夏休みはあっという間に過ぎるもので、あと残り一週間というところまで来てしまった。いつの間にか8月に突入しており、空の碧がやけに濃い。


 だがしかし、蝉の大合唱をBGMにしながら登校する俺は、大して何も変わっていなかった。


「いや、一つだけ変化はあるか」


 それは、最近になって気づいたこと。気付くのが遅いと言われれば、そうなのかもしれないが。


 多分俺は、鈴香に恋をした。


 今まで誰かを好いたことなど無かったせいか、たびたび胸に湧き上がる不思議な感情の名前がしばらく分からなかったが、今になって、それは恋愛感情だと知った。


 それに気づいてからというもの、俺は以前より少しだけ、学校に行くのが楽しくなっていた。保健室に行けば、あの太陽のような優しく温かい笑顔に会える。


 その一心で、今日も清潔な白に塗られた扉を開いた。


「おはよう」


 だが、返答はなかった。いつもなら瞬時に彼女の声が飛んでくるのに。


 おかしいな、と中の様子を伺い、保健室内に誰もいないことを知る。そう、鈴香が来ていなかった。


 彼女が俺より先に来ていないなんて珍しい。と言うか、初めてだった。


 一瞬、大きな不安に駆られたが、後に来るだろうと自分に言い聞かせる。いつものように奥へと進み、机に荷物を置こうとしたところでまた、俺は見慣れない光景を目の当たりにした。


 机が、一つしかない。俺の隣に並べられていた鈴香のものが無くなっていた。先週までは確かにあったのに。昨日は土日で学校には来ていないから、そこで移動されたのだろうと推測する。


 再び、不安が胸のうちで風船のように膨らみ始めた。だが、それを解消するには彼女を待つしかない。


 一人きり、俺は教科書を取り出す。鈴香のいない保健室は、耳が痛くなるほど静寂で満たされていた。


 シャーペンを持っても、教科書を読んでも、どうしても集中できない。鈴香という存在がないだけで、俺は他のことが手につかなくなってしまった。


 彼女を今か今かと待っていたとき、足音が聞こえ、続いて扉が開く。鈴香が来たのかもしれない。喜びで反射的に立ち上がったが、入ってきたのは養護教諭の先生だった。


「あら、辻谷くん、来てたのね」


「あ、はい……」


 俺はゆっくりと腰を下ろす。早とちりしてしまった。落胆と恥ずかしさで消えてしまいたかった。


「あ、あの、鈴香……先輩は?」


「鈴香って、あの、3年生の鈴香ちゃん?」


「はい。今日は、来ないんですか?」


 俺がそう尋ねると、先生の顔から表情という表情が抜け落ちた。無、という言葉が一番合っていたその表情に、俺の心臓が跳ね上がる。


 俺が硬直していることに気付いたのか、先生はゆっくりと笑みを取り戻した。だが、それは明らかに何かを隠している表情だった。


「えっ、と、鈴香ちゃん、だよね。辻谷くんは、何も聞いてないの?」


「……はい」


「そっか」


「あの、鈴香先輩に何かあったんですか?」


「……」


 先生は一瞬、戸惑いの色を滲ませた。事情を知らない生徒に、他生徒の情報を教えてはいけない。そう思ったのだろう。教師らしい考えだ。

 
 だが俺は、どうしても鈴香のことを知りたかった。故に強引に迫る。


「お願いです。どうして鈴香先輩は来ないんですか?教えて下さいっ!」


 深々とお辞儀をした数秒後、頭上で「実はね」とか細い声が聞こえてきた。


「鈴香ちゃんは、また入院したの」


「入院……また……?」


「ええ。彼女が病気だってことは知ってた?」


「いえ……。ただ、体が弱いということぐらいしか」


「そうね。鈴香ちゃんは幼い頃から体が弱くて、よく病気にかかっていたみたい。それで、この前も入院して、ようやく体調が回復したと思ったんだけどね」


「この前って、5月から六月末までのことですか?」


「ええ。それは聞いていたの?」


「はい」


「そう。もう何度目か分からない入院だったみたい。ようやく帰ってきて私も嬉しかったのだけれど、一昨日くらいに突然悪化したみたいで」


 先生も話すのは辛そうだった。おそらく、鈴香は3年間のほとんどを保健室(ここ)で過ごしたに違いない。彼女とこの先生の仲の良さが、それを物語っていた。


「あの、鈴香が入院している病院ってどこですか?」


「それは……」


 何かを言いかけたところで、先生は口を紡いだ。それから、意を決したように俺の方を見る。


「ごめんなさい。それは、教えられないわ」


「そんな……。何か、ヒントか、大まかな住所だけでもいいんです」


「ごめんなさい……。それも、ダメだわ」


「……そう、ですか」



 俯く俺に、先生はもう一度「ごめんなさい」と謝罪した。本当は先生が悪いわけではないのに。


「色々とありがとうございました」


 俺は荷物を持って扉を開ける。ここにいる理由が、今の俺には無かった。


「帰るの?」


「はい、ちょっと、今日は」


「……分かったわ」


 唐突に帰宅宣言をした俺の理由も聞かず、止めもしなかったのは、先生の優しさと精一杯のお詫びだったのかもしれない。