「行ってきます」


 誰もいない家にそう一言告げて、俺は普通の高校生よりも少し早い時間に登校する。


 相変わらずの炎天下の中、気を紛らわすために考え事をしようとして頭に浮かんだのは鈴香先輩のことだった。


「あんなこと言ってっけど、本当に来るのか?」


 なにせ、今まで保健室登校の人(知り合い)がいなかったのだ。昨日だけ奇跡的に来ていた、なんて考えてもおかしくはない。


「……まぁ、俺にとったらどうでもいいことか」


 ものの二十分程度で学校に到着し、特に気にも留めずに、期待もせずに、保健室の扉を開けた。


 そして、


「やぁやぁ、おはよう、こうくん」


 飛んできた第一声がこれだった。見れば、先生が座っているはずの椅子に鈴香先輩が足を組み、くるくると回っていた。


 俺は呆れて一瞬、言葉を忘れたほどだった。


「何してんスか……」


「何って、君を待ってたんだよ?」


「そこ、先生の席っスよね?」


「うん、そうだけど?」


「ダメじゃないっスか、勝手に座ってたりしたら」


「別にいいんだよー」

 
 ぐるぐると椅子の回転をさらに増す先輩。まるで幼児だ。


「やめた方がいいっス。怒られますって」


「大丈夫だって。先生だって分かってるだろうし」


「はぁ」


 もはや何を言ってもダメそうだ。俺は諦めて、いつものように奥の机に荷物を置く。ちらりと振り返ると、鈴香先輩はまだ遊んでいた。


 2ヶ月もここに通う俺でさえ、まだ躊躇いがあるというのに。先輩は相当に慣れている。一体、どれほどここに通っているのだろう。
 

 そんな疑問が生じたからだろうか。勝手に口が動いていた。


「先輩って、いつから保健室(ここ)に来てるんですか?」


 ついそんなことを口走ってしまい、しまったと後悔する。3ヶ月も学校を休んでいて、その上長い間保健室登校。絶対に言いたくない理由があるはずなのに。


 けれど、俺の心配とは裏腹に、回る椅子をギュッと止めて、鈴香先輩は笑顔で答えた。


「どんぐらいだろうねぇ。大体、二年生の終わり頃くらいからかな?」


「あ、そうなんスか……」


 呆気なく答えてくれた彼女にまたも驚かされる。


「最初はふつーに教室行って、授業受けてたんだよ?だけど、そのぐらいから保健室登校がほとんどになっちゃったし、最悪学校に来れないことだって増えちゃって」


「……」


「だから、もう慣れっこって感じだよね」


「……そうなん、スか」


 あまりにも軽い言い方に、俺は逆に喋る気力を奪われてしまった。もうきっと、言うことはない。


 正直、このまま保健室登校(この状況)の理由を聞くことも容易だと思った。だが、もし仮に、鈴香先輩がわざと明るく振る舞っているならば、俺が壊すのは申し訳ない。


 だから、あえて話題を大きく逸らす。


「ところで、保健室登校に慣れてない俺に教えてくれることってなんスか?」


「ああ、そうだったね!」


 忘れてた忘れてた、と鈴香先輩は頭を掻く。言い出した本人だ、しっかり覚えていて欲しい。



「んーんー、……えーっとねぇ……」


「……」


 苦笑いを溢しながら鈴香先輩は視線を泳がせる。嫌な予感がする。これはもしや、考えていないとか覚えていないとか言われるパターンではないのか。


「ごめん、ないや」


「はぁー、やっぱそうっスよね」


 やはり勘は間違っていなかった。鈴香先輩は申し訳なさそうに両手を合わせる。結構反省しているようだった。


「なんであんなこと言ったんスか?」


「それはー、そのー」


 鈴香先輩は顔を上げたかと思うと、指をいじりながらもごもごと何かを口にする。


「……たかった、から」


「はい?」


「だから、その……」


 はっきりしない先輩に、俺はとうとう痺れを切らした。


「ちゃんとはっきり言ってくださいよ!」


 その瞬間、鈴香先輩はびくりと体を震わせた。自分でも驚くほどの大声に、慌てて口を閉じる。しまった、保健室(ここ)で大声を立ててはいけないのに。先輩もめちゃくちゃ驚いたかもしれない。


 すいません。謝罪の言葉を述べようとした瞬間、唐突にも先輩が間を遮った。


「そのっ、君ともっと話したかったから!」


「……はっ?」


 俺には及ばないものの、大きな声で顔を赤らめながら先輩はそう言った。呆気に取られる俺に、先輩は視線を外しながら続ける。


「だ、だって保健室に誰かいることなんて中々無いし、私、友達も少ないから話し相手もいなくて……」


「……」


「だから、その、話し相手が欲しかったから」


「……」



 なるほど。つまり鈴香先輩は、口実を作りたかったわけだ。保健室を拠点としているこの俺と話すための。



「不謹慎っていうか、なんていうか、その、君にとって良いことかどうかは分からないけど。私はこうくんともっと仲良くなりたいからさ」


「つまり、友達になろう、みたいな感じっスか?」


「そうそう!」


 ようやく調子を取り戻してきた先輩が手を叩いた。



「だから、その……なってくれない、友達に?」


「俺がっスか?」


「うん。夏の間だけでもいい。だからお願いっ!」


 両手を合わせて真っ直ぐと俺に向けられる瞳を見て仕舞えば、それを断ることは無理だ。


「まぁ、別にいいっすけど……」


「ほんとっ!?やったぁ!」


 子供のようにはしゃぎ喜ぶ鈴香先輩は、その勢いのまま俺の手を取った。突然のことに俺は振り解く間もなく、先輩はずいっと顔を近づけてくる。呼吸音が聞こえるほどの距離感に、俺は顔が熱くなった。


「じゃあじゃあ、今から友達ねっ!あ、敬語とかもういらないから。ふつーにタメ口で話していいよ。てか、そっちの方が友達っぽいし。先輩付けもなしね!」


「あ、はい……じゃなくて、分かった」


「うんうん。友達感出てるよー!」


 そう言われて、俺はなんだかむず痒くなる。こんなにもしっかりと「友達になろう」なんて言われたことがないためだろうか。体を帯びる火照りも消え去りそうにない。


「それじゃあ、これからよろしくね、こうくーん」


「は、はあ……、よろしくおね……よろしく、鈴香」


 鈴香。名前を口にすると、彼女は太陽のように、少しだけ頰を赤らめて微笑んだ。