応接室を出ると、神殿の奥にある竜の間を目指す。
奥に行けば行くほど、回廊には石膏の柱が並び、先ほどまでいた場所と比べても年代を感じた。
「このような場所に、聖女の部屋があるのですか?」
そう問うてしまうほど、この場所は寂しい。人の息遣いも聞こえず、無機質な柱が並んでいるだけなのだ。床も石でできているため、どことなく冷たい感じがする。
「竜王様は昔からここにいるのです。ですから、こちらの建物に手をくわえるようなことはいたしません。もちろん、修繕ぐらいはいたしますが」
カツーンカツーンと足音が響き、その音すら虚しく聞こえた。
ラティアーナは、どのような気持ちでこの場所で時間を過ごしたのだろう。アイニスは、この空間に耐えられるのだろうか。
「ここが竜の間です」
銅製の扉を開けると、解放感溢れる大広間に竜が寝そべっていた。その大広間ですら、今までの回廊と同じように白い石で造られている。
だが、目の前に竜がいるというのに、サディアスは顔をしかめたくなった。
原因はこの腐敗臭だ。解き放たれるようなこの場所であってもなお、においが漂っている。
竜は大きな身体を、広間のど真ん中に横たえていた。人間でいうところの、寝そべっている状態に近い。
「聖女が側にいないと、竜王様はこのように汚れてしまうのです」
「聖女がうろこをみがくと聞いていますが。アイニス様は、きちんと三日に一度、務めを果たしておりますよね?」
「それが最低頻度なのです。ラティアーナは毎日みがいておりましたよ。たしか、明日がアイニスの来る日でしたね」
そう指摘され、アイニスが一作昨日に嫌そうにしながら馬車に乗り込んでいた様子が、脳裏をかすめた。
「聖女の必要性は理解しました。このまま放っておくと、竜は腐敗に飲み込まれると考えてよろしいのでしょうか」
「そうです。そしてそれと同時にこの国に厄災が訪れます。二十年ほど前のように」
サディアスが生まれる前であるが、大寒波がレオンクル王国を襲い、寒さと飢えにより、多くの国民が命を失ったと記録されている。それが厄災と呼ばれているものなのだ。
「そうならないように、できるだけアイニスには神殿にいてもらいたいのです」
聖女の必要性は理解した。竜をこのままにしておくのはよくないのだろう。そしてこの状態の竜を助け出せるのが聖女だけだとすれば、聖女の手にこの国の運命がかかっていると表現してもいいのかもしれない。
「アイニス様が兄と結婚すれば、向こうで暮らすようになりますが?」
結婚した後も、アイニスだけここで暮らすというのはおかしいだろう。
その結婚が、王太子と聖女の結婚という書類上の契約だけがほしいのであれば別であるが、アイニスは今、王太子妃となる教育も受けている。
「そのときはきっと、竜王様が次の聖女をお探しになるかと」
腐敗臭漂うなか、竜が少しだけ身じろいだように見えた。
サディアスは竜の全身を見回した。確かに、ところどころ汚れている。
竜は、ふたたび静かになった。ピクリとも動かないので、大きな置物のような存在にも見えた。
この竜が動くのは、どのようなときなのか。
どうやって、この国を庇護しているのか。
気になるところであるが、聞いても教えてはもらえないだろう。そんな雰囲気が漂っている。
サディアスは隣の神官長に気づかれぬように、そっと息を吐いた。
竜の様子も確認した。神官長からは必要な情報を聞き出した。
といっても、それが有益なものであったかは別である。
だが、これ以上ここにいても、実になる話は聞けないだろう。
サディアスは、神官長に案内されながら、神殿の食料庫と厨房を確認した。ちょうど幾人かの巫女が、夕食の準備にとりかかろうとしているところだった。それをしばらく見学してから、神殿を後にした。
馬車に乗り込んだサディアスは、護衛の者に付き添われながらも、不規則な心地よい揺れによって、うとうととし始めた。
神殿は、キンバリーからの寄付金をきちんと食費に当てていた。そしてその一部の金でラティアーナのドレスを仕立てたようだ。
どのようなドレスにするかは仕立て屋に丸投げしたのだろう。予算、デザインなど、そういった内容については、神殿は関与していないようだ。
ラティアーナは寄付金を私的に使っていたわけではない。ドレスを仕立てたのは事実であるが、それもキンバリーの婚約者としてふさわしいようにという、周囲のその気持ちからくるものだった。
それが人を介して、歪んでキンバリーに伝わったに違いない。歪んで伝わった挙句、さらに歪めて解釈をした彼が、ラティアーナを信じられなくなったのだ。
一つのほころびが次第に大きくなり、気がついたときには大きな穴が開いていた。
最初のほころびはなんだったのだろうか――。
馬車が止まり、サディアスははっと目を開ける。
しっかりとした足取りで馬車を降り、向かう先はキンバリーの執務室。
コツ、コツ、コツ、コツとゆっくり扉を叩くと、中から返事があった。
「サディアスです」
「入れ」
サディアスの姿を見た途端、キンバリーは目尻を緩めた。それでもその顔には疲労の色が濃く表れている。
キンバリーはすぐに呼び鈴を鳴らして、侍従を呼びつける。音もなく現れた侍従は、お茶を準備するとすっと姿を消す。
「それで、どうだった? ラティアーナの居場所はわかったのか?」
「いえ。神殿でも把握していないようです。ですが、神殿側もラティアーナ様を聖女として望んでいるようでした。アイニス様は、神殿での竜の世話も渋っているようですからね」
あのようなものを見せられたら、誰だってやりたくないだろう。サディアスだってお断りだ。
「あぁ……まぁ、そうだろうな。あれには、聖女としての自覚も足りない。まして、私の婚約者という自覚もな」
キンバリーはカップに手を伸ばした。その様子を、サディアスはしっかりと見つめている。
兄は痩せた。やつれたとも言う。それはラティアーナがいなくなってからだ。
「神殿としては、やはり聖女は竜の側にいてもらいたいというのが本音のようです。それから、兄上の寄付金ですが……。それによって神殿の食事が改善されていたのも事実です。厨房も確認してきましたし、巫女たちからも話を聞きました」
その言葉を耳にした途端、キンバリーのカップを持つ手がぴくっと震えた。それをサディアスは見逃さなかった。
「金は適切に使われていたということか?」
「少なくとも、それによって食事が改善されたのは事実です。ですが、その金の一部から、ラティアーナ様のドレスが仕立てられたのも事実です。王太子の婚約者として相応しい格好をしてほしいというのが、神殿側の考えだったようでして……」
キンバリーがカップを置いた。カチャリと立てた音が、異様に大きく聞こえた。
「つまり、あのドレスはラティアーナが勝手に仕立てたものではないと?」
「そのようですね。どこかで誤解が生じたのですよ。やはり、ラティアーナ様とお話をされるべきでは?」
「だが、肝心のラティアーナがいない……」
悔しそうに呟いた。
いなくなってからその人物の重要性に気づいたって遅いのに、いなくならないとわからない。あまりにも近くにいすぎて、それが当たり前だと思っていたのだろう。
世の中、当たり前など存在しない。
「ラティアーナの居場所に心当たりは?」
「神殿にいなければ、やはり故郷に戻ったか……」
「だが、ラティアーナに家族はいない。母親は彼女を産んですぐに亡くなったと聞いているし、父親も、ラティアーナがこちらに来てすぐに亡くなったようだ」
「他にラティアーナ様に関係のあるような場所は……」
「……孤児院」
ぽつりとキンバリーがこぼした。
「もしかして、孤児院にいないだろうか。彼女は、子どもたちに好かれていたし。マザーとも仲がよかった」
となれば、ラティアーナが孤児院にいることも十分に考えられる。
「そうそう、兄上。アイニス様のことですが……」
そこでサディアスは話題を変えた。
奥に行けば行くほど、回廊には石膏の柱が並び、先ほどまでいた場所と比べても年代を感じた。
「このような場所に、聖女の部屋があるのですか?」
そう問うてしまうほど、この場所は寂しい。人の息遣いも聞こえず、無機質な柱が並んでいるだけなのだ。床も石でできているため、どことなく冷たい感じがする。
「竜王様は昔からここにいるのです。ですから、こちらの建物に手をくわえるようなことはいたしません。もちろん、修繕ぐらいはいたしますが」
カツーンカツーンと足音が響き、その音すら虚しく聞こえた。
ラティアーナは、どのような気持ちでこの場所で時間を過ごしたのだろう。アイニスは、この空間に耐えられるのだろうか。
「ここが竜の間です」
銅製の扉を開けると、解放感溢れる大広間に竜が寝そべっていた。その大広間ですら、今までの回廊と同じように白い石で造られている。
だが、目の前に竜がいるというのに、サディアスは顔をしかめたくなった。
原因はこの腐敗臭だ。解き放たれるようなこの場所であってもなお、においが漂っている。
竜は大きな身体を、広間のど真ん中に横たえていた。人間でいうところの、寝そべっている状態に近い。
「聖女が側にいないと、竜王様はこのように汚れてしまうのです」
「聖女がうろこをみがくと聞いていますが。アイニス様は、きちんと三日に一度、務めを果たしておりますよね?」
「それが最低頻度なのです。ラティアーナは毎日みがいておりましたよ。たしか、明日がアイニスの来る日でしたね」
そう指摘され、アイニスが一作昨日に嫌そうにしながら馬車に乗り込んでいた様子が、脳裏をかすめた。
「聖女の必要性は理解しました。このまま放っておくと、竜は腐敗に飲み込まれると考えてよろしいのでしょうか」
「そうです。そしてそれと同時にこの国に厄災が訪れます。二十年ほど前のように」
サディアスが生まれる前であるが、大寒波がレオンクル王国を襲い、寒さと飢えにより、多くの国民が命を失ったと記録されている。それが厄災と呼ばれているものなのだ。
「そうならないように、できるだけアイニスには神殿にいてもらいたいのです」
聖女の必要性は理解した。竜をこのままにしておくのはよくないのだろう。そしてこの状態の竜を助け出せるのが聖女だけだとすれば、聖女の手にこの国の運命がかかっていると表現してもいいのかもしれない。
「アイニス様が兄と結婚すれば、向こうで暮らすようになりますが?」
結婚した後も、アイニスだけここで暮らすというのはおかしいだろう。
その結婚が、王太子と聖女の結婚という書類上の契約だけがほしいのであれば別であるが、アイニスは今、王太子妃となる教育も受けている。
「そのときはきっと、竜王様が次の聖女をお探しになるかと」
腐敗臭漂うなか、竜が少しだけ身じろいだように見えた。
サディアスは竜の全身を見回した。確かに、ところどころ汚れている。
竜は、ふたたび静かになった。ピクリとも動かないので、大きな置物のような存在にも見えた。
この竜が動くのは、どのようなときなのか。
どうやって、この国を庇護しているのか。
気になるところであるが、聞いても教えてはもらえないだろう。そんな雰囲気が漂っている。
サディアスは隣の神官長に気づかれぬように、そっと息を吐いた。
竜の様子も確認した。神官長からは必要な情報を聞き出した。
といっても、それが有益なものであったかは別である。
だが、これ以上ここにいても、実になる話は聞けないだろう。
サディアスは、神官長に案内されながら、神殿の食料庫と厨房を確認した。ちょうど幾人かの巫女が、夕食の準備にとりかかろうとしているところだった。それをしばらく見学してから、神殿を後にした。
馬車に乗り込んだサディアスは、護衛の者に付き添われながらも、不規則な心地よい揺れによって、うとうととし始めた。
神殿は、キンバリーからの寄付金をきちんと食費に当てていた。そしてその一部の金でラティアーナのドレスを仕立てたようだ。
どのようなドレスにするかは仕立て屋に丸投げしたのだろう。予算、デザインなど、そういった内容については、神殿は関与していないようだ。
ラティアーナは寄付金を私的に使っていたわけではない。ドレスを仕立てたのは事実であるが、それもキンバリーの婚約者としてふさわしいようにという、周囲のその気持ちからくるものだった。
それが人を介して、歪んでキンバリーに伝わったに違いない。歪んで伝わった挙句、さらに歪めて解釈をした彼が、ラティアーナを信じられなくなったのだ。
一つのほころびが次第に大きくなり、気がついたときには大きな穴が開いていた。
最初のほころびはなんだったのだろうか――。
馬車が止まり、サディアスははっと目を開ける。
しっかりとした足取りで馬車を降り、向かう先はキンバリーの執務室。
コツ、コツ、コツ、コツとゆっくり扉を叩くと、中から返事があった。
「サディアスです」
「入れ」
サディアスの姿を見た途端、キンバリーは目尻を緩めた。それでもその顔には疲労の色が濃く表れている。
キンバリーはすぐに呼び鈴を鳴らして、侍従を呼びつける。音もなく現れた侍従は、お茶を準備するとすっと姿を消す。
「それで、どうだった? ラティアーナの居場所はわかったのか?」
「いえ。神殿でも把握していないようです。ですが、神殿側もラティアーナ様を聖女として望んでいるようでした。アイニス様は、神殿での竜の世話も渋っているようですからね」
あのようなものを見せられたら、誰だってやりたくないだろう。サディアスだってお断りだ。
「あぁ……まぁ、そうだろうな。あれには、聖女としての自覚も足りない。まして、私の婚約者という自覚もな」
キンバリーはカップに手を伸ばした。その様子を、サディアスはしっかりと見つめている。
兄は痩せた。やつれたとも言う。それはラティアーナがいなくなってからだ。
「神殿としては、やはり聖女は竜の側にいてもらいたいというのが本音のようです。それから、兄上の寄付金ですが……。それによって神殿の食事が改善されていたのも事実です。厨房も確認してきましたし、巫女たちからも話を聞きました」
その言葉を耳にした途端、キンバリーのカップを持つ手がぴくっと震えた。それをサディアスは見逃さなかった。
「金は適切に使われていたということか?」
「少なくとも、それによって食事が改善されたのは事実です。ですが、その金の一部から、ラティアーナ様のドレスが仕立てられたのも事実です。王太子の婚約者として相応しい格好をしてほしいというのが、神殿側の考えだったようでして……」
キンバリーがカップを置いた。カチャリと立てた音が、異様に大きく聞こえた。
「つまり、あのドレスはラティアーナが勝手に仕立てたものではないと?」
「そのようですね。どこかで誤解が生じたのですよ。やはり、ラティアーナ様とお話をされるべきでは?」
「だが、肝心のラティアーナがいない……」
悔しそうに呟いた。
いなくなってからその人物の重要性に気づいたって遅いのに、いなくならないとわからない。あまりにも近くにいすぎて、それが当たり前だと思っていたのだろう。
世の中、当たり前など存在しない。
「ラティアーナの居場所に心当たりは?」
「神殿にいなければ、やはり故郷に戻ったか……」
「だが、ラティアーナに家族はいない。母親は彼女を産んですぐに亡くなったと聞いているし、父親も、ラティアーナがこちらに来てすぐに亡くなったようだ」
「他にラティアーナ様に関係のあるような場所は……」
「……孤児院」
ぽつりとキンバリーがこぼした。
「もしかして、孤児院にいないだろうか。彼女は、子どもたちに好かれていたし。マザーとも仲がよかった」
となれば、ラティアーナが孤児院にいることも十分に考えられる。
「そうそう、兄上。アイニス様のことですが……」
そこでサディアスは話題を変えた。