蕾生の目の前のあるもには、鉢植えと一言で言っても、それは一メートル程の幅で、植木の大きさを合わせると六十キロ以上はありそうだ。普通の人間には引きずるのも難しいだろう。
だが、蕾生はこれを軽々と持ち上げることができる。この力は家族以外では永しか知らない。
「ちょっと動かしてよ」
「マジで言ってんの?」
それは蕾生にとっては忌々しい秘密だ。幼少の時からこの並外れた怪力のせいで散々な目にあってきた。永だってその現場にはいくつかいたはずだ。
本当に隠しておきたい力で、永もそれはわかっているはずだし、今までに一度たりとも永は蕾生の力を頼ったことはない。ずっと隠し通す努力を一緒にしてきたのに。
それを。
今、ここで。
やれと言うのか。
「──お願いだ、ライ」
それまでに見たこともない真剣な表情だった。
見たことがない? いや、ある。
記憶にはないのに、この眼差しに出会ったことがある。
「わかった」
蕾生は頷いた。元より永からの頼みを断ることなどあり得ない。
そうすればずっと拭えなかった違和感の正体がわかるだろう。永が初めて見せた表情の意味も。
もうあの日常には戻れないかもしれない、そんな不安はあった。
けれど永がそこに行くと言うのなら、自分は従うだけだ。それが蕾生には自然な感情だった。
教室の机を持ち上げるような感覚で、蕾生は自分の背丈くらいの植木をプランターごと持ち上げた。人が通れるくらいの隙間を作って、静かに地面に置く。
「ありがとう」
小さくそう言って、永は駆け出した。真っ直ぐに広場の中心、ガラス張りの建物を目指す。
「永!」
蕾生も後を追って走った。不思議な気配をその建物から感じていた。何か、懐かしいものがそこにあるような。
その温室の入口に着くと、永はためらいもせずにそのドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。滑らかに扉が開く。蕾生もまた、永に続いて温室の中に入った。
中は沢山の植物であふれていた。どこを見ても、緑、緑、緑。多くの木々や植物が太陽の光を受けて青々と輝いている、生命にあふれた空間だった。
二人は少しずつ中へ進む。中央に大きな木が植えられていて、その下で一人の少女が小さなテーブルと椅子に腰掛けて、本を開きながら目を見開いてこちらを見ていた。
肩ほどまで伸びた黒い髪はつややかに光の輪を描き、とても簡素な白いワンピースを着ていた。
「リン……か?」
永の言葉に、蕾生は急に胸が痛くなった。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響く。
「ハル様、ですか?」
少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
「そうだよ」
永が答えると、少女は次いでその後ろの蕾生に視線を移す。
「では、そこにいるのがライですね」
「……ああ」
永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな視線を向けて言う。
「何故、来たのですか?」
「なぜって、お前がいないと始まらないだろう。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
何が始まらないって?
いつもより若いって、何?
二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
「ハル様、私はもう協力できません」
「──え?」
突き放すような口調で、少女ははっきりと言った。
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
「な、に、言ってんの、お前?」
永は動揺して、その少女に一歩近づいた。
「近寄らないでください。人を呼びます」
「お前、どうしたんだよ! 何があった? お前こそどうしてここにいる?」
詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットから取り出した防犯ブザーのようなものを鳴らした。
途端に温室の照明が赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響く。
「リン!」
戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言う。
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
とんでもないことを言われたが、少女の雰囲気からその言葉に嘘はなく、また従わざるを得ない迫力があった。
「永、一旦帰ろう」
「馬鹿言うな! せっかく会えたのに!」
こんなに狼狽している永は初めて見る。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
「早く! 走って!」
「──クソっ」
どんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
「離せ、ライ! リンが、リンが──ッ!」
とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
出る直前に少女の顔をもう一度振り返る。そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。
「さよなら、少しでも平穏な人生を生きてください」
その言葉に胸がひどく痛くなる。けれどサイレンの轟音に負けて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
白い道路が見えるまで、振り返らずに。
その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく粒を、見なかったことにして。
蕾生は、逃げ出した。
永を担いだまま、無我夢中で蕾生は走る。いつの間にか踏みしめるものが土からアスファルトに変わったと知覚した時、耳をつん裂くようなサイレンがとっくに止まっていることを蕾生は知った。
「ライくん……もういい。おろして」
永の声はとてもか細く沈んでいたが、語尾が元に戻っていたので蕾生は抱えていた体をその場でおろした。
自分達の周りを見回したが構内は静まり返っており、追ってくる者なども見えなかった。
「どうなってるんだ……?」
あんなにけたたましく鳴っていたサイレンがまさか誰にも気づかれていないとは思えなくて、蕾生は首を傾げる。
「きっとリンがうまくやってくれたんだろう」
「永、あの子は一体──」
問いかけようとして永の方を見ると、その表情は暗く、怒りさえ携えているようで、蕾生の知る永とは異様な空気感をまとっていた。
その雰囲気に飲まれ、二の句が出てこない蕾生に緩く微笑みかけて永は静かに言った。
「ごめん、驚いたよね」
「……」
蕾生の心持ちは複雑だった。とても驚いたし、戸惑いもしている。
けれどあの少女の存在は何故かすんなりと受け入れているような気がしていて、その理由がわからない自分に納得できない変な感覚だった。
「とにかく今は食堂に戻ろう?後でちゃんと説明はするから」
「……わかった」
落ち着きを取り戻した永について食堂まで戻ると、中では何事もなかったように他の客達は談笑していて、職員数人もその場にいたが戻ってきた永と蕾生を特に気に留める素振りもなかった。
「あれだけの騒ぎに何も対処してこないなんてことがあるのか……?」
蕾生の呟きに、永は小声で短く返す。
「つまり、ここはそういうところってことだよ」
その言葉は軽蔑を孕んでおり、この研究所に対して永が抱いていたのは実は逆だったのだと蕾生は思い知る。
永はたまにそういう一面を見せる。興味のある振りをして近づいて目的を達成した後、その対象をボロクソに言う。
今回もその例だったのだ。それにしては随分と長いこと騙されていた気がするが。
永がこの研究所を良く思っていないことがわかると、途端にあの職員達の意思を持たないような非人間的な態度が気持ち悪く感じる。蕾生には白衣を着た人形のように見えてきた。
「とりあえず、今はここを無事に出られるように祈ろう」
永はそう言うと、ほかの客達と同様に食堂テーブルの席に着く。蕾生もそれにならって大人しく座った。
暫くして、黙って立っていた職員の一人が全員に聞こえるように少し大きな声で話しかけた。
「皆さまお疲れ様でした。当研究所の一般公開プログラムはこれで終了いたします。入館証をこちらにご返却のうえ、出口までどうぞ」
案内に従って客達が動き始める。永と蕾生もその列に紛れてなるべく気配を押し殺して動いた。
職員達は拍子抜けするくらい機械的に人々を出口まで促していく。二人も来た時と同じ、無事に通用口の扉から出ることができた。
職員達は人々を送ることはしたが、その口から御礼や好意を感じられる言葉はついに無く、ただ黙って人々が研究所から遠ざかるのを見守っている。
その眼差しがとても気味が悪く、蕾生は自然と足が早くなった。
「なあ、永」
研究所を出てから黙ったままの永に、蕾生はたまらず声をかける。そんな蕾生の気持ちを察して、永はにこりと笑って言った。
「うん。とりあえず公園まで戻ろう」
まだ昼過ぎの陽も高い時刻。研究所から遠ざかる程に公園で休日を楽しんでいる人の声が大きくなってきて、安心を求める蕾生の足取りはいっそう早くなった。
公立の森林公園は、マラソンコースが複数あり、ドッグランも併設されている、ちょっとした行楽地として地元民に親しまれている。
今日は連休なのでバーベキューをしている家族連れもいた。大人は食べて飲んで、子どもはバドミントンなどで遊ぶ、そんな典型的な休日の風景が二人の目の前に広がっている。
先程までいた環境とまるで違う景色だ、と蕾生は改めて思う。こうしてベンチに座っているだけでも人々の息遣いを感じられてなんだか安心する。
隣に座っている永はまだ何も話さない。じっと何かを考えこんでいるようなので、その口から語られることはきっととんでもないことなのだろう、と蕾生は少し緊張してきた。
「なんかさ、お腹空かない?」
「へ?」
予想に反して永の口からは暢気な言葉が出て、蕾生は変な声が出てしまった。
「そうかな……そうかも?」
研究所の食堂で食べてからそんなに時間は経っていないが、急いで食べたからかあまり食事をしたという認識がないことに気づく。
「待ってて、そこでたこ焼き買ってくる」
永は笑いながら数メートル先の広場に向かって歩いていった。そこでは屋台がいくつか出ており、なかなかの賑わいを見せている。
「はい、今日付き合ってくれた御礼ね」
「あ、ああ」
永はたこ焼きを二パックとお茶のペットボトル二本を持って帰ってきた。渡されたたこ焼きは熱々でソースのいい匂いがしていた。
「高かったろ」
「ハハ、まあね。連休価格。でもいいじゃん」
笑いながら永は自分の分のパックを開け、たこ焼きをひとつ楊枝で刺してそのまま口に運ぶ。
「んー、うまい。やっぱさあ、与えられる食事よりも自分で調達してきたものの方が美味しいね」
「お前、それ母ちゃんには言うなよ?」
「やだなあ、お母さんのご飯は別! それ言っちゃうとたこ焼き買ったのだってお小遣いだしね!」
気分的なものでしょ、と永は笑うので蕾生も今はたこ焼きを食べることに専念することにした。青空の下で友達と買い食いするより美味しいものはないと思いながら。
熱いたこ焼きをじっくり味わって食べ、ようやく一息ついた心地になった頃、永が意を決したように口を開いた。
永は少しだけ不安そうな顔をした後、小さく頷いてから蕾生に優しく語りかける。
「ライくん、これから話すこと──驚くなって方が無理だと思うけど、出来るだけ落ち着いて聞いてくれる?」
「……わかった」
「途中でなんか変な感じがするとか、具合が悪くなったら絶対言って」
「あ、ああ……?」
蕾生の体の頑丈さは充分知っているはずなのに、今日は朝から随分体調を気にするなと思った。だが、そう言う永の顔がとても真剣で少し怯えているようなので、蕾生は大きく頷いた。
「ええっと、どこから話そうかな……」
「あの子は一体誰なんだよ?」
それでも永は言葉を濁すので、蕾生はまず研究所で会った少女について問う。
「そうだね、まずはそこからだ。彼女はリン、今の名前は知らない」
「今の名前? どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ、僕はまだあの子の今回の生については何も知らない。けど、リンはずっと前から僕たちの仲間なんだ」
開始早々から蕾生の頭の中は疑問符だらけになっている。ようやく返せたのはたった一言だった。
「ずっと、って?」
「うーんと、九百年……くらい?」
「は?」
「僕ら三人は、ずーっと昔から何度も転生を繰り返してる仲間なんだ」
「ええー……?」
漫画の話かな、と現実逃避したくなる思考を蕾生はなんとか押し込める。永の顔は冗談を言っているものではなかったから。
「よく知らんけど、それって仏教とかの考えだろ。それで言うと、人間は皆生まれ変わってるってことじゃねえの?」
「ああ、うん、まあそうだね。だけど僕らの場合はその転生の回数が尋常じゃない」
「ええー……?」
嘘だあ、と言いそうになったのを蕾生は飲み込んだ。永の顔はどんどん深刻さを増している。
「僕が知覚できてるだけでも、僕らが転生したのは約九百年間で三十四回」
「ちょ、っと待てよ。人の一生って昔でも五十年くらいはあるだろ。九百年で三十回以上ってことは単純に割っても……」
「そうだよ、ライ。冷静で嬉しいよ」
永は少し安心したような表情になって、蕾生の疑問にきっぱりと答える。
「僕らは若く死んで、すぐ生まれ変わる。そういう運命をずっと繰り返してる」
「──何故?」
「鵺に呪われているから」
ヌエ
ぬえ?
──鵺
初めて聞くはずの単語なのに、蕾生はその言葉の意味を知っていた。
何か、黒い、闇の中からやってくる、化物。奇妙な声。その獣を確かに知っている。
辺りが急に曇り始めた。冷たい風が吹く。それに煽られて羽ばたく鳥の、哀しい声が響いていた。
今からおよそ九百年前、英治親と言う名の武士がいた。名門の出身ではあったがあまり出世に欲がなく、戦で親を亡くした子どもを拾ってきてばかりいるので、奥方や家臣にはあきれられていた。
ある時、帝が病にかかってしまう。その原因は夜な夜な紫宸殿に現れる物の怪のせいであった。毎晩帝の寝所の上から聞こえる恐ろしい声。その声に帝はすっかり怯えてしまい、とうとう寝込んでしまわれた。
困り果てた大臣達が会議した結果、武士に警護をさせることになった。様々な候補の中から、昔、鬼を退治したことのある先祖を持つ英治親が選ばれた。
弓の名手であった彼は、すぐに先祖代々に伝わる弓と矢を持って紫宸殿に参内した。帝のお召しと言っても、物の怪退治などは武士の仕事ではないので、有力な家臣はその矜持ゆえに随伴を嫌がった。
そのため、英治親は身分の低い部下の雷郷とリンを連れていった。尤も、彼が一番信頼をおいているのは、戦災孤児出身のその二人だったのだが。
寝所を警護していると、東の森の方角から黒い雲が広がってきて、いよいよ紫宸殿の屋根の上にかかる。黒雲の中から怪しげな恐ろしい声が聞こえてくる。
英治親は弓に矢を番え、黒雲の中を狙いを定めて射った。するとその矢は黒雲を晴らす。すかさず二の矢を射る。金切声を上げて獣のようなものが屋根に当たった後地面に落ちた。
獣の胴体に矢が刺さっていることを見た雷郷はそれに飛びかかり、持っていた短刀で喉元を刺した。血飛沫があがり、獣はすぐに動かなくなった。
リンが灯りを持って近づく。するとその異形の姿にその場にいた誰もが驚いた。
斃されたその獣は頭は猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎という姿だった。そして帝がおっしゃるには声は鵺という鳥に似ていたという。
それから一年後、鵺を倒した武将とその郎党は戦に巻き込まれて不遇の死を遂げた。
以来、彼ら三人は若くして何らかの不幸により死亡し、また生まれ変わる。それを延々と繰り返している。
永はそこまで説明すると蕾生の様子を気にかける。
「大丈夫? ライくん」
「あ、ああ……」
「今の話に出てきた武士が僕のことで──」
「雷郷っていう家来が俺……?」
「そう。何か覚えてることある?」
尋ねる永の瞳は微かに怯えたような色を帯びていたが、蕾生が首を振るとほっと息を吐いた。
「いつもね、そうなんだ。君は何も覚えてない。君だけは記憶がリセットされている」
「永は、全部覚えてるのか……?」
どんなに考えを巡らせても、蕾生には今の自分が「唯蕾生」であることしかわからない。
だが永はそうではないというのだろうか。自分以外の自分の記憶があるという状態は果たしてどれだけの負担があるのだろう。
「さすがに全部は覚えてないよ。古い時代の事は結構忘れちゃってる」
困ったような顔で少し笑った後、永は遠くを見るような目をして続ける。
「けど、英治親だっていう自覚はずっとある。鵺に呪われたあの時のことは鮮明に覚えてる」
「鵺に呪われたから、俺達は転生を繰り返してるのか?」
「あー……えっと……」
蕾生の問いに、永はそれまで饒舌だった言葉を急につまらせた。
「そう……なのかもしれないけど、鵺の呪いの本質はそこじゃないと僕らは考えてる」
「僕ら?」
それは自分のことを指していないと直感した蕾生が聞き返した。
すると永も、蕾生が呪い云々より先にそちらを気にしたことに苦笑する。
「ライくんはいつも記憶がないから、主に僕とリンがね。転生するたびに少しずつ分かってきている事もある」
「それって?」
「んー……例えば、君がいつも記憶がない状態で転生するのは、僕らよりも濃い呪いがかけられているから……とかかな」
相変わらず永は歯切れが悪かった。いちいち言葉を選んで喋るなど、普段の澱みなくまくし立てる永からはほど遠い。
「そうなのか?」
「さっき話したとおり、鵺にとどめを刺したのは君なんだ。君が一番多く鵺の血を浴びた。その辺りが関係してると思う」
化物を倒すといった種類の説話はたいていが英雄譚として語られるが、中には化物を倒したために災いがふりかかるという結末のものもある。
幼い頃に聞くような御伽噺が、急に現実味を帯びて蕾生の目の前に現れたようで鳥肌がたった。
「鵺を倒したのに呪われたのか?」
蕾生の問いに、永は少し首を傾げた後、やや左右に振って息を大きく吐く。
そうしてから、蕾生を見つめてゆっくりと言った。
「──鵺を殺したから、僕らは呪われたんだ」
その瞳には深い怒りを宿していた。
「鵺は帝を呪い殺したかったんだろう。だけど、その途中で僕らが奴を仕留めてしまった。だから恨まれた」
そう語る永の表情は、蕾生が初めて見るものだった。
今まで他人の事は適当に受け流して飄々としていたのに、こんなに明確な憎しみ、こだわりとも言えるような感情を向ける対象が彼にあったとは。
「一番濃い呪いってのはどういうやつなんだ?」
突然の告白、思い出せない運命。それから、永の中にあった蕾生の知らない感情。
蕾生の頭は疑問ばかりで、結局同じようなことを何度も聞いてしまう。
すると永は突然表情を強張らせた。
「……やっぱり、そこ、気になるよね」
「そりゃ、そうだろ。具体的にはどんな呪いを俺達はかけられたんだ?」
蕾生が食い下がると、永はうーんと唸ってかなり迷った仕草をした後、ヘラリと笑って言った。
「ごめん、まだそれは言えないや」
「ハァ!? お前、ここまで言っといてふざけんなよ!」
急にいつもの人を喰ったような態度の永に、蕾生はつい声を荒らげた。けれどそれでも永は首を振ってなだめるように言う。
「徐々に! 徐々にライくんが僕らの状況に慣れてから言うから」
「なんだよ、それ。そりゃ、俺はバカだから一気に言われても理解できないかもしれないけど──」
蕾生は率直な気持ちを、真っ直ぐに永を見て言った。
「お前が俺の分まで何かを背負ってるなら、一緒に持ちたいだろ……」
「ライ……」
永が知らないところでずっと何かを抱えて、悩んでいた。
それを考えるだけでも蕾生は胸が苦しくなる。きっと永にもそれは伝わっているんだろう。
けれど永は唇を噛み締めて、あえて明るく言う。
「──でもダメでーす! 今日はここまででーす!」
「永!!」
「……あんまりこういう言い方はしたくないんだけど、僕は鵺の呪いを解くために三十三回同じことを繰り返してきた」
「──」
「わかる? 僕はね、三十三回も失敗してるんだよ」
具体的に出された数字の重さに蕾生は絶句した。
「その僕が、今は話すべきじゃないと思ってるんだ。どうか尊重して欲しい」
蕾生には計り知れない経験の差があると、永はそう言っていた。
「今日、研究所に君を連れてきたことはかなりの賭けだった。一歩間違えれば即ゲームオーバーの恐れもあったんだ」
「そう……なのか?」
「うん、だけど僕らはその賭けに勝った。リンのことは想定外だったけど、賭けに勝ったと思ったから今こうして君に話してる」
「──わかった」
蕾生は納得するしかなかった。他でもない、永がこう言っているのだから。
「ありがとう」
「ひとつ、確認するぞ」
「うん?」
蕾生は再び真っ直ぐに永を見た。
「俺達はこれから、鵺の呪いを解くために行動する。そうだな?」
俺達、の部分に力を入れて言うと、永は満足そうに微笑んだ。
「うん、上出来だ」
「今日みたいに、俺はなんも知らないのに勝手に先走ったりするなよ」
「はは、なるべくそうするよ」
蕾生の牽制を軽やかにかわして永は笑う。ちょっと信用できそうにないので、蕾生は今後は永の一挙手一投足を注意して行動しようと心に決めた。
でないと知らないうちに永は全てを背負ってしまう。昔からそうだった。それが蕾生はいつも悔しい。
「じゃあ、まずどうする?」
蕾生の問いに、もちろんと前置いて永ははっきりと言った。
「リンを取り戻す」
その視線が向かうのは銀騎研究所。
白くて大きな、高い壁がそびえ立っていた。
「俺の世界は間違っていた」
彼は自らの存在意義を、己に問う。
その身を置いた世界は間違っていた。けれど、間違えたのは何より自分自身。
「あきらめるな、抗い続けろ!」
君の世界は更に残酷だとしても、君には正しい仲間がいる。
「今は飲み込まれてしまうとしても、爪痕くらい遺せるだろう!」
いつか、渡せる日が来るかもしれない。
その時、君の世界が君にとって正しいものであることを願う。
◆ ◆ ◆
「……」
目覚ましのアラームが鳴っている。
蕾生は携帯電話を操作して音を切った。そして自分の目が覚めていることに驚いた。
何かとても重要なモノを見たような気がするが、それが何かわからない。鵺の呪いのせいだろうか、と蕾生はぼんやり考えながら起き上がった。
のろのろと支度をしても時間が有り余っているのは変な気分だ。一階のダイニングに降りると、母は特大の握り飯を握りながら目を丸くして蕾生を見つめていた。父も読んでいた新聞を落としたまま、拾うことも忘れて口を開けている。
早く起きたはずなのに、罰の悪さを感じるなんて理不尽な朝だ。いたたまれなくなった蕾生は母から握り飯を引ったくって玄関を出た。背後から弾んだ両親の声が聞こえる。それもまたいたたまれない。
「え?」
家を出るとちょうど永が来ていて、父母と同じような、狐にでもつままれたような顔をしていた。
「え、ライくん、ウソでしょ?」
「何が。時間通りだろ」
「……なんてこった。僕があんなことを話したばっかりに」
永は大袈裟な身振りで頭を抱えて見せた。
「いや関係ねえから」
「だいじょぶ?ちゃんと寝れてる?」
口調はふざけ混じりだが、永の目には少しの不安も感じ取れた。蕾生はそれを拭うようにあっけらかんと言って見せる。
「おう、ぐっすり寝た」
──はずだ、と蕾生は自分にも言い聞かせた。夢は見た気がするが内容はさっぱり思い出せない。
そういえばいつもそうだ。普通なら夢を見ればいくらかでも覚えているはずなのに。朝が弱い理由はそこにあるのかもしれない、と蕾生はぼんやりと思った。
「急に早起きしてみようと思った、みたいな?」
永はとにかく心配そうな声音で掘り下げる。
「別に。なんか自然に目が冷めた」
蕾生が答えると、永は雷にでも打たれたような顔をした。
「え……まじでゴメン……」
「──なんで?」
「ライくんの精神に負担をかけてしまったから……」
「んなことねえだろ」
どうも永の様子は大袈裟な気がする。いつもなら蕾生のことはガサツとか大雑把などと言っているのに、今日はまるでカウンセラーのような口調だった。
「話しておいてなんだけど、あんまり深刻にとらえないでね?考え過ぎたらダメだからね?」
「考え過ぎるも何も、お前、まだほとんど話してくれてないだろ」
「そうなんだよ、だから心配なんだ。あれだけの情報でまさか不眠症になるなんて……」
「そんなんじゃねえよ。ぐっすり寝たって言ったろ」
あまりに永がしつこいので蕾生は苛立って言い放つ。すると永は何かを考え込んでいるように無口になった。
「……」
「永?」
蕾生の声は聞こえないのか、永は一人でうんと頷いて顔を上げた。
「わかった、ライくんを信じることにする」
「お、おう」
永の中でどんな葛藤があったのか蕾生にはわからないが、信じると言った永を信じるしかない。本当に蕾生は自身の体調がおかしいとは思えないので、その場がおさまって安心した。
自分の置かれた運命は昨日がらりと変わってしまった。なのにそれ以外は変わらない日常がある。その乖離に多少の戸惑いはあるが、永と一緒なら立ち向かっていけると蕾生は改めて思いながら学校という日常に向かっていった。
昼休み、弁当を食べた後、永が珍しく中庭に行こうと言い出した。
昨日の続きで、大事な話をするんだろうと察した蕾生は黙って永についていった。
中庭中央の桜の木の下。幸いにも今日は曇りで誰もいない。永は振り返って安いドラマのような口調で切り出した。
「とりあえず、ミッションそのイチ」
わざとおどけて話すのは蕾生に負担をかけたくないからだろうと、当の蕾生にもわかっている。
「リン、ってやつのことだろ?」
だから蕾生も前置きなしに、昨日の出来事で一番鮮烈なものの名前を出した。
「そうリン! なんであいつ、あんなところに居たんだろ?」
「アイツがいると思ったから銀騎研究所に行ったんじゃないのか?」
あの場所に向かう永の足取りは迷いがなかった。だから蕾生は昨日の目的は当然彼女のことだろうと思っていた。
「いや、ほんとは別のことを確かめたかったんだよね」
「何だよそれ?」
「んーと、なんていうか……どうしよっかな……」
永は急にしどろもどろになって目を泳がせた。その態度に蕾生は冷ややかな視線を送る。
「わーかった、話す! えっとね、ほんとはあの研究所に刀があると思ったんだよね」
「刀?」
「鵺を討伐した時に褒美として帝から賜った宝刀なんだけど、銀騎側に取られちゃってて」
永は努めて明るく、舌まで出して軽い調子で話す。その気遣いは何を言ってもやめることはないだろう。蕾生はそう諦めて話を進めた。
「いつ?」
「うーん、いつからだったかなあ。結構前から。直近だと二、三回くらい前の転生の時かなあ」
「そんなに前から銀騎研究所と知り合いなのか」
永が銀騎研究所を憎んでいることは伝わっていた。それはおそらく前回の転生で何かがあったからだろう。蕾生はそれくらいに考えていたのだが、もっと根の深い問題だということに驚いた。
「なんかいろいろややこしい因縁が出来上がってるんだよね、あそことは。元は──」
言いかけて永は少し止まる。
「ま、その辺はちょっと置いといて、リンのことを先に説明してもいい?」
「あ、ああ」
続きが気になるけれど、永は話さないと決めたことは絶対に曲げないし、経験則に基く順序があるんだろうと思って蕾生は渋々承知した。