「ただいま」



 鈴香と友達関係になったその日の放課後。茜色に染まる空と街の中で帰宅した俺は、玄関を開けて女性の靴を見つけ、眉間に皺を寄せる。それは、母が帰ってきている証拠だ。


「はぁ」


 無意識にため息が溢れる。母とは普段、顔を合わせることがほとんどない。仕事が忙しく、夜勤もあるから。俺としてはありがたかった。


 憂鬱な面持ちでリビングに入ると、仄かな灯りと幾つもの声が聞こえてくる。見れば母はソファにだらしなく座って、ポテチを片手にテレビを閲覧していた。



 俺の気配を察知したのか、顔をゆっくりとこちらに向けて、俺の姿を捉えるなり顔を顰める。


「なんだ、帰ってきたの?」


「ああ、帰ってきたけど」


 なんの捻りもなくそう返すと、母は大きなため息をついて再びテレビに視線を送った。


「部活は?」


「辞めたって言っただろ」


「勉強は?自習は?」


「ずっと保健室にいることなんてできるわけないから、やってない」


 思わずそんなことを口走ってしまい、ハッと口を噤むも、もう遅い。


 獰猛で鋭い視線が俺を射抜き、更に母は苛立ちをあらわにする。


「あんた、まだ保健室登校なんかしてんの?」


 怒りに侵食されたその表情を見れば、もう手遅れだとわかる。無言でいると、母は捲し立てた。


「あーもうなんでこんな子になっちゃったかな。私はこんなに頑張ってるのに。保健室登校なんて不登校と一緒じゃん。どうしてそんな子に育っちゃったの!?」


「……」


 なんでって、お前のせいだろ。なんて、もちろん口にすることはできない。刃向かえば、母がどう行動するのかは目に見えていた。


 バリバリとポテチが噛み砕かれる音が異様に大きく聞こえる。母の癖だ。ストレスが溜まると暴食してしまう。これで優秀な看護師なのだから、人は見た目で判断できない。


「本当は優秀な医者にでもなってもらうはずだったのに」


「……」


「毎日毎日、私は患者の世話をしてるっていうのに、あんたは何してんだか。私の子じゃないとさえ思うよ」


「……じゃあ父さんの血が強いんだろ」


「ああっ!?」


 父さん、と言った瞬間、母は俺を睨みつけた。


「なんであんな奴の話なんか出すの!?聞くだけで頭が痛くなる」


 またヒステリックが加速された。母はいつもそうだ。俺たちを置いてどこかへ行ってしまった父を恨んでいるらしく、少しでも父の話題に触れれば機嫌を悪くする。


 久しぶりに対面したせいだろうか、今日の俺は地雷を踏んでばかりだ。


 ふと、ピロンと着信音が険悪な空気を遮る。ソファに置いてあった母のスマホが光っていた。母はポテチの袋を置いて、そちらに視線を向ける。


「ああ、また例の子ね……。今度は悪くならないといいけど……。じゃないと……」


 さっきまでの苛立ちはどこへ消えて行ったのかと疑うほど、母の表情は真剣なものになっていた。それは看護師という名がぴったりの女性そのものだった。


 一瞬だけ、やはり母は凄い看護師なんだと思わされる。が、次の瞬間には否定されることが、なんとなく分かっていた。


 スマホを置いた母はまた大きなため息をついてポテチを食べ始めた。


「全く、世の中にはね、あんたと同い年で辛い病気と闘ってる子がいるの。余命宣告だってされてるのに、生きようとする子がね」


「……」


「なのにあんたときたら、健康なのにぶらぶらと時間を持て余して。人生の無駄遣いだわ」


 堪らなくなって、奥歯を噛んだ。人生を無駄遣いさせたのは、母が原因のくせに。


「ほら、もう行ってよ。あんたの顔見てるとイライラするわ」


「……っ!分かったよ」


 言われた通り、俺は自室に向かった。カーテンを閉め切った部屋で、荷物を乱暴に投げ捨てる。


 胸には行き場のない怒りと、邪魔者扱いされた悲しみが渦巻いていた。