ミーンミンミンミンミンーー




 蝉がそこらじゅうで鳴いている。どうやらそれは求愛行動らしく、雌を求めるために行なっているという。


 俺はこれから学校というクソみたいな場所に行くというのに。


「ったく、呑気な奴らだ」


 恨みたくなるほどに、呑気だ。


 目的地についた俺は、上靴に履き替え、教室に直行

 

 ーーなんてことはせず、一階にある保健室の扉を開いた。


「はよーございます」


「あら、辻谷(つじや)くん。おはよう。今日も相変わらず早いわね」


「まぁ、家にいたってなんもないんで……」


「そう。いつものように使って良いからね」


「あざっす」


 許可をもらってから、俺は奥に用意されている一つの椅子に腰を下ろす。もちろん机もあって、まるでその一角だけ教室から離されたような感じだ。


 俺は何の躊躇いも迷いもなく、カバンから筆箱と教科書を取り出す。普通ならば自分の教室で行うはずの行動。だが、これが俺にとっては当たり前だった。


 一体、通い始めたのはいつ頃からだったか。もうここの先生とは顔馴染みになり、最早保健室こそが俺の教室と言っても過言ではなくなってきている。本当はよくないんだが。


 そんなことはどうでも良い、と俺はシャーペンを持つ。正直、勉強はしたくない。けれど、しなければ大学になんて行けないし、大学に行かなければ就職にも影響する。


 働き口が見つからず、あの母親の元で一生暮らすなんて、死んでも考えたくない。


 さて、この問題はどう解くのか、と教科書を覗き込んだ時だった。


 珍しく、この時間に保健室の扉が開いたのだ。


「おはようございまーす」


 何処か気の抜けたような軽い挨拶と共に入ってきたのは、セーラー服を纏った少女。


「あら、鈴香(すずか)ちゃんじゃない!久しぶりね、元気にしてた」


「はい、おかげさまでこの通りですよ」


 鈴香と呼ばれた少女はにっこりと笑う。人懐っこい笑みだった。


「今日から復帰なの?」


「はい!……って言っても、どうなるか分からないですけどね」


「……」


「取り敢えず、今日からまた頑張りますよ!」


「……そうね。長い間休んでて大変だと思うけど、頑張って」


 そこで会話は途切れる。最後の言葉を言った先生が、先ほどより暗い顔をしていたのが気になるが、少女の方は変わらず笑みを浮かべているのでなんてことないのだろう。


「奥の場所だったら好きなところを使って構わないわ。あ、ただ、今一人男子がいるから。それだけは伝えておくわね」


「はーい。ありがとうございます」


「それじゃあ、私は一度職員室に行くから」


「はーい。いってらっしゃーい」


 まるで身内か、あるいは友達か。そう思わせるほどに、鈴香と先生の会話はラフな雰囲気が流れていた。


 さて、先生が出て行ったところで、鈴香はくるりと振り向いて、それから俺を見つけると、そくさくと歩いてきた。


 一瞬、身構える。それは本能なのか、経験上の予測なのかは分からないが。


 だが、鈴香は俺の前に来ると、にかっと太陽のような微笑みを浮かべた。危害も皮肉も感じられないその笑顔に、不思議と俺の肩の力が抜けた。


「へぇー、本当に居たんだね、人」


「さっき先生がそう言ってたじゃないっスカ」


 もしかしたら彼女の独り言かもしれなかったが、つい突っ込んでしまった。だが、鈴香は嫌な顔せず話し続ける。


「いやー、ああは言われてもさ、私今まで見たことなかったから。君は最近から来たのかな?」


「はい、まぁ……」


「だよねー。私と君、初対面だよね?初めて会うよね?あ、もしかして君は私のこと見たことあったりする?」


「ないっスよ。そもそも、俺以外が保健室に登校してくるのも初めてっつうか」


「そっかそっか。じゃあ君が登校し始めたのは5月くらいからかな?」


「えっ、なんで……」


 言い当てられてぎょっとする。しかし、鈴香はなんてことないように「だってー」と口にした。


「私、その月から今まで保健室(ここ)来てなかったからさ。ま、つまりは学校も休んでいたわけで。けど、休む前まではずーっと来てたんだよね」


「ああ、だから先生ともあんなに仲良いんスね」


「あ、会話聞こえてた?」


「丸聞こえです」


正直に答えると、鈴香は「うわー」と頭を抑える。


「なんか恥ずかしいようなどうでもいいような。けど、まぁ言ってることは合ってるよ。もう桐谷(きりたに)先生とは友達みたいな関係だもん」


「それはまずい気もしますけど……」


 俺がそう言うと、鈴香は人差し指を顔の前で横に振った。


「いやいや、先生と仲良くなるって大事だよー。話し相手増えるし、先生だけの秘密とか教えてもらえるし」


 君もなってみたら?と彼女の瞳が問いかけてくるものだから、俺は「そうっスか」と冷たく突き放しておいた。


 「ノリ悪いなー」と口を尖らせる鈴香。そこで、彼女は唐突にも声を上げた。


「そういえば、名前、聞いてなかったね。君の名前は?あと学年!」


「辻谷幸樹(こうき)です。一年生」


「おおー!一年生なの君!?じゃあ後輩君だねー」


 なぜだか分からんが、鈴香ーーいや、後輩君と言ったところから鈴香先輩と呼ぶべきだろうーーは目を輝かせてはしゃいだ。なにも珍しいものでもないのに。


「辻谷幸樹君かぁ。じゃあつじこーって呼ぶのは?」


「絶対嫌です」


 秒で断った。俺の即座な対応に、不服そうに鈴香先輩は頬を膨らませ、「じゃあ」と別の案を出してくる。


「こう君って呼ぶのは?それだったら良いでしょ?」


「はい、まぁいいっスけど」


「決まりね!で、私の名前は……」


「鈴香、先輩ですよね」


「えっ!?」


 鈴香先輩はギョッとしたように目を向いた。


「ちょ、何で知ってんの!?え超能力者!?やっぱ私のこと前から知って……」


「さっき先生が先輩の名前呼んだの聞こえてただけなんで」

「あ……」


 納得、というように鈴香先輩の感情は鎮火する。と共に、恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「そっか。うん、そうだよね。聞こえてたんだもんね」


 まるで自分を納得させるように鈴香先輩は繰り返す。取り乱したことが相当恥ずかしかったのだろう。


「こうくんの言う通り、私は鈴香だよ。渡辺(わたなべ)鈴香。高三ね」


「三年生っスか……」


 正直、意外だった。何となく、一つ年上だと思っていたのに。受験には響かないのだろうか。進学せずに親か親戚かのツテで就職するのだろうか。あるいは浪人するのか。なんて、どうでもいいことが頭をよぎった。


「そっ。だからもう慣れっこって感じ。こうくんは?」


「まぁ、まだ慣れないというか……」


 保健室登校なら慣れてしまった。だが、学校生活の方はと聞かれると、何も言えない。そもそも、慣れるもクソもない。


「そっかそっかぁ。じゃあこれから私が色々と教えてあげるから!ちゃーんと来るんだぞ!」


 ビシッと親指を立てる鈴香先輩に、俺は「はぁ……」と呆れてものも言えなかった。そもそも何を教えるんだ。おそらく、俺の慣れないが保健室登校のことだとでも捉えられたんだろうな。


「そう言うわけで、これからよろしくね、こうくん」


 太陽な微笑みで、先輩は右腕を差し出してくる。


「あ、はい。よろしくお願いします」


 きっと、先輩が卒業するまで世話になるんだろうな。そんなことを思いながら、俺は手を握った。






 鈴香先輩との出会いは、こんな、何の変哲もないものだった。