駿介がお弁当を広げ始めたので、萌も真似して自分のお弁当を取り出した。健也に作った余り物、もとい失敗作である。残念ながら健也に渡したお弁当も上手に出来たとは言いがたいので、成功も失敗もないのだが。
ふと視線を感じて萌が顔を上げると、駿介が萌のお弁当をじっと見つめていた。
健也が萌の手作りだなんて言わなければ、きっと駿介は弁当の中身まで気にして見なかっただろう。下手くそなそれを見られるのが恥ずかしくて、ぱたんと蓋をすると、駿介が小さく呟く。
「雨宮って料理出来ないんじゃなかったっけ」
「で、出来ない……。本当に、悲しいくらい下手くそ、です…………」
だから見ないでくれると嬉しいんだけど、と付け足すと、駿介は拗ねたような表情を浮かべる。いつもかっこいい彼の珍しい一面だ。思わず見惚れていると、駿介にお弁当の蓋を取られてしまう。
「あっ!」
「ふーん。で? なんでこれを、俺じゃなくて健也に作ったの?」
なるほど、これがヤキモチ。
どうしよう、嬉しい…………。
にやけてしまいそうになる口元を手で覆い隠して、お礼として作ったの、と答えを返す。
「ちょっと昨日いろいろあって……、五十嵐くんに助けてもらったから、お礼をしようと思って。そしたら手作りのお弁当がいいって言われて、その、料理は苦手だからって一応断ったんだけど………………」
言い訳がましくなってしまった。いや、間違いなく言い訳だった。
健也にお礼をするのは譲れないことだったので、百歩譲って手作り弁当を渡したことまではいいとしよう。それでもせめて、駿介に先に一言伝えておくべきだったかもしれない。
いらぬヤキモチをやかせてしまった上に、それを喜んでしまっているのだから、完全に萌が悪い。宣戦布告の件を知らなかったとはいえ、配慮が足りないことは間違いなかった。
「……俺も食べたいんだけどな、雨宮の手作り」
本来ならば嬉しいはずのお願いは、料理下手であるが故に頷きがたいものだった。
萌はお弁当の中身に視線を落とす。
形の崩れた卵焼き。甘い卵焼きが好きなので、砂糖で味付けをしてみたが、味見をしてもなぜかほとんど味がしなかった。
きんぴらごぼう。これはしょっぱい。なかなか喉が渇く一品に仕上がったと思う。
焼くだけのハンバーグ。簡単調理、と書いてあったのに、綺麗に焦げてくれた。焦げ目を削ぎ落とせば、一応食べられるだろう。
ほうれん草とコーンのバター炒め。味はそこそこバランスよく仕上がったが、水気が上手く飛ばず、べちゃべゃしている。
総合評価、赤点。
改めて見返すと、健也は本当にこれを食べて大丈夫だろうかと心配になってしまう。それくらいひどい出来だ。
でも、と萌は目線を上げる。目の前には、大好きな人。料理は下手だと聞いた上で、それでも萌の手作りを食べたいと言ってくれている。
しかも、昨日自分に宣戦布告してきた健也に対し、萌がお弁当を渡してしまったせいで、ヤキモチをやいてちょっと不機嫌そう。
「あのね、本当に…………本っ当においしくないの」
「うん」
「それでも食べる?」
「食べる。食べたい」
駿介がやわらかく笑った。その笑顔を見たら、お弁当を差し出す以外の選択肢など、萌にはないのだった。
おいしいよ、と言って、駿介は萌の手作りしたお弁当を食べてくれる。
代わりにもらった駿介のお弁当は、文句なしにおいしかった。矢吹くんのお母さんの手作り? と訊くと、駿介が自分で作ったと言うので、萌は恥ずかしさのあまり机に突っ伏すことになった。
「雨宮に、話したいことがあるって言ったじゃん」
お弁当を食べながら、ふいに駿介は話を切り出した。ドキンと大きく心臓が鳴って、思わず箸も止まる。
別れ話ではなさそう、だけど。それでも改まってする話、というのはなんだかこわい。
不安を押し隠して頷くと、「じゃあまず一つ目」と話が複数あることを暗に告げられてしまう。
「部活、一週間休むって聞いたけど、何かあった?」
自分でも目が泳いでしまった自覚はあった。駿介ももちろん見逃すはずがなく、何かあったんだな、と繰り返す。
本当はあまり言いたくない。
痴漢にあったことを話せば、きっと駿介は自分を責めてしまう。萌がそういう被害にあわないように、一緒に登下校してくれていたのだから。自分が一緒に登校していれば、と後悔してしまうかもしれない。
萌が口をつぐんだまま悩んでいると、駿介は「俺には言えない話なら、無理に言わなくていいからな」と優しく声をかけてくれる。
言えないわけではない。傷つけないように伝えるのが、難しいだけだ。言葉を慎重に選びながら、萌はぽつりぽつりと音を紡いでいく。
「あのね、念のため最初に伝えておくけど、…………これは絶対に矢吹くんのせいじゃないから。だから、絶対に自分を責めないでね」
「…………ん、分かった」
駿介の表情からは、何を考えているのか、読み取るのは難しかった。
それでも萌の言葉に頷いてくれたので、少しずつ話を進めていく。
ここ数日バスの中で痴漢にあっていたこと。
健也に保健室へ連れて行ってもらった日、愚痴を聞いてもらったこと。
健也に痴漢を捕まえてもらったこと。
その犯人が同じ学校の先輩で、以前萌が告白を断った相手だったこと。
先生たちの配慮で、昨日の授業と向こう一週間の部活動を休ませてもらうことになったこと。
冬休みに入るまでは、両親が送り迎えをしてくれること。
ときおり声が震えてしまったのは、バスの中での記憶がフラッシュバックし、恐怖が鮮明によみがえったからだ。
萌の拙い話を聞きながら、駿介は暗い顔で相槌を打っていた。
「今日五十嵐くんにお弁当を作ってきたのも、その…………捕まえてくれてお礼に、リクエストされたからなの。だから、変な意味はないよ」
痴漢という単語を使うのが嫌で、少しだけ曖昧な表現になる。それでもしっかりと駿介には伝わったようで、そっか、と低い声が教室に響いた。
しばらく沈黙が続いて、再び萌から口を開くべきか迷っていると、駿介が「ごめんな」と呟く。
「雨宮がこわい思いをしてるとき、そばにいられなくてごめん」
「ううん。私も……話しにくいからって、相談するの先延ばしにしちゃってた。そのせいで矢吹くんが自分のこと責めちゃうかもって、そこまで考えられなかった。ごめんね」
萌がそう言うと、「雨宮は本当にいつも人の心配ばっかりだな」と駿介が眉を下げて笑った。
二つ目の話は、健也のことだった。
昨日か今日……、健也と何か話をした? と曖昧な質問をされる。
してないよ、と嘘をつくことは簡単だ。でも、その場しのぎの嘘には何の意味もない。
「昨日は何も。学校着いた後すぐに先生たちと応接室にこもっちゃったし、その後も早退しちゃったから」
「…………今日は?」
駿介の目が萌をまっすぐに見つめる。同じように見つめ返しながら、したよ、と言葉を返す。
そのことは駿介も予想していたようで、だよなぁ、と苦笑いをこぼす。
「…………昨日の昼休み、健也が俺のところに来たんだ」
動画でそのやり取りを記録されていたことを、駿介は知らないようだった。
健也に宣戦布告されたよ、と続いた言葉に、萌は何を言っていいか分からなかった。
告白をされて、本気で奪いにいく、と宣言されたことを話した方がいいのだろうか。
でも、余計な不安を抱かせてしまうかもしれない。
少しの間考えを巡らせて、結局萌は少しだけ話すことにした。話しても話さなくても不安になるのなら、話しておいた方がいいと思ったのだ。
「覚悟しておいてね、って言われたの」
「覚悟?」
「うん。本気で奪いにいくから、って」
駿介が静かに息を飲んだ。
萌は構わずに言葉を続ける。駿介を不安にさせないために、伝えておきたいことがあったからだ。
「私、五十嵐くんの気持ち、嬉しかったの。でもね、私にとって五十嵐くんは、やっぱり友達なんだ」
「雨宮…………」
「矢吹くんだよ。私が好きなのは、矢吹くん。それは絶対、変わらないよ」
萌はやわらかい声で、気持ちを言葉に乗せて紡いでいく。
駿介が少しでも不安を感じているのなら、どうか伝わってほしい。萌の素直な気持ちが、まっすぐに届くように。
教室の空気がやわらかくあたたかいものに変わった気がした。
駿介の表情に入り混じっていた、焦りのような色が消える。萌の気持ちはしっかりと伝わったようだ。
「うん、俺も」
「え?」
紡がれた短い言葉の意味を聞き返す。駿介は優しい笑顔を浮かべ、萌の欲しかった言葉を紡いでくれた。
「雨宮が、好きだよ」
例えるならば、雪解けだろうか。
ずっと冷たい雪に隠れて見えなかった、春の萌しを確認できたような。そんな嬉しさがあった。
うん、と答えた萌の声は、小さかったけれどきっと弾んでいた。自分ではあまり分からないけれど、そんな気がした。
待ちに待ったクリスマスイヴがやってきた。
吹奏楽部のクリスマス会は、昨年よりもさらに盛り上がった。朝の九時開始、終了予定は午後一時、さらに今日に限り練習は一切なし、というのが部員たちの心をくすぐったのかもしれない。
普段は合奏に使っている大部屋に長机を三つ並べて、くじ引きで席順を決めていく。数人ずつでチームを組み、いろんなゲームをやった。普段は同じパートのメンバーと関わることが多いので、なかなか新鮮な組み合わせになった。
それとは別に、個人にビンゴのカードやクリスマスアンケートなるものが配られていく。
ビンゴの景品は各々持ち寄った、千円以内のプレゼント。ラッピングされて中身が分からないプレゼントを、ビンゴを勝ち抜けた順に選んでいく。早く上がったからといって、好みのアイテムがもらえるとは限らないのがおもしろいところだ。
クリスマスアンケートには、定番の質問から思わず笑ってしまうような項目までたくさん並んでいた。
クリスマス曲といえば?
クリスマスソングメドレー、演奏したいのはどれ?
ケーキとチキン、どっち派?
サンタ、トナカイのコスプレが似合いそうな部員は?
ずばり! あなたがクリスマスデートをしたい部員は!?
「これ、絶対美波ちゃんと風花ちゃんの企画だ」
「あ! それ私も思いました!」
「全力でふざけてるな」
トランペットパートの後輩である二人が作ったらしいアンケートは、各テーブルでかなり盛り上がっていた。
曲に関する質問だけは真面目に答えて、あとは思いつくがままに回答を書き込んでいく。
コスプレは似合う人、というよりも、楽しんで着てくれそうな人を選んだ。
難関は、クリスマスデートをしたい部員。
素直に答えるならばもちろん駿介だ。付き合っていることは隠しているが、気持ちまで隠す必要はないはずだ。片想いだと言い張ってしまえばそれまでなのだから。
でもその回答を美波や風花に見られることを考えると、なかなか恥ずかしい。からかわれることは覚悟しておかなければならない。
萌はしばらく悩んでいたが、周りの部員が続々と提出を始めていることに気がつき、空欄だったそこを埋める。
矢吹くん?
はてなマークをつけたのが、萌なりの精一杯の悪あがきだった。
クリスマスアンケートは意外にも有効活用されていた。
選ばれたクリスマス曲の楽譜を急遽取り寄せて、練習なしの初見演奏大会が開かれる。萌は譜面をしっかり読み込んでからでないと演奏出来ないタイプなので、なかなかひどい仕上がりになってしまった。
完成度の低い合奏も、楽しければそれでいい。それがクリスマス会なのだ。
クリスマスメドレーは、三曲あるうちの一つをそれぞれが選んだ。同じ曲を選んだ者同士でチームを組み、十五分間の譜読み時間を経た後、順番に披露していった。
これも斬新な企画でとてもおもしろかった。いつもならバランスを考えて楽器の編成が組まれるのに、各々が好きな曲を選んだため、必要なパートがいない、なんてことも起きてしまうのだ。
サンタとトナカイのコスプレもしっかりと用意されていて、得票数の一番高い部員が着ることになった。
普段はおとなしいフルートパートの女の子がサンタのコスプレをして出てきたときは、非常に盛り上がった。あまりのかわいさに、萌も「一緒に写真撮っていい?」と思わず訊いてしまったほどだ。
クリスマス会が終わりに近づいてきて、ケーキやサンドイッチなどを食べながら楽しく会話をしていると、ふいに聴き覚えのある恋愛ソングが流れ出す。クリスマス会の実行委員達が演奏しているその曲は、最近流行っているアイドルのものだ。
「さて、そろそろクリスマス会もおしまいの時間ですが…………まだ発表してない大事な項目があります! そう、ずばり、クリスマスデートをしたい部員ランキングー!!」
マイクを持って楽しそうに司会をするのは風花だ。
ショートケーキのいちごを頬張りながら、萌は簡易ステージを眺める。
「名前を呼ばれたら前に来てくださいね! じゃあまず三位! トロンボーンパートのいぶし銀! 太一くん!」
同じテーブルにいた男子が名前を呼ばれたので、萌は嬉しくなってたくさん拍手をする。
口数が少なくてクールな印象のある男の子だが、少しだけ照れているようだった。
「さあ次は二位! オーボエを持たせたら天下無敵! 信長先輩!」
風花の紹介の仕方がおもしろくてつい笑ってしまう。拍手をしながら必死で笑いを堪えていたのに、あちこちで笑いの声が上がっていることに気づき、萌も堪えることは諦めた。
「さてさて第一位! もうみんな予想ついてますね? というかいくら女子が多い部活とはいえ、さすがに票を取りすぎです! 我らが部長、トランペットパート、駿介先輩ー!」
先ほどまでよりも大きな拍手がわき起こる。駿介は簡易ステージに上がりながら、司会の風花の頭をぺしんと叩いて、また笑いが起こる。
クリスマスにデートをしたい部員。その一位に駿介が選ばれたのは、萌も嬉しかった。頼れる部長で、自分にも人にも厳しいけれど実は優しい。同じ吹奏楽部にいる部員たちは、みんな駿介の魅力を知っているのだ。そのことが無性に嬉しく感じられた。
「えーっとですね、本来ならばここで発表は終わりにして、先生が用意してくれた特別プレゼントを一位の方にお渡しする予定だったんですよ」
何か予定が変更になったような口調に、萌は少しだけ身構える。もし不測の事態が起きていて、後輩が困っているなら助けてあげたい、と思ったのだ。
しかし、喜ぶべきか悲しむべきか。萌の後輩は非常にしたたかなのだった。
「でもね、なんと! クリスマスデート企画で、驚くことにカップルが成立したんですよ! これを祝わないことには終われないでしょう!」
ん? と思わず小さな声が漏れる。
何も起きていないのに、なぜだか嫌な予感がした。
「えー、多数の票を獲得してぶっちぎりの一位を決めてくれた駿介先輩ですが…………実は、先輩が投票した方も、駿介先輩の名前を書いていたんですねー!」
「は?」
駿介が驚いたように目を丸くする。
萌は動揺が顔に出ないよう、必死で笑顔を貼り付けていたが、冷や汗は止まらない。
駿介の目が慌てたように萌を捉え、萌は思わず顔を隠す。
ご、ごめん! やらかしました!
そんな内心の叫びなど聞こえるはずもなく、風花は楽しそうに進行していく。
「さて、せっかくなので上がってきてもらいましょう! 男子を押し退けてランクインしてもおかしくなかった、かわいくて優しい私の自慢の先輩! トランペットパート、萌先輩!」
二人を冷やかす声が上がる中、萌は赤く染まった頰を押さえ、やらかしたぁ、と一人呟くのだった。
クリスマス会が終わる頃には、萌はすっかり疲れ果てていた。
たった半日で、たぶん一生分からかわれたに違いない。
萌が駿介に投票するとは思っていなかったらしく、駿介はひどく驚いていたが、怒ってはいなかった。
「付き合ってることを話したわけじゃないし、ただ面白がってからかわれてるだけだから」
気にすんな、と萌にだけ聞こえる小さな声で、駿介が励ましてくれる。それでもやってしまった、という気持ちは拭いきれない。
そもそも、駿介が萌のことを好きだという気持ちは、トランペットパートの後輩たちにバレている。つまり駿介は萌の名前を書かなければ、怪しまれてしまうのだ。ここは間違いなく、萌が違う誰かの名前を書くべきところだった。
萌は落ち込んでいたけれど、悪いことばかりでもなかった。本来一位の駿介に渡されるはずだった、顧問が用意した特別プレゼント。それを萌ももらうことが出来たのだ。
中身はプロオーケストラの年末コンサートのチケット。もともと二枚分用意していたのを、駿介と萌に一枚ずつプレゼントしてくれたのだ。
「すごーい! これってなかなか取れないって噂のやつだよね? プロオケの演奏、楽しみ…………!」
「先生の大学の同期が、このオーケストラに所属してるんだって。先生のツテに感謝だな」
「わああ、早く年末にならないかなぁ……!」
久しぶりに駿介と並んで歩く帰り道。すっかりはしゃいで舞い上がっている萌を、駿介はしばらく嬉しそうに横目で眺めていた。
それから「もしかしてこの後のデートより楽しみになってない?」と問いかけられた言葉に、萌は頰を膨らませる。
「矢吹くんのいじわる」
「ん?」
「今日は特別って知ってるでしょ。初めてのデートだもん」
もちろん年末のコンサートも楽しみだ。プロのオーケストラの生演奏。なかなか機会のないそれは、間違いなく勉強になるだろうし、純粋に楽しめるに違いない。
でも、萌は期待してしまっている。
萌が持っているチケットと、同じものが駿介の手の中にある。つまり、年末にも会うことが出来るかもしれない、と。
そんな萌の考えに気づくはずもなく、駿介は「楽しみにしてくれてるならよかった」と笑う。
駿介に教えてあげたいと思った。
きっと彼が想像している以上に、萌が今日のデートを楽しみにしていたこと。
不安になる日もたくさんあったけど、今日の約束のおかげで乗り越えられたこと。
今はまだ言えないけれど、いつか伝えられたらいいな、と思う。
萌の家の前に着くと、駿介は待ち合わせの時間と場所を改めて確認する。
「予定通り四時半に水族館のある駅前に集合で大丈夫?」
「うん、誰かに見られちゃったら大変だし、それで大丈夫だよ」
「…………電車も、平気?」
意図の分からない質問に首を傾げるが、痴漢、という単語をあえて伏せてくれたのだと気がついた。
駿介の優しさが嬉しくて、大丈夫だよと萌は笑って答えた。
「ん、分かった。じゃあまたな」
「うん、またね」
いつもよりも少し近い未来を約束する、またね、の言葉が心地よかった。
来た道を引き返していく背中に、「めいっぱいおしゃれしていくね!」と声をかけると、駿介は振り返って笑ってくれた。
この約束が叶わないなんて、きっと二人とも、想像もしていなかった。
ベージュのニットに、黒のフレアスカート。鏡の前でくるりと一回りしてみると、スカートがふわりと揺れた。
さんざんショップで頭を悩ませて買ったものだが、購入してよかったと思う。セクシーさは足りないかもしれないが、上品なかわいらしさが萌は気に入っていた。
服の色合いがシンプルなので、小物は差し色が欲しいな、と考えている時間も楽しい。
コートは少し長めの白を選んだ。かわいい服が見えなくなってしまうのはもったいないので、寒さは我慢してコートのボタンは閉めない。
少し歩くかもしれないので、フラットシューズにしようか迷ったが、フレアスカートの丈とのバランスを考えて、ロングブーツを履いていくことにした。ちょっとヒールがあって疲れるかもしれないが、おしゃれは我慢だ。
髪をふんわりと巻いて、ハーフアップにする。本当は編み込みのハーフアップにしたかったのだが、何度練習しても上手に出来なかったので諦めた。
髪留めはシンプルなシルバーのバレッタ。髪を巻いて少し印象が変わっているはずなので、髪留めはそんなに主張をしないものの方がいい。
メイクは普段からしていないので、これ以上背伸びはしないことにした。
最近ではメイク動画がたくさんインターネット上にあがっているので、それを見て勉強してみてもいいかもしれない。
今は色付きのリップだけ。コーラルピンクのそれは、唇に色を乗せると、顔が少しだけ華やかになる気がした。
「お父さん、お母さん、どう? 変じゃない?」
リビングでくつろいでいる母に声をかけると、「かわいいわよ、さすがお母さんの娘ね」と答えが返ってくる。
渋い顔をして新聞を読んでいる父は、萌の方を見ようとしない。それが不思議で首を傾げると、母が笑いながら教えてくれた。
「お父さん拗ねてるのよ、萌がデートに行っちゃうから」
「えっ、そうなの?」
「拗ねてない。相手がちゃんとした男か心配しているだけだ」
ムキになって言い返してくる父に、思わず笑みがこぼれる。そんな萌をじとりと睨みつけ、父は呟く。
「……お父さんは陸くんがいいと思うけどな」
「陸ちゃん? なんで?」
「あの子は礼節を弁えているし、文句なしにいい子だろう」
「それはそうだけど」
野球をやっている幼馴染は、父のお気に入りなのだ。陸が礼儀正しいことも、性格がいいことも知っているので、萌も否定はしない。
「でも矢吹くんだって優しいし、真面目だし、努力家だし、礼儀正しいよ?」
指をひとつ、ふたつ、と折りながらいいところを挙げていく度に、父の眉間の皺が濃くなっていく。
きっと自分の目で確かめるまでは、納得しないのだろう。
実際に駿介と顔を合わせれば、父が手のひらを返すところは容易に想像出来た。なので萌は、今はあまり気にしないことにした。
「で、お父さんから見てどう? 頑張っておしゃれしたんだけど、どこか変なところある?」
萌の質問に、父は「スカートが短い」と即答した。
確かに萌が普段私服で着ているものよりは短いが、制服のスカート丈よりちょっと短いくらいなので、気にするほどではない。
他は? と訊ねると、悪くないんじゃないか、と素直じゃない答えが返ってきた。母がすぐさま「とびきりかわいいって」と翻訳してくれたので、萌は思わず吹き出したのだった。
少し早めに待ち合わせ場所へ着けるように、予定より一本早い電車に乗り込んだ。土曜日の夕方近くだが、クリスマスイヴだからか電車はがらがらだった。デートに行くには少し遅く、帰ってくるには早すぎる時間なのだろう。おかげで萌は痴漢に怯えることなく安心して乗車出来た。
駿介から着信があったのは、電車に揺られているときだった。マナーモードにしていたので幸い音が鳴り響くことはなかったけれど、電車内で電話に出るわけにはいかない。しばらく見守っていると、着信一件、とスマートフォンの表示が変わる。
わざわざ電話をしてくるということは何かあったのかな。
心配する気持ちが大きくなり、萌は次の停車駅で一度降りることにした。
着信履歴の一番上にある駿介の名前をタップし、電話をかける。電話はすぐに繋がった。
『雨宮? 本当にごめん、約束の時間にちょっと遅れそうで』
「うん、大丈夫だよ」
『必ず行くから、駅前のカフェとか、暖かい場所で待っててほしいんだ』
本当にごめん、と繰り返されるけれど、萌は気にしていなかった。待ち合わせの時間に少し遅れるくらい、目くじらを立てて怒るようなことでもない。
事故とかじゃないならよかった、と萌が言うのと、ほとんど同時だった。
電話口の向こうから聞こえてきた、女の子の声。
『駿介、お願い帰らないで。本当にこわいんだってば』
萌は数秒考えて、篠原さん? と呟く。
駿介が息を飲んだのが分かった。
「えっと…………、今、篠原さんといるの……? 帰らないでってことは、篠原さんの、おうち…………?」
状況を整理するために言葉にしてみたけれど、より混乱するだけだった。
電話口で駿介が何かを話している。なのに、何も頭に入ってこない。どこか異国の言葉のように、何を言っているのか理解することが出来なかった。
家に行くほど、篠原さんと仲がいいの?
私との約束があるのに、わざわざ篠原さんに会いに行ったの?
それってもしかして、篠原さんが好きだから……?
雨宮が好きだよって言ってくれたのも、嘘…………?
目の前が暗くなっていく。
立っている足元がぐらついている気がして、気持ちが悪い。
気づいたら、電話は切れていた。
萌が切ったのかもしれないし、反応がないことに呆れて駿介が切ったのかもしれない。
分からないけれど、ひとつだけ分かることがあった。
萌は今、ひとりぼっちだ。
もう一度電車に乗り、当初の目的地であった駅で降車した。待ち合わせの約束をしていた駅前は、萌の想像していた以上に混雑していた。これではどちらにせよ駅前で落ち合うのは難しかったかもしれない。
スマートフォンで調べると、駅からほど近いところに水族館はあるようだった。地図を見ながら歩いている間も、どんどんスマートフォンに通知がたまっていく。
メッセージアプリのアイコンの通知の数がどんどん増えていくけれど、こわくて開くことが出来なかった。
着信があるときは画面を伏せて、誰からの電話か見えないようにした。今だけは自分の反射神経に感謝したい気分だ。
だって、このメッセージも、着信も、矢吹くんじゃなかったら…………?
篠原さんとの関係に口出しするくらいなら、雨宮はもういいや、って思われちゃってたらどうしよう。
駿介がそんな人じゃないことは、誰よりも萌が一番知っているはずだった。
それなのに、不安が暴走してしまい、冷静に考えることが出来なくなっていた。
水族館に到着して、入場料を支払う。
中に入って、すぐに萌は足を止めた。最先端の技術を駆使した、体験型の水族館。ホームページに載っていたそんな言葉が頭をよぎる。
水槽を彩る光に心が落ち着く音楽、きらきらとした世界が、そこには広がっていた。
「わぁ…………」
思わず声が漏れてしまったけれど、きっと誰も萌のことなんて気にしていないだろう。家族連れ、カップル、老夫婦。みんな幸せそうに笑っていて、今を思い出に刻みつけようとしている。
水槽は少し眩しいくらい色彩が主張しているのに、中の魚たちはすいすいと自由気ままに泳いでいる。外の世界のことなんて全く気にしていないのかもしれない。
少しだけ、魚のことが羨ましくなった。
駿介にどう思われるか、そればかりを気にして何も言えない自分。
考えるための脳も、言葉を伝えるための口も、不自由なく持っているくせに、自分で足枷をつけて溺れてしまっているみたいだ。
萌はイルカショーを楽しみにしていて、館内はおまけ程度に考えていたはずだった。それなのに、気づけば没頭して水槽を見つめていた。
館内アナウンスが、イルカショーの開始時刻が迫っていることを告げていたが、萌は動かなかった。見る見るうちに人が少なくなっていく。きっとみんな、名物のイルカショーを目当てに来ていたのだろう。
人が少なくなると、館内にいるのは萌だけになってしまったかのように錯覚した。周りを見回せばまだたくさん人はいるのに、一人だけ取り残されてしまったような、そんな感覚だった。
それでも萌はゆっくり見て回った。魚には詳しくないけれど、一匹ずつ目で追ってみると、だんだんかわいく見えてくる。
どのくらい時間が経ったのか分からない。イルカショーも終わって人が戻ってきたようなので、ずいぶんと熱中してしまっていたのかもしれない。
水槽の光を頼りに、パンフレットに目を落とす。別のコーナーにはペンギンやアザラシ、カワウソなどもいるようだ。そっちに行ってみようか、と萌が顔を上げたときだった。
いた! と館内に響く男の人の声。周りの人たちの視線が集まるのも構うことなく、背の高い男が人混みをかき分けて萌の方にやって来る。
「いたよ、大丈夫。家まで送っていくから。うん、いいけど。さすがに俺、怒ってるからね。まじで反省してね」
萌の手首をしっかりと掴んだまま、スマートフォンで電話をしていた男は、ぷつりと電話を切る。それからへなへなとしゃがみ込んで、「あー本当に焦った、死ぬかと思った」と呟いた。
「……………………いがらしくん」
萌の声に反応して、男は顔を上げる。水槽の光に照らされて、眩しそうに目を細めるその人は、間違いなく萌のクラスメイトの健也だった。