何にイライラしているのか。
私はギュッと奥歯をかみ締めて、肩で風をきって歩いた。凪良葵人はいつも、いつも私の心を乱す。
バス停に着く頃にようやく気持ちが落ち着いて、丸めてしまったキャンパスノートをパラパラと捲る。
ノートの書き出しの小説が、彼に見られてないのは幸いだった。
去年の文化祭。演劇部の舞台の脚本も私が書いた小説。
忘れようとした思い出。
忘れられなかった想いだ。
あれは高校1年の2学期の始まりの日。教室に入ってくるなり、友達の紗希は大慌てで私の机の前にやってきた。
「里佳!どうしよう」
「どしたの?何かあった?あれでしょ!夏休みの宿題なら見せないよ。ちゃんと自分でやらなきゃ」
「宿題はちゃんとやったよ。別件!」
「じゃあ、どうしたの?」
「演劇部がね、文化祭でやる舞台の脚本⋯なんにも思いつかない。里佳よく本読んでるし、国語も得意でしょ?お願い!助けてください」
「なんで脚本なんて引き受けたのよ」
「ほら、私演出家になりたいじゃない?って言ってないから知らないか。演出家目指してんなら、じゃあ脚本は藤間がって先輩に言われたら断れないし⋯」
「紗希はそんな夢があったんだね!いいじゃん応援するよ!あー私部活入んなくて正解だ。何かめんどいもん人間関係。じゃ、頑張ってね」
私はめいっぱいの笑顔で紗希に言った。
「違うよ、応援するね!ニコッじゃないのよ。ね、お願い。私を助けると思って。里佳、作文得意じゃん」
「作文と脚本ってだいぶ違うと思うけど⋯」
「一生のお願い!」
「一生のお願いなんて簡単に使うもんじゃないよ。大事に取っておきな?⋯仕方ないな。手伝ってあげるよ」
こんな風に意地悪を言ったけど、内心は少しだけわくわくしてた。自分が書いた小説が誰かによって現実化するなんて面白い。もちろん小説を書いていることは誰にも言っていないし、小学校からの付き合いの紗希にさえ秘密にしている。言わないことに意味はないんだけど、恥ずかしいと思うのは私にも思春期ってやつが芽生えたのかもしれない。
「どんな舞台をやるの?現代版ロミオとジュリエットとか?」
「里佳、今どき演劇部がロミオとジュリエットやる方が珍しいよ」
「そうなの!?」
「まず中学高校ではやらないのがマジョリティ。だってまだ人生経験少ないし。若者にシェークスピア作品は難解だよ」
「じゃあ紗希はどんな脚本にしたいの?」
「んー等身大の青春モノ!恋愛もあっていいな⋯学校が舞台でさ。見る方もイメージしやすいじゃん?」
「わかった。学園モノね。じゃあ私が短編小説を書くからさ、紗希が脚本に直すのはどう?私、脚本なんて書いたことないから勝手が分からないし」
「えっ!小説は書いたことあるの?」
紗希は目を真ん丸くして私を見つめる。
「見よう見まねで書いてみるって意味だよ」
「おっけ!それでいこ!少しくらいは私もやらないと!夢の第一歩だ!やっぱり頼れるのは里佳だけだね!」
やっと紗希は落ち着いて息ができたのか、調子のいいことを言いながら持っていたノートでパタパタと顔を扇ぎ始めた。
「ねぇ、紗希の理想の恋愛ってどんなの?」
「今は純愛!だけど幼なじみってのも憧れるし⋯スポーツ万能の男の子もいいなぁ」
私はそんな紗希を鼻で笑ってしまった。ついこないだ聞いた、紗希の好きな男子が正にそれだったからだ。つまり、この子は自分の欲求を作品にして欲しいのかと、私は呆れたのだ。
「ねぇ、バカにした?里佳が聞いたんじゃん」
「だって⋯紗希はホント素直だね」
「え?何が?えっ?」
私と紗希はいつもこんな調子だ。紗希といると私は不思議と病気のことを忘れて普通でいられる。波長が合うというのか、私も紗希に気を使わないから。それに期待に胸を膨らませながら想像した、可愛い制服を着て親友と恋バナをするってことを、あっさりと叶えてくれたのも紗希だ。私は恋愛を諦めている。私から話せる恋バナは無いけど、話題豊富な紗希はいつも私を楽しませてくれた。その話をネタに、小説に取り入れて私は自己満足する。私が死んでしまった後に紗希にこのノートを見られたら、きっと怒るだろうな。でも安心して欲しい。紗希の話は全部ハッピーエンドにしてある。紗希の恋が上手くいくように私の願掛け。
その夜から私はノートに小説を綴り始めた。紗希の願望通り、スポーツ万能の男の子と、幼なじみの男の子が同じ女の子を好きになる。高校生らしい等身大の部活の悩みや進路の葛藤を詰め込んで⋯プロットの途中で私の筆は止まった。いくら等身大の悩みを想像したって、私はみんなとは違う。私の悩みはあと余命3年をどう生きるか。それ一択だ。それにもう半年を消費してしまった。思っていたよりも人生を消費するスピードはずっと早い。各駅停車の電車が、ある駅を境に特急電車に切り替わった感覚。あの余命宣告と言う駅だ。無駄だったとは思わないけど、各駅停車の15年をちゃんと考えて生きればよかったと反省した所で⋯幼い私は知る由もないわけだし。息巻いて小説家になるなんて豪語したが、その気持ちは今や頭の上に宙ぶらりん。真っ暗な闇を手探りで進むような、まるで手応えのない感覚。web小説のサイトに作品を投稿してみてもPV数は伸びず、鳴かず飛ばず。「つまらない」とコメントを貰ったこともある。私の覚悟は折れそうになっていた。
それに想像以上に諦めなきゃいけない事はどんどん増えていく。例えば、辛いものが好きだった私はそれも食べないようにと制限された。熱いものもダメだから、激辛ラーメンがもう食べれないと言われたのは絶望だった。「死ぬ直前に何が食べたい?」と聞かれれば「激辛ラーメン!」と今なら即答する。日常生活でこんなに気をつけていても、発作が出てしまえば咳が止まらなくなり、ベッドの上で悶え苦しむ。確実に、じわりじわりと死が近づいている。精神を保つだけでも未熟な私には辛くて、心にもう余裕は無い。あれほど、死生観を語っていた私も、自分事になるとおいおいとベッドで涙する。あの時の自分に教えてやりたい。死ぬって怖いんだよと。
気を抜くと弱気になってしまうから、ぶんぶんと首を横に振り、また筆を取り文字を書く。そうやって私の生き方を取り戻す。生きた証を刻むように、一心不乱に文字を書いた。ブブブッとスマホが震え、通知が届く。
「すごく面白い作品でした。応援してます。梛」
私の作品に届いたそのコメントに温かい涙が零れた。
見てくれてる人はいる。必要としてくれる人がいる。
たった1人でも、私にとっては生きる理由だ。
たった1人でも私を覚えてくれているなら。
そして、私はひとつ。未練を残すことになる。
短編小説を渡すと、すぐに紗希は脚本に直し演劇部は文化祭に向けて始動した。意外にも作品は好評で、私も鼻が高かった。
「練習見ていく?」と紗希は誘ってくれたが、照れくさくなって辞めた。思春期の子供がいたら、その子の授業参観を見に行く母親の感じ。小説は自分が生んだ青春全開の我が子みたいだから、その場に行ったら何かと口を挟んでしまいそうで。演劇部の茶を濁すのも悪い。
「文化祭本番の舞台を楽しみにしてるよ」
紗希にそう伝えた私は、クラスの展示を手伝える範囲で手伝った。
文化祭当日、いよいよ演劇部の舞台の幕が開く。
うちの学校の演劇部は中々の実力で、過去には全国大会にも出たことがある歴史ある部活だ。文化祭の演目の中でも注目度が高い。
満席の体育館はザワザワと期待の声で騒がしかった。私も紗希が用意した特等席に座り、じっとその時を待った。頭の中に想像した世界がどんな風に舞台化されたのか、期待感が高まる。
暗く照明の落ちた体育館が静寂に包まれる。
「その年、私は恋をした。それは世界中の桜の花びらをいっぺんに空に撒いたような。そんな淡いピンク色の青春だった」
ヒロイン役の女の子のセリフから始まり、物語が始まった。その男の子は幼なじみの男の子を演じていた。役柄は初恋が叶わない男の子。私が、自分の気持ちを投影した男の子。
「僕にも君にも未来がある。可能性が1%でもあるなら、僕は諦めないよ。夢も、恋も」
迫真の演技に、会場が感嘆の息を漏らす。
彼の声は熱情を帯びて、真っ直ぐに心に通る。
スポーツ万能の主人公の引き立て役だったはずの彼は、舞台の中で誰よりも目立っていた。私は演劇の知識は乏しいから、上手いとか下手とかよく分からないし、それを言える立場じゃない。あえて口に出すならば、烏滸がましいが誰よりも上手い演技をする。それに楽しそうに演じている。見ている私も、つい口元が緩んでしまい、優しい笑みを浮かべた。そんな彼の姿に胸を打たれる。私の書いた心情を完璧に体現してくれていた。もちろん私は片思いなんてしたことない。過去を遡っても、幼稚園の頃のおままごとみたいな好きしかしらない。漫画やドラマや小説で見て聞いた思春期の片恋を、見よう見まねで書いたそれを、私の想像通りに演じてくれている。それから私は、ずっと彼から目が離せなくなっていた。
「その未来で僕は君の隣にいてもいい?好きな人がいることはもちろん知ってる。馬鹿なこと言ってるって分かっている。だけどね⋯僕は君が好きなんだ」
その台詞が、凛と私の耳に響いた。自分が書いた台詞のくせに。私が言われたわけじゃないのに。ドキドキと胸が高鳴り、頬が紅潮する。スカートをギュッと握り、私は呼吸を落ち着かせた。
彼の迫真の演技に、また体育館の空気が変わった。
さっきまではイケメンの主人公の先輩を推していた生徒達も、「私は幼なじみと付き合った方が幸せになると思う」と言わんばかりの目で舞台を見つめている。
不思議な余韻を残しながら幕が閉まる。
「すっごいよかったよね」
「私感動して泣いちゃったよ」
周りの生徒たちの評価も上場。私も少し得意げになった。舞台を無事に終えた紗希が、子犬みたいに駆け寄ってくる。
「里佳!ありがとう!大成功」
紗希は周りにバレないように小声で耳打ちをした。次から次に部員から賛辞の声を送られ、引き攣った愛想笑いでそれに応えている。私はそれが可笑しかった。
「私も、感動しちゃったよ。」
「里佳が原作者のくせに?」
「ありがとう。素敵な舞台にしてくれて。それに私も貴重な経験になったよ」
「いつかさ、大人になったら里佳の書いた小説を脚本にして、それで2人でドラマなんか撮っちゃったりして?才能あるよ里佳」
「止めてよ、本気にしちゃうから」
私たちは顔を見合せてクスクスと笑った。そんな私たちの会話を遮るように、背後から声がした。
「紗希!お疲れ様!」
さっきの彼がやって来て、私は咄嗟に目を伏せた。そして、こっそりと聞き耳を立てる。
「葵人!よかったよ!最高!」
紗希は慣れた様子で彼とハイタッチを交わす。
「脚本、マジよかったよ。久しぶりに楽しかった」
照れくさそうにお礼を言う彼に、紗希は揶揄うように笑った。
「久しぶりって、誰よりも演劇好きなくせに何言ってんの?」
「うるせー。俺にもこだわりがあんだよ。演じたい役だと身が入るって言うか⋯これ本気で演じたい役だったからさ。マジでありがとう」
私はその言葉に、また胸が落ち着かなくなった。私の書いた小説のその役を本気で演じたいなんて。なんだか嬉しさが込み上げる。また緩みそうな顔を慌てて隠す。そして、私のまだ知らない感情が敏感に反応する。少年みたいに笑う彼に、その声に。隠しきれないこの感情の正体に薄々感ずいてはいる。だけど。
──ダメだ。恋はしないって決めたのに。
それでも、私は体育館を後にする彼の背中をただ見つめていた。
「ねぇ、紗希⋯あの人って」
「あぁ、あいつ?私が児童劇団で一緒だった凪良葵人。昔から演劇が好きで、今でも本気で役者を目指してるんじゃないかな?まぁ顔だけはいいからね。だけど昔っから演劇バカでね、我儘で大変だったんだから」
「本気で何かをやってるって、カッコイイじゃん⋯」
つい、本音が零れてしまった。
「え?里佳、何か言った?」
「へ?ううん。何にも。ね、模擬店見て回ろ?」
「いいね!私、チョコバナナ食べたい!」
これでいいんだ。こんな普通の日常を、普通の高校生活を楽しんでいられるだけで。でも綻びかけた蕾のようなこの気持ちの自分は⋯。
どうしたって私は余命3年。
もし、それが伸びても幾年か、先はわからない。
恋愛なんて、悲しい結末しか見えない。
だから伝えるなんて馬鹿なことはしない。
遠くからでもいい。私は彼の夢を応援しよう。
私の小説を本気で演じてくれた彼を。
この気持ちだけを大事にしよう。
「あの日の君はどこにいったんだよ⋯」
今日、彼にノートの秘密を知られてしまった。それに、2年生で彼と同じクラスになってから、なるべく関わらないように取り繕ってきた。同じクラスになれた嬉しい気持ちだって隠してきたんだ。何度かこっそり演劇部も見に行ったことがある。あの時の凪良葵人は見るからに影を潜めていた。あの頃から少し変わってしまった彼に、つい悪態をついてしまったのだ。私は本当に嫌なやつだ。私の中での彼はずっと、あの舞台でキラキラと輝く姿のままでいて欲しかった。今も役者になる夢を追いかけているままだと思いたかった。だから「夢はないの?」と聞いた時の、彼の反応が悲しかった。それは、夢を見ることのできない私の嫉妬かもしれない。自分勝手に押し付けている我儘かもしれない。だけど、私はそんな独りよがりの夢を君に見るしか救われないんだ。
眠れない夜の深夜0時。
乾咳が酷く、とても小説を更新できる状態じゃない。
気持ちが、まるで暗い海の底に落ちるように力無く絶えていく。
ずっと続けていたルーティンを、私は初めて止めた。
死ぬことは怖くない。それは今でも変わらない。
運命として受け入れた余命3年。
怖いのは、心に執着を持つこと。
未練とか後悔とか残らないように避けてきたはずなのに。心に意味を見つけてしまったんだ。
君に夢を見てしまったから。
募る想いを重ねたから。
綻びかけた蕾は、ゆっくりと花になろうとしている。
私はギュッと奥歯をかみ締めて、肩で風をきって歩いた。凪良葵人はいつも、いつも私の心を乱す。
バス停に着く頃にようやく気持ちが落ち着いて、丸めてしまったキャンパスノートをパラパラと捲る。
ノートの書き出しの小説が、彼に見られてないのは幸いだった。
去年の文化祭。演劇部の舞台の脚本も私が書いた小説。
忘れようとした思い出。
忘れられなかった想いだ。
あれは高校1年の2学期の始まりの日。教室に入ってくるなり、友達の紗希は大慌てで私の机の前にやってきた。
「里佳!どうしよう」
「どしたの?何かあった?あれでしょ!夏休みの宿題なら見せないよ。ちゃんと自分でやらなきゃ」
「宿題はちゃんとやったよ。別件!」
「じゃあ、どうしたの?」
「演劇部がね、文化祭でやる舞台の脚本⋯なんにも思いつかない。里佳よく本読んでるし、国語も得意でしょ?お願い!助けてください」
「なんで脚本なんて引き受けたのよ」
「ほら、私演出家になりたいじゃない?って言ってないから知らないか。演出家目指してんなら、じゃあ脚本は藤間がって先輩に言われたら断れないし⋯」
「紗希はそんな夢があったんだね!いいじゃん応援するよ!あー私部活入んなくて正解だ。何かめんどいもん人間関係。じゃ、頑張ってね」
私はめいっぱいの笑顔で紗希に言った。
「違うよ、応援するね!ニコッじゃないのよ。ね、お願い。私を助けると思って。里佳、作文得意じゃん」
「作文と脚本ってだいぶ違うと思うけど⋯」
「一生のお願い!」
「一生のお願いなんて簡単に使うもんじゃないよ。大事に取っておきな?⋯仕方ないな。手伝ってあげるよ」
こんな風に意地悪を言ったけど、内心は少しだけわくわくしてた。自分が書いた小説が誰かによって現実化するなんて面白い。もちろん小説を書いていることは誰にも言っていないし、小学校からの付き合いの紗希にさえ秘密にしている。言わないことに意味はないんだけど、恥ずかしいと思うのは私にも思春期ってやつが芽生えたのかもしれない。
「どんな舞台をやるの?現代版ロミオとジュリエットとか?」
「里佳、今どき演劇部がロミオとジュリエットやる方が珍しいよ」
「そうなの!?」
「まず中学高校ではやらないのがマジョリティ。だってまだ人生経験少ないし。若者にシェークスピア作品は難解だよ」
「じゃあ紗希はどんな脚本にしたいの?」
「んー等身大の青春モノ!恋愛もあっていいな⋯学校が舞台でさ。見る方もイメージしやすいじゃん?」
「わかった。学園モノね。じゃあ私が短編小説を書くからさ、紗希が脚本に直すのはどう?私、脚本なんて書いたことないから勝手が分からないし」
「えっ!小説は書いたことあるの?」
紗希は目を真ん丸くして私を見つめる。
「見よう見まねで書いてみるって意味だよ」
「おっけ!それでいこ!少しくらいは私もやらないと!夢の第一歩だ!やっぱり頼れるのは里佳だけだね!」
やっと紗希は落ち着いて息ができたのか、調子のいいことを言いながら持っていたノートでパタパタと顔を扇ぎ始めた。
「ねぇ、紗希の理想の恋愛ってどんなの?」
「今は純愛!だけど幼なじみってのも憧れるし⋯スポーツ万能の男の子もいいなぁ」
私はそんな紗希を鼻で笑ってしまった。ついこないだ聞いた、紗希の好きな男子が正にそれだったからだ。つまり、この子は自分の欲求を作品にして欲しいのかと、私は呆れたのだ。
「ねぇ、バカにした?里佳が聞いたんじゃん」
「だって⋯紗希はホント素直だね」
「え?何が?えっ?」
私と紗希はいつもこんな調子だ。紗希といると私は不思議と病気のことを忘れて普通でいられる。波長が合うというのか、私も紗希に気を使わないから。それに期待に胸を膨らませながら想像した、可愛い制服を着て親友と恋バナをするってことを、あっさりと叶えてくれたのも紗希だ。私は恋愛を諦めている。私から話せる恋バナは無いけど、話題豊富な紗希はいつも私を楽しませてくれた。その話をネタに、小説に取り入れて私は自己満足する。私が死んでしまった後に紗希にこのノートを見られたら、きっと怒るだろうな。でも安心して欲しい。紗希の話は全部ハッピーエンドにしてある。紗希の恋が上手くいくように私の願掛け。
その夜から私はノートに小説を綴り始めた。紗希の願望通り、スポーツ万能の男の子と、幼なじみの男の子が同じ女の子を好きになる。高校生らしい等身大の部活の悩みや進路の葛藤を詰め込んで⋯プロットの途中で私の筆は止まった。いくら等身大の悩みを想像したって、私はみんなとは違う。私の悩みはあと余命3年をどう生きるか。それ一択だ。それにもう半年を消費してしまった。思っていたよりも人生を消費するスピードはずっと早い。各駅停車の電車が、ある駅を境に特急電車に切り替わった感覚。あの余命宣告と言う駅だ。無駄だったとは思わないけど、各駅停車の15年をちゃんと考えて生きればよかったと反省した所で⋯幼い私は知る由もないわけだし。息巻いて小説家になるなんて豪語したが、その気持ちは今や頭の上に宙ぶらりん。真っ暗な闇を手探りで進むような、まるで手応えのない感覚。web小説のサイトに作品を投稿してみてもPV数は伸びず、鳴かず飛ばず。「つまらない」とコメントを貰ったこともある。私の覚悟は折れそうになっていた。
それに想像以上に諦めなきゃいけない事はどんどん増えていく。例えば、辛いものが好きだった私はそれも食べないようにと制限された。熱いものもダメだから、激辛ラーメンがもう食べれないと言われたのは絶望だった。「死ぬ直前に何が食べたい?」と聞かれれば「激辛ラーメン!」と今なら即答する。日常生活でこんなに気をつけていても、発作が出てしまえば咳が止まらなくなり、ベッドの上で悶え苦しむ。確実に、じわりじわりと死が近づいている。精神を保つだけでも未熟な私には辛くて、心にもう余裕は無い。あれほど、死生観を語っていた私も、自分事になるとおいおいとベッドで涙する。あの時の自分に教えてやりたい。死ぬって怖いんだよと。
気を抜くと弱気になってしまうから、ぶんぶんと首を横に振り、また筆を取り文字を書く。そうやって私の生き方を取り戻す。生きた証を刻むように、一心不乱に文字を書いた。ブブブッとスマホが震え、通知が届く。
「すごく面白い作品でした。応援してます。梛」
私の作品に届いたそのコメントに温かい涙が零れた。
見てくれてる人はいる。必要としてくれる人がいる。
たった1人でも、私にとっては生きる理由だ。
たった1人でも私を覚えてくれているなら。
そして、私はひとつ。未練を残すことになる。
短編小説を渡すと、すぐに紗希は脚本に直し演劇部は文化祭に向けて始動した。意外にも作品は好評で、私も鼻が高かった。
「練習見ていく?」と紗希は誘ってくれたが、照れくさくなって辞めた。思春期の子供がいたら、その子の授業参観を見に行く母親の感じ。小説は自分が生んだ青春全開の我が子みたいだから、その場に行ったら何かと口を挟んでしまいそうで。演劇部の茶を濁すのも悪い。
「文化祭本番の舞台を楽しみにしてるよ」
紗希にそう伝えた私は、クラスの展示を手伝える範囲で手伝った。
文化祭当日、いよいよ演劇部の舞台の幕が開く。
うちの学校の演劇部は中々の実力で、過去には全国大会にも出たことがある歴史ある部活だ。文化祭の演目の中でも注目度が高い。
満席の体育館はザワザワと期待の声で騒がしかった。私も紗希が用意した特等席に座り、じっとその時を待った。頭の中に想像した世界がどんな風に舞台化されたのか、期待感が高まる。
暗く照明の落ちた体育館が静寂に包まれる。
「その年、私は恋をした。それは世界中の桜の花びらをいっぺんに空に撒いたような。そんな淡いピンク色の青春だった」
ヒロイン役の女の子のセリフから始まり、物語が始まった。その男の子は幼なじみの男の子を演じていた。役柄は初恋が叶わない男の子。私が、自分の気持ちを投影した男の子。
「僕にも君にも未来がある。可能性が1%でもあるなら、僕は諦めないよ。夢も、恋も」
迫真の演技に、会場が感嘆の息を漏らす。
彼の声は熱情を帯びて、真っ直ぐに心に通る。
スポーツ万能の主人公の引き立て役だったはずの彼は、舞台の中で誰よりも目立っていた。私は演劇の知識は乏しいから、上手いとか下手とかよく分からないし、それを言える立場じゃない。あえて口に出すならば、烏滸がましいが誰よりも上手い演技をする。それに楽しそうに演じている。見ている私も、つい口元が緩んでしまい、優しい笑みを浮かべた。そんな彼の姿に胸を打たれる。私の書いた心情を完璧に体現してくれていた。もちろん私は片思いなんてしたことない。過去を遡っても、幼稚園の頃のおままごとみたいな好きしかしらない。漫画やドラマや小説で見て聞いた思春期の片恋を、見よう見まねで書いたそれを、私の想像通りに演じてくれている。それから私は、ずっと彼から目が離せなくなっていた。
「その未来で僕は君の隣にいてもいい?好きな人がいることはもちろん知ってる。馬鹿なこと言ってるって分かっている。だけどね⋯僕は君が好きなんだ」
その台詞が、凛と私の耳に響いた。自分が書いた台詞のくせに。私が言われたわけじゃないのに。ドキドキと胸が高鳴り、頬が紅潮する。スカートをギュッと握り、私は呼吸を落ち着かせた。
彼の迫真の演技に、また体育館の空気が変わった。
さっきまではイケメンの主人公の先輩を推していた生徒達も、「私は幼なじみと付き合った方が幸せになると思う」と言わんばかりの目で舞台を見つめている。
不思議な余韻を残しながら幕が閉まる。
「すっごいよかったよね」
「私感動して泣いちゃったよ」
周りの生徒たちの評価も上場。私も少し得意げになった。舞台を無事に終えた紗希が、子犬みたいに駆け寄ってくる。
「里佳!ありがとう!大成功」
紗希は周りにバレないように小声で耳打ちをした。次から次に部員から賛辞の声を送られ、引き攣った愛想笑いでそれに応えている。私はそれが可笑しかった。
「私も、感動しちゃったよ。」
「里佳が原作者のくせに?」
「ありがとう。素敵な舞台にしてくれて。それに私も貴重な経験になったよ」
「いつかさ、大人になったら里佳の書いた小説を脚本にして、それで2人でドラマなんか撮っちゃったりして?才能あるよ里佳」
「止めてよ、本気にしちゃうから」
私たちは顔を見合せてクスクスと笑った。そんな私たちの会話を遮るように、背後から声がした。
「紗希!お疲れ様!」
さっきの彼がやって来て、私は咄嗟に目を伏せた。そして、こっそりと聞き耳を立てる。
「葵人!よかったよ!最高!」
紗希は慣れた様子で彼とハイタッチを交わす。
「脚本、マジよかったよ。久しぶりに楽しかった」
照れくさそうにお礼を言う彼に、紗希は揶揄うように笑った。
「久しぶりって、誰よりも演劇好きなくせに何言ってんの?」
「うるせー。俺にもこだわりがあんだよ。演じたい役だと身が入るって言うか⋯これ本気で演じたい役だったからさ。マジでありがとう」
私はその言葉に、また胸が落ち着かなくなった。私の書いた小説のその役を本気で演じたいなんて。なんだか嬉しさが込み上げる。また緩みそうな顔を慌てて隠す。そして、私のまだ知らない感情が敏感に反応する。少年みたいに笑う彼に、その声に。隠しきれないこの感情の正体に薄々感ずいてはいる。だけど。
──ダメだ。恋はしないって決めたのに。
それでも、私は体育館を後にする彼の背中をただ見つめていた。
「ねぇ、紗希⋯あの人って」
「あぁ、あいつ?私が児童劇団で一緒だった凪良葵人。昔から演劇が好きで、今でも本気で役者を目指してるんじゃないかな?まぁ顔だけはいいからね。だけど昔っから演劇バカでね、我儘で大変だったんだから」
「本気で何かをやってるって、カッコイイじゃん⋯」
つい、本音が零れてしまった。
「え?里佳、何か言った?」
「へ?ううん。何にも。ね、模擬店見て回ろ?」
「いいね!私、チョコバナナ食べたい!」
これでいいんだ。こんな普通の日常を、普通の高校生活を楽しんでいられるだけで。でも綻びかけた蕾のようなこの気持ちの自分は⋯。
どうしたって私は余命3年。
もし、それが伸びても幾年か、先はわからない。
恋愛なんて、悲しい結末しか見えない。
だから伝えるなんて馬鹿なことはしない。
遠くからでもいい。私は彼の夢を応援しよう。
私の小説を本気で演じてくれた彼を。
この気持ちだけを大事にしよう。
「あの日の君はどこにいったんだよ⋯」
今日、彼にノートの秘密を知られてしまった。それに、2年生で彼と同じクラスになってから、なるべく関わらないように取り繕ってきた。同じクラスになれた嬉しい気持ちだって隠してきたんだ。何度かこっそり演劇部も見に行ったことがある。あの時の凪良葵人は見るからに影を潜めていた。あの頃から少し変わってしまった彼に、つい悪態をついてしまったのだ。私は本当に嫌なやつだ。私の中での彼はずっと、あの舞台でキラキラと輝く姿のままでいて欲しかった。今も役者になる夢を追いかけているままだと思いたかった。だから「夢はないの?」と聞いた時の、彼の反応が悲しかった。それは、夢を見ることのできない私の嫉妬かもしれない。自分勝手に押し付けている我儘かもしれない。だけど、私はそんな独りよがりの夢を君に見るしか救われないんだ。
眠れない夜の深夜0時。
乾咳が酷く、とても小説を更新できる状態じゃない。
気持ちが、まるで暗い海の底に落ちるように力無く絶えていく。
ずっと続けていたルーティンを、私は初めて止めた。
死ぬことは怖くない。それは今でも変わらない。
運命として受け入れた余命3年。
怖いのは、心に執着を持つこと。
未練とか後悔とか残らないように避けてきたはずなのに。心に意味を見つけてしまったんだ。
君に夢を見てしまったから。
募る想いを重ねたから。
綻びかけた蕾は、ゆっくりと花になろうとしている。