土曜日の10時、クローゼットの前で私は頭を悩ましている。

 今日は午後から日向と会う約束があるので、着ていく服を選んでいるのだが、何を着ていけばいいのか分からずずっと考えている。

 そういえば、高校生になって友人と休日に遊ぶ機会がなかった。
 服なんて気にしたことはなかったけど、なぜか日向の反応が気になって選ぶのに慎重になりすぎている。

 大人っぽい服が好きなのかな、それとも可愛い系、まさかスポーツっぽい感じの方がいいのかな。
 それにそんなに服の数も多いわけじゃないし、この中から選ぶとなると、んー。

「桜空っ、なーにやってんの、珍しく服をこんなに広げてるなんて、どっかいくの?」

 百合がノックなしに扉を開けていた。
 いくら姉だからといって、無断で入ってくるのはどうなんだろう。

「日向と出かけるの」

「へぇ、日向くんか。いいやん」

 姉を見るといつもより嬉しそうな表情をしている。
 私が土曜日に遊びにいくのが珍しいから喜んでいるのだろう。
 姉にもいろんな心配をかけたな、どこかで謝らないと、そう咄嗟に思った。

 それにしてもニコニコしすぎではないか。
 何も言わずに笑っているだけなので、少し気味が悪いとすら感じてしまう。
 
「何?」

「いやー、楽しそうだなって。日向くんと会うから服を選ぶのに困ってるんだね、わかる、似合ってるって言われたいよねー。めっちゃわかる」

 悔しそうな表情で何かを思い出しているように見える、きっと過去に恋人と何かあったのだろう。
 特に何も聞かずに私は服と向き合う。

「桜空はどんな服を着たいの?」

「別に、着たい服があるわけじゃ、ただ、その……」

 上手く口に出せずにもごもごしていると、百合は自ら手で顔を押さえて「若い……」と呟いた。

「用がないなら出てってよ」

「いや、あーでも、私の服を貸そうか。私結構服持ってるし、見てみる?」

「え、じゃあ、見る」

 そう言うと百合は目をまんまるにして私を見据える。

「何?」

「いや、桜空、変わったね。いい方向に」

 桜空は目を細めながらそう言う。

「日向くんが桜空を変えたのかな」

「……さあ」

 百合はニコニコするだけで「私の部屋いこっか」と話を進めた。

 正直、以前の私なら姉の誘いに乗ることは絶対にならなかった。
 今は、姉と過ごす時間が残り少ないことを自覚し、できれば一緒にいたいと思っている。

 こんなこと本人にははっきり言えないけど、自覚している。
 何か百合に伝えたい、そう思って簡潔に伝える。

「百合、ありがとう」

 ぶっきらぼうに言う私はお世辞にも可愛い妹には見えないだろう。
 それでも姉は満面の笑みで私にいう。

「ん、なんか言った?」

 涼しく笑う百合が初めて姉だと思えた。


 ***


「じゃあ行ってきます」

「ん、行ってらっしゃい」

 姉に見送られながら扉を開けて外に出る。

 今日は私の家から近い公園が待ち合わせ場所になっている。
 散歩しながら思い出の場所を巡ろうと言うことになっている。

 姉との話し合いの結果、今日の服装は可愛い系のものだ。
 そこまで華美ではない白のふんわりとしたブラウスに淡いピンクのレースのスカート。
 遠さなリボンが散りばめられてて女の子らしいデザインだ。

 これを見た時、私はしばらく目を逸らすことができなかった。
「可愛い」無意識にそう呟くと姉はすぐにこれを着るべきだと言った。

『自分が1番着たい服が1番似合うはずだよ』

 そう言われて素直にその言葉を真に受けて、着たい服を選んだ。
 変って思われないかな……似合ってるって言ってもらったりして……

 あれこれ考えているとすぐに公園についた。
 まだ日向は来ていない。集合時間まで二分。
 いつもは早いのに珍しいな、そう思ってベンチに座って彼を待つ。

 五分、十分、十五分、二十分、そして、六十分……

 日向はその日、公園にやってこなかった。 家に帰るとまず混乱した。

 だって、母と姉が真っ青な顔で私の名前を呼んでいるから。

 姉は泣いていて、上手く喋ることができていない。母が代わりに私に何かを説明する。

 説明の途中、何度か母の言っていることが戯言に聞こえた。
 だっておかしい、母はおかしくなったのか、そう思って何度も聞き返す。
 母は全部同じ返答をする。その度に母の心がボロボロになっているみたいだ。

 私は何度も聞き返す。
 
 だっておかしい、変なことを言っている。



 日向が、日向が、死んだってーーーー



 ***


 心臓突然死、それが彼の死因。
 健康だった人が突然心臓の発作により死んでしまう。

 日向は家で倒れているところを仕事帰りの父親が発見したという。

 心臓が止まってからかなりの時間が経っていたみたいで、見つかった時にはもう手遅れだった。

 彼の葬式が終わってもまだ、彼が死んだことの現状が受け入れられずにいる。

 だって、私が先に死ぬはずだった。

 それなのに、先に彼が死んでしまった。
 彼は私のそばにいると言った。死ぬまで隣にいるって……

 それなのに、嘘つき嘘つき嘘つき……

 どうしてかは分からないが、涙が出てこない。

 まだ彼が生きているんじゃないかって思っている。
 これは夢で、私の余命も彼が死んだことも全部夢の中の出来事で、もうすぐ私が目覚めて、日向に会う。
 そうだ、そうに決まってる。そうに違いない。

 日向が死ぬわけない、おかしい、死ぬのは私なはず。
 これは夢だ、これは夢なんだ。

 毎日毎日、意識があるとこればかり考えている。
 今頭の中には、日向で埋め尽くされている。

 そんな日をずっと過ごして、日向が死んで二週間がすぎた頃、私も家で突然意識を失い病院に運ばれた。

 医者が言うには死ぬまで入院ということ。

 もしかしたら、死ぬのが早まるかもしれないとのこと。

 日向が死んだことで私の生きる理由が消えてしまった。
 重度のストレスを抱えて私の体は限界だった。

 深い深い海の中に投げ出された気分だった。
 
 私はもう、死ぬのを待つことしかできない。
 

 ***


 あと一ヶ月、余命がもうすぐ尽きる。

 日向が死んでから誰ともまともに会話をしていない。
 母も私が元気になったのにまた元に戻ってしまってショックを受けている。
 百合も服を貸したのを最後に一回も会話をしていない。

 今の私は孤独で、病院の窓から特に変化のない外の風景を眺めることしかできない。
 誰とも喋る気になれず口を開かなかったせいで、今は言葉を発するのも難しくなってしまった。

 そんな時、私に会いたいという人がいると看護師の人から聞いた。
 今更私と話したい人なんて、一体どこの誰だろう。

 扉が開き、外からやって来たのは知らない男性だった。

 しかし、誰かの面影があり思わず霞む視界の中に捉えてじっと見つめてしまう。

「和泉です、日向の父です」

 日向のお父さん、まさか会いに来てくれるなんて。
 震える唇をなんとか動かそうとするが、お父さんは首を横に振ってから日向と同じ優しい眼差しで私を見据える。

「無理に喋らなくて大丈夫です。今日は僕から息子のことを話に来ただけなので」

 そう言うと、彼は後ろから紙袋を取り出す。

 そして勢いよく紙袋を上に向かって振り上げる。


 刹那、視界がピンクに染まるーー


 ピンクの何かが宙を舞ってゆらゆらと布団の上に落ちてくる。
 その光景は昔見た何かと重なって、不思議と目の奥がジーンと熱くなってくる。

「これは、息子の部屋から見つけたものです。手書きの段取りもありました。それを見て僕は息子がしようとしていたことを再現しました」

 日向のお父さんは紙切れを私の手元に丁寧に置く。
 今の私にはもう文字が読むことができない。それを察したのか、彼が声に出して読み上げてくれる。
 彼は静かに、でもどこか嬉しそうに話す。

「桜空に最後の桜を見せる作戦、と1番大きな字で書かれています。この桜の花弁は折り紙でできていて、全部で10000個あるそうです。僕にはよく分からないのですが、息子は君にどうしても桜が舞う姿を見せたかったようです。この数、数日でできるような数だとは思えません、きっとずっと前から準備をしていたのだと思います」

 私は最初に日向と二人きりになったことを思い出す。
 あの時桜はまだ咲いていて、来年には桜を見ることができないと私は言った。

 そして私を楽しませると言っていた。
 もしかしたらあの日から、これを準備していたのかもしれない、そう思うとポロリと一粒涙がこぼれ落ちる。

「息子はよく君の話をしてくれました。何を話したら笑ってくれるかなとか、俺は分からないと答えて結局自分で考えていたようだけど、毎日毎日君の話でいっぱいだったよ。明日は何話そう、何しようって。君のことが本当に大切な人だったようです。息子は最後まで幸せだった、ありがとう」

 そう言って日向のお父さんは深くお辞儀をする。

 お礼だなんて、それはこっちのセリフだ。精一杯体を動かして前に倒す。
 ぎこちないお辞儀が今の私にとって限界だった。

 毎日、私の話をしていたんだ、ずっと私のことを考えてくれてたんだーー

 そんなに私のことを大切に思ってくれていた人が、もうこの世にはいない。
 世界中どこを探したって、あんなに私のことを大切に思ってくれた日向は、もうどこにもいないーー

 急に現実が自分の中に溶け込んできて、それと同時に涙腺が崩壊する。
 一粒、また一粒、とめどなく溢れてくる涙、堪えることができなくて泣き声が部屋に響きわたる。

 日向のお父さんが優しく私の背中をさすってくれる。
 そういえば私が死のうとした時も、彼は優しく背中をさすってくれた。
 そのことが鮮明に頭の中に、体全体に伝わってきて芯の底から震えて泣いた。

 あの時彼は私にこう言った。
 死んだあと、どれだけ俺が寂しいか想像して欲しいと。

 今ならよくわかる。自分の大切な人が死んでしまうと、こんなに寂しくて辛くて苦しくて、今の私には泣くことしかできない。
 生きる目的もわからなくて、あなたのいない世界にどう立って歩けばいいのかわからない。

 それでも、この桜を用意してくれたことが何より嬉しくて、嬉しくて寂しさが少しだけ軽減されている。

 これを見たあとすぐに日向のあの明るい笑顔が浮かんだ。
 太陽みたいに私をいつも照らしてくれた日向、彼がいたから途中で死ぬことなく最後まで生きていられる。

 彼のおかげで、私は儚い人生を最後まで生き抜くことができる。
 ありがとう、ありがとう、そう何度も心の中で伝わってくれと願いながら感謝する。

 それでもやっぱり悲しくて涙が止まらない。
 
 いつまでも、いつまでも私は泣き続けた。

 最愛の人を失った悲しみを死ぬまで私は感じ続け、翌日、私は息を引き取った。