「リン……か?」
 
 (はるか)の言葉に、蕾生(らいお)は急に胸が痛くなった。初めて会うのに、その「リン」という言葉が頭の中で響く。
 
「ハル様、ですか?」
 
 少女はおずおずと口を開く。永のことを知っている様子だった。大きな黒い瞳が永を真っ直ぐに見つめていた。
 
「そうだよ」
 
 永が答えると、少女は次いでその後ろの蕾生に視線を移す。
 
「では、そこにいるのがライですね」
 
「……ああ」
 
 永が頷くと、少女は目を伏せて安堵の溜息をついた。だが、すぐに冷ややかな視線を向けて言う。
 
「何故、来たのですか?」
 
「なぜって、お前がいないと始まらないだろう。いつもより若いみたいだけどどうしたんだ?」
 
 何が始まらないって?
 いつもより若いって、何?
 
 二人の会話の筋が見えなくて、蕾生はただその場で棒立ちになっていた。
 
「ハル様、私はもう協力できません」
 
「──え?」
 
 突き放すような口調で、少女ははっきりと言った。
 
「お帰りください。そしてここには二度と来ないように。私のことは忘れてください」
 
「な、に、言ってんの、お前?」
 
 永は動揺して、その少女に一歩近づいた。
 
「近寄らないでください。人を呼びます」
 
「お前、どうしたんだよ! 何があった? お前こそどうしてここにいる?」
 
 詰め寄ろうとする永を制するように、少女は唇を噛み締めながらワンピースのポケットから取り出した防犯ブザーのようなものを鳴らした。
 途端に温室の照明が赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響く。
 
「リン!」
 
 戸惑う永から少女は目線を蕾生に移して、冷たく言う。
 
「ライ、彼を抱えて逃げなさい。捕まったら死にます。振り返らないで走りなさい」
 
 とんでもないことを言われたが、少女の雰囲気からその言葉に嘘はなく、また従わざるを得ない迫力があった。
 
「永、一旦帰ろう」
 
「馬鹿言うな! せっかく会えたのに!」
 
 こんなに狼狽している永は初めて見る。蕾生がその様子に戸惑っていると、少女が叫んだ。
 
「早く! 走って!」
 
「──クソっ」
 
 どんどん大きくなるサイレンの音に焦りを感じて、蕾生は永をむりやり肩に担いだ。
 
「離せ、ライ! リンが、リンが──ッ!」
 
 とにかくここを離れないと危険だ。蕾生は喚く永を無視して温室の入口へと駆け出した。
 出る直前に少女の顔をもう一度振り返る。そこには少し笑った、懐かしい表情が浮かべられていた。

 
  
「さよなら、少しでも平穏な人生を生きてください」

 
 
 その言葉に胸がひどく痛くなる。けれどサイレンの轟音に負けて、蕾生は永を担いだまま脇目も振らずに走った。
 
 白い道路が見えるまで、振り返らずに。
 
 その少女の黒い瞳に浮かんでいたきらめく粒を、見なかったことにして。
 
 蕾生は、逃げ出した。