「えー。」

 それぞれに談笑をしていたのが、キョースケさんの司会が始まろうとすると、ピタッとやむ。さすが中学校の先生なだけある。

 「本日はお忙しい中、また突然のお誘いにも関わらず、お集まりいただきありがとうございます。これより、飯森先生、退職記念パーティーを開催いたします。」

 司会席の前のテーブルにいる先生が立ち上がって会場全体に礼をする。先生のテーブルに居るのは、40歳くらいのゼミ1期生と思われる人たちだった。

 「みなさん、今日は本当にありがとう。この度、地元の秋田に帰ることになり、大学を辞めることになりました。こうして集まってもらえることが、私が大学教員をしてきた結果なのかなぁと思っています。嬉しいです。コロナから久しく会えていない人もいますね。今日は久しぶりにいろいろと語り合えればと思います。それでは飲み物を準備していただいて…。」

 どこのテーブルでも瓶ビールやウーロン茶を開けて、グラスに注ぎあっている。アルコールの選択肢がビールしかないのも飯森ゼミらしい。

 「それでは、乾杯!」

 「乾杯!」

 会場全体で響き渡る。今は昔のようにグラスを持って色々な人とグラスを突き合わせるのではなく、その場でグラスを掲げるのが一般的な飲み会マナーとなっている。


 乾杯が終わると、会場の中央に料理が運ばれてきた。それぞれのテーブルにもサンドイッチやおつまみの乾物はあるけれど、サラダや肉料理はそれぞれがとってくるビュッフェスタイルのようだ。飲み物カウンターも出てきて、すでに男性の先輩方を中心に行列ができている。

 「居酒屋に慣れてると、こういうところって緊張するよな。」

 そう言うペーさんの皿にはたくさんの料理がとられている。

 「ペーさん、全然説得力ないよ。」

 「いや、緊張してたくさんとっちゃったってこと!」

 すかさず突っ込む美波とペーさんのやりとりも面白い。学生時代と変わらない、いつものやりとりだけれど、2人の左手には指輪が輝いている。喜ばしく、楽しいはずなのに、どこか悲しく、取り残されたような気になってしまう。

 「美波さん、2コ下のイズミです。ダンスサークルであっちのテーブル盛り上がってるんですけど、来てもらえませんか?」

 「うん! いいよ! じゃあちょっと行ってくるね。」

 学生時代に何回か見た後輩に似てるような女の人が美波を連れて隣のテーブルへと行ってしまった。乾杯は自席だけれど、このくらいの規模になると、その後の席移動はどうしても起きてくる。

 「龍仁だっけ? 飲み会で気がきく子! 九州に勤めていたことあるんだっけ? いま熊本でさ、ちょっとあっちで話さない?」

 「もう10年前の話で、熊本は出張でしか行ったことないですけど、いいですよ。ちょっと行ってくる。」

 龍仁も2つ上の先輩のところへ行ってしまった。

 「君がペーさん?」

 「はい。」

 次にやってきたのは白髪の混じり始めたおそらく初期の頃の大先輩だった。

 「受付でなんか変わってるなと思ったら、先生が面白いやつだよって言ってて、ちょっとこっち来てくれない?」

 「え、あー、はい…。」

 「あ料理なら途中でとっていいから、こっちこっち!」

 「じゃあ、行ってくる。」

 ペーさんも司会席に近い、初期の頃の先輩席に連れて行かれてしまった。
 もうテーブルには、私とキョーコさんしか残っていない。

 「みんな行っちゃいました。」

 「そうだね、こっちも。ダイスケ連れてこようかな、ちょっと待っててね。」

 キョーコさんも席を離れ、7人掛けのテーブルに1人になってしまった。
 私の席からは顔をあげれば全体が見渡せる。同期で盛り上がるかなり若い世代。飲み物コーナーで知識を披露しあっているのか品定めをしているのか、という男性たち。お子さまコーナーで井戸端会議が始まっているママさん卒業生。ゼミの飲み会のときのように色々な人がいる。私の楽しみ方もゼミの飲み会と変わらない。
 もう10年こういう経験をしていなかった。学生時代はなにも考えずに毎月飲み会に行っていたのに、今は外食するのにも勇気がいる。会いたい人に会うのも、話したい人と話すのも、なんとなくにはできなくなっている自分がいる。どうしたら相手が傷つかないか、自分が傷つかないか。そんなことばかり考えて何もできなくなる。
 みんなは大人の生き方をそれぞれの道で身につけて、こうして実践しているのに、私はゼミ室に別れを告げた10年前から何も変わっていない。


 「おまたせ!」

 「舞音ちゃん、急に声かけたのに、わざわざありがとうね!」

 キョーコさんがダイスケくんとキョースケさんを連れて帰ってきた。家族3人そろうと、お似合いな幸せいっぱいなまぶしい相乗効果が生まれている。

 「龍仁は? いつもしゃべってるからいいのか。」

 「もう、さっきファミレスで話してきたんだけどね。」

 キョースケさんも私と龍仁はいい仲だと思っていたらしい。

 「今日、10年ぶりに再会して、仲はいいんですが、まだ、こう特別な関係にはなれてなくて。」

 「龍仁も男ならさっと誘って告ればいいのに。」

 「ちょっと! コンプラ的に、よくないぞ! っていうか、あなたに告白したのは私ですけど。」

 キョースケさんから見ても龍仁は私のことが好きなように見えるらしい。いまは「男が告白」という時代でもないけれど、言われるのを待っている、受け身な私も確かにいる。

 「でもなー。龍仁や舞音ちゃんの気持ちもわかるなー。中学生ずっと見てたらすぐに告白して、付き合って、別れて、新しい相手ができて。何も考えず内輪ばかりでよくやるよなーって思うよ。もうこの歳になったら、そうも行かないもんな。」

 「そうなんですよね。傷つくのも怖いし、そんなことでショゲている余裕もないし。」

 「龍仁の話聞いたことないけど、ハタから見たら今も昔も両想いだよ。」

 「そんなぁ!」

 キョースケさんに受け止められて、キョーコさんに背中を押されても、それでも踏み出せないくらい、30代の恋は難しい。

 「話変わるけど、若い先生見てると、オレらとその下でカッチリ線が引いてあるっていうか、なんか違う気がするんだよな。」

 「うんうん! って舞音ちゃんの前で言っていいのかわかんないけど、出社して働いてたとき、思ってた!」

 「そうなんですかね?」

 キョースケさんは手元のビールを飲み干して、さらに続ける。

 「たぶんコロナだと思うんだよな。だから正確には舞音ちゃんの下世代からかな? でも舞音ちゃんたちも卒業の楽しみがいろいろなくなった世代だろ?」

 「はい。」

 「だから舞音ちゃんも大して変わらないと思うんだよな。ちゃんと青春できなかった、っていうか、やるべきことをやってきていないっていうか。」

 「たしかに。あそこで時が止まっています。」

 「普段の舞音ちゃん見てないからわからないけど、きっとその止まった時代をとりかえしたら、何か変わるよ。恋愛だけじゃなく、仕事も考え方も。せっかく会えたんだから、後悔、しないでね。」

 キョーコさんにもキョースケさんにも、何度も言われる「後悔、しないでね。」が、また頭の中をこだまする。何もできていないのに、後悔になっていないのは、まだ手遅れになっていないからだ。もう年齢的にはいつ手遅れになってもおかしくない。なのに踏み出せていない私がいた。

 「ほら、噂をしたら帰ってきた。」

 キョースケさんの言う通り、ガラに合わないワインを片手に龍仁が元の席へと帰ってきた。