸君。私のことよくわかってるじゃん」
「私の大恋愛はネットの人だった……。中学一年生の時にスマホに勉強のアプリを入れたの。そこに私が書いた小説を自己満から投稿して、その人がコメントしてくれたのが私と元彼との恋愛の始まりだったの。元彼は他県に住んでいる同い年で、私は遠距離で学生だからそんなに簡単にはあえなった。そこからTwitterのDMで他愛のない話をするようになって、LINEも交換して一年半の年月を経て付き合うことになったけど、結局お互いが信用できなくなって数週間で別れたんだけど、私は未練が残って、長い時間諦めきれなかった。こんなに好きになった人初めてで本気で自分と向き合った……」
 内容に反して彼女はどこか正々とした態度に見えた。そして、少しばかりの嘘を感じた。
「それは君の自論にすぎないよ。でも、世の中には現実の寂しさをネット上で埋めようとする人もいるからな……」
「ほんと常陸君は頭が固いな。次は君のを教えてよ!」
「……」
 数秒の沈黙の後、風によって崩れた髪型を直してから答える。
「僕の初恋は小学二年生の時」
「どんな子なの?」
 彼女は顔を近寄らせ、輝く眼光を僕に向けてきた。恋愛小説を専門に書いているのだから、当選と言えば当然なのだが、本当に彼女は恋愛が好きなんだと悟る。僕は少しだけ距離を置く。
 僕は嘘をつかず、正直に話そうと心の中で静かに決意する。僕は彼女の顔は決して見ない。
「これを初恋というのかはわからないけど……一言で言うならば可愛い子かなぁ。結局その子とは一度きりしかあってないか君に言われるまで忘れていたよ」
 これを恋と定義していいのかはわからない。
「常陸君にも『恋』が目芽えたことがあるんだね。意外だったなぁ~」
 彼女はなぜだか嬉しそうに呟いた。
「今思い返せば僕の初恋は桜とそっくりな感じがするよ……」
「それってどういう意味?」
 彼女は発言の解釈を求めてきた。
「桜はさ……短い期間しか咲かずにいつの間にか散る。桜の開花予報は報道されているのに散った事は人の目にも留まらずに虚しく消えていく。僕の初恋も桜のように心の中に咲いて、桜のように静かに散っていたから同じだなと思っただけ」
「それは違うよ! 常陸君!」
 彼女は強い口調で否定してきた。彼女を見るとさっきほどまでの笑顔が消え、百八十度反対の真面目な顔に様変わりしていた。彼女の瞳はまるで何かを主張しているようだった。
「違うって何が? 初恋の事?」
 僕は純粋な気持ちで尋ねた。
「常陸君知ってる? 桜は花びらが散った後も静かに生き続けているんだよ。桜は花びらが散った後、次の春に向けて静かに生命を宿してるの。桜は春にしか輝かないけど、一瞬咲き誇るために何百日もかけて努力しているの。暑い日も、風が強い日も、寒い日も熱い樹液を流しながら強くたくましく生きているの。常陸君の初恋は終わりじゃなくて、次の芽生える恋まで努力してほしいと私は思っているの。いつ努力が報われるかは分からないけどその一瞬のために頑張ってほしいと私は思っているの」
 不思議と彼女の言葉は僕の鼓膜を刺激して、脳内で何度も反復された。いや彼女は不思議ではなく不可思議だった。
 僕は心の中に卑屈なコメントをしまった。



「……君。……陸君。……常陸君ってば」
 爽やかな風が耳をくすぶる。時計を見る限り僕は十分ほどホームのベンチで寝ていたらしい。彼女からの呼びかけに脳よりも先に体が反応して起きた。
「常陸君。列車が発車しちゃうよ」
 彼女は手を振りながら、急ぐよう手招きをしてきた。寝起きだったため視界が歪んでいる。
 鼻を刺激するディーゼルエンジンのにおいがプラットホームに充満していた。鉄道マニアの僕にとっては嬉しかった。僕は彼女に追いつき、彼女は僕に歩調を合わせながら列車の最後尾から乗り込んだ。近くのつり革に手を掛けながら本を開く。
 今日は日曜日のため、混雑率も高く、小さな子供連れやカップルなどが車内を彩っていた。今、僕たちがカップルに見られているのではないかと思うだけで絶句した。
 混雑しているにも関わらず、堂々と優先席に座っている数人の男たちがボリュウムなんか気にせずに話をしている。近くには杖をついている老人や妊婦の方が迷惑そうな顔で彼らを覗いていた。
 僕の中に注意するという志は全くなく、静かに本を読もうと決意する。こういう面倒ことには関わらないのが得策だからだ。しかし、彼女は違った。
 列車が轟音を立てて駅を出発して数分経った後、隣に立っていた彼女が優先席に座っている男たちの前に立って睨みつける。
 僕は背筋に悪寒を感じた。きっとこの後取る彼女の行動について立てた仮説があまりにも衝撃すぎたからだ。
「おい、姉ちゃん! 俺たちに何か用か?」
 低く、怖い威嚇するような声で男の一人は彼女を睨みつける。彼女は大きく息を吸う。僕は横目で見て見るふりを貫く。
「ここ優先席なんですけど、近くにいる方に譲ってあげたらどうですか? あと優先席付近で
は会話は控えめにして、携帯電話はマナーモドーにするのが常識なんじゃないんですか!」
「そんなのは常識で決まりじゃないよ、姉ちゃん。総理大臣が法律で定めたっていうのなら退いてやってもいいんだぜ。さあ、どうよ」
 男たちは屁理屈を並べ、退く気配を微塵も見せなかった。僕は彼女と関係者じゃないふりを装う。
「言っときますが、これはマナーや常識の問題です。ちなみに、衆議院か参議院のどちらかに提出された法律案は、通常、数十人の国会議員から成る委員会で審査された後、議員全員で構成される本会議で議決され、もう一方の議員に送られ、衆議院で可決後、衆議院で否決された法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数によって再び可決されると、法律になるのですよ! 公民の勉強しましたか……それとあなたたち不正乗車してますよね」
 男は挙動不審になる。「不正乗車」の一言が周りからの視線を集める。
「は、してねし!」
 男たちの様子を見るに彼女の言ったことは真実らしい。なぜ彼女は分かたんだ?
「あなたたちが小人運賃で乗っているところを私は確認していました!」
「な! なんで分かったんだ」
 男たちは図星だったのか動揺を隠せてなかった。彼女は説明する。
「小人運賃で改札機を通ったら鳥の鳴き声のような音を発するんです。あなたたちが通った時に音が鳴ったのは私の耳がはっきりと覚えています。これでも白を切るつもりですか? 何なら今すぐに切符を確認してもいいんですよ! 車掌さんを呼んできましょうか?」
「ちっ、面倒くさい姉ちゃんだぜ。口が駄目なら拳で勝負するしかねなぁ」
 リーダー格の男一人が席を立ち、戦闘モード―にはいった。拳から鳴る関節の音は戦いのBGMにぴったりだった。
 周りからは男の行動を批判する声が左右の耳から入ってきた。
「どうぞ、かかってきなさい」
 当の彼女は余裕の表情で男を見ていた。彼女の態度に不満を持ったのか、男は助走をつけ、彼女の顔に向かって拳を突き出す。周りからはその瞬間、悲鳴が聞こえてくる。
 男の悲鳴が車内中に響きわたり、一時はエンジン音が車内を満たすくらい静かになった。彼女が男の鳩尾に思いきりキックしたせいで悲鳴をあげたのだ。男は床にたおれ、蹴られた部分を必死でおさえていた。
「こりゃ痛いぞ」「大丈夫か」などの男たちに対する言葉が多数とんできた。
 僕は彼女が襲われそうになった時よりも今の状況に動揺している。
「降りるぞ」
 男の一味がそう言い、彼らは次の停車駅で下車していった。彼らの名誉のために言っておくと、彼らは一万円札を置いていった。口止め料なのか?
 車内では拍手が沸き起こった。ディーゼル音の轟音をかき消す拍手が彼女に対して無数におくられてきた。
「はい、席どうぞ」
 彼女は老人と妊婦の方に席に譲って、僕の隣に戻ってきた。一仕事終えた彼女の表情は安堵と正義が混在していた。
「すげぇぞあの姉ちゃん」「女なのに勇ましいなぁ」「かっこいい」などの彼女をほめる言葉が車内を一時的に賑わした。
「どう、すごかったでしょう。実は私、小学校の時に空手習ってたんだ」
 彼女は不敵に笑みを浮かべ、流れる車窓を楽しんでいる。彼女という人間の不可思議さを言動から改めて感じた。
 彼女の性格や気の強さは僕とは百八十度違って正反対だ。彼女は誰に対してでも手を差しのべれて、先ほどのように正義を貫ける優しい人間。それとは正反対に、困っている人がいるにも関わらず手を差しのべることのできない僕……。
 先ほどの思考と真逆の気持ちが心を侵食する。
 正反対の男女が何故普通に話すことができているんだろうか……。
 それは多分、趣味や特技などの話し合わないとわからないような部分に接点があったのかもしれない……。



 流れる景色が住宅地から田園へと変化していった。
 列車に身を委ねて、ゆられる事三十分。目的の駅に到着した。
 標高が比較的高く、田舎っぽいことから空気が澄んでいるように感じ、自然と僕の肺を満たしてくれる。
 柔らかな春の日差しがふりそそぐ駅のプラットホームを、歩調を合わせて歩く。列車はレールのつぎ目を静かにぬけ、赤い光を残しながら北の果てへと姿を消していった。
 少し標高が高いというとこもあり肌をなびかせる風が心地よく、遅咲きの桜もまだ残っていた。
 改札の無い駅を出て、ショッピングセンターまでの数百メートルの道のりを歩く。向かっている途中、彼女は回ったり、一人でこの町のレポートをしていた。恥ずかしいとい言葉を知らないのか? という疑問を抱えていたが、周りには誰もいなかったので春風と共にどこかに飛んでいってしまった。
「君って不可思議だよね」
 彼女に対して前からおもっていた感想を投げかける。彼女は立ち止まり、僕を見て話す。
「何が?」
「教室の時と違って意外に元気がいいし、それに……さっきの車内での事。自分よりもあきらかに強い人に向かって何であんなに勇気をもった行動ができるのかが不思議だよ。僕だったら逆立ちしてもできない」
 目を二回パチパチとさせ、彼女は真剣さを表情に表しゆっくりと答え始める。
「元気がいいのは私の本心なの! 暗いと話は弾まないし、雰囲気も悪くなるから楽しくないでしょ! まあ、学校での私は百八十度反対だけど……。どうせクラスメイトに本心で喋ったところで盗作疑惑のせいでみんな嫌悪感を示すだけだし」
 濁すように最後の言葉を放った。僕は彼女の事情を知っているため最後の言葉に言及する権利などなかった。
 彼女は人として素晴らしい。喋りはじめてから数ヶ月しか経ってないが、そんなことわかっていた。僕とは価値観が合わないが、一般的な女子高生なら合う気がする。しかし、彼女の同性から嫉妬を買うほどの圧倒的な容姿と盗作疑惑という疑念が、クラスメイトとの間に決して修復することのできない大きな歪みを作ってしまった。僕とは違い、きっと彼女も自分の本心のままにクラスメイトと話したいんだろう。
 勝手な憶測が脳裏を占めてしまう。
「じゃぁ、もう一つの質問に答えるね」
「……」
「……」
 二人の間に沈黙の時間が流れる。
「私は困っていたり傷ついたりしている人を見ると心が痛む。小学四年生の時に自分が似たような状況に陥ったことがあるの。私はクラスのいじめっ子に当時いじめられていた。ある日、公園でそのいじめっ子たちが私を殴ってきた。あっちが一方的に攻撃してきたのを見て、たまたま近くを通りかかった女性が助けてくれたの。そのときの心の温かさとカッコよさは今でも心に焼き付いている。だから、その人の言動を見て決意したの。困っている人がいたら自分を犠牲にしてでも全力で手を差し伸べるって。そりゃあ、自分よりも強くて大きい人に立ち向かうのは身震いするほど怖いよ。でも、その怖さよりも助けたいという気持ちのほうが勝っているから立ちむかえると思うの。そして、私が勇気を持って言動できる一番の理由。それは助けを求めている人にとって助けてもらう以上に幸せなことはないと思うの。自分がこの幸せを肌で経験しているし、経験してもらって助け合いの輪がさらに広がってほしい。そう私は願っている」
 僕は今言われた言葉に心を打たれると同時に、自分という一人の人間の情けなさや未熟さを垣間見た。
 僕は未熟さという一つの壁を痛感した。ただ、本しか読んでなく自分しか見ていない視界の狭さに引け目を感じた。
『彼女に変えられた気がした。彼女のおかげで考え方が変わった気がした』
 今までの僕なら他人と比較をし、自分が引け目をとっているとは思わなかったし、この話を自分事ととらえず、右から左に流していた。
 僕は彼女のことを非常識な人間としかとらえてなかった。しかし、彼女の中からあふれ出す他人への思いやりは彼女自身が肌で学んだからこそ生まれたのだ。彼女の考え方を取り入れれば卑屈な自分を卒業でき、少しはましな人間になれるのかもしれない。そう感じた。そして、彼女の本当をクラスメイトにも知ってもらいたいとも思った。
 再び沈黙の時間が流れ、二人の間には少し重い空気が佇む。しかし、この空気は意味のある重さを内包していた。
「ごめんね。こんな重い話して」
 彼女の笑顔と透き通った声が停滞した空気を揺らした。
 それから歩き、目的地に到着した。
 見上げた空は先ほどよりも青かった。



 ショッピングモール内は所狭しというぐらいに人がいた。上の階から見下ろせば人は豆のように小さい。外の澄んだ空気とは一転、あたかも換気をしていないような淀んだ空気が人の合間をぬって林立する。この空気に嫌気をさしたのか彼女はマスクを取り出すが、すぐにしまった。
 彼女は近くの人のことなど全く気にせずに僕に全力で話しかける。彼女の非常識さにはもう慣れたのでなんとも思わなくなってきた。
「まず映画を見よっか!」
「僕も見るの?」
「yes! はいチケット!」
 用意周到とはまさにこのことである。僕が「はい」と返事をする前に彼女は財布からチケットを取り出していたのだから。くしゃくしゃになったチケットから彼女の生活態度がうかがえる。不本意だけど財布の中にカードがたくさん入っているのを見て、自分とは正反対の財布だとうすうす思った。なぜなら僕は彼女の十分の一程度しか入っていないからだ。僕たちはしばしの休憩を取るため近くのベンチに腰かける。
「すごいカードの量だね」
「女子の財布覗くなんてエッチだね」
 僕は呆れて返す言葉が見つからない。それを見かねたのか、彼女は笑いながら訂正した。
「ごめんって常陸君。これでもカードは少ない方だよ」
「それで少ない方とかやっぱり君は不可思議な人間だよ」
「じゃぁさ、常陸君の財布の中も見せてよ。私の見せたんだしさ」
「嫌だよ。なんでさりげなく僕の財布の中身チェックをしようとしてるんだよ」
「つまり! 私に見せてくれないと」
「そうだよ」
「へー。見せてくれないと君が私の財布を覗いたセクハラとしてクラスのみんなに報告しちゃうよ」
「財布を覗いたぐらいでセクハラになるなら、日本の警察はさぞ忙しいだろうね」
 変な噂が流れるのは別に構わなかったが、噂が流されることによって学校内での有意義な読書の時間が失われるのだけは避けたかったので、僕は二つ折りの財布をしかたなく彼女に渡す。彼女は満足そうな表情を浮かべる。
 財布の中身を思い出す。たしか中には現金、ICカード、ポイントカードが二枚と図書カードがあったはず……。
 見られてはいけない物はないかと過去を探る。記憶という名のピースを頭の中でつなぎ合わせる。しかし、ピースは一つなく、パズルはまだ完成していない。
 何か忘れている物はないか?
 脳をフル回転させる。
「何? この写真?」
 彼女の「写真」という単語で最後のピースを思い出した。
 そう、財布の中には大事な写真が入っていた。写真には十二歳の、僕と同い年ぐらいの女の子が写っている。
 これを見た彼女はどんな表情をしているのだろうか?
 恐る恐る彼女の表情を確認すると、言語で表せないような顔をしていた。彼女は悪さをする子供のような声を発す。
「へぇ~こんな子がタイプなんだ……相模原常陸さん。写真について説明願います」
 もう逃げられない、正直に白状しようと僕は昔の記憶を鮮明に思い出す。恥ずかしいと思いながらも胸を張って堂々と語ろうと心に決める。
 この時間は少し嬉しい地獄だった。
「その写真の子は僕が十二歳の時に出会った女の子。大垣駅のプラットホームで話した、初恋の女の子だよ」
「え?」
 彼女は驚いた表情を浮かべる。僕は出会いを語る。
「十二歳の時だった。僕はサンライズ出雲に乗って旅行をしていたんだ。その時の記憶は今でも鮮明に覚えている。夜中の二時ごろ、僕は眠れなくてラウンジで車窓をただただ眺めていた。そしたら、この子が僕に話しかけてくれた。明るくてひたすら一人でしゃべってばかりの活発な子……まさしく君みたいだったよ。僕たちは近くの椅子に座って話し込んだ。流れる時間は車窓と同じくらい速かったよ。で、最後に写真を撮ろうっていう話になって、撮った写真がこれ。次の日も会おうとして車内を探したけど見つけることはできなかった。その時は逢えないことに対して何も思わなかったけど、日が進むにつれて逢いたいという気持ちは大きくなったよ。今でも死ぬ前にもう一度逢って、この目で確かめてみたいと思っているよ」
 僕はすべてを話し終えると吐息を漏らした。この話を聞いて彼女はどんな表情をしているのだろうか? まさか嘲笑したりしてないよね?
 僕は不安を抱きながら視線を彼女に移す。
 しかし、彼女は僕の予想とは全く違う表情を浮かべていた。
 彼女は何故か知らないけど泣いていた。瞳や頬が赤く染まっていて、映画のクライマックスシーンのように大粒の涙が流れ落ちていた。
「何で泣いているの?」
「君にしては感動する話を語ってくれたから感動しちゃって……その恋はもっと自信を持った方がいいよ。恋愛脳の私が保障する」
 泣いた軌跡を隠しきれていない証拠が声にも混じっていた。少し乾いた彼女の声から違和感をおぼえる。
 彼女は話を戻す。
「今でもその子が好きなの?」
 一番聞かれたくない質問を聞かれてしまった。隠すべきか隠さなべきかその二語が脳内を右往左往する。
「もう何年も会ってないから、もし話しかけても僕のことを見たら不審者がられるだろうし、最近になってケジメがつき始めたかな」
 僕は回答を誤魔化した。
 彼女はまた泣き始めた。無言でひたすら目から出た雫が光り輝きながら下へと垂れていた。
 『どうしたの?』
 そんな質問をしようか迷ったが結局しなかった。
「ごめんね。ちょっと感動しちゃった。捻くれ者で恋愛に興味がなさそうな常陸君に好きな人がいるとはね」
「捻くれ者で悪かったね」
「それにしても常陸君が十年越しの恋かぁ~。今の話、フィクションの小説かと思ったよ」
「僕は公開処刑されている気分だったよ」
「そんな恥ずかしい話じゃないんだよ。もっと胸を張れるような話じゃん」
「僕は二度とこの話を話したくないと思ったよ」
「ちょっと話変わるけどさ……常陸君は彼女を作りたい?」
「何、急に」
「いいから答えて!」
「彼女を作ろうとしても作れないのが僕の現状だよ」
「もし私が君の彼女になりたいって言ったらどうする?」
 二人だけの時間が僕らを包む。
 彼女の目は真剣だった。
 彼女は本気で言っているだろうか? それとも死ぬまでにやりたいことの一つだろうか?
 僕は正しい状況が読めないまま答える。
「嫌だよ。僕はもっと常識的で静かな人がいいよ」
「うるさいのは否定しない。自分で言うのはなんだけど常識的な人間だとは思うよ!」
「公共施設で大声出す人は常識的な人ではないよ」
「ひどいな。私の今まで培ってきた初心な乙女心に傷がついたよ」
 自画自賛。今の彼女にはそんな言葉を添えたかった。
「友達は? 友達は作りたくないの?」
「失礼だけど僕は立派な友達が一人いるよ……」
 友達をたくさん作るとデメリットの方が圧倒的に多い。意味のない遊びに付き合ったり、どうでもいい話に相槌をうたなければならないから面倒くさい事が増える。
「っていうか君は友達いないでしょ」
「ハッハハハ! 確かにね」
「常陸君にとって友達を作るメリットってなんかある?」
 彼女は先ほどから面接のような質問を連発してくる。
 メリット? そんな事を考えたことすらなかった。もしかしたら僕は物事を悪い方向に考える癖があるのかもしれない。
「メリットなんて特に思い浮かばないよ」
「私はたくさんのメリットがあると思うよ。知りたい?」
「結構だよ。メリットがあるのに作ろうとしない君は不可思議で仕方がないよ。それに友達がいない君に自論を展開されても説得力ゼロだよ」
「じゃあそんな常陸君に宿題です。君は私が死ぬまでにたくさんの友達を作ってください。この宿題を提出するときっと人生が楽しくなるよ」
 突発的に変なことをふっかけてきた。
「わかったよ。君が死ぬまでに提出するよ」
 何故か知らないが僕は宿題の提出を彼女と約束した。根拠のない約束だった。
彼女が死ぬまで……長いようで短い時間だ。これほどに時間の重みを感じたのは初めてだった。



 映画は思いのほか面白かった。恋愛映画という初めて見るジャンルに違和感を覚えつつも、映画の世界に素直に引き込まれている自分もいた。
 あの後、僕たちはポップコーンと飲み物をそれぞれ購入した。ちなみに僕は塩味のポップコーンとコーラ、彼女はキャラメル味のポップコーンとオレンジジュースだった。ほんとに僕たちは方向性が合わない正反対だ。塩味も食べたいという彼女のわがままを交換という方法で解決した。僕は彼女のポップコーンを食べてはいない。
「『解けない恋の方程式』面白かったでしょ」
 映画館特有の暗く見通しの悪い通路を歩いている時、唐突に彼女がつぶやいた。僕は素直に答える。
「面白かったよ。普通に」
「でしょ。勉強の天才が恋愛においては平均点以下で、それを恋の方程式に見たてて書かれているのが面白かったよね」
 弾んだ口調で彼女は言った。暗い通路を抜け、明るい通路に出る。天井からの輝く照明がまぶしく、瞳孔の大きさが反射で変わっていると考えてしまう。
「君は他に死ぬまでにやりたいことはないの?」
 人混みをかき分けて歩く中、僕が彼女に質問する。彼女は少し笑顔を失いながらも死ぬまでにやりたいことを指で数えながら折る。
「渋谷のスクランブル交差点に行ってみたいな!」
「え!?」
 意外な返答に腹の底から本音が出た。オシャレをしたいとかウエディングドレスを着たいなどの、もっと女子らしい回答を期待していた。僕が反応に困っていると、空気をかえるためだろうか彼女が口を開く。
「意外だった?」
 図星だった。
「何で行きたいと思ってのかなって考えていただけ」
 僕は嘘をつく。
「毎朝ニュースで見る渋谷の交差点に憧れを抱いたから!」
「君はやっぱり不可思議だね」
「他にも一日中山手線を乗り続けていたい!」
「何周すると思っているの」
「分からないけど楽しそうじゃん! 早朝から深夜まで乗り続けるの! 東京の地獄の通金ラッシュも体験できて一石二鳥じゃない!」
 彼女の話は長く続いた。彼女の死ぬまでやりたい事の多さに少しばかり驚いた。
『彼女には時間がない』そう悟った。
 そして、僕は病気に対して少しばかりの怒りを覚えた。
 なんで彼女が病に侵されなければならないのだ! きっと彼女は病気を知る前までは普通に青春をエンジョイして、恋もし、結婚をもして温かく幸せな家庭を築くという未来予想図を描いていただろう。しかし、それを阻むかのように病が彼女の体を蝕んでいった。彼女は今、自分の未来に怯えていただろう。そりゃそうだ。ただの高校生が余命がいくばくもしない大病にかかっていると宣告されたら怖くなるだろう。僕でも怖くなる。
 当たり前だ。病気がかかるまで見えていた明るい未来、希望が病気という大きくどうしようもできない壁によって閉ざされてしまったのだから……。
 彼女の病気のことが分かっているのに何も手を差し伸べられない自分の情けなさを痛感した。
 映画館を出た僕たちは再び歩く。
「常陸君! お昼食べよう」
「うん」
 彼女の元気な声とは正反対のあっけない声で返事をする。さっきの思考がまだ残ったままだろうからか。
 彼女のために何ができるのか。残りの時間をどう過ごしたらいい。いや、そもそもまだ生き残る手段が一つはあるかもしれない。
 彼女を助けたい気持ちが文章という形で脳内を暴れる。しかし、実際に叶わないことが判明して虚しくなる。
 たくさん考えた。歩く道のりの中、小さな脳を目一杯回転させ自分なりの最良策を導き出した。果たしてこれが最良と言えるかは微妙だった。
「常陸君はラーメンとうどん、どっちが好き」
 透き通るような彼女の声が空気に溶け込む。僕は静かに返す。
「ラーメンかな」
「了解。ちなみに私はうどん」
「やっぱり方向性が合わないね」
 彼女は僕に向かって軽く敬礼をした。
「元気ないけど大丈夫?」
 彼女がいきなり聞いてきた。
 どう答えていいのか僕は迷った。正直に今考えていた事を告げるべきか、平常心を装いいつも通りに答えるべきか……。
「実は話があるんだ」
 僕は彼女の肩を軽く触り真剣な顔で瞳を見る。
 彼女は顔を真っ赤にして、挙動不審さを出す。彼女の行動を見て自分の行動に反省点があると自覚する。
 彼女は高い声を出す。
「きゃー!? まさか愛の告白。常陸君が私に恋愛感情を抱いているなんて!」
 まさか妄想でここまでとは……。
 僕は呆れて声も出なかった。しかしこれも彼女らしさがでていたので良いとも感じた。
「君の思っているほど僕はロマンチストじゃないよ。とにかく僕にとっては大事な話なんだ」 
 そう言葉を強く発し、白熱灯が灯る天井の下の机の一角でさっそうと言う。
 彼女はその間、嘲笑などの僕の言動を否定するような行為は一切せず、ただ顔に真剣さを表している。
「君は生きたいの?」
 自分のイメージやプライドを丸裸にして聞く。僕の心に不純物はない。
 どんな答えだって受け答える準備はできていたが彼女は僕の予想を大きく上回った。その言葉は自然と僕の鼓膜を突き破り、脳内で共鳴する。
「常陸君は私に生きてほしいの」
「人として生きてほしいよ。君の死を願うほど僕は残酷じゃないよ」
「そう。私も常陸君と同じかな」
 彼女は笑顔で告げる。しかし、彼女の笑顔はいつも見せる満開の桜のようなものではなく、作り笑いだった。
 彼女は小さく息を吸って言う。彼女が真剣な話をするという事は何となく分かってしまった。こういう時の彼女はいつも真面目で笑いは一切なかった。
「ねぇ常陸君……」
 僕は応える。
「私たちはどんな関係って聞かれたら常陸君はどう答える」
 関係。
 その言葉に大きな壁を感じた。これから言う意見によって関係性が大きく変わる。そう確信した。彼女と僕のこれからの分岐点になるこの瞬間、友達と答えるか、仲良しと答えるか、それとも……。
 言葉が頭を駆け巡り右往左往状態だった。もし、友達と答えてしまったら、さっき出された宿題がすぐに終わり、彼女の死が間近に来ると思い怖かった。でも心に嘘をつきたくなかった。
 この心の底から湧き上がてくる感情をどう処理すればいいか全くわからなかった。
「(病気を知っている)クラスメイト……かな」
 心に罪悪感を残した。でも彼女はいつも通り笑顔を浮かべ、意見を正面から受け止めた。
「そうなんだ。ありがとう」
 彼女は再び作り笑いを浮かべた。
「……うん……」
 僕は素っ気ない返事をする。
 自分の判断は間違っていたのだろうか?
 自分の意見に自信を持てないまま刻一刻と時だけ流れていった。
 その後、僕たちは本屋に行ったりしながら時間をつぶした。その最中の会話はそれまであった二人の間の壁がなくなったように何でも話せるようになっていた。彼女の家族の話や鉄道の話、恋バナとかいうやつは彼女が一方的にしゃべっていた。
 結局、今日の目的である『小説のモデル』が達成出来たかは敢えて彼女に聞かなった。
 夕日が西の山にかくれる寸前に僕たちは集合場所にて解散した。
 疲労困憊という程ではなかったが、一人で出掛けた時よりも圧倒的に疲れがにじみ出た。
「じゃあね常陸君。また今度」
 体言止めの彼女に対して僕は一言だけ返す。
「じゃあ」
 手を少しだけ上げ、僕たちは分かれた。その瞬間彼女は僕の背中に向かって叫んだ。相変わらずの声の大きさに僕は普通だったが、周りの人は動揺していた。
 僕はその言葉を耳ではなく背中で吸収し、脳に伝わる。
「今までありがとうね常陸君」
 笑顔でそう言い、彼女は遠くに走っていった。
 僕は彼女の背中が消えるまで見続けた。

 その夜、疲れて汗がべたつき気持ち悪いという理由で早めに風呂に浸かった。風呂あがりの余韻に浸り、帽子のようにバスタオルをかぶっているとスマホから音が鳴った。スマホの画面には無論、彼女の名前が表示されていた。
 僕は二階のベランダに立つ。
『今日一日、私のわがままに付き合ってくれてありがとう』
 月光がまぶしく、ベランダに映る影を背景に夜風を楽しむ。
 彼女からの返信を音で確認する。
『写真送るね。命令。この写真保存しなさい』
 写真とは今日撮った僕たち二人が映っているものだ。
『保存したよ』
 彼女に促されるままに文章と共に送られてきた写真を私物化する。
『前から思っていたんだけどさ、なんで常陸君は私のことを「君」って呼ぶの?』
『特に理由はないよ』
『命令。これからは私のことを「来夏」と呼びなさい』
 命令か。一段レベルが上がり、何故か知らないが呼び捨てで呼ぶように命令された。言いたくないので断る。
『嫌だ』
『呼ばなければこの写真をクラスLINEで回しちゃうよ』
『回したところで君の肩身がさらに狭くなるだけだよ』
『確かにね笑笑』
 この写真とはさっきの保存した写真だった。別にクラスで底辺の僕と彼女の写真を拡散されることによって危害が加わることは少ないけれど、学内での大切な読書の時間が真実を問い詰めるという形で失うのは避けたかった。なので、僕は彼女の要求にあっけなく従う。
『分かったよ。呼び捨てで呼ぶよ』
『早速練習しようよ。よ・ん・で』
 直接対面していないのにものすごい圧を感じた。
 何で今言わないといけないか。今実行することに疑問はあったが抵抗は思いのほか無かった。
 スマホから放たれる活字が怖く感じる。名前の漢字を思い出しながら「来る」の文字を変換し、「夏」を加える。
『来夏』
 これから呼び捨てで呼ぶと考えると悪寒が背筋を走った。まさか人生初の女性の呼び捨て相手があの彼女とは。ため息をもらす。そして、彼女はその十分後にある一文を送ってきた。
『今までありがとうね常陸君』
 僕は月の光を頼りに何度も文を確認する。月光がスマホにあたり言葉を際立たせている。これが今日の最後のメールだった。僕は肌寒さを感じ、自室へと戻る。ベッドに身を預けていると彼女のことを考えてしまう。
 このころから僕は彼女がわかれる時に言う言葉、『今までありがとう』の意味を考えるようになっていた。
 七色病の特徴の一つである、死ぬ瞬間が分かる。僕は仮説を立てる。
 彼女は近いうちに死んでしまうのか。
 僕の脳に不吉な言葉が浮かんだ。