▫️ ▫️ ▫️
「私の家の者は、基本的に放任主義だね。好き勝手にのびのびと生きる中で、喜びと自らの使命を発見してほしいということらしいんだ。」
シャーは、ピンポンと黒紫のピアノの弦が鳴る様子を眺めながら、そう語った。
水色のドレスが床に広がり、美しい独楽を上から見下ろしているかのような光景だった。物憂げな顔をしながら、彼女はトグと、今宵もいちご色の廃墟で会話をしていた。
「つまり、あまりにも危険なことに首を突っ込みでもしない限りは叱られないってこと。たとえば……ここに私の大事な冠を置き去りにしても。こうして奇妙な洞窟できみと会っていても。『お体を大切に』『真夜中の門限だけは守って』などといったこと以外、なんにも言われない。」
「そうか。……うん。とてもいいことだと思うよ。」
「感想はそれだけ?」
「それだけ。」
銀のナイフをくるくる弄びながら、トグは頷いた。
無造作だが、美しい所作だった。そして、奇術師志望の青年としては既に花丸合格をくれていい域に達していた。
トグは、ゆっくりと口を開いた。その際に、一本指を立てた。
「シャーの家の人たちは、一番大事なポイントを逃していないだろう。『貴女を愛している、生きている喜びを感じて欲しい』、と。そういうメッセージを懸命に伝えることだよ。それで、あとは一切貴女の邪魔だてをしないように注意を払ってもいる。まるで雪の夜のダイヤモンドのように美しい気遣いであり、ホッとする暖かい愛情だよ。滅多に享受出来ることじゃないと思うけれど。」
「………。」
シャーはなるほど、とばかりに息を漏らした。そしてそれきり、少し沈黙した。
洞窟の中に、勝手に歌うピアノの音だけが、ピンポロンと響き続ける。
「ふむ、なるほど。私は恵まれていたんだね。」と。シャーが呟いたのはそれからしばらく経ってからのことだった。
しかしシャーの言葉に、トグは首を傾げた。
「うーん、どうだろう。……貴女は幸運だ。そして同時に不運だった。恵まれているし、一方で不遇だった。僕は、それが一番正しい解釈だと考えているけどね。」
「その解釈だと、この世の全ての人が当てはまる。なにも分類できなくて、ちょっと困る。」
「確かに。でも、僕は別にそれでいいと思うんだ。みんな一方ではラッキー、別の一方ではアンラッキー。そういうもんじゃない?」
堂々と言い切ったトグに、シャーがクフフ、と怪しい笑いを漏らした。
「さすが……トグ。いいね、冴えてる。」
「何に対しての『さすが』や『冴えてる』なのかイマイチわかんないけど……まあ、いいや。お褒め頂き至極光栄にございますので。それで全てはどうでもよい春の風となり旅に出る。そうでしょう、お姫様?」
「意味わからない。」
「おや、残念。」
いちご色の廃墟の中。
暖炉の前にいるかの如き温かみが、部屋の隅々にまで充満している。
のんびりした空気はどこか、お茶の間の休憩タイムに似た弛緩した雰囲気を醸し出していた。
当然の理屈だった。
お弁当まで持ち込んで時間を潰す日々を、彼らは何日も繰り返している。すっかり互いのリズムを覚え、心地よく過ごすための時間の使い方を実践できるようになっていた。つまり、一緒にいると、お互いにとてもリラックスできる……そんな関係を築き上げていたのだ。
人間というものは。
リラックスしている時、誰しも口が緩くなる。
……だから仕方のないことではあったかもしれない。
普段は禁忌とされる話題も、紐の緩んだ財布の銀貨の如く……チャリンと呆気なくこぼれ落ちることがある。
「トグ。きみの寿命を縮めてる犯人って、一体何?」
「シャー。どうしてきみは、鳥バンバンに憑かれたの?」
質問を質問で返されて、シャーはあっと失言を悟ったような顔をした。
さりげない調子で地雷を踏んでしまったと、言った後で気づいたのだ。しかし遅かった。
「あ、ど……どうし…いや。その、申し訳……」
しまった、と彼女は跳ね上がるように顔を上げ、トグの顔色を窺った。
しかし彼女の予想に反し、トグは全く怒った様子がなかった。
ただ穏やかに、指先でくるくるとナイフを回しているだけだった。彼はシャーの謝罪を遮るように、ハッキリとこう言った。
「……ごめんね。」
トグは静かに、水色の瞳を伏せていた。
シャーが、少し慌てて彼に言葉をかける。
「いや。その、私が不躾に聞いたから……」
「ううん。僕の言い方がちょっと意地悪だった。別に、あの問いに傷つけられたわけでも、僕の思い出したくない闇の秘密だったわけでもないんだよ。ただ、答えを言えない理由があって。僕は少し慌てて、あんな風に言っちゃった。」
————だから、ごめんね。
トグの言葉は誠実で、優しかった。
シャーはとても、安堵した。
しかし崩れた均衡は、完全に元通りにはなり得ない。
気まずい沈黙に、トグがふぅっと息を吐いて、こんなことを呟いた。
「シャーは、赤い孔雀を見たこと、ある?」
「ない。」
「僕はあるよ。」
鳥の名を冠するものを宿した姫は、話題が鳥だと気づいただけで既に惹かれていた。好奇心のままに、シャーは黙ってトグの語りに耳を傾けた。
「まだ僕が子供の頃の話だよ。動物の園で……孔雀が真紅の羽根を広げるのを見たことがある。圧巻だった。王者だった。あんな風になりたい、生きたいなと思った。」
「………。」
「シャー。貴女を見た時、思ったんだ。あまりにも命の炎の勢いが弱くて、ぼんやりしていて。それなのに、どこかあの日見た孔雀の面影があって。……貴女を、あの時の孔雀の姿に戻したいって思った。心の中でたくさんの薪を無駄に寝かせて余らせて、全然燃やさずにとろとろ眠ってるような熾火を、全力で掻き起こして血の色に燃え上がらせたいって。」
トグは、まともにシャーの目を見つめた。
じっと見据えられてたじろいだ彼女に、トグはさらに唇を舐めて言った。
「全部、僕の勝手だったかもしれない。貴女は色々なことがどうだってよくて、こうして残りの余生を僕とのんびり楽しく生きていることこそが一番の平穏なのかもしれない。『生きたい』と、そう思っていない。『鳥バンバンに憑かれたことが悔しい』という気持ちがあれど『何もかもひっくり返したい』という鮮烈な願いがない。そういう貴女が、ここにいる貴女なのかもしれない。……シャー。もしもそうなら、今ここで言ってくれ。僕は貴女が曖昧なおかげで、何も決められなかった。だけど今の問いを聞いて、決めなければ。決断しなければと思った。本当に、そう思ったんだよ。」
トグの声には、覚悟が滲んだ。
それを見つめるシャーの目にも、それに染まるかの如くゆっくりと覚悟が染みていく。
「………。」
「……さあ。シャーの気持ちを聞かせてほしい。」
“きみの、心の底からの正直な言葉を“
洞窟内が、しんとした。
ピンポン気ままに歌っていたピアノが、静かになった。
赤い水玉の座布団も、呼吸を止めた。
地面から生えたセーターですら、風に揺らぐのを停止した。
「……私は。」
凛と、響いた。
落ち着いた低い声は、違わずシャーのものだった。
「私は生きたい。」
海の囁きの如く。静かで堂々とした呟きだった。
「たとえ数日の命でも。たとえ百年の命でも。私は等しく、命を燃やして生きていきたい。」
シャーの目から、涙の粒がこぼれ落ちた。
トグの目からも、涙が湧いて流れ落ちた。
ゆっくりと、二人は互いの身を寄せた。
真正面から向き合って、腕を背に回す。
そっと桜のようないちごのような唇が近づいて、触れ合った。
「……血の味がする。」
「ごめん。ちょっと唇を噛んじゃったみたいで……僕の肌は元々乾燥して切れやすくなってたから。」
「別にいいよ。気にしない。」
血の味のキス。
そんなものがただ、乾燥した唇が原因であるはずもない。
しかしシャーはそれ以上を問い詰めない。だって、そんなことをしてもなにも意味はないのだから。
余命の少ない者同士の無言の気遣いが、この場に溶けてゆく。
真っ赤な洞窟の中。
二つの影は互いの肩に頭を埋め、静かにぬくもりを分かち合った。
▫️ ▫️ ▫️
その青年の表情は、どこかいつもと違うようだった。
ふらりと出ていき、ふらりと帰ってきて。
そうして彼は老人に呼びかけた。
「よもぎの翁。」
「なんだ。」
「鳥バンバンって、どうやって人に取り憑くの?」
春の野草の緑とその香りを纏った老人は、静かにため息をついた。
まっとうな好奇心を抱く若者に、これからその意味を説明しなくてはならない。
“鳥バンバン”
この世に存在する精霊の中でも、比較的有名なもののうちの一つ。
人間に寄生して繁殖するもので、その卵が孵る際には憑かれた人間が犠牲になる。
命を失うその代わり、憑かれた人間は、ふわりと空を飛ぶような独特の超常能力を手に入れる。
この精霊が住んでいるとされるところは、すべからく貧民街となっている。
お金持ちの者は、わざわざ命を犠牲にする危険を犯したくないからだろう。
だが、シャーは高貴な家柄の者だった。
「あの子は優しかったからな。貧民街を何度も訪れ、そこで話を聞いたり支援をしたりしていたんだ。そうこうしているうちに運悪く、アレに取り憑かれたんだろう。」
よもぎの翁の声には、沈痛な響きが漏れ出していた。
「強く、賢く、優しいお姫様だったのにな。全く。世の中っていうのは、遥か昔からずっとこういうもんよ。」
ぎゅっと布を絞る。
薬草のきつい香りがその場に立った。
よもぎの翁のそばで腰を下ろしている青年、トグは静かに耳を傾けていた。
物思いに沈んだ表情は、朝の日を浴びて金色に輝いている。
燃える太陽の似合う彼の顔には、どこか普段と異なる影があった。
「………。」
よもぎの翁は、不安そうだった。
しかし口には出さない。
ただ沈黙を維持したまま、トグの横顔を見守っていた。
————この青年を、ずっと信じているのだから。
▫️ ▫️ ▫️
そして。
別れの日は、訪れる。
▫️ ▫️ ▫️
*
拝啓
シャー様
僕は貴女の羽根が好きでした。大空に飛び立つ鳥の幻を、僕はずっと覚えていることでしょう。
……と、この調子で書き始めておいて、誠に勝手なことですが。やっぱり僕は、あまり多くは語りたくないようです。
蛇足になってしまうような気がして、なんだか居心地が悪い気分になってしまいます。僕、へんですね。いつか貴女が言った通りです。
……さて。
一つだけ。
“命を自由に使ってください“。
僕が伝えたいのは、ただこれだけです。
今までありがとう。
トグ
*
「……ふぅ。」
トグは、筆を置いて静かにため息をついた。
彼は、己の命の使い方を決断した。
ゆっくりと、灰色のジャージを脱ぐ。魔除けの刻まれた黒服の上から、そっと左手を触れて心の臓の位置を確認した。
彼の右手には————銀のナイフが握られている。
奇術師になりたいなどと言ったのは、強がりの嘘っぱちだった。
ナイフを持ってくるりくるりと弄んでいたのは、別に夢を叶えるための訓練なんかではなかった。ただ手元に置いて絶えず握っていなければ落ち着かない。そんな、子供っぽい理由が彼をずっと突き動かしていた。
今ここに、その結末があらわされる。
「……シャー。」
手の震えはなかった。
すうっとゼリーを切るように。優しく沈み込んだ銀の刃が朱色に染まる。
目を瞑る。
永遠の眠りへ。
嗚呼、旅人よ。
今宵より貴公は自由である。
さあ。どこまでも高く————天へ、宇宙へ、昇ってゆけ。
それは、唐突に起こった。
紅の血に濡れたナイフが、熱された鉄の如く発光し、泡立ちながら姿形を変化させ始めた。
地へ伏した青年を吸収するようにして、ナイフは成長してゆく。
ナイフには羽根が生え、目玉が生まれ、百の足が突き出した。
反対に、青年の遺体はみるみる溶けるように消えてゆく。ナイフの育成に反比例して彼の体は吸い取られ、透明になりゆく。
————およそ十分後。
トグは、いなくなった。
ここに存在していた事実すらが消え失せてしまったかのように。彼は影まですっかり喰らい尽くされ、この世から塵も骨も残さず消えていた。
『銀のナイフ』
今や『赤い孔雀』となったそれは、生まれおちて間もない子鹿の如く、震えながら立ち上がった。
ヨロヨロ。
ヨロヨロ。
ふらつきながら、歩いてゆく。
その奇妙な生き物が、目指す方向はただ一つ。……トグという名の青年が愛した、ただ一人の姫。
「…し、ゃ、あぁあ……」
その生き物は、夜の天を仰いだ。そして何か重要事を発見した赤子の如く、銀砂を撒いたような星空に向かってもう一声鳴いた。
「しゃ、あ、ぁあああ……!」
▫️ ▫️ ▫️
シャーは眠っていた。
微睡の中で、誰かが己の名前を呼んだような気がしたが、眠り続けた。
————シャー。
木の上で夜を過ごしたために、蛇が友達になって喋っているのであろうか。首を傾げたシャーの前で、星の形の首輪をかけた蛇がニコニコと笑い、そしてシュッと煙の如く消え失せた。
(……あ。いなくなった。)
それにしても。
夢は奇妙だった。
いつにも増して、赤い色に染まった夢だった。
(いや、これは赤色と言うよりも……)
シャーは何かが喉に引っかかっていた。そして、すぐにその正体を突き止めた。
(わかった。これは、“いちご色“だ。間違いない、あの寒すぎる洞窟の奥の部屋の色。)
……と。
シャーの目の前に、いきなりパッと赤い孔雀が羽根を広げた。
眼光は爛々、尋常でないイカヅチの如きエネルギーを秘めた輝きが、こちらを全力で睨みつけていた。
シャーは思わず身を引いた。
————そして、ベッドから転げ落ちることとなる。
「う、……わっ!!」
ドンガラドッシャーン!
不運にもそばに置かれていた花瓶を巻き込んだために、思わぬ派手な音が鳴った。
しまった、とシャーが青ざめた五秒後。優秀な世話係の老女がすっ飛んできた。
「シャー様!どうか致しましたか!!」
「……花瓶を割った。」
「いえ、花瓶などお金でいくらでも買い替えが可能でございます!お怪我は!?」
「ない。」
水色の絹のカーテンがひらひらしている、天蓋付きベッド。
そこから見事に転げ落ちて星を散らしているシャーを、老女は優しく助け起こした。
はぁ、と深々ため息をついたシャーを、老女は心配そうな表情を浮かべて窺っていた。
「……奥様をお呼びしましょうか?それとも、ただ花瓶だけ私がお片付けすると言うことで大丈夫でございますか?」
「それで大丈夫。」
「了解致しました。」
老女はすぐに頭を下げた。
シャーは、改めて呼吸をして胸を落ち着かせようと試みた。
頭は打っていないようだ。
しかし、なかなかいい衝撃が全身を突き抜けた。まだぼんやりしている。
シャーが這いずってベッドへ戻ろうとした時のことだった。
「………。」
信じがたいものを見た。
とでもいうように、シャーは固まった。
雑巾で水を拭き、散った赤い花と割れた瓶を片付けていた老女が、ふと顔を上げた。そして身動き一つしないシャーを見ると、怪訝な表情で眉をひそめた。
「……シャー様?」
「治った。」
「は————ハイ?」
戸惑う老女。
彼女の前で、すっくと立ち上がったシャーが宣言した。
「取り憑いた精霊の気配が消えた。羽根もない。空の匂いがない。私の全身にはらむ風の力を感じない。」
「え、と……あの、シャー様……?」
「精霊が、あの『鳥バンバン』の卵が、どこかへ去ってしまった。」
老女は目を白黒させた。
年老いた脳みそが、あまりにあまりな急展開についていけないのである。
「私は————死なない。」
花の咲くような笑みを向けられて。
老女はかろうじて唇を戦慄かせ。
「そ、それは……ようございます、こと……」
たったこれだけを、絞り出した。
▫️ ▫️ ▫️
僕は知っていた。
いつからかはわからないけれど。でも、全ては当たり前の事実として。ずっとそこに……僕の目の前にあったのだから。
『いちご色の廃墟』
それはきっと、精霊そのもの。
僕の心臓にくっついて繋がりを持ち、だんだんと僕の鼓動を奪ってゆく恐ろしい何か。
僕はコイツにいつか命を奪われることを知っていた。
……でも。
この精霊が吸い取るのは、僕の鼓動だけではないのだろうという確信もあった。
————あの子にくっついている、悪い虫を取ってくれ。
そう願えば、きっと実行してくれる。
あの子の命を、助けてくれる。
……でも。
そのためには、『血の繋がり』と『心の繋がり』が両方とも必要だったから。
家族ではない僕らに血の架け橋をかけるため、僕は彼女の唇にほんの少しの血を移した。
だから。
僕は願い。
そして決断を実行した。
さあ。
銀のナイフでお前を刺す。
僕の心臓という巣は、これから破壊されるだろう。
行き場をなくすお前の次の拠り所は、彼女に取り憑いた『鳥バンバン』だ。
間違えるなよ、絶対に。
……いいや違うな。“僕が間違えさせないから覚悟しろ”。これが正しい僕の言葉だった。
あぁ、覚悟しろ。
願いの形をお前に託し、僕という存在の全てを懸けて。
ほんの少しの間だけ、僕がお前の行動を縛ってやる。
“シャーに命をプレゼントする“
それが僕の最後の願いだよ。
これは……血の味のキスなんて、奇怪で謎すぎる事件を起こしてまでやったことだから。
結末は成功でなければ許さない。
さあ。
最後だよ。お別れの時が来たんだ。
お前との付き合いも長いようで短いな。
それじゃあ……もうちょっとだけ。延長戦みたいな感じで、付き合ってくれよ。
*
祈りよ届け。
青空を、太陽を越えて。
どうか奇跡よ間に合えと請う、僕の願いを叶えてくれ。
僕の祈りを赤い孔雀に乗せて————あの子の元まで、飛んでゆけ。
*
▫️ ▫️ ▫️
薬草の香りの漂う庭にて。
縁側に腰掛ける老人に、声をかける娘がいた。
「よもぎの翁。」
「む。」
「『沈黙は金』って至言もあることだし、無口はきっといいことだね。……でも、臍曲がり爺はあんまり好きじゃない。」
「………。」
いちごの色のドレスに、灰色のつばつき帽子を被った、高貴な格好。色々と様になり、威厳の身についたシャーである。
彼女は優雅に帽子を脱ぎ、つつと歩みを進めて濡れ縁に腰を下ろした。
「私の要件はきっと貴方のご想像通り。————トグの話を尋ねたい。」
無言で目を地面へ釘付ける老人に、シャーは追い打ちをかけた。
「私は死ぬはずだった。でも、生きてる。その理由を、貴方は知ってるはず。」
「………。」
「相変わらずの頑固爺だね。……そら。」
チャリン、と音が鳴った。銀貨が弾かれ、赤い陽に煌めいた時の涼やかな音だった。
差し出されたお金は、これで私は貴方のお客様だ、とばかりに主張するシャーの意図を表すもの。
シュウゥ……、と。
蛇が漏らす哭き声にも似たため息がよもぎの翁の口からこぼれ落ちた。
「これから私が語ることを……誰にも言わないと約束してくださいますか。この二人の間だけの秘密に……してくださいますか。」
「……了解。」
シャーの返答は、短く簡潔だった。しかし、十分に誠実だった。
だから。
「それでは、お話しを致しましょうか。」
ぬるいよもぎ茶の湯呑みを見下ろしながら、よもぎの翁はゆっくりと語り始めた。
————それはトグという、秘匿を押し隠し続けた青年の物語。
「“洞窟の中に、赤い部屋を見つけた“、と。そうトグが私に報告した時のこと。私は彼を襲った全ての事象とその原因を悟りました。」
『呪いの部屋』『いちご色の廃墟』『心臓の幻の一室』
様々な呼び名を持つその部屋は、神出鬼没、自在に各地を放浪する正体不明の精霊と言われている。
取り憑かれた人間の生存報告はゼロ件。
これが原因で死んだ者は、チリすら残さず宙へ溶けてゆくという。
理由も何もわからないが、とにかく致命的な病の病原菌だと思えばいいだろう。
「しかし、奇妙なことが一つ。死にゆく彼らの周囲で……彼らと血縁関係にある者が、病を快癒させる事例が多発しているのでございます。文字通りの不治の病から生還した者も多い。」
病だけではない。
精霊に憑かれたことが原因で不調を崩していた者たちが、あっという間に超回復。
なぜ?
どうして?
事例は重なるごとに、『呪いの部屋』に取り憑かれた人間が起点にいることがわかってくる。
とはいえ、彼らが必ず誰かの病を治してこの世を去っていくわけでもない。
そもそも取り憑かれた人間の数が希少な上、事態には例外も多い。大部分が謎に包まれているのだ。
「とりあえず、私はトグ様の声に耳を傾けました。『なんとなくこうした方がいい気がする』『理由はないけど、とにかく準備して欲しいものがある』。彼の言葉は曖昧ですが迷いがなく、私は言われるままに薬師としてできる最大限を執り行いました。」
彼が背負っていた巨大な風船のような精霊の影を、圧縮して心の臓に封じ込めた。
漏れ出る邪悪なオーラを優しく覆い隠した。
恋路の占いをした。
銀のナイフを磨いて、渡した。
その結果がどうなるか、何も知ることなく。
「何もかも、私にはわからない。人智を超えた精霊の世界は、深淵を覗きすぎると泥沼に嵌ったようになっていつか抜け出せなくなるのですから……仕方ないことではあるのでございますが。」
ただ、トグを信頼した。
彼ならば正しい選択をするのだろうと、よもぎの翁はそれだけをひたすらに信じた。
「それで、結果がこうですよ。」
「……不可解なことだらけだよ。そもそも私はトグと血縁関係にないんだけど。」
「もしかしたらどこかで血の繋がりが濃い部分があったのかもしれない。それか、特別な例外だったということも考えられますね。」
「………。」
シャーは、揃えた膝の上。いつかトグに贈られたお手玉を握りしめていた。
「トグがいなくなってから。私がいくら探しても、あの赤い部屋は見つけられなかった。私の冠は置きっぱなしだったから、そのまま失踪した。どんなに頑張っても、道筋を辿ることはもうできそうにない。」
「精霊に由来するものですからね。何があっても不思議ではございませんよ。」
「でも、トグが持ち出したこの————お手玉だけは私の元に残った。」
シャカシャカ。
振ると小豆の鳴る音がする。
愛おしそうに見つめるシャーの視線を、よもぎの翁はただじっと見守っていた。
「……お手玉を握ると、赤い孔雀の羽根に触れたような感触がある。……と、そんなことを言ったら、私を変だと思う?」
「いいえ。」
「じゃあ、そう言うね。私はいつもこれを握るたびに、そういう実感がある。幻を見ているんじゃなくて、そういう存在に触れているような。そんな感覚に陥る。」
シャーは、白い手でそっと小さなお手玉を撫でた。
その顔には、奇妙な笑いが浮かんでいた。
「……私は生きるよ。よもぎの翁。」
血紅の色に染まった頬は、とても健康的で白い太陽光によく似合っていた。
人はこれを『眩しい顔』と表現するのだろう。
未来へ踏み出す若者の、とても典型的な素晴らしく美しい笑顔だった。