「おはようございます。」
誰も居ないゼミ室でも、挨拶して入るのが私のこだわり。明日からは年末年始の大学閉鎖で、今日はゼミ室での卒論おさめだ。
忘年会からというもの、酒もやめて、テレビもやめて、卒論に集中している私がいる。おかげで3分の2は書き上がり、あとはまとめに入るため、休み前に資料を整理しようと思っていたところだった。
リュックを下ろし、ゼミ室をお正月仕様にするためのグッズを取り出す。小さな鏡餅と上に乗せる葉付きのみかん。カレンダーは先生がくれた車屋さんのを貼って、あとは干支の置物を棚から出すだけ。干支の置物は何年か前の卒業生が卒業旅行で買ってきてくれたもので、12種類の動物の鈴となっている。まあ、音を聞くのは飾るために動かすときだけだけど。
置物の棚は本棚の上にある。背伸びをしても届かないから、机を動かして足場を固める。それでも手を伸ばさないと届かなくて、私一人では心細い。
(ペーさんでも来たらなぁ。)
ペーさんは同期の中で一番背が高い。180cmを超えていて、ヘラヘラしている割に実は、高いというより長い、ギャップの持ち主だ。
「よっこいしょ!」
「『よっこいしょ』っておばさんかよ。」
手を伸ばしたところにしたから関節の目立つ手が伸びてきた。龍仁の白い手だった。
「もー、もう少し早く来たらやってもらったのに!」
「来るまで待ってたらよかったじゃないか。来年は何年?」
「来年年男でしょ! ネズミだよ。早く出して。」
龍仁は1年浪人しているからひとつ年上。24歳になる年だから年男になる。12個の鈴が入ったダンボールからネズミの鈴を取り出して、しゃがんだ私の手に載せてくれた。
「なに両手つかってんの。そんなに危なっかしい渡し方した?」
「い、いや! 念には念をね! ゼミの大事な置物だから!」
早口でここまでデマカセが出てくるのに、自分でもびっくりする。かすかに触れた龍仁の手は温かく、少し皮膚が硬く乾燥していた。
「おう、おはよう。正月準備はどうだ?」
飯森先生がゼミ室に来てくれた。
「おはようございます。掃除は昨日みんなでやって、置物も下ろしたし、あとは飾りつけるだけです。」
「そうか。みんなのおかげでゼミ室も正月を迎えられそうだな。卒論はどうだ?」
「私はあとまとめかなぁって感じです。」
「俺はもう少し調べなきゃいけないこと見つけたんですけど、時間的に厳しいなぁってご相談に伺おうと思ってました。こういう場合ってどうしたらいいんでしょうか?」
「正月休みと入試を抜かしたら、あと2週間ちょっとだもんな。でも、卒論ってやるしかないんだよな。まとめも、これから調べるのも、辛いのは充分わかるけど、それでもやらなきゃいけないんだよな。」
先生のごもっともなお話に、私と龍仁はその場で固まるしかなかった。何も言えず、タジタジな私たちをよそに、先生はポットのお湯でお茶をいれている。飯森ゼミではお茶は飲みたい人が自分で入れることになっている。雪はないが充分に冷え込んでいるのか、先生のカップからは湯気が立っている。湯気の流れだけがゆったりとした時間の流れを感じさせるくらい、私たちは何も言えずにいた。
「そうだ、舞音たちは卒業旅行、どうするんだ?」
「いや、まだ卒論ができてないんで、なにも話は出てないっすね。」
私より先に龍仁が答えてしまった。
「そうか。今年の4年生は人数が多いからな。そろそろ予定合わせないと、合わないんじゃないか?」
先生の言うとおり、私の同期は人数が多い。飲み会にいつも来るペーさんと美波と龍仁と私。それにサークルが忙しい清子ちゃんや、バイトが忙しい弘弥と太一はなかなか来られない。常に金欠でなかなか来れない将志くんも来られない。そんなこんなで、在籍している人は8人になる。キョーコさんたちが4人だったことを考えると、かなり多い。卒業旅行はいわゆるレアキャラな人も含め、全員で行くのが基本だから、その予定を合わせるのは至難の業だ。
「キョーコさんたちは今頃もう決めていましたもんね。」
「キョーコたちは場所から決めていたな。最終的に時期まで決まったのは卒論が終わってからだったよ。」
「じゃあ、日程だけでもそろそろ決めておかないとなぁ。弘弥がシフト入れちゃうだろ?」
話が決まると、龍仁の行動は早い。すぐに机に置いていたスマホを取り出して、同期ラインに日程調整のアンケートを作った通知が、私の太ももをふるわせる。
「おはようございます。」
「おう、元気だったか?」
いつも金欠の将志くんがやってきて、先生が声をかけた。たしか忘年会前の授業で会ったきり3週間ぶりくらいだ。将志くんの実家は九州だが、金欠のためかなりギリギリまでこっちに残ってバイトに明け暮れている。
「元気でしたよ。今年は帰省しないでバイトしながら卒論やらなきゃと思って。」
「おう、そうだったか。卒論の調子はどうだ?」
「や〜、もっと早くからやっておけばなぁと。時間ないっすね。」
「そうだな。2人にもやるしかないって話してたところだったんだよ。」
「ねえ将志くん。卒業旅行、どうする予定だった?」
8人の日程を調整するのもそうだが、全員が行ける旅行を企画するのも至難の業だと思っていた。将志くんはゼミの飲み会に一度も来れたことがなく、季節行事も泊まりとなると行けなくなっていた。
「行きたいと思ってた。」
「そう、じゃあ近場のほうが…。」
「いや、せっかくだから海外になっても行きたいなって思ってたんだ。正月の帰省やめたのは金貯めるためもある。」
「おう、いいな海外。」
急に将志くんの口から「海外旅行」なんてワードが出てきたから、私も龍仁もびっくりして固まっている。また固まる私たちを置いて先生の心は海外旅行に奪われている。
「海外ならどこだ? 台湾、中国、韓国、シンガポール。うーん、中国だな。」
「中国って、正月ずれるんじゃなかったっけ?」
将志くんが私に聞いてきた。
「ああ、そうだな。中国なら行くのは3月だな。本当の中国料理を食べてこようじゃないか。」
「3月っすね、わかりました!」
龍仁がまた同期ラインに日程調整を送信する。太ももに走るバイブが、ただここで話していただけのことが、現実に変わったことを告げる。
「じゃあ決まりだな。3月に中国。さあ、卒論やってくれ〜!」
誰も居ないゼミ室でも、挨拶して入るのが私のこだわり。明日からは年末年始の大学閉鎖で、今日はゼミ室での卒論おさめだ。
忘年会からというもの、酒もやめて、テレビもやめて、卒論に集中している私がいる。おかげで3分の2は書き上がり、あとはまとめに入るため、休み前に資料を整理しようと思っていたところだった。
リュックを下ろし、ゼミ室をお正月仕様にするためのグッズを取り出す。小さな鏡餅と上に乗せる葉付きのみかん。カレンダーは先生がくれた車屋さんのを貼って、あとは干支の置物を棚から出すだけ。干支の置物は何年か前の卒業生が卒業旅行で買ってきてくれたもので、12種類の動物の鈴となっている。まあ、音を聞くのは飾るために動かすときだけだけど。
置物の棚は本棚の上にある。背伸びをしても届かないから、机を動かして足場を固める。それでも手を伸ばさないと届かなくて、私一人では心細い。
(ペーさんでも来たらなぁ。)
ペーさんは同期の中で一番背が高い。180cmを超えていて、ヘラヘラしている割に実は、高いというより長い、ギャップの持ち主だ。
「よっこいしょ!」
「『よっこいしょ』っておばさんかよ。」
手を伸ばしたところにしたから関節の目立つ手が伸びてきた。龍仁の白い手だった。
「もー、もう少し早く来たらやってもらったのに!」
「来るまで待ってたらよかったじゃないか。来年は何年?」
「来年年男でしょ! ネズミだよ。早く出して。」
龍仁は1年浪人しているからひとつ年上。24歳になる年だから年男になる。12個の鈴が入ったダンボールからネズミの鈴を取り出して、しゃがんだ私の手に載せてくれた。
「なに両手つかってんの。そんなに危なっかしい渡し方した?」
「い、いや! 念には念をね! ゼミの大事な置物だから!」
早口でここまでデマカセが出てくるのに、自分でもびっくりする。かすかに触れた龍仁の手は温かく、少し皮膚が硬く乾燥していた。
「おう、おはよう。正月準備はどうだ?」
飯森先生がゼミ室に来てくれた。
「おはようございます。掃除は昨日みんなでやって、置物も下ろしたし、あとは飾りつけるだけです。」
「そうか。みんなのおかげでゼミ室も正月を迎えられそうだな。卒論はどうだ?」
「私はあとまとめかなぁって感じです。」
「俺はもう少し調べなきゃいけないこと見つけたんですけど、時間的に厳しいなぁってご相談に伺おうと思ってました。こういう場合ってどうしたらいいんでしょうか?」
「正月休みと入試を抜かしたら、あと2週間ちょっとだもんな。でも、卒論ってやるしかないんだよな。まとめも、これから調べるのも、辛いのは充分わかるけど、それでもやらなきゃいけないんだよな。」
先生のごもっともなお話に、私と龍仁はその場で固まるしかなかった。何も言えず、タジタジな私たちをよそに、先生はポットのお湯でお茶をいれている。飯森ゼミではお茶は飲みたい人が自分で入れることになっている。雪はないが充分に冷え込んでいるのか、先生のカップからは湯気が立っている。湯気の流れだけがゆったりとした時間の流れを感じさせるくらい、私たちは何も言えずにいた。
「そうだ、舞音たちは卒業旅行、どうするんだ?」
「いや、まだ卒論ができてないんで、なにも話は出てないっすね。」
私より先に龍仁が答えてしまった。
「そうか。今年の4年生は人数が多いからな。そろそろ予定合わせないと、合わないんじゃないか?」
先生の言うとおり、私の同期は人数が多い。飲み会にいつも来るペーさんと美波と龍仁と私。それにサークルが忙しい清子ちゃんや、バイトが忙しい弘弥と太一はなかなか来られない。常に金欠でなかなか来れない将志くんも来られない。そんなこんなで、在籍している人は8人になる。キョーコさんたちが4人だったことを考えると、かなり多い。卒業旅行はいわゆるレアキャラな人も含め、全員で行くのが基本だから、その予定を合わせるのは至難の業だ。
「キョーコさんたちは今頃もう決めていましたもんね。」
「キョーコたちは場所から決めていたな。最終的に時期まで決まったのは卒論が終わってからだったよ。」
「じゃあ、日程だけでもそろそろ決めておかないとなぁ。弘弥がシフト入れちゃうだろ?」
話が決まると、龍仁の行動は早い。すぐに机に置いていたスマホを取り出して、同期ラインに日程調整のアンケートを作った通知が、私の太ももをふるわせる。
「おはようございます。」
「おう、元気だったか?」
いつも金欠の将志くんがやってきて、先生が声をかけた。たしか忘年会前の授業で会ったきり3週間ぶりくらいだ。将志くんの実家は九州だが、金欠のためかなりギリギリまでこっちに残ってバイトに明け暮れている。
「元気でしたよ。今年は帰省しないでバイトしながら卒論やらなきゃと思って。」
「おう、そうだったか。卒論の調子はどうだ?」
「や〜、もっと早くからやっておけばなぁと。時間ないっすね。」
「そうだな。2人にもやるしかないって話してたところだったんだよ。」
「ねえ将志くん。卒業旅行、どうする予定だった?」
8人の日程を調整するのもそうだが、全員が行ける旅行を企画するのも至難の業だと思っていた。将志くんはゼミの飲み会に一度も来れたことがなく、季節行事も泊まりとなると行けなくなっていた。
「行きたいと思ってた。」
「そう、じゃあ近場のほうが…。」
「いや、せっかくだから海外になっても行きたいなって思ってたんだ。正月の帰省やめたのは金貯めるためもある。」
「おう、いいな海外。」
急に将志くんの口から「海外旅行」なんてワードが出てきたから、私も龍仁もびっくりして固まっている。また固まる私たちを置いて先生の心は海外旅行に奪われている。
「海外ならどこだ? 台湾、中国、韓国、シンガポール。うーん、中国だな。」
「中国って、正月ずれるんじゃなかったっけ?」
将志くんが私に聞いてきた。
「ああ、そうだな。中国なら行くのは3月だな。本当の中国料理を食べてこようじゃないか。」
「3月っすね、わかりました!」
龍仁がまた同期ラインに日程調整を送信する。太ももに走るバイブが、ただここで話していただけのことが、現実に変わったことを告げる。
「じゃあ決まりだな。3月に中国。さあ、卒論やってくれ〜!」