浮かびあがった世界をひたすらに書く。それが俺──瀬戸アテムのスタイルだった。

 当てはめるなら、「憑依型」なのだろう。一度世界に染まったら、そこから思考がとまらない。生命を維持するためだけにご飯を貪り、気絶するように眠る。そんな日々を過ごしながら、俺は無心にA4用紙サイズの白い世界に文字を打ち込んでいく。

 十二万文字の旅はとにかく過酷だった。初めて訪れる「現代恋愛」そして「私小説」という世界。そんな右も左もわからない世界にたった一人放り出された。だが、俺自身が作り出した世界の旅路にはいつも緒川がいてくれた。それだけで心強かった。

 俺がこうなることをわかっているから、時々森橋さんが差し入れを持って生存確認しにきてくれた。だが、一度ゾーンに入ると受け答えもしなくなることも知られているので、俺が書いている姿を見たあとは声もかけずに帰っていた。彼にはそれだけで十分なのだろう。「こいつなら問題ない」と。俺たちの間にはそれくらいの信頼形成はすでにできあがっていた。

 ──緒川に最後の連絡をしてからおよそ二週間後。初校の推敲を終えた俺は森橋さんにテキストエディタのデータを送った。

 あごに手を当ててみると、チクチクするくらいヒゲが伸びていた。ヒゲが頬まで浸食している。そういえば、最後に風呂に入ったのはいつだろうか。それすらも思い出せないくらい頭がぼーっとしていたから、ひとまずシャワーを浴びた。

 体を清め身なりを整えたあと、スマホを見ると着信が入っていた。森橋さんからの電話だ。折り返してみると、森橋さんはすぐに出てくれた。

「お疲れ様です。原稿、ありがとうございました」
「あ、いえ……どうっすか?」
「内容はこれから確認します。その前に、先生にはやることがあるでしょ?」

「やること」そう言われてすぐに理解した。多分、この原稿を緒川に見せることだ。

「でも、いいんすか? 完成前の原稿を第三者に見せて」
「勿論だめです。しかし緒川さんは協力者ですし、下読みということで目をつぶりますよ。でも、万が一何かあったら僕と一緒に怒られてくださいね」
「それはちょっと……」
「いいじゃないですか。僕と先生はもうお友達でしょ? 拳も交じり合いましたし」
「いや、交じり合ったっつうか、俺が一方的に殴られたんすけど……けど、ありがとうございます」

 電話なのに、勝手に頭が下がっていた。そんな俺の姿を見透かしているのか、森橋さんは「いえ」と言いながらわずかに笑った。

「緒川さんによろしくお伝えください。それでは」

 森橋さんが電話を切る。そこからスマホをポケットの中に入れ、すぐにノートパソコンを鞄に入れた。