「唯蕾生──いや、ケモノの王よ」
「……は?」
詮充郎の意識は永にはとうになく、その鈍く光る目で蕾生を見据え奇妙な単語で呼びかけた。
「何故、お前だけ転生しても記憶を保持できないのかは知っているか?」
永達を子ども扱いしている上に、その子ども相手に主導権を握り自慢げに知識をひけらかそうとするその態度は、永を更に怒らせるには充分だった。
しかもその話題はこの場に爆弾を投下するほどの危険を孕んでおり、永は焦った。
「余計なこと言うな!」
声が、震える。
怒りと恐怖で永の頭は働かない。すぐにでもこの老人の口を塞ぐ必要があるのに、体も動かなかった。
その永の様子を見下すように冷たい視線を投げつけ、詮充郎は溜息混じりに言う。
「随分と慎重なことだ。まあ、それも仕方のないことだが」
「どういうことだ?」
黙ってしまった永の代わりに蕾生が問うと、詮充郎はまたニヤリと笑って、机の上にあるボタンのようなものの一つを押した。
「よいものを見せてやろう」
その言葉と同時に、部屋の壁の一部が機械音を立てて剥がれていく。シャッターが上がるように、中から水槽のようなガラスが見え始めた。
最初は部屋の明かりが反射されて何があるのか分からなかったが、壁の一部が上がり切る頃にはその禍々しい物体が一同の前に姿を現した。
「な──」
それを見た永は言葉を失う。鈴心は目を見開いて少し震えていた。
星弥もそれを見て悲鳴を上げる。
「ひっ!」
頭は猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎。
ガラスの奥に、そう形容できる黒ずんだ物体が二つ。
虚ろな瞳を携えて、あらぬ方向を向きながら空しさを語るようにそこに存在している。
「……」
蕾生にとってそれらは初めて見るものであるけれど、どこか懐かしいような不思議な感覚があった。
自分の体にそれらと同じものがあるような気がして目が離せない。
「この、悪趣味ジジイ……」
永の悪態には目もくれず、詮充郎は得意げに朗々とした声で語る。
「この遺骸が、我々が鵺と呼ぶものだ。よく見たまえ、僅かだが個体差があるだろう、そこが素晴らしい」
右の鵺には頭部に前髪のような毛が多く生えており、左の鵺には胸部に多く毛が生えている。だが、どちらの遺骸も経年劣化により朽ちかけているので、あまり判別はつかなかった。
「ライ、もう見るな!」
永が狂ったように叫ぶ。蕾生にはその声が遠く聞こえた。
その様子を楽しげに眺め、興が乗った詮充郎は高らかに言い放った。
「何故? よく見るといい、かつての自分の姿を!」
その宣言に永も鈴心も、やられたと言わんばかりの顔で立ち尽くした。
星弥はあまりの衝撃に、口元を手で押さえながら震えだす。
そして蕾生は。
「──は?」
その言葉の意味を理解した頭と理解したくない心が乖離して、時が止まったような錯覚に陥った。
「記憶が残らないのは、お前が一番呪いを濃く受けているからだ。己が鵺に変化するほどの強い呪いが!」
「──」
詮充郎が続けた決定的な一言にも、蕾生は反応できないでいた。
「黙れ、詮充郎!」
その場で先に動いたのは永だった。詮充郎に掴みかからんとする勢いで向かっていったが、その側に控えていた皓矢が軽く手を上げて制する。
「うああっ!」
雷に打たれたように永の体は硬直した後、その手は詮充郎まで届かずその場で倒れる。
「永!?」
そうしてようやく意識を戻した蕾生は傷つけられた永を見ながらも、そこから動けずに混乱していく。
「やめて、兄さん!」
金切り声で叫ぶ星弥の声に、皓矢は顔をしかめながらもきっぱりと言った。
「すまない……だけどお祖父様に触れることは許さない」
兄妹のやり取りの隙をついて、鈴心が永に駆け寄った。
「ハル様! しっかり、息を大きく吸ってください」
「だい、じょぶ、大丈夫だ、リン……」
己の体に浴びた衝撃に息を荒げて、永はその小さな体を縋るように抱きしめた。
ああ、もう。こうなっては全てが終わってしまう。
けれどまだ。
永は絶望しかける自分を奮い立たせて目を開けた。
目の前では蕾生が焦点の定まらない瞳で立っている。
「なん、て──?」
「ライ!」
永はぐっと床を踏み締めて立ち上がり、蕾生に駆け寄った。鈴心もそれに続く。
「は、るか……? あいつ、なんて言った?」
「ライくん、大丈夫だ、気をしっかり持つんだ」
混乱する蕾生に永は努めて優しく語りかける。その瞳に永が映っているのに、蕾生には見えていないかのような狼狽だった。
「ライ、落ち着いてください、ね?」
鈴心もその手を握り、さすりながら子どもをあやすように言う。
だが、詮充郎は更に止めを刺すように事実を言い放った。
「お前達三人は何度も生まれ変わり、その度に鵺と化したお前に殺される──そういう呪いを受けたのだよ」
「──!!」
はっきりと提示された残酷過ぎる運命に、蕾生の体は強張った。
その体を守るように、永も鈴心も必死で抱きしめる。
一瞬、部屋全体が静まりかえった。
緊張を高めた皓矢は右手で構えてから、低い声で言う。
「星弥、こちらへ」
「え?」
お互いを固く抱きしめ合う三人の側で、星弥が皓矢に視線を移す。それと同時に詮充郎が蕾生に向けて静かな口調で付け足した。
「古い文献に残っているぞ。お前が鵺になる運命を知った途端に変化して、その場の人間を皆殺しにしたことがな」
「──!!」
それを聞いて、星弥は思わず一歩後ずさる。
「星弥! こっちに来なさい!」
「でも……」
星弥にはそれは現実味がないように思えた。
目の前の三人はお互いを思い合って必死に抗っている。理不尽な運命を負わされても肩を寄せ合って耐えている。
「ライ……」
「ライッ!」
蕾生に呼びかける永と鈴心の姿はとても健気で、蕾生を心から愛しているのだと思えた。
そんな二人の心を、星弥の知る蕾生なら裏切るようなことは、しない。
「星弥!!」
焦って声を荒らげる皓矢を無視した星弥は、蕾生を見つめて呟いた。
「唯くんは、強いから、大丈夫……だよね?」
「──!」
糸が張り詰めたような緊張から少しの静寂の後、蕾生の瞳に緩やかに光が戻っていく。
「は、るか。鈴心……」
たどたどしい、その声には体温が通っていた。
「ライくん?」
「ライ……?」
永も鈴心も、抱きついたままその顔を見上げる。そこにはいつもの蕾生があった。
「大丈夫、俺は、大丈夫だ。何ともない」
しっかりとした言葉に、永も鈴心も安心して抱きしめていた手を緩めた。
「良かった……」
永が漏らした言葉に微笑んだ後、蕾生は少し後ろの星弥に目を向ける。すると星弥はにっこり笑って頷いた。
蕾生も頷き返すが、少し照れ臭かった。何しろ、永と鈴心が泣きそうな顔で自分に縋っている様を見せたのだから。
「素晴らしい。第一関門突破、おめでとう」
部屋中に乾いた拍手の音が響く。大仰に言う詮充郎に、永は怒りをこめた目で睨みつけた。
「テメエ……ッ」
それを受けてサッと前に立ちはだかる皓矢を特に気にもせずに、詮充郎は事務的な態度で別のボタンを押した。
「さて、次はこれを見ていただこう」
すると詮充郎の座る机の後方に棚が現れる。そこには一振りの日本刀が鞘に入った状態で掛けてあった。橙色の飾り紐がその場の全員の目をひいた。
「それは──!」
永が思わず身を乗り出すと、詮充郎は満足げに笑う。
「お前が懸命に探し回っているのはこれだろう?」
「萱獅子刀……そんなところに」
鈴心の言葉に蕾生も日本刀を見やる。だが、鵺の遺骸ほどの──心を揺さぶられるような気持ちは湧かなかった。
「これも私が丁寧に保管しておいてやったのだ。謝辞くらいは述べるべきでは?」
「誰が!」
永が吐き捨てると、詮充郎は片眉を上げて挑発するように返す。
「これをくれてやると言ったら?」
「なんだと?」
「萱獅子刀を渡す見返りに、唯蕾生をしばらく預からせて欲しい」
「ふざけるな!」
取り付く島もない永の態度にも、余裕の笑みで詮充郎は続けた。
「私の望みが叶ったら、皓矢を貸してやろう」
「ハ?」
「皓矢の力と萱獅子刀をもって、鵺化の呪いを解く方法を教えてやろう。破格の条件だとは思わないかね?」
永は開いた口が塞がらなかった。そんなことが可能だとは到底思えなかったからだ。
「本当ですか?」
だが、鈴心は光明を見たような顔をして聞き返す。それに気を良くした詮充郎はニヤリと笑って蕾生に問いかけた。
「どうする? ケモノの王よ」
「……」
蕾生には答えが出せずにいた。まだそこまでの判断ができるほど自分の状況が飲み込めていない。頭ごなしに否定し続ける永と、少し信じ始めている鈴心の間で、蕾生の心は揺れ動いていた。
「お前なんかに呪いが解ける訳がない! 帰るぞ、ライ、リン!」
怒り心頭の永の言葉は、蕾生と鈴心に有無を言わせない迫力があった。優先すべきは永の判断だ、と蕾生は思い直す。
「いいだろう、今日はここまでだ。よく考えなさい。良い返事を期待している」
意外にも詮充郎はあっさり引き下がった。だがその言葉は永ではなく蕾生に向けたものだった。
ぶりぶり怒って部屋を出ていく永に従って、鈴心も部屋を出ようとしていた。蕾生もそれに続くが、詮充郎の視線が気になってもう一度振り返る。
詮充郎は蕾生を見つめて軽く笑っていた。
蕾生の揺れる心を見透かしているかのように。
建物から出ると辺りは少し暗くなりつつあった。役所で鳴らす夕方のチャイムが遠くで響いている。
永達三人が出た後、すぐに星弥と皓矢も出てくる。すると次の瞬間白いドアが消え、朧げに見えていた建物の輪郭も無くなり、雑草地のような広場が広がって見えるだけになった。
その一部始終を苦々しく眺めていた永に、星弥が遠慮がちに話しかける。
「あの……今日は本当にごめんなさい。こんなことになるとは思わなくて」
詮充郎に感じていた苛立ちのままに、永は冷たい視線を投げる。
「へえ? じゃあ、君はどうするつもりで今日をセッティングしたのかな?」
棘だらけの言葉尻を甘んじて受け止める星弥の口調は、自然と弱々しくなっていた。
「わたし、お祖父様があんなに感情的になるとは思ってなくて。今日みたいなお祖父様は初めて見たし……」
「ふうん、もっと建設的な話し合いができると思ってたんだ? やっぱり君はわかってなかった。これが現実だよ、綺麗事じゃ片付けられない」
「……」
辛辣な永の言葉に押し黙ってしまった星弥に、一切の温情をかけずに永は更に追い詰めるような物言いをした。
「所詮はお花畑の中の考えだったね。ジジイのことも、僕らのことも、君が君の都合のいいように解釈してたんだよ」
「──」
それでも星弥は真摯に永の言葉を受け止めている。先程までは泣きそうな顔で必死になっていた様子だったのに、今はそんな素振りを見せずに祖父の分まで非礼を詫びるように、永の怒りを黙って聞いていた。
蕾生もそんな状態の星弥が少し憐れだと思ったし、普段なら永を嗜めるくらいは自然にできるのだが、今は星弥に嘘をつかれたことが引っかかっていて、それができずにいた。
「ハル様、お怒りはもっともですがその辺で。結果論ではありますが、萱獅子刀の在処がわかったんです。今日の目的は達成できています」
鈴心も見かねたのだろう、二人の間に立って場を収めようとするが、永の怒りはなかなか解けなかった。
「まあ、そうだけど。まだ明らかにすべきではなかったことが一気に出てしまった。今、僕らが生きているのは奇跡だって言っていい」
それは、確かにそうだ。蕾生にはあの時──本当の意味での呪いの運命を聞かされた時、の記憶が曖昧だったけれど、体中が何かに騒ついていた感覚だけは覚えている。
自分が自分でなくなるような恐ろしい感覚。それを永と鈴心の温もりが、星弥の純粋な言葉が取り払ってくれた。
「口を挟んで申し訳ないけど、お祖父様の研究室は核シェルター並でね。万が一彼が鵺化したとしても、絶対に外には出さない自信はあった」
皓矢がしれっと言う。妹への怒りを自分に向けるように。
その目論見通り、永は皓矢を物凄い形相で睨みつけた。
「お祖父様も僕も、最悪、鵺化した彼に殺される覚悟はしていたよ。星弥諸共ね」
「黙れ、クソガキ」
どうせ口だけの殊勝な態度だと永は切り捨てる。
だが、言葉通りに受け取った星弥はショックを隠せずに呟いた。
「わたし、本当に何もわかってなかった……」
この場において、丸く収める言葉を言える者はいなかった。自然と沈黙に包まれる。
少しの間の後、それを破ったのは蕾生だった。
「永」
「どうした、ライくん? まだ気分悪い?」
呼ばれて振り返った永の顔はいつもと同じで優しかった。
「いや……お前が今まで言わずにいたこと、全部話してくんねえか」
「……」
その優しさに、今まで甘え過ぎていたのかもしれない。
「もう、隠す必要もないだろ」
だから、これからは全てを分け合いたい。そんな気持ちを込めると、永もそれを理解したように頷いた。
「……そうだね、君はきちんと自分の運命を知る権利と義務がある」
「ああ」
大丈夫だ。心の準備はできた。
「わかった。もう薄暗いけど、家は──危険かな、公園でもいい?」
蕾生が頷いたのと同時に皓矢は右手を微かに動かしたが、めざとい永に見つかった。
「おい、密偵なんか放ってみろ。この場で殺す」
永の敵意も可愛い虚勢だととっている皓矢は、苦笑しながら右手を下ろした。
「君に殺されるほどヤワではないけど。わかったよ」
皓矢を少し気にした後、鈴心も永に駆け寄る。
「私も参ります」
「もちろん」
永がにっこり笑って答えると、鈴心は遠慮がちに星弥の方を向いて言った。
「星弥は家で待っていてください、ね?」
「うん。わたしはどう考えても邪魔だから」
一歩引いて遠慮した星弥に、蕾生はやっと声をかける気持ちになった。
「──銀騎」
「?」
「今日のことは気にしなくていい。俺は、大丈夫だから」
「──ありがとう」
そこでやっと少し笑った星弥の瞳が潤んでいるのを蕾生は見た。
今日のことは誰が悪いとか、許す許さないの話ではないのだと。全ては運命に翻弄された結果なのだと、蕾生は実感したのだった。
星弥達と別れた後、永、蕾生、鈴心の三人は無言のまま少し歩いて、銀騎研究所からすぐ隣の公園の敷地にたどり着いた。先頭を歩いていた永はベンチがある場所で止まる。
そこは以前に蕾生が初めて鵺の呪いの話を聞いた場所だった。
「ライくん、座って。どうかリラックスして聞いて欲しいんだ」
先にベンチに腰掛けた永は優しい口調で隣に座るよう促す。
「永は、いつも過去のことを話す時はそう言うな。その理由ってもしかして──」
座りながらそう尋ねると、永は頷いて答えた。
「うん、そうだね。君が鵺化してしまう条件について確かなことはわかってないんだけど、君が精神的もしくは肉体的に大きな衝撃を受けた時が一番危険なんだ」
「そうか……」
蕾生が先程の詮充郎とのやり取りで受けた衝撃を思い出していると、続けて鈴心が隣に座りその手を取った。
「ライ、今からする話は現在の貴方とは関係のない話だと思って聞きなさい。それも難しいでしょうけど、あまり深刻に捉えてしまうと……」
「な、なんだよ……」
蕾生の手をきゅっと握る鈴心の手はとても小さかったが、なんだか姉のような温もりがあり、蕾生は少し照れ臭くなった。
「うん。これは遠い昔の話だ。童話でも聞くつもりで聞いて欲しい」
「わかった」
そうして永も少し口調を明るくして語り始める。
鵺に呪われた、あの日のことを──
「英治親が鵺を討伐した後、その亡骸は木舟に乗せられて川に流された。その後、帝はすっかり回復して、彼は褒美に高い官職を得た。それから一年は何事もなく穏やかな日が続いた。けれど、当時の有力武家と朝廷に対立した皇子に与したことで戦になった」
「戦……勝ったのか?」
蕾生が聞くと永は苦笑しながら続ける。
「ボロ負けだったよ。彼は高い地位に昇って調子に乗ってたんだ。戴いた皇子も討たれ、いよいよ切腹するしかなくなった」
自嘲気味に薄く笑った後、永はさらに続ける。
「けれどその前に妻と幼い子どもを逃す必要があった。妻子だけを野山に放り出す訳にいかない。彼は最も信頼している部下の雷郷を護衛につけた。めっちゃ嫌がられたけどね。でも終いには承知してくれた」
蕾生はその当時の雷郷に思いを馳せる。今の自分でもそうなったら嫌がるだろう。死ぬ時こそ永の側にいたい。けれど信頼にも応えたい。そんな心情が手に取るようにわかる感覚は初めてだった。
「これで心残りもなくなって──リンを伴って死出の旅路へ、と思った矢先に逃したはずの部下が一人血相を変えて戻ってきた」
一息吐きながら話す永、それに聞き入りながら蕾生の手を優しく握っている鈴心。そんな二人の間で蕾生は当時の光景が目の前に現れるような感覚がしていた。
「部下は雷郷と妻子が追手に見つかったって慌ててた。治親は特に気にしなかった。雷郷だったら追手くらい返り討ちにするはずだから。けれど、どうも様子がおかしい。とにかくこの場は妻子を追って欲しいと言う。仕方なくリンと二人で雷郷の後を追った。──彼らは驚くほど近くの森の入口にいた」
「何があったんだ?」
蕾生が続きを促すが、永は辛い過去を語るために少し躊躇した。そして言葉を探すようにゆっくりと思い出しながら語る。
「まず目に飛び込んできたのは妻と子どもが血を流して倒れた姿。それから妻子よりも無惨な姿で横たわる敵方の追手達。そしてその傍で雷郷は身を屈めて小刻みに震えていた。彼からはおよそ想像もできないほど低い声で唸ってもいた」
「──!」
「全身に刀傷を負って、血まみれになりながら、雷郷は涙を流し苦しみながら唸り続ける。治親とリンがその姿に圧倒されていると、どこからか黒雲が降りてきて、雷郷の身体を包んだ」
そこまで話すと、永は深く息を吸って肩で大きく吐いた後、目を閉じてその日の光景を語る。
「その時間は長く感じられたけれど、一瞬だったのかもしれない。黒雲が引いた先には雷郷の姿はなく、代わりに化け物がいた。頭が猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎──かつて治親が討伐した、あの時の鵺がそこにいたんだ」
蕾生が思わず唾を飲むと、鈴心が続けた。
「最初はとても信じられませんでした。雷郷は突然現れた鵺に喰われたんだと思ったんです。でも、目の前の鵺の前足に、雷郷がいつも身につけていた数珠が……」
「それで治親は悟ったんだ。雷郷は鵺の返り血を沢山浴びていた。そのせいで鵺に乗っ取られたんだろう、って」
「それで、どうしたんだ?」
永の言葉を受けた蕾生の問いに、鈴心が自分を責めるような口調で答えた。
「治親様は武家の棟梁ですが、文官に近い仕事をなさっていたので、純粋な武力では雷郷の足元にも及びません。何より私達はとても動揺していました。何が起こっているのか理解が追いつかなかったんです」
また、永も悔やむように続ける。
「事態は一瞬の出来事だった。治親もリンも暴れ狂う鵺に致命傷を与えられた。でも雷郷をこのまま放っておく訳にはいかない。彼を鵺にしてしまったのは治親の罪だ。だからせめてこの手で止めてやらないと、一緒に連れて行かないと──必死でくらいついて、鵺に止めを刺した」
鵺の断末魔の叫びが聞こえた気がした。同時に二人の慟哭も。
壮絶な出来事を語った後、永も鈴心も少し黙っていた。
「その後は暗転です。私達の意識はそこで途切れました」
「次に気がついたら、数十年経っていて、しかも子どもだった──という訳」
鈴心の言葉に続けて、永は眉を八の字に曲げて少し笑った。
「それが、最初の転生?」
「自分が転生したんだとわかったのは、その生が終わる直前だった。その後も転生を繰り返して──何回か経験していくうちに少しずつシステムみたいなものが分かり始めて、今に至る」
これが蕾生がずっと知りたかった最初の出来事。以前に聞いた時より生々しいことは当然だった。
そのせいなのかはわからないが、蕾生には当時の状況をありありと思い浮かべることができた。はっきりとした記憶が蘇った訳ではないが、実感を持って想像できる。
だからこそ、永と鈴心が辿ってきた長い時間を今まざまざと感じるに至った。
「何度も、何度も、九百年間……」
何十回も殺し殺され、それはまさに生き地獄ではないか。
「いたずらに過ごしてきたつもりはないんですが、未だわからないことばかりなんです」
蕾生の気持ちを汲み取って、鈴心も永も何でもない事のように、あえて淡々と語った。
「そうだね。ライくんだけが鵺に変化するのは何故か。君が一番多く返り血を浴びたからだっていうのは、僕とリンがこれまでから考察した理由に過ぎないし。一番最初に鵺が雷郷を使って復活したのだとして、僕とリンを殺しただけでは飽き足らず、何度も転生させてそれを繰り返す理由も、まだわからない」
そうして、肩でもう一度大きく息を吐いて結んだ。
「とにかく僕らは生まれ変わる度に、君を鵺に変化させないことを第一目的としてやってきた。鵺にならなければ、もしかして僕らはもう少し長く生きられるかもしれないと思ってね」
「けれど、私達の事情は奇異なものですから、外部からの干渉も多くてこれまでに貴方の鵺化を防げたことがありません」
鈴心が言うと、永は少し顔を曇らせて肩を竦める。
「僕らの受けた呪いは、そっち方面ではだいぶ魅力的らしいんだよね。銀騎に目をつけられてからは、あいつらから逃げるだけでせいいっぱいの時も沢山あった。ほんと、銀騎のせいで全然事態が前に進まないんだ」
迷惑な話だよ、と顔をしかめながら笑う永を見て、蕾生は腹を括らなければならないと思った。
「──鈴心、もういい。大丈夫だ」
言いながらその手を話すと、鈴心は心配そうに蕾生を見上げた。
「本当に?」
「何ともねえって、少しは信用しろよ」
笑って言ったつもりだったができていただろうか。
そんな蕾生の虚勢を知っているかのように、鈴心はじっと蕾生を見続けている。
「……」
我慢しなくていい。
文句があれば言え。
何でもいいから吐き出してしまえ。
──そんな圧を感じたので、蕾生は率直な感想を述べる。
「正直言えば……たまらねえよ。俺は何度も何度もお前らを殺してきたってことになる。それだけで死にたくなるほどキツい。でも、俺が思い悩むだけでも鵺化するかもしれない──なら俺は悩んだり後ろ向きになることも、許されない」
自分のことなのに、そう思い悩むことができない。他人の話だと割り切ることは罪深い。ならばどうすればいい?
「ライくん、それは違う」
蕾生の抱えた靄を永は一刀の下に切り払った。鈴心も同じことを言う。
「そうです、ライ。私達を殺しているのはあくまで鵺であって、貴方ではありません」
「でも、元は俺だろ?」
蕾生の問いに、はっきりと首を振って永は言った。
「君が鵺になったことイコール君は鵺に殺されたってことだ。何故なら鵺になった後、僕らはそれと意思の疎通ができたことはない。ただの破壊を繰り返す化け物なんだ。だから、君の内に秘められている鵺は一番最初に君を殺している。そして僕らはその仇を取ってる──残念ながら良くて相打ちなんだけどね」
「そう、考えてもいいのか?」
それは必ずしも事実ではないことは蕾生も気づいている。だが永と鈴心がそうやって、ある意味こじつけて考えてきた事を、愚かだと断じることは誰にもさせない。
二人がそう結論付けたのならそうなんだろうと信じることが、二人のこれまでに報いることなのだ。
「もちろん! ていうか、そうなんだよ」
「ライが悩む必要なんてないんです」
明るく笑う二人に、蕾生は心の底から安心した。
「わかった──ありがとう、お前らがいてくれて良かった」
蕾生の言葉に、永も鈴心も満足そうに頷いた。
これでまた、明日を生きることができる。
前を向いて、運命に立ち向かっていく。
「さあて、薄暗くなってきたから今日はオヒラキにする?」
緊張が解けた永はうんと伸びをして言った。
「銀騎の爺さんの提案はどうするんだ?」
「んなもん、無視に決まってるじゃん! まさかライくん、取り引きに応じようとか思ってないよね?」
「呪いを解く方法があるって言うなら、俺は別にいい」
蕾生が素直にそう言うと、永はあり得ないと一蹴して語気を強める。
「そんなのハッタリだよ! ジジイの所に行ったら絶対帰って来れないから!」
「鈴心もそう思うか?」
あの時、鈴心は少し揺れていた。そこの所を確認したくて蕾生が聞くと、鈴心は少し考えて答える。
「可能性はゼロではないと思います。でも改めて考えるとやはり信じられません。詮充郎はそんなに単純な人物ではない」
仮に呪いを解く方法が銀騎にあったとして、蕾生を預けた後本当に呪いを解いてくれるのか。そこの所が信用に値しないと鈴心は言う。
「だからね、今日はさっきリンが言ってた通り、萱獅子刀の在処がわかっただけ良しとする」
「じゃあ、あれを取り返す方法を考えるんだな?」
「うん。一晩考えてみるよ。だから今日は解散」
そうして永が立ち上がると、鈴心がおずおずと尋ねた。
「あの、ハル様……星弥の処遇は……」
「うん? いや僕が処断できる訳ないでしょ。今日はしてやられたけど。まあ、今後の彼女の出方次第かな」
すっかり忘れていたような顔をして、永は興味なさそうに答えた。どうやらまだ腹に据えかねているらしい。
「引き続き協力してくれるように頼みます」
懇願するように言う鈴心に、永は困ったように口を曲げて言った。
「いや、お前が頭を下げる必要はない。彼女の自由にさせてやれば?」
「わかりました。では、私は戻ります」
「うん。また明日ねー」
永がそう言うとすぐに振り返って駆け出し、あっという間に姿が見えなくなった。そんな鈴心の背中を見送って永がぽつりと呟く。
「不安だなあ」
「何がだ?」
蕾生が聞けば、永は困った顔でその心情を打ち明けた。
「リンの気持ちが、だよ。今回は銀騎の身内に生まれてしまったせいか、銀騎に心を寄せすぎている気がする。特に銀騎星弥にね」
「それは、仕方ないだろ?」
二人の姉妹のような雰囲気を思い返す。その間には永も蕾生も入れないような家族の絆を感じる。けれどそれは血縁として生まれてしまったからには抗い難いことだ。
「うん……これが悪い方に影響しないといいけど。ここまで銀騎詮充郎が計算していたとしたら、本当に厄介なクソジジイだよ」
「そうだな……」
永も蕾生も、その漠然とした不安に少し身震いした。
公園の電灯が点る。その光に気づいたことで、辺りの闇に気づかされた。