足首辺りまで水に浸かり、ひんやりと冷たさが全身に伝わってくる。

 もうすぐ慣れる、いや慣れたときにはもうーー


「桜空!」


 後ろから、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
 幻聴かな、そう思って足を進める。 

 じゃりの激しくこすれ合う音が次第に近くなり、バシャンバシャンと水が水面に叩きつけられる音。

 振り向く前に、腕を掴まれる。

 そのとき、ほんの少し本音の海が穏やかになる。

 振り向かなくても誰だかわかる。それでも振り向くのが怖い。

 後ろから荒い呼吸音が次第におさまっていくのに、どこかホッとする自分がいる。

「戻るぞ」

 日向のはっきりとした声がした。
 その声がした途端、目の奥がジーンと熱くなる。

「なんで……?」

「今死なれちゃ俺が困る。まだ桜空と会っていたいんだよ。死ぬ直前まで、一緒にいたいんだよ」

 すがるような彼の声に少し驚く。
 自然に腕を掴む手の力が強くなっている。

「ただでさえ、余命あるって知って辛いのに、それより先にいくなよ。桜空が死んだあと、どれだけ俺が寂しいかも想像してよ。死ぬのが怖くないのかよ……」

 辛い、怖い……その声に本音の海が反応する。
 必死に隠すように、首を横に振る。


「最後まで、生きてほしい」


 途端、涙腺が崩壊した。

 ぽたりと一粒、涙が溢れる。それを自覚したと同時に涙がと溢れてくる。
 我慢しようとしたけれど、それは無理だった。今までためていたものをすべて吐き出すように声を上げて泣いた。
 
 全身の力が抜けて、その場にひざまずく。
 後ろからもバシャンと音がして、頭の上に日向の手が置かれている。

「桜空っ」

「うあぁぁぁぁ……!」

 堪えきれずに喉から声が飛び出した。

「やっぱり、私……死ぬのが怖いよ……怖い、怖い……」

 本音がやっと海から出てくる。

 やっぱり私は死ぬのが怖かった。
 それでも強がってしまって怖いだなんて誰にも言えなかった。

「一旦、川から出よう」

 日向に言われて素直に体は動く。
 ほとんど支えられっぱなしだったが、なんとか水から出ることができた。
 
 日向はベンチに座らせてくれて、何も言わずに自身の学ランを膝にかけてくれる。

 優しいな、そう思ってもまだ落ち着かずお礼が言えない。
 それでも日向は隣で優しい目で私を見守っている。


 ***


 多分、5分くらい泣いていたような気がする。
 泣き止むまで日向はなにも言ってこなかった。ただ背中を優しくさすってくれた。

「大丈夫?」

「うん、ありがとうね」

「んーん、止めてくれてよかった」

 日向は目を細めて優しく微笑んでいる。
 正直、もう一度川に入ろうとする気が起きない。

 本音が言えたことで胸の中に抱えていた黒いものが全て消えていき、気分はスッキリしている。
 涙はもう乾いていて、今なら空がはっきり見える。自然と言葉がこぼれ落ちた。

「ずっと強がってた……百合みたいになりたくなくて、ずっといい人を演じてた。でもどこかで表面上の友情でしかないんだろうなとは思ってた。だから余命のことを知った時まず思いついたのが、クラスメートは私のこと心配してくれるのかなって」

 日向は黙って私の話を聞いてくれる。
 誰も言えずにいた本音をぽつりぽつりと外に出す。不思議と怖さはなかった。
 日向になら、本音を全て言えるような気がした。

「結局、本当に心配してくれてる人はいなかったと思う。気を使うだけで、多分居心地が悪くなって苛ついてる人もいる。それくらいの関係だった、本音が言える友人がいるか確かめたかったんだよね。私は余命があることを利用してクラスメートを試していた。最低だよ」

「特に仲良くなりたい人がいないだろ」

「まぁ、そうかもね」

「じゃあいいだろ」

 さらっという日向。その純粋な目の中に私が映っているのに何だかくすぐったい。
 私のことを悪いとは一切思っていないように見える。

 どう考えたって、クラスメートを利用した私が悪い、それなのに責めるどころか気にするなと言っているような気がする。

「残りが少ないんだから過去のことはどうでもいい、桜空は自分を責めるな。今は俺が最後まで桜空の側にいるから」

 光の直進みたいな真っ直ぐな目。
 どうしてこんなに彼は優しいのだろう、昔から彼は何ひとつ変わっていない。
 私が喧嘩して泣いていた時も隣に座って慰めてくれていたし、武尊に誤解を生んでずっと悩んでいた時期も、隣で私の話を聞き続けてくれた。

「もう、学校にいくのはやめる」

「それでいいよ。いつでも連絡して、会いにいくから、それに俺が桜空を楽しませてあげる」

 にぃっと笑う彼は本当に太陽みたいに明るくて、心が穏やかになる。
 自然と私も笑ってしまう。
 
 そのあとは日向の面白い話をしてくれた。何度もお腹を抱えて笑った。
 居心地が良くて、死にたい気分は綺麗さっぱり消えてしまった。

 それでもやっぱりもうすぐ死ぬ、日向とは会えなくなる、そう頭の中をよぎる。
 切なくて目を細めては寂しさを誤魔化すように笑っている。

 この時間がいつまでも続けばいいのに、初めて切実に願った。