「!」
「永!?」
永の「嫌だ」と言う答えにショックを受けた鈴心は固まってしまった。蕾生もぎょっとして狼狽える。
そんな二人に冷たい視線を投げて永は言った。
「僕らに彼女を助ける義理はないし、詮充郎の実験に手を貸すのも御免だよ」
「詮充郎にはまだ報告していません! 全てお兄様が主導でなさっています」
鈴心の必死の訴えは、更に永を苛立たせた。
「そのさあ、『お兄様』って言うのなんなの? あいつは詮充郎の孫だろ? おれ達の敵だ」
「あ……」
「おれは不安なんだよ、リン。お前は今回銀騎の家に心を寄せすぎている。身内として生まれてしまったからある程度は仕方ないと思ってたけど、今のお前を見てると嫌な想像をしてしまう」
きっとずっと我慢していたのだろう、永は不満を意地悪く吐き出した。
「私が、銀騎側につくと……?」
鈴心は驚いて永の思惑を反芻する。鈴心にしても永がそんなことを考えていたとは思っていなかったから、驚きとともに落胆していた。
「永、それは──」
言い過ぎだ、と蕾生が言う前に鈴心は悲痛な声で言う。
「ハル様、星弥を助けてくれたら私は銀騎と訣別します。皓矢……も敵とみなすと、誓います」
そんな言葉を言わせるな。
蕾生は鈴心が不憫でならなかった。
だが永が無表情で鈴心を追い詰める。
「その証は?」
「それは──」
鈴心が正解を懸命に探して言葉に詰まる。
その姿に蕾生の中で何かが、切れた。
「永、いいかげんにしろ!」
「!!」
蕾生が力任せに机を叩きヒビが入る。その音と蕾生の大声に永は肩を震わせた。
「リンをあいつらに良いようにされて悔しいのはわかる! でもそれとリンを疑うのは違うだろ!」
「……」
だってそれはどうしようもない。自分達は運命に翻弄され続けている。それを永は充分わかっているはずなのに。
「リンまで信じられなくなったら、お前は終わるぞ……?」
何故、こんな責めるような言葉しか出ないのだろう。
これは永の救援信号だってわかっている。
それでも、永には前を向いて欲しい。俺達の導であって欲しい。
「……」
黙ったままの永と蕾生に、鈴心はなんとか言葉を紡ごうとした。
「ライ……私は──」
「んんん、ごめんっ!!」
すると永が突然手を合わせて頭を下げた。
鈴心は驚いて出かけた言葉を引っ込める。
「リン、ごめん! 今のナシ! 僕の浅はかなジェラシーでした!」
「え、あ……」
鈴心はまだ困惑しているが、蕾生は永の様子に安心して息を吐いた。
さすが永だ。もう大丈夫。
「よし、じゃあ、行くな?」
蕾生が確認すると、永は耳を赤らめて言った。
「う……醜態をさらしたからね、仕方ないな。あ、ジジイには会わないからね!? 役目が終わったらすぐ帰るからね!」
「はい……はい!」
鈴心は涙目になって何度も頷いた。
「行くぞ」
蕾生の言葉に力強く永は言う。
「眠り姫を助けに、ね」
「今更かっこつけんな」
「えー、厳しいッ!」
いつも通り永がおちゃらければ元通りだ。蕾生は笑いながら少し泣いた。
永はいつもそうやって俺達を鼓舞し続けてくれる。だから、踏ん張れる。
「──ありがとう」
鈴心が背中に向けて言った言葉も、もちろん届いている。
気にするなと改めて言う必要はない。
俺達はずっと仲間なのだから。
星弥を助けると決めた永と蕾生は急いで学校を後にし、鈴心に連れられて銀騎家の邸宅に着いた。玄関のドアを開けて鈴心が促す。
「どうぞ、お入りください」
「驚いたな、自宅で処置をしてるの?」
てっきり研究機材が完備されている研究所だと思っていた永は驚いた。
「詮充郎が一番関心のない場所がここなので」
鈴心の説明は短いのに、永は完全に納得した。要するに、この自宅は詮充郎にとって必要のない存在をまとめて置いておく場所だったのだ。最大の効率を求める詮充郎らしいやり方だ。だが、そのやり方を永は軽蔑する。
「特に星弥の部屋は詮充郎による監視の目がないので、そこに機材を運んでおに──皓矢が診ています」
鈴心は先程の永の感情を慮って、言葉に詰まりながら言った。皓矢に対する呼び方が気になっていたのは単純に永の嫉妬だ。それを正されると永は恥ずかしさを思い出してしまう。
「いいよ別に、言いにくかったらお兄様でも。しかしあれだね、彼女は結局実験の失敗作として詮充郎に見放されたんだ?」
「はい。でもその方が幸せな人生を送れるだろうと、お兄様も奥様も星弥を慈しんできました。なのに……」
言い淀む鈴心に蕾生がはっきりと聞いた。
「今になってこんなことになったのは、俺達と関わったからか?」
「さあ……そこに因果関係があるかは私にはわかりませんが」
「まあ、全く無関係ってこともないだろうね」
永もそう言えば、鈴心は少し俯いて応接室の扉を開けた。
「その辺については私では知識が乏しいので、お兄様から説明があると思います」
家の中には重苦しい雰囲気が漂っていた。元々あまり外部の人間が寛げるような家ではなかったけれど、今日は格別に居心地が悪いと永も蕾生も感じていた。
数分待ってようやく皓矢が部屋に入ってきた。
「ああ、来てくれたんだね。ありがとう」
永達を見て少し安心したような表情を見せた皓矢だったが、顔色は白く、目元に隈も薄く見える。ひょっとするとこの三日間はろくに寝ていないのかもしれない。
けれど、同情する気はさらさらない永はぶすっとした顔で皓矢を睨んでいた。蕾生はそんな永の態度から受けられる印象を緩和するべく、皓矢に会釈で挨拶する。そんな二人の対照的な態度に皓矢は少し笑った。
「星弥はどうですか?」
鈴心が詰め寄るように聞くと、その頭をそっと撫でて穏やかに皓矢は言った。
「特に変化はないよ。良くもなっていないし、今のところ悪化の兆候もない。母さんが側についてる」
「そうですか……」
顔を曇らせている鈴心の肩を叩いた後、皓矢は永と蕾生の対面に腰掛けた。平静を装っているが、声は少し弱々しい。
「さて、君達に協力を仰ぐには──詳しい説明が必要だろうね?」
「そうだな、『誠意』ある対応を頼むよ」
永は腕を組んで尊大に言う。鈴心にされた仕打ちを思えばこれがせいいっぱいの譲歩だった。
「もちろんだ。星弥と鈴心が研究所のキクレー因子実験体だと言うことは聞いたね?」
そう切り出した皓矢に、永はぶすっとしたまま頷いた。
「まあ、簡単にはね」
「この計画、我々はウラノス計画と呼んでいるが、始まったのは二十年以上前──君達の前世においてお祖父様といざこざがあった後だったと聞いているのだけど、覚えていることはあるかい?」
前世と言うと、前回の転生のことだろう。蕾生は前回に何があったのかは全く聞かされていない。永の様子を伺うと、少し逡巡した後ぶっきらぼうに答えた。
「そりゃ、前回にあったことぐらいは覚えてるけど、この件に関しては全然知らなかったね。リンの魂をお前達が誘拐してその実験に使ったなんてのはさっき聞いたよ」
「そうかい。さぞ憤慨したんだろうね。僕はその頃四歳で、当時のことは何も見ていないのだけど、君の仲間の魂を奪取したお祖父様と亡き父に代わって謝罪するよ。すまなかった」
「形式的な謝罪はいい。その先の説明をしろ」
突っぱねる永に皓矢は苦笑しながら話し始めた。
「手厳しいね、わかった。この実験は当初お祖父様と父が、父の死後は佐藤という研究員がお祖父様を手伝って進められた。僕が具体的に関わったのは、すでに星弥も鈴心も生を受け、さらに星弥は不適合と判断されたずっと後だから、正直言ってわからないことが多い」
「なんだよ、頼りないな」
「それでも、実験記録はお祖父様から全て見せてもらったから、頭ではおおまかなことはわかっているつもりだ」
「ふうん、それで?」
素っ気ない永の態度を気にする風もなく、皓矢は淡々と説明を続ける。
「簡単に言うと、星弥の体内にはキクレー因子とそれを活発化させる術式が組み込まれている。これは父の術式で、化学と陰陽術……というか父独自の呪術を融合させた、ある意味常識外れの技術だ」
「なるほど。息子は天才だって、そう言えばジジイが自慢してたな」
星弥と皓矢の父。蕾生は前に見かけた写真立ての人物を思い出した。それは以前同様に奥の棚にひっそりと飾られている。あの時、永は「よく知らない」と言っていたけれど、まだ蕾生が鵺化の事実を知る前だったので、余計な情報は黙っていたんだろうと蕾生は心の中で結論付けた。
「ああ、君達は父にも会っているんだね。父は銀騎が始まって以来の超天才陰陽師だった。同時にお祖父様から化学者としても育てられたハイブリッドな人だったんだよ」
「お前もそうなんだろ?」
永が意地悪く言うと、皓矢は自嘲するように笑っていた。
「どうかな。確かに銀騎の次期当主ではあるけど、能力はごく普通で父には遠く及ばないし、化学者としてもお祖父様の足元にも……」
その皓矢の言葉は蕾生には謙遜としかとれなかった。自分も永も手玉にとってみせた能力がありながら、遠く及ばないなどと言わせる程の実力をその父親は持っていたことになる。
そんな相手と対峙したのならば、前回はどれだけ壮絶なことが起こったのだろう。永が詳しく言いたがらないのはそこに理由があるかもしれないと蕾生は思った。
「ようするにどうなんだよ? 銀騎さんの容体をお前はわかってるのか? それとも超天才の親父が作った術式なんて理解できないって言いたいのか?」
皓矢の説明に回りくどさを感じた永は少し苛立って結論を急く。
「どちらかと言えば、後者かな。父の術式は精巧かつ複雑で、父でないと全てを理解するのは不可能だろうね」
「そんなんで大丈夫なのか?」
鈴心に聞いていた印象とは逆に自信無さげな皓矢に、蕾生も思わず口を挟む。
「天才に凡人が報いるためには試行錯誤を繰り返すしかない。そのために君達を連れてきてもらったんだ」
「具体的にはどのような処置をお考えなんです?」
鈴心の問いに、皓矢は視線を蕾生に定めて言った。
「僕が考えているのは、共鳴だ。先日、蕾生くんが鵺化する運命を聞かされて、一瞬だけど我を失ったことがあったよね?」
「ああ……」
「だけど、星弥がかけた言葉を聞いて君は冷静を取り戻した──様に僕には見えたのだけど」
「……よくわかんね。あの時は頭が真っ白だったから」
実は蕾生もそう思っているのだが、なんとなく肯定するのが気恥ずかしくてはぐらかしてしまった。
そんな蕾生の気持ちもわかっているのか、皓矢はそれを前提においた説明を始める。
「あの時、星弥と君のキクレー因子が共鳴したんじゃないかと僕は考えている。キクレー因子同士がリンクすることでお互いを正常に戻す作用があるのではないかと思うんだ」
「……」
永はそれまでツチノコ特有のものだと思っていたキクレー因子の真実がどんどん示されていくので、知識を更新するべく考え込んでいる。
「さらに言うと、蕾生くんが我を失った時、永くんと鈴心も君に縋りついてなんとか鵺化させないようにしていたよね。あれも同様の効果を本能的に君達が行ったんだと僕はみている」
「なるほど……」
キクレー因子に関しては永より基礎知識がある鈴心は納得して頷いた。
「キクレー因子には恐らく正負両方の作用がある。因子保有者の永くん、鈴心、星弥が君を止めようとしたから君は止まることができた」
「つまり、私達が星弥に戻って欲しいと願えばいい、ということですか?」
鈴心の少し希望を持った問いかけに、永はまったをかけるように懐疑的な意見を示す。
「そうは言っても、念じるだけで戻るとは思えないな。僕らはこれまでキクレー因子のことなんて気にしたことなんかないし、あんた達みたいな不思議な力はないけど?」
「ははっ、目に見える力だけが全てではないよ。君達は充分に不思議な力を持ってる。ただ、その使い方を知らないだけだ。今回は僕がそれを引き出して使わせてもらう」
そう言われて永は複雑な顔をした。皓矢に自分の中の何かを委ねることに抵抗があるのだ。
「俺達は何をすればいいんだ?」
蕾生が聞くと、皓矢は簡潔に答えた。
「星弥に触れて、あの子を想ってくれればいい。その道筋は僕が示す」
「──わかった」
蕾生が大きく頷くと、永は慌て出した。
「ちょっと、ライくん、即答なの?」
「だって銀騎を助けるためにここに来たんだろ?」
蕾生らしい単純思考なのだが、永はぶつぶつ文句を呟く。
「そうだけどさ、もっとこう取引をさあ、せっかく恩に着せられるチャンスがさあ……」
「そんな駆け引きやってるヒマなんかないだろ。早く処置しないと、悪化したらどうするんだよ」
完全に蕾生の方が正論だったので、余計な損得を考えていた永はため息混じりに渋々頷いた。
「わかったよ、じゃあ銀騎さんが無事に目を覚ましたら、うんと恩着せてやろうっと」
「ありがとう。君達の好意に感謝するよ」
やっと皓矢は心から微笑んだ。そのまま一同は二階に上がり、星弥の部屋を目指した。
「母さん、入るよ」
ノックとともに部屋のドアを皓矢が開けると、憔悴した顔でベッドの横に座る婦人がこちらに向かって顔を上げた。
「ああ、皓矢。この方達が……?」
「うん、きっと星弥を助けてくれる。これから処置を始めるから、母さんは下で休んでいて」
「どうか、よろしくお願いします……」
深々と頭を下げて部屋を出るその姿はとても儚げで、今にも消え入りそうだった。
ベッドに寝かされた星弥を見ると、穏やかに眠っているだけのように思える。死に瀕しているなんて到底見えなかった。それが却って痛々しい。
そんな母娘を見て、蕾生は絶対に助けると意を決した。
「じゃあ、二人は手を握って。後……」
皓矢が指示する前に、鈴心が星弥の右手、それに倣って永が左手を握った。
蕾生はどうしたものか、あと女の子の体で触っていい所はどこだ、と懸命に考えた結果、額に手を添えることにした。額から感じる体温も特に熱くもなく、平常な温度に思えた。
「うん、それでいい。では始めよう。目を閉じて、元気な時の星弥を思い出してほしい」
三人は言われた通りに目を閉じて、各々の抱くありし日の星弥の姿を思い浮かべる。戻ってきて、と願いながら。
「沈幽鴇送……」
皓矢がほとんど聞き取れないくらいの声量で何か言葉を唱え始める。
「……紅至……」
けれどその言葉が体中を巡っていくかのような感覚があった。
「……心緒──ッ!」
皓矢が力強く右手を振ったのが空気圧でわかった気がした。術が終わったのだと直感した三人はゆっくりと目を開ける。
「……星弥?」
一瞬だけその体がぼうっと光ったがすぐに消え、鈴心の声にも反応がない。星弥は目覚めなかった。
「だめだ、足りない。僕の力不足だ。父の術式まで君達の因子を届けられない……」
肩で息をしながら、苦しげに皓矢は吐き捨てるように悔しさを吐露した。額には汗が滲んでいる。力を出しきったのは蕾生の目からもよくわかった。
「銀騎はどうなるんだ?」
「このままでは……」
疲れが滲んだ顔を更に白くして皓矢が焦る。それを見て永は最悪の結果を考えた。
「まさか──」
その後の言葉は恐ろしくてとても口にできない。
「星弥、起きて……目を覚ましてください!」
鈴心が泣きながら星弥の体を揺する。けれど眠ったまま動くことはなかった。
「萱獅子刀……」
「え?」
「お祖父様の萱獅子刀があれば届くかもしれない」
「なんで?」
呟くような皓矢の言葉に永が問うと、皓矢は眉をひそめ少し迷った後、観念して白状する。
「お祖父様は君達に嘘をついている。先日見せたものは本物の萱獅子刀ではない。お祖父様がキクレー因子の制御装置として新たに造ったレプリカなんだ」
それを聞いた鈴心も蕾生も驚いた。
「なっ……」
「マジかよ」
だが永だけは「またか」と溜息を吐いた後、怒りを露わにした。
「ああもう、ほんっと大人って汚いよねえ!? ジジイは絶対ぶっ殺す!!」
「本当にすまない……」
術が失敗したこともあって、皓矢は力無く項垂れて謝った。
「でもお兄様、それではお祖父様にこの事を報告しなければならないのでは?」
「そうだ。仕方ない……」
「でも、ハル様は──」
鈴心が不安げに永を見たが、永は勢いよく拳を握って宣言した。
「心配するな、リン。あのジジイをせめて一発ぶん殴るまでは帰らない!」
「そうだな、落とし前つけてもらわねえと」
蕾生も拳で左手を叩いて永に賛同する。
「殴らせる訳にはいかないけれど、では皆でお祖父様の所へ行こう」
少し悲壮な雰囲気を漂わせ、それでも瞳に光を灯して皓矢は立ち上がった。
皓矢は永達三人を連れて、急ぎ足で詮充郎の執務室に向かった。
もうすぐ日が暮れようとしている。空は曇天で、いつ雨が降ってもおかしくないほどに辺りの空気は湿っていた。
あっという間に結界を越えて、白い扉を通る。玄関は誰もおらず、静まり返っていた。皓矢はどんどん奥へと進み、先日と同じ部屋にたどり着いた。
「お祖父様、皓矢です」
ノックをするとすぐに掠れた声で返事が聞こえた。
「入りなさい」
「あの……他にも連れが……」
「わかっている、みな入りなさい」
ゆったりと朗々と言うその言葉は、急いでいたため上がっている息を整えて礼儀正しく入らなければならないと、一同を脅迫しているような圧があった。
「よお、クソジジイ」
だが永はそんなことは構わず、一人先にずんずんと部屋へ入っていった。詮充郎の机目掛けて歩く。
「──三日ぶりだな」
読んでいる新聞から視線を離さずに、次のページをめくりながら詮充郎は言った。
負けじと永も軽口で答える。
「なあに、指折り数えて。そんなに僕らに会いたかった?」
「もちろん。私は何十年と待っていたのでね」
「ぬかせ」
唾でも吐きそうな勢いの永を蕾生が嗜める。
「永、口喧嘩してる場合じゃないだろ」
言われた永は口を尖らせて蕾生がいる位置まで戻った。代わりに皓矢が一歩進んで申し出る。
「お祖父様、お願いがあって来ました」
「ああ、わかっている。星弥のことだろう?」
言いながら詮充郎は読みかけの新聞をたたみ、積まれた書類の一番上の用紙を手に取って言った。
「ご存知だったんですか?」
皓矢が驚いて聞けば、詮充郎はかけていた老眼鏡を外し、皓矢の方を向いて冷たい表情で言う。
「報告はきておるよ。お前がどう対処するか見定めていた。その様子ではできなかったのだな?」
「申し訳……ありません」
皓矢が項垂れると、詮充郎は落胆を隠さずに大きく息を吐いた。
「当主になる者が情けないぞ。外部から助けを呼んだ挙句、失敗するとは」
「……」
「星弥を連れてきなさい」
「ですが、お祖父様──」
皓矢が言いかけた言葉を遮って、詮充郎は苛立たしげに威圧をかけて命令した。
「星弥を、ここに、連れてきなさい」
「はい……」
従うしかない皓矢が力無く返事をして振り返った時、部屋のドアを開けて入ってくる者がいた。
「お嬢様をお連れしました」
「!!」
秘書の佐藤が軽く会釈をした後、移動式ベッドを押しながら部屋に入ってくる。そこには星弥が寝かされていた。
永も蕾生も突然のことに驚いて一瞬動けなかった。鈴心は佐藤の澄ました顔に嫌悪感を表している。
「佐藤さん! あなた、家に行ったんですか!? いくらあなたでもこれは過干渉だ!」
皓矢は我を忘れて怒鳴った。だが、佐藤は無表情を崩さずに一礼して、感情のない声で謝った。
「申し訳ありません。博士のお時間の無駄を省くために出過ぎた真似をいたしました」
「ああ、いい。手間が省けた。皓矢も落ち着きなさい」
詮充郎と佐藤の間では普通のことなのか、逆に皓矢を嗜めながら詮充郎は立ち上がる。
「……」
皓矢は何も言えなかったが、顔をしかめ続けていた。
ふとすると佐藤はその場から離れて部屋のドア付近で待機している。足音も聞こえず、一瞬の出来事だった。
「なるほど。とうに諦めていたこの子に発現するとはな……やはり奥が深い」
昏睡を続ける星弥の側まで来て、その顔をしげしげと見つめながら詮充郎は笑った。
「お祖父様、星弥は──」
「周防よ、そちらの相棒が鵺化する条件はなんだったかな?」
皓矢を無視して永に向き直った詮充郎は、半ば試すように話しかける。
「それは、ライが精神的に、あるいは肉体的に大きな衝撃を受けた時に……」
「そうだな、まあ、間違ってはいない。星弥にも同じことが起こったのだろうよ」
永の答えに満足げに頷いた後、込み上げる喜びに肩を震わせながら詮充郎は続けた。
「星弥はお前達を友達と言った。『お友達』を欺いて私に会わせた精神的ストレス、ここで鵺の遺骸を目の当たりにし、唯の運命を知った衝撃……」
「まさか……」
蕾生から信じられない気持ちが口をついて出る。そんな蕾生に詮充郎はニヤリと笑いかけた。
「条件が揃っているだろう?」
「銀騎さんは、やっぱり……」
その結論に先に辿り着いていた永は絶望感のままに呟く。
「お祖父様! それ以上は──」
皓矢が大声で阻止しようとするも叶わず、詮充郎は高らかに謳うように恍惚な笑みとともに言い上げた。
「そう、星弥は鵺化しようとしている! 素晴らしい! ついに私は鵺を作り出すことに王手をかけたのだ!」
「こ、の──」
蕾生は言い知れない怒りを感じていた。孫として育ててきた者に対する仕打ちにしても、その孫が人でなくなろうとしていることを喜ぶのも。目の前の老人の全てが不快だった。
「なんてこと……お兄様はご存知だったんですか!?」
鈴心が責めるように問いただすと、皓矢は苦々しげに歯を食いしばった。
「ああ……だからなんとしても星弥は目覚めさせなければならない」
その言葉を聞いた詮充郎は烈火の如く怒り叫ぶ。
「馬鹿を言うな、皓矢! この子はその為に生まれた子だ! 実験は成功しようとしているのに!」
「お祖父様! 星弥の実験は凍結したはずです! この子には普通の人生を送る権利がある!」
食い下がる皓矢にますます怒りを増して、詮充郎は興奮しながら言い放つ。
「では、その凍結を今ここで解除する。ウラノス計画は再び動き出すのだ!」
「お願いします! 星弥だけは見逃してください! 萱獅子刀を使わせてください、因子の沈静化を図るんです!」
皓矢の態度は詮充郎にとっては醜態以外の何者でもない。そんな皓矢に向けて大きく息を吐いた後、詮充郎はまた机に戻りながら冷たく言った。
「……あまり失望させるな、皓矢よ。そもそもあのレプリカは鵺化を促すためのものだ。逆の用途に使うなど言語道断!」
そうして机のボタンを押しながら、怒りに任せて叫ぶ様は鬼のようで、それまで必ず余裕を垣間見せていた詮充郎はもうどこにもいなかった。
「ついにこれを使う時が来たのだ……」
後ろに現れた棚から萱獅子刀を取り出し、その刀身を引き抜く。鈍く光る刃には非情な鬼の姿が映っていた。
「力を持たないお前が使えるのか? それは呪具なんだろ?」
時間を稼ぐつもりで永が尋ねると、詮充郎は常軌を逸した笑みで、机の引き出しから白く光る何かを取り出して見せた。
「案ずるな。私にはこれがある」
その手にあったのは小ぶりの乳白色の石のついたアクセサリーのようだった。青白い線が光るその石の周りは異国風の蝶のようなモチーフで飾られている。
それを見た瞬間、鈴心は肩を震わせて激しく動揺した。だが、詮充郎の狂ったように怒り喜ぶ様に気をとられていたのでそれに気づく者は誰もいなかった。
「それは?」
冷静に永が問えば、自尊心の塊である詮充郎は得意げに説明する。
「銀騎家に代々伝わる家宝、幽爪珠──その成れの果てだ。これには我が息子がこめた術式が施されている。私でも扱える、な」
「そんなことが? 考えられない。呪力なしに発現する術なんて」
「皓矢よ、お前の父は偉大な陰陽師だったのだ。その血を引いているお前が、小娘一人の命乞いなど恥を知れっ!」
もはや詮充郎は妄執的な感情に囚われており、皓矢の言葉など耳に入っていなかった。
「お祖父様──」
「皓矢、結界を張りなさい。これから偉大なる鵺が顕現する」
「お願いします、お祖父様……星弥を、星弥を……」
諦められない皓矢はそれでも祖父に懇願を続ける。悲痛な声が部屋中に響く。
「この腑抜け者めが」
それを煩わしそうに顔を歪め、舌打ちとともに詮充郎は部下へと目配せをした。
「──承知致しました」
入口付近で控えていた佐藤は短い返事とともになんの前振りもなく、素人の永や蕾生にもわかるような堅牢な結界を部屋中に張った。
「佐藤さん、あなたは──何者なんですか!?」
皓矢すらも初めて見たのだろう、驚いて言えば佐藤は無表情のまま静かに答える。
「わたくしは博士の忠実なる僕でございます」
やはり只者ではなかった、と永は心の中で舌打ちする。先日ここで会った時はもちろん、説明会で初めて見た時もどこか異質な雰囲気を感じていたのに。だが、今はそれを悔やんでいる時間はない。
「さあ、始めよう! 鵺との逢瀬を!」
歓喜に震える詮充郎の声が、室内に響き渡った。
舞台俳優のような仰々しさで詮充郎は高らかに宣言し、萱獅子刀に白い石飾りを掲げ合わせる。すると石が白く光り、続いて刀身が輝き始めた。
「うっ──」
「星弥!?」
その声をいち早く察知して鈴心が寝ている星弥に駆け寄った。
「あ、あ、あああああ──!」
意識もないまま、苦痛に顔を歪ませて叫ぶ星弥を見て、鈴心は金切り声を上げる。
「星弥ァ──!」
このまま何も出来ずに星弥を失うしかないのか。皓矢も永も打開策を必死に考える。その間も星弥は悲鳴とともに苦しみ続けた。
その苦痛を与えているのは、祖父であるという残酷な事実。そこに星弥も詮充郎も気づかない。悲劇を通り越して地獄のようだった。
「ふふ……いいぞ、もうすぐだ」
期待を込めて星弥を見守る詮充郎の腕を、突然力強く掴む者がいた。
「どうした? ケモノの王よ」
蕾生は詮充郎の手首を、骨が軋むほど握る。
「ふざけるな……あいつの生命はお前のものじゃない……」
その顔は怒りに燃えており、髪の毛が逆立つほどのオーラを放っていた。黒く、とても禍々しい。
「いけない、ライくん! 落ち着け!」
しまった、と永は思った。
星弥を助けることに集中し過ぎて蕾生に気を配ることができていなかった。優しい蕾生がこんな状況下で何をするかは、容易く予想できたのに。
「ぐああっ!」
詮充郎が痛みのあまり刀を握る力を緩めると、蕾生はそれを奪い取って力任せに床に投げ捨てた。
「なっ──」
「あいつの生命も、俺達の運命も! お前が好きにしていいものじゃない!」
蕾生は怒りに任せて怒鳴り散らす。眼前の詮充郎に対してどんどんとそのボルテージを上げていった。
「ライ!!」
「お前は、許さないッ!!」
もう、永の声も届いていなかった。蕾生を取り巻く黒いオーラは次第に靄のようにはっきりと目に見えるようになり、雲のような形を成していく。
「ライ! よせ!」
「ダメ、ライ!」
永と鈴心は同時に蕾生の元へ走る。
「うわあっ!」
「ああっ!」
だが、既に蕾生の全身は黒雲に覆われてしまい、その黒雲に二人とも弾かれた。
「お祖父様!」
蕾生のすぐ側にいた詮充郎をタックルするように皓矢が覆い被さり、そのまま数メートル離れる。
「あ、ああ……」
「これは──」
詮充郎は苦しげに喘ぎながらも目の前で晴れていく黒雲に歓喜の眼差しを投げた。
皓矢は初めて感じるソレの禍々しい気配に顔を強張らせる。
「ああ、これだ。私が待ち望んだ……遂にもう一度まみえることができる。ケモノの王!」