恋人らしく、ということでシロと手を繋いで歩き出す。どこに行こうか一生懸命思いを巡らせていると、シロが繋いだ手を5本の指を絡めるように組みかえた。これが俗にいう恋人つなぎだという知識だけはある。
 しかし、いくら相手がシロとはいえ見た目は完全に儚げな美少年だ。こういったことに免疫のない私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 手を繋いだまま歩いていると、オシャレなカフェの前でシロが立ち止まる。少し値が張るので、学生の身分でしょっちゅう来るようなところではないが、母とは何度か来たことがある。
「こういうところ、来たことないから入りたい」
 シロがチョコレート色の目を輝かせる。確かに、ペットを連れて入れる飲食店は地元にないのでシロと飲食店に入ったことはない。

中に入るとカップルばかりだった。シロの姿は私にしか見えないなんてことはなく、他のカップルと同じように「2名様ご案内です」と席に案内され、ドリンクメニューとフードメニューを手渡される。

 色とりどりのケーキやアイスがメニュー表に並んでいる。季節のフルーツをたくさん使ったタルトも、果肉がたっぷり入ったカラフルなジェラートも昔は大好きだったのに、味覚障害になってから全部色あせて見える。私は何が好きだったんだっけ。

店員さんが来たので、私はアイスティーを、シロはチョコレートパフェを注文する。
「チョコレート、食べて大丈夫なの?」
犬にとってチョコレートは毒だ。
「うん、今日だけは大丈夫。昔からずっと食べてみたかったんだ」
犬だった頃に食べられなかったものを人間の姿になったら食べたいと思うのも自然なことだろう。
「エリちゃん、チョコレート好きだったよね」
歯を見せてシロが笑う。そうだ。家には持ち込まないようにしていたけれど、学校の休み時間や帰り道の買い食いでは友達とチョコレート菓子ばかり食べていた。シロが元気だった頃の、元気だった私を少し思い出す。

 芸術品のような綺麗なパフェが運ばれてくるとシロの顔がまた一段と明るくなった。シロは長いスプーンでおそるおそるパフェをすくうと自分で食べる前に私に差し出した。
「はい、あーん」
ずっと食べたかったはずのチョコレートパフェなのに私に先に食べるように促した。
「どうしたの?溶けちゃうよ?あーん」
私は差し出された一口を食べる。案の定味がしない。シロに申し訳ない気持ちになった。シロが物欲しそうな気持ちでパフェではなく私の顔を見つめている。よく考えてみたら、パフェを食べさせ合うイベントはデートの定番だ。
「あーん」
私も小さい声で言いながら、チョコソースのたっぷりかかったチョコアイスの部分をすくってシロに差し出す。それを口にしたシロの顔が緩む。今までの人生でこんなに幸せそうな表情の人は見たことがない。
「えへへ、ずっと夢だったんだよね」
私たちはお互いにパフェを食べさせ合った。味は分からなかったけれど、大袈裟に喜ぶシロを見ていると私まで幸せな気持ちになってくる。あっというまに容器は空になった。
「美味しかった?」
「うん!最高!エリちゃんも美味しかった?」
美味しい、忘れてしまった感覚だ。でも、美味しいって言わなきゃ。
「う、うん、美味しかったよ」
一瞬反応が遅れたこと、少しどもってしまったことをシロは見逃さなかった。
「あんまり美味しくなかった? もしかしてこれチョコじゃなかった? 間違えて注文しちゃったかな?」
おろおろしながら尋ねられてしまう。シロはチョコレートの味を知らない。せっかくシロの夢が叶ったのにそれを台無しにしたくはなかった。

「チョコで合ってるよ」

「ほんとに?」

 シロは不安そうな目で私を見る。どうすべきか迷ったが、シロを必要以上に心配させない範囲で味覚障害について打ち明けることにした。

「うん、私の問題だから。最近、たまに食べ物の味が分からなくなっちゃうことがあって……って言っても、ご飯が全く食べられないわけじゃないから大丈夫だよ。今日も朝御飯一応食べたし」

 テーブルの上の私の手にシロの大きな手が重なる。

「大丈夫。絶対治るよ」

 シロの言葉に、なぜだかとても安心できた気がする。シロの声は温かい。

 シロがお会計してカフェを出た後、一緒に遊んだ公園を訪れる。シロが元気だった頃はここでよくかけっこをしていた。

「かけっこする?」
「やめとくよ。今日暑いし、熱中症になっちゃうよ。それに、食べた後走ったらお腹痛くなるって言うし……」
「神様もその辺融通利かせてくれればいいのにね」
「僕が無敵状態だったとしても、エリちゃんが具合悪くなるの嫌だし……」

 シロは優しい。部活の大会で負けて落ち込んでいた時も、シロは私に寄り添ってくれた。言葉が通じなくても、慰めようとしてくれているのが伝わって来た。今もこうして、私を気遣ってくれる。

「それよりさ、僕、行きたいところあるんだ」

 次にシロが望んだのはペット立ち入り禁止のデパートの屋上の観覧車だった。よく一緒に遊んだ河原を歩いてデパートに向かう。

 観覧車に乗るのは私も小学生の時以来だ。エレベーターを降りると、昔と何一つ変わらない観覧車が目に映った。シロが券売機で2人分のチケットを買う。

「それでは、快適な空の旅を!」

 私たちが乗り込むと、係員さんがそう言ってドアを閉めた。まるで飛行機に乗るかのようなお決まりの挨拶も昔と全く同じだ。

 小さなゴンドラの中、向かい合って2人きりになる。シロは私の膝を見ながら心配そうに尋ねる。
「傷、まだ痛い?」
もう何年も前の傷だ。シロが罪悪感なんて持たなくていいのに。
「全然痛くないよ、これは私の勲章だから」
 私は胸を張った。突然シロが跪いて、膝の傷痕にキスを落とす。少しくすぐったかった。シロに他意なんてないはずなのに、とてもいけないことをしている気持ちになった。
「エリちゃんは誰かのために命をかけられる強くて優しい子だよ。そんなエリちゃんだから僕は好きになったんだ」
 シロは言い終わるや否や私の隣に座って、次は私の顔の傷にキスをした。
「エリちゃん、僕に命をくれてありがとう」
2人だけの密室で、男の人の唇の感触と吐息を肌で感じれば、意識してしまう。シロは家族なのに。
 緊張のあまり、私は目を逸らした。私が私ではなくなっていくようだった。
「ねえ、シロ。外、綺麗だよ!」
上ずった声を上げて外を指差す。私たちが長年暮らした街を一望できる。シロはその景色に見とれていた。
「すごい、初めて見た」
 私たちが生まれ育った街が夕焼け色に染まっている。昔母がしてくれたように、私たちの思い出のピースを一つ一つ指差してシロに教えてあげる。
「あそこが私たちの家、あれがいつもの公園、あっちはさっき食べに行ったカフェだね。それから、あれがお父さんとお母さんが結婚式挙げた教会! 前に散歩で教会の前まで行ったの覚えてる?」
「えっ……。あ、うん。覚えてる」
 高い所から見下ろした景色を初めて見たシロはそれに心奪われていたようで、少し遅れて反応した。
「ほんとに、綺麗だね。観覧車、ずっと乗ってみたかったんだ」
 シロが呟いた。かじりつくように窓の外を見つめている。観覧車が下り始めた頃、ハッとしたようにシロが言った。
「景色も綺麗だけど、エリちゃんの方が綺麗だよ」
きっと、観覧車の頂上で言おうと思っていたのについ忘れちゃったんだろうな。そんなシロが可愛く思えて頭を撫でた。
「ありがとう」
そう答えると、シロが私の目をじっと見つめる。澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。シロが私をそっと抱きしめ、耳元で囁いた。

「恋人のキス、してもいい?」

 犬のシロは家族だけれど、人間の姿のシロは紛れもなく男の子だ。しかも、紳士的でかっこいい。私は言い訳ができないくらいに人間のシロに惹かれていた。1日限りの恋人ごっこなのに、本気になってはいけないのに私は頷いてしまった。

 目を瞑ると、私の唇にシロの唇が触れる。ふわふわした気持ちにとらわれて何も考えられなくなった。目の奥で銀色の星屑がキラキラした。その星屑の一つ一つが昔好きだった銀紙に包まれたチョコレートの粒に姿を変えていく。

 シロの唇が離れ、目を開けて黙って見つめ合う。
「どうだった?」
「チョコレートみたいだった」
シロに尋ねられ、ぼんやりとした頭で出した答えは支離滅裂だ。シロも赤い顔で頷いた。
「分かる。チョコレートの味したよね」
そう言えば私たちはさっきチョコレートパフェを食べたのだった。頂上から望んだ景色を綺麗だと感じたし、シロと過ごして恋をして少しずつ感覚が戻ってきているのかもしれない。

 観覧車を降りた後もキスの余韻は冷めない。私は何も話せずにいた。シロの顔も直視できない。うまく話せない私と手を繋いで、シロは自動販売機の方へ向かう。ガコンガコン、と飲み物が取り出し口に落ちる音が2回鳴った。その直後、冷たい感覚が頬を襲う。

「ひゃあっ!」

 シロが私の顔に買ったばかりの冷たいペットボトルを押し当てていた。

「エリちゃん顔赤いよ。のぼせちゃうから、お水飲んだ方がいいよ」

 私とは対照的に、シロの顔はもう赤くなくなっていた。透き通るような白い肌。その余裕がなんだか私をからかっているかのように感じて、ついムキになってしまう。

「シロだって、さっきまで顔真っ赤だったじゃない。絶対、シロの方がのぼせそうだった!」

 シロはごまかすように笑った。つい声が大きくなってしまった私を諫めるように唇に人差し指を当てる。

「ごめんね、ちょっとトイレ行ってくるから、5階のエレベーター前の椅子のところで待ってて」

 そう言うなりシロは歩いて行ってしまう。

「ちょっと、逃げるのは反則!」

 シロの後ろ姿に向かってそう言うと、シロが振り返る。手を合わせて、大袈裟な口パクで「ごめんね」と答えられた。その姿にはやっぱり余裕があって、ちょっと悔しい。

 こんな子供っぽいことしか言えない自分がちょっとだけ悔しい。シロに信じられないくらいドキドキしている自分に混乱している。さりげなく待ち合わせ場所をここではなく涼しい屋内にしてくれる紳士的なところも、全部かっこいい。思えば手を繋いだ時から、心臓がずっとおかしい。

 エレベーター前の椅子に腰かけても、ドキドキはおさまらない。絶対に水を飲んで落ち着いた方がいいのに、ほんのりチョコレートの味がしたキスを忘れたくなくて飲まなかった。