暖房がよく効いていて、独特の匂いがする。もう慣れたものだけれど、診察までの待合室の時間は何故か長く感じる。手元にある203と書かれた受付番号に視線を落とす。診察室の前のモニター画面には、「診察中:202」と映し出されている。
もう次か……。それにしても、最近の病院は段々デジタル化が進んでいくなぁ……。
そんなことを考えているうちに、診察室に入っていた患者で出てくる。それから暫くしてピコンピコンと音が鳴り、モニター画面が「呼び出し中:203」と表示が変わる。僕は重い腰を上げて、診察室に入った。
「山川先生、おはようございます」
「瑞樹《みずき》くん、おはよう。お、今日はちょっと顔色がいいね」
担当医の山川先生言葉に、看護師さんが笑顔で頷いている。
「実は、少ししたいことが出来て……。それで心が軽くなったのかもしれないです」
「おお、それは良いことだ」
「病状が悪化してから、楽しいこともなかったので……」
「そうだね……」
山川先生は少しだけ悲しそうな表情をした。その表情を見て、心が苦しくなる。
幼少期から、病気を患っていた。その病気が悪化し始めたのは、二年前。高校一年生になった今も病状は悪化の一途を辿っている。
「余命は約一年」と宣告されたのは、つい一ヶ月前のこと。もちろん驚きはしたが、病状が悪化した二年前から段々とそんな気がしていた。
薬のこと、今日の検査結果のことの説明を終えた山川先生は最後に僕に微笑んだ。
「今日は元気そうで安心したよ」
本当に嬉しそうに笑った山川先生と看護師さんを見て、僕はとても心が傷んだ。何度も心の中で「ごめんなさい」と謝る。
診察室を出て会計を終えれば、いつも通り薬局に寄った。薬局の人とももう顔見知りなので、「薬が準備出来るまで、ちょっと待っててね」と笑顔で言ってくれる。僕は、もう一度心の中で「ごめんなさい」と謝った。
今日は病院での診察も、薬を貰うことも本来の目的ではなかった。本当の目的は「山川先生と看護師さんと薬局の人の顔を見ること」、それだけだった。
薬を受け取り、薬局の人に笑顔でお礼を言えば、今日の目的のほとんどは達成だ。後は最後の目的だけ。
僕はお気に入りの景色のある高台へ向かった。この場所は綺麗なのに、いつも人は誰もいない。今日も晴れていて、いつも通り景色は綺麗だった。
僕は、景色に向かって頭を下げた。そして、一言。
「ごめんなさい」
僕は高台から下に落ちないように設置してある柵を越える。
さぁ、最後の目的を達成しよう。後は、「死ぬだけ」だ。
家族、担当医、看護師さん、薬局の人、それに僕に関わってくれていた全ての人へ。
ただただごめんなさい。
家族へ。大好きです。本当に大好きです。ずっと病気の僕を諦めないでいてくれてありがとう。
山川先生と看護師さんへ。いつも親身に僕に寄り添ってくれてありがとうございます。
薬局の人へ。いつも笑顔で話す世間話が楽しかったです。本当にありがとうございました。
病気が悪化してから高校に行くことは少なくなったけれど笑顔で話しかけてくれたクラスメイト。僕の病気を知って、心配してくれた担任。色んな人に優しくして貰った。
どうか最後に言い訳をさせて欲しい。僕は本当に治療を諦めていなかった。余命が宣告されても、生きれるまで生きてやる!と思っていた。ずっとずっと前向きでいるつもりだった。
それでも、ある時気づいてしまった。死ぬことは怖いことを。振り返れば、病状が悪化してから死への恐怖で何をしても楽しくなかった。そう、ただそれだけだ。
病状が悪化してから、生きていて楽しくなかった。怖がりの僕には、この病気はあまりに脅威だった。
先月、余命を宣告され、初めて人生に諦めがついた。もう怖がったまま人生を歩んで、楽しくない日々で人生を埋めてしまうくらいなら……「死んでしまおう」、と。
死を怖がって、死ぬなんてあまりに矛盾していることは分かっている。それでも、人生で楽しくない日々は少しでも少ない方がいいだろう?
言い訳も十分した。もう心残りはない。目を瞑り、心の中でカウントダウンを始める。
「5……4……3……」
2になる直前、後ろから誰かに抱きつかれた。
「あんた、何してんの!?」
振り返ると、同い年くらいの女の子が僕に抱きついている。
「とりあえず、柵の中に入って!」
僕が固まっていると、女の子はもう一度大きな声で言った。
「早く!」
女の子は必死を僕を柵の内側に入れようと力一杯引っ張る。それに釣られて、僕は柵の内側へ戻った。僕が柵の内側に戻ると女の子は大きく息を吐いた。
「良かったぁ……」
小さく呟かれたその言葉に何故か涙が出そうだった。女の子は大きく息を吐いた後、僕を近くのベンチに座らせる。そして、優しく僕の顔を覗き込んだ。
「何かあったの……?」
「いや……」
言葉に詰まる僕を見て、女の子はそれ以上何も聞かなかった。しかし、暫くして女の子が急に立ち上がった。
「ねぇ、君、名前はなんて言うの?」
「え……?米倉瑞樹……」
「了解、瑞樹ね。私は、上原一葉《うえはらいちは》。一葉って呼んで……って、そんなことよりっ……!」
上原一葉と名乗ったその女の子は、僕と目を合わせた。
「瑞樹、貴方は今死にました」
「は……?」
「瑞樹、今日死んだことにしよう!だから、もう好きに生きるってこと!これから先の人生は、本当はもう無かったわけでしょう?だから、本当に好きなことだけするの!えーと……つまり……」
一葉が暫く言葉を考えた後、僕に満面の笑みを向けた。
「これからの人生は、おまけってこと!プラスアルファ!だから、これからこの世界は死後の世界だと思おう……!?そうっ!天国!」
一葉はいいことを思いついたとでも言わないばかりに、自信満々だった。
「だから……!」
一葉が柵に近づき、柵を乗り越える。
「おい!何するんだ!」
「私の気持ち分かったでしょ!?人が柵を乗り越えてたら、びっくりするの!」
そして、一葉は美しく輝く景色に向かって、大きな声で宣言した。
「私も今日、ここから飛び降りました!」
一葉はそれだけ言い放つと、柵の内側に戻る。
「これで、私も今日死んだ。貴方と一緒。だから、二人でこの天国を楽しもう?」
その言葉に、気づいたら僕は頬に涙が伝っていた。一葉がハンカチを取り出し、そっと僕の頬の涙を拭いてくれる。
世界中の誰が、僕のためにこの柵を超えてくれるというのだろう?
「死」も「病気の日々」も、ずっとずっと怖かった。だから、今日死んだと思えば、もう死を怖がらなくていいだろうか?
だって、天国で死を恐れている人なんていないだろう?
「ねぇ、瑞樹。きっと天国は楽しんだ者勝ちよ」
一葉はそう言った後、「よし!」と手を叩いた。
「さ、瑞樹の好きなことを教えて!今からでも遊びに行こう!」
「今から……!?」
「当たり前でしょ!楽しい時間は少しでも多い方がいいんだから!」
一葉が僕の腕を掴んで、歩き始める。景色に目を向けても、太陽はまだ沈み始めない。
まだまだしたいことをする時間は沢山あると言ってくれているようだった。
その後、僕達は日が暮れるまで遊んだ。
「はぁ、疲れたー!でも、とっても楽しかった。瑞樹、ありがとう!」
「お礼を言うのは、僕の方なんだけど。今日は僕に付き合わせちゃったから、次は一葉のしたいことに付き合うよ」
「いいの?」
「当たり前じゃん。一葉も今日死んだんでしょ?じゃあ、一葉も天国を楽しまないと」
「そうね……!うーん、何にしようかなぁ」
「したいことないの?」
「まさか!したいことがあり過ぎて、どれからしようか悩んでるの!」
「一番したいことからじゃない?」
「一番が沢山あるってことよ」
他愛もない会話をして、好きなことをして、楽しめるだけ楽しんで、こんなにも笑顔で過ごしたのはいつぶりだろう。
「一葉」
「うん?」
「本当にありがとう」
僕がお礼を言うと、一葉は嬉しそうに笑った。
「私も楽しかったからいいの!」
そう言って笑った一葉は、とても眩しかった。
「そろそろ帰ろうか。送るよ」
「……!?」
「一葉?どうしたの?」
「サラッと送るよって言える辺り、イケメンだなと思って」
「日が暮れてるのに、女の子を一人で帰さないでしょ」
「ふふっ、瑞樹は優しいのね」
帰り道を歩き始めると、一葉がじーっと僕の顔を見ていることに気づいた。
「どうしたの?」
「瑞樹はいくつなのかなと思って」
「僕は……」
「待って!当てたい!……うーん、私と同じくらいに見えるから、高校一年生くらい?いや、二年生?」
「正解は一年生でした。一葉も同い年?」
「うん、高校一年生。近くの浅咲高校に通ってる」
「僕は、日乃下高校」
「瑞樹、頭良いのね。進学校じゃない」
「僕は全然だよ。それに最近は行けてないし」
そう言ってから、僕は気づいた。一葉は僕が病気であることを知らない。それなのに急に高校に行っていないと言えば、困らせてしまうだろう。僕はそっと一葉に視線を向ける。
「ごめん、今のは……」
「そうよね!私も、学食が美味しくなかったら行ってないわ!」
一葉がうんうんと頷いている。一葉はさっきも思ったが、聞かれたくないことに深入りしないでいてくれる。それがどれほど優しいことかはよく分かっているつもりだった。
そんなことを話しているうちに、一葉の家の近くまで着いた。
「瑞樹、送ってくれてありがとう。じゃあ、またね……って、連絡先交換してないじゃない!」
一葉が慌てて、携帯を取り出す。
「もうっ!瑞樹も聞いてくれればいいのに!」
「いや、知らないやつに急に聞かれるのも怖いと思って……」
「何言ってるの!私たちはもう天国仲間!それに、次は私のしたいことに付き合ってくれるんでしょ!?」
一葉は連絡先を交換した後、僕に手を振ってから帰って行く。しかし、家に入る直前、僕の方を向いた。
「私もしたいこと考えておくから、瑞樹もしたいことだけ考えるのよ!他のことは考えちゃダメだから!」
そうはっきりと言ってから、一葉は家に入って行った。一葉は最後まで俺を気遣ってくれていたのだろう。俺はその場で、手を思いっきり上にして、背筋を伸ばした。
「よし!帰ったら、したいことでも考えよ」
これからの時間は、したいことだけをするんだ。だって、僕はもう死んだんだから。今日から、この世界は天国に変わったのだから。
翌日、僕は早くに準備を済ませて、家を出ていた。自分に釣り合っていない気がして、いつもはあまり着ない格好良い服をクローゼットから引っ張り出し、お気に入りの靴を履いている。
目的地は、気になっていた苺のパフェのお店。実は、僕は甘いものが大好きだ。しかし、可愛いお店なので、一人で行くことに気後れしていた。
一葉は僕の恩人で、きっとお礼をどれだけ言っても足りない。それでも今僕が出来ることは、一葉がくれたこの天国というあまりに不思議な時間を、一葉がいない時でもちゃんと楽しむことだろう。
目的のお店に着くと、想像よりも可愛い店内だった。女の子ばかりで、みんな楽しそうに過ごしている。
「見て……!男の子が一人で来てるよ。可愛い〜」
二人組の女の子達が小声でそう言っているのが聞こえたが、気にしない。だって僕はもう死んでいるはずで、もうこの時間はただのプラスアルファなんだから。
それでも不思議なもので、すぐにその女の子達もパフェを美味しそうに食べている。
「そっか。みんな、自分の時間を楽しむことに全力なんだ……」
あーあ、今まで人目を気にして、好きな場所に行けなかったのが馬鹿みたいだ。世界なんて、楽しんだもの勝ちだったはずなのに。
そんなことを考えていると、店員さんがパフェを持ってきてくれる。
「お待たせしました。山盛り苺のパフェです」
周りの女の子達は、届いたパフェの写真を嬉しそうに撮っている。僕は興味がないので、そのまま食べ始めようと思ったが……
「一葉に見せようかな……」
そう呟くと同時に、気づいたら携帯を取り出していた。カシャっと携帯のシャッターを切り、撮った写真を確認する。
へ、下手すぎる……。今まで写真などほとんど撮ったことがないので、全然美味しそうに見えない。それでも、何故かもうすでに満足だった。
今度、一葉に見せよう。そう決心した僕は、スプーンを持ち、パフェを食べ始めた。
食べたパフェはあまりにも美味しかった。少し勇気を出せば、考え方を変えれば、こんなに美味しいものが食べられるのならば、僕は世界を楽しむのがあまりに遅かったのだろうか。
すると、僕の頭の中にピョコンと一葉が現れて「あら、天国を楽しむのに遅いなんてことはないのよ!いつだって楽しんだ者勝ちなんだから!」と言った気がした。本当に一葉ならそう言いそうな気がして、僕はついクスッと笑ってしまった。
気づけば、パフェはあっという間に食べ終わっていた。
「ご馳走様でした」
会計の時、店員さんに「とても美味しかったです!」と勇気を出して言うと、嬉しそうにお礼を言われた。
ああ、天国というのは、なんて勇気の出しやすい場所なんだろう。本当にパフェは美味しくて、この時間は楽しいとしか言いようがなかった。
その後は本屋に行って、面白そうな漫画を買って、家でゴロゴロしながら読んでいた。漫画を読み始めて一時間程経った頃、一階からお母さんの声が聞こえた。
「瑞樹、お昼はいるのー?」
「いるー!」
大きな声でそう返して、僕はダイニングに降りていく。まだ、お昼か。いくら朝一でパフェのお店に行ったとはいえ、今日の時間もまだまだある。午後からは、何をしようか。
一階に降りると、お母さんがテーブルに焼きそばを並べていた。お父さんは仕事でいないので、今日のお昼はお母さんと二人だった。お昼ご飯を食べ始めると、お母さんがじっと僕の方を見ている。
「お母さん、どうしたの?」
「その服、格好良いなと思って。瑞樹に似合うわ」
「あはは、ありがとう」
「どうして今まで着てなかったの?」
「うーん、ちょっと気恥ずかしくて。あ!そう言えば、今日はパフェを食べに行ったんだ。写真見る?」
そう言いながら、お母さんにさっき撮った写真を見せる。
「わぁ、とっても美味しそうじゃない。瑞樹、甘いもの好きだものね」
「そうなんだよ。苺もいっぱい乗っててさ、それで……お母さん?」
お母さんが嬉しそうに写真をじっくり見ている。
「うん?ああ、どうしよう。お母さん、とっても嬉しくて」
「……?」
「瑞樹が嬉しそうに笑ってるから、お母さんも楽しくて仕方ないわ。ねぇ、その写真送ってよ。お父さんにも見せたいわ」
僕はそう言われて母に写真を送りながら、キュウっと胸が苦しくなるのを感じた。ごめんなさい、僕は昨日死のうとしたんだよ。いや、そして死んだんだ。死んだと思ってるから、笑顔でいられるんだ。
「お母さん、僕に生きていて欲しい?」
そう口から溢れたことに気づき、僕は慌てた。
「ちがっ!これは……!」
お母さんは、キョトンとした顔をした後、微笑んだ。
「当たり前じゃない。親だもの。瑞樹が生きてくれているだけで嬉しいわ。でも、そんなこと今の瑞樹は言われたくないでしょう?」
お母さんは当たり前だが、僕が余命宣告されていることを知っている。
「だから、瑞樹の過ごしたいように時間を使って欲しいの。ただ、それだけよ。それで、もっと……」
気づいたら、お母さんは声を詰まらせて泣いていた。
「もっと……笑顔を見せて頂戴……」
最後には、消えて無くなりそうな声だった。僕は鼻の奥がツーンとして、自分の目が潤んでいることに気づいた。あの日、僕が死んだ日、僕は心の中で家族に謝り、心の中でお礼を言った。ここが死後の世界ならば、死んだのが僕と一葉だけの天国ならば、きっと家族に会えていることは奇跡だろう。
さっき、僕はこう思った。天国はなんて勇気の出しやすい場所だろうと。なら、勇気を出せるはずだろう?家族に会い、言葉を伝えられることに感謝しなければいけないはずだ。
「お母さん、大好きだよ。本当に大好き。病気の僕をいつも諦めないでいてくれてありがとう」
あの日の心の中で伝えた言葉は、本当は絶対に家族に届かないはずだった。でも、今、目の前で届いているんだ。
すうっと心が軽くなるのを感じる。
「馬鹿ねぇ、どれだけお母さんとお父さんが瑞樹に元気を貰っていると思ってるの。お礼を言うのは、私たちの方よ」
涙を溢しながら、お母さんは照れ臭そうに笑った。
その後も、焼きそばを食べながら他愛のない話をした。いつものお母さんの焼きそばなのに、その日は何故かいつもより美味しく感じた。
食べ終わり、自分の部屋に戻ると、携帯がピコンっとなる。一葉からだった。
「したいこと決まった!私、まず水族館に行きたい!」
一葉に「了解」と返しながら、僕はクローゼットに視線を向ける。
「次はどの服を着ようかな」
動き出した天国での生活は、僕が思ったよりずっと輝きを放っていた。
一週間後、僕たちは隣町の水族館の前で待ち合わせをしていた。先に着いた僕が携帯を触りながら一葉を待っていると、ポンッと肩を叩かれた。
「みーずきっ!おはよう!」
「一葉、おはよう」
一葉は前に会った時とは、また違う雰囲気の服を着ていた。動きやすそうだけど、可愛いらしい感じが一葉らしかった。
「一葉、その服似合ってる」
「瑞樹もその服似合ってるわ。やっぱり、服は好きなものを着るのが一番よね!」
その言葉と言い方があまりに想像通りで、僕はつい笑ってしまった。
「瑞樹?どうして笑ってるの?」
「ううん、なんでもない」
「なんでもないわけないでしょ!面白いことがあったらなら、私にも共有しなさい!」
そんな会話をしながら水族館に入れば、一面青の水槽に包まれていた。
「綺麗!あ、見て!あれ、エイじゃない!?」
一葉が楽しそうにはしゃいでいるのを見るだけで、僕も楽しくて仕方なかった。
「ちょっと瑞樹、ちゃんと見てる!?」
「はいはい、見てるよ」
「それは見てない人の反応じゃない!お互い、楽しんでこその天国ライフなんだからね!」
一葉はそう言いながら、僕を水槽の目の前まで連れて行く。そして、嬉しそうに魚達を指差しながら、話している。
「一葉」
「何?」
「本当に楽しい。連れて来てくれてありがとう」
「……瑞樹はなんでも恥ずかしがらずに言えるのが、長所よね」
「天国で恥ずかしがってたら、勿体無いだろ」
「ふふっ、それもそうね」
僕たちは水族館を一通り見て回った後、休憩するために水族館に設置されているベンチに腰掛けた。
「あ、そうだ。僕、一葉に見せたい写真があるんだった」
僕はそう言って、携帯に苺のパフェの写真を表示させる。他にも、この一週間で行った楽しいことの写真もある。
「ほら、これ最近行ったカフェで食べたパフェの写真」
「とっても美味しそう!」
「本当に美味しかったから、オススメ」
「瑞樹は甘いものが好きなの?」
「うん、大分甘党」
「本当!?私も甘いもの大好きなの!」
他の写真も見せながら、僕たちは一週間を振り返った。
「瑞樹は天国を楽しむのが上手いから、私も負けてられないわ……!」
「違うよ。一葉のおかげで僕は今を楽しめてるんだ」
「私のおかげ?」
「この世界を天国に変えてくれたのは、一葉だろう?」
「そうだけど、天国を楽しむ努力をしているのは瑞樹でしょ?」
一葉が心底不思議そうにそう答えるから、僕はつい笑ってしまった。
「一葉は優しすぎるよね」
「急に何!?」
「いや、感謝してもしたりないなぁって思っただけ」
一葉が僕の顔をじっと見つめた後、前を向く。
「私も瑞樹に感謝してる」
「僕に?」
「この世界をもっと楽しくしてくれたから。瑞樹と出会えて良かった」
お礼を言うのは僕の方なのに、一葉は何故か嬉しそうだった。
「さ!次はイルカショーを見ましょ!水族館に来て、イルカショーを見ないなんて邪道だわ!」
「あはは、了解。じゃあ、行こうか」
僕たちはその後、イルカショーを楽しんだ。正直、僕よりも一葉が楽しそうにしていて負けた気がしたけど、大丈夫。僕ももっとこの天国を楽しむ気が満々だから。
「はぁ、楽しかったー!」
「僕も楽しかった。ありがとう、一葉」
「じゃあ、次は瑞樹の番ね!やりたいことを考えておいて!」
「了解。また、考えとくよ」
その日も一葉を家まで送る。今日は、前よりも帰り道が短く感じた。
「じゃあ、またね、瑞樹」
「ああ、またな」
一葉を家に送った後には、もう日が暮れていた。空を見上げると、美しい月が輝いている。満月でもない普通の日の月。それでも、前より綺麗に見えるのだ。「またね」と言って別れる相手がいることも、幸せでないはずがない。
本当はないはずの時間。だからこそ、小さな幸せを見つけるのが得意になっていく。僕は急足で家に帰った。だって、したいことは沢山あるのだから。
今日は、病院の診察の日。前はぼーっと受付番号が表示されるモニター画面を見ていた。でも、今日は違う。携帯で次にしたいことを探していた。
少し遠いけど、このケーキ屋美味しそうだな……。あ、この映画も見たいかも!あー、でも、たまにはボウリングとかもいいなぁ。
「……くん、瑞樹くん!」
誰かに呼ばれている声がして、僕は慌てて顔を上げた。いつもの看護師さんが立っている。
「受付番号が画面に出てるのに診察室に入って来ないから、見に来たの」
「あ、すみません!」
「全然いいのよ。集中出来ることがあって良かったわ」
診察室に入ると、山川先生がいつも通りで笑顔で挨拶をしてくれる。
「瑞樹くん、おはよう。今日も顔色が良さそうで良かった。それに、今日はとても楽しそうだ」
最近、好きな場所へ遊びに行っていることを、僕は山川先生に話す。
「それは良かった。というより、私もその話が聞けて嬉しいよ」
「……?」
「いや、当たり前のことだけれど、瑞樹くんに余命を宣告したのは私だ。それでもね、もちろん私も諦めたくなんてないし、君には少しでも長く笑顔で過ごしてほしい」
山川先生がカルテに目線を向ける。
「小さい頃から知っているんだ。どうにか出来ないかと考えない日はないよ」
「山川先生」
「うん?」
「僕、先生には感謝しかありません。もちろん、看護師さんにも。先生も看護師さんも親身になってくれていること、僕の病気に真剣に向き合ってくれていること、しっかりと伝わっています」
「瑞樹くんも大人になったねぇ。本当にしっかりしてるし、優しい」
「優しい……?」
「ああ。うーん……なんていおうか……。これからの言葉は医者としてではなく、一人の瑞樹を小さな頃から知っている人間として聞いて欲しいんだけど」
「君は優しい。お礼も言えるし、気も遣える。それは、とても凄いことだ。それでもね、優しい人だからこそもっと自分勝手に生きても私は良いと思うんだ。優しい人間が少し自分勝手に生きたところで、最低な人間にはならないだろう。だから、人に気を使いすぎて、疲れないでほしい。瑞樹くんの人生は瑞樹くんのものなのだからね」
先生の隣で、看護師さんも優しく微笑んでくれる。そんな言葉をかけた後、先生は「よし!」と大きな声で言った。
「さ!これで、瑞樹くんの知り合いのただのおじさんは終わろう。じゃあ、今からはちゃんと医者として薬の処方箋を書くよ」
山川先生はパソコンに向き直り、文字を打ち込んでいく。その様子をぼんやり見ながら、僕は本当に優しい人達に囲まれているなぁとしみじみと感じた。
診察室が終わり、薬局に向かう。薬局の人も、今日も変わらず優しかった。僕を囲む優しい人達に出来る恩返しはなんだろう。
山川先生は、「もっと自分勝手に生きてほしい」と言った。きっと僕に関わってくれた人に出来る恩返しは、僕が日々を楽しむことだろう。
僕は自分の両頬をペチンと叩いた。携帯を取り出し、一葉にメッセージを送る。
「次にしたいこと決まった。ケーキ屋と映画とボウリングに行きたい」
すぐに既読がつき、ピコンと一葉からメッセージが入る。
「欲張りね!最高!」
さぁ、したいことを全部しようじゃないか。
それからの数日はケーキ屋に映画、ボウリング、あまりに充実した日々だった。一葉と思い切り遊び尽くした。
「そういえば、一葉、ごめん。交互にやりたいことをする約束だったのに」
「次は私がしたいことを三個言うからいいの!それにケーキ屋と映画は同じ日に言ったから、瑞樹が使ったのは二日だけよ?まだまだ私もしたいことがあるから、瑞樹には付き合ってもらうわよ!」
それから、僕たちは日々を精一杯楽しみ続けた。一葉に会わない日も、僕は毎日好きなことをした。
充実した毎日を過ごすうちに、季節は春に変わっていた。
「桜の季節ね!お花見に行かなくちゃ!」
「お花見か。久しぶりだな」
「え!久しぶりなの!じゃあ、楽しさ2倍ね」
相変わらず、一葉の考え方は優しかった。そんな一葉の考え方に僕は今日も救われている。
僕達は、近くの桜の名所まで向かうために電車に乗った。僕達が電車に乗っていると、小さな男の子がお母さんと一緒に電車に乗りこんでくる。男の子は手にペットボトルのジュースを持っていて、前を見ていなかったようで僕にぶつかった。緩んでいたペットボトルの蓋が床に落ちて、僕の服に少しジュースがかかってしまう。
男の子のお母さんが慌てて、僕に謝る。
「本当にすみません!弁償させて下さい」
「いえいえ、これくらい全然大丈夫ですよ。それに洗えば落ちそうなので」
「せめて、クリーニング代だけでも……!」
「本当に大丈夫ですよ」
お母さんは申し訳なさそうに頭を下げた後、男の子に話しかける。
「ほら、晴斗《はると》も謝って」
男の子も涙目で僕に「ごめんなさい……!」と謝ってくれた。僕はしゃがんで、男の子に視線を合わせる。
「大丈夫だよ」
僕が笑いかけると、男の子は安心したように笑った。親子は最後まで頭を下げながら、次の駅で降りて行った。
すると、一葉が僕をツンツンとつついて、話しかける。
「瑞樹は本当に優しいわね」
「一葉だったら、怒るの?」
「怒らないけど、お気に入りの服だったら悲しいわ」
「じゃあ、一葉も優しいじゃん」
その時、近くにいた女子高生が僕の服を指差して、話しているのが聞こえた。
「あの子、服にジュースかけられたみたい」
「うわ〜、可哀想」
「可哀想」という言葉に僕の心臓はドクンとなった。昔から病気で「可哀想」とよく言われることがあった僕は、「可哀想」と言う言葉が苦手だった。
「瑞樹?」
「あ、ごめん。『可哀想』って聞こえたから」
「ああ、確かにあんまり良い言葉じゃないかもしれないわね。でも、私はあんまり嫌いじゃないのよね」
「そうなの?」
「うーん、なんていうか、こう自業自得であることには言わないじゃない?例えば、勉強を全くしなかった人が点数が悪くても『可哀想』とは思わないじゃない?だから、なんか『貴方のせいじゃないよ』って言われてるみたいで嫌いじゃないの」
きゅうっと喉元が熱くなるの感じる。ああ、きっと僕は今、泣きそうなんだ。
ずっと、「可哀想」と言われるのが辛かった。悲しかった。でも、今、この瞬間に一葉が僕が今まで言われた「可哀想」と言う言葉を「貴方のせいじゃない」に変えてくれたんだ。
その時、電車が目的の駅に着く。一葉が電車を先に降りて、僕を振り返る。
「さ!早く行きましょ!桜が待ってるわよ!」
きっと一葉と見る桜は、今まで一番綺麗な予感がした。
桜並木に着き、どこで花見をするか場所を探し始める。
「あそこの場所がいいんじゃない?桜がよく見えそう!」
「あ、ちょっと待って」
「うん?」
僕は一葉の髪に付いている桜の花びらを取った。
「うん、取れた。……一葉?」
一葉の顔が少しだけ赤くなっている。
「あはは、一葉、可愛いね」
「からかわないで!?急に触れるからびっくりしたじゃない!」
「からかってないけど。一葉が可愛いのは事実だし」
「っ!相変わらず、なんでも恥ずかしがらずに言えるのが、瑞樹の魅力よね」
「天国で恥ずかしがってても後悔するだけだから」
ねぇ、一葉。それでも、素直に僕は言えない。本当は、一葉に惹かれ始めていることを。
ここは、天国。僕と一葉が作った天国という時間。好きなことを沢山する場所。それでも一葉を残して、僕はこの世界の天国から出て行ってしまう。本当の天国へ向かうために。だから、一葉には言わない。
きっと一葉は怒るだろう。
「好きなことをして、やりたいことをして、言いたいことを言うのが天国でしょ!?」って。
うん、だから僕は好きなことをする。好きな子を悲しませたくなんてない。だから、心の中でそっと唱える。
「大好きだよ。ごめんね」って。
「おーい!瑞樹!早く、こっちにおいでー!」
一葉が桜のよく見える場所を見つけて、手を振っている。
「今行く!ごめん!」
一葉の近くに行くと、一葉が少しだけ頬を膨らませている。
「私、『ごめん』はあんまり好きじゃないわ。謝るのは、本当に悪いことをした時だけでいいのよ。私は、『ありがとう』の方が好き」
僕はどれだけ一葉に救われればいいのだろう。
「桜が綺麗に見える場所を見つけてくれてありがとう」
「うん!」
一葉が嬉しそうに笑った。だから僕はもう一度、心の中で唱えるんだ。
「大好きだよ。ありがとう」って。
一葉と花見をした翌日、僕は、別の場所の桜を一人で見に行った。昨日、一葉と見た桜があまりに綺麗で、他の桜の名所も見たくなったのだ。
しかし、桜は綺麗だったが、何故か昨日の場所の方が綺麗に感じた。
「ねー、あの桜の木、他の木より立派じゃない!?」
「本当に綺麗ね」
「あー!瑞樹、ちゃんと見てないでしょ!?」
思い出すのは、昨日の一葉の声ばかりで。どうやら、僕はもう一葉のことが大事すぎるようだ。僕は桜の写真を撮り、一葉に送る。
しばらく桜を見ていると、ピコンと返信が来た。
「とっても綺麗!私も見たかったー!」
どうやら一葉は今日用事があったらしく、前に今日は一緒に遊ぶのは無理だと言われた。
桜を十分に楽しんだ僕は、帰るために駅へ向かった。あまり来たことのない場所だったので散歩を楽しみながら、ゆっくりと歩いて行く。
すると、一葉らしき人物が大きな建物から出て来た。僕は驚いたが、声をかけるために追いかける。しかしその瞬間、一葉が出て来た建物の看板が目に入る。
【霧野谷《きりのや》総合病院】
「え……?」
いや、何か検査に来た可能性もある。それでも、何故か心がざわつく。
「一葉!」
大きな声で叫んだ僕を一葉が振り返る。
「瑞樹!?桜の場所ってこの辺だったの!?」
一葉が嬉しそうに僕に駆け寄って来る。
「一葉、なんで病院から出てきたの?何かあった?」
「あー……うん、ちょっとね。大丈夫、ちゃんと話すから。だから、私をさっきの桜の場所に連れて行くこと!」
一葉はいつも通り明るく笑った。
桜の場所に一葉を連れて行くと、一葉は嬉しそうに駆け回る。
「わぁ、本当に綺麗!来て良かったわ!」
「それで、一葉……」
一葉は僕の方を振り返り、そっと僕の横に歩いてくる。
「瑞樹、あの日、瑞樹と私がこの世界を天国にした日があるじゃない?あの日ね、私、病気を宣告されたの。別に、ちゃんと治療を続ければ死ぬ病気じゃない。でも、ずっと付き合っていかなければいけない病気。なんかさ、私、絶望したの。別にね、本当に死ぬつもりなんてなかったのよ?でも、なんか危ない場所に行ってみたくなった。そしたら、私より前に本気で死のうとしてる人がいたの」
一葉は僕を指差して、少しだけ笑う。
「それが、瑞樹。びっくりしたわ。それでも死んで欲しくなくて、必死に抱きついた。私と瑞樹はあの日、会ったこともなかったでしょ?それでも、私、死んで欲しくない!って本気で思った。それでやっと気づいたの」
一葉が僕の手を取り、ぎゅっと両手で包み込むように握る。
「きっと、私に死んで欲しくないと思ってくれる人も沢山いるって。だから、始めはただの口実で『今日、死んだことにしよう!』って言ったの。それでも、私の考え方も世界も大きく変わった。勇気を出して、したいことが出来るようになった。この世界を天国に変えたら、瑞樹が笑ってくれた。それが、どれだけ嬉しかったか瑞樹は知らないでしょう?」
一葉が僕の手を握っている両手に力を込める。そして、僕と目をしっかり合わせる。
「大好きよ、瑞樹」
気づいたら、僕は涙を溢していた。一葉は僕の涙を見ながら、微笑んだ。
「本当に大好きなの。付き合って下さい」
一葉の手は震えていた。
神様、僕はどうすれば良いですか?正解を教えて下さい。世界で一番大事な女の子が今、目の前で勇気を出してくれている。それでも、僕はもう少しで死ぬんだ。
僕の身体も涙を溢すだけじゃなくて、正解の言葉を絞り出してよ。僕の身体は病気にも負けて、目の前で震えている好きな子の手も握り返せないのか。
それでも、ただただ僕は涙を溢し続けるだけだった。一葉は、ただ暫く僕の顔を見つめていた。
「瑞樹」
一葉が名前を呼んでくれていても、嗚咽で返事をすることも出来ない。
「告白は断るなら、ちゃんと断らないと駄目よ!私が諦められないじゃない!」
違う。断りたいわけなんかない。それでも、言葉が絞り出せない。
「瑞樹、ほら。ゆっくりでいいから」
しゃがみ込んだ僕に合わせて、一葉もしゃがんでくれる。
「ほーら、大丈夫だから。私、心の準備は出来てるわよ!」
きっと一葉のためを思えば、断った方がいいに決まってる。
……余命のことを言わずに?
僕が一葉と逆の立場だったらどうだろう?本当のことを言って欲しい。だって、一葉が本当に好きだから。好きだからこそ、言って欲しい。神様は正解を教えてなどくれない。なら、きっと正解を決めるのは僕でいいだろうか。
「……あと、もう少しで死ぬんだ」
どうやら、溢れ出した言葉は本当のことで。
「え……?」
一葉が固まって動かない。
「今年の冬、「余命一年」って宣告されたんだ」
「嘘よね……?」
僕は答えることが出来ない。
「ねぇ……!ねぇ……!」
その時、僕は初めて一葉の涙を見た。それも、沢山。好きな子を泣かせた自分が許せないはずなのに泣いてくれる一葉が可愛くて、僕はボロボロの顔で一葉を見ていた。それでも、一番好きな一葉の顔はやっぱり笑顔だった。
「本当だよ。じゃなきゃ、あの場所に行かない」
僕は、一葉の涙を手で拭う。
「一葉、泣かないで。ほら、いつもみたいに笑ってよ。僕ら、もう死んでるんでしょ?今更、怖がることなんて何もないんだよ」
一葉の涙は止まらない。
「嫌だ……!瑞樹……!」
「ねぇ、一葉。聞いて」
僕を一葉の顔を両手で包み込み、僕と目を合わせさせる。
「あの日、僕は本当に死ぬつもりだった。でも、一葉が僕を止めて、この世界を天国に変えた。天国に変わったこの世界は、僕が思っていたよりずっとずっと楽しかった。一葉がいたからだよ。一葉がいたから、僕はこの世界を楽しめるんだ。一葉がいたから、好きなことを好きなだけするようになった。好きな服を着て、やりたいことをして、大好きな人達に素直に気持ちを伝えられるんだ」
ごめんね、一葉。それでも、「好き」は伝えられない。残される者にその言葉を言う勇気が僕にはない。一葉には、幸せになって欲しい。
「一葉の気持ちには答えられない。でも、ありがとう」
これが僕なりの正解。急にいなくなるのは嫌だから、余命のことは話した。それでも、この気持ちを秘密にすることだけは許して欲しい。
その後も、一葉はずっと泣いたままだった。しかし暫くすると、一葉が自分の顔を思いきり叩いた。ペチンッという大きな音が響き渡る。そして、一葉は顔を上げた。
「瑞樹、もう一度、言うわ。私と付き合って」
「え……?」
「瑞樹は、私のことが嫌い?」
急に一葉はどうしたのだろう。それでも、言わなければ。
「好きじゃない……」
「嘘つき」
一葉が涙でボロボロの顔のまま、僕の頬をつねった。再び、一葉の目に涙がたまる。
「瑞樹の嘘つき。瑞樹は嫌いな人に余命のことなんて言わない」
一葉が勢いよく立ち上がる。
「うん、そうよ!瑞樹、私に可愛いって言ったわよね!よくよく考えれば、瑞樹は好きでもない子にそんなことを言わないわ!紳士だもの!」
一葉が思いっきり笑う。涙でボロボロの顔で。
「さっき瑞樹は、私がいたからこの世界を楽しめるって言ってくれた。でも、それは私も同じ。瑞樹がいるから私はもっとこの世界を楽しめるの。ねぇ、瑞樹。大好き」
僕は両手で顔を覆う。
「瑞樹?」
「勘弁してくれ。僕は、あともう少しで死ぬんだ」
「今、聞いたわ」
「一葉を残して死ぬんだぞ」
「あら、さっき瑞樹が私に言ったんじゃない。もう私たちは死んでるって」
「そういうことじゃない……!俺が死んだ後も、一葉の人生は続くんだ!そんな奴に少しも気持ちなんか残さない方が良いに決まってる!」
「それでも、私は瑞樹と付き合いたい。瑞樹、何度だって言うわ。あの日、私たちは死んだ。これから先は天国。好きなことを好きなだけするの。だから少しでも、楽しい時間は多い方が良いじゃない?」
一葉が僕が顔を覆っている手を掴んで、顔から離す。
「ねぇ、瑞樹。自分のことだけ考えて。私のことなんて考えないで。私に気を遣わないで。私は、瑞樹といられることが幸せなの」
一葉が僕の顔を見て、クスッと笑った。
「返事は要らないわ。だって、瑞樹のその赤い顔がきっと返事でしょ?」
僕は今、どんな顔をしているというのだろう。
「さ、瑞樹。まだまだこの天国を一緒に楽しみましょ!」
桜の中でそう笑った一葉の顔は、しばらくずっと僕の頭から離れなかった。