ある晴れた日の午後。
「なんだ貴様は」
「それはこっちのセリフです」
ヒトならざる者に遭遇した。
◇
神野みこ、16歳、高校二年生、東京生まれ東京育ち。
そんな私が現在住んでいるのはドがつく田舎。バスは1日4本。当然電車など通らない。そもそも唯一の公共交通機関であるバスの停留所だって徒歩で片道30分はくだらない。とりあえず近い駅に行って止まっている電車に乗ればいろいろなところに行けた東京とはすごい違いだ。
なんで私がこんなド田舎に引っ越してきたかというと、1年前に母親が再婚したから。このド田舎出身の男性と。最初母の口から聞いたときは耳を疑った。どこにそんな接点があるんだと問い詰めたところ、母の働いているカフェで出会ったそうだ。相手の男性――父と呼ぶべきだろうが呼びたくない人――はそこの常連だったらしい。そして男性が大学卒業とともに彼の地元であるこのド田舎に来たというわけだ。いくら私が母が16のときに産んだ子だろうと、私の方が父のポジションに君臨した男性の年齢に近いので気まずい。
そんな私の複雑な家庭事情はこのド田舎において全部筒抜けだ。そのせいで私は学校に馴染めず一人を極めている。家庭でも母とよくわからない男性がイチャイチャするので肩身が狭い。母がぶっ飛んでいるのはもともと知っていたが、再婚相手もなかなかぶっ飛んでいる。
この生活も2年目を迎え、別名諦めという名の慣れを感じ始めたのだが、ある日何もかもが嫌になった。だって何もかもがおかしいから。何故母の事情に合わせて生まれ育った地を離れなければならなかったのか、何故何もしていない私が肩身の狭い思いをしなければならないのか、何故周りの人間は幸せそうなのか。その答えを私は知らない。
もう疲れた。人のいないところに行きたい。そうだ、山に登ろう。
思春期特有の「何で自分だけが」状態に陥った私の思考回路は途中でショートしていた。
10分後。
「…疲れた」
自暴自棄になっていた私が徐々に冷静さを取り戻し始めた。疲れたから引き返そうと思ったが、ちょうど開けた空間に出た。人一人がぎりぎり通れるぐらいの石段が続いている。上階に目を向けると鳥居が見えた。その先に神社があるんだ。どうせここまで来たのならお参りでもしていこうと思い、頂上を目指した。ここ数年人が通っていなかったみたいで、石段に苔が生えていた。つるつる滑るので落ちないように一歩一歩慎重に踏みしめながら歩を進めた。多分明日は筋肉痛になるだろう。その苔は当然鳥居にも神社にも繁殖しており、全体的に緑のあふれる空間だった。春の麗らか気候に似合わないひんやりとした空気が漂っている。ここだけ季節の流れから切り取られたようだ。これも何かの縁だと思い、お参りすることにした。ここにどんな神様がまつられているのかは知らないが、逆に全分野に万能だといいなとわずかな希望を抱きながら、ボロボロで簡単にお金が盗めそうなお賽銭箱に5円玉を投げ込み手を合わせる。
「どうか私に憩いの場ができますように。早くこのド田舎から引っ越せますように。せめてバスの本数が増えますように。ご近所さんの話題の中心から抜け出せますように。誰か一人でいいので信頼できる人ができますように」
この際動物でもいいので、と心の中で付け加えた。
1円につき1つお願い事を言い終わると、ゆっくりと目を開けた。
「え」
さっきまでは誰一人いなかったのに、目の前に人がいた。いや正確には人ではないと直感で悟った。だって格好からしておかしい。金色の刺繍が施された乳白色の着物に、朱色の羽織を着ている。履いている靴だって下駄だ。顔もこの世の者とは思えないぐらい綺麗に整っている。そこらの女性よりも長いまつげに縁どられた金色の瞳、シュッとした鼻、シャープな輪郭、陶器のように白い肌、風になびく薄緑色の長い髪の毛。どれも人間離れしている。黒髪黒目の日本人顔をした私とでは月とすっぽんだ。その彼が端正な口を動かし、一番にこう言った。
「なんだ貴様は」
「それはこっちのセリフです」
我ながらよく得体も知れないものに言い返せたと思う。声も耳元で囁かれたら腰が砕けてしまいそうなほど魅惑的なものだった。
私の返答がお気に召さなかった彼は、目を眇めながら顔を近づけてきた。鼻と鼻がくっつきそうなほど近い。この不審人物は距離感がおかしい。
「何者かと思えばただの人間か」
期待外れだったらしく、そっけなく言われた。
「じゃあ逆にあなたは何者なんですか?」
動揺する心とは裏腹に、言葉はするりと出てきた。
「見て分からないのか」
「分からないから聞いているんです」
「我は神だ」
セリフだけを切り取ればそこら辺にいる中二病患者だ。でも、これがキャラ付けでも冗談でもないことを、周りの環境が示している。神と名乗る男はそれだけ神秘的な存在だった。
「もう気は済んだだろう。帰れ、人間」
その言葉を最後に意識を失った。次に目を覚ました時には、石段の下に寝そべっていた。
別れの挨拶もなしに「帰れ」と言われ「はいそうですか」と納得するようなタイプではないので、昨日と同様苔まみれの石段を登り神社に出向いた。神様の存在は置いといて、ここは静かでのんびりと過ごすには最適だと気づいたからだ。
神社の横にあるベンチにハンカチをかけ腰を下ろす。目を閉じ耳を澄ませば、風に揺られる木々がさわさわと音を立てている。きっと太陽の光に照らされ生き生きと背を伸ばしているのだろう。その音を遮るような鋭い声が聞こえた。
「なんでまた来た」
神様だ。わざわざ目を開けなくても分かる。また強制帰還させられたら嫌なので、ひとまず出方を窺う。
「おい、狸寝入りか。我にそんな手が通じると思うのか」
ばれている。このまま機嫌を損ねられると厄介なので渋々目を開けた。
「…私の寝たふりを見破るなんてさすがは神様ですね」
「感心するところはそこか。もっと何かあるだろう。どうやって現れただとか」
「聞いたら教えてくれるんですか」
「言わん」
即答された。それにしてもこの神様、態度はでかいが意外とツッコミができるらしい。感心していると、当の本人は眉をひそめた。
「そんなことより我の問いに答えろ」
「どんな内容でしたっけ」
「なんでまた来たのかと聞いたんだ」
二回目を言ってくれるならわざわざ遠回りするような言い方をしなければいいのに。あと神様なのに私がここに来た理由も分からないのか。てっきり神という高位種は人間の考えなど全て見透かしていると思っていたのに。
「ここ以外に居場所がないので」
できるだけシンプルに答えると、神様は目をみはった。予想外の答えだったらしい。
「私、家でも学校でもいないもののように扱われるんです」
「なんだ。我と一緒か」
我と、一緒。神様が言ったことを反芻する。この神は私の悩みをあっさりと一言で片づけた。それが当たり前かのように、一切の迷いなく。
心の底から何かがこみあげてきた。
「何がおかしい」
今までただの人間に過ぎなかった私が神と同じところに分類されたのだ。これを笑わずして何を笑うというのだろう。
言われてみれば確かに、この神様も私と同じなのかもしれない。ちゃんとここに存在するのに、いないもののように扱われている。その証拠に石段には私が苔を踏みしめた跡しかついていない。こんなところで親近感を抱くとは思わなかった。心がすぅっと軽くなる。
「神様って面白いんですね!お名前なんて言うんですか?」
「名前などない」
「じゃあ今日から翠って名乗ってください」
だってこの空間は植物の緑に満ちているから。あと神様の髪色も薄緑色だし。ちなみに緑ではなく翠にしたのがポイントだ。こっちの方が特別感が出る。
「せめて様をつけろ」
注意するのそこなんだ。勝手に名付けたことは咎めないんだ。どうやらこの神様はどこかずれているらしい。彼が神様だからだろうか。
「じゃあ改めまして翠様、私のことは気軽にみこ様って呼んでください。私たち友達になりましょう!」
明るい表情で笑いかけると、翠様は怪訝な顔をした。
「はぁ?何故我が貴様に様を付けねばならん」
「友達は対等であるべきだからです」
「そうか。お前の言う友達は敬語で話すのか。我の知っている人間とは違うのだな」
「え、もしかして私以外にも友達がいるんですか?」
「『私以外』ってなんだ。我に友達などおらん。今のは皮肉というやつだ。そんなことも分からんのか」
「要は翠様もぼっちってことですね」
「最後まで聞け」
「あ、もう日が暮れてきたんで帰りますね」
「おい」
引き留めようと伸ばされた手をすすり抜け、颯爽と帰路についた。
昨日は私に「帰れ」と言い放った翠様が、今日は私を引き留めようとした。それだけでだいぶ距離が縮んだ気がするのは私だけか。うん、確実に私だけだな。だって私が翠様の初めての友達になったのだから。
それ以来毎日翠様を訪れた。翠様はなんだかんだ言いながらも私の相手をしてくれた。ツンデレなんだと思う。それか自分と同じということに親近感を覚えてくれたのかも。何はともあれ私に居場所と友達が出来てよかった。嬉しい。もしかしたら私のお願いを聞いて出てきてくれたのかもしれない。そう思い本人に聞いてみたら「違う」と即答された。久々に何かが現れたから興味本位で覗いただけらしい。そしたら自分のことが見えるただの人間でガッカリしたと。失礼な。
夏休みはほとんど翠様と一緒に過ごした。夏期課題は学校の休み時間を使い終わられたので時間がたっぷり有り余ったのだ。ぼっちライフ万歳。翠様とはいつもの翠様のツッコミありきの雑談をしたり梅雨のせいで更に繁殖してしまった石段の苔を一掃したりした。他にも私があまりの暑い暑いというので、見かねた翠様が神社の近くにある川に連れていってもらった。試しに川の水を翠様にかけたところ、なんと貫通しなかった。それに驚いているとびしょびしょに濡れた翠様にやり返され、私もびしょびしょになった。先にやったのは私だが、かけられるとそれを倍にしてお返ししたくなる。翠様がそれを更に倍にして返してくる。終わりの見えない水かけ合戦の末、下着が透けていたことに気づき「見たでしょ。翠様のすけべ」と冗談交じりに言うと「お前如きに発情するか阿呆」と馬鹿にされた。でも目のやり場に困るからとどこから持ってきたかもわからない羽織をかけてくれた。夏だから暑いかと思ったが、川水に濡れた身体には程よいぬくもりだった。
充実した夏休みを終え、迎えた新学期。
「うわ、来た」
(え、何)
久々の教室に入った途端、クラス中の視線が私に集中したのが分かった。タイミング的にさっきの言葉も私に向けられたものだ。
私がクラスメイトに遠巻きにされるのはいつものこと。でも今日はいつもとは違った。私をちらちら見ながらニヤニヤしている。正直に言ってとても不愉快だ。
「あの子って夏休み中、山にひきこもったんでしょう?」
「えーそれもう猿じゃん」
「えぇ?私が聞いたのは川で一人遊びしてたってのなんだけど」
「何それ詳しく」
自分の席に着くまでに聞こえたのはそんな会話。
さすがは田舎、人のうわさが出回るのが速い。翠様の会うために毎日山に登ったのは事実だし、川で遊んだのも事実なのでわざわざ否定はしない。本当は一人遊びじゃないけど、翠様本人曰く「我の存在を信じない者に我は見えん」とのことなので、そう見えたのも仕方ない。
今日も今日とて素知らぬ顔で堂々としていようと思った。思ったのに。
「神野さーーーん!東京人は神が見えるってまじぃ??」
突如クラスの男子から放たれた「神」という単語に胸がざわついた。動揺する私を面白がるように笑いが起こった。そんなことはどうでもいい。眼中にない。問題は彼らが私が居座る山に神様がいるかもしれないと考えたところだ。神様はその存在を信じる者に見える。つまり彼らが神様がいると信じて山に登れば、翠様に出会える。面倒見のいい翠様のことだ。私みたいに強引な人が現れたら文句を言いつつ友達になるかもしれない。もしそうなったら私はまた居場所を失いかもしれない。もしそうなったら私は、何を救いに生きればいいのだろう。
「今日はどうした。また狸寝入りか」
「違います。見て分かりませんか?ちょっと落ち込んでいるんです」
ベンチの上でうずくまっているといつもの調子で翠様が現れた。いつまで経っても顔を上げない私にしびれを切らしたのか隣に腰を下ろした。
「…何があったんだ」
「別に」
「そうやってすぐに会話をやめるから友達がいないんじゃないのか」
翠様のくせに先生みたいなことを言われた。そんなこと誰に習ったんだ。
「じゃあ聞きますけど」
「なんだ」
「翠様は私以外にも友達が欲しいと思いますか」
「お前がもう一人いてたまるか」
「そういう意味ではないんですけど…」
どうやらこの神は友達=私と認識しているらしい。それはそれで嬉しいが、この心のもやもやは翠様には理解できないかもしれないと思うと、また切なくなった。
翠様はもどかしように髪をぐしゃぐしゃかき回した後、言葉を付け足した。
「我もそう意味で言ったのではない。お前のような存在は、お前ひとりで充分だと言ったんだ」
私一人でいいんだ。そっか。私で充分。
私のことをそんな風に言ってくれる人は今まで誰もいなかった。東京に住んでいた時も周りにとって私は数多くいる友達のうちの一人にすぎず、私も特定の誰かを特別視することはなかった。そんな私をこの人は世界でたった一人の特別な存在にしてくれた。私は一体この人のささいな言葉に何度救われるのだろう。頬に温かいものが伝っていく。憂いを洗い流すような涙だ。
思わず顔を上げると、翠様がふっと笑った。
「はは、涙でぐしょぐしょだな」
「余計なお世話です」
私の鼻声にまた笑った。今日は翠様のほうがよく笑う。いたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「お前は笑ってる方が幾分かマシだ」
「そっちの方が可愛いってことですか?」
「ちょっと慰めればすぐに調子に乗るんだな」
そう言いながらもまた笑った。今度は呆れも混ざった笑みだった。その表情が彼を幼く見せ、急に同世代の男性になったようだった。胸に何かがすとんと落ち、一度意識すると急に恥ずかしくなった。
「どうした、今度は顔が赤いぞ」
「な、泣いたので」
翠様はそれで納得してくれたが、私はそれが違うと分かる。私はきっと、この神様――翠様に恋にしたんだ。
人間は年を重ねれば重ねるほど体感時間が短くなっていく。人間でもあっという間に時間が過ぎ去っていくのだ。それが神様ならなおさらだろう。私と出会ってから半年近く経ったが、彼にとっては数日、いや数時間、下手したらもっと短く感じているかもしれない。私が80歳まで生きると仮定すると、残りは約60年。高齢になるとここに通うのは大変になるので、長く見積もって50年一緒に過ごせることになる。年単位で表すと長く感じるが、1日数時間しか会えないので実際はもっと短い。更にそれよりも短い体感時間でしか翠様の記憶に残れない。恋心を自覚したからってなんだ。たったそれだけの時間で私に何ができる。翠様からすれば、私はつい最近生まれた赤子に過ぎないかもしれないというのに。
そんな私を嗤うかのように時間は過ぎていく。時計が0時を指したところでふとひらめいた。いつから私は死んだら翠様とは終わりだと錯覚していたのだろう。人間は死ねば天国か地獄に送られ、天国なら神様と一緒の空間に行けるという逸話もある。というか誰もが一度は聞いたことがあるだろう。
それが迷信なのか本当なのかは分からないので、次の日神様である翠様に直接聞いてみた。
「ねぇ翠様」
「なんだ」
「人って死んだらどうなるんですか?」
「さぁ」
「『さぁ』って…。それでも本当に神なんですか?」
「まだ疑うか」
「はい」
ぶっちゃけ神様と言ってもこれと言って特別な力を見せてもらったことがない。しいて言うなら何もないところからいきなり現れるぐらいだ。
「神にも専門領域があり、それは互いに干渉しあうことが出来ないのだ。ほら、貴様らだって恋愛成就の神だの合格祈願の神だの言って崇めているだろう」
「確かに」
思うような答えをもらえなかった私を気遣うように神様が付け加えた。
「だが、生まれ変わるとは聞いたことがある。何となくだが」
「あぁ、輪廻転生ってやつですか?」
「そんな感じだ」
なるほど。つまり死んだら神野みことしての翠様との付き合いは終わりなのか。
「じゃあ翠様、もし私が死んで生まれ変わったらまた友達になってくださいね」
「まるで今にも死ぬような言い方だな」
「だって、あなたからしたら私の寿命なんて一瞬なんでしょ。短くて3日、長くて一ヶ月ぐらい?」
「‥‥‥‥」
翠様は押し黙った。この場合の沈黙は肯定と同義。やっぱり私の予想は当たっていたのか。
それなら気持ちを伝えないのが正解だ。両想いになろうと奮闘するよりも楽しい思い出を残す方がいい。何らかの奇跡が起きて両想いになったとしても、すぐに翠様を置いて行ってしまうことになる。そんな惨いことはしたくない。ただ、恋人を失う悲しみまではいかないと思うが、唯一の友達を失いのも相当つらいだろう。だから来世でも私が友達として寄り添うと決めた。恋人より友達の方が簡単になれるし、来世でも私のことだ、すぐに翠様と友達になれるだろう。
私の恋はここで終わった。
無理やりにでもそう思わなければ、私はこの気持ちを制御できなかった。
今日はどんよりと曇り空だった。それもそのはず、今日は夕方から雨が降るとお天気お姉さんが言っていたから。
さすがに雨が降っているのに山を上り下りするのは危険なので、今日は挨拶だけして返ろう。1日ぐらいいいじゃないかと思うかもしれないが、ただでさえ時間がないのだ。たった一秒でも多く翠様の記憶に残りたい。私が余命を使い果たすまで、私の存在を記憶に刻み込みにいきますから覚悟してくださいね。そう意気込んだ瞬間―――――私の意識は途絶えた。
◇
みこが来ない。
いつもならすぐに「翠様」と勝手につけた我の名前を呼びながらやってくるというのに。今日は天気が悪いから来ないのか。先ほど雷鳴がとどろき、雨が降り始めたのだ。それでもあのしつこい娘が我に何も言わずに帰るだろうか。我と出会って以来、一日たりともここに来なかった日はないというのに。
何となく嫌な予感がして、何十年、もしくは何百年ぶりに神社の外にでた。みこは私がこの山から出られないと思っている節があったがそんなことはない。我は行きたいところに自由に行くことができる。ただ行く必要性を感じなかったから引きこもっていただけだ。
そんなことを考えながら歩いていると、道の先に人が倒れているのが見えた。その黒髪を視界にとらえた途端、急いで駆け寄った。だってその髪は我が唯一知る人間―――みこのものだったから。
身体は全身やけどを負っており、焦げ臭い。服もやぶれていたから羽織をかけた。
何が起きたかは明白だ。みこはこの雷にうたれたのだ。今元気に空を蹂躙している雷神の手によって。
神はそれぞれの領域に干渉することができない。だから我は雷神を咎めることができない。頭ではそれを分かっている。その半分で、ではこの怒りをどこにもっていけばいいのか途方に暮れた。みこの呼吸は浅い。今にも死んでしまいそうなほど弱っている。人間は脆い。何故創造神は人間をもっと丈夫に創らなかったのだと怒りが飛び火した。今更そんなことを言ってもどうしようもないのに。我の力ではみこの傷を癒すことができない。何が神だ。大事な存在一つ守れやしないというのに。
みこの身体はどんどん冷たくなっていく。さっきまで雨に濡れていたのもあるが、それ以上に死期が近づいてきているのだ。まだ我を置いて逝くな、と思わず抱き寄せると、みこの目がわずかに開いた。
「み…どり、さま…?」
「おい喋るな。我が何とかしてやるから」
我の言うことなど聞かず、弱弱しい力で衿を掴んできた。
「…好き」
「は…――――?」
一瞬雨音が消え、みこの言葉だけが我の心に響いた。呆然とする我を見てみこが笑う。
「言う、つもりなんて、なかったんだけどなぁ…」
我はみこに笑った方がマシだと言った。だが決して困ったような笑みを浮かべて欲しかったわけではない。太陽のように爽快で眩しい笑みを向けて欲しかっただけだ。
「約束、守ってくださいね」
「ああ分かった。分かったから目を開けてくれ。なぁ。寝ているだけなんだろ。我にその手が通じると思っているのか。おい、みこ」
いくら必死に呼びかけても、掠れた声を最期に、みこはもう喋らなかった。口元は美しい弧を描き、我に微笑んでいる。みこの命の灯が消えた。冷えていく身体を抱え、我は泣いた。長い長い生の中で、泣いたのは初めてのことだった。まだ出会って間もないというのに、みこは我にとってかけがえのない存在になっていた。みこが最期に告白したように、我もみこのことを好いていたようだ。我はいつも遅い。今日だって我がもっと早くみこを見つけていれば病院に運ぶなどして助けることが出来たかもしれないのに。そういえば我はみこの名前を呼んだことがあっただろうか。最初に「みこ様と呼んで」と言われたのが癪に障り、意地でも呼ばなかった気がする。心の中ではもう何百回と呼んでいたというのに。とてつもない後悔が我を襲い、苦しい。雷に打たれたみこはもっと痛かったと思うと涙が余計に止まらなくなった。
みこは余命がわずかしか残らぬ中、我に約束を守ってと願った。約束とは以前言っていた生まれ変わっての友達になってほしいというお願いのことだろう。簡単に口にするが、我はそんなことをしたことがない。そもそも覚えていたいと思う人間に出会ったことがなかったのだから。それでもみこの願いだ。彼女が望むのならば、それが例えどんなに困難なことでも叶えてみせる。そして今度こそ我が守り抜き、幸せにする。だから安心して待っていろ――みこ。
◇
数十年後のある晴れた日の午後。
「お兄さんだあれ?」
「我の名は翠。気軽に翠様と呼ぶといい」
幼い彼女は舌足らずなしゃべり方で「みどりしゃま!」と呼んでくれた。
「友達から始めよう。―――みこ」
我が笑いかけると、彼女はまた、太陽のような明るい笑みを浮かべた。
〈了〉
「なんだ貴様は」
「それはこっちのセリフです」
ヒトならざる者に遭遇した。
◇
神野みこ、16歳、高校二年生、東京生まれ東京育ち。
そんな私が現在住んでいるのはドがつく田舎。バスは1日4本。当然電車など通らない。そもそも唯一の公共交通機関であるバスの停留所だって徒歩で片道30分はくだらない。とりあえず近い駅に行って止まっている電車に乗ればいろいろなところに行けた東京とはすごい違いだ。
なんで私がこんなド田舎に引っ越してきたかというと、1年前に母親が再婚したから。このド田舎出身の男性と。最初母の口から聞いたときは耳を疑った。どこにそんな接点があるんだと問い詰めたところ、母の働いているカフェで出会ったそうだ。相手の男性――父と呼ぶべきだろうが呼びたくない人――はそこの常連だったらしい。そして男性が大学卒業とともに彼の地元であるこのド田舎に来たというわけだ。いくら私が母が16のときに産んだ子だろうと、私の方が父のポジションに君臨した男性の年齢に近いので気まずい。
そんな私の複雑な家庭事情はこのド田舎において全部筒抜けだ。そのせいで私は学校に馴染めず一人を極めている。家庭でも母とよくわからない男性がイチャイチャするので肩身が狭い。母がぶっ飛んでいるのはもともと知っていたが、再婚相手もなかなかぶっ飛んでいる。
この生活も2年目を迎え、別名諦めという名の慣れを感じ始めたのだが、ある日何もかもが嫌になった。だって何もかもがおかしいから。何故母の事情に合わせて生まれ育った地を離れなければならなかったのか、何故何もしていない私が肩身の狭い思いをしなければならないのか、何故周りの人間は幸せそうなのか。その答えを私は知らない。
もう疲れた。人のいないところに行きたい。そうだ、山に登ろう。
思春期特有の「何で自分だけが」状態に陥った私の思考回路は途中でショートしていた。
10分後。
「…疲れた」
自暴自棄になっていた私が徐々に冷静さを取り戻し始めた。疲れたから引き返そうと思ったが、ちょうど開けた空間に出た。人一人がぎりぎり通れるぐらいの石段が続いている。上階に目を向けると鳥居が見えた。その先に神社があるんだ。どうせここまで来たのならお参りでもしていこうと思い、頂上を目指した。ここ数年人が通っていなかったみたいで、石段に苔が生えていた。つるつる滑るので落ちないように一歩一歩慎重に踏みしめながら歩を進めた。多分明日は筋肉痛になるだろう。その苔は当然鳥居にも神社にも繁殖しており、全体的に緑のあふれる空間だった。春の麗らか気候に似合わないひんやりとした空気が漂っている。ここだけ季節の流れから切り取られたようだ。これも何かの縁だと思い、お参りすることにした。ここにどんな神様がまつられているのかは知らないが、逆に全分野に万能だといいなとわずかな希望を抱きながら、ボロボロで簡単にお金が盗めそうなお賽銭箱に5円玉を投げ込み手を合わせる。
「どうか私に憩いの場ができますように。早くこのド田舎から引っ越せますように。せめてバスの本数が増えますように。ご近所さんの話題の中心から抜け出せますように。誰か一人でいいので信頼できる人ができますように」
この際動物でもいいので、と心の中で付け加えた。
1円につき1つお願い事を言い終わると、ゆっくりと目を開けた。
「え」
さっきまでは誰一人いなかったのに、目の前に人がいた。いや正確には人ではないと直感で悟った。だって格好からしておかしい。金色の刺繍が施された乳白色の着物に、朱色の羽織を着ている。履いている靴だって下駄だ。顔もこの世の者とは思えないぐらい綺麗に整っている。そこらの女性よりも長いまつげに縁どられた金色の瞳、シュッとした鼻、シャープな輪郭、陶器のように白い肌、風になびく薄緑色の長い髪の毛。どれも人間離れしている。黒髪黒目の日本人顔をした私とでは月とすっぽんだ。その彼が端正な口を動かし、一番にこう言った。
「なんだ貴様は」
「それはこっちのセリフです」
我ながらよく得体も知れないものに言い返せたと思う。声も耳元で囁かれたら腰が砕けてしまいそうなほど魅惑的なものだった。
私の返答がお気に召さなかった彼は、目を眇めながら顔を近づけてきた。鼻と鼻がくっつきそうなほど近い。この不審人物は距離感がおかしい。
「何者かと思えばただの人間か」
期待外れだったらしく、そっけなく言われた。
「じゃあ逆にあなたは何者なんですか?」
動揺する心とは裏腹に、言葉はするりと出てきた。
「見て分からないのか」
「分からないから聞いているんです」
「我は神だ」
セリフだけを切り取ればそこら辺にいる中二病患者だ。でも、これがキャラ付けでも冗談でもないことを、周りの環境が示している。神と名乗る男はそれだけ神秘的な存在だった。
「もう気は済んだだろう。帰れ、人間」
その言葉を最後に意識を失った。次に目を覚ました時には、石段の下に寝そべっていた。
別れの挨拶もなしに「帰れ」と言われ「はいそうですか」と納得するようなタイプではないので、昨日と同様苔まみれの石段を登り神社に出向いた。神様の存在は置いといて、ここは静かでのんびりと過ごすには最適だと気づいたからだ。
神社の横にあるベンチにハンカチをかけ腰を下ろす。目を閉じ耳を澄ませば、風に揺られる木々がさわさわと音を立てている。きっと太陽の光に照らされ生き生きと背を伸ばしているのだろう。その音を遮るような鋭い声が聞こえた。
「なんでまた来た」
神様だ。わざわざ目を開けなくても分かる。また強制帰還させられたら嫌なので、ひとまず出方を窺う。
「おい、狸寝入りか。我にそんな手が通じると思うのか」
ばれている。このまま機嫌を損ねられると厄介なので渋々目を開けた。
「…私の寝たふりを見破るなんてさすがは神様ですね」
「感心するところはそこか。もっと何かあるだろう。どうやって現れただとか」
「聞いたら教えてくれるんですか」
「言わん」
即答された。それにしてもこの神様、態度はでかいが意外とツッコミができるらしい。感心していると、当の本人は眉をひそめた。
「そんなことより我の問いに答えろ」
「どんな内容でしたっけ」
「なんでまた来たのかと聞いたんだ」
二回目を言ってくれるならわざわざ遠回りするような言い方をしなければいいのに。あと神様なのに私がここに来た理由も分からないのか。てっきり神という高位種は人間の考えなど全て見透かしていると思っていたのに。
「ここ以外に居場所がないので」
できるだけシンプルに答えると、神様は目をみはった。予想外の答えだったらしい。
「私、家でも学校でもいないもののように扱われるんです」
「なんだ。我と一緒か」
我と、一緒。神様が言ったことを反芻する。この神は私の悩みをあっさりと一言で片づけた。それが当たり前かのように、一切の迷いなく。
心の底から何かがこみあげてきた。
「何がおかしい」
今までただの人間に過ぎなかった私が神と同じところに分類されたのだ。これを笑わずして何を笑うというのだろう。
言われてみれば確かに、この神様も私と同じなのかもしれない。ちゃんとここに存在するのに、いないもののように扱われている。その証拠に石段には私が苔を踏みしめた跡しかついていない。こんなところで親近感を抱くとは思わなかった。心がすぅっと軽くなる。
「神様って面白いんですね!お名前なんて言うんですか?」
「名前などない」
「じゃあ今日から翠って名乗ってください」
だってこの空間は植物の緑に満ちているから。あと神様の髪色も薄緑色だし。ちなみに緑ではなく翠にしたのがポイントだ。こっちの方が特別感が出る。
「せめて様をつけろ」
注意するのそこなんだ。勝手に名付けたことは咎めないんだ。どうやらこの神様はどこかずれているらしい。彼が神様だからだろうか。
「じゃあ改めまして翠様、私のことは気軽にみこ様って呼んでください。私たち友達になりましょう!」
明るい表情で笑いかけると、翠様は怪訝な顔をした。
「はぁ?何故我が貴様に様を付けねばならん」
「友達は対等であるべきだからです」
「そうか。お前の言う友達は敬語で話すのか。我の知っている人間とは違うのだな」
「え、もしかして私以外にも友達がいるんですか?」
「『私以外』ってなんだ。我に友達などおらん。今のは皮肉というやつだ。そんなことも分からんのか」
「要は翠様もぼっちってことですね」
「最後まで聞け」
「あ、もう日が暮れてきたんで帰りますね」
「おい」
引き留めようと伸ばされた手をすすり抜け、颯爽と帰路についた。
昨日は私に「帰れ」と言い放った翠様が、今日は私を引き留めようとした。それだけでだいぶ距離が縮んだ気がするのは私だけか。うん、確実に私だけだな。だって私が翠様の初めての友達になったのだから。
それ以来毎日翠様を訪れた。翠様はなんだかんだ言いながらも私の相手をしてくれた。ツンデレなんだと思う。それか自分と同じということに親近感を覚えてくれたのかも。何はともあれ私に居場所と友達が出来てよかった。嬉しい。もしかしたら私のお願いを聞いて出てきてくれたのかもしれない。そう思い本人に聞いてみたら「違う」と即答された。久々に何かが現れたから興味本位で覗いただけらしい。そしたら自分のことが見えるただの人間でガッカリしたと。失礼な。
夏休みはほとんど翠様と一緒に過ごした。夏期課題は学校の休み時間を使い終わられたので時間がたっぷり有り余ったのだ。ぼっちライフ万歳。翠様とはいつもの翠様のツッコミありきの雑談をしたり梅雨のせいで更に繁殖してしまった石段の苔を一掃したりした。他にも私があまりの暑い暑いというので、見かねた翠様が神社の近くにある川に連れていってもらった。試しに川の水を翠様にかけたところ、なんと貫通しなかった。それに驚いているとびしょびしょに濡れた翠様にやり返され、私もびしょびしょになった。先にやったのは私だが、かけられるとそれを倍にしてお返ししたくなる。翠様がそれを更に倍にして返してくる。終わりの見えない水かけ合戦の末、下着が透けていたことに気づき「見たでしょ。翠様のすけべ」と冗談交じりに言うと「お前如きに発情するか阿呆」と馬鹿にされた。でも目のやり場に困るからとどこから持ってきたかもわからない羽織をかけてくれた。夏だから暑いかと思ったが、川水に濡れた身体には程よいぬくもりだった。
充実した夏休みを終え、迎えた新学期。
「うわ、来た」
(え、何)
久々の教室に入った途端、クラス中の視線が私に集中したのが分かった。タイミング的にさっきの言葉も私に向けられたものだ。
私がクラスメイトに遠巻きにされるのはいつものこと。でも今日はいつもとは違った。私をちらちら見ながらニヤニヤしている。正直に言ってとても不愉快だ。
「あの子って夏休み中、山にひきこもったんでしょう?」
「えーそれもう猿じゃん」
「えぇ?私が聞いたのは川で一人遊びしてたってのなんだけど」
「何それ詳しく」
自分の席に着くまでに聞こえたのはそんな会話。
さすがは田舎、人のうわさが出回るのが速い。翠様の会うために毎日山に登ったのは事実だし、川で遊んだのも事実なのでわざわざ否定はしない。本当は一人遊びじゃないけど、翠様本人曰く「我の存在を信じない者に我は見えん」とのことなので、そう見えたのも仕方ない。
今日も今日とて素知らぬ顔で堂々としていようと思った。思ったのに。
「神野さーーーん!東京人は神が見えるってまじぃ??」
突如クラスの男子から放たれた「神」という単語に胸がざわついた。動揺する私を面白がるように笑いが起こった。そんなことはどうでもいい。眼中にない。問題は彼らが私が居座る山に神様がいるかもしれないと考えたところだ。神様はその存在を信じる者に見える。つまり彼らが神様がいると信じて山に登れば、翠様に出会える。面倒見のいい翠様のことだ。私みたいに強引な人が現れたら文句を言いつつ友達になるかもしれない。もしそうなったら私はまた居場所を失いかもしれない。もしそうなったら私は、何を救いに生きればいいのだろう。
「今日はどうした。また狸寝入りか」
「違います。見て分かりませんか?ちょっと落ち込んでいるんです」
ベンチの上でうずくまっているといつもの調子で翠様が現れた。いつまで経っても顔を上げない私にしびれを切らしたのか隣に腰を下ろした。
「…何があったんだ」
「別に」
「そうやってすぐに会話をやめるから友達がいないんじゃないのか」
翠様のくせに先生みたいなことを言われた。そんなこと誰に習ったんだ。
「じゃあ聞きますけど」
「なんだ」
「翠様は私以外にも友達が欲しいと思いますか」
「お前がもう一人いてたまるか」
「そういう意味ではないんですけど…」
どうやらこの神は友達=私と認識しているらしい。それはそれで嬉しいが、この心のもやもやは翠様には理解できないかもしれないと思うと、また切なくなった。
翠様はもどかしように髪をぐしゃぐしゃかき回した後、言葉を付け足した。
「我もそう意味で言ったのではない。お前のような存在は、お前ひとりで充分だと言ったんだ」
私一人でいいんだ。そっか。私で充分。
私のことをそんな風に言ってくれる人は今まで誰もいなかった。東京に住んでいた時も周りにとって私は数多くいる友達のうちの一人にすぎず、私も特定の誰かを特別視することはなかった。そんな私をこの人は世界でたった一人の特別な存在にしてくれた。私は一体この人のささいな言葉に何度救われるのだろう。頬に温かいものが伝っていく。憂いを洗い流すような涙だ。
思わず顔を上げると、翠様がふっと笑った。
「はは、涙でぐしょぐしょだな」
「余計なお世話です」
私の鼻声にまた笑った。今日は翠様のほうがよく笑う。いたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「お前は笑ってる方が幾分かマシだ」
「そっちの方が可愛いってことですか?」
「ちょっと慰めればすぐに調子に乗るんだな」
そう言いながらもまた笑った。今度は呆れも混ざった笑みだった。その表情が彼を幼く見せ、急に同世代の男性になったようだった。胸に何かがすとんと落ち、一度意識すると急に恥ずかしくなった。
「どうした、今度は顔が赤いぞ」
「な、泣いたので」
翠様はそれで納得してくれたが、私はそれが違うと分かる。私はきっと、この神様――翠様に恋にしたんだ。
人間は年を重ねれば重ねるほど体感時間が短くなっていく。人間でもあっという間に時間が過ぎ去っていくのだ。それが神様ならなおさらだろう。私と出会ってから半年近く経ったが、彼にとっては数日、いや数時間、下手したらもっと短く感じているかもしれない。私が80歳まで生きると仮定すると、残りは約60年。高齢になるとここに通うのは大変になるので、長く見積もって50年一緒に過ごせることになる。年単位で表すと長く感じるが、1日数時間しか会えないので実際はもっと短い。更にそれよりも短い体感時間でしか翠様の記憶に残れない。恋心を自覚したからってなんだ。たったそれだけの時間で私に何ができる。翠様からすれば、私はつい最近生まれた赤子に過ぎないかもしれないというのに。
そんな私を嗤うかのように時間は過ぎていく。時計が0時を指したところでふとひらめいた。いつから私は死んだら翠様とは終わりだと錯覚していたのだろう。人間は死ねば天国か地獄に送られ、天国なら神様と一緒の空間に行けるという逸話もある。というか誰もが一度は聞いたことがあるだろう。
それが迷信なのか本当なのかは分からないので、次の日神様である翠様に直接聞いてみた。
「ねぇ翠様」
「なんだ」
「人って死んだらどうなるんですか?」
「さぁ」
「『さぁ』って…。それでも本当に神なんですか?」
「まだ疑うか」
「はい」
ぶっちゃけ神様と言ってもこれと言って特別な力を見せてもらったことがない。しいて言うなら何もないところからいきなり現れるぐらいだ。
「神にも専門領域があり、それは互いに干渉しあうことが出来ないのだ。ほら、貴様らだって恋愛成就の神だの合格祈願の神だの言って崇めているだろう」
「確かに」
思うような答えをもらえなかった私を気遣うように神様が付け加えた。
「だが、生まれ変わるとは聞いたことがある。何となくだが」
「あぁ、輪廻転生ってやつですか?」
「そんな感じだ」
なるほど。つまり死んだら神野みことしての翠様との付き合いは終わりなのか。
「じゃあ翠様、もし私が死んで生まれ変わったらまた友達になってくださいね」
「まるで今にも死ぬような言い方だな」
「だって、あなたからしたら私の寿命なんて一瞬なんでしょ。短くて3日、長くて一ヶ月ぐらい?」
「‥‥‥‥」
翠様は押し黙った。この場合の沈黙は肯定と同義。やっぱり私の予想は当たっていたのか。
それなら気持ちを伝えないのが正解だ。両想いになろうと奮闘するよりも楽しい思い出を残す方がいい。何らかの奇跡が起きて両想いになったとしても、すぐに翠様を置いて行ってしまうことになる。そんな惨いことはしたくない。ただ、恋人を失う悲しみまではいかないと思うが、唯一の友達を失いのも相当つらいだろう。だから来世でも私が友達として寄り添うと決めた。恋人より友達の方が簡単になれるし、来世でも私のことだ、すぐに翠様と友達になれるだろう。
私の恋はここで終わった。
無理やりにでもそう思わなければ、私はこの気持ちを制御できなかった。
今日はどんよりと曇り空だった。それもそのはず、今日は夕方から雨が降るとお天気お姉さんが言っていたから。
さすがに雨が降っているのに山を上り下りするのは危険なので、今日は挨拶だけして返ろう。1日ぐらいいいじゃないかと思うかもしれないが、ただでさえ時間がないのだ。たった一秒でも多く翠様の記憶に残りたい。私が余命を使い果たすまで、私の存在を記憶に刻み込みにいきますから覚悟してくださいね。そう意気込んだ瞬間―――――私の意識は途絶えた。
◇
みこが来ない。
いつもならすぐに「翠様」と勝手につけた我の名前を呼びながらやってくるというのに。今日は天気が悪いから来ないのか。先ほど雷鳴がとどろき、雨が降り始めたのだ。それでもあのしつこい娘が我に何も言わずに帰るだろうか。我と出会って以来、一日たりともここに来なかった日はないというのに。
何となく嫌な予感がして、何十年、もしくは何百年ぶりに神社の外にでた。みこは私がこの山から出られないと思っている節があったがそんなことはない。我は行きたいところに自由に行くことができる。ただ行く必要性を感じなかったから引きこもっていただけだ。
そんなことを考えながら歩いていると、道の先に人が倒れているのが見えた。その黒髪を視界にとらえた途端、急いで駆け寄った。だってその髪は我が唯一知る人間―――みこのものだったから。
身体は全身やけどを負っており、焦げ臭い。服もやぶれていたから羽織をかけた。
何が起きたかは明白だ。みこはこの雷にうたれたのだ。今元気に空を蹂躙している雷神の手によって。
神はそれぞれの領域に干渉することができない。だから我は雷神を咎めることができない。頭ではそれを分かっている。その半分で、ではこの怒りをどこにもっていけばいいのか途方に暮れた。みこの呼吸は浅い。今にも死んでしまいそうなほど弱っている。人間は脆い。何故創造神は人間をもっと丈夫に創らなかったのだと怒りが飛び火した。今更そんなことを言ってもどうしようもないのに。我の力ではみこの傷を癒すことができない。何が神だ。大事な存在一つ守れやしないというのに。
みこの身体はどんどん冷たくなっていく。さっきまで雨に濡れていたのもあるが、それ以上に死期が近づいてきているのだ。まだ我を置いて逝くな、と思わず抱き寄せると、みこの目がわずかに開いた。
「み…どり、さま…?」
「おい喋るな。我が何とかしてやるから」
我の言うことなど聞かず、弱弱しい力で衿を掴んできた。
「…好き」
「は…――――?」
一瞬雨音が消え、みこの言葉だけが我の心に響いた。呆然とする我を見てみこが笑う。
「言う、つもりなんて、なかったんだけどなぁ…」
我はみこに笑った方がマシだと言った。だが決して困ったような笑みを浮かべて欲しかったわけではない。太陽のように爽快で眩しい笑みを向けて欲しかっただけだ。
「約束、守ってくださいね」
「ああ分かった。分かったから目を開けてくれ。なぁ。寝ているだけなんだろ。我にその手が通じると思っているのか。おい、みこ」
いくら必死に呼びかけても、掠れた声を最期に、みこはもう喋らなかった。口元は美しい弧を描き、我に微笑んでいる。みこの命の灯が消えた。冷えていく身体を抱え、我は泣いた。長い長い生の中で、泣いたのは初めてのことだった。まだ出会って間もないというのに、みこは我にとってかけがえのない存在になっていた。みこが最期に告白したように、我もみこのことを好いていたようだ。我はいつも遅い。今日だって我がもっと早くみこを見つけていれば病院に運ぶなどして助けることが出来たかもしれないのに。そういえば我はみこの名前を呼んだことがあっただろうか。最初に「みこ様と呼んで」と言われたのが癪に障り、意地でも呼ばなかった気がする。心の中ではもう何百回と呼んでいたというのに。とてつもない後悔が我を襲い、苦しい。雷に打たれたみこはもっと痛かったと思うと涙が余計に止まらなくなった。
みこは余命がわずかしか残らぬ中、我に約束を守ってと願った。約束とは以前言っていた生まれ変わっての友達になってほしいというお願いのことだろう。簡単に口にするが、我はそんなことをしたことがない。そもそも覚えていたいと思う人間に出会ったことがなかったのだから。それでもみこの願いだ。彼女が望むのならば、それが例えどんなに困難なことでも叶えてみせる。そして今度こそ我が守り抜き、幸せにする。だから安心して待っていろ――みこ。
◇
数十年後のある晴れた日の午後。
「お兄さんだあれ?」
「我の名は翠。気軽に翠様と呼ぶといい」
幼い彼女は舌足らずなしゃべり方で「みどりしゃま!」と呼んでくれた。
「友達から始めよう。―――みこ」
我が笑いかけると、彼女はまた、太陽のような明るい笑みを浮かべた。
〈了〉