僕は、海から帰ってきたヒメを浴室に運んでシャワーを浴びせ、浴槽に水を入れながら冷蔵庫に一匹残っていたアジを食べさせた。 満腹するとすぐに、ヒメは浴槽の中で眠りに就いた。初めての海にヒメも疲れたのだろう。僕のせいだ。
 ヒメが眠ると、僕は浴室の洗い場に座ったままスマホを開いた。ネットの通販で買い物だ。
 買う物はたくさんあった。まず、ブルーシート。10メートル四方の物を、全部で5枚。どれくらい必要かわからなかったので、とにかく多めに。次に、折り畳み式の大きな衝立。高さ、幅ともに180センチの物を二枚。自家用のプール。ビニール製で、直径180センチ、深さ50センチの円形の物。色は水色。ホースを1本。長さは30メートル。ガムテープを五巻。
 ホームセンターでも買えたかもしれない。でもホームセンターの開店時間を待っていられなかった。買っても持って帰れない。どうせ配達を頼むことになる。それなら。
 ヒメが眠っている間にと思い、僕は作業に取りかかった。
 まずは家具の移動。僕の部屋にそもそも家具はそう多くない。
 ダイニングキッチンにあったのは、ラックに乗せたテレビとビデオデッキ。それに小さなテーブル。それだけだ。テレビとビデオデッキはラックごと廃棄することにした。電気製品は危険だ。ヒメが来てからビデオも見てない。最低限のニュースくらいならスマホで十分だ。玄関の外へ運び出す。
 テーブルも処分する。ヒメが来るまで僕はそのテーブルで食事をしていた。ヒメが来てからは使っていない。食事の時は僕の分もトレーに乗せてヒメといっしょに浴室で食べていた。テーブルももう必要ないだろう。
 洋室にあったのは、洋服ダンスと本棚。それに学生時代から使っている机と椅子。
椅子は回転式。ヒメが乗ってそこから落ちたら危ない。椅子も玄関の外へ運び出す。机は……僕一人で外まで運び出すのは無理だった。なんとかダイニングまで運ぶ。
 それから、洋服ダンスと本棚。これも、ダイニングまで。キッチンスペースの反対側の壁際に寄せた。
 作業が一段落したところで浴室へ行ってヒメの様子を見た。ヒメはまだ眠っていた。
 いつの間にか夜が明けていた。僕は近くのコンビニへ走った。ヒメの食べ物の買い出しだ。スーパーもまだ開店前だ。自転車は大学に置いたままだ。
 ヒメが起きるのを待って、ヒメに食事をあげた。ハムとチーズとパン。それからヒメにシャワーを浴びせてあげた。僕がいっしょにいれば、ヒメは浴室から外へ出ようとはしなかった。
 ヒメを見ながら通販で注文した品物が届くのを待つ。全部そろったところで、次の作業だ。
 何もなくなった洋室の床にブルーシートを敷き詰める。ブルーシートの端をサッシ戸のすぐ内側にガムテープで留める。サッシ戸に向かって左側の壁の壁際からブルーシートを壁に沿って持ち上げる。1メートルくらいの高さのところでガムテープで壁に貼り付ける。釘で打ち付けた方がしっかり固定できるのだろうけど、そんなことをしたら大家さんに叱られる。右側の壁にも同じようにブルーシートを張り付ける。
 次はダイニングキッチン。壁際に寄せてあった机、洋服ダンス、本棚にブルーシートを被せて、ガムテープで留める。洋服ダンスはこれからも使わなければならない。シートを下から持ち上げれば衣類を出仕入れできるようにした。本棚にあるのは最低限の書籍と文房具、それにタブレット。これもシートを持ち上げれば出し入れできるようにした。ダイニングの壁には玄関のインターフォンの受話器が設置されていた。さすがにこれは使えないと困る。その部分にはシートが被らないようにする。
 シートをそのまま洋室の方に伸ばす。ダイニングキッチンと洋室の間には引き戸があったけどそこは開けっ放しのままにした。以前から閉めたことがなかったけど。伸ばしたシートにその引き戸を回り込ませて洋室の壁のシートにガムテープでつなぎ合わせる。
 その次はキッチンスペースだ。玄関に置いておいた折り畳み式の衝立を持ち込む。縦横とも180センチ。広げるとなかなかの大きさだ。この衝立で壁際のキッチンスペースを囲む。キッチンにはコンロがある。危険だ。ガスの元栓は閉めてあるけど、念のため。
 衝立のキャスターをロックして、更にガムテ―プを使って動かないように床に固定する。衝立にもブルーシートを被せてガムテープで留める。
 冷蔵庫は使う必要がある。いや、必需品だ。衝立の端、浴室側のわずかな隙間からキッチンへ入って冷蔵庫を開けられるようにする。そこから食べ物や食器の出し入れもできる。
 それから、机や本棚にかけたシートと同じように、衝立に被せたシートを洋室の方に伸ばす。
 その先にクローゼットがあった。忘れていた。クローゼットの中には布団がある。クローゼットを開けて、中の布団を持ち出して、ダイニングでシートを被せてあった机の下へ押し込む。閉めたクローゼットの扉をシートで覆って、洋室の壁のシートに繋げる。そこもガムテープでつなぎ合わせる。ダイニングキッチンにブルーシートに囲まれた通路ができた。
 浴室前の短い廊下にもブルーシートを敷いてガムテープで留める。シートをダイニングキッチンの通路まで伸ばし、さらに洋室に敷いたシートまで繋げる。
 部屋の床はすべて、ブルーシートで覆われた。
 次に、ビニールプール。洋室、いや、元洋室だったところの壁際、サッシ戸の近くに広げて、自転車用の空気入れで膨らませた。子供用の物だけど、仕方ない。もっと大きな物もあったけど、部屋の中に置くにはこれくらいの大きさが限界だ。
 巻いたまま玄関に置いておいたホースを取ってきて、その片端をプールの中に入れる。ホースを伸ばしながら浴室へ。ヒメはまだ、浴槽の中で眠っている。
 浴室の水道にホースを繋げ、蛇口のレバーを上げると急いでまた洋室へ。プールに入れたホースの片端を手に持って、待つ。間もなく、水道から届いた水が、ホースから噴き出してきた。
 プールの中に十分に水が溜まったところで、ブルーシートを敷き詰めた床にホースを向ける。ビショビショになるまで、ブルーシートを濡らす。
 浴室へ戻ると、ちょうど目を覚ましたヒメが浴槽から顔を出していた。浴室に入った時に僕が起こしてしまったのかもしれない。でも、丁度いいタイミングだ。僕はヒメを抱き上げると、そのまま浴室から出て、ブルーシートを敷いた廊下に降ろした。
ヒメが身体を起こして部屋の奥を見た。すっかり様変わりした部屋の中を。
 すぐに、ヒメが動き出した。ヒメは濡れたシートの上を滑るように進んだ。いや、文字通り、滑っていた。真っ直ぐにダイニングキッチンを通り抜けたヒメは、広くなった奥の洋室のシートの上で身をひるがえして僕の方を見た。
 ありがとう、て、そう言っていた。
「気に入ったかい?」
 僕もヒメを追って奥の洋室に入った。
 濡れた部屋の中を一周したヒメがプールに気が付いた。ヒメがまた僕の方を見た。
「いいよ、入ってみて」
 僕がそういうと、ヒメは頭からプールに滑り込んだ。ヒメが、プールの中を一周する。回遊できるほど大きくはないけど、狭くなった浴槽よりは自由に動ける。
 何周かしてから、ヒメが顔を出した。よろこんでいた。ヒメは、よろこんでいた。僕にはそう見えた。ヒメは、満足してくれたようだ。
「ヒ、メ」
 改めて、僕はヒメを呼んでみた。ヒメは、照れているのを隠すたように、また水に潜ってしまった。

 六月になった。
 僕がヒメのために、改装? DIY? した部屋を、ヒメは気に入ってくれた。今ではヒメは、起きている間はずっと洋室にいる。ブルーシートの上を這いまわったり、プールに浸かったり。ヒメにしてみればけして広くはないスペースだろうけれど、それでも好きなように動き回っている。
 昼間でもサッシ戸の前のカーテンは閉めていた。水路の対岸からは僕の部屋は丸見えだ。ヒメの姿を見られたらたいへんだ。
 布製のカーテンはすぐにビショビショになった。僕は通販でビニール製のカーテンを買って付け替えた。
 僕も、部屋にいる時はTシャツと短パンでいた。濡れてもいいように。
 暑くなってきていた。僕が大学へ行っている昼間、閉め切った部屋の中の温度はかなり高くなっているはずだ。ヒメは大丈夫だろうか。心配になる。
 ヒメにとってもっとも快適な温度は、どれくらいなのか……わからない。これからもっと暑くなったら、エアコンで冷房を入れておいた方がいいだろうか。そんなことを考えた。でも、冷房が効きすぎて、かえって寒くなってしまったら……
 部屋には水を張ったプールも、浴槽もあるし。暑くなったら、自分で何とか……ヒメに任せる、しかないだろう。そう思い直した。
 そしてそのヒメは……更に大きくなっていた。身長は、160センチ……いや、尾ひれの部分まで入れるともっと大きいかもしれない。僕と同じくらいだ。
 体つきは、変わらない。相変わらず、スマートでシャープ。
 身体の色は……青が、一段と輝きを増した。尾ひれの先端まで、輝く青。サファイアの光度が増したように見える。そんなことがあるのか僕にはわからないけど。
 触手の透明な部分はすっかりなくなり、真っ白になった。少し長くなったかもしれない。全身が大きくなったから、だけじゃなくて。
 顔つきは、変わらない。あどけない少女の顔。いや、少しだけおとなびただろうか……僕がそう感じているだけかもしれない。
 ヒメの生活パターンは、また少し、変わった。
 睡眠時間が短くなった。朝食を摂った後も、ヒメは眠らずに部屋の中を動き回るようになった。仕方なく僕は、ヒメを部屋に残したまま大学へ行った。後ろ姿を見つめられながら部屋を出るのは、ほんとにつらかった。でも……仕方ない。
 食事は洋室のブルーシートの上で食べた。ヒメは、シートの上に直に置いた皿に直接口を付けて。僕は胡坐をかいて、トレーを膝に乗せて。
 動いていない時のヒメは、いつも腹ばいか、その姿勢のまま上半身を起こしていた。ヒメは、映画やアニメの人魚みたいにお尻をついて座ることができないみたいだ。だから、食事の時は腕立て伏せの姿勢になる。そんな姿勢でもヒメは少しも苦しそうじゃない。いつまででもそうしていられる。僕はヒメの身体の柔らかさと腹筋背筋の強さに感心した。
 大学から戻ると、夕食だ。大学の帰りにそのままスーパーに寄るようにした。
 夕食後もヒメは眠らなかった。だから夕食後はまずシャワーを浴びることにした。シャワーの時は浴室を使った。
 それから部屋の掃除。シャワーを出しっ放しにしてヒメに一人で浴びていてもらって、その間に僕は雑巾で部屋じゅうのブルーシートを拭いた。カーテンとサッシ戸を開けて湿った空気の換気もした。ビニールプールの水をテラスに流して、プールも雑巾で拭いた。
 それからまた、浴室へ。シャワーを止めて水道にホースを繋ぐ。ヒメといっしょに浴室を出る。プールに新しい水を入れながら、シートにも水を撒く。ヒメは、シートの上を滑ってホースから出る水を追いかけた。
 それから深夜まで、ヒメと過ごした。プールで水を浴び、部屋の中を滑って動き回るヒメを見ながら。
 部屋の灯りは暗くしていた。カーテンは閉めているものの、深夜まで部屋の灯りが点いているのもどうかと思って。ヒメもきっと、暗い方が好きだ。僕は勝手にそう思った。暗闇の中では、ヒメの肌は輝かない。サファイアの、海の輝きを見ることができない。それでも……それでもヒメは、十分にきれいだった。
 深夜、ようやくヒメが眠りに就く。眠くなると、ヒメは自分で浴室へ行って、浴槽の中で丸くなった。やっぱりそこが、ヒメのベッドだ。ヒメに合わせて僕も睡眠を摂った。濡れたシートの上にそのまま布団を敷くわけには行かないから、浴室前の廊下のブルーシートをまくり上げてそこに布団を敷いた。
 僕の睡眠時間も必然的に短くなっていた。僕の中に分泌し続けているアドレナリンのせいだろう、ヒメといる時は少しも眠くならなかった。でも、布団に入ると途端に睡魔が襲ってくる。あっという間に意識を失う。そして僕は……ヒメの夢を見た。

 その夜も僕は、ヒメが浴槽の中で丸くなったのを見届けてから、浴室前に敷いた布団の上に横になった。
 ヒメが眠る浴室の方を見ながら、思った。
 以前は浴槽の出入りのためにヒメを抱き上げてあげなければならなかった。でも、大きくなったヒメはもう、浴槽の出入りも自分でできるようになっている。僕が抱き上げる必要はない……それが、少しさびしい。もっとも、今のヒメは、重くて、僕には持ち上げることはできないかもしれない……それに……
 ヒメと暮らし始めた頃、ヒメは、僕が小さい時に家にた熱帯魚の「ヒメ」だった。
 少し大きくなったヒメは、僕にとって手のかかる妹みたいな存在だったかもしれない。
 でも今のヒメは……女性。大人の女性だ。男性の僕が、女性であるヒメの身体を抱き上げていいものなのか……
「私、前からヒロ君のこと、好きだったんだ」
 いつか沙季さんに言われた言葉を思い出した。
 ヒメは……僕のことをどう思っているのだろうか。
 そんなことを思いながら、僕は眠りに落ちていた。
 
 右頬に、冷たい感触が走った。僕は、熟睡していた。何が起きているのかわからない。
 また、冷たい感触。今度は首筋だ。僕は目を開けた。真っ暗だ。
 起き上がろうとした。身体が動かない。自分の顔を左右に動かしてみた。顔は、動いた。動いた顔を、右側に回した。
 ヒメだった。僕の顔のすぐ横に、ヒメの顔があった。真っ暗な中、あの、ダイアモンドの目が光っていた。
「ヒメ……」
 かろうじて声が出た。
 ヒメが、僕を見つめながら、舌を出した。細くて、長い舌。暗くてその色はよくわからない。確か、ヒメの舌は、肌と同じ、青い、海の色。そんなことをぼんやりと思い出した。
 ヒメが、その舌で、僕の頬を、舐めた。いや、頬に触った。
 冷たかった。わかった。さっきの感触は、これだったのだ。
 続いて、僕の首筋を、もう一度。
 ヒメは、何をしているのだろうか。覚めきれない頭の中で、僕は考えていた。
 僕を、食べようとしているのだろうか……
 怖くはなかった。ヒメが、そんなことするはずない……そう思った。
 ヒメの舌が、僕の胸に伸びた。
 僕を食べるのではないとしたら、ヒメは……
 僕は、すぐそこにあったヒメの額に、自分の唇をあててみた。
 ヒメが顔を上げた。ヒメと目が合った。
 ヒメの舌が僕の胸から離れた。いったん持ち上がったヒメの舌が、僕の口元を左右に横断した。ヒメは僕に……キスしてくれたのだ。
 右腕を動かしてみた。動いた。
 動いた右腕を、ヒメの方に伸ばした。ヒメの身体があった。ヒメに、触った。ヒメの身体に触れるのは、いつ以来だろう。冷たくて、でも柔らかくて、スベスベとした、ヒメの身体。
 僕はそのままヒメを抱き寄せた。いや、ヒメが、ヒメの方が僕を、抱き寄せていた。ヒメの方が僕よりもずっと、力が強かった。
「ヒ……メ」
 声を出してみた。声は、出た。
「……向こうへ、行こう」
 僕はダイニングキッチンの方を見た。ヒメにとっては、布団の上よりも濡れたシートの上の方が気持ちいいだろう、そう思ったから。
 僕とヒメは抱き合ったまま、敷き詰めたブルーシートの上を滑るようにして、いや、本当に滑って、衝立と家具に挟まれてできた狭い通路に移動した。僕を抱いたヒメが僕を運んでくれた、て言った方がよかったかもしれない。
 僕は、改めてヒメを抱きしめた。
 僕の両手が、ヒメの背中の、あの柔らかな触手を感じていた。僕の全身が、ヒメの全身を感じていた。
 ヒメの頬に、鼻に、口に、首に、口づけた。ヒメも、その舌で僕の顔じゅうを撫でてくれた。
 更に強く、力を入れてヒメを抱きしめた。僕の身体をヒメに押し付けた。僕は、射精していた。それでも僕はヒメから離れなかった。ヒメも、僕から離れようとしなかった。ヒメと一つになれた。僕は、そう感じていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。僕は目を開けた。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。
 僕の横にいた、ヒメがいない。
 ヒメ……ヒメは……
 僕は起き上がった。起き上がることができた。暗い部屋の中に、ヒメの姿を探した。
 いた。ヒメは、奥の洋室のサッシ戸の前で、外を見ていた。僕の方に背中を向けて。
 閉めておいたはずのカーテンは少しだけ開いていた。カーテンの間から弱い光が差し込んでいた。月明りだろうか……
 
 その時。
 ヒメの背中が、光り始めた。
 背中だけじゃない。ヒメの頭から首、背中、腰に掛けて生えていた、あの、白くて柔らかい触手が……光り始めた。無数の触手がいっぺんに、青く……青く光り始めた。
 どこかの光を反射している、のではなかった。ヒメが……ヒメ自身が、光っていた。発光していた。
 きれい……だった。美しかった。
 なぜだろう。涙が出てきた。
 僕はヒメに近づこうとした。でも、動けなかった。近寄っちゃいけない。そう思った。
 きれい……美しい……いや、そんな言葉じゃ足りない。言葉が見つからない。
 それは……天使の美しさ……女神の美しさ……そう……神々しい……
 そんな言葉が頭に浮かんだ。でも……そんな言葉じゃ、まだ……それでも、まだ、足りない。
 ヒメの背中が、言っていた。光の束になったヒメの背中が、言っていた。動けないでいる僕に向かって、言っていた。
 わたしを見て。一番きれいな、わたしを見て。
 わかった。僕にはわかった。
 ヒメは、おとなになったんだ。今、この瞬間、ヒメは、おとなになったんだ……
 涙が、涙が止まらなかった。僕はただ、光り輝くヒメを、見つめていた。

 その次の日。夕方から小雨が降り出していた。そろそろ梅雨入りの時期だ。僕は濡れながらアパートへ向かって自転車を飛ばした。
 前の夜のことを思い出していた。今夜も、ヒメは僕のところへ来てくれるだろうか。そして今夜も、ヒメは、光り輝いてくれるだろうか……
 アパートへ着くと、ヒメはサッシ戸のカーテンの間から外を見ていた。
 前の夜、ヒメが青く光り輝いていた時、あの時もヒメは外を見ていた。ヒメは、月を見ていたんだと思う。月の光を吸収して、その力でヒメも光輝いていたんじゃないかと思った。
 今、ヒメが見ているのは、月じゃなくて、雨。ヒメが雨を見るのは初めてかもしれない。もちろんヒメは、光ってはいない。
 ヒメは今、何を思っているのだろう。雨を浴びたいのだろうか。シャワーを浴びるように。
 夕食後。いつもならシートの上を動き回る時間。でも、今日のヒメはずっと、サッシ戸から外を見ている。
 僕は、夜が更けるのを待った。
 深夜。ヒメは相変わらずサッシ戸の前で外を見ている。僕は、サッシ戸を開けてやった。ヒメが僕の顔を見た。
「いいよ、お行き」
 僕がそう言うと、ヒメはサッシ戸からテラスに這い出した。雨の深夜だ。誰かに見られることはないだろう。万一見られても、きっと暗くてわからないだろう。そう思った。
 小雨を浴びながら、ヒメがテラスを這いまわり始めた。コンクリートのテラスだ。ブルーシートの上のようには行かない。痛くないか、擦り剥いたりしないか、僕は心配しながらヒメを見守った。
 大丈夫そうだ。ヒメは、嬉しそうだった。楽しそうだった。やっぱりヒメは、雨を浴びたかったのだ。そう思った。
 狭いテラスを行き来していたヒメが、金網のフェンスの前で上半身を起こした。水路を見ているのだ。
 波に乗って、ヒメがやってきた水路。海から、自分で泳いで戻ってきた水路。
 水路を見ていたヒメが、後ずさりした。と、次の瞬間、ヒメが身体を反らして金網めがけてジャンプした。いったん金網に両手をかけたかと思うと、真上に飛び上がって金網を超えた。そしてそのまま、水路に頭から飛び込んだ。
「うわ!」
 僕は思わず声を上げた。ヒメの身体能力の高さに驚いたのと、ヒメが無事かという心配と、両方だった。
 僕は裸足のままテラスに飛び出して、金網越しに水路を見下ろした。
 ヒメは、無事だった。水路から顔を出して、こっちを見上げていた。ほっとした。
 ヒメはそのまましばらく、僕の方を見ていた。待っているだろうか。僕を。僕を?
 僕は水路の下にいるヒメに向かって叫んだ。
「僕は行けないよ!」
 わかったようだ。ヒメが水中に潜った。すぐに、ヒメの背中の触手が水面に現れた。
 次の瞬間、触手が水を切って進み始めた。海の方に向かって。あっという間に触手が水しぶきに変わった。すごいスピードだ。そしてそれも、すぐに見えなくなった。
 急に不安になった。ヒメは……戻ってきてくれるだろうか。今度こそ本当に、海に帰ってしまうのではないか……
 部屋に戻った僕は、サッシ戸を開けたまま、ブルーシートの上に座り込んだ。ヒメが外を見ていた、同じ場所に。
 僕は水路の方を見ながら、ヒメを待った。

 三時間が過ぎた。僕は立ち上がって、テラスに出た。金網のフェンスに手をかけて、そこから水路を、そしてその向こうの海を見る。何回目だろうか。やっぱり、じっとしていられない。
 ヒメは……帰って来ない。夜明けが近い頃だ。雨模様だから、外は少しも明るくならない。
 あきらめて部屋にもどる。ブルーシートの、同じ場所に腰を下ろす。そしてまた、水路の方を見る。
 その瞬間。金網の向こうに顔が見えた。ヒメだ。
 僕は立ち上がった。ほぼ同時に、ヒメが飛び上がった。ヒメは、あっという間にフェンスを飛び越えてテラスに飛び降りていた。コンクリートのテラスに両手を突くと、その勢いのまま弾むようにしてテラスに降りようとしていた僕に飛びついてきた。
 尻もちをついた僕の上を滑るようにして部屋の中に入ってきたヒメは、そのままシートの上をクルクルと回転した。
「おかえり、ヒメ」
 僕が言うと、ヒメはいったん僕を見て、それからまた回転を始めた。興奮冷めやらぬ、そんな様子だ。楽しかったのだろう。
 僕は浴室へ行って、水道の蛇口にホースを繋いだ。ホースを洋室まで引っ張ってきて、プールの中に水を出した。
 ヒメがプールに飛び込んだ。僕はホースの水をヒメに向けた。水を浴びたヒメが、顔を上げた。
「今、きれいにしてあげるからね」
 わかったようだ。ヒメがプールの中で身体をくねらせた。
 水をかけながら、ヒメの身体を点検した。怪我や擦り傷もなさそうだ。
「楽しかったかい?」
 改めてヒメに訊いた。ヒメがまた顔を上げて僕を見た。
 とっても楽しかったよ、ヒメの顔はそう言っていた。

 それから毎夜、ヒメは水路から海へ出かけた。今のヒメにはそれくらいの運動が必要なのだろう。
 その代わり、僕といる時間は短くなった。それに……ヒメが僕のところへ来てくれたのも、あの一度きり。ちょっと、さびしかった。
 海に行く時、ヒメはテラスから軽々とフェンスを飛び越えた。帰って来る時は自分でコンクリートブロックを登ってきた。ヒメの指先は吸盤になっていて、それを使ってコンクリートブロックも簡単に登ることができるようだった。
 フェンスの向こうまで登ってきたヒメがフェンスを飛び越えて着地する時に痛くないように、僕はテラスにマットレスを置いてあげた。これもネットの通販で買った。
 ヒメの姿を誰かに見られないか、少し心配した。水路や海では、ヒメはたぶん水中に潜っている。暗い夜だし、ヒメの泳ぎは早い。だいじょうぶだろう。
 テラスから水路に上り降りする時もヒメの動きは素早い。部屋やテラスは暗くしているし、そもそも深夜に僕のアパートを覗く人はいないだろう。そう思った。
 一つだけ気になることがあった。ヒメはいつも、水路に飛び込んだ後しばらくの間、僕を見上げていたことだ。暗い夜の水路だ。ヒメの顔も目も、明るい中にいる時のようには輝かない。それでも微かに光るヒメの目が、僕を見上げていた。
 僕を、誘っている……いっしょに行こう、そう言っている。僕にはそう思えた。
 でも……それは……僕にはできない。いや、それなら……それなら、僕も。

 次の週末。ヒメを部屋に残したまま、僕は自転車で買い物に出かけた。
 行く先はマリンスポーツの専門店。このあたりの海岸はサーフィンやボードセイリングのスポットだ。だから、近くにそういう店もあった。もちろん僕は、マリンスポーツ、ていう柄じゃない。でも。それでも。
 そこで僕は、ウエットスーツを買った。真夏ならともかく、この時期に水に入るためには必需品だ。通販でも手に入ったのだろうけど、さすがにこれは、試着してみないと。そう思った。
 それから、足ヒレ。ダイビングをする時に使うもの。フィン、ていうらしい。深く潜るつもりはないけど、やっぱり素足というわけには行かない。
 そして、ゴーグルとシュノーケル。ゴーグルもダイビング用のもので、鼻で息をするためのマスクがついている。シュノーケルは必要ないと思ったけど、セットで安くなるって、店長さんに勧められて。
 ヒメの食費やこの前の部屋の内装で、わずかな貯金は使い果たしていた。だからカードで。分割払い。
 店長さんは、いかにもサーファー、ていう感じのおじさんだった。その店長さんに着方や使い方を説明してもらって、実際に試着してみた。
 僕が試着室で試着をしていると、隣の試着室から話し声が聞こえた。他のお客さんが話をしているらしい。
「津波起こした海底火山、ようやく治まったみたいね」
 女性の声。ヒメを僕の部屋に運んできた、あの津波、あの火山のことだ。
「海底火山って、どうなってるのかな? ねえ、潜ってみない?」
 女性の声が続ける。
「また噴火したらどうすんだよ。危ないよ」
 男性の声。
「弱虫ね」
「……それに、どうやってそこまで行くんだよ」
「ショウちゃんのクルーザーで」
「そんなとこまで無理だよ。それに深い海底だろ? 行っても潜れないよ」
「そっか……残念」
 話を聞きながら、僕は思った。
 そこは……そこはきっと、ヒメの故郷だ。
 活動が治まった……ヒメの故郷は、無事だっただろうか……試着したウエットスーツを脱ごうとしていた僕の手が止まった。
 そこには、ヒメの家族や仲間もいるのだろうか……だとしたら……ヒメはやっぱり、そこに帰った方が……
 そんな考えがまた、浮かんできた。僕はあわててそれを否定した。
 ヒメは、海へ行っても必ず、僕の部屋に帰って来る。ヒメの故郷は火山のある海じゃない。ヒメの故郷は、僕のアパートだ。

 その夜。夕食後、ヒメが海に行く時間。僕は浴室へ行って、ウエットスーツを着て、その上からシャワーを浴びた。
 浴室から出てヒメのいる洋室に行くと、プールの中にいたヒメがウエットスーツ姿の僕を見上げた。
「似合うかな?」
 訊いてみた。ヒメが不思議そうに首をかしげた。
「今日は、僕もいっしょに行くから」
そう言って、僕はサッシ戸を開けた。雨は降っていない。ヒメがプールから這い出して、テラスに降りる。僕もヒメを追ってテラスに出た。
 一度僕の方を振り向いたヒメが、すぐに飛び上がって金網のフェンスを越えた。そのまま水路へ飛び込む。
 僕は、フェンスの金網越しに水路を覗き込んだ。水路の下から、ヒメが僕の方を見上げていた。いつものように。
「今行くよ。待ってて」
 そう言って僕は、フェンスに設置しておいた縄梯子を水路に降ろした。
 縄梯子も通販で買った。アパートの二階の部屋にはもともと設置されているのだろうけど、一階の僕の部屋にはなかった。大家さんに言えば付けてもらえたかもしれないけど、これは自腹で。
 僕もフェンスを乗り越えた。海藻のかたまりに包まれていた小さなヒメを掬い上げた、あの日のことを思い出した。
 コンクリートブロックの塀の上から水路を見る。ヒメはまだそこで僕を待っていてくれた。
 水路の対岸を見た。住宅の窓から漏れる灯りが見えた。もたもたしてはいられない。誰かに見られないうちに。
 足ヒレを付けて、縄梯子を降りた。水面に足が届くところまで降りると、そのまま足から飛び込んだ。
 身体を水に慣らす。ヒメは僕のそばで待っていてくれた。
 額に乗せていたゴーグルを下ろし、シュノーケルを噛む。
「さ、行こう」
 僕が言うと。ヒメが海の方に向かって泳ぎ出した。例の、あのスピードで。
 僕はあわてた。とてもついて行けない。僕は泳ぎが得意、というわけではない。海は好きだった。でも、海で泳ぎたかったわけじゃない。泳ぐのは高校の体育の授業以来だ。
 僕は平泳ぎでヒメを追った。なかなか進まない。
 気が付くと、すぐそばにヒメがいた。僕を心配して、ヒメが戻ってきてくれたのだ。
 遅くてごめん……そう言おうとしたけど、シュノーケルを口に含んでいるから話せない。
 突然、ヒメが抱きついてきた。あっ、と思った瞬間、僕を抱いたまま、ヒメが泳ぎ出した。あのスピードで。
 息ができない。どうしよう。僕はシュノーケルを吐き出した。やっぱり買わなければよかった。
 ヒメが、水中に潜った。僕を抱いたまま。苦しい。僕は身もだえして、ヒメの肩をたたいた。
 ヒメが、止まった。僕の様子に気が付いてくれたようだ。水面上に顔が出た。僕は激しくむせ込んだ。
 しばらくしてようやく、呼吸が整った。水中で、ヒメが僕を支えていてくれた。いつの間にか、左足の足ヒレが無くなっていた。
「……僕は、水の中では息ができないんだよ」
 僕がそう言うと、ヒメが僕を離した。いったん僕から離れたヒメが、僕の後ろに回り込んで、また僕を抱きかかえた。ヒメが仰向けになった。ヒメに抱かれた僕も、仰向けの形になった。夜空が見えた。
 ヒメがまた泳ぎはじめた。背泳ぎのかっこうだ。今度は、さっきよりだいぶゆっくりだ。もう僕の顔が水に潜ることはない。
「……ありがとう、ヒメ」
 ヒメにお礼を言った。
 左右に視線を遣ると、水路の両岸のコンクリートブロックが見えた。その間は、暗い夜空。
 間もなく両側に見えていたコンクリートブロックが見えなくなった。水路の幅が広がったのだ。黒い幕が降りてきて、夜空も見えなくなった。橋の下をくぐっているのだ。あの、海岸沿いの道路の橋だ。
 その幕が足元の方に降りて行くと、再び夜空が現れた。小さな星が見えた。きっともう、海だ。それでもしばらく、ヒメは泳ぎ続けた。
 ヒメが、止まった。僕を離して、ゆっくりと僕の隣に移動した。
 暗い、夜の海が見えた。立ち泳ぎをしながら、僕は身体を回した。
 光の帯が見えた。夜空の星を集めたような、真っ直ぐな帯が、海の向こうに輝いて見えた。そっちの方向が海岸なのだろう。光の帯はきっと、海岸沿いを走る道路の灯りだ。
 光の帯の上にも、星を散りばめたような光が見えた。きっと、高台にある住宅の灯りだ。
 きれいだ……ヒメが見せてくれた、夜景。この場所でしか見られない、最高の夜景……
「……ありがとう」
 改めて、ヒメにお礼を言った。
 僕に顔を向けたまま、ヒメがゆっくりと、水面に沿って身体を伸ばした。ヒメの背中の触手が水面に浮かび上がった。
 その触手が……光り始めた。青く、光り始めた。
 光るヒメを見るのは、二度目だ。一度目は、月の夜だった。僕は、ヒメは月を見て光るのだと、かってに思い込んでいた。
 違った。今夜、月は見えない。
 光は……光はヒメの、喜び。歓喜。そう思った。ヒメは……喜んでいるんだ。そう思った。
 あるいはそれは……ヒメの、幸せの表現、かもしれない。僕はそう思った。
 わたし、幸せだよ。ヒロくんに出会えて、幸せだよ。
 ヒメが、そう言っていた。僕にはわかった。ヒメが、僕を見ながら、そう言ってくれていた。
 海岸の方に見える夜景は、美しかった。でも僕の目の前で光るヒメは、その何倍も、何十倍も、何百倍も、美しかった。
「……ヒメ」
 僕は足をばたつかせて、ヒメに近づいた。そして光るヒメを、思いっきり、抱きしめた。