「ねぇ、なに見てるの?」


「……海」


「ううん。ちがうもの見てるでしょ」



夕日が綺麗に反射して揺らめく海面から思わず顔を上げた。
そこにいたのは立っている1人の男の子。
思わず目を疑った。
不思議なほどに綺麗な人だったから。
真っ赤なような、オレンジのような鮮明な夕日が彼の目のなかに入っているからか、虹のような瞳のなかは赤みが強くて。
透き通るほどに白い肌は触れたら溶けていってしまいそうで。
一瞬、海の神様が現れたのかと思った。

見蕩れたのは一瞬。すぐにいやいやと心の中で首を振る。
わたしは1人で座って海面を見ていただけなのに『ちがうもの』を見てるなんて言ってきた人だ。
本当に海を見てたのに。
もしかして怪しいひと?
急に話しかけてきたこの人のことを不審者かな、なんて疑い始めてるのと相対して目の前の人は唇の端をあげて異常なくらいに綺麗な顔で微笑んだ。


「ごめんね、びっくりさせた?」

「してないけど」

「ならよかった」


とさ、と隣に座ってきたその人。
もしかしたら都会からの観光客だろうか。
この村はかなりの田舎だし、田舎者をからかうために話しかけてきたのかもしれない。
そう考えるとあまり関わらない方がいい気がしたので視線を海の方へ戻した。
わたしが座っているのは海があって、砂浜があって、その少し奥にあるコンクリートの塀のような場所。
小さな石が散りばめられてゴツゴツしているからコンクリートじゃないかもしれない。
いまは高校の夏の制服を着ているからお尻に石の感触が伝わってきてじんわりと痛みがある。
家に帰るよりは何倍もマシだからどうってことはないけど。
それでももう日が沈むから、家に帰らなければならない。
家族の顔が頭に浮かんできてため息が出そうになる。本当に帰りたくない。
そんなことを思ってぼうっとしながら規則的に繰り返される海の音を聞いた。

「あのさ、俺のことわかる?」


まだここにいたことをびっくりしつつも視線は向けない。
この人に興味もないし関心もないから。


「知らない」

「だよね」

なぜか少し嬉しそうに笑った彼。
綺麗で黒い髪が風にさらりとなびいたのが視界の端で見えた。


「あ」


刹那。
音もなく太陽が沈んでいく。
ゆっくり、だけど確実に。
水平線の向こうにとぷん、と落ちていった瞬間に夜の闇と静寂に包まれた。
代わりにさっきまで静かだった月の光が空を陣取る。
わたしの足は自然と動いていた。
手を横に伸ばしてバッグをとり、制服についた砂を払う。
ここからは家に帰って''空気''にならなければならないから、こうやって海を眺めるのはそのための練習時間。
いつもの数倍重く感じるローファーを引きずって家へ足をすすめた。


「ね、帰るの?」

「うん」


「またね、」


最後に1度、うしろを振り向いて男の子を視界におさめた。
闇に包まれながら薄く笑う彼はやっぱり異常なほど綺麗で。
瞳の中はさっきとは違い、水色が強めに光っていた。
本当に不思議な目だと思う。
ベースは虹色なんだろうけど、さっきは赤が強かったのにいまは水色が強い。
でももう会うことはないだろうと記憶の隅へ追いやっておいた。


𓆉𓏸𓈒𓂃


家に帰るといつもこうだ。

重すぎる空気が私の体を纏って、がんじがらめにされてしまう。
リビングに行くと、誰もいない食卓。それが私の「当たり前」。
お腹も空いてないし、''あの人''が作ったご飯を口に入れると思っただけで吐きそうになるから冷蔵庫からヨーグルトを取り出して、電気もつけず冷蔵庫の前に座り込んで食べる。

「キャハハハハッ!」

お風呂から微かに聞こえてくるのは楽しそうな子供の声。私とは正反対の声に思わず耳を塞ぎたくなる。
あの子の声を聞いてるのがただ耐えられなくて、必死にヨーグルトを口の中にかきこんだ。
味なんか、しない。白色の砂をただかみ締めているような感覚だけど、体が求めているのはわかる。
もうここ数年はずっとこう。
''おいしい''なんて感覚は忘れてしまった。
好きな食べ物も嫌いな食べ物も言えない。
ヨーグルトの容器を乱暴につっこんで。
スプーンだけを素早く洗って自分の部屋へダッシュする。
でもそのタイミングで…

ガチャ

玄関のドアが開いた。
うわ、最悪……。

「ただいま〜!陽波(ひなみ)〜!パパだよ〜」

玄関に出ているわたしの影を、妹の陽波だと勘違いしたんだろう。

心の底から嫌で嫌でしかたないけど、血の繋がりは変えられない私のお父さんであるその人と対面する。


「……ああ、帰ってたんだな。学校はどうだった?」


''帰ってたんだな''
この言葉で私が傷つく精神だったのは、どのくらい前だったか。
1ヶ月くらい前な気もするし、2年ほど前だった気もする。
覚えてないくらい、わたしの心の感覚は麻痺してるんだ。
無論、私はこの人と話したいっていう感情はもう失せているから、わざとらしく無視をして2階の自室へ行った。
通学バックを放り投げてベッドにダイブすると、風船に穴を開けたみたいに疲れが消えていくのが分かる。あおむけになると、写真立てに目がいった。そこに映っているのは、幼い私と今より若いお母さん、お父さん。
このときは、仲がよかったのに。このときは、楽しくて仕方がなかったのに。お母さんが死んじゃってから、全てが変わった。


私は今高校2年生だから、5年前かな。
小学6年生のとき、お母さんは死んでしまった。
死因は交通事故。
運転手が居眠りをしていたトラックから小学生を守ろうとしたとかで、身を投げ出したらしい。
その頃の記憶は曖昧だけど、とにかくお母さんがいなくなったことが悲しくて悲しくて、泣いたのを覚えてる。
だけど私は、お母さんがいなくなったからこそ、お父さんを困らせないように支え合って2人で生活していくんだと思っていた。


なのに、お父さんは……


「みな、今日からお前のお母さんになる穂波(ほなみ)さんだ」

「ふふ。よろしくね?」


━━━お母さん以外の「お母さん」を連れてきて。私はそれがどうしても受け入れられなかった。


ねえどうして?お父さん。お父さんが生涯好きなのはお母さんじゃないの?
どうして、お母さん以外の人がうちにいるの?
そんな疑問を常に持ちながらも、どこかおかしい生活に吸い込まれそうになっていたとき、


「妹の陽波だぞ!」


━━━━妹、つまり陽波が生まれた。


「あ、はは。嬉しいなぁ……」


陽波が生まれたときから精一杯の作り笑いをして、妹を可愛がれるように頑張った。
私のお母さんは、この人じゃないのに。
私には妹なんて、いないのに。
心の叫びに蓋をして。
それでも、だんだんと2人の血をひいてる陽波に家での居場所をとられていくのが分かって。
田舎なんだから、そーいう情報は筒抜け。


「みなちゃん、大変だね……」


先生にも、生徒にも、さんざん憐憫の目を向けられた。
極めつけは、


「え……。穂波さん、何してるんですか?」


「え?ほら、ピアノなんかいらないでしょう?陽波も運動の方が好きだし……。だから片付けようと……」


穂波さんが、お母さんの大切にしていたピアノを業者に売り渡したこと。
昔、よく流行ってる歌を一生懸命覚えてくれて、弾いてくれたお母さんの姿が蘇って。
━━━━私の中で、何かの糸がぷつんと切れる音がした。


「返してよっ!お父さんも、お母さんのピアノも!全部全部、どうして私から取るの
……」

「ちょっと、みなちゃん!」


「みな!なにをしてるんだ!」


部屋に入ってきて穂波さんを庇ったお父さん。さらに陽波も来て穂波さんに抱きついて。
やめて。
''みな''
わたしの名前。
お母さんが小さい頃たくさん呼んでくれた大切な大切な名前。
あんたたちの汚い声で呼ばないで。

「おねーちゃん!ままのこと、いじめないでっ!」


一気に血液が下に降りていくのを感じた。
もう全てがどうでもよくなって、


「あんたたちなんかみんなみんな大っ嫌い!」


私と家族は「家族」じゃなくなった。