歳は明け、卒論提出は明日に迫った。
 うちの学部は紙とデータでの提出で、受付時間は15時から17時の2時間しかない。その間に他のゼミの学生も含めて200人くらいが大講義室を訪れ、卒論を提出する。もちろん提出時間に1秒でも遅れたら受付してもらえず、卒業延期が確定する。
 飯森ゼミでは不測の事態に備えて年末から数日おきに最新の卒論の印刷物とデータをゼミ室に保管するようにしている。急に帰省が必要になったときや急病の際に、同期が代理で出せる体制を整えている。完成版は前日の夜には印刷して、提出日には何もしない時間を過ごしてみんなで出しに行くのが恒例だった。

 「将志くん、昨日置いてったよね? 弘弥のどこにある?」

 ゼミ室の本棚に「卒論専用コーナー」を作り、一人ひとり最新の卒論を置いていくことになっていた。私や龍仁、ぺーさん、美波はいつもゼミ室に居るから新しく書け次第、置いて居た。他の4人は月イチくらいで置いていたが、さすがに1月をすぎてからは、それぞれ週イチくらい、最後は2日おきにはゼミ室に来て卒論を印刷していた。
 それぞれ置く場所が決まっているから、無い人はすぐにわかる。もう明日に迫った午後だというのに、8人分の棚は7人分しか埋まっていない。

 「いや、しばらく見てない気がする。少なくとも3日くらい…。」

 ペーさんが問いかけに答える。私は朝からゼミ室に居るが、連日最後まで居るのは、昼過ぎにやってくるペーさんだった。バイトやサークルの4人は夜中に来ることが多いから、ぺーさんに進捗状況を聞いてもらって、ゼミ長の私が先生に報告する、という流れだった。

 「お、既読ついた!」

 私とペーさんも龍仁のスマホに注目する。いつも連絡が早いのが龍仁だ。

 「『今日は行く』だって。」

 「何時くらいか聞いてみて。」

 「うん、打ってる。あ、5時にバイト終わるって。」

 「5時か…。」

 夕方5時といえば、いつも私が帰る時間帯だ。帰ったからといって、家でゆっくりするだけなのだが。

 「さすがに今日入ってないのは、心配だよね。」

 「まあ、自分で書くしかないけど、放っておけないよな。」

 龍仁も私と同感だった。
 飯森ゼミにおいて、卒論は全員が通り抜けなければならない登竜門。ちゃんと向き合って、苦労して、自分で書き上げたものしか、先生は通してくれない。でも、それは決して孤独な戦いではなく、ゼミ室だったり、連絡を取るライン上だったりで辛さを共有しながら紡ぎあげる、同期の共同制作的な一面もある。

 「じゃあ、今日は弘弥ができるまで居残りだな。夜なに食う?」

 「どっか食べに行くのは、アレだから、なに買ってきてもらおうかな?」

 「オレが買出し前提かよ!」

 こうなったらゼミの同期でご飯を食べに行くのがいつものことだった。今日は事情が事情だけに、外食とはいかないが。結局ペーさんにおまかせにしたら、スーパーのピザとジュースを買ってきた。


 「みんなこのまま出すの?」

 「やっぱ、結論が気に入らないから、もう少しやろうかな。」

 「オレ、はじめに、だな。ちょっと書き直してみようと思う。」

 ペーさんが帰ってきても弘弥はやって来なかった。いつものメンバーはおおよそ卒論が仕上がっていたが、どうせ残るとなると書き直したくなってくる。龍仁もペーさんも書き直すようだ。

 「じゃあ、私も見返そうかな。」

 「今になってなんかしっくり来ないとか、イヤだよね。私はあえて見ないでおこう。」

 ペーさんが帰るより少し早くゼミ室にやってきた美波は、見直しはせず、全員の完成を見届けるようだ。

 「いやー、そうだよね。そんなことになったら、泣いちゃうどころじゃないよね。でも、気になる…。」

 ペーさんと龍仁はそれぞれパソコンと卒論の束を開いて見返し始めている。私も卒論棚の自分の束を手にかける。美波はポケットからスマホを取り出す。ピザの匂いがただようゼミ室で、それぞれがそれぞれに自分と向き合う時間となった。今までもこんなことがあったのだろうけど、明日からはこういう時間はもうやってこない。今だけの特別な時間だ。


 ガチャッとドアが開く。4人の視線が卒論とスマホから一斉に入口に動く。

 「お疲れー、舞音ちゃん久しぶり!」

 「ひさしぶり。」

 清子ちゃんの高い声とは対照的に落ち着いた声になってしまう。16時半を超えてやってきたのは清子ちゃんだった。

 「まとめの印刷終わってなくてさ。いまプリンター空いてる?」

 入ってくるなり一番奥の印刷用パソコンにUSBを挿す。あらかじめ打ち込んであった清子ちゃんの卒論が次々とプリンターから出てくる。紙が流れる音だけがゼミ室を満たしている。

 「舞音ちゃん、卒業旅行だけどさ、中国大丈夫かな?」

 「え?」

 「私も思ってたんだよね〜。」

 「美波も?」

 印刷を待つ合間に清子ちゃんから投げかけられる。美波も同じことを思っていたとは。

 「オレは収まるんじゃないかって思ってるよ。」

 「新型インフルのときはどうしていたんだろうね。」

 ペーさんと龍仁も話に乗ってくる。
 この頃、中国では新型ウイルスの感染が広がっていた。まだ中国だけで、日本での生活に支障はない。ただ、旅行に行くとなると話は違ってくる。私はあまりニュースを見ていなかったが、みんなニュースで確認してそれぞれに思いがあるようだった。


 ガチャッと再びドアが開く。5人全員の視線が入口に動く。

 「おお、お疲れ! ポテチ買ってきたぞ!」

 「な〜んだ、太一か。」

 「いつになったら弘弥来るんだよ。」

 ペーさんと龍仁が反応する。
 内心、これがもし、先生だったら卒業旅行の相談ができたのになあと思っていた。時刻はバイトが終わると言っていた午後5時をとうに過ぎている。太一は到着するなり印刷用のパソコンに一目散だ。

 「なんだ、空いてないのか。」

 「ごめんねー。あと10枚くらいだから、ちょっと待ってて。」

 清子ちゃんの印刷はまだ終わっていない。少し待てば順番が来るものを太一は待てずに買ってきたポテチを頬張り始める。

 「なあ、卒業旅行、本当に中国行く?」

 「さっきもその話してたんだよね。」

 「死者出たらみてーだからよ。おれ、命がけでは行きたくねーよ。」

 「うん。どうしよう。」

 思っている以上に中国の状況は厳しいようだ。どんな病気なのか、どんな症状があるのか、まだ不明なことが多い。その中で初めて見つかった中国に行くのは、もはや無理に近い状態だった。


 「中国じゃないなら、アメリカ行きたいな!」

 音も立たずに将志くんが入ってきた。

 「おい、いつ来たんだよ。」

 「いまさっき。みんなとピザ食べたいなぁって思って。ジュース買ってきたよ!」

 ペーさんがびっくりすると、身長の影響か部屋全体が揺れるくらいびっくりしてしまう。将志くんが買ってきたジュースはよくスーパーで安売りしているやつだけど、みんなで飲みたい気持ちが詰まった素敵なジュースになっていた。

 「アメリカね。アメリカならいっぱいツアーあるだろうから、いい感じのが、まだあるかもしれないよね。」

 行ったこともないのに、頭の中にアメリカを思い浮かべる。とにかく大きなアメリカンなごはん。自由の女神。少し強面(こわもて)で陽気な人々。本格中国料理とはいかなくても、それ以上の経験ができるかもしれない。

 「アメリカに変更しないか、卒論出したら、先生と相談してみよっか!」

 よし、そうしよう。と多くの賛同が得られたところで、印刷のパソコンは清子ちゃんから太一に選手交代する。

 「ごめん、心配かけた!! これからやるから大丈夫! なはず、ハハハァ。」

 ようやく弘弥がやってきたのは17時半近くになってからだった。