「聖女様のドレスですか?」
ラティアーナのドレスを仕立てたという仕立屋に、サディアスは足を運んだ。ここは昔からある仕立屋であるが、最近はデイリー商会に客を奪われつつあるともささやかれている。
それでも、昔からの仕立屋であるため、ここを信頼している客も多い。特に、以前から懇意にしている者はなおのこと。
デイリー商会も安くて質はいいのだが、年代によってはそのデザインを好まない者も多いという。
だから神殿も、デイリー商会ではなく、この仕立屋にラティアーナのドレスを頼んだのだ。
「聖女様が聖女様らしくありますように、私たちもせいいっぱい縫わせていただきました」
彼女は誇らしげに微笑んだ。
「布地も上等なものを選びました。レースもふんだんに使いまして、清楚な聖女様をイメージさせていただきました」
ラティアーナのドレスがどれだけ繊細で手の込んだものなのかを、彼女は一つ一つ丁寧に説明をする。
それを聞いただけでも、サディアスにはドレスの価値がなんとなくわかった。
キンバリーが嘆くのも無理はないような、そんなドレスなのだ。
いや、初めてあのドレスを身に着けて王城へとやって来たラティアーナは、お針子が言うように今までになく美しく、清楚で可憐であった。
「普段使いのものから、パーティー用のものまでと、神官長からは言われました」
彼女に悪気はない。彼女はただ、自分の仕事に誇りを持ち、聖女様のドレスを仕立て上げるという栄えある仕事に全力で取り組んだだけ。
「あのドレスは絶対に聖女様にお似合いになると思ったのです」
彼女の顔は、自信に満ちていた。
ラティアーナは、三日に一度、孤児院を訪れていた。孤児院は王都の外れにある。
マザーと呼ばれる女性が、身寄りのない子どもたちを預かって世話をしている。マザーとなる女性も、この孤児院の出身である者が多い。
ラティアーナが孤児院へ足を運ぶと、すぐに子どもたちに見つかってしまう。
『ラティアーナ様、ご本を読んでください』
新しい絵本を抱きかかえて、子どもたちはラティアーナに駆け寄った。子どもたちは、それぞれ見たことのない絵本を手にしている。
この本は、王城から送られてきたものだろう。ラティアーナが定期的に孤児院を訪れていることを知ったキンバリーが、いくつか本を贈ったのだ。
マザーはすぐにお礼状を書いたが、キンバリーは未来ある子どもたちのためにと、返事をよこしたらしい。
その話をラティアーナはマザーから聞いた。だが、キンバリーに確かめようとは思わなかった。
子どもたちはラティアーナのことが大好きである。
本を読んで――。
一緒にお菓子を作ろう――。
編み物を教えて――。
追いかけっこをしようよ――。
それぞれの子どもたちが、それぞれラティアーナを誘う。一人しかいないラティアーナはそれらを同時にこなすことなどできない。
『ちょっと待っていてね。順番よ』
彼女がそう言うと、子どもたちも素直に言うことをきく。
ラティアーナが本を読む。子どもたちは黙ってそれを聞いているが、本に書かれている字を覚えようとする。そうするとラティアーナは、石盤に真似をして字を書いてみましょうと言う。
子どもたちはラティアーナの言う通りに、石盤に字を書き始める。
そうやって字の練習をし始めた子どもたちに「また、後で見にくるわね」と言葉を残して、厨房へと移動する。
そこでは別の子どもたちがお菓子を作ろうとしているところだった。子どもたちはラティアーナを待っていたのだ。
『ラティアーナ様、お菓子を作りましょう』
厨房の作業台の上に並べられている小麦粉は、王城からの寄付金で購入したものだ。この小麦粉で、子どもたちはビスケットを作る。
ラティアーナはビスケットの作り方を子どもたちに教えると、マザーには火を使う時だけ注意するようにと言づけて、次の部屋へと移動する。
その部屋では、子どもたちが編み物や刺繍をしていた。
ここにいる子どもたちは、少し年上の子どもたちだ。自分のことはある程度自分ででき、マザーの手伝いもするような年代。そして、本当にあと一、二年でこの孤児院を出ていかなければならないような子どもたち。
だからこそ編み物や刺繍を学び、工場で針子として働けるようにと、今から練習をしている。そして作ったものはバザーで売り、孤児院のささやかな収入に当てている。
バザーには収入を得る以外の役目もあった。こうやって子どもたちが作ったものを売ることで、子どもたちの才能を他の人に示す場でもあるのだ。
過去にも、バザーで売っていた刺繍をすばらしいと褒めた商人が、その刺繍をした子を針子として雇っている。
『ラティアーナ様、ここがよくわかりません』
細かい刺繍では、編み図から読み取るのも難しい場合もある。そういったときは、ラティアーナが言葉で丁寧に教える。
『こちらの糸をここに通してみましょう。そう、そうよ。上手にできましたね』
ラティアーナの言葉で、子どもたちの顔もぱっと明るくなる。
『他にわからないところはないかしら?』
こうやって子どもたちは、刺繍や編み物の腕をあげていく。
そんな子どもたちの様子に安心したラティアーナは、建物から外に出た。
外では、まだ幼い子たちが元気に走り回っていた。
『ラティアーナ様、追いかけっこをしましょう』
五歳くらいの男の子に手をひかれて誘われたラティアーナは、すぐに鬼ごっこの輪に混ざる。
『きゃ~』
『ラティアーナさまが追いかけてくる~』
『にげろ~』
子どもたちの元気な声を聞きながら、ラティアーナも一緒に走り回る。
そうこうしていると、マザーが子どもたちを呼びに来た。
『おやつができましたよ』
『では、そろそろ中に戻りましょう』
ラティアーナの言葉に従う子どもたちは、一列に並んで中へと戻る。その一番後ろを歩くのはラティアーナだ。
『うわぁ、いいにおい』
食堂に入ると、ビスケットの甘いにおいが漂っている。
『ラティアーナ様に作り方を教えてもらったんだよ』
子どもたちはおやつの時間となる。
それを微笑みながら見送ったラティアーナは、マザーに挨拶をして神殿へと戻っていく。
彼女が孤児院へくるときは、遠くに神官の姿が見えた。それはラティアーナの護衛だったのだろう。
ラティアーナは孤児院で子どもたちに字を教え、おやつを共に作り、刺繍と編み物を行い、元気な子どもたちと外を走り回っていた。
それを終えると、子どもたちと一緒におやつを食べた。
些細な時間であるが、彼女はそれらを通して子どもたちに自立できる力を身に着けさせていたのだ。
本を読めば自然と文字を覚える。覚えた文字を書かせることで定着する。
おやつを作るのは、料理をするための基本事項を教えるため。刺繍や編み物は針子として働くために必要な技量であるし、外を走ることで体力をつける。
もちろん、子どもたち自身はそれに気づいていないし、もしかしたらマザーも気づいていないかったのかもしれない。
彼らが孤児院から出たときに、少しでも使える力を身に着けてほしいという思いがラティアーナにはあったのだ。
今ではデイリー商会のお針子として働いている少女は言う。
『ラティアーナ様のおかげで、こうやって仕事を得ることができました。針子としての仕事はもちろんですが、読み書きも少しはできますので』
ラティアーナが孤児院に足を運んだのは、たった二年であったのに、それでも子どもたちはめきめきと能力を身に着けていたのだ。
『ラティアーナ様が……聖女をおやめになったとお聞きしたのですが……』
彼女もどこか言いにくそうに尋ねてきた。それでもラティアーナがどうしているのか、気になっているのだろう。
ラティアーナが今、どこで何をしているのか、誰も知らない。神殿ですら把握していないのだから。
『そうなのですね……。ラティアーナ様には、感謝しても感謝しきれません』
彼女は微かに微笑んだ。
さらに、同じくデイリー商会で働いている少年も口にする。
『ラティアーナ様が孤児院に来て下さるようになったのは二年前ですが、それまでと僕たちの生活はがらりと変わりましたよ』
彼は体力があるため、主に商会で扱う商品の荷下ろしを行っている。
『それまでは、僕たちもマザーも。ひもじい思いをしていましたからね。ここだけの話ですが……』
そこで彼は少しだけ声を落とす。
『昔から寄付というものはあったらしいのです。だけど、その寄付は孤児院ではないところに流れていたみたいなんですよね。誰の寄付がどこにいっていたんでしょうね。不思議です』
そう言って首を傾げた彼は、本当に不思議そうに目を細くしていた。
『だけど、ラティアーナ様が孤児院に来てくださるようになってから、その寄付というものがきちんと届くようになったんです。最初の寄付と、届けられた寄付が同じところからのものかどうかはわからないですけど』
この子は賢い。
だがそこで、彼は商会の人間から呼ばれた。
『あ、すみません。もう、休憩時間が終わるので』
貴重な時間に付き合わせて悪かったと言うと、彼は『久しぶりにラティアーナ様の話ができて嬉しかったです』と、笑みを浮かべていた。
ラティアーナは孤児院の子どもたちから好かれていた。そして、同じくらい感謝されている。
ラティアーナは今、そんな子どもたちのことをどう思っているのだろう――。
◇◆◇◆◇◆◇◆
サディアスは、ラティアーナが定期的に訪れていた王都のはずれにある孤児院を訪れていた。
以前は教会であった建物を、改装したものである。といっても小さな教会であったため、礼拝堂のあった場所は子どもたちがいっせいに集まる場所として使われている。
「サディアス様、わざわざ足を運んでくださいましてありがとうございます。子どもたちも喜びます」
そう言って彼を迎えてくれたのは、孤児院で働くマザー長である。孤児院で働く女性はマザーと呼ばれているが、それを取りまとめているのがマザー長なのだ。
「ラティアーナ様がいなくなられて、子どもたちも寂しがっておりまして……」
その一言でラティアーナがどれだけこの孤児院で慕われていたのかがよくわかる。
案内された場所は執務室の一画にある、応接の場。部屋数も少ないため、マザーたちが仕事をしている部屋の一画が、こういった客人を迎えるような場所となっている。もともと、教会の集会室であった場所だ。
整理された机が六つほど並んでおり、そこでマザーたちは事務仕事を行う。それは帳簿だったり、食事のメニュー表だったり。食料の在庫の確認や、子どもたちの衣類が足りているか。建物内に修繕の必要なところはないか。次のバザーには何を出すか。
そうやって、金は出ていき、金を手に入れる。些細な金の流れではあるが、孤児院にとっては大事な収支である。
この部屋には今、マザー長とサディアスの二人しかいない。他のマザーたちは、子どもたちに付き添っているのだろう。
「やはり、ラティアーナ様はこちらにはもう、来られていないのですか?」
もしかしたら、ラティアーナは孤児院にいるかもしれないし、孤児院を訪れているかもしれない。そんな淡い期待を抱く。
「そうですね。聖女様をお辞めになったと聞いてからは、お姿を見ておりません」
だが、期待していた答えは得られなかった。やはり、孤児院でさえもラティアーナの行方は知らないようだ。
彼女の足取りのヒントになるようなものはないだろうか。
「ラティアーナ様は、こちらでどのようなことをされていたのですか?」
「特別、かわったことはされておりませんよ。子どもたちに本を読んであげたり、一緒に遊んだりと、本当に些細なことです」
マザー長の穏やかな顔を見れば、ラティアーナがどのように思われていたのかがよくわかる。
「それに、さまざまなものも寄付いただきまして」
ラティアーナは、子どもたちの健やかな成長を願って、食料や服なども寄付していたようだ。
だが、サディアスはふと考える。
ラティアーナが寄付した物の出どこはいったいどこだろう。彼女は神殿で暮らしていたから、資金があるとは思えない。それに、両親も亡くなったと聞いている。
彼女が孤児院へ寄付していた物は、どうやって手に入れた物か。
そんな疑問が沸いてきたが、それを口にすればマザー長を悩ませるだけだ。サディアスはこの考えを、心の奥底にしまい込んだ。
だが、そんなサディアスの心境に気づきもしないマザー長は言葉を続ける。
「ラティアーナ様がこちらに来られるようになってから、子どもたちの生活もよくなりましてね。一番は食べ物です。三食しっかり食べられるだけでなく、おやつも与えることができるようになりました。ですがこのおやつは、子どもたちが作っているのですよ」
マザー長はそれが誇らしいのだろう。口の脇と目尻にしわができるほど、破顔する。
「本当にラティアーナ様にはなんて御礼を言ったらいいか……」
その言葉と彼女の表情を見れば、ラティアーナがどのように思われていたかだなんて一目瞭然である。
「もしかして、これもですか?」
紅茶と一緒に出されたにビスケットにサディアスは視線を落とす。よく見ると、少しだけ形がいびつにも見える。
「そうです。これも子どもたちが作りました」
「いただきます」
子どもたちが作ったと聞いたのなら、食べないわけにはいかないだろう。
「やさしい味がしますね」
特別美味しくもなければ、不味くもない。いたって普通のビスケットである。このビスケットに価値があるとすれば、ラティアーナが教えた子どもたちが作ったという点。
「サディアス様。この後、子どもたちにも会っていかれますか? ラティアーナ様が来られなくなってから、子どもたちも寂しがっておりまして。新しい聖女様……アイニス様? は、こちらに顔すら出してくださらないので……」
マザー長は取り繕うかのように微笑んだ。
「申し訳ありません。アイニス様は、聖女様になられたばかり。また、未来の王太子妃としても学ぶことが多く、自分のことで手一杯なのです」
「そうなのですね……ただ、こちらの孤児院も、現状は以前ほどではないということをお伝えしておこうと思いまして……」
「それは、どういった意味ですか?」
マザー長の含みを持たせた言い方はわかりにくい。
だが、彼女の目が不自然に泳いでいる。言うべきか、言わぬべきか。迷っているようにも見えた。
「その……こういったことをサディアス様に申し上げていいものかどうか……」
「どうぞ、なんなりとおっしゃってください。内容によっては兄や父にも伝えますし、伝えるなと言うのであれば、僕の心の中に秘めておきますので」
その言葉でマザー長の肩から力が抜けた。
「お恥ずかしいことに、以前に寄付していただいた物が不足し始めておりまして……」
彼女はサディアスから目をそむける。
「それは、どういった意味でしょう?」
先ほどから彼女はこんな感じだ。言葉を濁して、言いたいことを察しろと言わんばかりの表現。
「できれば、もう少し寄付をいただきたいと思いまして……」
それでもマザー長は視線を合わせようとはしない。図々しい願いであると、自覚しているのだろう。
「ですが、兄が定期的に寄付をしているはずですが?」
そうですね、とマザー長はぽつんと呟く。
「寄付をいただいていることになっているのですが、実は……ちがうのです」
「違う? どういう意味でしょうか?」
サディアスはおもわず前のめりになった。
「私たちがいただいていたのは、ラティアーナ様が直接持ってきてくださった物のみで。王族の方から寄付されていると言われている物は、いっさいもらっていないのです。ですから、できれば、その……ラティアーナ様がいろいろと用立てしてくださっていた分だけでも、せめて……と思いまして……」
もしかして、彼女はキンバリーの寄付を受け取っていないと言っているのだろうか。
「はっきりと答えてください。王太子殿下からの寄付金は受け取っていないと、そういうことなのですね?」
「は、はい……。ですが、他の方からはそういった物があるのでしょう、と言われて。もしかして、これからいただけるのかもしれない、とか。王太子殿下の顔に泥を塗ってはならないとか。そう思いまして……。いかにもいただいたかのように答えておりました」
キンバリーの仕事を手伝っていたサディアスだからわかっている。彼は間違いなく、定期的に孤児院へ寄付金を送っている。それも、子どもたちやマザーたちが食べていくには十分な額を、だ。
「わかりました。兄に……王太子殿下に相談してみます」
その言葉で、マザー長とやっと視線が合った。
「あの。子どもたちの様子をみることはできますか?」
ラティアーナがいなくなった今、彼らがどのような生活を送っているのかが気になった。
「もちろんです。是非とも、子どもたちと会ってください。子どもたちも喜びますから」
やっとマザー長の顔に、明るさが戻った。
サディアスが孤児院内を歩くと、どこからか子どもたちの元気な声が聞こえてくる。
この時間の子どもたちは活動的だ。
まずは、子どもたちが集まっている場所へと足を向けた。
大きなテーブルがいくつか並んでいて、それぞれ子どもたちは好きなことをしている。
本を読んでいる子。字を書いている子。絵を描いている子。編み物をしている子――。
ここにいない子どもたちは、厨房にいるか、もしくは外を駆け回っているのだろう。
「今日は、サディアス様がいらっしゃいましたよ」
マザー長の言葉で、子どもたちの視線が一気に集まった。子どもたちの目はいつもキラキラと輝いているはずなのに、今日は少しだけ淀んでいる。
「サディアス様が、絵本を読んでくださるそうです」
それがここに来たときの通過儀礼のようなものだった。サディアスは絵本が並んでいる棚から、適当に一冊抜き取った。だが、それですら違和感を覚える。
「これ、よんで」
よたよたと男の子が寄ってきて、違う絵本を差し出した。サディアスは手にした絵本を棚に戻すと、男の子が渡してきた絵本を開く。
やはり、今までと何かが違う。その違う何かがわからないまま、サディアスは子どもたちの前で絵本を読みだした。
そうすると、様子を見ていた他の子どもたちも、ゆっくりとサディアスのほうに近づいてくる。
少しずつ子供たちの顔にも明るさが戻ってくる。
「……おしまい」
サディアスの最後の言葉で、ぱちぱちとまばらに拍手が起こった。
「サディアスさま」
別の男の子がおずおずと絵本をわたしてきた。
「このご本、直せますか?」
違和感の謎が解けた。ここにある絵本は使い古されているのだ。たくさん読めば読むほど、本も年季が入るのはわかる。それでも、新しい本は定期的に入ってくるはずで、彼らはよくそういった新しい本を読んでほしいと手にしていた。
その新しい本が見当たらない。
「直してくるよ」
蔵書の修繕は、素人には難しい。ここは王立図書館に務めている専門家に頼んだほうが間違いない。
サディアスは男の子から本を受け取った。中身をパラパラと確認すると、中のページがはずれていた。何度も繰り返し読んだのだろう。
「この本が好きなの?」
男の子は大きく頷いた。
「勇者が竜をやっつけるから、かっこいい」
もう一度サディアスは絵本の内容を確認する。彼が言う通り、竜が出てくる絵本だ。だが、竜は国を庇護しているため、尊い存在であると、昔から言われている。
それなのに、勇者に倒されるとは、その教えに反するような過激な内容である。竜を倒した勇者は、子どもたちが作ったとされる花冠をつけ、民から称えられている場面で終わっている。
「他にはどんな本が好き? 次にくるとき、いくつか新しいのを持ってこよう」
サディアスの言葉に子どもたちは次々と好きなお話を口にした。
「おひめさまが出てくる絵本」
「おいしい食べ物が出てくる絵本」
「動物がたくさんかつやくする絵本」
子どもたちの言葉に耳を傾けながら、サディアスはゆっくりと立ち上がった。
いつまでも一か所にとどまってはいけない。
「では、次は、たくさんの絵本を持ってくるよ」
次にサディアスは、石盤で字の練習をしている子どもたちの様子を見て回る。
「じょうずに書けているね」
教師がついているわけでもない。それでも彼らは手本を見て、丁寧に石筆で文字を書いていく。石盤いっぱいに文字を書くと、布で書いた文字を消し、次の文字を書く。
「サディアス様……」
字を消し終えた女の子が、ふとサディアスを見上げた。
「ラティアーナ様は、もう来てくださらないのですか?」
「ラティアーナ様は、聖女をやめてしまわれたから」
それ以上、どう答えたらいいかがわからなかった。来ないと言い切って、彼らの期待を奪うようなことはしたくない。だからといって、嘘もつきたくない。
「この字は、ここを少しはねたほうがいい」
無理矢理、話題を変えた。
とりあえず一通り子どもたちの様子をみておきたい。次は編み物をしている子どもたちへと足を向けた。
「きれいに編めているね」
サディアスが声をかけると、女の子はぽっと頬を赤らめた。
「あの、サディアス様」
女の子は頬を赤らめたまま、サディアスを見上げた。
「なに?」
「サディアス様は、編み物がわかりますか?」
「ごめん。僕は、編み物をしないから」
「そうですか。ちょっとわからないところがあったので、教えていただきたかったのです。ラティアーナ様が来てくださらないので……」
ここでもラティアーナである。子どもたちにとって、ラティアーナが教師役だったのだ。
「ラティアーナ様は、もう、来られないのですか?」
「ラティアーナ様は聖女をやめられたので。詳しいことは神殿に聞かないとわからないのです」
「そうなのですね」
彼女の表情は暗くなった。
なんとも言えない重い気持ちを抱えたまま、サディアスは他の場所へと移動する。厨房ではマザーと子どもたちが夕食の準備に取り掛かっていた。
保管されている食材をちらりと確認したが、マザー長が言っていた通り、その量が十分ではないように見える。むしろ、キンバリーが寄付をしているのだから、もう少しましな食材を用意できるのではないだろうか。
「状況は、わかりました……」
あまりにもの現状に、喉の奥がひりひりとした。以前、ラティアーナがまだ聖女であったときに訪れた孤児院は、こんな状況ではなかったはず。
マザー長は深く頭を下げた。
外からはにぎやかな子供たちの声が聞こえている。何をしているのかと思って、外に出てみると、力に自信があるような男の子たちが、薪割りをしていた。こういった力仕事は、人を雇っていたはずなのに。
ちらりと、マザー長に視線を向けると、彼女は目を逸らした。
「資金が、足りておりませんので……」
彼女の言葉で理解した。
他の人に頼めば報酬が発生する。その報酬を支払えないのだ。
キンバリーの寄付金は、どこに消えたのだろうか。
孤児院の視察を終え、サディアスは馬車へと乗り込んだ。王城へと向かう。
カラカラと車輪の回る音が聞こえてくるが、その音は頭の中を勝手に通過していく。深く沈思に耽る。
半年ほど前、まだラティアーナが聖女であった頃に訪れた孤児院と、今日の孤児院では状況が大きく異なっていた。
ラティアーナの存在は、孤児院にとっても大きく影響を与えていた。特に子どもたちへの影響は計り知れない。
ラティアーナを慕っていた子どもたちは、彼女からたくさんの教えを乞いでいた。そんな彼女の代わりになれるような人物は、ぱっと思い浮かばない。
本来であればアイニスがその役に望ましい。だが、彼女には無理だろう。ただでさえ、現状に手一杯なのだ。
ラティアーナはどこでも特別な存在なのだ。
それは、サディアスにとっても――。
それでもキンバリーの婚約者だからという事実が、その想いに枷をつけた。
それは今も変わりはない。
キンバリーがラティアーナを必要としているから、こうやって彼女の足跡をたどっているだけで。
ぎゅっと、胸がしめつけられた。
彼女がいなくなる前にこの気持ちをぶつけていたら、現状は変わっていたのだろうか。
ラティアーナは、自分の隣で微笑んでいたのだろうか。
「……さま、サディアス様」
侍従に呼ばれ、現実へと引き戻される。
どうやら、王城へと着いてしまったようだ。
「庭園を散歩してから、戻る」
サディアスの言葉に、侍従は頭を下げた。
日は落ち始め、作り出された影もだいぶ長い。
この庭園は、よくラティアーナと話をした場所だ。
風に乗るかのようにして歌声が聞こえてきたような気がした。
頭を振って、その幻聴を追い払った。
報告のためにキンバリーの執務室へ入ると、彼は笑顔で出迎えてくれた。
いつものソファ席に深く座る。自覚していなかったが、サディアスも疲れていたらしい。座った途端、全身が重くなったように感じた。
慣れた場所にきて、気が抜けたのだろう。
「それで、ラティアーナの居場所はわかったのか?」
侍従がお茶の用意をして姿を消すとすぐに、キンバリーはそう尋ねてきた。
「いえ。孤児院にもいませんでしたし、孤児院でも彼女の居場所を知らないようでした。むしろあれ以降、ラティアーナは孤児院に足を運んでいないようです」
だからマザーや子どもたちから、ラティアーナのことをたくさん聞かれたのだ。
あまりにも聞かれ過ぎて、頭が痛くなるほどに。
こんなときは、甘い物を食べるのがよい。目の前に用意されたチョコレートを一粒つまむ。口の中にはまろやかな甘さが広がり、頭痛をやわらげてくれるような気がした。
「……そうか。いろいろと悪かったな。ありがとう」
「いえ」
一度にチョコレートを食べ過ぎてしまったようだ。喉の奥が焼けつける感じがして、紅茶で流し込む。
「疲れただろう?」
キンバリーは声をかけつつ、やわらかな眼差しでサディアスの様子を見つめていた。以前よりも表情は穏やかになった。それでも、目の下には隈ができているし、頬もこけた。
「ですが、僕が好きで調べていますので」
「そうか……」
そう言って目を伏せる様子も憂いを含んでいる。
「アイニス様の様子はいかがですか?」
彼女は、なんとか三日に一度の聖女の務めに神殿まで足を運んでいる。行きたくない、気が重いと言いながらも、行っているだけ褒めるべき行為だろう。
「変わりはない。やるべきことはやろうとしている。そういった努力している点は、認めてもいいだろうと思っている」
「さようですか……」
近くにいればいるほど、情が沸いてくるものだ。キンバリーがアイニスに向けている気持ちは、愛なのだろうか。
「それよりも兄上。兄上にお聞きしたいことがあるのです」
サディアスは少しだけ姿勢をすっと正した。
「どうした? 何があった?」
サディアスの些細な仕草で、キンバリーは敏感に何かを感じ取ったようだ。怪訝そうに眉根を寄せた。
「兄上は、あの孤児院に定期的に寄付をしておりますよね? それは、ラティアーナ様が聖女をおやめになってからも変わりはないですよね?」
「ああ。孤児院の寄付は、王族の義務のようなものだ。ラティアーナはいっさい関係ない。私個人から、いくつか絵本を送ったことはあるが」
「なるほど……。ですが、マザー長は、兄上からの寄付金など、一切、受け取っていないと」
「なんだと? 孤児院も、ラティアーナがいなくなってからがめつくなったものだな」
サディアスは首を横に振る。
「孤児院が貧しいのは事実です。僕がこの目で確認してきました」
キンバリーは、唇の端をひくつかせた。
「どういうことだ?」
「きちんと帳簿を確認しなければ、確かなことは言えませんが。ただ、食糧は乏しいのです」
「ん? どういう意味だ?」
「ですから、寄付金を横取りしているとか、そういった様子も感じられず。あそこは、ただただ貧しかったのです」
「だが、私は……。寄付金は定期的に送っている、はずだが?」
それはサディアスも彼の仕事を手伝っているからわかっている。
キンバリーは孤児院への寄付金を予算化しており、それを定期的に送っている。
だが、孤児院ではそれを受け取っていない。
双方での主張が異なっているのだ。となれば、そこの間に何かがある。
「寄付金だって、兄上が直接孤児院へ手渡しているわけではないですよね」
「それは、そうだ。人に命じて、やってもらっている。金額は私が決めているが」
「その者は信用に値する人物ですか?」
「何が言いたい?」
「いえ、とても単純なことですよ。兄上は寄付をしている。だけど、孤児院は寄付を受け取っていない。兄上の帳簿は、僕も確認しているから兄上が嘘をついていないのはわかります。では孤児院は? あれは、嘘をつけるような状態ではなかった」
そこでサディアスは腕を組んだ。
「神殿へ行き、あの神官長と顔を合わせた時は『よほどいいものを食べているんだろうな』というのが第一印象です。ですが、マザー長からはそんな様子が感じ取れません。今日をやり過ごしたら、明日はどうしようか。そんな気持ちが漂ってくるような、そんな感じです」
「だったら、その寄付金はどこに消えたんだ?」
「だからです。その間で消えたと考えるのが妥当ですよね」
「……チャド・シェパード」
キンバリーは苦し気に一人の男の名を口にした。
「私が、孤児院への寄付金を任せている男は、チャド・シェパードだ。シェパード侯爵の嫡男だから、信用していた」
「孤児院へは、いろいろと確認するために、もう一度足を運ぶつもりです。次は、帳簿を見せてもらおうと思っています。兄上はそのチャド殿を……」
「ああ」
キンバリーは深く頷く。
「兄上。まずは、チャド殿に話を聞いてみてはいかがでしょうか。本当のことを言うかどうかはわかりませんが……」
「そうだな。まずは彼に話を聞いてみることにするよ」
そう言ったキンバリーは悄然とした面持ちであった。気持ちを落ち着かせるかのようにカップに伸ばす指の先が、微かに震えている。その一連の仕草を、サディアスは黙って見ていた。
音を立てて、カップが戻される。
「……だが、そうだったとしたら。チャドは私の寄付金をどうしたのだろうか? 彼が私的に何かに使った?」
「そう考えるのが無難ではあるのですが、シェパード侯爵は特にお金に困っていないのですよ」
それでも金はないよりはあったほうがいい。
「今回は……私の落ち度だな……」
「不正な金を作るのに、帳簿の改ざんなんてはよくわることですから。そんなに落ち込まないでください」
とは言ってみたものの、それを見抜けたなかったのだから、こちらの落ち度で間違いはない。
サディアスは唇を噛みしめる。
奪われた金は、誰が、どこで、何に使ったのか。もしくは、使っているのか。
少なくとも、孤児院の子どもたちのために使われていないことだけは確かである。せっかくラティアーナが大事に育てた子供たちの能力が、枯れてしまう。
「ラティアーナは今、どこにいるのだろうか……」
思い出したようなキンバリーの呟きが、胸にグサリと突き刺さった。それでもなんとか笑みを浮かべ、話題を変える。
「それで兄上。その孤児院の件なのですが。ラティアーナ様は子どもたちに食料や衣類などを寄付していたそうなのです。それに、子どもたちが作ったレース編みとか、そういったものをバザーで売って資金にしていたようなのですが……」
キンバリーがサディアスの言葉の先を奪った。
「お前の言いたいことはわかった。ラティアーナがいなくなった今、それらが期待できないということだろう? すぐに、食料と衣類は手配する。バザーの件は、協力してくれそうな夫人を探しておこう」
「ありがとうございます」
サディアスは礼を口にしたが、それでもキンバリーの顔は晴れないままだった。眉をひそめ、きつく唇を閉じている。
ラティアーナが姿を消してから、問題ばかりだ。
神殿に行きたがらない聖女。腐敗臭漂う竜。
資金が不足している孤児院。指導者を失った孤児院の子どもたち。
そして、消えた金。
すべて解決しなければ問題であるが、どこから解決すべきなのかわからない。一つ一つの問題は独立しているように見えるが、それでも微妙に何かに絡まっているようにも見える。
ラティアーナは今、どこにいるのだろう。そして、何をして、何を想っているのだろうか――。
茜色に染まりつつある空を見上げる。
遠くからはガランガランという鈴の音と牛のなき声が聞こえてきた。
「そろそろ、帰りましょうね」
「えぇ? ラッティ、もうちょっと遊ぼうよ」
立ち上がろうとする彼女のスカートを、幼い女の子がつかみ、つんつんと引っ張る。もう少し、ここに座っていてという意味である。
「でも、これ以上遅くなったらおうちの人も心配するでしょう?」
むぅと女の子が唇を尖らせたので、彼女はその子の頭に、今作った花冠をぽふっとのせた。
「似合うわ、お姫様」
お姫様と言われ、幼子も気分がよくなったのだろう。笑みを浮かべ、すっと立ち上がる。
「ラッティ。明日も遊んでくれる?」
「えぇ。明日は天気が悪いみたいだから、おうちの中でご本を読みましょう。でも明日は、ミシェルとエミリーも一緒なの」
「そんなぁ。ラッティを独り占めできない」
女の子はまたむむっと唇を尖らせ、手をつないできた。
「……ラッティ、……リビー」
遠くからそんな二人を呼ぶ声が聞こえてくる。大きく手を振り、傾く太陽を背にしてこちらに向かって走ってきている。
「あ、カメロンだ」
リビーと呼ばれた女の子も、つないでいないほうの手を大きく振った。
カメロンは二人の前に立つと、両手を太ももについてはぁはぁと息を整える。
「カメロン、疲れてる」
リビーがきゃきゃっと笑う。
「もう。どこから走ってきたの? こんなに汗をかいて」
ラッティはエプロンのポケットから手巾を取り出して、彼の額に浮かんでいる汗を拭く。明るい茶色の前髪が、ぺたっと肌に張りついていた。
「家から走ってきたよ。たまには運動をしないとね」
そう言ったカメロンは、リビーのもう片方の手を握った。
「リビー。今日は素敵な冠をつけているね。お姫様みたいだよ」
「ラッティに作ってもらった」
「そうか。よかったね。リビーのお父さんも仕事を終えて、家に帰ったから。このままおうちまで送っていこう」
ラッティとカメロンに挟まれたリビーは、嬉しそうに顔を輝かせた。
「ねぇねぇ、ラッティの赤ちゃんはいつ産まれるの?」
リビーが尋ねた通り、ラッティの腹部はほんのりと膨れている。
「ラッティの赤ちゃんが産まれたら、リビーはお姉さんになる?」
「そうね。赤ちゃんと遊んであげてね」
「ラッティの赤ちゃん、早く産まれないかなぁ」
そんなリビーの声を聞きながら、ラッティとカメロンは幸せそうに顔を見合わせた。
ガランゴロンと鈴を鳴らして牛を連れて歩く牛飼いとすれ違う。牛たちも牛舎へと戻る時間だ。
牛飼いに挨拶をして、幾言か言葉を交わす。やはり、明日は雨になりそうだと牛飼いも言った。
ラッティはリビーと一緒に歌を口ずさむ。それはこの地方に昔から伝わる子守歌で、空が茜色になったらおうちに帰りましょうという歌詞。そして、夜は静かに星空を眺め、夢の世界で会いましょう。と続く。
リビーを彼女の家まで送り届けた二人は、手を繋いで歩き出す。
「体調は、大丈夫なのか?」
夕焼けのような緋色の瞳が、ラッティを見下ろした。彼女は笑みを浮かべ、「大丈夫よ」と答える。
「君が戻ってきてくれてよかった」
「えぇ……。私も、戻ってこられるとは思っていなかった」
ラッティは、五年ほど前この村から出て行った。それからずっと、二人は会っていなかったし、手紙のやり取りすらしていなかった。
お互いに、そういう約束をしたからだ。
ラッティに家族はいない。親代わりのカメロンの両親からは、定期的に衣類や日持ちのする食料などの荷物と、近況を知らせる手紙が届くだけだった。
「明日は、雨だから。お屋敷で子どもたちの世話をすればいいのよね?」
「ああ、頼む。ラッティが子どもたちをみてくれるから、サムもアニーも助かってると言ってた」
「子どもは好きなの。とても素直だから」
「それは……俺が素直ではないと言っているみたいだな」
「だって、あなたは子どもではないでしょう?」
ラッティが見上げて微笑み、カメロンも微笑み返す。
繋がれた手からは、互いのぬくもりが伝わってくる。
カメロンとラッティは幼馴染みで、歩けるようになる前から、互いの家を行き来していたような仲だ。というのも、両親の仲が良かったからである。
特に、ラッティの母親とカメロンの母親は、妊娠と出産の時期が近かったことから、互いに不安や愚痴をこぼし合っていた。
先にカメロンが産まれ、それから三か月後にラッティが産まれた。けれども、ラッティの母親は産後の肥立ちが悪く、ラッティを産んでから一か月後に亡くなった。
カメロンの母親は、ラッティの母親の分までラッティの世話をしてくれた。カメロンの家は裕福だったから、ラッティの父親もそれに甘えていた。
ときに喧嘩もしながら、ラッティとカメロンの二人はすくすくと育つ。
兄と妹のように育った二人は、成長すると同時に、お互いが家族の存在とは違うものであると気づいた。
むしろ血の繋がった兄妹でもない。
好意を寄せあい、互いが互いを想う気持ちを自覚するのも、時間の問題であった。
ラッティとカメロンがそういった関係になるのをカメロンの両親は喜んだし、ラッティの父親もほのかに笑顔を見せた。
カメロンの母親はラッティにとっても母親のような存在であり、カメロンの母親からみてもラッティは娘のような存在だった。
だから、そのうち二人は結婚をして、幸せな家族を築くものだと、村の人たちの誰もがそう思っていた。
――あの日、神殿から神官たちがやってくるまでは。
その日は朝から、どんよりとした鼠色の雲が、空を覆っていた。
夕方になると、王都からわざわざ神官たちが、こんな辺鄙な村にまでやって来た。
神官といえば、この国を庇護する竜の代理人とも呼ばれるような人たちである。そんな人たちが、なぜこの村にやってきたのか、さっぱりわからなかった。
だがその日の夕食の時間、ラッティは父親の様子がおかしいことに気づいた。
食事をとる手が止まっている。
『お父さん、どうしたの?』
ラッティが尋ねると『あいつらは、あいつらは……』と消え入るような声で呟いている。
あいつらが神官たちを指すのだろうと、ラッティは思っていたが、それ以上、父親へ問い質そうとはしなかった。
そんな父親の様子が心配ではあったが、その日はラッティもいつもと同じようにやり過ごす。
次の日の朝は、早くからカメロンが家にやってきた。
『おはよう、カメロン。今日は早いのね』
『おはよう、ラッティ。おじさんはいる?』
『ええ。いるわよ。だけど、ちょっと寝ぼけてるみたい』
ラッティの言葉通り、ソファに座っていた父親はぼんやりとしていた。
『カメロンは、朝ご飯は食べたの?』
『いや。まだだ……。あいつらがいて、落ち着かなくて……』
カメロンの言うあいつらも、神官たちのこと。
『だったら、食べていく?』
『いいのか?』
カメロンは破顔する。それでもすぐに顔を引き締めた。
『あ、いや。今日は、おじさんに話があってきたんだ……』
『じゃ、それが終わってから。私はその間にご飯の用意をしておくね。お父さんもまだだから』
ラッティはキッチンへと消えていく。
その間、カメロンはラッティの父親と話を始める。
キッチンにいるラッティには、彼らの会話がぼそぼそと聞こえていた。ただ、ときどき父親が大声をあげるのが気になっていた。
ラッティが朝食をダイニングテーブルの上に並べ終え、二人を呼びに行く。
『お父さん……?』
父親は泣いていた。この状況を見たら、父親を泣かせたのはカメロンだろう。
『カメロン。何があったの?』
カメロンも泣きそうな顔をしていた。
『どうして、ラッティなんだ……』
『……え?』
父親の呟きにラッティも聞き返す。
『おじさん、ラッティには俺から話します』
そう言ったカメロンは、ラッティを部屋から連れ出した。そして、神官たちがやってきた理由をぽつぽつと話し始める。
黙って聞いていたラッティであるが、彼女は淡々とそれを受け入れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
テハーラの村は、王都から陸路を使うよりも航路を使ったほうが早い。それは、レオンクル王国が、海に面した国であり、弓なりのような形をしているためである。そして王都がレオンクル王国の北側にあって、テハーラの村が南側にあるからだ。
王都からは三日ほど船に揺られ、降りた港から二時間ほど馬車に乗って着いた先にテハーラの村がある。
村の入り口で馬車を降りると、モォー、モォーと牛の鳴き声に出迎えられた。
「サディアス様、まずは村長の屋敷へと向かいましょう」
連れて来た侍従は二人。目立つ行動はしたくなかった。船の中でも、サディアスをサディアスであると気づいた者はいないだろう。髪と顔を隠すかのようにフードを深くかぶっていた。
「そうだな」
侍従の言葉に従い、サディアスものんびりと歩き出す。手にしている荷物も最小限である。
「本当に田舎……長閑なところですね」
侍従の言葉を聞きながら、サディアスは大きく首を振った。右手のほうには地平線が見える。その手前には、牛が放牧されているのか、白と黒の塊が数えきれないほどいる。先ほどから聞こえる声の主だろう。
「サディアス様。村長の屋敷は、あそこです」
一本道の先の小高い丘にある屋敷。その手前には、似たような家が道の両脇に建ち並ぶ。石灰岩で造られた壁に、茶色の三角屋根。田舎にある、心があたたまるような素朴な家。王都にある建物とは雰囲気もがらっと異なる。
その先にある屋敷は、他の建物よりも一際大きくでっぷりとかまえていて、村全体を見下ろすかのように建っていた。
この時間帯は、外にいる人が多い。畑仕事だったり、家畜の世話をしたり。先ほどから、やたらと人の姿が目に入った。だが、サディアスの歩いている道からは遠い場所にいるためか、その人だって指一本分の大きさにしか見えない。
テハーラの村は畜産業が盛んな村である。そんな動物たちの鳴き声が、よりいっそうこの村に穏やかな印象を与えていた。
馬車一台がやっと通れるような道を進み、村長の屋敷に着いた。
侍従が叩き金を叩く。
コツコツ、コツコツ――。
しばらくして扉が開くと、エプロン姿の女性が姿を現した。不審そうにこちらを見ている。
侍従が幾言か声をかけると「旦那様は不在ですので、若旦那様に聞いてまいります」とのことだった。
侍従はその態度に不機嫌そうな表情を見せたが、ただの使用人に判断ができないのは当たり前だろう。それに、サディアスだって身分を隠して訪れている。それを考えれば、この使用人の態度は妥当なのだ。
不機嫌そうな侍従をなだめるため、サディアスが声をかけると、彼はばつが悪そうに顔をしかめた。この状況をすぐに理解したようだ。
ふたたび扉が開くと「若旦那様がお会いになるそうです」とのことで、中へと招き入れられた。
テハーラ村がレオンクル王国の一部になったのも、ここ数十年のことだと聞いている。だから国直轄の村であり、その村をまとめている村の代表を村長と呼んでいる。
村が国の一部となったとき、当時の国王は村長に男爵位を授けた。
それが今の村長の前の村長であると記憶している。
男爵位は一代限りのものであるため、村長が村長になるときに、国王はその村長に男爵位を授けている。
村長の屋敷といっても、しょせんは田舎の屋敷であり、内装もどこか野暮ったく感じる。それでも掃除は行き届いていた。
「どうぞ、こちらの部屋です」
ホールを抜けて応接間へと案内された。
「すぐに若旦那様が来ますので、こちらでお待ちください」
サディアスはソファにゆっくりと腰をおろした。侍従たちは、彼の後ろに並んで立つ。
この光景で、案内した使用人も関係性を把握したのだろう。
手早くワゴンを運んできて、サディアスの前にだけお茶と菓子を置く。
「お待たせして申し訳ありません。カメロン・キフトです」
そう言ったカメロンは使用人に目配せをした。彼女は一礼して、黙って部屋を出ていく。
「まさか、サディアス殿下自ら、こちらに来てくださるとは思ってもおりませんでした」
サディアスが名乗る前から、彼はサディアスがサディアスであると見抜いたようだ。
「そんな不審な目でみないでください。金色の髪と葡萄色の瞳。レオンクル王国の王太子殿下と同じですよね。それに、侍従を連れてまでこんな辺鄙な田舎にくるとなれば、その王太子殿下の弟であるサディアス殿下である可能性が高いと、そう考えただけです」
「そうですか。では、何も隠す必要はなさそうですね。あらためて自己紹介をさせてください。僕はサディアス・レオンクルです」
カメロンは微かに口元をゆるめている。だが、その目は笑っていない。サディアスを警戒しているのだろう。
「それで、サディアス殿下はなぜこちらに? わざわざそのように身分を隠してまで。まぁ、こちらとしては、そうやって隠れるかのように足を運んでくださって、助かりますけどね」
言葉の節節に棘を感じる。
「えぇ、今回の訪問は非公式ですから」
「なるほど。いや、以前。神殿から神官たちがやってきましてね。そのときは、村全体が大変な騒ぎになったものですから」
そこでカメロンは苦笑した。神官たちの訪問を快く思っていなかったのが、その様子から感じ取れた。
サディアスが目の前のカップに手を伸ばす。
「田舎のお茶ですから、サディアス殿下のお口に合うかどうかはわかりませんが」
「いただきます」
使っている白磁のカップも悪くない。縁には金の刺繍が施され、ゆるやかに湾曲した取っ手は、手に馴染む。
一口飲んで、カップをテーブルの上に戻す。
「なかなか、癖になりそうな味ですね」
「牛糞で作ったお茶です」
カメロンは笑いつつそう言った
後ろに控えていた侍従が身体を強張らせたが、サディアスはそれを制した。
「あぁ。言葉足らずで申し訳ありません。牛糞を堆肥にしたという意味です。牛糞を堆肥にして、茶葉を育てます。まぁ、茶葉はこの村では作っていないのですが、牛糞の堆肥をおろしているので。このお茶は隣の町の特産品です」
「なるほど……」
だが、アイニスにすすめられた隣国のアストロ国のお茶よりは好みかもしれない。
もう一度カップに手を伸ばして、一口飲む。
その様子をカメロンにじっくりと見られた。サディアスの訪問を快く思っていない。それだけはひしひしと感じた。
サディアスがカップを戻すのを見届けてから、カメロンは口を開く。
「話が逸れてしまいました。サディアス様はどういったご用件でこの村に?」
カメロンがサディアスを試しているようにも見える。
「聖女であったラティアーナ様は、テハーラの村の出身であるとお聞きしたのです。ラティアーナ様にお会いできないでしょうか?」
カメロンの右目がひくっと動いた。
「ラティアーナという者は、この村にはおりません」
「ですが、ラティアーナ様はこちらの村の方だと。今の聖女のアイニス様が、ラティアーナ様本人から聞いたようです。それに、先ほどもあなたは、数年前に神官がこの村を訪れたと、そうおっしゃいましたよね」
「なるほど。ですが、今の聖女はアイニス様とおっしゃるのでしょう? なぜ前の聖女を探しているのです?」
そう尋ねたカメロンの眼は、笑っていない。
「ラティアーナ様にお伝えしたいことがあるのです」
サディアスは、少しだけ視線を下げた。ラティアーナに伝えたいことはたくさんある。キンバリーのこと、アイニスのこと、神殿のこと、竜のこと。そして、孤児院のこと。
「それは、どういった?」
カメロンの眼が鋭くなった。
「ラティアーナ様に、兄――キンバリー殿下から伝言がございます。また、ラティアーナ様が足を運んでいた孤児院の子たちから、手紙を預かってきました」
カメロンの表情がふと緩む。
「ですが、この村にラティアーナという者はおりません。残念ですが、その手紙を渡せる相手がいないのです」
先ほどよりも穏やかな口調だ。サディアスに対して、少しは心を開いてくれたのだろうか。
「そうですか……ラティアーナ様はこちらの出身と聞いておりまして。てっきり、聖女を辞められたあとはこちらに戻ってくるものと思っていたのですが……」
行き場を失った手紙が、テーブルの上にぽつんと置かれている。子どもたちの拙い字で、ラティアーナの名前が封筒にしっかりと書かれていた。
「もし、ラティアーナ様がこちらにお戻りになられて、お会いするようなことがあれば、こちらを渡していただいてもよろしいでしょうか?」
「サディアス殿下もなかなか強情な方ですね。残念ながら、こちらにはラティアーナという者に心当たりがないのです。ですから、そちらは殿下のほうから、その方にきちんとお渡しすべきでは?」
「そう、ですか。わかりました。僕がラティアーナ様に出会ったら、お渡しします」
サディアスは手紙をしまった。
てっきりラティアーナはこの村に戻ってきていると思ったのに、いないと言う。
神殿にもいない、孤児院にもいない、王都にはいない。だから彼女の生まれ育った故郷へとやってきた。
それでもここにもいない。
彼女はどこに行ってしまったのか。
「ところで、サディアス殿下。今日、御泊りの場所は決まっておりますか?」
カメロンに指摘され、宿泊については何も考えていなかったことに気づく。ラティアーナに会いたい一心で、ここであれば彼女に会えるだろうと、そんな逸る気持ちでこの地を訪れたからだ。
「……いえ。それは、これから」
「では、ここにお泊りください。すぐに部屋を用意させます。王都からですと、航路で来られたのですか」
「あ、はい。そうですね」
「長旅でお疲れでしょう?」
カメロンは呼び鈴を鳴らして使用人に部屋の用意をするようにと言いつける。
彼がなぜ、これほどまで態度を軟化させたのかがわからない。
しばらくカメロンとお茶を飲みながら、話をする。主にテハーラ村の現状である。
最近は、畜産業が軌道にのっているため、貧しい思いをする者もいない。むしろ、忙しすぎて人手が足りないくらいだと。
「このような小さな田舎の村で、こうやって穏やかに暮らせるのがなによりです」
カメロンの言葉がサディアスの心にズキンと突き刺さった。
きっとそういった生活を壊すようなことをしてはならないのだ。
数年前に神官がこの村に来たことをカメロンはよく思っていない。それは言葉の節々から感じ取れた。
だから、カメロンがサディアスを警戒していたのは、今までの生活をがらっと変えてしまうような、何かが起こると思っていたからかもしれない。
「サディアス殿下。部屋の準備が整ったようです。案内します」
応接間を出て、ホールからサルーンへと入る。すると、どこから歌が聞こえてきた。
「……?!」
サディアスが反応すると、カメロンは「中庭に子どもたちがいるので」と答える。
「お子さんが、いらっしゃるのですか?」
「いえ。村の子を預かっているのです。子をみながら仕事をするというのは、なかなか大変でしてね。特に子どもは目を離すと何をしでかすかわからない。ですから、昼間に両親が働いている間、その子をこちらで預かっているのです」
「そうなのですね。素晴らしい取り組みですね。ところで、この歌……」
サディアスが気になったのは、先ほどから聞こえている歌である。
「あぁ。この村に昔から伝わる子守歌のようなものですよ。幼い頃から聞かせられているから、何気に歌ってしまうんですよね」
「あの。中庭を案内してもらうことはできますか?」
「ええ、かまいませんよ。先に、部屋に荷物を置いてからのほうがいいでしょう」
いくら少ない荷物であっても、それを手にしたまま屋敷をうろうろとするのは、見栄えもよくないだろう。
カメロンに案内された部屋は、いたって普通の貴賓室であった。寝室と応接間と控えの間がある。これなら、サディアスについてきた侍従も、ゆっくりと休めるはずだ。
サディアスは侍従に荷物の整理を頼むと、カメロンと部屋を出ていく。これには侍従もついていくと口にしたが、それはサディアスが宥めた。
この場所でサディアスの命を狙う者はいない。
そう確信したためだ。
「サディアス殿下、こちらが中庭です」
外へ出た瞬間、さわわわと草木が揺れた。今日は穏やかな風が吹いている。
風がやみ、中庭で遊んでいる子どもに目を向ける。
「……あっ」
サディアスは息を呑んだ。
「カメロンもいっしょに遊ぼう」
こちらに気づいた子どもが、元気に手を振っている。
「カメロン殿。彼女は……」
サディアスが目を奪われたのは、子どもと一緒に遊んでいる一人の女性。
晴れた空を思わせるその髪の色。宝石を思わせる翡翠色の瞳。そんな彼女が、黙ってこちらを見つめている。
「あぁ。あとで紹介しようと思っていたのですが。私の妻です」
カメロンが女性と子どもに向かって歩き出したので、サディアスもそれに従った。
それでも今、心臓を鷲掴みにされたように、ぎゅっと胸が苦しかった。
カメロンが妻と言った女性。それは間違いなくラティアーナである。
だが、サディアスの知っている彼女とは少し違う。腰に届くほど長かった髪は、肩の長さで切り揃えられ、顔もいきいきと輝いている。
身体つきもどこかふっくらとしているし、なによりもサディアスが目を奪われたのは彼女の腹部である。少しだけせり出している腹部。そこで新しい命を育んでいるのだろうと思わせるような。
「ねえ、カメロン。この人、だれ?」
子どもの声で我に返る。
「王都から、牛さんを見に来た人だよ。ここの牛さんは美味しいからね」
「牛さんを見に来た人?」
「あ、うん。はじめまして。僕はサディアス」
サディアスは身をかがめて、子どもと視線の高さを合わせた。
「サディアスは王子様みたいにきれいな人ね。わたし、リビー」
「よろしく、リビー」
サディアスが手を出すと、リビーはにっこりと笑ってその手を握り返した。
「リビー。サディアスはラッティにお話があるそうなんだ。だから、その間、俺と一緒に本を読んでいよう」
「え~。カメロン、ご本の読み方、へたくそなんだもん」
「あら。だったら、リビーがカメロンに本の読み方を教えてあげたらどうかしら? リビーはとっても上手に読むものね」
久しぶりに聞いた彼女の声。目の前の女性は、間違いなくラティアーナだ。
「しょうがないな、カメロン。リビーが教えてあげる」
リビーはサディアスの手をぱっと離し、カメロンの手を握った。
「ラッティもサディアスも、牛さんのお話が終わったら、リビーと遊んでね」
手を横に振ったリビーに、サディアスも手を振り返した。
リビーの姿が見えなくなると、一気に静かになったような気がした。
風に吹かれて揺れる草木のこすれ合う音が、異様に大きく聞こえる。
「ラティアーナ様。お久しぶりです」
彼女と向き直り、サディアスは震えそうになる声をなんとか喉の奥から絞り出した。
「お久しぶりです、サディアス様。ですが、私はもう聖女ラティアーナではありません。ですから、どうかその名で呼ばないでください。それは、私が聖女となるときに、神殿側が勝手につけた名前なのです」
ラティアーナの名はラティアーナではなかった。
また、知らなかった事実に身体が震える。
「本当の名をお聞きしてもよろしいですか?」
彼女はその言葉に静かに頷いた。
中庭にある長椅子に、二人並んで腰をおろす。二人の間は、子どもが一人座れるくらいの微妙な距離が空いていた。
「サディアス様は、どうしてこちらに?」
彼女は愛おしそうに腹部を撫でてから、足元の花を摘む。
「はい。貴女に会いにきました。兄からの言葉を伝えるために。それからこれを……」
カメロンには受け取ってもらえなかった子どもたちからの手紙を、サディアスは差し出した。
「まぁ。あの子たちから? ありがとうございます、サディアス様。これを、あの人……カメロンに見せました?」
「はい。そうしたら、自分で渡せと言われました」
「ふふ。あの人らしい」
たったそれだけなのに、彼女がカメロンをどのように想っているのかがひしひしと伝わってきた。
「あの……ラティア……ラッティとカメロン殿は、その……」
「えぇ。私がこちらに戻ってきてしばらくしてから、結婚しました」
「そうですか……」
わかっていたはずなのに、彼女から言葉を聞かないかぎりは信じないと思っていた。それでもこうやって言葉にされてしまっては、信じなければならないだろう。
厳しい現実をつきつけられた気分である。
「キンバリー様は、お元気でいらっしゃいますか? アイニス様も……」
そうやって二人を気にかけてもらえると、なぜか安心できる。忘れられてはいないのだな、と。
「兄は、元気ですが……。ラティアーナ様がいなくなられたことで、執務のほうが滞っておりました」
「そうですか。キンバリー様は、他人に頼ることをされない方なので。あの方に必要なのは、信頼できる部下でしょう」
その通りである。キンバリーはなんでも一人でやる傾向が強い。そのため、彼の仕事がたまっていき、溢れてしまう。
「わかりました、兄に伝えておきます」
サディアスの言葉に、彼女は以前と変わらぬ微笑みを浮かべる。
「それから、アイニス様は……。なんとか聖女の務めを果たしている感じです」
「大変でしょう? 聖女の務めは。アイニス様も、そうおっしゃっておりませんでしたか?」
「えぇと、まぁ。そうですね。神殿で竜のうろこを磨くのが大変だと」
「えぇ。あれはとても大変な作業です。昔から神殿で暮らしていればそういうものだとわかっているのですが、いきなりあれをやれと言われたら、誰だって嫌がるでしょうね。私でさえも、今になってそう思います。あれをやり遂げられるのは、神殿によって洗脳された人間か、強い意志を持つ者か……」
ふと彼女の顔が陰る。
「ですが、竜のうろこは私たちの穢れを集める役目があるため、きちんと磨かなければ、竜は穢れまみれになってしまうのです」
手が寂しいのか、彼女はいつの間にか前と同じように花冠を作っていた。足元には花冠が作れるような花が咲いているし、彼女が座った脇にはたくさんの花が摘んであった。
「竜が穢れにまみれると、どうなるのですか?」
神殿は竜について詳しく教えてくれない。聖女の役目についても、もっと深いところまで知りたいのに、どうしても越えられない壁があるようで、それ以上の情報を聞き出すのははばかれるような、そんな感じがしていた。
だが、彼女であれば、それをすんなりと教えてくれるだろうという根拠のない自信がある。
「竜が穢れにまみれると、厄災が訪れると言われています。実際、二十年ほど前には、厄災が訪れたと言われておりますよね。大寒波が襲い、寒さと飢えで多くの方がその命を失いました」
「あぁ、そうですね。ネーニャの大寒波と呼ばれていますね」
ネーニャの大寒波――。
レオンクル王国のネーニャ地方が大寒波によって大打撃を受けた。この地方に住んでいた者の半分以上が、飢えと寒さで亡くなった。国からも食料の援助を出したが、それも雀の涙程度。王都も食料が不足し、他の地方に回す余裕がなかったのだ。寒波に覆われたのは、王都も同じだった。
それを救ったのが竜と済世の聖女である。
聖女が竜に祈りを捧げ、竜が空を飛び立ち、雪雲を吹き飛ばした。氷ついていた空間が、あたたかさに溢れ始める。
それが竜と済世の聖女による奇跡の瞬間でもあった。
聖女は一人ではその力のすべてを発揮できない。竜と共にある聖女は、竜が国を救うように導かなければならない。それが聖女の役目であり、存在する意義でもある。
済世の聖女は、レオンクル王国を救った後、その姿を消した。
「聖女様がいらっしゃらなければ、今頃、レオンクル王国も存在していなかったでしょう」
サディアスの言葉に、彼女は少しだけ苦しそうに眉をひそめた。彼女の手元も止まっている。
「あの……兄から、ラティアーナ様……ラッティに伝言がありまして」
「なんでしょう?」
「申し訳なかったと、そう言っておりました」
「それは、謝罪ですか?」
「……はい」
「何に対する?」
彼女は顔をあげて、真っすぐにサディアスを見つめる。翡翠色の瞳は、キンバリーが婚約破棄を突きつけたときと同じように力強く揺れている。
しかしそう問われると、サディアスも即答できない。キンバリーはラティアーナに謝罪したいと言っていたが、それが何に対する謝罪なのか。目下のところ、婚約破棄に対する謝罪なのだろう。
「パーティーのときの、婚約破棄の件かと……」
「まぁ。キンバリー様はそれを気にしていらっしゃったのですね。あれは、私にとっては僥倖でした。キンバリー様とアイニス様に、感謝を申し上げます」
「ラティアーナ様は……兄を好いていたわけではなかったのですね」
「えぇ。でしたら、こちらに戻ってきてすぐに結婚などしないでしょう? 私はずっと、カメロンのことを想っていました。聖女になったから、キンバリー様と婚約しましたが、できることならその婚約も、そして聖女という役目も投げ出したかった」
サディアスから視線を逸らした彼女は、黙々と花冠を作り続ける。
そんな彼女の姿を見て、胸が痛んだ。
ラティアーナはキンバリーを受け入れていると思っていた。
ラティアーナは聖女という役目に誇りを持っていると思っていた。
けれども、彼女の本音は異なっていた。
「周囲から、勝手に聖女ラティアーナという理想を作り上げられ、私はただそのように振舞っていただけです」
その言葉に、息を呑む。
その通りかもしれない。聖女ラティアーナは、済世の聖女であり、レオンクル王国を平和に導く存在。立ち居振る舞いもおしとやかで、奉仕作業にも精を出し、誰にも平等に接する。
国を庇護する竜との意思疎通もでき、竜を世話する様子すら神々しいと言われていた。
王太子キンバリーと婚約したことで、彼女の地位は確固たるものとなり、それすら当然とも言われるような雰囲気ができあがっていたのだ。
それでもキンバリーは、聖女ラティアーナに救われていた部分はあった。彼女が執務を手伝ってくれた、公式の催し物では隣に寄り添ってくれた。
少なくともキンバリーは、聖女ラティアーナに惹かれていた。あのすれ違いが起こるまでは。
「兄は……ラティアーナ様のお身体を心配しておりました。神殿の食事は、孤児院のものよりも貧しいものであった」
「そうですね。キンバリー様には、何度も聞かれましたから。あのときの私は、生きるのをあきらめたような、そんな感じでした。食事をとらなければ死ねるのではないかと、そう思ったこともあります」
彼女がそこまで思いつめていたことを、サディアスは知らない。
「それでも、なんとか思いとどまることができたのは、あの人との約束があったから……。キンバリー様の婚約者を演じ終えたら、必ずここへ戻ってこようと、そう思っていたのです」
キンバリーとの婚約さえ、利用しようとしていたのだろうか。だが、婚約の先の結婚はどう考えていたのだろう。
「婚約とは結婚の約束ですから、いかようにもなるのですよ。現に、キンバリー様と私の婚約は解消されたではありませんか」
まるでサディアスの心の中を読んだような言葉である。
彼女は膝の上の手紙に視線を落とした。
「孤児院の子どもたちは、お元気ですか? 将来、あの子たちが自立てきるようにと、いろいろと教えてはいたのですが。役に立っているでしょうか」
「はい。子どもたちも、ラティアーナ様に感謝しています。商会でお針子として働いている子もいます。菓子店に務めている子もいます」
「そうですか……安心しました」
「……ラティアーナ様は、兄が孤児院へ寄付をしていたことをご存知ですか?」
「ええ。ですが。あの方の寄付金は、孤児院とは別のところに流れていたのですよ」
その言葉に、胸がズキンと痛む。それは、つい数か月前に発覚した事実。孤児院へと送っていた寄付金は、実際には孤児院に届けられていなかった。
そしてその事実を、彼女は知っていたのだ。
「キンバリー様の寄付金は、神殿に流れていたのです」
いつの間にか彼女の手は動いていた。一つの花冠が出来上がる。
「キンバリー様はさらに神殿に寄付金を与える。神殿としては、思いもよらなかったでしょうね。ですから、聖女ラティアーナのドレスを新調したわけです。キンバリー様の婚約者としてふさわしいようにって。みすぼらしい巫女姿のままでは、彼に飽きられてしまうだろうと心配したみたいです」
少しだけ、彼女の手の動きが鈍くなる。
「ですが、それがキンバリー様には面白くなかったのでしょう? 彼にとって聖女ラティアーナは、みすぼらしい巫女姿であってほしかったようです。あのような豪奢なドレスを身に着ける聖女は聖女ではないと、そう思ったのでしょう?」
「違います。兄は……神殿への寄付金をラティアーナ様が私的に使用されていると、そう誤解したのです」
「少し考えればわかること。質素であり倹約であり堅実であるがモットーの神殿ですが、聖女や巫女以外の神官たちの様子をご覧になりましたか? 私たちに質素倹約、堅実だと言っておきながら、彼らの生活はそれとは程遠いものだったのではないでしょうか? キンバリー様が聖女に飽きないようにと、神官たちのほうから聖女のドレスを作らせたのです。神殿側は、聖女を使ってキンバリー様を縛り付けておきたかったのです。だって、寄付金をくださる絶好の鴨なのですから。それに、聖女との婚約を言い出したのも神殿側からですよね」
それは、サディアスもうすうすと感じていた。それを言葉にしてしまったら、認めたくない事実が事実となり、キンバリーを傷つけることになるだろう。
キンバリーは間違いなく利用されていた。金づるだった。そしてそれに気づかなかった。
「サディアス様は混乱されているようですね。ですが、それが事実です。ただ、各人がそれぞれの言葉の意味を捻じ曲げて、自分の都合のよいように解釈しているだけ……」
さまざまな人から話を聞いたから、サディアスも理解している。同じ話であっても、人によって捉え方が異なっている。それが事実の確認を怠った結果なのだ。
さらに、キンバリーがラティアーナに婚約破棄をつきつけるきっかけとなった聖女のドレス。あれこそ、すれ違いの塊であり発端でもある。
「となれば、真実は、どこにあるのでしょう」
彼女がそう言った。その言葉が、重く心にのしかかる。
サディアスはゆっくりと時間をかけて、こうやってさまざまな人たちから話を聞いてきた。
彼女がこの村の出身であることがわかったときから、すぐにここへと来たかった。彼女に会いたかった、確かめたかった。
それが叶わなかったのは、キンバリーの寄付金が神殿に流れていた件が原因である。それを突き止めていたからだ。
彼女の手は、二つ目の花冠を作り始めていた。
「ねぇ、サディアス様。誰かの犠牲のうえに成り立つ平和は、真の平和と呼べるのでしょうか?」
何かを思い出したかのように、彼女はぽつりと呟いた。
「どういう意味、でしょうか? 兄が犠牲を払っている、と?」
「いいえ」
彼女は軽く首を振る。
「サディアス様は気づいていらっしゃらないのですか? 国を庇護する竜。あれは、本当に国を庇護しているのでしょうか?」
それ以降、彼女は黙々と花冠を作り続けた。
聞きたいことはたくさんある。確認したいこともたくさんある。だけど、話しかけてはならないような、そんな厳かな空気が流れていた。
なぜ、寄付金の件を教えてくれなかったのか。
なぜ、ドレスの件を説明してくれなかったのか。
なぜ、聖女を受け入れたのか。
聞きたいけれど、聞いてはいけないような気がした。
彼女はもう、聖女ラティアーナではないのだ。
そんな彼女の手は、二つ目の冠を作り終えた。それを、サディアスの頭にぽふんと載せる。
「やはり、サディアス様には冠が似合いますね」
「これは……僕がいただいてもいいですか? 以前、ラティアーナ様からいただいた花冠は、枯れることなく、僕の机の上に飾ってあります」
「それは、あのときの力のおかげですね。残念ながら、聖女ではないただのラッティが作った花冠は、それほど日持ちはしませんよ?」
「はい。枯れた花冠は土に還します」
サディアスは寂しげに微笑んだ。