暖房がよく効いていて、独特の匂いがする。もう慣れたものだけれど、診察までの待合室の時間は何故か長く感じる。手元にある203と書かれた受付番号に視線を落とす。診察室の前のモニター画面には、「診察中:202」と映し出されている。
 もう次か……。それにしても、最近の病院は段々デジタル化が進んでいくなぁ……。
 そんなことを考えているうちに、診察室に入っていた患者で出てくる。それから暫くしてピコンピコンと音が鳴り、モニター画面が「呼び出し中:203」と表示が変わる。僕は重い腰を上げて、診察室に入った。

「山川先生、おはようございます」
「瑞樹《みずき》くん、おはよう。お、今日はちょっと顔色がいいね」

 担当医の山川先生言葉に、看護師さんが笑顔で頷いている。

「実は、少ししたいことが出来て……。それで心が軽くなったのかもしれないです」
「おお、それは良いことだ」
「病状が悪化してから、楽しいこともなかったので……」
「そうだね……」

 山川先生は少しだけ悲しそうな表情をした。その表情を見て、心が苦しくなる。
 幼少期から、病気を患っていた。その病気が悪化し始めたのは、二年前。高校一年生になった今も病状は悪化の一途を辿っている。
 「余命は約一年」と宣告されたのは、つい一ヶ月前のこと。もちろん驚きはしたが、病状が悪化した二年前から段々とそんな気がしていた。
 薬のこと、今日の検査結果のことの説明を終えた山川先生は最後に僕に微笑んだ。

「今日は元気そうで安心したよ」

 本当に嬉しそうに笑った山川先生と看護師さんを見て、僕はとても心が傷んだ。何度も心の中で「ごめんなさい」と謝る。
 診察室を出て会計を終えれば、いつも通り薬局に寄った。薬局の人とももう顔見知りなので、「薬が準備出来るまで、ちょっと待っててね」と笑顔で言ってくれる。僕は、もう一度心の中で「ごめんなさい」と謝った。
 今日は病院での診察も、薬を貰うことも本来の目的ではなかった。本当の目的は「山川先生と看護師さんと薬局の人の顔を見ること」、それだけだった。
 薬を受け取り、薬局の人に笑顔でお礼を言えば、今日の目的のほとんどは達成だ。後は最後の目的だけ。
 僕はお気に入りの景色のある高台へ向かった。この場所は綺麗なのに、いつも人は誰もいない。今日も晴れていて、いつも通り景色は綺麗だった。
 僕は、景色に向かって頭を下げた。そして、一言。

「ごめんなさい」

 僕は高台から下に落ちないように設置してある柵を越える。
 
 さぁ、最後の目的を達成しよう。後は、「死ぬだけ」だ。

 家族、担当医、看護師さん、薬局の人、それに僕に関わってくれていた全ての人へ。

 ただただごめんなさい。

 家族へ。大好きです。本当に大好きです。ずっと病気の僕を諦めないでいてくれてありがとう。
 山川先生と看護師さんへ。いつも親身に僕に寄り添ってくれてありがとうございます。
 薬局の人へ。いつも笑顔で話す世間話が楽しかったです。本当にありがとうございました。
 
 病気が悪化してから高校に行くことは少なくなったけれど笑顔で話しかけてくれたクラスメイト。僕の病気を知って、心配してくれた担任。色んな人に優しくして貰った。

 どうか最後に言い訳をさせて欲しい。僕は本当に治療を諦めていなかった。余命が宣告されても、生きれるまで生きてやる!と思っていた。ずっとずっと前向きでいるつもりだった。
 それでも、ある時気づいてしまった。死ぬことは怖いことを。振り返れば、病状が悪化してから死への恐怖で何をしても楽しくなかった。そう、ただそれだけだ。

 病状が悪化してから、生きていて楽しくなかった。怖がりの僕には、この病気はあまりに脅威だった。

 先月、余命を宣告され、初めて人生に諦めがついた。もう怖がったまま人生を歩んで、楽しくない日々で人生を埋めてしまうくらいなら……「死んでしまおう」、と。
 死を怖がって、死ぬなんてあまりに矛盾していることは分かっている。それでも、人生で楽しくない日々は少しでも少ない方がいいだろう?

 言い訳も十分した。もう心残りはない。目を瞑り、心の中でカウントダウンを始める。

「5……4……3……」

 2になる直前、後ろから誰かに抱きつかれた。

「あんた、何してんの!?」

 振り返ると、同い年くらいの女の子が僕に抱きついている。

「とりあえず、柵の中に入って!」

 僕が固まっていると、女の子はもう一度大きな声で言った。

「早く!」

 女の子は必死を僕を柵の内側に入れようと力一杯引っ張る。それに釣られて、僕は柵の内側へ戻った。僕が柵の内側に戻ると女の子は大きく息を吐いた。

「良かったぁ……」

 小さく呟かれたその言葉に何故か涙が出そうだった。女の子は大きく息を吐いた後、僕を近くのベンチに座らせる。そして、優しく僕の顔を覗き込んだ。

「何かあったの……?」
「いや……」

 言葉に詰まる僕を見て、女の子はそれ以上何も聞かなかった。しかし、暫くして女の子が急に立ち上がった。

「ねぇ、君、名前はなんて言うの?」
「え……?米倉瑞樹……」
「了解、瑞樹ね。私は、上原一葉《うえはらいちは》。一葉って呼んで……って、そんなことよりっ……!」

 上原一葉と名乗ったその女の子は、僕と目を合わせた。

「瑞樹、貴方は今死にました」

「は……?」

「瑞樹、今日死んだことにしよう!だから、もう好きに生きるってこと!これから先の人生は、本当はもう無かったわけでしょう?だから、本当に好きなことだけするの!えーと……つまり……」

 一葉が暫く言葉を考えた後、僕に満面の笑みを向けた。

「これからの人生は、おまけってこと!プラスアルファ!だから、これからこの世界は死後の世界だと思おう……!?そうっ!天国!」

 一葉はいいことを思いついたとでも言わないばかりに、自信満々だった。

「だから……!」

 一葉が柵に近づき、柵を乗り越える。

「おい!何するんだ!」
「私の気持ち分かったでしょ!?人が柵を乗り越えてたら、びっくりするの!」

 そして、一葉は美しく輝く景色に向かって、大きな声で宣言した。

「私も今日、ここから飛び降りました!」

 一葉はそれだけ言い放つと、柵の内側に戻る。

「これで、私も今日死んだ。貴方と一緒。だから、二人でこの天国を楽しもう?」

 その言葉に、気づいたら僕は頬に涙が伝っていた。一葉がハンカチを取り出し、そっと僕の頬の涙を拭いてくれる。
 世界中の誰が、僕のためにこの柵を超えてくれるというのだろう?
 「死」も「病気の日々」も、ずっとずっと怖かった。だから、今日死んだと思えば、もう死を怖がらなくていいだろうか?
 だって、天国で死を恐れている人なんていないだろう?

「ねぇ、瑞樹。きっと天国は楽しんだ者勝ちよ」

 一葉はそう言った後、「よし!」と手を叩いた。

「さ、瑞樹の好きなことを教えて!今からでも遊びに行こう!」
「今から……!?」
「当たり前でしょ!楽しい時間は少しでも多い方がいいんだから!」

 一葉が僕の腕を掴んで、歩き始める。景色に目を向けても、太陽はまだ沈み始めない。
 まだまだしたいことをする時間は沢山あると言ってくれているようだった。