2月29日。先生からのメールに気づいて、4年生ラインに連絡を入れた。


 ウィルスの影響で大学構内への立ち入りが制限されます。ゼミ室に私物がある人は週末のうちに取りに行ってください。


 いつも朝は苦手じゃないが、今日は特別早かった。朝ごはんはパンを焼いてバターを塗り、コーヒーを淹れて砂糖と牛乳を入れて飲むのが定番。なにかソワソワしてしまう日ほどいつも通りいつも通りと言い聞かせる。
 パンはいいとして、コーヒーが何か変な味だ。もしかして味覚障害ってやつか? と疑いたくなるくらい、甘くない。キッチンを振り返りよく見ると、いつも出しっぱなしの砂糖入れが出ていなかった。

 (なんだ、入れ忘れか。)

 味覚障害ではなくてよかったが、冷たい牛乳で冷えたコーヒーは、もう甘くないまま飲むしかなかった。
 家を出るのは、毎日ゼミ室に行っていた頃より30分くらい早い7時50分過ぎだった。電車に乗って大学に行けば8時30分にはゼミ室でお茶を一杯飲み干してしまう。こんな日は歩いて行こうと、駅ではなく大通りの方を目指して足を進める。


 土曜日とはいえ朝の8時。通勤通学の人がいてもおかしくない時間帯なのに、大通りの歩道は私の貸切状態だ。大学構内に入ればなおさら人はいない。いつも通り駅から歩いて到着するのと大して変わらない時間帯なのに、サークルに向かう下級生の集団に1つも出会わなかった。枯葉だけが私の前を通り過ぎる。
 ゼミ室には案の定誰もいない。
 誰もいないゼミ室は心臓が止まったような、無の空間が広がっている。
 本棚2段分、用意されていた卒論棚は、役目を終えてぽっかり空白になっている。
 1人一段与えられたゼミ生棚。こちらも4年生の棚はガラ空きだ。残すは私の筆入れと龍仁の辞書くらいだった。

 (なんて言ったら、いいんだろう?)

 昨日の遅くに先生から来たメールには、4年生にも後輩たちにも伝えるべきことはたくさんあったけれど、結局どれも伝えられず、誰かがゼミ室に来てくれそうな、荷物の連絡しかできていなかった。追いコンや卒業旅行がなくなるなんて、卒業式すら危ういなんて、この世のこととは思えていないのが現実だった。誰かと話して、自分が生きていることを実感したくてたまらなかった。


 ブルッ。
 スマホが震えた。誰かから連絡だろうか。

 「今日ゼミ室いく?」

 美波からの個人ラインだった。

 「うん。」

 「行くというか居る。」

 すぐに返信したラインに、送った瞬間、既読がつく。

 「うちの席に座って写真撮ってくれない?」

 「美波の席って、窓側の真ん中?」

 「うん。」

 対角の自分の席から美波の席に移動する。うちのゼミは固定席ではなかったが、毎日来る人はそれとなく自分の席が決まっていて、いつも同じ席に座っていた。
 美波の席。
 ただのパイプ椅子。
 座るときしむし、ひけばガタガタ音が鳴る。
 そこに座って写真を撮る。
 正面に見えるのは、印刷用のパソコン。その上に印刷機、その下には過去の卒論が置いてある。
 そんな画面を写真におさめ、送信した。

 「ありがとう。」

 やはり送ると同時に既読がつく。自分の席に戻ろうとパイプ椅子をガタッとひくと、すぐにスマホが震える。

 「前だけじゃなく、右とか左とか斜めとか、、座った目線で何枚も撮っておいてくれない?」

 美波の注文はさらに続く。

 「できれば、ゼミ室入ってからうちの席に座るまでの動画も。」

 「帰る時の動画も。」

 「行ければ先生の部屋のドアも。」

 読んでいる間に次々と要求が送られてくる。

 「撮るけど、美波来たら?」

 「ダメ」

 素朴な疑問だったのに、バッサリ切り捨てられてしまった。

 「この前、サークル旅行でヨーロッパ行ってきたじゃん。そのうち1人がいま熱出してるんだよね。」

 おでこからサーッと血がひいていくのを感じた。

 「その子が保健所に連絡したら、保健所からうちに連絡きて、2週間自宅待機って言われちゃって、行けないの。」

 画面に映る文字が、ゲシュタルト崩壊のようにポロポロ崩れ落ちる。そのくらい信じられない出来事だった。

 「卒業前にゼミ室行きたいんだけど、私が熱出すかもだし、大学入れなくなるみたいだし、舞音ならいるかなってお願いしたいの。」

 「お願いできる?」

 返信を見てそのままラインを閉じた。そのままカメラアプリを起動する。ふたたびパイプ椅子に座り、右や左や後ろや上を向いて写真を撮ってみる。
 なんでもないこのゼミ室が、私たちには青春の場所なのだ。ここで悩み苦しみ笑い合った日々そのものが私たちの青春だった。最後にここで思い出に浸ることができない美波のために、学生の美波が見ていた景色を精一杯スマホにおさめた。

 (じゃあ次はゼミ室を出て、先生の部屋へ、と。)

 ガタガタと椅子をひき、ゼミ室の出口までの動画を撮りはじめる。美波の想像力に任せるため、なるべく声は出さないように。

 「わー!」

 「『わー』って失礼な、荷物取りに来いって言ったのはどっちだよ!」

 ゼミ室を出ようとしたところに龍仁が入ってきた。白いマスクをしていて、少し声がこもって聞こえる。

 「舞音、マスクは?」

 「うちに無くて、気づいたらもう黒いのしか売ってないし、そんな怖そうなのつけられないじゃん。」

 「マスクしないで外歩くって、このご時世無防備すぎるぞ。ウィルスうつるかもしれないし、白い目で見られるだろうし、よく無事にゼミ室まで来れたな。」

 よくよく考えると、龍仁の言うとおりだった。もう、新型のウィルスは咳やくしゃみに含まれる飛沫により感染することがわかってきていて、潜伏期間が非常に長いことが知られていた。街ゆく人は必ずマスクをしていて、マスクをせずに出歩く人には白い目が向けられていたのも事実である。
 龍仁は話しながら器用にリュックサックを開け「はい」とマスクの袋を手渡してくれた。

 「いいの?」

 「ああ、ちょうど買ったばかりだったから、予備はある。」

 「ありがとう。」

 さっそくマスクをつけて、一旦ゼミ室の自分の席に戻る。龍仁は私の席とは対角の定位置に座った。


 「なあ、先生からの連絡って、まだあった?」

 「うん。ある。」

 龍仁は「そうか」とつぶやいて、お茶を淹れるためにお湯を沸かしに席を立った。水の音だけがゼミ室を包む。

 「卒業旅行は、なしか?」

 「うん。」

 「じゃあ追いコンもだろ?」

 「うん。」

 「だよな。」

 龍仁は思い当たることを次々に聞いてきた。そしてすべて当たっていた。マスクを外して歓談する、飲食の場での広がりが多かったから、思いつくといえば、そうだった。
 龍仁は辛い事実を淡々と確認し、お茶を入れる。「飲むか?」と私の分も注いでくれた。対角に並ぶ2つの湯気が出るカップ。座ったまま、私はどうしても卒業式のことを話さなくてはと何度も頭の中で練習する。あわよくば卒業旅行でいう予定だったことも。言葉が出てこないまま、お茶が喉を通り過ぎる。

 「ねえ。」

 「うん?」

 声をかけて、勢いをつけるためにお茶を一口、口に含む。

 「まだ決定じゃないけど、卒業式もできないかも知れない。」

 私の告白に、龍仁は明らかに目の光を閉ざしてしまった。私だってこんなこと言いたくない。でも、一人で抱えているほど強くもなかった。

 「じゃあ、これで最後かもな。」

 「え?」

 「舞音、仙台で研修して札幌勤務って言ってただろ? おれ、九州になったから、もう会えないかもしれない。」

 (そんなぁ。)

 落胆の声を殺して、龍仁の言葉を反復する。私は札幌勤務で、龍仁は九州勤務。もう、私たちが会うことは、ない。

 「おれ、飯森ゼミになって、良かったよ。」

 「私も。」

 「舞音は第一希望だろ?」

 「え、龍仁違ったの?」

 「ああ。あんまり言ってなかったけどな。」

 さっきまでの暗い雰囲気が、お茶の湯気でほぐされていく。

 「ここで青春できて、よかった。みんなと同期になれてよかった。現役で受かっていたら、第一希望のゼミに入れていたら、こんな幸せ、なかったからな。」

 「うん。私も。」

 龍仁の思わぬ告白に、精一杯こたえをしぼりだす。

 「きっとこの状況、すぐにはおさまらないぜ。おれらにあった花見も七夕も、3年生にはないかもしれない。高校生には最後の部活も学校祭もないかもしれない。おれらは青春やり切れたんだから、幸せなんだよな、きっと。」

 「そうだね。」

 龍仁の言う通りだった。大学卒業のイベントがないのは悲しいが、それとは比べものにならない何かを失っている人もたくさんいる。もう一度、勢いをつけるためにお茶を飲み干す。これでもう、後はない。

 「龍仁、私…。」

 「幸せになれよ。」

 私の声を龍仁がかき消す。

 「遠くに行っても、おれらは、同期だ。もっと最後に楽しみたかったけど、あとは自分で幸せを見つけてほしい。」
 そう言うと、龍仁は自分と私のカップを取って手洗い場で洗い始めた。

 「さ、あんまり長居して先生困らせるわけにもいかねぇし、そろそろ帰ろう。」

 「うん。」

 すべての荷物をまとめて、龍仁とゼミ室を出る。振り返るとそこには4年生の痕跡が何も無くなったゼミ室が広がっていた。もう、私たちの居場所はここにはない。

 「じゃあ、元気でね、また連絡するね。」

 「ああ。元気でな。」

 私は大通りに向かって、龍仁は駐車場がある裏道の方へ身体を向ける。

 「幸せになれよ!」

 「龍仁もね!」


 結局、私は告白できなかった。
 あっけなく、私たちの卒業式は中止になり、実家に送られたレターパックで卒業証書を受け取って、青春に終止符を打たされた。