もう若くない年齢のため、疲れたのもあるが、低い位置から一度あの月を堪能したかったからだ。三十年経っても、月は相変わらず神々しく光り、辺りを幻想的に照らしている。何も変わらないな。僕は少しだけ嬉しくなった。それと同時に、夏希に対する想いが溢れ出してきて、涙が止まらなかった。
「夏希、ごめん」
 夏希との約束を果たせなかった。夏希の言葉を裏切った。僕は夏希のことを待ちきれずに、ここに死にに来た。せめて最期にあの場所で、月を見てから死のうって。
 僕は立ち上がり、あの場所へと歩を進めた。三十年前、観光案内雑誌の写真との百パーセントの一致を目指している時に、夏希によって導かれた場所だ。
 三十年、年を重ねたせいで足取りが重くなったのか、以前よりもあの場所が遠く感じる。川辺に着いてから割とすぐに辿り着いていたイメージがあったが、実際には数百メートルの距離があった。どこだったかなあ、と僕が右往左往していると、静寂から川のせせらぎと虫の声以外の音が聞こえてきた。
「多分、ここだと思うよ」
 忘れるはずのない声だった。僕にこの声を忘れさせようと思ったら、三十年じゃ全然足りない。