大学にいても人魚のことが気になって仕事に集中できなかった。
浴槽の中に残してきてしまったけど、大丈夫だろうか? 生きているだろうか?
人魚のことは誰にも話さない、そう決めたけど、では、あの人魚をどうする?
一番いいのは、やっぱり人魚がいた場所、海に帰してあげることだ。人魚をバケツに入れて、海岸まで行って放してあげる。生まれたばかりのウミガメの子供のように人魚が波の中に泳ぎ出して行く姿を想像した。
でも、もし誰かに見られたら……他の誰かに捕まったりしたらたいへんだ。海に放してあげるのは、誰も見ていない深夜がいい。
今夜? 人魚を運ぶバケツにも水を入れなければならないだろう。けっこうな重さになる。それを海岸まで運ぶ。重労働だ。明日も仕事がある。寝坊はできない。それなら……人魚を海に返すのは、翌日が休みの日がいい。僕の勤務は土日が休みだ。金曜か土曜の夜なら……
決めた。人魚を海に返すのは、今週末だ。
早く帰りたかった。早退させてもらおうかと思ったけど、津波による休校もあって仕事が溜まっていた。一段落したら、て思ったけど、それがなかなか終わらない。仕事に集中していないせいもあるけど。
五時。ようやく終業。残業はしない。残業している場合じゃない。僕はいつも自転車を転がしながら歩く坂道を、自転車に乗って走った。下り坂ではスピードの出し過ぎに気をつけながら。
アパートに着くと、すぐに浴室へ。浴槽をのぞく。人魚はまだ、浴槽の底に丸まって眠っていた。
「ただいま」
声をかけた。人魚は動かない。ほんとうに眠っているのだろうか。それとも……
少し心配になった。僕は浴槽の中に手を入れて、人差し指で人魚の腰のあたりを触ってみた。
驚いたのだろう。人魚が飛び起きた。そして水面から顔を出して僕を見た。その目は僕を責めていた。びっくりさせないで、て。
「ごめん」
謝ってから、あらためて声をかけた。
「ただいま……」
そこで初めて気が付いた。この人魚を何て呼べばいい? 「人魚」は固有名詞ではない。この人魚に、名前を付けてあげないと。
考える……必要はなかった。
ヒメ。人魚姫の、ヒメ。かつて僕の部屋にいた熱帯魚のヒメよりずっと、「姫」らしい。
「ただいま、ヒメ」
僕は浴槽に向かって、あらためて声を掛けた。
僕が声を掛けると、浴槽の水面から顔を出していたヒメが、口をパクパクと動かし始めた。そう、お腹が減ったということだ。
「ちょっと待って。すぐに準備するから」
そう言って、僕は部屋を飛び出して自転車に乗った。行く先は近くのスーパー。ハムもチーズも今朝全部食べてしまっていた。
とりあえず牛乳と食パンとハムとチーズを買う。牛乳は一リットルのパックを二本。食パンは一斤をそのまま。ハムとチーズは、スライスされた物ではなく、大きめのかたまりの物を。
アパートに戻った僕はいったんヒメの様子を確認する。ヒメは浴槽の中をゆっくりと回遊していた。すぐにキッチンへ行って、スーパーで買ったハムとチーズを包丁で刻む。食パンは小さくちぎって丸める。今朝と同じように。
ハム、チーズ、食パンを乗せた皿を持って浴室へ。浴室の縁に皿を乗せるとすぐに、ヒメはそれに口を付けた。
吸い込むようにして食べているヒメを見ながら、その横にもう一枚皿を置いて、牛乳を注いだ。ハム、チーズ、食パンの皿が空になると、牛乳の皿もあっという間に飲み干した。
そんなヒメを見ながら、思った。ヒメは、ハムとチーズとパンを食べた。そして牛乳を飲んだ。でも、ヒメが、本当に好きな物? 主食? は、何なのだろう。安いハムやチーズでよかったのか? もっとヒメが好きな、ヒメが喜ぶ物があるのではないか。
ヒメにもっといろいろな物を食べさせてあげたい。そう思った。でも、僕がヒメといられるのは……
満腹したヒメが浴槽の底に沈んだ。ヒメは浴槽の底でバラバラになってしまった海藻のベッドの上で丸くなった。眠ったようだ。
改めて、思った。ヒメはしゃべれない。当たり前だ。魔女に声を取られたからじゃなく、そもそもそういう生き物なのだ。
表情も、ほとんど変わらない。いつも、大きな目をきらきらさせて、小さな口を丸く開けている。驚いているように。珍しい物を見ているように。だから、あどけない少女に見える。でも……その表情は、いつも変わらない。お腹が空いた時に口をパクパクと動かすだけだ。だから……ヒメの顔を見ても、喜んでいるのか、怒っているのか、わからない。満足なのか、不満なのか、わからない。僕が勝手に想像して、勝手に解釈しているだけで……せめて、せめてヒメが、笑ってくれたら……そんなことを、思った。
ヒメが眠っている間にシャワーを浴びてしまおうと思った。思えば昨晩も、その前の晩も、僕は入浴していない。浴室にはいたけれど。
僕は裸になって、洗い場に立った。シャワーは浴槽の蛇口の横から伸びていて、洗い場の壁の上の方にあるフックにヘッドを掛けるようになっていた。僕は水道のレバーを回して水の出口を蛇口からシャワーに切り替えた。レバーの横には水温を調整するためのハンドルがある。僕は赤い印が付いている方向にハンドルを回して、熱めのお湯を出した。
全身に一度お湯を浴びてから、お湯を止め、スポンジにボディーシャンプーをしみ込ませて身体を擦る。頭髪用のシャンプーを頭からかけて、両手で髪の毛をかき混ぜる。気持ちがいい。
目をつぶったまま、ハンドルを回して再びお湯を出す。頭からお湯を被りながら、手探りでシャワーヘッドをフックから外す。手に持って、身体の泡を流れ落とす。全身を包んでいた泡が流れ落ちたところで、目を開けた。
ヒメが、僕を見ていた。いつの間にか起き出したヒメは、浴槽の縁に顔と手を乗せて僕を見上げていた。
それ、わたしにも。ヒメがそう言っているように思えた。
「わかったよ。ちょっと待って」
そう言って、僕はハンドルを水色の印が付いている方へ回した。シャワーがお湯から水に切り替わる。熱いお湯を浴びてヒメが火傷したらたいへんだ。
自分の手に水をあてて温度を確認してから、ヒメの顔にシャワーを向けた。驚いたのか、ヒメは浴槽の水の中に潜ってしまった。僕がそのまま浴槽の水面にシャワーの水をかけていると、その中にヒメが顔を出した。ヒメが目を細くした。気持ちよさそうだ。その表情は、ますます人間に、少女に見えた。
水面に円を描くようにシャワーを回してみた。ヒメはシャワーを追って泳ぎ始めた。背泳ぎの姿勢で、顔にシャワーを浴びながら。
シャワーの方向を変えてみると、ヒメもそれに合わせて泳ぐ方向を変えた。こうして僕は、しばらくの間ヒメとの鬼ごっこを楽しんだ。
自分の身体がさっぱりすると、今度は浴槽が気になった。バラバラになった海藻は浴槽の底に沈んだままだ。よく見ると浴槽の中の水も少し濁っている。ヒメを包んでいた海藻の粘着物が浴槽の水に溶けたせいかもしれない。あるいはヒメの排泄物か。
浴槽を洗ってやろう。そう思った。でも、どうしよう。
僕は洗い場に置いてあった洗面器に水を貯めた。浴槽の中のヒメに手を伸ばす。ヒメはじっと動かない。僕がしようとしていることがわかっているのだろうか。僕はヒメの正面から、右手をヒメの背中に、左手を腰の下、しっぽ? の部分に回した。
ヒメの身体を触るのは初めてだ。いや、一度だけ、寝ているヒメを触って驚かせてしまったことがあった。でも本格的にヒメに触れるのは、初めてだ。ちょっと、緊張した。
背中の触手は、やっぱり柔らかかった。ヒメ自身はじっとしているけど、触手は一本一本が複雑に動いているように感じた。下半身は、ヌメヌメ、ではなく、ツルツル、ていうか、スベスベ、だった。
僕は、手を滑らせてヒメを落とさないように気を付けながら、ヒメを浴槽から抱き上げた。ヒメの手が僕の腕をつかんだ。ヒメの指の先は吸盤になっていて、僕の腕に吸い付いていた。僕はヒメを洗面器の中に寝かせた。
人間の赤ちゃんをお風呂に入れる時もこんな感じなのだろうか。そんなことを思った。僕にはまだ経験がないけれど。
僕が洗面器の中のヒメから手を離すと、ヒメは洗面器の中で起き上がった。僕は壁のフックにシャワーヘッドをかけて、ヒメにシャワーがかかるように調整した。ヒメはまた、気持ちよさそうに目を細くした。
僕は浴槽の底でバラバラになっていた海藻を拾い集めた。海藻があった方がヒメは快適なのかもしれないけど、このままではきっと海藻は傷んで腐ってしまう。海藻は捨てることにした。
浴槽の栓を抜いて水を流す。浴槽が空になると、浴槽全体に洗剤を振りまいて、ブラシで擦る。一通り洗い終わったところで、ヒメが使っていたシャワーをフックから外して手に取る。
「ちょっと借りるよ」
そう言ってシャワーの水を浴槽に向けて浴槽の中の泡を流し落とす。泡が残らないよう、念入りに。
きれいになった浴槽に栓をして、水道の蛇口から水を出す。そして、洗面器の中で座って待っていたヒメを抱き上げる。今度はヒメの横側から背中と腰の下に手を入れて、文字通り、お姫様だっこ、の形で。
水が溜まり始めた浴槽の底にそっとヒメを置いた。ヒメはすぐに蛇口の真下へ行って水道の水を浴び始めた。
泳げるくらいの深さに水が溜まるとヒメの回遊が始まる。僕は浴槽の縁に肘を突いてその姿を眺めた。
「ヒメ……ヒ、メ」
用があるわけでもないのに、僕はヒメに呼び掛けていた。
どれくらい時間が経っただろう、ヒメがまた僕を見て口をパクパク動かし始めた。
「了解、待ってて」
僕はキッチンへ行って、ハム、チーズ、食パンと牛乳を用意した。
満腹すると、ヒメはまた浴槽に潜って丸くなった。
気が付いた。海藻のベッドは捨ててしまった。ヒメは浴槽の底に直に体を付けている。ヒメは、気持ちいいのだろうか? ヒメが快適に眠れるようにするには……
僕は浴室の脇の戸棚からバスタオルを持ち出して、それを浴槽に沈めてみた。浴槽に両手を入れて、水を吸ったバスタオルを浴槽の底に広げる。すぐにヒメはそれに気が付いた。丸まっていた身体を伸ばしてバスタオルと浴槽の底との間に潜り込んだ。やっぱり布団がほしかったのだ。ヒメは身体をひねってバスタオルを上手に自分の身体に巻き付けた。
ヒメが動かなくなった。僕は洗い場に座り込んで、しばらくの間、ヒメを見ていた。大丈夫。ヒメは気持ちよさそうだ。僕が用意したベッドを気に入ってくれたみたいだ。
僕は考えていた。今週末になったら、ヒメを海へ帰す。それが、ヒメにとって一番幸せなことだろう。でも、ヒメはここでの生活、僕の部屋で、僕といっしょにいることに馴染んできている。僕があげた食べ物を食べてくれる。僕の浴槽で、気持ちよさそうに眠っている。それに、海に帰ってもヒメが安全だと限らなない。誰かに見つかったら……漁船の網にでもかかってしまったら……それなら、それならこのまま、ヒメと……
決めた。僕は、ヒメを飼う。いや、違う。ヒメと暮らす。そう決めた。
「おやすみ、ヒメ。また明日」
そう声を掛けて、僕は浴室の灯りを消した。
次の日の朝もヒメは元気に浴槽の中を回遊していた。そしてすぐに食事を欲しがった。ハム、チーズ、食パンと牛乳。僕は、浴室の床に座ってヒメを見ながら、食パンに挟んだハムとチーズを食べた。
食べ終わるとまたヒメが浴槽の底で丸くなった。僕が入れてあげたバスタオルは浴槽の底でねじれて棒のようになっていた。僕は浴槽に手を入れてバスタオルを拾い上げた。それを広げて再び浴槽に沈め、ヒメに覆いかぶせてあげた。ヒメは身体を回転させてバスタオルを身体に巻き付けた。
夕方、僕が大学から帰るとヒメはまた眠っていた。生きているだろうか……心配になる。大丈夫。尾ひれが微かに動いている。リズムを取るように。寝息のように。バスタオルはやっぱり丸まって、ヒメと離れたところで棒状になっていた。またかけ直してあげようかと思ったけど、やめた。ヒメが目を覚ましてしまうかもしれない。ヒメにはもう少し、眠っていてほしい。
僕はすぐに自転車でスーパーへ向かった。
最初にカートに入れたのは、赤身の刺し身。パックの中にきれいに切り揃えられている。ヒメが喜んでくれるような気がした。並んで置いてあったイカの刺し身も。
肉はどうだろう。ハムを食べたのだから、おそらく肉も食べるだろう。薄切りにスライスされた豚肉のパックをカートに入れる。牛肉は高い。鶏肉は安いけど、今日のところは中間の豚肉で。
米は食べるだろうか? 食パンは食べた。でもやっぱり、主食は肉類だろう。
野菜はどうだろう? ヒメがもともと海に住んでいたとしたら、野菜という選択肢はないかもしれない。でも念のため。栄養のバランスもあるし。僕はレタスとキュウリとトマトをカートに入れた。
果物は? リンゴを一つ。これも念のため。オレンジなどの柑橘類はさすがに食べないだろう。
最後にラップに包まれたおにぎりを二つ。これは僕のために。
僕がアパートに帰って浴室に入ると、ヒメは目を覚ましていて、浴槽をゆっくりと回遊していた。そしてすぐに水面に顔を出して食事を欲しがった。口をパクパクさせて。
僕はすぐに食事の準備に取り掛かった。赤身の刺し身をパックから取り出して包丁で小さく、ヒメの一口大に刻む。イカの刺し身はすでに細長く切られていたけど、これも一口大に刻んだ。豚肉は、パックから三枚だけ取り出して生のまま同じように刻む。生のままで大丈夫だろうか。いや、煮たり焼いたりしてしまったらかえって食べられないかもしれない。そう思った。それぞれを別の皿に盛りつける。
レタス、キュウリ、トマトは、それぞれ細かく刻んだものを一枚の皿に盛りつけた。
リンゴは皮ごと四つに切って芯を取り、そのうちの一切れを細かく刻んだ。
最後に牛乳。合計五枚の皿と、おにぎりを浴室へ。トレーがいっぱいになって、二回に分けて運んだ。
ヒメは浴槽の縁に手をかけて僕のことを待っていた。僕は五枚の皿を順番に並べた。
ヒメが最初に口を付けたのは、赤身の刺し身。思った通りだ。皿が空になると、次に豚肉。生肉も好物のようだ。そしてその次にイカの刺し身。これも気に入ってくれたみたいだ。
僕は浴室の床に座っておにぎりを食べながらヒメの様子を見ていた。三枚の皿が空になると、牛乳の皿に口を付けた。最後に残ったのは、やっぱり野菜とリンゴの皿。
ヒメは皿の前で僕を見上げている。皿に口を付けようとしない。食べられないのだろう。
ヒメの顔が、ごめんなさい、と言っていた。
「いいんだよ」
そう言って皿をトレーに戻した。ヒメが浴槽の底で丸くなる。僕は浴槽の中でバスタオルをヒメにかぶせてあげた。
ヒメは満腹するとすぐに眠ってしまう。それがヒメの生活パターンなのだろう。それなら、食事のサイクルは? 日中、僕が大学へ行っている間、ヒメは何も食べられない。お腹を空かせているかもしれない。それともずっと眠っているのだろうか? いや、バスタオルがねじれて丸まっていたから、ヒメはきっと日中にも起き出して浴槽の中を回遊していたはずだ。ヒメの生活パターンをきちんと把握しないと……
もうじき週末。ヒメとずっといっしょにいられる。そうすれば、ヒメの生活パターンがわかるだろう。僕はもう、その週末にヒメを海に帰そうと思っていたことなど、すっかり忘れていた。
週末。金曜の夜から土曜、日曜にかけて、僕はずっと、ヒメといっしょにいた。そして食事をする時間、ヒメが眠っている時間、回遊している時間をすべて記録した。
もちろんその合間に浴槽を掃除して、ヒメにシャワーをかけてあげたりしながら、僕自身もシャワーを浴びた。ヒメが浴槽を使っているから僕はもうお湯に浸かることはできない。仕方ない。
金曜の夕方にスーパーへ行って食料も買い溜めしておいた。僕が食事を用意すれば、ヒメは必ずそれを食べた。僕も浴室でヒメといっしょに食べた。
ヒメの好物は刺し身と生の肉。でもさすがに毎食刺し身というのは僕にとっては贅沢だ。かといって、僕は生の肉は食べられない。豚肉を茹でてみた。コンロで鍋に湯を沸かし、スライスされた豚肉を入れる。薄い肉はすぐに茹で上がった。それを今度は水にさらして冷やす。そしてそれをヒメの一口大に刻んだ。ヒメはそれも食べてくれた。僕もヒメといっしょに食べた。
冷凍食品のハンバーグや鶏のから揚げも試してみた。もちろん十分に冷まして。ヒメは、肉類であれば基本的に何でも食べた。ただし加工食品の優先順位は低かった。刺し身や生肉の皿と並べると、先に食べるのはやっぱりそっちだ。好きな物を後に残しておく、ていう発想は、ヒメにはないだろう。
甘い物はどうだろう。そんなことも思った。女子はたいがい甘い物が好きだ。ヒメは……女子?
シュークリームとショートケーキをあげてみた。ヒメは、これも食べた。クリームに口を付けて、吸い込むようにして。でも……肉類や魚類と並べると、やっぱり優先順位は低い。食後のデザート、ていう概念も、ヒメにはないだろう。やっぱり……食事は刺し身と肉が中心だ。
食事の後は睡眠。寝ている時間はだいたい三、四時間。起きると運動。狭い浴槽の中を回遊した。もっと広い所を泳がせてあげたいと思ったけど、外に連れ出すわけには行かない。回遊の時間も三、四時間。
運動の後はまた食事。お腹が空くと水面から顔を出して口をパクパクと動かした。時には浴槽の縁に手をかけて身を乗り出すようにして催促してきた。僕はすぐに食事を用意してあげた。
食べるとまた睡眠。ヒメに昼夜は関係ないようだった。でも、回遊の時間が長いと食べる量も多く、睡眠時間も長いようだ。よく運動し、よく食べ、よく眠ることが健康的なのは、当たり前だ。
ヒメが寝ている間に僕も睡眠を摂った。浴室前の廊下に布団を敷いてそこで寝た。スマホのアラームを短めにセットして、ヒメが起きる前に起きるようにした。
土日はあっという間だった。月曜日になった。僕は仕事に行かなければならない。
朝食を食べ終わると、ヒメはいつものように眠りに就く。
「行ってきます」
ヒメにあいさつをして、浴室を出る。出勤がこんなにつらく感じられたのは初めてだ。後ろ髪を引かれる、ていうのは、こういうことを言うんだろう。そう思った。
改めて、この二日間のことを思い出す。楽しかった。夢のようだった。でも……この夢は、終わらない。まだまだ続く。
もう一度振り返ってヒメが眠る浴槽を見る。
「待っててね」
そう声をかけて、僕は浴室の灯りを消した。
五月。ヒメが僕の部屋に来てから一ヶ月が過ぎた。
毎年ゴールデンウィークには実家に帰るようにしていたけど、今年は帰らなかった。
母親に電話をすると、そんなに忙しいの? て心配してくれたけど、そうじゃない。ヒメのことを何日も放っておくことなんて、できない。
ヒメが僕のアパートに来た最初の週末、ずっとそばにいて僕が把握したヒメの生活サイクルは、食事、三、四時間の睡眠、同じく三、四時間の運動、そしてまた食事。
僕が大学へ行く平日は、朝七時に朝食。僕が大学から戻る夕方六時過ぎに夕食。その間は十一時間。僕は、ヒメが昼間、お腹を空かせてしまうのではないかと心配した。間に一食、昼食? おやつ? を食べさせてあげたい。そう思った。
ヒメの好物は、刺し身と肉。でも日中、湿気の多い浴室に刺し身や生肉を置いておくわけにはいかない。
ビーフジャーキーや裂きイカなど、乾燥したおつまみ系や、食パンを置いておいてみた。でも……僕が帰ると、手つかずのままだった。やっぱり口に合わないのか。それとも、僕といっしょじゃないと、食べないのだろうか……そんなことも思った。
仕方がない。朝食をたくさん食べてもらって、僕が帰ったらすぐに夕食にする。日中はお腹が減っても我慢してもらおう。そう思った。
そのサイクルが、変わってきていた。起きて回遊している時間も、寝ている時間も長くなった。どちらも五時間から六時間。僕のサイクルに合わせてくれているのか。あるいはヒメの自然な成長過程なのか。
少し安心した。僕が大学へ行く平日でも、朝食を食べて、六時間ほど眠っていてくれれば僕が帰る頃はまだ回遊の最中だ。買い物へ行って食事を用意してあげればちょうどお腹が空く頃になる。朝食と夕食。一日二回の食事でいい。
困ることもある。ヒメは食べるとすぐに寝てしまう。すると、夕食の後は深夜まで睡眠だ。その間、僕はヒメの泳ぐ姿を見ることができない。ヒメと遊べない。ヒメの活動時間は深夜から朝までということになる。
それなれ、ヒメの睡眠に合わせて、僕の睡眠時間を調整すればいい。そう思った。夕食後、深夜まで僕も睡眠を摂る。ヒメが起きる頃に僕も起きて、朝までヒメといっしょに過ごす。これで、解決だ。
そう、他にも問題があった。ヒメの、食べる量が、増えたことだ。それも、格段に。
正直なところ、社会人になって二年目の僕の収入では苦しくなってきていた。ヒメには好物の刺し身や肉を食べさせてあげたい。それも、できれば安物ではない物を。でも、そうは行かなくなっていた。肉の代わりにハム、刺し身の代わりに竹輪。そんなことも多くなっていた。それでもヒメは……それを食べてくれた。おいしそうに、食べてくれた。助かった。
そして……食べる量に合わせるように、ヒメの身体も、大きくなった。ここに来た時20センチほどだった体長は、今は、1メートル、いや、1メートル20センチくらいある。体形は、変わっていない。相変わらずスマートでシャープ。
全身の肌の色は……やっぱり、青。サファイアの、青。海の、青。青が濃くなったかもしれない。水深が深くなったみたいに。全身を覆っていた透明な膜も、薄くなったような気がする。ヒメが大きくなったから、相対的にそう見えるのかもしれない。でも、青の輝きは変わらない。輝く、サファイア。輝く、海。
背中に生えている触手も、その先端近くまで白い色が濃くなった。透明なのは先端のわずかな部分だけ。
全身が大きくなったのだから、当然、ヒメの顔の部分も大きくなった。でもその顔立ちは、変わらない。
あどけない、少女の顔。もちろん、人間の少女とは、違う。サファイアの、海の色の、顔。波の色の、髪、いや、触手。そして何より、その目。きらきらと輝く、ダイアモンド。それでも僕の印象は……やっぱり、少女。人間の、女の子。
そんなヒメを見ていると、僕の問題なんかどうでもいいように思えた。でも……もう一つ、心配事があった。
身体が大きくなったせいで、ヒメは浴槽を回遊することができなくなっていた。体をくねらせて、せいぜい一回り。だから、ヒメはほとんど運動らしい運動ができなくなっていた。
僕はヒメの運動不足を心配していた。ヒメが太ることを心配していたわけじゃない。ヒメの体形は変わっていない。そんなことじゃなくて……
連休明けのある日。大学から帰った僕は、いつものようにアパートの部屋のドアを開けた。そこに……ヒメがいた。驚いた。ヒメは狭い玄関で、両手で上半身を持ち上げて僕を見上げていた。おかえりなさい、僕の顔を見て、そう言ってくれていた。
うれしかった。でも……
状況をきちんと整理しないといけない。朝、僕が出勤する時、ヒメは浴槽の中にいた。というか、今までずっと、ヒメは浴室の中にいた。そこから出たことはなかった。
僕は浴室の扉をずっと開けっ放しにしていた。ヒメを閉じ込めてしまうのはかわいそうだと思ったし、僕が帰った時に少しでも早くヒメを見たかったから。扉を開けておいても、ヒメが自分で浴室から出るなんてことは、まったく考えていなかった。
でも今、ヒメはこうして玄関で、僕を出迎えてくれている。ていうことは……ヒメは自分で浴槽から出て、浴室から外へ這い出したということだ。ヒメは浴槽の中で回遊できなくなっていた。だから……浴槽の、浴室の外を動き回りたくなるのも、仕方ない。
動き回る? 浴室から玄関まではほんの2メートル。でも玄関と反対の方向にはダイニングキッチンがあって、その奥には洋室がある。僕がいない間、ヒメは、部屋じゅうを動き回っていたのだろうか。部屋の中はいったいどうなって……いや、まずはヒメだ。
僕は「ただいま」も言わず、ヒメを抱き上げた。ヒメの両脇の下に手を入れて持ち上げた。抱き上げたヒメの身体はしっとりと濡れていた。僕の服も濡れてしまうけど、そんなことにかまっていられない。
ヒメの身体はいつも濡れていた。ほとんどの時間、浴槽の水の中にいるのだから当たり前だけど。水気のないところでヒメを触るのは初めてだ。皮膚から水分を分泌させているのかもしれない。
ヒメを浴室へ運ぶ。ヒメは抵抗しなかった。ヒメを浴槽の中に降ろす。
「ここで待ってて」
そう言って僕は浴室の扉を閉めた。扉を閉めたのはいつ以来だろう。かわいそうだけど、ヒメにまた部屋の中を動き回れては困る。
予想した通り、ダイニングキッチンも洋室も、フローリングの床はいたるところ、濡れていた。ねばねばと少し粘性を含んだ水分だ。ヒメを最初に見つけた時、ヒメを包んだ海藻を覆っていたものと同じものかもしれない。やっぱりヒメは部屋じゅうを回遊していたのだ。
だとすれば……正直、僕は部屋の床をこまめに掃除している、わけではない。見た目ではわからなかったけど、ヒメはホコリまみれだ。それに……
部屋の中にたいした家具は置いてない。それでもヒメが、どこかにぶつかったりしていたら……ヒメは、怪我などしていないだろうか。
床は後で拭けばいい。僕は浴室に戻った。
ヒメは浴室の扉の前にいた。浴槽から自分で這い出したということだ。浴室に入るとすぐに後ろ手で扉を閉めた。ヒメが浴室の外に出ないように。
すぐにシャワーを手に取って、ヒメに水をかけてやった。ヒメが気持ちよさそうに顔を上げる。いつものように。
僕は右手にシャワーを持って水をかけながら、左手でヒメの身体を撫でるように洗ってあげた。体に擦り傷や切り傷がないか、確認しながら。
ヒメを洗いながら、僕は考えていた。
これからどうしよう……可哀そうだけど、僕が出かける時には浴室の扉は閉めておかなければならないだろうか……日中はずっと、眠っていてくれればいいのだけれど……
それとも……毎日、帰ってから、こうやってヒメを洗ってあげて、部屋の床を掃除するか……ヒメに運動もさせてあげたいし……
ヒメが口をパクパクと動かし始めた。そうだ。まずは、食事だ。僕は水を出したまま、ヒメの真上にあるフックにシャワーヘッドを掛けて、キッチンへ向かった。
翌朝、僕はヒメのためにいつもよりたくさんの朝食を用意した。ヒメが少しでも長く眠っていてくれるように。食べる量が多ければ、ヒメの睡眠時間もその分長くなる、はずだ。その分ヒメが起きている時間が長くなって、僕の睡眠時間は少なくなる。でもそんなことは考えている場合じゃない。
部屋を出る前に、浴室の扉を閉めた。申し訳ないけど、僕が帰るまでヒメには浴室にいてもらう。床掃除は思いのほかたいへんだった。床に付いたヒメの粘液はなかなか取れなかった。そんなことより、ヒメが怪我をしたらたいへんだ。キッチンにはコンロもある。ヒメがコンロに火を点けたり、コンロの上に乗ったりすることはないだろうけど……
仕事中もヒメのことが気になって仕方なかった。いや、それはいつものことだけど、今日は、特に。
夕方、アパートに帰った僕はすぐに浴室を見た。浴室の扉は閉まったままだ。でも……音がした。シャワーの音だ。
浴室の扉を開けた。ヒメが……ヒメがシャワーを浴びていた。フックに掛けたヘッドの真下で、ヒメが顔を上げてシャワーを浴びていた。
僕は慌ててシャワーから出てている水の中に手を入れた。熱湯だったらたいへんだ。
大丈夫。水だった。僕は自分でシャワーを浴びる時以外お湯は使わないようにしていた。自分で浴びる時もなるべくぬるめに。そばにいるヒメが火傷しないように。そして自分のシャワーが終わるとすぐに水に戻す。前の日もシャワーを浴びたけど、その後ちゃんと水に切り替えてあった。
でも……朝、僕が出勤する時にはシャワーの水は出ていなかった。と、いうことは、ヒメが自分でシャワーの水を出したということだ。蛇口の横にあるレバーを上げるだけの簡単な操作だ。ヒメは、それを覚えたということだ。
ヒメが顔を上げた。僕はレバーを下げてシャワーの水を止めた。レバーの横のハンドルを見た。青い印の方が水、赤い印の方がお湯。ヒメにこのハンドルを回すことはできないだろう。でも、もし……
これからも、ヒメが自分でシャワーの水を出すことがあるとすると、ガスの元栓を止めておいた方がいいかもしれない。お湯がでないように。あるいは水道の元栓を止めて、水が出ないようにしておくか……出しっ放しにされたら、水道料金も馬鹿にならない。そうでなくても、最近のヒメの食費は……
でも……ヒメは。
十分な運動ができない。シャワーも好きな時に浴びられない。そうなったら……ヒメは、快適だろうか。それでもヒメは……幸せだろうか。
それに……ヒメのサイズ……
ヒメを見つけた時、僕は、ヒメが小さかったのと、そのあどけない顔立ちから何となく、ヒメはまだ子供、それも生まれたばかり子供なのだろうと思っていた。でも……ヒメが大きくなるなんて、僕はまったく考えていなかった。ヒメはずっとそのままなんだろうと、何の根拠もなく、そう思っていた。
ヒメはこれからもっと大きくなるのだろうか。きっと……そうだろう。
ヒメはいつまでここにいられるのだろうか。いや、そもそもここにいていいのだろうか……
その夜、夢を見た。僕は、南の海の小さな島にいた。夢の中の僕は、そこが南の海の島であることを知っていた。
白い砂浜に座って、青い海を見ていた。
穏やかな海の沖合を、ヒメが、泳いでいた。ヒメは水面に顔を出して、平泳ぎをしたり、背泳ぎをしながら、時々僕の方を見て手を振った。僕もヒメに手を振り返した。
少しすると、ヒメは僕の方に向かって来た。水深が浅くなると、ヒメが立ち上がった。ヒメには二本の足があった。ヒメの顔は、あどけない少女ではなくて、きれいなおとなの女性になっていた。
ヒメの口が動いた。お腹が空いたのかな、僕はそう思った。何か食べ物を用意してあげないと……
でも違った。ヒメは、何か言おうとしていた。僕は、ヒメの口の形をまねてみた。
ヒメの口は、こう言っていた。
「サ」、「ヨ」、「ナ」、「ラ」、「ヒ」、「ロ」、「ク」、「ン」
ヒメが、身をひるがえして、海に飛び込んだ。
ヒメが、そのまま沖の方に向かって泳いで行く。
僕は……砂浜に座ったまま、動かない。動けない。
ヒメが小さくなる。やがて、ヒメの髪の毛、いや、白い触手が、海の中に消えた。
僕はただ、砂浜に座ったまま、ヒメを見送っていた……
目が覚めた。僕は浴室の前の廊下に敷いた布団の上で横になっていた。首を回すと、閉まったままの浴室の扉が見えた。静かだった。ヒメはまだ眠っているのだろう。
僕は……決めた。ヒメを……ヒメを海に帰す。
でも……このまま海に帰して、ヒメは一人で生きて行けるのだろうか……
僕の部屋に来てからずっと、ヒメは僕がスーパーから買ってきた物を食べていた。海で、ヒメは自分で、食べる物を見つけられだろうか……
ヒメの故郷はきっと、太平洋の、海底火山の噴火があったあたりだろう。ヒメは一人でそこまで帰れるだろうか……
帰ったとしても、ヒメの住む場所はあるのだろうか……火山活動はまだ続いているって、ネットのニュースで見たような気がする……
でも、それでも……ここにいるよりは……
翌日。僕は大学から帰るとすぐに浴室へ行った。扉は閉めたままだった。水道の元栓を止めてシャワーも出ないようにしてあった。ヒメは……浴槽の中にいた。僕が浴室の扉を開けるとすぐに浴槽から飛び出してきた。跳ねるように。ヒメが、僕を見上げた。ヒメが、怒っている。僕にはそう見えた。
元栓を開けて、シャワーを出してヒメにかけてあげると、ヒメが目を細めた。いつものように。ヒメは機嫌を直して……くれただろうか? いっそのこと、ヒメに嫌われてしまえば……そんな考えが頭をよぎった。
シャワーの水を出しっ放しにしたまま、浴室の扉を閉めて、僕はスーパーへ向かった。
僕は考えていた。ヒメの好物は刺し身だ。海に帰ったヒメの主食となる物も、やっぱり魚だろう。でも、ヒメに歯はない。見たことがない。だから、大きな魚を食べることはたぶんできない。小さな魚なら丸飲みにできるかもしれない。でも、頭から? 骨ごと? 消化できるだろうか?
ヒメの消化力はかなり高いと思えた。その証拠に、ヒメは固形物を排泄したことがなかった。でも、さすがに骨までは……
それなら……イカは? イカなら丸飲みして、全部消化できるかもしれない。
僕は生のイカを二匹、二杯というのかな? 買った。
アパートへ帰るとさっそく、ヒメにイカをあげてみた。あげたと言ってもいつものようにお皿に乗せて浴槽の縁に置くのではなく、そのままヒメのいる浴槽の水の中に入れてみた。ヒメはすぐに両手でイカを掴んで僕を見上げた。いつもと違う食事の仕方に少し戸惑っているみたいだ。
「そのまま食べてみて」
僕が言うとヒメは両手で持ったイカに口を付けた。イカを立てにして頭から吸い込んだ方が食べやすいのではないかと思ったけど、ヒメはイカの横の方に吸い付いていた。だから、なかなか吸い込めない。
その時。ヒメの口に、歯が、ギザギザした、短いけれど鋭い、ノコギリのような歯が見えた。ヒメの歯を見るのは初めてだった。
ヒメがその歯でイカを切り裂いた。そして刺し身のように細長くなったイカの身を飲み込んだ。ヒメのそんな食べ方を見るのは初めてだった。
そうやってイカの身が無くなると、足。ヒメは束になったイカの足をそのまま、まとめて飲み込んだ。
僕は驚いていた。ヒメに、歯があった。それも鋭い歯が。今まで僕に見せたことのない歯が。僕が気付かなっただけなのか。あるいは必要な時だけ出て来るようになっているのか。自然界で生きてゆくためには、当然のことかもしれない。でも……それでも。
食べ終わったヒメが僕を見て口をパクパクと動かした。お代わり、の合図だ。一瞬、夢の中で見たヒメの口を思い出した。
キッチンへ戻ってもう一杯のイカを皿に乗せて、また浴室へ。イカを皿から滑らせて同じように浴槽に入れる。ヒメはすぐにイカを捕まえて食べは始めた。歯を出して、イカを切り裂きながら。
イカを食べ終わったヒメは、満足そうに、浴槽の中で丸くなった。
僕の中にある考えが浮かんだ。イカを切り裂くことのできる歯があるなら、魚でも……
僕は再びスーパーへ向かった。そしてアジを二匹、買った。切り身や開きになっていない、そのままのアジを。
深夜。ヒメが目を覚ました。僕は浴室の中でヒメが目を覚ますのを待っていた。
ヒメが顔を上げる。大きくなったヒメは、自力で浴槽から出ようとした。
「ちょっと待って」
そう言って僕は、用意しておいたタブレットをヒメの目の前に突き出した。大学からリモート用に支給されていた物だ。
「これを見て」
僕がタブレットでヒメに見せたのは、海の中を泳ぐ魚の動画。
僕がヒメに食べさせていたのは切り身になった刺し身の魚。だからヒメは、実際に魚が泳ぐ様子を見たことがない、はずだ。
「魚はこうやって海の中を泳いでいるんだよ」
僕はヒメに話しかけた。
僕が言っていることをヒメが理解しているのかどうかわからない。そもそもタブレットの動画をヒメがどう捉えているのかもわからない。ヒメは、不思議そうな顔をしながらタブレッドと僕の顔を交互に見た。
ヒメがタブレットに手を伸ばした。動画の中の魚を捕まえようとしているのかもしれない。
僕はヒメの手が届く直前でタブレットを自分の方へ引き戻した。ヒメの手が空を切った。
「ちょっと待って」
画像を切り替えた。次にヒメに見せたのは、料理職人が魚をさばく動画。白い調理服を着た職人が、まな板の上に乗った魚を包丁でおろして行く。
まず、頭を切り落とす。残酷だ。僕も目を背けたくなる。でも……仕方ない。続いて、尾ひれの方から包丁を入れ、身を切り取る。後には尾ひれが付いた骨が残る。骨は脇にどけられ、まな板の上に切り取られた身の部分が置かれる。包丁が入る。大きな身が、きれいな刺し身に変わって行く。
「いいかい、ヒメがいつも食べているお刺し身は、こうやって作られているんだよ」
本当はヒメの目の前で僕が本物の魚をさばく様子を見せてあげればいいのだろうけれど、僕にそんな技術はないし、そもそも僕にはあんな残酷なことできない。
「あの、頭と骨は、硬くて食べられないからね。気を付けるんだよ」
この動画で、ヒメはわかっただろうか……
朝食の時間にはだいぶ早い。でも、このタイミングで試しておきたい。
「これも食べられるかな?」
そう言って僕は、アジを皿から滑らせて浴槽の水の中に入れた。イカの時と同じように。
ヒメはすぐにアジを捕まえて、両手で持って上体を起こした。ヒメが僕の顔を見る。
「そのまま食べてみて」
僕がそう言うと、ヒメはアジに吸い付いた。あの、歯が見えた。ヒメは歯を使ってアジの身をさばきながら食べ始めた。上手に食べていた。初めてとは思えない。
アジの骨が見えた。ヒメが、舌を出した。ヒメの舌を見るのも、初めてだった。細くて長い。ヒメの皮膚と同じ色をしていた。
ヒメはその舌で、骨の部分を舐め始めた。食べられるかどうか確かめているのだろう。
ヒメが、アジの骨を食べ始めた。ヒメの歯が魚の骨を砕く感触が、見ている僕にも伝わってきた。
大丈夫だろうか。心配になった。でもヒメはかまわずに食べ続ける。結局ヒメは、アジを丸ごと一匹、頭から尾ひれまで、骨ごと食べてしまった。
食べ終わったヒメはまた、浴槽で丸くなった。一匹で満足したようだ。いつもより食事の時間が早かったせいか、あるいは骨ごと食べたせいだろうか。
大丈夫だ。ヒメは魚も食べられる。魚を捕まえることができれば、だけど……
翌朝。ヒメはまだ眠っている。早い朝食? 夜食? を食べたから、いつもとサイクルが違う。普段なら起きている時間だ。
アジを骨ごと食べたヒメに異常がないか、心配だった。僕は主任にメールして、大学を休ませてもらった。熱があると嘘をついた。
九時過ぎ。ヒメは、目覚めてくれた。目覚めるとすぐ、狭い浴槽の中で身体をくねらせ始めた。元気そうだ。アジの骨も問題なく消化してしまったようだ。
「おはよう、ヒメ」
僕が声を掛けるとヒメが起き上がった。僕は浴槽の中のヒメにシャワーをかけてあげた。ヒメが顔を上げて目をつぶる。
ヒメはもう、浴槽の中での回遊はできない。それでもヒメは、気持ちよさそうにシャワーを浴びている。ヒメは、楽しそうに……見えた。
僕がいっしょにいれば、ヒメも浴室から外に出ないのではないか。そう思った。ずっとこうしていれば、何の問題もないんじゃないか……
僕の心に迷いが生じる。いっそのこと大学を辞めて……毎日こうやってヒメと……
僕は頭を振った。
だめだ。どうやって生活する? そんなことできない。
でも……アパートにいながらできる仕事を見つけて……いや、僕に何ができる?
ヒメを動画にとって配信すれば……
バカ!
僕は自分をしかりつけた。ヒメのことは、僕だけの秘密だ。それに、そんなことをしてヒメが喜ぶはずない。
僕は、シャワーを止めた。
僕はまた、浴室にタブレットを持ち込んでヒメに動画を見せた。
今度の動画は、捕鯨船による捕鯨の様子。そんな動画を見せるのは嫌だったけど、とにかく準備を進めないと。
捕鯨船から放たれたモリが、鯨の背中に何本も突き刺さる。鯨がクレーンで持ち上げられ、船で運ばれ、解体される。残酷だ。
「いいかい、あれが人間。僕と同じに見えるかもしれないけど、絶対に近づいてはダメだからね。人間が乗っている船にも、絶対に近づかないで。あんなふうに捕まってしまうからね」
僕はヒメに言い聞かせた。ヒメがあんな目にあったらたいへんだ。
ヒメの食べ物。人間という危険からの回避。もう一つ、心配なことがある。
ヒメが、自分の故郷へ帰ることができるだろうか、ということ。故郷でなくても、せめて人間に見つからない安全な場所へ。
僕はタブレットで地図を開いた。日本と、その南の太平洋。
「いいかい、ここが今、ヒメがいるところ」
僕は日本の太平洋側、僕のアパートがある街を指さした。
「ここがたぶん、ヒメの故郷」
太平洋、噴火した海底火山のある場所。
「ヒメの故郷の近くでは、今もまだ海底火山の活動が続いているらしい。だからあまり近くまで行くと危ないかもしれない。でも、ここ、日本の近くにいるよりはずっといい。日本の近くには、さっき見たような人間の船がいっぱいいるんだ」
わかってくれただろうか……ヒメが、地図を理解できる……はずない。でも……それでも。
魚や動物には帰巣本能、ていうのがあるという。鮭が海を回遊した後、必ず生まれた川に帰るという、あれだ。だったら……だったらヒメも、きっと。
できることなら、ある程度沖合に行ってからヒメを海に帰してあげたい。でもヒメを漁船や遊覧船に乗せることはできない。モーターボートを借りることはできるかもしれないけど、僕は運転できない。モーターボートを持っているような知り合いもいない。いたとしても、ヒメのことは、誰にも話せない。見せられない。
それから僕は、ヒメに海の画像を見せた。僕がすぐ近くの海岸から撮った動画だ。
まずは、サーファー達で賑わう海岸近くの海。
「この人たちも僕と同じ人間。ヒメに直接危害を加えることはないかもしれないけど、見られたらきっと、大騒ぎになる。だから、この人達にも絶対に近づいたらだめだ」
画像を海岸から沖合へとズームする。サーファー達の姿が見えなくなる。
「こっち、こっちへ向かうんだ」
水平線を、アップにした。
「この水平線の、もっと先まで行くんだ。この先に、ヒメの故郷がある」
ヒメは、不思議そうな顔をして、僕を見ている。
わかってくれただろうか。わかって……ください。お願いだから、わかって、ヒメ。
僕も、僕の目で、ヒメに訴えかけた。
金曜日。実行の日。大学に行った僕は、主任に言って大学にあった台車を一台貸してもらった。荷物を乗せて手押しで運べる、宅配の人が使っているような台車。
「大きな荷物を運ばなければならなくて……」
そう説明した。
「病気が治ったばかりなのに、力仕事ですか? がんばりますね」
主任に皮肉を言われた。仮病はばれていたかもしれない。仕方ない。そんなことにかまっていられない。
仕事が終わると、僕は大学に自転車を置いたまま台車を押しながら歩いて帰った。坂道から海が見えた。水平線も見えた。僕は、その水平線の向こうにあるはずの、ヒメの故郷を思った。
帰り道、スーパーの近くにあるホームセンターに寄った。お店の人に言って台車は駐輪場に置かせてもらった。
僕は大きな青いポリバケツを一つ、買った。ポリバケツは大学にもあったけど、ゴミ捨てに使っていた物だ。そんな物、使えない。それと、取っ手のついた、片手で持てるサイズのポリバケツを一つ。僕は大きなポリバケツを両手で抱えて駐輪場まで運んで台車に乗せた。だいぶ遅くなった。僕はアパートを目指して、急ぎ足で、それでもポリバケツを落とさないように気を付けながら、台車を押した。
アパートに着いた僕は、すぐに夕食を準備した。今日は、刺し身。それも、今までで一番高級な物。大きな柵のままの中トロ。
ヒメは、中トロの柵を両手で持って、食べた。あの歯を使って。まるで、ハーモニカを吹くみたいに。おいしそうに。
食べ終わったヒメが、浴槽の中で丸くなる。僕は水の中のヒメに、バスタオル掛けてあげた。
ヒメが眠ったのを確認してから、僕はホームセンターで買った小さい方のポリバケツを持ち出して、洗面台で水を入れた。浴室の水道は使えない。浴室でヒメが寝ているから。ヒメを起こしてはいけない。
一杯になったポリバケツを玄関の外へ運ぶ。玄関の外には、台車に乗せたままの大きなポリバケツがあった。小さなポリバケツの水を大きなポリバケツに流し込む。そしてまたキッチンへ。これを繰り返す。何往復かすると、ポリバケツの半分くらいまで水が溜まった。ビニール紐でポリバケツを台車にしっかりと縛り付ける。
これで、準備完了。あとは……ヒメが目を覚ますのを、待つだけ。
深夜。ヒメが目を覚ました。浴槽から顔を出して、洗い場にいた僕を見上げた。あのキラキラした目で。僕はシャワーから水を出して、ヒメにかけてあげた。
ひとしきりヒメに水浴びをさせた後、僕はいったん浴室を出て、玄関に降りた。部屋のドアを開けてストッパーで固定する。浴室にもどった僕は、浴槽に両手を入れてヒメを抱き上げた。お姫様だっこ。ヒメをかかえたまま、玄関から外へ。ヒメが僕の部屋から外へ出るのは、ヒメが僕の部屋へ来てから初めてだ。ヒメが驚いたような顔をした、ように見えた。ヒメはいつも、そんな顔をしてるんだけど。
そこにあるのは、台車に乗せて、水を入れたポリバケツ。
僕は、尾ひれの方からゆっくりと、ヒメをポリバケツに入れた。ヒメはポリバケツから顔を出して、僕の顔を見た……不安そうだ。
ポリバケツが台車から落ちないように、縛り付けたビニール紐をもう一度確認する。
「大丈夫だよ」
ヒメにそう声をかけて、僕は台車の後ろ側に回った。
アパートの外は住宅街だ。一方通行の道路に面していて、道路の両側に住宅が並んでいる。
台車を押して道路に出る。深夜だったけど、街路灯に照らさられて足元は暗くなかった。
僕は海岸へ向かった。ヒメはポリバケツから顔を出して、僕を見ていた。台車に乗せられて移動するなんて初めての体験だ。不安だと思う。それでもヒメは、ポリバケツの中でおとなしくしていた。
住宅街の道路の突き当りは海岸沿いを走る大きな道路だ。海岸沿いの道路は防波堤を兼ねているらしく、海岸や住宅街より少し高いところを走っている。だから、道路の手前は急な坂になってる。僕は台車の手押しの部分に肩をあてて、台車を押し上げながら坂を登った。
ようやく、海岸沿いの道路に出た。二車線の車道とその両側の歩道。手前の歩道で一息つく。
深夜だ。車道を走る車はない。道路の向こうに海が見えた。広くて、でも暗い、夜の海。いつか、沙季さんと見た、夜の海。
ずっと僕の方を見ていたヒメが、初めて前を向いた。ヒメも気が付いたようだ。海だ。ヒメが生まれた、海。ヒメは……海を覚えているのだろうか。
僕が動画でヒメに見せた海は、明るい昼の海だった。夜の海では、ヒメが目指す水平線もわからない……どちらにしろ、海中を泳いで進むヒメには、水平線の位置なんてわからないのかもしれない……そんなことを思った。
「さあ、行こう」
もたもたしてられない。僕はヒメに声を掛けた。
車道と歩道はガードレールで仕切られていた。僕だけならともかく、ヒメの入ったポリバケツと台車がガードレールを乗り越えることはできない。右手に海を見ながら住宅街側の歩道を進む。その先に橋があった。いつもアパートのテラスから見ている橋だ。ガードレールはそこまで続いている。橋の手前に横断歩道がある。そこから海岸側に渡ることができる。
横断歩道には信号があった。交通量の多い昼間なら青になるのを待たなければならないところだけど、今は走る車もない。僕は信号を無視して横断歩道を渡った。
横断歩道を渡るとすぐ下に砂浜が見えた。砂浜に降りるコンクリートの階段があった。沙季さんと並んで、海を見た、階段。
ヒメは、海の方を見ている。僕じゃなくて、海を。
ヒメを後ろから抱きかかえた。ヒメをそのまま持ち上げる。でも、ヒメをポリバケツの中から引き上げることができない。台車を押し続けていたせいで、腕がしびれて力が入らない。
仕方ない。ヒメをいったんポリバケツの中に戻す。
ポリバケツの縁に両手を置いて体重をかけた。ポリバケツが台車ごと斜めに傾いて、そのまま倒れた。ポリバケツの中のヒメが、僕に向かって滑り出してきた。僕は倒れ込んでヒメを受け止めた。ポリバケツの中の水ごと。ヒメが僕にしがみついてきた。
「ごめんね」
ヒメに謝った。
お姫様だっこの形にヒメを抱え直してから、立ち上がった。
ヒメを抱きかかえた僕は、倒れた台車とポリバケツを歩道に残したまま、階段を降りた。ヒメを落とさないように気を付けながら。
砂浜に降りた。暗い、夜の砂浜。穏やかな波の音がする。僕は、砂を踏みしめながら海に向かった。
波打ち際まできた。湿った砂の上にヒメを降ろす。ヒメが、身体をひるがえして海を見た。
小さな波が、ヒメに届く。ヒメが、波の中に両手を置いた。波の感触を確かめているようだ。
ヒメが、僕の方を振り向いた。
「お行き」
そう言って、僕は微笑んだ。ヒメがまた、海の方を見た。
ヒメが、海に向かって進み始める。よちよちと、尾ひれを左右に振りながら。
波が、ヒメを包む。ヒメがもう一度、僕の方を振り向いた。
「サ、ヨ、ナ、ラ、ヒ、ロ、ク、ン」
夢の中のヒメを思い出した。
僕は黙って、微笑んだ。
ヒメが、泳ぎ始めた。ヒメの姿が波の中に吸い込まれて行く。間もなく、ヒメの背中の触手が、波の中に消えた。
「さよなら、ヒメ」
僕はつぶやいた。それから、暗い海に向かって、手を振った。
「ありがとう、ヒメ」
空になったポリバケツの乗った台車を押して、僕はアパートへ帰った。
浴室へ行ってシャワーを浴びた。浴室に……ヒメはいない。浴槽の底にバスタオルが沈んでいた。僕がヒメに掛けたあげたバスタオル。僕はバスタオルを拾い上げ、浴槽の栓を抜いて、浴槽に残っていた水を流した。
シャワーから上がると疲労感が襲ってきた。台車を押して海岸まで往復したのだから無理もない。
横になろう。そう思った。今日は土曜日。大学の仕事は休みだ。そもそもそのためにこの日を選んだんだ。
奥の洋室へ行って、クローゼットから布団を引っ張り出す。布団を抱えて、浴室の方へ向かおうとして、気が付いた。
ヒメが僕の部屋へ来てから、僕は浴室の前の廊下に布団を敷いて寝ていた。ヒメのそばにいたかったから。でももう、そんな必要はない。
僕は洋室のフローリングの上に布団を敷いた。ヒメが来るまで、そうしていたように。
布団に入った。あんなに疲労感があったのに、寝付けない。深夜でも、ヒメが起きている間はいっしょに起きていたから、そういう習慣が身に付いてしまったのだろうか。いや……それだけじゃないことは、自分でわかっていた。
それでもやがて、少しだけ、まどろんだ、と思う。
「ピタ、ピタ、ピタ」「ペタ、ペタ、ペタ」
音がした。僕は目を開けた。
「ピタ、ピタ、ピタ」「ペタ、ペタ、ペタ」
音は、閉め切っていたサッシの戸の方から聞こえる。サッシ戸の向こう側は、テラス。そしてその向こうは、海に続く水路だ。
僕は跳ね起きて、閉めていたカーテンを開けた。
サッシ戸の向こう側に……ヒメがいた。ヒメが、身体を起こして、その手で、外からサッシを叩いていた。
僕は急いでサッシ戸を開けた。ヒメが飛び込んできた。僕は全身でヒメを受け止めた。
ヒメが僕の顔を見上げた。その表情は、僕を責めていた。
どうして一人で帰っちゃうの? どうしてわたしを置いてっちゃうの?
そう言っていた。
「ごめん! ヒメ、ごめん! ほんとにごめん!」
僕はヒメを抱きしめた。
ヒメは一人で、海から、泳いで水路をさかのぼって、あの、コンクリートブロックの塀をよじ登って、金網のフェンスを乗り越えて来たんだ。僕の部屋を目指して。
「ごめんね! ごめんね!」
そう言って泣きながら、僕はヒメの胸に自分の額をこすりつけていた。
浴槽の中に残してきてしまったけど、大丈夫だろうか? 生きているだろうか?
人魚のことは誰にも話さない、そう決めたけど、では、あの人魚をどうする?
一番いいのは、やっぱり人魚がいた場所、海に帰してあげることだ。人魚をバケツに入れて、海岸まで行って放してあげる。生まれたばかりのウミガメの子供のように人魚が波の中に泳ぎ出して行く姿を想像した。
でも、もし誰かに見られたら……他の誰かに捕まったりしたらたいへんだ。海に放してあげるのは、誰も見ていない深夜がいい。
今夜? 人魚を運ぶバケツにも水を入れなければならないだろう。けっこうな重さになる。それを海岸まで運ぶ。重労働だ。明日も仕事がある。寝坊はできない。それなら……人魚を海に返すのは、翌日が休みの日がいい。僕の勤務は土日が休みだ。金曜か土曜の夜なら……
決めた。人魚を海に返すのは、今週末だ。
早く帰りたかった。早退させてもらおうかと思ったけど、津波による休校もあって仕事が溜まっていた。一段落したら、て思ったけど、それがなかなか終わらない。仕事に集中していないせいもあるけど。
五時。ようやく終業。残業はしない。残業している場合じゃない。僕はいつも自転車を転がしながら歩く坂道を、自転車に乗って走った。下り坂ではスピードの出し過ぎに気をつけながら。
アパートに着くと、すぐに浴室へ。浴槽をのぞく。人魚はまだ、浴槽の底に丸まって眠っていた。
「ただいま」
声をかけた。人魚は動かない。ほんとうに眠っているのだろうか。それとも……
少し心配になった。僕は浴槽の中に手を入れて、人差し指で人魚の腰のあたりを触ってみた。
驚いたのだろう。人魚が飛び起きた。そして水面から顔を出して僕を見た。その目は僕を責めていた。びっくりさせないで、て。
「ごめん」
謝ってから、あらためて声をかけた。
「ただいま……」
そこで初めて気が付いた。この人魚を何て呼べばいい? 「人魚」は固有名詞ではない。この人魚に、名前を付けてあげないと。
考える……必要はなかった。
ヒメ。人魚姫の、ヒメ。かつて僕の部屋にいた熱帯魚のヒメよりずっと、「姫」らしい。
「ただいま、ヒメ」
僕は浴槽に向かって、あらためて声を掛けた。
僕が声を掛けると、浴槽の水面から顔を出していたヒメが、口をパクパクと動かし始めた。そう、お腹が減ったということだ。
「ちょっと待って。すぐに準備するから」
そう言って、僕は部屋を飛び出して自転車に乗った。行く先は近くのスーパー。ハムもチーズも今朝全部食べてしまっていた。
とりあえず牛乳と食パンとハムとチーズを買う。牛乳は一リットルのパックを二本。食パンは一斤をそのまま。ハムとチーズは、スライスされた物ではなく、大きめのかたまりの物を。
アパートに戻った僕はいったんヒメの様子を確認する。ヒメは浴槽の中をゆっくりと回遊していた。すぐにキッチンへ行って、スーパーで買ったハムとチーズを包丁で刻む。食パンは小さくちぎって丸める。今朝と同じように。
ハム、チーズ、食パンを乗せた皿を持って浴室へ。浴室の縁に皿を乗せるとすぐに、ヒメはそれに口を付けた。
吸い込むようにして食べているヒメを見ながら、その横にもう一枚皿を置いて、牛乳を注いだ。ハム、チーズ、食パンの皿が空になると、牛乳の皿もあっという間に飲み干した。
そんなヒメを見ながら、思った。ヒメは、ハムとチーズとパンを食べた。そして牛乳を飲んだ。でも、ヒメが、本当に好きな物? 主食? は、何なのだろう。安いハムやチーズでよかったのか? もっとヒメが好きな、ヒメが喜ぶ物があるのではないか。
ヒメにもっといろいろな物を食べさせてあげたい。そう思った。でも、僕がヒメといられるのは……
満腹したヒメが浴槽の底に沈んだ。ヒメは浴槽の底でバラバラになってしまった海藻のベッドの上で丸くなった。眠ったようだ。
改めて、思った。ヒメはしゃべれない。当たり前だ。魔女に声を取られたからじゃなく、そもそもそういう生き物なのだ。
表情も、ほとんど変わらない。いつも、大きな目をきらきらさせて、小さな口を丸く開けている。驚いているように。珍しい物を見ているように。だから、あどけない少女に見える。でも……その表情は、いつも変わらない。お腹が空いた時に口をパクパクと動かすだけだ。だから……ヒメの顔を見ても、喜んでいるのか、怒っているのか、わからない。満足なのか、不満なのか、わからない。僕が勝手に想像して、勝手に解釈しているだけで……せめて、せめてヒメが、笑ってくれたら……そんなことを、思った。
ヒメが眠っている間にシャワーを浴びてしまおうと思った。思えば昨晩も、その前の晩も、僕は入浴していない。浴室にはいたけれど。
僕は裸になって、洗い場に立った。シャワーは浴槽の蛇口の横から伸びていて、洗い場の壁の上の方にあるフックにヘッドを掛けるようになっていた。僕は水道のレバーを回して水の出口を蛇口からシャワーに切り替えた。レバーの横には水温を調整するためのハンドルがある。僕は赤い印が付いている方向にハンドルを回して、熱めのお湯を出した。
全身に一度お湯を浴びてから、お湯を止め、スポンジにボディーシャンプーをしみ込ませて身体を擦る。頭髪用のシャンプーを頭からかけて、両手で髪の毛をかき混ぜる。気持ちがいい。
目をつぶったまま、ハンドルを回して再びお湯を出す。頭からお湯を被りながら、手探りでシャワーヘッドをフックから外す。手に持って、身体の泡を流れ落とす。全身を包んでいた泡が流れ落ちたところで、目を開けた。
ヒメが、僕を見ていた。いつの間にか起き出したヒメは、浴槽の縁に顔と手を乗せて僕を見上げていた。
それ、わたしにも。ヒメがそう言っているように思えた。
「わかったよ。ちょっと待って」
そう言って、僕はハンドルを水色の印が付いている方へ回した。シャワーがお湯から水に切り替わる。熱いお湯を浴びてヒメが火傷したらたいへんだ。
自分の手に水をあてて温度を確認してから、ヒメの顔にシャワーを向けた。驚いたのか、ヒメは浴槽の水の中に潜ってしまった。僕がそのまま浴槽の水面にシャワーの水をかけていると、その中にヒメが顔を出した。ヒメが目を細くした。気持ちよさそうだ。その表情は、ますます人間に、少女に見えた。
水面に円を描くようにシャワーを回してみた。ヒメはシャワーを追って泳ぎ始めた。背泳ぎの姿勢で、顔にシャワーを浴びながら。
シャワーの方向を変えてみると、ヒメもそれに合わせて泳ぐ方向を変えた。こうして僕は、しばらくの間ヒメとの鬼ごっこを楽しんだ。
自分の身体がさっぱりすると、今度は浴槽が気になった。バラバラになった海藻は浴槽の底に沈んだままだ。よく見ると浴槽の中の水も少し濁っている。ヒメを包んでいた海藻の粘着物が浴槽の水に溶けたせいかもしれない。あるいはヒメの排泄物か。
浴槽を洗ってやろう。そう思った。でも、どうしよう。
僕は洗い場に置いてあった洗面器に水を貯めた。浴槽の中のヒメに手を伸ばす。ヒメはじっと動かない。僕がしようとしていることがわかっているのだろうか。僕はヒメの正面から、右手をヒメの背中に、左手を腰の下、しっぽ? の部分に回した。
ヒメの身体を触るのは初めてだ。いや、一度だけ、寝ているヒメを触って驚かせてしまったことがあった。でも本格的にヒメに触れるのは、初めてだ。ちょっと、緊張した。
背中の触手は、やっぱり柔らかかった。ヒメ自身はじっとしているけど、触手は一本一本が複雑に動いているように感じた。下半身は、ヌメヌメ、ではなく、ツルツル、ていうか、スベスベ、だった。
僕は、手を滑らせてヒメを落とさないように気を付けながら、ヒメを浴槽から抱き上げた。ヒメの手が僕の腕をつかんだ。ヒメの指の先は吸盤になっていて、僕の腕に吸い付いていた。僕はヒメを洗面器の中に寝かせた。
人間の赤ちゃんをお風呂に入れる時もこんな感じなのだろうか。そんなことを思った。僕にはまだ経験がないけれど。
僕が洗面器の中のヒメから手を離すと、ヒメは洗面器の中で起き上がった。僕は壁のフックにシャワーヘッドをかけて、ヒメにシャワーがかかるように調整した。ヒメはまた、気持ちよさそうに目を細くした。
僕は浴槽の底でバラバラになっていた海藻を拾い集めた。海藻があった方がヒメは快適なのかもしれないけど、このままではきっと海藻は傷んで腐ってしまう。海藻は捨てることにした。
浴槽の栓を抜いて水を流す。浴槽が空になると、浴槽全体に洗剤を振りまいて、ブラシで擦る。一通り洗い終わったところで、ヒメが使っていたシャワーをフックから外して手に取る。
「ちょっと借りるよ」
そう言ってシャワーの水を浴槽に向けて浴槽の中の泡を流し落とす。泡が残らないよう、念入りに。
きれいになった浴槽に栓をして、水道の蛇口から水を出す。そして、洗面器の中で座って待っていたヒメを抱き上げる。今度はヒメの横側から背中と腰の下に手を入れて、文字通り、お姫様だっこ、の形で。
水が溜まり始めた浴槽の底にそっとヒメを置いた。ヒメはすぐに蛇口の真下へ行って水道の水を浴び始めた。
泳げるくらいの深さに水が溜まるとヒメの回遊が始まる。僕は浴槽の縁に肘を突いてその姿を眺めた。
「ヒメ……ヒ、メ」
用があるわけでもないのに、僕はヒメに呼び掛けていた。
どれくらい時間が経っただろう、ヒメがまた僕を見て口をパクパク動かし始めた。
「了解、待ってて」
僕はキッチンへ行って、ハム、チーズ、食パンと牛乳を用意した。
満腹すると、ヒメはまた浴槽に潜って丸くなった。
気が付いた。海藻のベッドは捨ててしまった。ヒメは浴槽の底に直に体を付けている。ヒメは、気持ちいいのだろうか? ヒメが快適に眠れるようにするには……
僕は浴室の脇の戸棚からバスタオルを持ち出して、それを浴槽に沈めてみた。浴槽に両手を入れて、水を吸ったバスタオルを浴槽の底に広げる。すぐにヒメはそれに気が付いた。丸まっていた身体を伸ばしてバスタオルと浴槽の底との間に潜り込んだ。やっぱり布団がほしかったのだ。ヒメは身体をひねってバスタオルを上手に自分の身体に巻き付けた。
ヒメが動かなくなった。僕は洗い場に座り込んで、しばらくの間、ヒメを見ていた。大丈夫。ヒメは気持ちよさそうだ。僕が用意したベッドを気に入ってくれたみたいだ。
僕は考えていた。今週末になったら、ヒメを海へ帰す。それが、ヒメにとって一番幸せなことだろう。でも、ヒメはここでの生活、僕の部屋で、僕といっしょにいることに馴染んできている。僕があげた食べ物を食べてくれる。僕の浴槽で、気持ちよさそうに眠っている。それに、海に帰ってもヒメが安全だと限らなない。誰かに見つかったら……漁船の網にでもかかってしまったら……それなら、それならこのまま、ヒメと……
決めた。僕は、ヒメを飼う。いや、違う。ヒメと暮らす。そう決めた。
「おやすみ、ヒメ。また明日」
そう声を掛けて、僕は浴室の灯りを消した。
次の日の朝もヒメは元気に浴槽の中を回遊していた。そしてすぐに食事を欲しがった。ハム、チーズ、食パンと牛乳。僕は、浴室の床に座ってヒメを見ながら、食パンに挟んだハムとチーズを食べた。
食べ終わるとまたヒメが浴槽の底で丸くなった。僕が入れてあげたバスタオルは浴槽の底でねじれて棒のようになっていた。僕は浴槽に手を入れてバスタオルを拾い上げた。それを広げて再び浴槽に沈め、ヒメに覆いかぶせてあげた。ヒメは身体を回転させてバスタオルを身体に巻き付けた。
夕方、僕が大学から帰るとヒメはまた眠っていた。生きているだろうか……心配になる。大丈夫。尾ひれが微かに動いている。リズムを取るように。寝息のように。バスタオルはやっぱり丸まって、ヒメと離れたところで棒状になっていた。またかけ直してあげようかと思ったけど、やめた。ヒメが目を覚ましてしまうかもしれない。ヒメにはもう少し、眠っていてほしい。
僕はすぐに自転車でスーパーへ向かった。
最初にカートに入れたのは、赤身の刺し身。パックの中にきれいに切り揃えられている。ヒメが喜んでくれるような気がした。並んで置いてあったイカの刺し身も。
肉はどうだろう。ハムを食べたのだから、おそらく肉も食べるだろう。薄切りにスライスされた豚肉のパックをカートに入れる。牛肉は高い。鶏肉は安いけど、今日のところは中間の豚肉で。
米は食べるだろうか? 食パンは食べた。でもやっぱり、主食は肉類だろう。
野菜はどうだろう? ヒメがもともと海に住んでいたとしたら、野菜という選択肢はないかもしれない。でも念のため。栄養のバランスもあるし。僕はレタスとキュウリとトマトをカートに入れた。
果物は? リンゴを一つ。これも念のため。オレンジなどの柑橘類はさすがに食べないだろう。
最後にラップに包まれたおにぎりを二つ。これは僕のために。
僕がアパートに帰って浴室に入ると、ヒメは目を覚ましていて、浴槽をゆっくりと回遊していた。そしてすぐに水面に顔を出して食事を欲しがった。口をパクパクさせて。
僕はすぐに食事の準備に取り掛かった。赤身の刺し身をパックから取り出して包丁で小さく、ヒメの一口大に刻む。イカの刺し身はすでに細長く切られていたけど、これも一口大に刻んだ。豚肉は、パックから三枚だけ取り出して生のまま同じように刻む。生のままで大丈夫だろうか。いや、煮たり焼いたりしてしまったらかえって食べられないかもしれない。そう思った。それぞれを別の皿に盛りつける。
レタス、キュウリ、トマトは、それぞれ細かく刻んだものを一枚の皿に盛りつけた。
リンゴは皮ごと四つに切って芯を取り、そのうちの一切れを細かく刻んだ。
最後に牛乳。合計五枚の皿と、おにぎりを浴室へ。トレーがいっぱいになって、二回に分けて運んだ。
ヒメは浴槽の縁に手をかけて僕のことを待っていた。僕は五枚の皿を順番に並べた。
ヒメが最初に口を付けたのは、赤身の刺し身。思った通りだ。皿が空になると、次に豚肉。生肉も好物のようだ。そしてその次にイカの刺し身。これも気に入ってくれたみたいだ。
僕は浴室の床に座っておにぎりを食べながらヒメの様子を見ていた。三枚の皿が空になると、牛乳の皿に口を付けた。最後に残ったのは、やっぱり野菜とリンゴの皿。
ヒメは皿の前で僕を見上げている。皿に口を付けようとしない。食べられないのだろう。
ヒメの顔が、ごめんなさい、と言っていた。
「いいんだよ」
そう言って皿をトレーに戻した。ヒメが浴槽の底で丸くなる。僕は浴槽の中でバスタオルをヒメにかぶせてあげた。
ヒメは満腹するとすぐに眠ってしまう。それがヒメの生活パターンなのだろう。それなら、食事のサイクルは? 日中、僕が大学へ行っている間、ヒメは何も食べられない。お腹を空かせているかもしれない。それともずっと眠っているのだろうか? いや、バスタオルがねじれて丸まっていたから、ヒメはきっと日中にも起き出して浴槽の中を回遊していたはずだ。ヒメの生活パターンをきちんと把握しないと……
もうじき週末。ヒメとずっといっしょにいられる。そうすれば、ヒメの生活パターンがわかるだろう。僕はもう、その週末にヒメを海に帰そうと思っていたことなど、すっかり忘れていた。
週末。金曜の夜から土曜、日曜にかけて、僕はずっと、ヒメといっしょにいた。そして食事をする時間、ヒメが眠っている時間、回遊している時間をすべて記録した。
もちろんその合間に浴槽を掃除して、ヒメにシャワーをかけてあげたりしながら、僕自身もシャワーを浴びた。ヒメが浴槽を使っているから僕はもうお湯に浸かることはできない。仕方ない。
金曜の夕方にスーパーへ行って食料も買い溜めしておいた。僕が食事を用意すれば、ヒメは必ずそれを食べた。僕も浴室でヒメといっしょに食べた。
ヒメの好物は刺し身と生の肉。でもさすがに毎食刺し身というのは僕にとっては贅沢だ。かといって、僕は生の肉は食べられない。豚肉を茹でてみた。コンロで鍋に湯を沸かし、スライスされた豚肉を入れる。薄い肉はすぐに茹で上がった。それを今度は水にさらして冷やす。そしてそれをヒメの一口大に刻んだ。ヒメはそれも食べてくれた。僕もヒメといっしょに食べた。
冷凍食品のハンバーグや鶏のから揚げも試してみた。もちろん十分に冷まして。ヒメは、肉類であれば基本的に何でも食べた。ただし加工食品の優先順位は低かった。刺し身や生肉の皿と並べると、先に食べるのはやっぱりそっちだ。好きな物を後に残しておく、ていう発想は、ヒメにはないだろう。
甘い物はどうだろう。そんなことも思った。女子はたいがい甘い物が好きだ。ヒメは……女子?
シュークリームとショートケーキをあげてみた。ヒメは、これも食べた。クリームに口を付けて、吸い込むようにして。でも……肉類や魚類と並べると、やっぱり優先順位は低い。食後のデザート、ていう概念も、ヒメにはないだろう。やっぱり……食事は刺し身と肉が中心だ。
食事の後は睡眠。寝ている時間はだいたい三、四時間。起きると運動。狭い浴槽の中を回遊した。もっと広い所を泳がせてあげたいと思ったけど、外に連れ出すわけには行かない。回遊の時間も三、四時間。
運動の後はまた食事。お腹が空くと水面から顔を出して口をパクパクと動かした。時には浴槽の縁に手をかけて身を乗り出すようにして催促してきた。僕はすぐに食事を用意してあげた。
食べるとまた睡眠。ヒメに昼夜は関係ないようだった。でも、回遊の時間が長いと食べる量も多く、睡眠時間も長いようだ。よく運動し、よく食べ、よく眠ることが健康的なのは、当たり前だ。
ヒメが寝ている間に僕も睡眠を摂った。浴室前の廊下に布団を敷いてそこで寝た。スマホのアラームを短めにセットして、ヒメが起きる前に起きるようにした。
土日はあっという間だった。月曜日になった。僕は仕事に行かなければならない。
朝食を食べ終わると、ヒメはいつものように眠りに就く。
「行ってきます」
ヒメにあいさつをして、浴室を出る。出勤がこんなにつらく感じられたのは初めてだ。後ろ髪を引かれる、ていうのは、こういうことを言うんだろう。そう思った。
改めて、この二日間のことを思い出す。楽しかった。夢のようだった。でも……この夢は、終わらない。まだまだ続く。
もう一度振り返ってヒメが眠る浴槽を見る。
「待っててね」
そう声をかけて、僕は浴室の灯りを消した。
五月。ヒメが僕の部屋に来てから一ヶ月が過ぎた。
毎年ゴールデンウィークには実家に帰るようにしていたけど、今年は帰らなかった。
母親に電話をすると、そんなに忙しいの? て心配してくれたけど、そうじゃない。ヒメのことを何日も放っておくことなんて、できない。
ヒメが僕のアパートに来た最初の週末、ずっとそばにいて僕が把握したヒメの生活サイクルは、食事、三、四時間の睡眠、同じく三、四時間の運動、そしてまた食事。
僕が大学へ行く平日は、朝七時に朝食。僕が大学から戻る夕方六時過ぎに夕食。その間は十一時間。僕は、ヒメが昼間、お腹を空かせてしまうのではないかと心配した。間に一食、昼食? おやつ? を食べさせてあげたい。そう思った。
ヒメの好物は、刺し身と肉。でも日中、湿気の多い浴室に刺し身や生肉を置いておくわけにはいかない。
ビーフジャーキーや裂きイカなど、乾燥したおつまみ系や、食パンを置いておいてみた。でも……僕が帰ると、手つかずのままだった。やっぱり口に合わないのか。それとも、僕といっしょじゃないと、食べないのだろうか……そんなことも思った。
仕方がない。朝食をたくさん食べてもらって、僕が帰ったらすぐに夕食にする。日中はお腹が減っても我慢してもらおう。そう思った。
そのサイクルが、変わってきていた。起きて回遊している時間も、寝ている時間も長くなった。どちらも五時間から六時間。僕のサイクルに合わせてくれているのか。あるいはヒメの自然な成長過程なのか。
少し安心した。僕が大学へ行く平日でも、朝食を食べて、六時間ほど眠っていてくれれば僕が帰る頃はまだ回遊の最中だ。買い物へ行って食事を用意してあげればちょうどお腹が空く頃になる。朝食と夕食。一日二回の食事でいい。
困ることもある。ヒメは食べるとすぐに寝てしまう。すると、夕食の後は深夜まで睡眠だ。その間、僕はヒメの泳ぐ姿を見ることができない。ヒメと遊べない。ヒメの活動時間は深夜から朝までということになる。
それなれ、ヒメの睡眠に合わせて、僕の睡眠時間を調整すればいい。そう思った。夕食後、深夜まで僕も睡眠を摂る。ヒメが起きる頃に僕も起きて、朝までヒメといっしょに過ごす。これで、解決だ。
そう、他にも問題があった。ヒメの、食べる量が、増えたことだ。それも、格段に。
正直なところ、社会人になって二年目の僕の収入では苦しくなってきていた。ヒメには好物の刺し身や肉を食べさせてあげたい。それも、できれば安物ではない物を。でも、そうは行かなくなっていた。肉の代わりにハム、刺し身の代わりに竹輪。そんなことも多くなっていた。それでもヒメは……それを食べてくれた。おいしそうに、食べてくれた。助かった。
そして……食べる量に合わせるように、ヒメの身体も、大きくなった。ここに来た時20センチほどだった体長は、今は、1メートル、いや、1メートル20センチくらいある。体形は、変わっていない。相変わらずスマートでシャープ。
全身の肌の色は……やっぱり、青。サファイアの、青。海の、青。青が濃くなったかもしれない。水深が深くなったみたいに。全身を覆っていた透明な膜も、薄くなったような気がする。ヒメが大きくなったから、相対的にそう見えるのかもしれない。でも、青の輝きは変わらない。輝く、サファイア。輝く、海。
背中に生えている触手も、その先端近くまで白い色が濃くなった。透明なのは先端のわずかな部分だけ。
全身が大きくなったのだから、当然、ヒメの顔の部分も大きくなった。でもその顔立ちは、変わらない。
あどけない、少女の顔。もちろん、人間の少女とは、違う。サファイアの、海の色の、顔。波の色の、髪、いや、触手。そして何より、その目。きらきらと輝く、ダイアモンド。それでも僕の印象は……やっぱり、少女。人間の、女の子。
そんなヒメを見ていると、僕の問題なんかどうでもいいように思えた。でも……もう一つ、心配事があった。
身体が大きくなったせいで、ヒメは浴槽を回遊することができなくなっていた。体をくねらせて、せいぜい一回り。だから、ヒメはほとんど運動らしい運動ができなくなっていた。
僕はヒメの運動不足を心配していた。ヒメが太ることを心配していたわけじゃない。ヒメの体形は変わっていない。そんなことじゃなくて……
連休明けのある日。大学から帰った僕は、いつものようにアパートの部屋のドアを開けた。そこに……ヒメがいた。驚いた。ヒメは狭い玄関で、両手で上半身を持ち上げて僕を見上げていた。おかえりなさい、僕の顔を見て、そう言ってくれていた。
うれしかった。でも……
状況をきちんと整理しないといけない。朝、僕が出勤する時、ヒメは浴槽の中にいた。というか、今までずっと、ヒメは浴室の中にいた。そこから出たことはなかった。
僕は浴室の扉をずっと開けっ放しにしていた。ヒメを閉じ込めてしまうのはかわいそうだと思ったし、僕が帰った時に少しでも早くヒメを見たかったから。扉を開けておいても、ヒメが自分で浴室から出るなんてことは、まったく考えていなかった。
でも今、ヒメはこうして玄関で、僕を出迎えてくれている。ていうことは……ヒメは自分で浴槽から出て、浴室から外へ這い出したということだ。ヒメは浴槽の中で回遊できなくなっていた。だから……浴槽の、浴室の外を動き回りたくなるのも、仕方ない。
動き回る? 浴室から玄関まではほんの2メートル。でも玄関と反対の方向にはダイニングキッチンがあって、その奥には洋室がある。僕がいない間、ヒメは、部屋じゅうを動き回っていたのだろうか。部屋の中はいったいどうなって……いや、まずはヒメだ。
僕は「ただいま」も言わず、ヒメを抱き上げた。ヒメの両脇の下に手を入れて持ち上げた。抱き上げたヒメの身体はしっとりと濡れていた。僕の服も濡れてしまうけど、そんなことにかまっていられない。
ヒメの身体はいつも濡れていた。ほとんどの時間、浴槽の水の中にいるのだから当たり前だけど。水気のないところでヒメを触るのは初めてだ。皮膚から水分を分泌させているのかもしれない。
ヒメを浴室へ運ぶ。ヒメは抵抗しなかった。ヒメを浴槽の中に降ろす。
「ここで待ってて」
そう言って僕は浴室の扉を閉めた。扉を閉めたのはいつ以来だろう。かわいそうだけど、ヒメにまた部屋の中を動き回れては困る。
予想した通り、ダイニングキッチンも洋室も、フローリングの床はいたるところ、濡れていた。ねばねばと少し粘性を含んだ水分だ。ヒメを最初に見つけた時、ヒメを包んだ海藻を覆っていたものと同じものかもしれない。やっぱりヒメは部屋じゅうを回遊していたのだ。
だとすれば……正直、僕は部屋の床をこまめに掃除している、わけではない。見た目ではわからなかったけど、ヒメはホコリまみれだ。それに……
部屋の中にたいした家具は置いてない。それでもヒメが、どこかにぶつかったりしていたら……ヒメは、怪我などしていないだろうか。
床は後で拭けばいい。僕は浴室に戻った。
ヒメは浴室の扉の前にいた。浴槽から自分で這い出したということだ。浴室に入るとすぐに後ろ手で扉を閉めた。ヒメが浴室の外に出ないように。
すぐにシャワーを手に取って、ヒメに水をかけてやった。ヒメが気持ちよさそうに顔を上げる。いつものように。
僕は右手にシャワーを持って水をかけながら、左手でヒメの身体を撫でるように洗ってあげた。体に擦り傷や切り傷がないか、確認しながら。
ヒメを洗いながら、僕は考えていた。
これからどうしよう……可哀そうだけど、僕が出かける時には浴室の扉は閉めておかなければならないだろうか……日中はずっと、眠っていてくれればいいのだけれど……
それとも……毎日、帰ってから、こうやってヒメを洗ってあげて、部屋の床を掃除するか……ヒメに運動もさせてあげたいし……
ヒメが口をパクパクと動かし始めた。そうだ。まずは、食事だ。僕は水を出したまま、ヒメの真上にあるフックにシャワーヘッドを掛けて、キッチンへ向かった。
翌朝、僕はヒメのためにいつもよりたくさんの朝食を用意した。ヒメが少しでも長く眠っていてくれるように。食べる量が多ければ、ヒメの睡眠時間もその分長くなる、はずだ。その分ヒメが起きている時間が長くなって、僕の睡眠時間は少なくなる。でもそんなことは考えている場合じゃない。
部屋を出る前に、浴室の扉を閉めた。申し訳ないけど、僕が帰るまでヒメには浴室にいてもらう。床掃除は思いのほかたいへんだった。床に付いたヒメの粘液はなかなか取れなかった。そんなことより、ヒメが怪我をしたらたいへんだ。キッチンにはコンロもある。ヒメがコンロに火を点けたり、コンロの上に乗ったりすることはないだろうけど……
仕事中もヒメのことが気になって仕方なかった。いや、それはいつものことだけど、今日は、特に。
夕方、アパートに帰った僕はすぐに浴室を見た。浴室の扉は閉まったままだ。でも……音がした。シャワーの音だ。
浴室の扉を開けた。ヒメが……ヒメがシャワーを浴びていた。フックに掛けたヘッドの真下で、ヒメが顔を上げてシャワーを浴びていた。
僕は慌ててシャワーから出てている水の中に手を入れた。熱湯だったらたいへんだ。
大丈夫。水だった。僕は自分でシャワーを浴びる時以外お湯は使わないようにしていた。自分で浴びる時もなるべくぬるめに。そばにいるヒメが火傷しないように。そして自分のシャワーが終わるとすぐに水に戻す。前の日もシャワーを浴びたけど、その後ちゃんと水に切り替えてあった。
でも……朝、僕が出勤する時にはシャワーの水は出ていなかった。と、いうことは、ヒメが自分でシャワーの水を出したということだ。蛇口の横にあるレバーを上げるだけの簡単な操作だ。ヒメは、それを覚えたということだ。
ヒメが顔を上げた。僕はレバーを下げてシャワーの水を止めた。レバーの横のハンドルを見た。青い印の方が水、赤い印の方がお湯。ヒメにこのハンドルを回すことはできないだろう。でも、もし……
これからも、ヒメが自分でシャワーの水を出すことがあるとすると、ガスの元栓を止めておいた方がいいかもしれない。お湯がでないように。あるいは水道の元栓を止めて、水が出ないようにしておくか……出しっ放しにされたら、水道料金も馬鹿にならない。そうでなくても、最近のヒメの食費は……
でも……ヒメは。
十分な運動ができない。シャワーも好きな時に浴びられない。そうなったら……ヒメは、快適だろうか。それでもヒメは……幸せだろうか。
それに……ヒメのサイズ……
ヒメを見つけた時、僕は、ヒメが小さかったのと、そのあどけない顔立ちから何となく、ヒメはまだ子供、それも生まれたばかり子供なのだろうと思っていた。でも……ヒメが大きくなるなんて、僕はまったく考えていなかった。ヒメはずっとそのままなんだろうと、何の根拠もなく、そう思っていた。
ヒメはこれからもっと大きくなるのだろうか。きっと……そうだろう。
ヒメはいつまでここにいられるのだろうか。いや、そもそもここにいていいのだろうか……
その夜、夢を見た。僕は、南の海の小さな島にいた。夢の中の僕は、そこが南の海の島であることを知っていた。
白い砂浜に座って、青い海を見ていた。
穏やかな海の沖合を、ヒメが、泳いでいた。ヒメは水面に顔を出して、平泳ぎをしたり、背泳ぎをしながら、時々僕の方を見て手を振った。僕もヒメに手を振り返した。
少しすると、ヒメは僕の方に向かって来た。水深が浅くなると、ヒメが立ち上がった。ヒメには二本の足があった。ヒメの顔は、あどけない少女ではなくて、きれいなおとなの女性になっていた。
ヒメの口が動いた。お腹が空いたのかな、僕はそう思った。何か食べ物を用意してあげないと……
でも違った。ヒメは、何か言おうとしていた。僕は、ヒメの口の形をまねてみた。
ヒメの口は、こう言っていた。
「サ」、「ヨ」、「ナ」、「ラ」、「ヒ」、「ロ」、「ク」、「ン」
ヒメが、身をひるがえして、海に飛び込んだ。
ヒメが、そのまま沖の方に向かって泳いで行く。
僕は……砂浜に座ったまま、動かない。動けない。
ヒメが小さくなる。やがて、ヒメの髪の毛、いや、白い触手が、海の中に消えた。
僕はただ、砂浜に座ったまま、ヒメを見送っていた……
目が覚めた。僕は浴室の前の廊下に敷いた布団の上で横になっていた。首を回すと、閉まったままの浴室の扉が見えた。静かだった。ヒメはまだ眠っているのだろう。
僕は……決めた。ヒメを……ヒメを海に帰す。
でも……このまま海に帰して、ヒメは一人で生きて行けるのだろうか……
僕の部屋に来てからずっと、ヒメは僕がスーパーから買ってきた物を食べていた。海で、ヒメは自分で、食べる物を見つけられだろうか……
ヒメの故郷はきっと、太平洋の、海底火山の噴火があったあたりだろう。ヒメは一人でそこまで帰れるだろうか……
帰ったとしても、ヒメの住む場所はあるのだろうか……火山活動はまだ続いているって、ネットのニュースで見たような気がする……
でも、それでも……ここにいるよりは……
翌日。僕は大学から帰るとすぐに浴室へ行った。扉は閉めたままだった。水道の元栓を止めてシャワーも出ないようにしてあった。ヒメは……浴槽の中にいた。僕が浴室の扉を開けるとすぐに浴槽から飛び出してきた。跳ねるように。ヒメが、僕を見上げた。ヒメが、怒っている。僕にはそう見えた。
元栓を開けて、シャワーを出してヒメにかけてあげると、ヒメが目を細めた。いつものように。ヒメは機嫌を直して……くれただろうか? いっそのこと、ヒメに嫌われてしまえば……そんな考えが頭をよぎった。
シャワーの水を出しっ放しにしたまま、浴室の扉を閉めて、僕はスーパーへ向かった。
僕は考えていた。ヒメの好物は刺し身だ。海に帰ったヒメの主食となる物も、やっぱり魚だろう。でも、ヒメに歯はない。見たことがない。だから、大きな魚を食べることはたぶんできない。小さな魚なら丸飲みにできるかもしれない。でも、頭から? 骨ごと? 消化できるだろうか?
ヒメの消化力はかなり高いと思えた。その証拠に、ヒメは固形物を排泄したことがなかった。でも、さすがに骨までは……
それなら……イカは? イカなら丸飲みして、全部消化できるかもしれない。
僕は生のイカを二匹、二杯というのかな? 買った。
アパートへ帰るとさっそく、ヒメにイカをあげてみた。あげたと言ってもいつものようにお皿に乗せて浴槽の縁に置くのではなく、そのままヒメのいる浴槽の水の中に入れてみた。ヒメはすぐに両手でイカを掴んで僕を見上げた。いつもと違う食事の仕方に少し戸惑っているみたいだ。
「そのまま食べてみて」
僕が言うとヒメは両手で持ったイカに口を付けた。イカを立てにして頭から吸い込んだ方が食べやすいのではないかと思ったけど、ヒメはイカの横の方に吸い付いていた。だから、なかなか吸い込めない。
その時。ヒメの口に、歯が、ギザギザした、短いけれど鋭い、ノコギリのような歯が見えた。ヒメの歯を見るのは初めてだった。
ヒメがその歯でイカを切り裂いた。そして刺し身のように細長くなったイカの身を飲み込んだ。ヒメのそんな食べ方を見るのは初めてだった。
そうやってイカの身が無くなると、足。ヒメは束になったイカの足をそのまま、まとめて飲み込んだ。
僕は驚いていた。ヒメに、歯があった。それも鋭い歯が。今まで僕に見せたことのない歯が。僕が気付かなっただけなのか。あるいは必要な時だけ出て来るようになっているのか。自然界で生きてゆくためには、当然のことかもしれない。でも……それでも。
食べ終わったヒメが僕を見て口をパクパクと動かした。お代わり、の合図だ。一瞬、夢の中で見たヒメの口を思い出した。
キッチンへ戻ってもう一杯のイカを皿に乗せて、また浴室へ。イカを皿から滑らせて同じように浴槽に入れる。ヒメはすぐにイカを捕まえて食べは始めた。歯を出して、イカを切り裂きながら。
イカを食べ終わったヒメは、満足そうに、浴槽の中で丸くなった。
僕の中にある考えが浮かんだ。イカを切り裂くことのできる歯があるなら、魚でも……
僕は再びスーパーへ向かった。そしてアジを二匹、買った。切り身や開きになっていない、そのままのアジを。
深夜。ヒメが目を覚ました。僕は浴室の中でヒメが目を覚ますのを待っていた。
ヒメが顔を上げる。大きくなったヒメは、自力で浴槽から出ようとした。
「ちょっと待って」
そう言って僕は、用意しておいたタブレットをヒメの目の前に突き出した。大学からリモート用に支給されていた物だ。
「これを見て」
僕がタブレットでヒメに見せたのは、海の中を泳ぐ魚の動画。
僕がヒメに食べさせていたのは切り身になった刺し身の魚。だからヒメは、実際に魚が泳ぐ様子を見たことがない、はずだ。
「魚はこうやって海の中を泳いでいるんだよ」
僕はヒメに話しかけた。
僕が言っていることをヒメが理解しているのかどうかわからない。そもそもタブレットの動画をヒメがどう捉えているのかもわからない。ヒメは、不思議そうな顔をしながらタブレッドと僕の顔を交互に見た。
ヒメがタブレットに手を伸ばした。動画の中の魚を捕まえようとしているのかもしれない。
僕はヒメの手が届く直前でタブレットを自分の方へ引き戻した。ヒメの手が空を切った。
「ちょっと待って」
画像を切り替えた。次にヒメに見せたのは、料理職人が魚をさばく動画。白い調理服を着た職人が、まな板の上に乗った魚を包丁でおろして行く。
まず、頭を切り落とす。残酷だ。僕も目を背けたくなる。でも……仕方ない。続いて、尾ひれの方から包丁を入れ、身を切り取る。後には尾ひれが付いた骨が残る。骨は脇にどけられ、まな板の上に切り取られた身の部分が置かれる。包丁が入る。大きな身が、きれいな刺し身に変わって行く。
「いいかい、ヒメがいつも食べているお刺し身は、こうやって作られているんだよ」
本当はヒメの目の前で僕が本物の魚をさばく様子を見せてあげればいいのだろうけれど、僕にそんな技術はないし、そもそも僕にはあんな残酷なことできない。
「あの、頭と骨は、硬くて食べられないからね。気を付けるんだよ」
この動画で、ヒメはわかっただろうか……
朝食の時間にはだいぶ早い。でも、このタイミングで試しておきたい。
「これも食べられるかな?」
そう言って僕は、アジを皿から滑らせて浴槽の水の中に入れた。イカの時と同じように。
ヒメはすぐにアジを捕まえて、両手で持って上体を起こした。ヒメが僕の顔を見る。
「そのまま食べてみて」
僕がそう言うと、ヒメはアジに吸い付いた。あの、歯が見えた。ヒメは歯を使ってアジの身をさばきながら食べ始めた。上手に食べていた。初めてとは思えない。
アジの骨が見えた。ヒメが、舌を出した。ヒメの舌を見るのも、初めてだった。細くて長い。ヒメの皮膚と同じ色をしていた。
ヒメはその舌で、骨の部分を舐め始めた。食べられるかどうか確かめているのだろう。
ヒメが、アジの骨を食べ始めた。ヒメの歯が魚の骨を砕く感触が、見ている僕にも伝わってきた。
大丈夫だろうか。心配になった。でもヒメはかまわずに食べ続ける。結局ヒメは、アジを丸ごと一匹、頭から尾ひれまで、骨ごと食べてしまった。
食べ終わったヒメはまた、浴槽で丸くなった。一匹で満足したようだ。いつもより食事の時間が早かったせいか、あるいは骨ごと食べたせいだろうか。
大丈夫だ。ヒメは魚も食べられる。魚を捕まえることができれば、だけど……
翌朝。ヒメはまだ眠っている。早い朝食? 夜食? を食べたから、いつもとサイクルが違う。普段なら起きている時間だ。
アジを骨ごと食べたヒメに異常がないか、心配だった。僕は主任にメールして、大学を休ませてもらった。熱があると嘘をついた。
九時過ぎ。ヒメは、目覚めてくれた。目覚めるとすぐ、狭い浴槽の中で身体をくねらせ始めた。元気そうだ。アジの骨も問題なく消化してしまったようだ。
「おはよう、ヒメ」
僕が声を掛けるとヒメが起き上がった。僕は浴槽の中のヒメにシャワーをかけてあげた。ヒメが顔を上げて目をつぶる。
ヒメはもう、浴槽の中での回遊はできない。それでもヒメは、気持ちよさそうにシャワーを浴びている。ヒメは、楽しそうに……見えた。
僕がいっしょにいれば、ヒメも浴室から外に出ないのではないか。そう思った。ずっとこうしていれば、何の問題もないんじゃないか……
僕の心に迷いが生じる。いっそのこと大学を辞めて……毎日こうやってヒメと……
僕は頭を振った。
だめだ。どうやって生活する? そんなことできない。
でも……アパートにいながらできる仕事を見つけて……いや、僕に何ができる?
ヒメを動画にとって配信すれば……
バカ!
僕は自分をしかりつけた。ヒメのことは、僕だけの秘密だ。それに、そんなことをしてヒメが喜ぶはずない。
僕は、シャワーを止めた。
僕はまた、浴室にタブレットを持ち込んでヒメに動画を見せた。
今度の動画は、捕鯨船による捕鯨の様子。そんな動画を見せるのは嫌だったけど、とにかく準備を進めないと。
捕鯨船から放たれたモリが、鯨の背中に何本も突き刺さる。鯨がクレーンで持ち上げられ、船で運ばれ、解体される。残酷だ。
「いいかい、あれが人間。僕と同じに見えるかもしれないけど、絶対に近づいてはダメだからね。人間が乗っている船にも、絶対に近づかないで。あんなふうに捕まってしまうからね」
僕はヒメに言い聞かせた。ヒメがあんな目にあったらたいへんだ。
ヒメの食べ物。人間という危険からの回避。もう一つ、心配なことがある。
ヒメが、自分の故郷へ帰ることができるだろうか、ということ。故郷でなくても、せめて人間に見つからない安全な場所へ。
僕はタブレットで地図を開いた。日本と、その南の太平洋。
「いいかい、ここが今、ヒメがいるところ」
僕は日本の太平洋側、僕のアパートがある街を指さした。
「ここがたぶん、ヒメの故郷」
太平洋、噴火した海底火山のある場所。
「ヒメの故郷の近くでは、今もまだ海底火山の活動が続いているらしい。だからあまり近くまで行くと危ないかもしれない。でも、ここ、日本の近くにいるよりはずっといい。日本の近くには、さっき見たような人間の船がいっぱいいるんだ」
わかってくれただろうか……ヒメが、地図を理解できる……はずない。でも……それでも。
魚や動物には帰巣本能、ていうのがあるという。鮭が海を回遊した後、必ず生まれた川に帰るという、あれだ。だったら……だったらヒメも、きっと。
できることなら、ある程度沖合に行ってからヒメを海に帰してあげたい。でもヒメを漁船や遊覧船に乗せることはできない。モーターボートを借りることはできるかもしれないけど、僕は運転できない。モーターボートを持っているような知り合いもいない。いたとしても、ヒメのことは、誰にも話せない。見せられない。
それから僕は、ヒメに海の画像を見せた。僕がすぐ近くの海岸から撮った動画だ。
まずは、サーファー達で賑わう海岸近くの海。
「この人たちも僕と同じ人間。ヒメに直接危害を加えることはないかもしれないけど、見られたらきっと、大騒ぎになる。だから、この人達にも絶対に近づいたらだめだ」
画像を海岸から沖合へとズームする。サーファー達の姿が見えなくなる。
「こっち、こっちへ向かうんだ」
水平線を、アップにした。
「この水平線の、もっと先まで行くんだ。この先に、ヒメの故郷がある」
ヒメは、不思議そうな顔をして、僕を見ている。
わかってくれただろうか。わかって……ください。お願いだから、わかって、ヒメ。
僕も、僕の目で、ヒメに訴えかけた。
金曜日。実行の日。大学に行った僕は、主任に言って大学にあった台車を一台貸してもらった。荷物を乗せて手押しで運べる、宅配の人が使っているような台車。
「大きな荷物を運ばなければならなくて……」
そう説明した。
「病気が治ったばかりなのに、力仕事ですか? がんばりますね」
主任に皮肉を言われた。仮病はばれていたかもしれない。仕方ない。そんなことにかまっていられない。
仕事が終わると、僕は大学に自転車を置いたまま台車を押しながら歩いて帰った。坂道から海が見えた。水平線も見えた。僕は、その水平線の向こうにあるはずの、ヒメの故郷を思った。
帰り道、スーパーの近くにあるホームセンターに寄った。お店の人に言って台車は駐輪場に置かせてもらった。
僕は大きな青いポリバケツを一つ、買った。ポリバケツは大学にもあったけど、ゴミ捨てに使っていた物だ。そんな物、使えない。それと、取っ手のついた、片手で持てるサイズのポリバケツを一つ。僕は大きなポリバケツを両手で抱えて駐輪場まで運んで台車に乗せた。だいぶ遅くなった。僕はアパートを目指して、急ぎ足で、それでもポリバケツを落とさないように気を付けながら、台車を押した。
アパートに着いた僕は、すぐに夕食を準備した。今日は、刺し身。それも、今までで一番高級な物。大きな柵のままの中トロ。
ヒメは、中トロの柵を両手で持って、食べた。あの歯を使って。まるで、ハーモニカを吹くみたいに。おいしそうに。
食べ終わったヒメが、浴槽の中で丸くなる。僕は水の中のヒメに、バスタオル掛けてあげた。
ヒメが眠ったのを確認してから、僕はホームセンターで買った小さい方のポリバケツを持ち出して、洗面台で水を入れた。浴室の水道は使えない。浴室でヒメが寝ているから。ヒメを起こしてはいけない。
一杯になったポリバケツを玄関の外へ運ぶ。玄関の外には、台車に乗せたままの大きなポリバケツがあった。小さなポリバケツの水を大きなポリバケツに流し込む。そしてまたキッチンへ。これを繰り返す。何往復かすると、ポリバケツの半分くらいまで水が溜まった。ビニール紐でポリバケツを台車にしっかりと縛り付ける。
これで、準備完了。あとは……ヒメが目を覚ますのを、待つだけ。
深夜。ヒメが目を覚ました。浴槽から顔を出して、洗い場にいた僕を見上げた。あのキラキラした目で。僕はシャワーから水を出して、ヒメにかけてあげた。
ひとしきりヒメに水浴びをさせた後、僕はいったん浴室を出て、玄関に降りた。部屋のドアを開けてストッパーで固定する。浴室にもどった僕は、浴槽に両手を入れてヒメを抱き上げた。お姫様だっこ。ヒメをかかえたまま、玄関から外へ。ヒメが僕の部屋から外へ出るのは、ヒメが僕の部屋へ来てから初めてだ。ヒメが驚いたような顔をした、ように見えた。ヒメはいつも、そんな顔をしてるんだけど。
そこにあるのは、台車に乗せて、水を入れたポリバケツ。
僕は、尾ひれの方からゆっくりと、ヒメをポリバケツに入れた。ヒメはポリバケツから顔を出して、僕の顔を見た……不安そうだ。
ポリバケツが台車から落ちないように、縛り付けたビニール紐をもう一度確認する。
「大丈夫だよ」
ヒメにそう声をかけて、僕は台車の後ろ側に回った。
アパートの外は住宅街だ。一方通行の道路に面していて、道路の両側に住宅が並んでいる。
台車を押して道路に出る。深夜だったけど、街路灯に照らさられて足元は暗くなかった。
僕は海岸へ向かった。ヒメはポリバケツから顔を出して、僕を見ていた。台車に乗せられて移動するなんて初めての体験だ。不安だと思う。それでもヒメは、ポリバケツの中でおとなしくしていた。
住宅街の道路の突き当りは海岸沿いを走る大きな道路だ。海岸沿いの道路は防波堤を兼ねているらしく、海岸や住宅街より少し高いところを走っている。だから、道路の手前は急な坂になってる。僕は台車の手押しの部分に肩をあてて、台車を押し上げながら坂を登った。
ようやく、海岸沿いの道路に出た。二車線の車道とその両側の歩道。手前の歩道で一息つく。
深夜だ。車道を走る車はない。道路の向こうに海が見えた。広くて、でも暗い、夜の海。いつか、沙季さんと見た、夜の海。
ずっと僕の方を見ていたヒメが、初めて前を向いた。ヒメも気が付いたようだ。海だ。ヒメが生まれた、海。ヒメは……海を覚えているのだろうか。
僕が動画でヒメに見せた海は、明るい昼の海だった。夜の海では、ヒメが目指す水平線もわからない……どちらにしろ、海中を泳いで進むヒメには、水平線の位置なんてわからないのかもしれない……そんなことを思った。
「さあ、行こう」
もたもたしてられない。僕はヒメに声を掛けた。
車道と歩道はガードレールで仕切られていた。僕だけならともかく、ヒメの入ったポリバケツと台車がガードレールを乗り越えることはできない。右手に海を見ながら住宅街側の歩道を進む。その先に橋があった。いつもアパートのテラスから見ている橋だ。ガードレールはそこまで続いている。橋の手前に横断歩道がある。そこから海岸側に渡ることができる。
横断歩道には信号があった。交通量の多い昼間なら青になるのを待たなければならないところだけど、今は走る車もない。僕は信号を無視して横断歩道を渡った。
横断歩道を渡るとすぐ下に砂浜が見えた。砂浜に降りるコンクリートの階段があった。沙季さんと並んで、海を見た、階段。
ヒメは、海の方を見ている。僕じゃなくて、海を。
ヒメを後ろから抱きかかえた。ヒメをそのまま持ち上げる。でも、ヒメをポリバケツの中から引き上げることができない。台車を押し続けていたせいで、腕がしびれて力が入らない。
仕方ない。ヒメをいったんポリバケツの中に戻す。
ポリバケツの縁に両手を置いて体重をかけた。ポリバケツが台車ごと斜めに傾いて、そのまま倒れた。ポリバケツの中のヒメが、僕に向かって滑り出してきた。僕は倒れ込んでヒメを受け止めた。ポリバケツの中の水ごと。ヒメが僕にしがみついてきた。
「ごめんね」
ヒメに謝った。
お姫様だっこの形にヒメを抱え直してから、立ち上がった。
ヒメを抱きかかえた僕は、倒れた台車とポリバケツを歩道に残したまま、階段を降りた。ヒメを落とさないように気を付けながら。
砂浜に降りた。暗い、夜の砂浜。穏やかな波の音がする。僕は、砂を踏みしめながら海に向かった。
波打ち際まできた。湿った砂の上にヒメを降ろす。ヒメが、身体をひるがえして海を見た。
小さな波が、ヒメに届く。ヒメが、波の中に両手を置いた。波の感触を確かめているようだ。
ヒメが、僕の方を振り向いた。
「お行き」
そう言って、僕は微笑んだ。ヒメがまた、海の方を見た。
ヒメが、海に向かって進み始める。よちよちと、尾ひれを左右に振りながら。
波が、ヒメを包む。ヒメがもう一度、僕の方を振り向いた。
「サ、ヨ、ナ、ラ、ヒ、ロ、ク、ン」
夢の中のヒメを思い出した。
僕は黙って、微笑んだ。
ヒメが、泳ぎ始めた。ヒメの姿が波の中に吸い込まれて行く。間もなく、ヒメの背中の触手が、波の中に消えた。
「さよなら、ヒメ」
僕はつぶやいた。それから、暗い海に向かって、手を振った。
「ありがとう、ヒメ」
空になったポリバケツの乗った台車を押して、僕はアパートへ帰った。
浴室へ行ってシャワーを浴びた。浴室に……ヒメはいない。浴槽の底にバスタオルが沈んでいた。僕がヒメに掛けたあげたバスタオル。僕はバスタオルを拾い上げ、浴槽の栓を抜いて、浴槽に残っていた水を流した。
シャワーから上がると疲労感が襲ってきた。台車を押して海岸まで往復したのだから無理もない。
横になろう。そう思った。今日は土曜日。大学の仕事は休みだ。そもそもそのためにこの日を選んだんだ。
奥の洋室へ行って、クローゼットから布団を引っ張り出す。布団を抱えて、浴室の方へ向かおうとして、気が付いた。
ヒメが僕の部屋へ来てから、僕は浴室の前の廊下に布団を敷いて寝ていた。ヒメのそばにいたかったから。でももう、そんな必要はない。
僕は洋室のフローリングの上に布団を敷いた。ヒメが来るまで、そうしていたように。
布団に入った。あんなに疲労感があったのに、寝付けない。深夜でも、ヒメが起きている間はいっしょに起きていたから、そういう習慣が身に付いてしまったのだろうか。いや……それだけじゃないことは、自分でわかっていた。
それでもやがて、少しだけ、まどろんだ、と思う。
「ピタ、ピタ、ピタ」「ペタ、ペタ、ペタ」
音がした。僕は目を開けた。
「ピタ、ピタ、ピタ」「ペタ、ペタ、ペタ」
音は、閉め切っていたサッシの戸の方から聞こえる。サッシ戸の向こう側は、テラス。そしてその向こうは、海に続く水路だ。
僕は跳ね起きて、閉めていたカーテンを開けた。
サッシ戸の向こう側に……ヒメがいた。ヒメが、身体を起こして、その手で、外からサッシを叩いていた。
僕は急いでサッシ戸を開けた。ヒメが飛び込んできた。僕は全身でヒメを受け止めた。
ヒメが僕の顔を見上げた。その表情は、僕を責めていた。
どうして一人で帰っちゃうの? どうしてわたしを置いてっちゃうの?
そう言っていた。
「ごめん! ヒメ、ごめん! ほんとにごめん!」
僕はヒメを抱きしめた。
ヒメは一人で、海から、泳いで水路をさかのぼって、あの、コンクリートブロックの塀をよじ登って、金網のフェンスを乗り越えて来たんだ。僕の部屋を目指して。
「ごめんね! ごめんね!」
そう言って泣きながら、僕はヒメの胸に自分の額をこすりつけていた。