朝、起き上がることがいつもより難しかった。
私はどちらかと言うと朝に強い方で、いつもなら太陽が昇ると同時に目が覚める。
極端に夜更かしをしたわけでもない。それなのに身体が誰かに押さえつけられているような感覚で、それと同時に頭の奥へ響くような頭痛が襲う。
受診するほど大袈裟なことではないと直感で判断して、無理矢理起こした身体を動かし制服の袖に腕を通す、階段を降りてリビングへ。

「おはよう花耶(かや)、珍しく起きるのが遅かったけど何かあった?」

「……そうそう、ちょっと目覚ましかけ忘れちゃって。だからちょっと寝坊しちゃった」

「ならいいけど、テーブルの上に朝ごはん置いてあるから食べていってね。お母さん先に出るから鍵、忘れずに掛けていってよ」

「わかった、ありがと。いってらっしゃい、気をつけてね」

 綺麗に焼かれたトーストの上に私の好きなチョコレートクリームが塗られていて、その横には苺、キウイ、バナナが皿の上に切り揃えられている。
椅子に座ってパンを口に運ぶと、身体が食べ物を拒んでいるような気がして手が止まってしまった。
それでもそのまま残していくことは母に申し訳ないような気がして口へ押し込む。結局、飲み込むことはできなかった。

「……行ってきます」

 バレないように朝食を片付けた後、誰もいない空間へ呟いて扉を開けて鍵を閉めた。
視界が歪んで傾いているようにみえて、脚は引き摺ってしまうほど重い。
二週間前あたりから頭の痛みを感じることはあったけれど、それはいつも少しの時間我慢すればすぐに治る程度だった。
それに私は風邪をひいたり体調を崩しやすい体質ではない。きっと春から始まった中学校生活に身体が馴染もうと頑張っているのだと思う。
私は、そう思い込むことにする。

「おはよう花耶」

「おはよう、美波(みなみ)

 進級して三ヶ月、私は斜め前の席の彼女と大半の時間を過ごしていると思う。
垢抜けた容姿と、落ち着いた雰囲気。仲の良かった友達と学校が離れ、それに加え人と話をするのが苦手な私は、知らぬ間に気さくな彼女に心を開いていた。

「美波、今日いつもより学校着くのはやくない?」

「体育館で朝会があるから準備を手伝うためにちょっとだけはやく来たんだよね。そろそろ朝会始めるだろうし、一緒に行かない?」

「そっか……朝会あるの忘れてた、そうだね行こうか」

 椅子から立とうと腰を上げた瞬間、目の前が(くら)んだ。
彼女の声が、姿が、遠くなっていく。そして私の名前を呼ぶ無数の声に包まれる。
返事をしようとしても声が出なくて、身体に力が入らない、私がどんな態勢で止まっているかすらわからない。


— 私、死んじゃうんだ。


 一瞬で、私はそう悟った。



 異様に白い空間で目が覚めた。
規則的に響く機械音と、忙しく動く大人達の姿。
視線を移した先の私の腕には、数本の管が繋がれていて身動きを取ることができない。

「……花耶」

 そう語りかける母の目は、霞んでいる私の目でみてもわかるほど潤んでいて、私の額を撫でる手は震えている。
何か、言葉を返したい。
今いる場所はどこなのか、何故私はわからない場所で横になっているのか、私の身体に何が起こっているのか、とにかく全てがわからない。

「お母さん……」

「お父さんも今来るから、お姉ちゃんも帰ってくるって」

 毎日早朝に家を出て深夜に帰ってくる父と、車で数時間ほど掛かる場所で暮らしている姉が帰ってくる。
そして何より冷静な母が取り乱している。
私は本当に、このまま死んでしまうのかもしれない。

時雨(しぐれ)花耶さんのお母様、旦那様と娘様がご到着なさいました」

「わかりました……何処へ迎えに行けばいいですか」

「緊急外来ロビーへいらっしゃいます、外のスタッフが案内しますのでこちらへ」

 初めてみる女性が、母へ声を掛ける。
母は私と女性を何度も見返し、最終的に私の目をみた後に手を強く握った。

「花耶、少し待っててね。お父さんとお姉ちゃんのところに行ってくるだけだからね」

 手を離した母と入れ替わるように、その女性が私の手を握る。
その手は少し冷たかった、それとは対照的な言い表せないほど強い眼差しが私へ向かられている。

「花耶ちゃん、今みんな来るからね。だから絶対に諦めちゃダメだからね」

 瞼の重さにすら耐えられなくなり、微かに開けていた目が閉じてしまう。
それでも聞こえてくる声に頷く。
思うように頷けているかはわからないけれど、あるだけの力を使って首を動かす。



 もう一度、今度はまた違う白い部屋で目が覚めた。
さっきよりも視界が鮮明で、父、母、姉の姿がはっきりみえる。
祈るように手を合わせて椅子に腰掛け俯く母、落ち着かない様子で歩く父、顔を伏せ私の手を握っている姉。
目が覚めたことを、私が生きていることを伝えたい。
それでも身体はまだ重く、喉の辺りがつっかえて上手く声が出せない。
最大限の合図として姉に握られている手を握り返す、通じ合ったように姉と目があった。

「花耶……お父さん、お母さん、花耶が起きた……花耶が起きた」

「花耶、わかる?お父さんとお姉ちゃんと私、わかる?」

「花耶、花耶……よかった、本当によかった」

 その声に少しずつ(もや)のかかった意識が晴れていく。
母の息が上がっていることも、父がみたこともないほどに泣いていることも、姉の肩が震えていることも、わかるほどに。

「お母さん、お父さん、お姉ちゃん……わかるよ。私、大丈夫だよ、ちゃんと、わかるよ」

 少しずつ、はっきり目が開いていく。
力はまだ入りづらいけれど、確かに私の意思で身体を動かす準備が始まっている感覚がする。
そして扉が開く音がして、穏やかな足音と共に背の高い男性が私へ近づいてくる。

「初めまして、お名前言えるかな」

「時雨……花耶、です」

「よかった、意識も大丈夫そうだね。改めまして、主治医の大崎(おおさき)です」

「大崎先生……」

「きっと今どうしてここにいるかも、目が覚めるまでになにがあったかもわからないよね」

「……わからないです」

「今、目が覚めたばっかりでちょっと大変だと思うんだけど、もう少ししたら花耶さんとご家族に向けて僕からお話したいことがあるんだ」

「話……」

「すごく大切なお話だから、花耶さんにしっかり聴いてほしいの。だから、看護師さんに手伝ってもらってこの車椅子に乗って僕のいる部屋まで来てもらいたいんだけど、頑張ってくれるかな」

「わかりました……丁寧に、ありがとうございます」

「こちらこそ、無理に身体に力を入れなくていいからゆっくりでいいからね。ご家族の皆様も貴重品など防犯の面でお持ちいただいて、看護師の案内についてきていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします」

 そう言い残し、主治医の彼は一礼し病室を出た。
不安そうな表情の三人と、明るさを保とうとする看護師。目が覚めたばかりの私でもわかるほど室内が異様な空気で満たされている。
身体に(まと)わり付いた管が()かれ、掛けられていた布団が剥がされる。
そのまま抱えられ、私は生まれて初めて車椅子へ乗せられた。

「ご家族の皆様、貴重品など病室へお忘れものはないでしょうか」

「はい、大丈夫です」

「わかりました、それでは向かいますね。花耶ちゃん、車椅子動かすね」

 病室を出て、車椅子で押されながら廊下を走る。
窓の外が明るいことに気づいた。
廊下の柱に吊るされている時計は午前八時を示している、私は何時間眠っていたのだろう。
そんな疑問を閉じ込めたまま、静かな廊下を進む。
母のため息が聞こえた、それを(なだ)める父の声。私はただ車椅子に揺られることしかできなかった。
『面談室』と書かれた扉が開き、そのまま中へ入っていく。会釈(えしゃく)ができるまで意識と身体が噛み合っている。

「お集まりいただきありがとうございます。私からお話することは『花耶さんの身体について』です」

 その言葉を聴いて、胸の辺りが騒がしくなるのを感じた。
直感で『知りたくない』と思ってしまった、そして不思議なほどに都合よく言葉が聞き取れなくなった。
話す声は聞こえているけれど、何を話しているのか全く理解ができない。ずっと耳元で雑音が鳴らされているような感覚。
そして背後(うしろ)で、私の大切な人達が(すす)り泣く音が聞こえる。
それを聞いて、騒がしいだけだった胸が痛くなった。
ただ一点をみつめていたけれど、きっと一番重要であろう言葉だけは残酷なほどに聞き取れてしまった。


『花耶さんが五年後に生きている確率は、十パーセント未満です』


 これがきっと、世で言う『余命宣告』というものなのだと思う。
そこから先の話は、不思議なくらいに鮮明に理解できてしまった。
眠っている間に複数の検査をしたけれど原因や明確な病名を定めることが困難であるとわかったこと、確実な治療法がみつけられていないこと、治療のためには入院が必要で退院日がわからないこと。
それは、私が思っている以上に、私の身体には時間の猶予がないということ。
それでも数時間前『このまま死んでしまう』という危機感に触れた私にとって、五年という歳月は少し余裕のあるように感じた。

「僕からの話は以上になります。突然のお話になってしまいましたが、聴いていただきありがとうございました」

「いえ、こちらこそ……これから、娘をよろしくお願いします。私達家族にできることは何でもしますから」

「お母様、まずは難しいと思いますがご自身の気持ちも大切にしてください。お父様もお姉様も、どうか自分自身を労ることを忘れないでいただきたいです」

 彼の言葉に深く頭を下げた後、三人は部屋を出た。
私と顔を合わせずに、俯いたまま、口元に手を当てながら、何かを抑えるように。
そして看護師の女性と主治医の彼、私だけが取り残された無言の空間が拡がっていく。

「花耶さん、少し僕とお話できないかな」

 まっすぐ私の目をみつめながら、彼は私へ手招きをする。
命の残り時間を告げられた私は、また何か重大なことを受け入れなければいけないのだろうか。
戸惑いながらも頷き、彼の目をみつめ返した。

「花耶さんは十三歳だよね」

「そうです」

「花耶さんは今日から病気との闘いが終わるまで、この病院で生活することになるんだ」

「さっきのお話でも教えてくださいましたよね」

「そうだね、ちゃんと聴いていてくれてありがとう。そして僕は花耶さんの主治医になる、改めてよろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

「僕が受け持つ患者さんには、必ず入院初日にあるものを渡しているんだ。それを花耶さんにも渡そうと思ってね」

 そう言って彼は、机の引き出しから厚く、真っ白い表紙の一冊の何かを取り出した。
それを微笑みながら、丁寧に両手で私へ差し出す。

「これ……」

「これは、僕が担当する患者さんに必ず渡しているノートだよ」

「治療の記録を書き留めるためのノートですか?」

「これは、花耶さんの好きなことを書いてほしいノート。使い方は花耶さんの自由だよ」

「私の自由……」

「例を挙げるなら……このノートを使って恋人と交換日記をしていた人もいたよ、漫画を描き続けた少年もいた。使い方に制限も決まりもない、花耶さんだけのノートにしてほしいんだ」

「私だけのノート、ですか」

「これを一冊書き切ると、ちょうど小説一冊分くらいの文量を書いたことになるんだよ」

「小説一冊分……私にそんなたくさん書けますかね」

「ゆっくり、ゆっくり、その瞬間(とき)に書きたいことを書けばいいんだよ。そうしたらきっと、この病院を退院した後に頑張って生きる糧になるだろうから」

 そう言って、彼はそのノートから手を離した。
私は太腿の上にそのノートを置き、数秒みつめて何を書くか考えてみたけれど何一つ、候補すら思い浮かばなかった。
彼に礼を言い彼からの『こちらこそ』と言う優しさを受け取った後、車椅子を動かしてもらい病室へ戻る。
扉を開けた先の病室には、椅子に腰掛け窓の外をみつめる姉の姿だけがあった。

「……お姉ちゃん?」

「花耶、おかえり。急にたくさん話して疲れちゃったんじゃない?」

「大丈夫だよ、ありがとう。お母さんとお父さんは……」

「花耶の着替えとかその他の荷物を取りに一回家に戻ったよ、私はここでお留守番」

「それなら……お母さん達が戻ってきたら、お姉ちゃんはお姉ちゃんの家に戻るの?」

「私は……こっちに荷物を着払いで送ってもらう、そして実家でお父さんとお母さんと暮らすよ」

「え……」

「お父さんは仕事忙しいから長い時間お母さんを一人にするのが不安でね。花耶にもすぐ会えた方がいいし」

「ごめんね、お姉ちゃんにだってお姉ちゃんの暮らしがあったのに。それを私が崩しちゃった」

「そんなこと気にしなくていいの!花耶は私にとってたった一人の妹なんだから、近くにいたいって思うのは自然なことでしょ」

 そう言って笑った姉の奥底には、悲しみが埋まっているような気がした。
そしてそれに気づかないふりをすることが、今の私がするべきことなのだと察した。

「そのノート、どうしたの?」

「大崎先生に渡されたの、大崎先生が受け持つ患者さんに絶対渡してるんだって」

「治療の記録ノートとか?」

「私もそう思って訊いてみたら『花耶さんのすきなことを自由に書いていい』って言われたんだ」

「そっか……花耶はそのノートに何を書くの?」

「特に書きたいことがないんだよね……ベタだけど『死ぬまでにやりたいことリスト』とか?」

「死ぬなんて口にしないの。まだ、生きる可能性はちゃんとあるんだから」

「原因不明で治療法もないんだよ、可能性なんてあってないようなものだって私は思っちゃう」

「私が悲しくなる、唯一の妹が八歳も年上の私より早く死ぬなんて寂しいよ」

「私もお姉ちゃんと会えなくなるのは寂しい、私だって嫌だよ」

「花耶……」

「だから『死ぬまでにやりたいことリスト』は書かない。書いてる時間があるならみんなと話したいし、それにもし達成できないまま死んじゃったら絶対後悔しちゃうから」

 サイドテーブルにノートを置いて、姉の隣へ向かって車椅子を動かす。
半分開いた窓の外をみつめたまま、姉は顔を動かさない。時々吹く風に、姉の肩あたりまで伸びた髪が(なび)く。その靡いた髪の隙間からみえた頬には透明な何かが伝っていた。
私は何も言わずに、姉の左手を握った。
姉の手の震えから、改めて私の命の短さを知らされた。



 八月になった、ノートは白紙のままだった。
数週間経った入院生活の大半は検査とカウンセリング。少しずつ看護師さんや院内のスタッフの顔と名前が一致するようになった。車椅子を使わずに移動ができるようになって、最近は検査終わり、病室へ向かう途中の廊下で小児病棟に入院する小さな子供たちと話をすることが私の生活の楽しみになっている。
母は二日に一回、三時間ほど私の病室に話をしに来てくれている。生活は想像もしていないくらい変わってしまったけれど私は変わらず、楽しさを忘れずに生きている。

「はい、これで花耶ちゃんの今日の検査は終わり!長時間お疲れ様」

「ありがとうございます、あとは……病室に戻って大丈夫ですか?」

「そうね。今日の検査はいつもより少し長丁場だったから、ゆっくり身体も心も休ませてあげてほしい」

 検査室から出て、いつも通る廊下を歩く。
聞こえてくるはずの声がしない、溢れてくる照明の明るさも感じられない。角を曲がって、目的の場所を除く。 
感じた違和感の通り、賑わっているはずのホールにいつもの子達の姿がない。少し寂しかった。
誰もいない静かなホールをみつめていると、端の方に置かれた背の低い本棚と目があった。

「小説一冊分って、どれくらいだっけ……」

 不意に、白紙のままのノートの存在が頭を(よぎ)った。思い返してみれば、私が最後に小説を読んだのは、中学一年生の夏休みに読書感想文を書いた時。
 その本棚には子供向けの絵本が多く、それもページの境目が破けていたり、色褪せているものが大半。ここで暮らした子供達が生きて、笑った痕跡(あかし)がその本棚に並べられている。
 その中に一冊、背が低くて真新しい、いかにも小さな子供が読む本とは思えない小説がある。

「花耶ちゃん、小説好きなの?」

 しゃがんでいた背後(うしろ)から、看護師さんの声がした。いつも子供達と話をする時、手を振ってくれる小児病棟の看護師さん。

「あんまり小説は読まないんですよね。検査が終わってみんないるかなって思って来てみたんですけど、誰もいなくて。そうしたら丁度この本棚をみつけて気になって……」

「小さい子達の検査と面会が被っちゃってね、誰もいないホールって寂しいよね」

「はい、いつもの賑やかな雰囲気が私は好きなので」

「私も花耶ちゃんと一緒だよ。でもこの本棚、小さい子が好むような絵本しか置いてないんじゃない?」

「そうなんですけど……一冊だけ、小説が混じってて」

「小説……小説なんてこの本棚にあったっけ」

「これです、本棚の一番端にあって」

「これは……確かに中高生向けの小説ね、なんでここにあるんだろう」

「不思議ですよね」

「花耶ちゃん、この小説気になる?」

「小説はあんまり好きじゃないんですけど、この本をみつけて久しぶりに小説読みたいなって思って……それと、タイトルに惹かれちゃって」

「タイトル……本当だ、確かに綺麗なタイトルだね」


— 『透明な浜辺に、君の透明な鼓動を感じて』

 
 数年間書店に立ち寄ったことすらない私は、この一冊の小説に一瞬で心を呑み込まれた。
ただ一冊本棚の端に立てられていたその本を、読みたくて仕方がない。
その中に紡がれる言葉を知りたくて仕方がない。

「この本、今日の夜まで借りてもいいですか」

「いいけど……花耶ちゃん、検査で疲れちゃってない?」

「大丈夫です、今はこの小説が読みたくて仕方がないんです」

 夜の九時までに本棚へ返却することを看護師さんと約束し、私は(てのひら)に収まるほどの小さな小説を両手で抱えて病室へ戻った。そしてすぐに、1ページ目を開く。

「こんな言葉、出逢ったことないよ……」

 二年前の夏休み、二週間掛けて嫌々読んでいたはずの『小説』を(めく)る手が止まらない。
追うたびに脳を突き刺すほどの感情に溢れた情景深い言葉に、全神経が奪われていく。
会ったこともない、みたこともない架空の登場人物達に感情が蝕まれていく。
高校生二人の恋愛が描かれた小説。
私は人生で一度も恋なんてしたことがないけれど、何故か主人公の少女に生々しく、そして痛々しく共感してしまった。
気づいたら鼓動が早くなっていて、ページを押さえている指の先が震えていて、身体の奥底が熱くて、伝える相手すらいないのに誰かに今すぐ『好き』と愛を伝えたくなってしまうような感覚。
『泣いてしまいそう』という予兆すらないまま、私の頬は濡れていた。
そして小説のあとがきまで読み終えてしまった。たったの数時間で。

「……」

 一人の人生の一部を擬似体験したような、読み終えた私の身体から何かが抜けたような感覚に陥る小説。
私が置いたままにしているノートには、この小説とほぼ同じ文章量を書き起こすことができる。
言葉を読んでこなかった人間が、人の心を奪えるような言葉なんて書けるはずがないけれど、私は唐突に残された数年間を費やすべき行為を与えられた気がする。


夏宮(なつみや) 蒼夜(そうや)


 この言葉を生み出した人の名前。
私は、この人のような言葉を紡ぎたい。
小説を机の上へ置き、サイドテーブル上の真っ白なノートを手に取った。
私は残された数年を、小説へ捧げる。
数秒前私の脳へ注がれた言葉達に、私は生き方を示されたような気がした。
そしてみたことすらない『夏宮 蒼夜』の背を追わなければいけないと、私の心が背を押した。



 これが、私が彼に出逢った最初の瞬間。
この時の私はまだ気づいていないけれど、私の人生最後の恋は、この一冊の小説から始まった。