母と鉢合わせしてしまった次の日、俺の気持ちはまだ沈んだままだった。


 どんな表情をすればいいのか分からないまま、保健室の扉を開ける。


「お、こうくんじゃん、おはよーっ!」


 視界が開けた瞬間に飛び込むのは、またも、相変わらずくるくると椅子を回す鈴香の姿だった。


「おはよう……」


「あれ、元気ない?」


 声が低かったから、小さかったからだろうか。鈴香は明日の動きを止めて首をかしげた。俺は慌てる。


「い、いや、別にそんなことないけど……」


 なんとか取り繕うとするも、結局普段通りではなかったらしく、すぐに鈴香先輩にバレてしまった。


「いーや、絶対に何かあったね?どうした、ほら、先輩に話してみなさい!」


「先輩って……」


「今だけは先輩!まぁ友達でもいいけど。ほら、話してみ?」


「……」


 話したい気持ちと、話したくない気持ちが同時に現れた。こんな話、聞いたところで迷惑しかないだろう。けれども、俺の中にあった、誰かに話を聞いてもらいたいと言う欲に負けて、俺は口を開いていた。


「母と、会っちゃって。それで、色々と罵倒されて」


「お母さん?罵倒って、お母さんがそんなことするの?」


「はい。いや、俺も悪いんですけど、こうなったのは母のせいだし、でも、母の言い分も間違いじゃなくて……」


 上手い言葉が見つからない。自分が悪いのも然りだが、母もまた、俺にとっては悪影響だったのだ。その二つを形容する言葉が、中々に抽出できない。


 鈴香も難しそうに顔を顰めた。


「ううーん……。そもそもさ、こうくんのお母さんはなんで厳しいの?」


「それは……母が、優秀な看護師だから、です」


「えっ、看護師さんなの!?凄いね」


 鈴香が目を輝かせると、なぜだか突然に母の存在が誇らしく思えた。昨日はあんなにも憎んでいたのに。


「はい。俺から見る姿からはあり得ないんですけど、腕も良いって評判らしくて」


 そう、母は多くの人から求められる素晴らしい人だ。たとえ、家でどんな態度を取ろうとも。おそらく、俺もそんな優秀な人材になって欲しいと願ったのだろう。


「だからか、母は俺を医者に育てようとしていた」


「でも、君は医者にはなりたくなかった。そういうこと?」


「……はい」


 小学校の頃の記憶が蘇る。無理やり塾に入れられ、勉強ばかり強いられて、遊ぶ時間なんてほとんどなかった。毎日毎日が地獄のように思え、僅か10歳で自殺も考えたことをよく覚えている。


 それでも頑張れたのは、母の喜ぶ顔が見たかったから。ただ純粋に、母に喜んでもらいたかったのだ。


 だが、現実はそう上手くいかない。


「それに、多分俺は医者なんかに向いていなかったんです」


 小学生の頃から、なんとなくそんな気がしていた。それでも気のせいだ、と自分に言い聞かせて勉強に時間を費やした。


 しかし、中学生になると、気のせいは確信に変わった。周りの学力の高さは俺以上だった。正直なところ、もう学力は諦めて、娯楽に身を置こうとも考えた。だが、小学校でろくにコミュニケーションを取らなかった俺は、友達の作り方なんて知らなかった。故に、3年間をほぼ1人で過ごした。


「小学校はまだ、勉強があった。自分が優れていると思えることができた。でも、中学校では俺より頭がいい奴なんて沢山いて、自分がどれだけちっぽけな存在か知らしめされました」


「よくあることだよね。中学校になると色んな人に会うから」


「それに、ただ頭がいいだけじゃなくて、協調性とか社交性とかも求られるようになって。だけど俺は、小学校の頃に友達を作らなかったから、そんなの分からなかったんです」


「うん。意外とさ、小学校からの関係って大切だし、小学校で身につけることも大切なんだよね」


 うんうん、と鈴香は何度も頷いた。まるで、自らが経験したことあるかのように。彼女の言葉にも態度にも、偽りは見えない。


 そのことが、少しだけ嬉しかった。自分を理解してくれていると、確認できたから。


「それで、気づいたら独りぼっちで、周りの奴らとは馴染めなくなってて」


 そこから、ずっと。


 俺は友達の作り方も話し方も分からなかった。さらに、相手の気持ちや考えを汲み取ることが苦手だった故に、接し方すら分からなかった。


 その結果、孤立だ。誰からも相手にされず、かと言って自分から行くこともできない。


 独りは淋しく、そして虚しかった。


「だから、教室に行くことさえも、いつしか苦痛になっていました」


「……そっか」


 鈴香は俺の話を一通り聞くと、不意に床を見つめる。


「もしかして、保健室登校になったのも、それが原因?」


「……はい」


 肯定しながら、俺は中学の頃と何一つ変わっていないんだ、と今になって初めて気がついた。周りが、じゃなくて、自分が変わっていない。変わろうとすらしていない。


 そんな奴が、まるで被害者のようにこんな話をするのはおかしいんじゃないか。全部、悪いのは自分なのに。


 そんな考えに陥るも、鈴香は俺を責めなかった。どころか、突然頭を撫でてきた。驚いて隣を見ると、彼女は全てを包み込むような笑顔を浮かべる。


「それは辛かったね。今まで、よく頑張ってきたと思う」


「本当、ですか……?」


「うん。多分さ、今、こうくんは自分を責めようとしたでしょ?」


 ドキリとした。鈴香は心が読めているのかと言うほど、俺のことを言い当てる。


「はい……」


「やっぱり。でもさ、君は悪くないんじゃないかな。だからと言って、私は君のお母さんを責める気にもならないけど」


「えっ……」


「苦しかったんでしょう?その苦しみは、誰かが好んで生み出したものじゃない。だから誰のせいでもなくて、勝手に現れたもの」


 勝手に現れた。俺はその言葉に違和感を持つ。


「母が強制して、俺ができなかったのに?」


「だって、お母さんは何かしらの意図か愛情を持ってこうくんを医者にしようとしたんだと思うし、こうくんはお母さんの期待に応えようと努力したんでしょ?そこに、どっちが悪いとかは無いと思うから」


「……」


「こうくんはそんな、どうしようもない状況で闘っていたんじゃない?だったら、自分を責める必要なんてない。むしろ、褒めてあげるべきだよ」


「……そんなこと、初めて言われました」


 目頭が熱い。涙が込み上げてくるのが分かった。こんなにも優しい言葉を、誰かにかけられたことなんて一度もなかった。


「ありがとう、ございます……っ!」


 堪らず、俺は泣いた。みっともなく涙を流す俺を、鈴香は優しく見守ってくれていた。そんな彼女に、今だけは甘えたいと思ってしまった。


「あとね」


 泣き続けける俺に、鈴香はボソリと言う。


「友達は、作った方がいいと思うよ」


 友達は一生の宝になるから。


 俺はちらりと鈴香の表情を盗み見た。そんな呟きを漏らした彼女の表情は、きっと一度も忘れないだろうと思えるほどによく目に焼きついた。


 悲しみ。妬み。願い。俺が知っている感情の何とも違う、俺には計り知れない想いを隠した、そんな顔だった。