数日後。
「オンユアマークス」
 放課後、1学期期末試験前最後の部活。本日最後のタイム測定。計測係の後輩の高い声に合わせて、先輩たちと並んでクラウチングスタートの体勢をとる。
「セット」
 私はまっすぐ前を見つめる。パアンとスタートの合図が鳴った。私は全速力で風を切って走る。前には誰の姿も見えない。ひたすら加速する。気づいたらゴールラインを駆け抜けていた。
「コバ先輩、やりましたね! 自己ベスト更新っすよ!」
 肩で息をする私に、ストップウォッチを持った後輩が駆け寄って来た。私は笑顔でピースサインを返す。
「完全復活だね、コバ」
 先輩に背中を軽くたたかれる。振り返ると息を切らせた先輩が満面の笑みで親指を立てている。
「心配かけてすみませんでした」
 息を整えながら軽く頭を下げる。

 シロが死んでからずっと休んでいた陸上部の練習に、デートの翌日久々に顔を出した。いつまでも立ち止まっていたら、シロに合わせる顔がないから。
 しかし、復帰直後はブランクのせいでタイムもひどいしフライングを連発していた。今日、ようやく本調子に戻った。先輩も顧問もコーチも事情を知っていたので、長期の欠席や不調を責められることはなかったけれど、心配をかけたのは事実だ。

 最後の練習日ということもあり、ねぎらいの意味を込めて顧問が全員にアイスを差し入れしてくれた。様々な種類の棒アイスがクーラーボックスいっぱいに入っている。
「コバ、先に選びなよ」
 部員のみんなが気遣ってくれる。私は迷わず大好きなチョコレート味を選んだ。
「ありがとうございます。おいしいです」
 練習後のアイスは美味しい。暴力的なまでの甘さが炎天下で走り続けた身に染みる。

 部員全員で和気藹々とアイスを食べ終わった後、夕方の通学路を友達と歩く。部活をしばらく休んでいたうえ、練習日でない日に限って通院していたので、こうして友達と下校するのも久しぶりだ。けれども、もう病院に行く必要もないだろう。
「うち全然勉強してないんだけど、期末やばい」
「あたしもノートほぼ白紙だわ」
「私もやばいかも」
 みんなで顔を見合わせて笑い合う。これは全員で期末テスト撃沈するフラグだろうか。
「さすがにやばいから、今日うちで勉強会やらない? 三人寄れば文殊の知恵~」
「ありよりのあり! コバも来るよね?」
「うん、ママに連絡入れるね」
「あたしも親に連絡しないと」
 親に遅くなると連絡し、談笑しながら友達の家に向かう。私は日常に帰って来た。これからもこんな日々が続くのだろう。シロと過ごした16年間の思い出と、1日限りの淡い初恋を胸に抱いて私は明日からも生きていく。シロに誇れるように、前を向いて生きていく。
 通っていた病院の前を通り過ぎて、友達のマンションのすぐそばまで来る。シロとよく遊んだ公園があり、滑り台の影が伸びていた。
 公園の前を通り過ぎたタイミングで、キャンキャンと鳴き声が聞こえた。聞き間違えるはずのないシロの声だった。
「え……? シロ?」
 私は思わず振り返る。信じられないことに、天国に行ったはずのシロが犬の姿で吠えていた。一目で幽霊かCGだと分かるほどに体が透けている。思わず駆け寄ると私の体をすり抜けるように私が来た方向へ走り出す。
「ごめん、やっぱり私今日パス」
 シロがついてこいと言っているのはすぐに分かった。私たちは以心伝心なのだから。シロを追いかけて全速力で走った。
「えっ? コバ、どこ行くの?」
 友達の声が後ろから聞こえる。
「ごめん! 今度絶対埋め合わせる!」
 ありったけの声で叫んで、そのままシロを追いかけた。無我夢中で走り続ける。部活であんなに走ったのに、なぜか体の奥底から力が湧いてきた。いくらでも走れる気がした。どこに向かっているのか分からないままに、シロについていく。

 シロが立ち止まって、大きな声で吠えた。私が通院していた病院の前だ。シロに触れようとすると、またシロは病院の中に向かって猛スピードで走り去ってしまった。私もシロを見失わないように、必死で追いかける。
 シロは吠えながら動物立ち入り禁止の院内を全力疾走しているのに、視線は私にばかり集まっている。シロが院内に入った瞬間も誰も気に留めていなかった。他の人にシロの姿は見えないのだろうか。
「院内は走らないでください」
 すれ違った看護師さんに何度か注意されたが、緊急事態だ。私はシロを追いかけて昔入院していた病棟の階段を駆け上る。
 廊下の隅の部屋のドアに向かって、小さい頃に宝探しやかくれんぼで何かを見つけた時と同じようにシロが大声で吠える。ドアには面会謝絶の札が掛けられ、入院患者の名前が表示されている。そこには「鈴原史郎」と書かれていた。その名前には聞き覚えのある気がした。
 思い出す間もなく、シロがドアをすり抜けて中に入る。勝手に入っていい物なのか分からないが、ドアを開けた。幸いにも施錠されていなかったので、そのまま入れた。

 信じられないことに、たくさんの管が繋がれた人間のシロが蒼白い顔で眠っていた。苦しそうな呼吸を繰り返しているけれど、その顔はどこか幸せそうだった。枕元には彼が持っていた金色の犬の折り紙。その傍らに犬のシロが座り、人間のシロの顔をペロペロと舐めている。
 訳が分からない。犬のシロと人間のシロが同時に存在している。そう認識した途端、霧のように犬のシロが消えた。
 人間のシロのはだけた入院着の胸元にはいくつもの手術痕がある。シロは生前手術なんてしていない。
 何か違和感がある。そういえばシロはお財布を所持していて、普通にカフェでお会計をして、デパートで買い物をしていた。「奇跡」の一言で片づけるならそれまでだけれど、お金はどこから降って来たんだろう。
 そもそも、どうしてシロはチョコレートを食べたいなんて言っていたんだろう。私はシロの前でチョコレートを食べたことは16年間ただの一度もない。チョコレートのおいしさについて熱く語ったような記憶もない。シロはチョコレートという食べ物の存在をどこで知ったのだろう。
 あの日見逃した数々の不自然さが浮かんでは消える。それを繰り返すうちに頭の中の靄が晴れてずっと忘れていた遠い記憶が蘇る。幼い日の私が、シロと同じ色の瞳の少年を見てはしゃいでいる。

――シロ? うちのワンちゃんとおんなじ名前だ! しかも、目の色もおんなじ! すごーい! じゃあ、私達、もう親友だね!

 私はこの人を知っている。