ずっと待っていたの
*
「千代さん、こんにちはー」
玄関でチャイムを鳴らし、声をかける。
返事はない。いつものことだ。
ここは私の祖父母宅の敷地内にある離れだ。
住んでいるのは、お祖父ちゃんの歳の離れた姉にあたる千代さん。
千代さんはもうかなりの高齢で、耳が遠くなり、チャイムを鳴らしても聞こえたり聞こえなかったりするようだ。
「お邪魔しまーす」
返事がなくても入っていいよと以前千代さん本人から許可をもらっているので、大声で挨拶をしながらサンダルを脱ぎ、たたきにあがった。
「千代さあん、千夏です、お邪魔しますねー」
いつもの場所かな、と思って向かうと、やはりそこにいた。
庭に面した縁側のロッキングチェア。
ゆったりと腰かけている小さな背中。
そよ風にふわふわ揺れる真っ白な髪。
しばらくその様子を見つめたあと私は、千代さん、と声をかける。今回も反応はない。
「こんにちは、千代さん」
お腹から声を出して呼ぶと、千代さんがゆっくりと振り向いた。
「あら、千夏ちゃん。こんにちは。呼び鈴、鳴ってたのかしら。気づかなくってごめんなさいね」
私は顔の前でひらひらと手を振る。
「全然、全然。勝手に上がらせてもらいました、ごめんね」
ふふっと千代さんは笑い、「いいのよ。こっちへおいで」と手招きしてくれた。
「これ、お土産のお花だよ」
私は胸に抱えていた花束を千代さんに見せる。
アルバイトで生活費を稼ぐ貧乏大学生に買える花束なんてたかが知れていて、百合の花一輪とかすみ草の小さな花束だけれど、千代さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「あらあ、百合の花……綺麗ねえ。とっても好きなお花なのよ。ありがとうね」
もちろん、千代さんは百合の花がいちばん好きだと知っているからこそこの花を選んだのだけれど、私がそれを知っているということを、千代さんは忘れてしまったらしい。
千代さんは最近、物忘れが激しくなってきた。ここ数年の間に、耳が遠くなっただけでなく、だんだん忘れ物が増え、つじつまの合わない話をすることも増え、身体の動きもゆっくりになってきた。食べる量も減り、眠っている時間が長くなってきた。
九十歳という年齢を考えれば当たり前のことなのだろうけど、でも、少しずつ終わりに向かっているように思えて、生から離れていっているように思えて、そんな様子を見ると切なくなる。
私は小さいころから、千代さんのことが大好きだった。
優しくて、朗らかで、可愛らしくて、遊びに行くといつもおいしいごはんを作ってくれた。
「本当に綺麗ねえ……」
宝物みたいに丁寧なしぐさで花束を受け取る千代さんの、しわだらけの手も、嬉しそうに微笑むしわだらけの顔も、とてもとても優しい。
「花瓶に飾ってもいい?」
「もちろんよ。頼んでいいかしら、ありがとうね」
「いえいえ」
台所で花瓶に水を入れ、花を生ける。水音や、花を包むビニールの音が、やけに大きく響いた。
静かな家だなあと、来るたびに思う。
千代さんは一度も結婚していなくて、もうずっとこの家でひとりで暮らしているらしい。
子どももいなくて、そのぶん甥っ子や姪っ子、私からみたらおじさんやおばさんたちをとても可愛がっていたと聞いた。
近所のおばさんから引き継いだという、魚料理が名物の食堂をひとりで切り盛りしていたけれど、足が悪くなったため働けなくなり、五年前に泣く泣く閉業した。
それからだんだん身体が悪くなり、物忘れも進んで、今は一日のほとんどの時間を縁側で日向ぼっこをしながら過ごしているという。
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「千代さん、こんにちはー」
玄関でチャイムを鳴らし、声をかける。
返事はない。いつものことだ。
ここは私の祖父母宅の敷地内にある離れだ。
住んでいるのは、お祖父ちゃんの歳の離れた姉にあたる千代さん。
千代さんはもうかなりの高齢で、耳が遠くなり、チャイムを鳴らしても聞こえたり聞こえなかったりするようだ。
「お邪魔しまーす」
返事がなくても入っていいよと以前千代さん本人から許可をもらっているので、大声で挨拶をしながらサンダルを脱ぎ、たたきにあがった。
「千代さあん、千夏です、お邪魔しますねー」
いつもの場所かな、と思って向かうと、やはりそこにいた。
庭に面した縁側のロッキングチェア。
ゆったりと腰かけている小さな背中。
そよ風にふわふわ揺れる真っ白な髪。
しばらくその様子を見つめたあと私は、千代さん、と声をかける。今回も反応はない。
「こんにちは、千代さん」
お腹から声を出して呼ぶと、千代さんがゆっくりと振り向いた。
「あら、千夏ちゃん。こんにちは。呼び鈴、鳴ってたのかしら。気づかなくってごめんなさいね」
私は顔の前でひらひらと手を振る。
「全然、全然。勝手に上がらせてもらいました、ごめんね」
ふふっと千代さんは笑い、「いいのよ。こっちへおいで」と手招きしてくれた。
「これ、お土産のお花だよ」
私は胸に抱えていた花束を千代さんに見せる。
アルバイトで生活費を稼ぐ貧乏大学生に買える花束なんてたかが知れていて、百合の花一輪とかすみ草の小さな花束だけれど、千代さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「あらあ、百合の花……綺麗ねえ。とっても好きなお花なのよ。ありがとうね」
もちろん、千代さんは百合の花がいちばん好きだと知っているからこそこの花を選んだのだけれど、私がそれを知っているということを、千代さんは忘れてしまったらしい。
千代さんは最近、物忘れが激しくなってきた。ここ数年の間に、耳が遠くなっただけでなく、だんだん忘れ物が増え、つじつまの合わない話をすることも増え、身体の動きもゆっくりになってきた。食べる量も減り、眠っている時間が長くなってきた。
九十歳という年齢を考えれば当たり前のことなのだろうけど、でも、少しずつ終わりに向かっているように思えて、生から離れていっているように思えて、そんな様子を見ると切なくなる。
私は小さいころから、千代さんのことが大好きだった。
優しくて、朗らかで、可愛らしくて、遊びに行くといつもおいしいごはんを作ってくれた。
「本当に綺麗ねえ……」
宝物みたいに丁寧なしぐさで花束を受け取る千代さんの、しわだらけの手も、嬉しそうに微笑むしわだらけの顔も、とてもとても優しい。
「花瓶に飾ってもいい?」
「もちろんよ。頼んでいいかしら、ありがとうね」
「いえいえ」
台所で花瓶に水を入れ、花を生ける。水音や、花を包むビニールの音が、やけに大きく響いた。
静かな家だなあと、来るたびに思う。
千代さんは一度も結婚していなくて、もうずっとこの家でひとりで暮らしているらしい。
子どももいなくて、そのぶん甥っ子や姪っ子、私からみたらおじさんやおばさんたちをとても可愛がっていたと聞いた。
近所のおばさんから引き継いだという、魚料理が名物の食堂をひとりで切り盛りしていたけれど、足が悪くなったため働けなくなり、五年前に泣く泣く閉業した。
それからだんだん身体が悪くなり、物忘れも進んで、今は一日のほとんどの時間を縁側で日向ぼっこをしながら過ごしているという。