水色のドレスに、黒紫の冠。
真っ白にお化粧をした肌はまるで血の気がなく、夜の闇がきっとよく似合う。

————あの子は、誰だろう。

応える声はない。
けれど……僕の心は静かにざわめいた。月の精を思わせる一人の少女は、一人木の梢で足を揺らしている。ただただ、静かに。風に靡くように。

————あの子の心に、炎を灯したい。

僕は強く強く、そんなことを思った。血の気のない彼女に、燃え上がるような真紅の色を、プレゼントしたい。
なぜそんなことを考えたのか。
僕にはよくわからない。わからないなりに、そんなことを思った。

だから。
僕は声をかけた。
別の日に、草原でブランコを高々と漕ぎ上げる彼女を見かけた時。

彼女はなんと返事をしたのだっけ。
今になっては、僕はもう……思い出すことが出来ない。


▫️ ▫️ ▫️


「占ってよ。」

トグが朗らかに声をかける。緑色の装束によもぎの香りを染み込ませた老人————通称よもぎの翁はムムッと顔をしかめた。

「ほら、いつも通りチャチャッとさ。仕事なんだし、なんたって得意でしょ。」
「……坊主、ちったぁ遠慮を覚えたらどうだ。」

苦い薬草でも噛んだような表情で言う彼に、トグはあっけらかんと返事を返す。

「いいじゃないか。別に、摘んだら終わりのイチゴでもない。占いなんて、いくらしたって減るもんじゃないんだから。」
「占い自体が嫌だとは言っとらん。お前の注文がロクデモナイんだ。にんじんの三つ目の芽が出るのはいつ頃か〜とか、西の空で雲が七日の間にメガネの形になるかどうか〜とか、微妙に難しくて手間のかかる上に重要性があんましなもんばかり頼むじゃないか。こっちの苦労も考えてほしいもんだよ。」
「あー。それはごめんね。」
「謝るくらいなら初めっから頼むな。全く、ハァ……」

ため息をついているよもぎの翁は、薬師と呼ばれる者だ。
お医者様と占い師を合わせたような職業なのだが、彼の尊敬されるべき点は両方とも一流の腕を持っていることである。その確かな仕事ぶりから、多くの民草の畏敬の念を勝ち取っている。

トグはこう見えて、けっこうよもぎの翁と仲良しである。どのくらい仲良しかというと……今もこうして、彼の家の縁側へ上がり込んで軽口を叩き合えるほどだ、と言ったらわかりやすいだろうか。

よもぎの翁は、占いなんてヤダヤダと言っておきながら、金銀さえ支払えば毎回文句言わずにやってくれる。そこは彼の誠実なところであり、堅実な仕事人の意識が測れるところである。……などと思考しながら、トグは何気なく懐からチャリンと布財布を抜き取ると、一瞬ぴかりと銀色の玉の煌めきを垣間見せた。

「……む。」

トグが銀貨を取り出した、その瞬間だった。
よもぎの翁の目の色が、変わる。
餓鬼に付き合う好好爺の顔から、真面目な仕事人の顔へ。

だからこの人は尊敬できるんだよな、とトグは思いながら、ゆっくりと口を開いた。

「今日の注文はいつもと違うよ。もっと占いらしいテーマで行こう。禁忌と神秘、情熱の香りがゆらゆら漂う————“色恋”の相談だ。」

トグが声をひそめることもなくさらりと言うと、よもぎの翁は神妙な顔をして頷いた。

「了解いたしました。依頼人、トグ様。」

一礼した後、よもぎの翁はサッとその場に正座した。
彼が懐から取り出した一枚の布地は、夜空の如き紋様が緻密に描かれた商売道具。床一面に広げて敷くと、それは一息の間にただならぬ気配をその場に作り上げる。
彼自身の衣と同じく、よもぎの香りが強く焚きしめられたその布は、彼の占いのための綺麗な陣を完成させた。

静かに目を閉じた翁は、ゆっくりとトグへ顔を向ける。
「……うっ。」
トグは喉の奥でうめき声を上げ、そのままごくり、と唾を呑んだ。

————見られている。

そう、強く実感する。よもぎの翁は目を瞑っているのに、確かにこちらを見ている、魂を覗いているのだと。そう、明確な実感が叩きつけられる。
何度占い術を受けても、慣れることのない感覚。
ゾゾゾ、と。闇夜の山奥で獣の気配を感じ取ったかのような危機感に圧倒されそうになるのを、トグは必死に踏みとどまった。
一秒一秒がとても長く感じる。どのくらい時間が経ったのか、全くわからなくなった頃、ついによもぎの翁が口を開いた。

「————トグ様。貴方には、想い人がいるのですね。」
「……はい。」

図星だよ、とトグは思った。
もっとも、よもぎの翁の言葉が図星でないなどと疑ったことは一度もない。
なぜならば、言われた瞬間、理解するからだ。占いとは事実である。根拠なくとも、確かな根はある。故に幹があり、枝があり、葉がある。木が集まれば森となり、山となる。要するに、彼の言葉はインチキでもなんでもないのである。

「……ふむ。トグ様。貴方と想い人とは、惹かれるべくして惹かれたと言えます。まさに運命。真珠のように美しく儚く清廉な糸が互いを絡み引き寄せ合う様すら見えます。とてもよい関係です。ドロドロした汚れが極めて少ない。例外的ですが、別にこのくらいありえなくはありませんね。」
「はい。」
「緑色が見えます。おそらく関係は野の香りの立つ場所で始まり……ああ、そして赤色が見えます。生々しい血の色。流血事件でも起こるのかどうか。あまり穏やかではありませんが、厄の香りはありません。安心していいでしょう。」
「はい。」
「最後に、全ての私の発言は、あくまで曖昧で不確定的なものと心得てください。大切なのは、貴方が貴方でいること。そして、思うままに宇宙を大事に慈しみ続けることなのですから。」
「はい。」
「それでは、占いを終わります。」

フーッと息を吐き、よもぎの翁が目を開ける。
さっと、潮が引けるように威圧感が消え去った。

よもぎの翁がパチパチ、と眩しそうに瞬きをする様子は、まるでさっきまでの占いの神秘を感じさせない。
まるで狐につままれたかのようだった。先ほどの占いの場の緊張とは、夢幻の類であったのではないかと疑わせる。そのような思考誘導の力が働く磁場の如き不思議な感覚。
しかしトグは認知している。よもぎの翁こそは本物の占い師であり、彼の発言を繰り返していたのは彼の根本にある何かなのだと。だから何度目の当たりにしても、その度に感動する。占いは、恐ろしい。そして何より美しい。近づきすぎてはならない世界だと知っていて尚、どうしようもなく病みつきになってしまう。

「……すごいね。やっぱり、さすがだ。」

トグがニヤッと笑いながらそう言うと、陣の布を畳みながらよもぎの翁は得意げに胸を張った。

「当ったり前だ。」
「それに、いつもより精度が高い気がしたよ。僕が抽象的なことを聞いたから、そう思えるだけかな。」
「あー、それもあるな。だが一番大きな理由は、人間に関係することは読みやすいっていうことだな。目の前に当事者がいるんだから、そいつをじっと見ただけでいろんなことがわかる。ま、簡単だな。朝飯前。ピースオブケイクってやつだ。」
「そういうもん?」
「そういうもんだ。なにせ、魂は正直だ。守ろうとしたって守れるもんじゃなし。そこに書いてある文章を開けっぴろげに公開している。無論、それをどこまで読み取れるかどうかは占いをする側の力量が問われるわけだがな。」
「へえー。」

魂ねぇ……と呟きざま、トグは首を傾げながら、まじまじ自分の体を見下ろした。特に、心臓の位置がある場所を。
呆れたようなよもぎの翁の視線が、トグの後頭部へ正確に突き刺さった。

「……おーいトグ。魂はそんなとこにあるわけじゃないぞお。」
「知ってるけど。」
「だったら心臓見てたって意味ないだろが。」
「でも、なんかそれっぽい場所じゃん。見てたら感じるかもって思うからさ。」
「ふん。お前には逆立ちしたって無理だ。才能ない奴が百年修行したって魂は見えん。」
「えー、酷い。」

トグは性懲りも無く同じ場所をしばらくじっと見つめ続けた。だが、よもぎの翁の言葉は至言だった。魂の存在など、雀の涙ほども感じ取れない。
よもぎの翁へと改めて畏敬の念を送り、トグはカラカラと笑った。

「あはは、やっぱ僕には無理だわ。魂なんて見えるわけないよ。」
「だからそう言っただろうが。」
「まあねぇ。……じゃ、今日はこの辺でサヨナラしようかな。また来るよ、よもぎの翁。」
「ああ。こっちはお前があんまり頻繁に来ないことを願ってるよ。トグ坊主。」
「えー、酷い。人見知りの恥ずかしがり屋。」
「ふん、寂しがりやめ。」

哀しいかな。顧客と占い師という関係は、既に大風に見舞われたトランプタワーの如く崩れ去っている。
銀貨をしっかり受領し安堵したよもぎの翁には、口の悪さがとても板についていた。様になるとか、似合うとか表現してもよし。最後まで罵倒で終わらせたよもぎの翁に半ば尊敬の念を抱きながら、トグは縁側をぴょんと飛び降りる。
薬草の香りの爽やかに香る庭を抜け、彼の家を後にした。


小道を歩み、大門をくぐる。
初春のうっすら黄緑色に冷たい風を顔に受け、トグは目を細めた。

————いい日だな。

青空に、うす紫の雲がたなびいている。太陽が完璧な円環を描いて、赤く光を放っている。風が冷たい。しかしこの身が凍えないのは、間違いなく太陽の灯りのおかげである。
こんな日には、屋内に閉じ籠っているべきじゃないな。
そうトグは判断し、弾むようにルンルンしながら歩きだした。

自然、足は野草が覆う小高い丘『野っぱっ原』へと向けられる。
なんとなく、そちらへ引き寄せられるような気分だったのだ。幼い頃よく遊んだ、ボロのブランコへ腰掛けて空でも眺めてみたい、そんな風な思考が脳をよぎった。もしかすると、よもぎの翁の占いで“緑”“野の香りの立つ場所”というキーワードがあったのも理由の一つになるかもしれない。

トグは石段を駆け上がり、野っぱっ原へと一歩を踏み出した。
その時だった。

「……やぁ。」

思わず、そんな呟きが漏れた。

水色のドレス。黒紫の冠。
月の傾く闇夜の城……その窓辺がとてもよく似合うだろうと思わせる娘が、そこにいた。
何度瞬きして見直しても間違いない。彼女は、トグが遠くから垣間見て惹かれたその人だった。

ブランコに、想い人。
その文字が頭をぐるっと一周した頃に、トグはもう一つ気づいた。

————彼女の漕ぐ力、半端じゃない。

夜空の星でも大人しく眺めている姫様のような風情をしていて、しかしその足はしっかりと地面を蹴り、ぶれない体幹はしっかり胴を前後に揺らして高々とブランコを跳ね上げている。しかも今は昼間で、太陽が白々と緑の野を照らしている爽やかな時間だった。

ピュウ、と思わず口笛を吹いてしまう。

その音に気づいたのか、「ん?」と彼女はこちらを見た。無表情のままの彼女を乗せて、ぐん、とブランコが高々上がる。跳ね橋の勢いで青空へ飛び出した彼女は、一体何を考えたのか。そのままパッと両手を綱から離した。

「……わぁお。」

水色のドレスが広がる。
空の色と同化した羽根がふわりと舞い、一羽の大鳥が顕現した。————そんな幻をトグは見た。

ふわり。
危なげのない着地は、まるで妖精のよう。
とりあえずパチパチと拍手をしたトグを、ピカッと光る目で彼女は振り向いた。

「……あんまり見かけない人だね。」
「そう?」
「きみ、へんな人。なんかお豆腐みたいなのがペッタリくっついてる。」
「……おや。お化けが見えるとは予想外だったな。」

軽く目を見開いたトグの元へ、彼女はトットッと歩いてきた。

「私はシャー。きみの名前は?」
「僕はトグ。神聖なる薬師や陰陽師の類いと勘違いされたら面倒だから先に言っておくけど、僕はちょっと珍しい精霊に寝床にされてるだけの、一般人だからね。高貴な方々とはまるで接点がないし、貴女みたいなお姫様には会ったこともないよ。」
「なるほど私は高貴な家柄の姫だけど、出歩くのを躊躇ったことはない。トグが私に会ったことがないのは、家柄のせいじゃないと断言できる。」
「そっか。確かに僕は、普段ここに近寄らないからね……」

シャーと名乗った彼女は、奇妙な人だった。
声が異次元で鳴っているような。動く唇が花びらと散っていきそうな。要はペースがものすごく掴みにくい。空にたゆたう薄紫の雲そっくりに、シャーはのらりくらりと風を導いて凧のように飛んでいってしまいそうだった。
しかしそんな風に不可思議極まりない印象を抱いたのは向こうも同じようだった。

「きみ、へんな人。」と、シャーは二度目の言葉を繰り返した。
「太陽の眩しさと明るさを胸に抱きながら、なんでトグの体はそんなに土と闇と影の匂いがするのだろう。もぐらみたいな生態してたりする?あんまり人間を相手にしているように思えないんだ。もっとこう、蟻とかカブトムシの幼虫とか、宇宙人っぽい感じの気配だな。」
「まあ……半分は正解かな。宇宙人ってのは意味わからないけど。確かに僕は洞窟にもぐる趣味があるからね。」
「へえ。」
「それよりシャーさん。貴女からは鳥の気配がするよ。さっきはあろうことか、羽根を生やして飛んでいなかった?」

今度は、シャーが目を見開く番だった。

「私の羽根が見えるとは……予想外。」
「正確には見たわけじゃないよ。なんとなく感じただけでね。まあ、よもぎの翁なら多分見ることができるんだろうけど。」
「よもぎの翁、か。あのお爺さんはお金に誠実だからとても助かる。」
「そうそう。吹っかけたりしないし。金銀財宝見ただけであんなに豹変するのに、不思議にガメツイ感じがなくていいんだよね。」
「わかる。」

トグとシャーは熱心に頷き合った。
さすがはよもぎの翁、顔が広い。占いで助けてくれたのみならず、こうして会話の糸口にもなってくれた彼に、トグは心から感謝の意を捧げた。

春の野は、温かい。
ああ、とても、温かい。
トグは口の端が我知らず釣り上がるのを感じた。

「きみとは気が合いそうだ。」
「こちらこそ。貴女は尊い。純真で、きっと誰より月が似合う。」

トグの言葉に、シャーは顔色も変えなかった。一言堂々と「ありがとう。」と答えたのみで、首を傾げ空を見上げた。
太陽の位置を測ったのだろうか。
そろそろ帰らねば、という呟きが小さく聞こえた。

「また会おうか。トグ。」
「うん、再び野の香りに導かれることがあればね。まあ、きっといつでも会えるよ。シャー。」
「……そう願うよ。」

水色のドレスが、ふわりと舞う。
大きく羽根を広げたような大鳥のシャーが、くるりと踵を返すと躊躇いもなく空へ飛び立った。————否、まるでそうとしか思えない軽やかさで、丘を降りる路を駆け出した。

ピカリ、と黒紫の冠が光を反射する。
その光景を眺めながら、トグは小さくため息をついた。

「ハア。」

彼にしては珍しい。眉根に皺が刻まれた形の、真剣な顔つき。しかめっつらと呼ばれる類いの顔だった。

「……鳥バンバンの、羽根は奇跡を呼び候……だったかな。」

歌うように詩の一節を口ずさんだトグは、その柔らかで平和な響きのメロディを険しい顔つきで台無しにしていた。

————よもぎの翁。知っていて僕に黙っていたな。

ハアァ、と大きく一息。
頭をワシャワシャして髪の毛を揉みくちゃにして、もう一発ハアァとため息を吐く。天を仰いだトグは、空の水色を鏡の如く瞳に映している。彼は呟くように、一言を言った。

「まあ、なるようになるか。」

声の響きは奇妙な哀愁をただよわせる。
しかし細められた目は、どこかさっぱりと明るい光を宿していた。

そうだ。
これから甘酸っぱい恋が待っている。
だからこの宇宙に生きとし生ける全ての青年よ。何事も恐れるな。
なるようになるのであり———

————ならないものは、当たり前にならないのであるのだから。