ゼミ室に帰ったのは、ちょうどピザがレンジで温まったところだった。
「おかえり。買ってあったピザ、温めといたぞ。」
「ジュースは飲んじゃった。」
ペーさんや将志くんや、みんなに出迎えられた。太一と清子ちゃんは印刷用パソコンの近くで出来上がった卒論を抱きしめていて、当の弘弥はパソコンを広げているが、頭を抱えながら突っ伏している。
「おい、進んでるのか?」
「まあ、1時間で3行…。」
「3行って、おい! 大丈夫なわけないだろ!」
龍仁が確認すると、案の定だった。弘弥の卒論は話にならないほど進んでいない。
「お腹も空いたから、まず食べよ! 晩餐会は弘弥が完成してからだね。」
私がそう仕切り出すと、美波も龍仁も買ってきたものを広げ、食べる準備を始めた。みんなもジュースを出し、皿を並べ、箸を並べ、いそいそと準備に加わる。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきまーす!」
私の合図でみんな食べたいものをとり始める。今までも飲み会の後やスキー旅行の後に、こうやってゼミ室で二次会的に楽しんだことはあったけれど、同期全員そろうのは初めてかも知れない。
「ポテト取ってー。」
「はーい、じゃあチキンちょうだい!」
太一が居て、将志くんが居て。清子ちゃんがむせている。
「むせたのかよ。はい、お茶。」
「…ふー。ありがとう。」
ペーさんが目の前にあったお茶を差し出す。
「ピザおいしいね!」
「温めておいてくれて、ありがとう。」
彼氏がいる美波と龍仁が向かい合って座り、ピザを食べている。こういう何気ないゼミ室を見ているのが、好きだ。
明日からは卒論が終わって、もう、ゼミ室に集まる理由がなくなる。8人全員そろうのは3月飲み会の追い出しコンパと、卒業旅行くらいだろうか。いつもの4人も、いままでのように毎日来ることはなくなる。それぞれの卒業前の過ごし方があり、新生活への準備がある。
「弘弥、もういいの?」
「うん。俺が終わらなきゃみんな帰れないもん。」
隣に座っている弘弥は、まだはじめにとったピザとポテトしか食べていない。足りるようには思えなかったが、食べている場合ではないというのもわかる気がした。
「ぶっちゃけ、どのくらい進んでるんだ?」
「うーんと、えーっと…。」
「あと『終わりに』とか『資料まとめ』とか、どうなの?」
「いや、その…。」
太一の問いかけにも清子ちゃんの問いかけにも、弘弥は微妙な反応をしている。
「じゃあ、書けているのは? はじめに、とか、1章、とか。」
私が聞いた答えを、食べる手を止めてみんなで待っている。
「…はじめに、1章は書けた。」
しばらく間をおいて、ぼそっとした声で弘弥が答える。
「2章とか3章とかは?」
「2章と3章も書けている。」
すかさず龍仁がその先を聞く。ここまで聞くと、ちゃんと進んでいるようだ。
「3章で終わり?」
「いや…。」
美波が追い打ちをかける。そして弘弥は黙ってしまう。黙ってうつむいたまま、温かいピザのにおいだけがゼミ室を覆う。
「おお、いいにおいじゃないか。卒論は進んでいるか?」
飯森先生がやってきた。みんな愛想笑いでごまかす。弘弥の卒論が進んでいないことを悟られてはいけない。
「弘弥、どうだ?」
「え、あ…、う…、その…。」
卒論棚のことは先生もご存知で、入ってからのこの一瞬で、弘弥以外の7人分が入っていることを見抜き、ピンポイントで聞いてきた。
「5章まで書く予定だよな、どこまで進んでいる?」
「いや…、その…。」
周り7人の表情が一気に曇る。弘弥の卒論は半分近く残っている。あと2章も書かなければ終わらない。
「ま、年に1人くらい居るからな。とにかくやらないと終わらないからな。出されたものは、誰が印刷したとか、誰が綴じたとか、わからないからな。とにかく出せば、明日のお疲れパーティーは出れるからな。」
みんなでうつむきながら先生の話を聞く。とにかくやらなければならないことが世の中にはある。卒論もそう。飯森ゼミは独りで孤独に戦うのではなく、テーマは違ってもみんなで協力して、苦しさを分かち合って乗り越える。それが伝統だった。
「じゃあ、弘弥、頑張ってくれ。舞音、食べたらちょっと来てくれるか?」
「はい、わかりました。」
「じゃ!」
先生はそのままつまみ食いもせずに研究室へ帰って行った。
「やらなきゃダメなのか…。」
弘弥はうつむいていたのが、突っ伏すようにうなだれてしまっている。
「おい、3章までは印刷してあるのか?」
「いや。」
「USBに入れて。弘弥は4章書いてて。」
龍仁は食べていたチキンを置いて、龍仁の隣まで歩み寄る。弘弥はしぶしぶパソコンを開いて、USBにデータを入れる。
「すまん。やってなかった俺が悪いのに。」
「謝るのは全部終わってから! さ、やったやった!」
龍仁は弘弥の肩をたたいて激励する。みんなでエールを送りながら、弘弥はやっとパソコンに真剣に向き合い始めた。
「舞音、先生に呼ばれてたろ?」
「そうだった。このピザ食べたら行ってくる。」
印刷をしながらも、全体のことを見ていて、ピザに浮かれている私のことも気にかけてくれていた。サクッとピザをほおばり、サイダーで飲み込んで、先生の研究室へ向かう。
「失礼します。」
「おお、来たか。」
先生はいつもの通り、本に囲まれて、辞書の山の中から現れた。
「卒業旅行、どうする。」
「あぁ、その件でしたら…。」
私はゼミ長として、昼のゼミ室や夕方の車の中で話したことをお伝えした。今の状況では中国への卒業旅行は厳しいと思っていること。代替案としてアメリカが出てきていること。お金の心配がある将志くんも了承していること。
「そうか、そうだよな。」
「龍仁は麻婆豆腐楽しみだったみたいですが、仕方ないですよね。」
先生は腕を組みながら、座っている椅子をゆっくりと一回転させる。
「アメリカも難しいかも知れない。」
「え?」
先生のお話では、およそ10年前の新型インフルエンザのときには、他のゼミ旅行で海外に行けなかったり、当時のゼミ生の短期留学が延期になったりしたそうだ。その様子を踏まえると、海外への卒業旅行は難しいとのことだった。
「まあ、今は弘弥の卒論を終わらせてやって、そこからでいいから、ちょっと考えてくれないか?」
先生の言葉が頭の中にこだまする。「考えてくれないか?」って何を。中国がダメなのはわかるけど、海外自体ダメとなると、楽しみにしていたみんなの気持ちが地に落ちてしまう。協力して卒論もできそうなんだから、ぜっかくの学生最後を楽しみたいと思っている。
旅行を変更するにしても、もうみんな他の予定が入っていて、これから日程を変えるのは不可能に近い。同じ日程、3月2日からの一週間で行けそうな海外旅行以外の旅行先。気持ちは海外に向いているみんなが納得できるような旅行にできるだろうか。
先生の研究室からの帰り道、ずっとそんなことを考えていた。
「おかえり!」
「ただいま。」
「弘弥、4章終わったよ。このペースだと今日中には乾杯できそうだな。」
ゼミ室に帰ると、いつものみんなが待っていた。美波とぺーさん、太一に清子ちゃんは手前の机でご飯を前に談笑している。弘弥は奥の机でパソコンを広げて卒論に向かっている。将志くんは手前の手洗い場で終わった食器を片付けてくれている。
「舞音もこっち来いよ。」
龍仁は弘弥の前の席に座って、私に隣に座るよううながす。
「うん。」
ソロソロと運ぶ足が龍仁に近づくにつれ、自分の鼓動をより強く感じる。龍仁の隣に座って弘弥に「頑張って」の視線を送る。
ここは温かくて色々な心配を吹っ飛ばしてくれる、私の大事な居場所だと感じた夜だった。
「おかえり。買ってあったピザ、温めといたぞ。」
「ジュースは飲んじゃった。」
ペーさんや将志くんや、みんなに出迎えられた。太一と清子ちゃんは印刷用パソコンの近くで出来上がった卒論を抱きしめていて、当の弘弥はパソコンを広げているが、頭を抱えながら突っ伏している。
「おい、進んでるのか?」
「まあ、1時間で3行…。」
「3行って、おい! 大丈夫なわけないだろ!」
龍仁が確認すると、案の定だった。弘弥の卒論は話にならないほど進んでいない。
「お腹も空いたから、まず食べよ! 晩餐会は弘弥が完成してからだね。」
私がそう仕切り出すと、美波も龍仁も買ってきたものを広げ、食べる準備を始めた。みんなもジュースを出し、皿を並べ、箸を並べ、いそいそと準備に加わる。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきまーす!」
私の合図でみんな食べたいものをとり始める。今までも飲み会の後やスキー旅行の後に、こうやってゼミ室で二次会的に楽しんだことはあったけれど、同期全員そろうのは初めてかも知れない。
「ポテト取ってー。」
「はーい、じゃあチキンちょうだい!」
太一が居て、将志くんが居て。清子ちゃんがむせている。
「むせたのかよ。はい、お茶。」
「…ふー。ありがとう。」
ペーさんが目の前にあったお茶を差し出す。
「ピザおいしいね!」
「温めておいてくれて、ありがとう。」
彼氏がいる美波と龍仁が向かい合って座り、ピザを食べている。こういう何気ないゼミ室を見ているのが、好きだ。
明日からは卒論が終わって、もう、ゼミ室に集まる理由がなくなる。8人全員そろうのは3月飲み会の追い出しコンパと、卒業旅行くらいだろうか。いつもの4人も、いままでのように毎日来ることはなくなる。それぞれの卒業前の過ごし方があり、新生活への準備がある。
「弘弥、もういいの?」
「うん。俺が終わらなきゃみんな帰れないもん。」
隣に座っている弘弥は、まだはじめにとったピザとポテトしか食べていない。足りるようには思えなかったが、食べている場合ではないというのもわかる気がした。
「ぶっちゃけ、どのくらい進んでるんだ?」
「うーんと、えーっと…。」
「あと『終わりに』とか『資料まとめ』とか、どうなの?」
「いや、その…。」
太一の問いかけにも清子ちゃんの問いかけにも、弘弥は微妙な反応をしている。
「じゃあ、書けているのは? はじめに、とか、1章、とか。」
私が聞いた答えを、食べる手を止めてみんなで待っている。
「…はじめに、1章は書けた。」
しばらく間をおいて、ぼそっとした声で弘弥が答える。
「2章とか3章とかは?」
「2章と3章も書けている。」
すかさず龍仁がその先を聞く。ここまで聞くと、ちゃんと進んでいるようだ。
「3章で終わり?」
「いや…。」
美波が追い打ちをかける。そして弘弥は黙ってしまう。黙ってうつむいたまま、温かいピザのにおいだけがゼミ室を覆う。
「おお、いいにおいじゃないか。卒論は進んでいるか?」
飯森先生がやってきた。みんな愛想笑いでごまかす。弘弥の卒論が進んでいないことを悟られてはいけない。
「弘弥、どうだ?」
「え、あ…、う…、その…。」
卒論棚のことは先生もご存知で、入ってからのこの一瞬で、弘弥以外の7人分が入っていることを見抜き、ピンポイントで聞いてきた。
「5章まで書く予定だよな、どこまで進んでいる?」
「いや…、その…。」
周り7人の表情が一気に曇る。弘弥の卒論は半分近く残っている。あと2章も書かなければ終わらない。
「ま、年に1人くらい居るからな。とにかくやらないと終わらないからな。出されたものは、誰が印刷したとか、誰が綴じたとか、わからないからな。とにかく出せば、明日のお疲れパーティーは出れるからな。」
みんなでうつむきながら先生の話を聞く。とにかくやらなければならないことが世の中にはある。卒論もそう。飯森ゼミは独りで孤独に戦うのではなく、テーマは違ってもみんなで協力して、苦しさを分かち合って乗り越える。それが伝統だった。
「じゃあ、弘弥、頑張ってくれ。舞音、食べたらちょっと来てくれるか?」
「はい、わかりました。」
「じゃ!」
先生はそのままつまみ食いもせずに研究室へ帰って行った。
「やらなきゃダメなのか…。」
弘弥はうつむいていたのが、突っ伏すようにうなだれてしまっている。
「おい、3章までは印刷してあるのか?」
「いや。」
「USBに入れて。弘弥は4章書いてて。」
龍仁は食べていたチキンを置いて、龍仁の隣まで歩み寄る。弘弥はしぶしぶパソコンを開いて、USBにデータを入れる。
「すまん。やってなかった俺が悪いのに。」
「謝るのは全部終わってから! さ、やったやった!」
龍仁は弘弥の肩をたたいて激励する。みんなでエールを送りながら、弘弥はやっとパソコンに真剣に向き合い始めた。
「舞音、先生に呼ばれてたろ?」
「そうだった。このピザ食べたら行ってくる。」
印刷をしながらも、全体のことを見ていて、ピザに浮かれている私のことも気にかけてくれていた。サクッとピザをほおばり、サイダーで飲み込んで、先生の研究室へ向かう。
「失礼します。」
「おお、来たか。」
先生はいつもの通り、本に囲まれて、辞書の山の中から現れた。
「卒業旅行、どうする。」
「あぁ、その件でしたら…。」
私はゼミ長として、昼のゼミ室や夕方の車の中で話したことをお伝えした。今の状況では中国への卒業旅行は厳しいと思っていること。代替案としてアメリカが出てきていること。お金の心配がある将志くんも了承していること。
「そうか、そうだよな。」
「龍仁は麻婆豆腐楽しみだったみたいですが、仕方ないですよね。」
先生は腕を組みながら、座っている椅子をゆっくりと一回転させる。
「アメリカも難しいかも知れない。」
「え?」
先生のお話では、およそ10年前の新型インフルエンザのときには、他のゼミ旅行で海外に行けなかったり、当時のゼミ生の短期留学が延期になったりしたそうだ。その様子を踏まえると、海外への卒業旅行は難しいとのことだった。
「まあ、今は弘弥の卒論を終わらせてやって、そこからでいいから、ちょっと考えてくれないか?」
先生の言葉が頭の中にこだまする。「考えてくれないか?」って何を。中国がダメなのはわかるけど、海外自体ダメとなると、楽しみにしていたみんなの気持ちが地に落ちてしまう。協力して卒論もできそうなんだから、ぜっかくの学生最後を楽しみたいと思っている。
旅行を変更するにしても、もうみんな他の予定が入っていて、これから日程を変えるのは不可能に近い。同じ日程、3月2日からの一週間で行けそうな海外旅行以外の旅行先。気持ちは海外に向いているみんなが納得できるような旅行にできるだろうか。
先生の研究室からの帰り道、ずっとそんなことを考えていた。
「おかえり!」
「ただいま。」
「弘弥、4章終わったよ。このペースだと今日中には乾杯できそうだな。」
ゼミ室に帰ると、いつものみんなが待っていた。美波とぺーさん、太一に清子ちゃんは手前の机でご飯を前に談笑している。弘弥は奥の机でパソコンを広げて卒論に向かっている。将志くんは手前の手洗い場で終わった食器を片付けてくれている。
「舞音もこっち来いよ。」
龍仁は弘弥の前の席に座って、私に隣に座るよううながす。
「うん。」
ソロソロと運ぶ足が龍仁に近づくにつれ、自分の鼓動をより強く感じる。龍仁の隣に座って弘弥に「頑張って」の視線を送る。
ここは温かくて色々な心配を吹っ飛ばしてくれる、私の大事な居場所だと感じた夜だった。